『哲学的腹ぺこ塾』への誘惑

そもそもの事の起こりは、ある例会の二次会で同席したTさんとの会話の中から、読書会を始めようということでした。この読書会の名称を「哲学的腹ぺこ塾」とします。古典を中心とする、その周辺の哲学関連のテキストを会食(輪読)しています。何方でも、ご参加いただけます。
2009年度(今年6月で10周年を迎えます)より、例会日は原則第2土曜の夜、会場は概ね「大阪市北区民センター」となります。
■お問い合わせは、yij00302あーっとマーク@nifty.com までお願いします。




第83回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:09年05月09日(土)午後6時より9時まで。その後、呑み会。
テキスト::「南京虐殺と日本の今」(第21回アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会報告集)
場  所:大阪市立・北区民センター第2会議室(TEL.06-6315-1500 地下鉄堺筋線「扇町駅」/JR環状線「天満駅」下車すぐ★地図参照
報告者:F1977

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第82回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:09年04月11日(土)午後6時より9時まで。
テキスト:笠原十九司『南京事件』(岩波新書)
場  所:大阪市立・北区民センター第2会議室(TEL.06-6315-1500 地下鉄堺筋線「扇町駅」/JR環状線「天満駅」下車すぐ★地図参照
報告者:村田 豪

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第81回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:09年03月14日(土)午後6時より9時まで。
テキスト:ソレル『暴力論』(岩波文庫の下巻を中心に)
場  所:大阪市立・北区民センター第1会議室(TEL.06-6315-1500 地下鉄堺筋線「扇町駅」/JR環状線「天満駅」下車すぐ★地図参照
報告者:加藤正太郎

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第80回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:09年02月01日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:田中俊英『「ひきこもり」から家族を考える』(岩波ブックレットNo.739)
場  所:大阪市立・城北市民学習センター(TEL.06-6951-1324)
       地下鉄谷町線「関目高殿」下車4号出口徒歩3分 ★地図参照
報告者:田中俊英
近著『「ひきこもり」から家族を考える』を中心にお話いただきます。

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第79回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:09年01月03日(土)午後3時より5時まで。その後、新年会。
テキスト:DVD『夜明けの国』(岩波映画製作所、1967年)(『目撃! 文化革命──映画「夜明けの国」を読み解く』(太田出版)
報告者:黒猫房主
DVD『夜明けの国』は、「文化大革命」が湧き起こる「新中国」をリアルタイムでドキュメント撮影した、今では貴重な映像である(もちろんバ イアスもあるが)。『目撃! 文化大革命──映画「夜明けの国」を読み解く』(太田出版)によれば、「『夜明けの国』がとりあげている農村と都市との格差問題は、現代の問題として考えることが可能である。中国人の感情の記憶に対して日本」人はどういう態度をとるか、という問題も同様だ。60年代がわからなければ、現代日本社会がわからないのと同じように、現代中国社会もわからない。映画と歴史を対照させることで、読者の文化大革命中国に対する認識は書きかえるだろう」とある。

なおArisanによる、加々美光行著『歴史のなかの中国文化大革命』 (岩波現代文庫)へのコメントを参考文献にしておきます。

<著者の重要な論点は、文化大革命が、その後の中国の民主化運動の端緒になったということである。民衆自身が大規模な直接行動を起こして政権に直接働きかけていくというスタイル(天安門事件などに見られる)は、文革以前の中国では考えられないものだった、というわけだ。実際、トウ(漢字表記できないようなのでカタカナで)小平体制以後の中国の民主化運動を当初牽引したのは紅衛兵出身の人たちであり、彼らは89年の天安門事件でも影で大きな役割を果たしていた。>
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080912 より、必ずArisannのコメントの全文をお読みください)

僕は「文革」に対してこれまで否定的評価をしてきたので、上記の指摘は意外であった。

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第78回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:08年12月13日(土)午後2時より5時まで。その後、忘年会。
テキスト:水野直樹『創氏改名』(岩波新書)
報告者:F

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第77回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:08年10月05日(日)午後2時より5時まで。その後、二次会。
テキスト:時枝誠記『国語学原論 上』(岩波文庫)
報告者:野原 燐
えーとみなさん。 そもそも言語とは? とか考えようとしてもうまくいかなくて(当たり前)困っている野原です。

時枝誠記は読みにくいかもしれません。ソシュールのラングというものに対する時枝の理解は、ズレているように感じます。

ラングと言語過程説は別に矛盾しないと考えることもできるのではないかと思ったりしています。

ラングを主体から切り離された実体的なモノと考えるかどうかがポイント、のような気がします。以下α(時枝が見たラング)β(時枝の意見)です。

α:彼ら(ソシュールおよび青年文法学派)にとって言語とは本来は音声言語であり、文字は二次的なものであると断定されている。もちろん、これは何ら根拠のないロマン派的な考えにすぎない。近代言語学に於ける言語の自然的なもの即ち生得の言語の尊重は,一切表現に関する技術的なものの背後に,価値や技術によって歪められない真の言語が存在するかの如き考へを導いた。

β:小児が友人を罵詈するに適当な言語を見出そうとする時ですら、価値と技術なしでは不可能である。p126
すなわち言語とは最初から主体的選別意識に貫かれたものである。主体の価値意識および技術も表象、概念、音声、文字と同様に言語の構成要素と考えるべきである。 本居宣長の言葉の玉の緒の研究も、てにをはの呼応の現象を研究したものであると同時に、擬古文における技術の書として生まれたものである。

見方によってはαもβも、国民国家(学校教育)によって生まれた国語の存在そのもののイメージであるとも考えられる。ただβの方が、後進資本主義国として国家が国民を育てるというベクトルが強いという違いがあると。

イントロのわりにとっつきにくい文章になってしまいました。


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第76回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:08年07月20日(日)午後2時より5時まで。その後、二次会。
テキスト:アーレントの『全体主義の起源』1「反ユダヤ主義」(みすず書房)
報告者:村田豪


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第75回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:08年06月01日(日)午後2時より5時まで。その後、二次会。
テキスト:戸坂潤『日本イデオロギー』(岩波文庫)
報告者:加藤正太郎


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第74回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:08年04月13日(日)午後2時より5時まで。その後、二次会。
テキスト:加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』(NHKブックス)
報告者:黒猫房主
前回の報告者Fさんの「口上」の中で、「幸福の分配」と「「やっぱり生まれてこなければ良かった」と嘆くばかりです」という言葉を受けて、本書を選んだわけでもありますが、誰しも程度の差こそあれ一度ならず「生まれてこなければ良かった」と思った経験があるのではないでしょうか。同じように「死にたい」と思った経験もあるでしょう。
しかしこの二つの感情の揺れは、何に起因しているのでしょうか。

誕生して「ある/いる」ことのその有り様(様態)から自己の否認へと向かう感情の究極は「自己否定=自殺」に至りますが、この強い自己否定は強い自己肯定感情に裏打ちされているように思われます。いわば自己肯定感情(「生きたい」感情)の強さが挫折して、「死に焦がれる」という道筋でしょうか。(意味の不在と過剰)

ところが「なかったことにする=生まれてこなければ良かった」という嘆きは、反実仮想にもとづいた<負の自己肯定感情>を持っているように思えます。ならばこの負の部分を埋めるべく「幸福の分配」は可能でしょうか?
加藤秀一は、その問いに対して次ぎにように応じます。

《ある人の生がどれほど苦痛に満ちていたとしても、すでにその人を〈誰か〉と認めてしまった他者がいる以上、その人は自らの生を「なかったもの」にすることはもはやできないのである。いうまでもなく、本人以外の他者たち、すなわち私たちにもそれはできない。だが私たちにできることもある。それは、ある人をして「生まれない方がよかった」と叫ばせるほどの苦痛を和らげるべく手助けすることであり、苦痛である必然性のない不便を解消すべく便宜を図ることである。すなわち、自らの生を否定する人を迎える世界が、その人の生を肯定するものであるよう、世界を整備することである。》(p170)

例会では3章・4章を中心に行いますが、この季節は僕においては軽い鬱のシーズン到来なので、報告はうまくまとまらないかもしれませんが……。


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第73回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:08年01月20日日(日)午後2時より5時まで。その後、二次会。
テキスト:ジンメル『ジンメル・コレクション 』(ちくま学芸文庫)
報告者:F
「社会主義とペシミズム」を選んだ理由は、幸福の「分配」という、最近日本で議論されているテーマとつながる部分があるのではないかと思ったからなのですが、読んでみてあんまり答えを見出すことができませんでした。
私は「ペシミスト」ですが、だからこそ最低「社会主義」くらい実現している世界に生まれたかったのですが、叶わず、ますます「ペシミスティック」で「やっぱり生まれてこなければ良かった」と嘆くばかりです。でもまあ、嘆けるほどには十分恵まれているのだなという自覚くらいは、21世紀の資本主義社会に生きる人間なら持ってるべきだということで、「社会主義」目指して生きていくつもりです。
なんのこっちゃな口上ですが、でもジンメルの定義している「社会主義」とか「ペシミズム」が今いちピンとこないので、19世紀の「社会主義」や当時のドイツの社会状況などを考察しながら、進めたいと思います。


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第72回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:07年11月18日(日)午後2時より5時まで。その後、忘年会。
テキスト:和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波文庫
参考文献:山田洸『和辻哲郎論』(花伝社)
報告者:野原 燐
最近は、ギルロイの「ブラック・アトランティック」という本とデリダの「マルクスの亡霊たち」という厚い二冊の本に必死で取り組んでいて、和辻はどうでもいいや状態になっていたのですが、そうもいっておられません。

日常生活の一部、朝起きて飯を食うといったことを捕らえて、和辻は言う。

p227
朝起きるのは通例「家」の内においてである。「家」はすでに人間関係を表現してる。あなたが起きいでた部屋は板敷で扉で閉ざせれていたのか。扉をあけるにも一定の仕方があり、そうしてそれがまた存在の仕方を表現している。
我々がそれを意識すると否とを問わず、我々はこれらの了解の上においてのみ朝起きることができる。
このようなことがらの間の諸関係を、存在の表現として根源的に考えていくことから、倫理学は書かれうる。

和辻は確かに秩序肯定感たっぷりで嫌になるところがあります。しかし無視できないテーマを提出していると思うので読んでみたいと思います。


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第71回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:2007年09月09日(日)午後2時より。
テキスト::『現代ファイナンス論 改訂版』(ピアソン刊)
報告者:村田 豪
【目次】
第1部 ファイナンスと金融システム
第2部 時間と資源配分
第3部 資産評価モデル
第4部 リスク管理とポートフォリオ理論
第5部 資産とデリバティブの評価
第6部 コーポレート・ファイナンス

少々分厚いように見えますが、かなり平易に書かれているので、結構すらすら読めます。また、すでに十分ご承知の項目なども多いと思いますので、飛ばし読みされてもいいかと思います。
ご興味をもたれたところをとくに読むのでも面白いと思います。

第1部において、「ファイナンス」というものに関する現在のイデオロギー(アメリカの?日本も?)が、集約的に現れていると思いました。
一番理想的なのは、アダム・スミスやマルクスなどの古典と照らし合わせて、読むことだと思いますが、今回はちょっと手が回りそうにありません。

それと「企業価値」や「コーポレートガバナンス」ということが、少し以前からよく話題にされていて、そのことが問題になります。
その手の本はたくさん出ていますが、たぶん「グローバリズム」ともよばれるその手の趨勢に対して、無反省な書き方をしたものが、多いんではないかと思います(ちゃんと読んでいませんが)。

岩井克人の『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』(いずれも平凡社)を以前に読みましたが、そういう点については、よく批判的にとらえていて、参考になると思いました。

しかしやはりなんといっても柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)が一番役立ちます。 まあ、あまりあちこち手出しせずに、テキストを中心にしようと思います。 どうぞよろしくお願いします。


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第70回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:07年07月01日(日)午後2時より5時まで。その後、呑み会。
テキスト:中島義道『カントの時間論』(岩波・現代文庫)
報告者:加藤正太郎


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第69回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:2007年05月13日(日)午後2時より。
テキスト:カント『啓蒙とは何か』(岩波文庫)、フーコー「啓蒙とは何か」(『フーコー・コレクション6』ちくま学芸文庫)
参考文献:ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波書店)
報告者:黒猫房主
カントによれば「啓蒙とは何か、それは人間が、みずから招いた未成年状態から抜け出ることだ」と言う。

  だが果たして僕らが「未成年状態」から脱することは可能なのか。
例えば「自己決定」の宣揚が権威による「誘導」の別名だったり「自己責任」という「責任転嫁」だったりする、昨今の情況を鑑みるにつけ、これは「啓蒙された欺瞞」ではないかと悲観的にもなるのだが……。

カントの「好きなだけ何ごとについても議論せよ、ただし服従せよ」というあまりにも有名なフレーズは「統治の原則」にまで及んでいるが、どう解釈すべきなのか?

  フーコーによれば「結論部で、カントは、フリードリッヒ二世に対して、ほとんどあらかさまに、一種の契約を提案することになる。それは、理性的な専制と自由な理性との契約と呼ぶこともできるようなものだ。自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となるであろう、但し服従すべき政治的な原理がそれ自身普遍的理性に適合するものであるという条件において、というのである」(p374)と書いているが、「理性的な専制」が転じて「道具的理性」による抑圧に頽落しないという保証が、どこにあり得るのか?

だからこれは逆説的に、普遍的理性に適合しない政治原理に対しては「理性の公的使用=自律」において、批判/不服従/抵抗せよ、と読まれてもよいように思われる。ならば、僕らが「批判/不服従/抵抗する主体」を獲得した得たときこそが、「未成年状態」からの脱出を可能にするのかもしれない。

もっともカントは「抵抗せよ」などとは一言も言わない。「知る勇気をもて」すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」と言っているだけなのだが、今日において「理性の公的使用」を行使するということは、「抵抗する」ことに他ならないのではないか?

光文社文庫版の『啓蒙とは何か』は中山元氏の新訳で、解説が充実しています。


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第68回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:07年03月04日(日)午後2時より5時まで。その後、忘年会。
テキスト:新渡戸稲造『武士道』(矢内原忠雄・訳、岩波文庫)
参考文献:菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社・現代新書)
報告者:野原 燐
さて、『武士道』ですが読み始められた方はうーんつまらない本だなと思われたのではないでしょうか。確かに(前回取り上げた同種の本である『代表的日本人』と比べても)著者自身の思想の核心がどこにあるか書いておらず通俗本の匂いがします。というか通俗本がこの本の影響を受けているからついそう思ってしまうという面もある……とそういうことを書いても仕方がない。

テキストは矢内原忠雄訳の岩波文庫を使いますが、他の本も可。p11 序文の最初に、「日本には教育のベースである宗教教育が無いのか、そんなはずはなかろう。」とある外人から問いつめられた経験を書いています。この問いに答えるためにこの本は書かれているのです。
でもなぜ武士道、日本には天皇教があるじゃないか。天皇教を補完するものとしての武士道ではなく、天皇教とは異質の思想としての武士道が可能なのかどうか? を著者の思想を少し超えて考えて見たいと思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

★宝島新書から、原文(英語版)の『武士道』が出ています。
『「武士道」を原文で読む』(宝島新書)


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第67回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年12月17日(日)午後2時より5時まで。その後、忘年会。
テキスト:ニーチェ『悲劇の誕生』11章以降(ちくま学芸文庫・岩波文庫ほか)
報 告 者:F




第66回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年11月19日(日)午後2時より5時まで。その後、呑み会。
テキスト:ニーチェ『悲劇の誕生』10章まで(ちくま学芸文庫・岩波文庫ほか)
報 告 者:F
久しぶりにニーチェを読みますが、この年になるとニーチェのテンションについていくのは結構キツいですね。 驚いたのはこの「悲劇の誕生」において、もうニーチェの永劫回帰の思想が展開されていることでした。ニーチェってすごいですね。  私は絶望したら死にたくなります。 それを「陶酔」や「歓喜」によって現実を肯定しようとする精神の強さ。  まだテキスト読みこなせてないので曖昧な感想をもって口上とさせていただきます。




第65回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年09月10日(日)午後2時より5時まで。その後、呑み会。
テキスト:フロイト『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫)
報 告 者:村田 豪
来月の腹ぺこのテキスト『モーセと一神教』を読んでみて、それだけでも面白いのですが、前提となる『聖書』やユダヤ教、あるいはイスラエル民族史について、私自身あまりに知識がないことに気づいたので、テキストの理解の助けになるように、山ほどある関連書の中から目についたいくつかの入門的解説書を流し読みしているところです(もっといい本があるかもしれません)。フロイトよりむしろこちらの方にはまっています。

『ユダヤ教の誕生』新井章三(講談社選書メチエ) 『聖書』読解を通じて古代イスラエル史とユダヤ教の誕生までを割合分かりやすく解説。ただし『聖書』の記述を重視しているためか、いくぶん客観的な歴史との距離感がつかみにくいところがある。しかし神の名「ヤハウェ」について、今のところ一番明快な説明を与えている(ように思える)。

『一神教の誕生』加藤隆(講談社現代新書) ユダヤ教史としての歴史の側面よりも、一神教の発展的側面とその神学的問題を中心に考察。これによりキリスト教との神学的な連続性が理解しやすくなった。しかし全体を通じてかなり思弁的で、どういう歴史的事実にもとづくのか、もう少し説明がほしいところもあった。でも「一神教」について考える素材を提供してくれているので○。 『ユダヤ教史』石田友雄(山川出版) 「ユダヤ教史をユダヤ民族史から分離することは、本質的に不可能」という観点から、年代的・歴史的記述を豊富かつ詳細にしている。聖書学的な考察も多く、その歴史の複雑さを感受することができ、非常に勉強になる。しかし今回はここまで詳しくなくてもいいかもしれない。

『ユダヤ人』上田和夫(講談社現代新書) ディアスポラ以降のユダヤ人・ユダヤ教を中心に解説。現代イスラエルにいたる問題を知るうえで大まかな理解がえられる。古代については説明が少ない。 『モーセの生涯』トーマス・レーメル(創元社) モーセの物語を手軽に解説。随所にフロイトの説を下敷きにしていると思える記述があるが、同書ではフロイトの説を批判的に紹介しているので、やや???マークがつく。想像的に描かれてきたモーセの図像に関する図版豊富。

『古代ユダヤ教』マックス・ヴェーバー(岩波文庫) 読み出したところ。古代ユダヤ教が社会学的な考察の対象とされているので、『聖書』の物語や年代的な宗教史を知るには不向き。全部読めそうにないが、古代ユダヤ社会への理解を深めるのに役立ちそう。

『旧約聖書』新共同訳(日本聖書協会) 本家本元のモーセを知るために。しかしこれはあくまでキリスト教側による『聖書』ともいえる。岩波文庫の『創世記』『出エジプト記』と読み比べると、単なる訳の差異ではないある重要な違いに気付く(ひとはそれほど重要だと思わないのかもしれないが)。しかしこれももちろん全部は読めない。

あとは、みなさんも一度はご覧になられたことがあるだろう映画『十戒』(チャールトン・ヘストン主演)を見直しました。古代ヘブライ人の描き方など、どの程度まで歴史考証的に正しいのか、ちょっと気になりますが、とりあえずエンターテイメントとしてそういう造形を見るのは面白いし参考になりました。とにかくモーセが簡単にわかる。

ところで先の『モーセの生涯』の著者は、アメリカの歴代大統領がモーセを建国神話的な理想像としていたことを紹介したうえで、この映画にはアメリカのイデオロギーがにじみ出ていると評しています。「陳腐だ」とも。最初そこまでは気付きませんでしたが、だんだんそんな気もしてきます。

というわけで、以上のような参考資料を使って、当日はユダヤ教史の簡単なおさらいをした上で、『モーセと一神教』に入りたいと思います。


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第64回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年07月09日(日)午後2時より5時まで。その後、呑み会。
テキスト:『新約聖書』
参考文献
『釜ケ崎と福音』(本田哲郎・岩波書店)
『イエスという男』(田川健三・作品社)
『書物としての新約聖書』(田川健三・勁草書房)
『「新約聖書の誕生」(加藤隆・講談社選書メチエ)
『小さくされた人々のための福音』(本田哲郎訳・新世社)
『聖書』(新世界訳)《「エホバの証人」》
報 告 者:加藤正太郎
(1)『新約』を浅読みする。
(2)Don't believe that yo read.
(3)時代を想像し、自分に引きつけて、削除しながら読む。
(4)翻訳の異同を知る。




第63回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年06月04日(日)午後2時より5時まで。その後、呑み会。
テキスト
吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま文庫)
親鸞『歎異抄』(現代語訳・解説:梅原猛、講談社学術文庫ほか)
参考文献
『歎異抄論釈』佐藤正英、青土社
『歎異抄』現代語訳・解説:梅原猛、講談社学術文庫
『親鸞入門』佐藤正英、ちくま新書
『親鸞――悪の思想』伊藤 益、集英社新書
『還りのことば』吉本ほか、雲母書房
『論註と喩』吉本隆明、言叢社
『<非知>へ <信>の構造「対話篇」』吉本ほか、春秋社
『日本仏教史――思想としてのアプローチ』 末木文美士、新潮文庫
『仏教 vs 倫理』 末木文美士、ちくま新書
『神仏習合』美江彰夫、岩波新書
『世界がわかる宗教社会学入門』橋爪大三郎、ちくま文庫
『永遠の吉本隆明』橋爪大三郎、洋泉社y新書
「世界の肯定の仕方」立岩真也、KAWADE夢ムック『吉本隆明』所収
『現代詩手帖臨増「吉本隆明」U1986』思潮社
『「いのち」論のはじまり』村瀬 学、JICC出版局/洋泉社
『思想の危険について―吉本隆明のたどった軌跡』田川建三(インパクト出版会)
報 告 者:黒猫房主
親鸞がその「往相」において<知>の頂きを究めた後、つまり「還相」において吉本隆明がかんがえるところの「最後の親鸞」が到達した<非知>とは、まったくの<愚者>」になることであった。

しかしそれは「存在すること自体が、絶対他力に近づく極北であるような存在」、つまり「じぶんからはけっして(信心を)おこさない非宗教的な存在」を超える(止揚する)思想/境涯としてあったのではないだろうか。そして世間の「有限の倫理」に対して「無限の倫理」を、自己欺瞞に陥ることなく<信>として指し示すことにあった。だがそれは可能なのか。

それゆえに親鸞は<業縁=契機>の不可避性を深化させ、「計らいとしての自力作善=有限の倫理」を徹底的に否定するが、そのことが/で、親鸞は「党派・教団としての宗教=絶対他力の理念」をも解体させ他宗派も無化する。吉本隆明の理解に立てば、<信>と<不信>をつなぐ根源性と普遍性を獲得したのかもしれない。

最後の親鸞は「弟子一人ももたず」と言い放ったがそれは果たされず、後々に浄土真宗が巨大な教団になってゆくのは、「念仏すれば(因果的に)救われる」という、それすらが微かな「計らい」の自力を滲ませてしまうイデオロギーへの変質であったに違いない。

これは党=教義の信心を固くすることによって正義がなされるという態度ともどこかで密かに通底しているように思えるが、それは「倫理主義」であっても自ら立ち上がってくる<倫理>からは乖離しているように思う。この言い方はとても吉本的だ。そんな声が木霊する。

そして親鸞も吉本も現状肯定の追認に荷担しているだけの居直りではないのか。とくに吉本は! そのような批判が周辺から聞こえてくるようだ。だがそれこそが「倫理主義」からの強迫とも言えるし、倫理的強迫がなければ人は利己的に堕落するいっぽうだと言いたげだ。

しかしそれは「ただあること」の存在性を否定する思想に自ら荷担することになりはしないのか。つまり有用性において存在を序列化する思想への荷担ではないのか。 それで/だから、人は「ただあること」だけの肯定には堪えられないので、存在することに対してなにがしかの価値や意味を付与しようとするのだが、それではけっきょく有用性に回収されてしまうほかないのではないのか。
その辺りを如何にかんがえるかということを課題にしたい、と思っています。

テキストの『歎異抄』は、本願寺出版版、岩波文庫版、中公バックス版などいろいろありますが、現代語訳の異同を読み比べるのも興味深いでしょう。

さいきんの吉本隆明は「存在倫理」ということを言っています。
この存在倫理とは、生まれてそこに<いる>こと自体が、<いる>ということに対して倫理性を喚起するというものです。立岩真也の「ただあること」の肯定性にも通底しているように思います。

この存在倫理は、また親鸞の『歎異抄』第五章にも通底していると芹沢俊介は指摘していますが、その点については例会でお話します。

 ……さて倫理性を喚起するとはどのような事態を指しているのだろうか。自分がいまここに自分として「いる」ことにおいて、自分および自分以外の存在に対して感じる肯定的反応、同じことだが自分という存在および自分以外の存在が生きてここに(この世に)「いる」(ある)ということに対する肯定的反応ととりあえず言ってみる。これからもここにありつづけることに対する肯定的反応。こうした肯定的反応は、生まれたことに対する根源的な肯定性に根拠をもつのではないだろうか。(芹沢俊介「吉本隆明の『存在倫理』をめぐっ て」p113、『還りのことば:吉本隆明と親鸞という思想』雲母書房)
レジュメを掲載しました。




第62回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年04月16日(日)午後2時より5時まで。その後、呑み会。
テキスト:松下昇『概念集1』
報 告 者:野原 燐
わたしたちはいままで名著と呼ばれるような本をたくさん読んできた。
しかしながら相手がいくら名著であっても読者の側がそれを必要としていない限り名著も力を持たない。一方で、ありていに言えばわたしたちは金銭とか健康とかいう概念から自由ではない。そのような自己の〈不自由〉とは別のところで哲学や思想を学んでもせんのないことである。
「いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。」
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

行動し考える主体自体を問おうとするなんていう課題を掲げたとしても、困惑混乱に陥るだけだろうとの危惧が立ちふさがる。しかし頭ごなしに拒否することもないのだ。かなりのところまではいける!と、松下を読めば、思うことが できる。

「概念集1」という松下昇のなぞめいたテキストから、なるべく平易なメッセージを読みとっていきたい。
下記の二つのサイトも参照してください。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/




第61回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年03月05日(日)午後2時より5時まで。その後、呑み会。
テキスト:加地伸行『儒教とは何か』(中公新書)
参考文献
『論語語新釈』宇野哲人・講談社学術文庫
『論語』貝塚茂樹・中公クラシックス
『儒教三千年』陳舜臣・朝日文芸文庫
『朝鮮儒教の二千年』姜在彦・朝日選書
『鬼神論――神と祭祀のディスクール』子安宣邦・現代書館(発行:白沢社)など。
報 告 者:F
 先日、久々に家で夕食をとっていた時のこと。
ちょうどテレビでトリノオリンピックの様子が流れていて、ふと、今習っているハングルの先生に聞いた、日本は水泳が強いが韓国は弱い、それは、韓国では学校の体育の授業で水泳がないからだ、という話を思いだし、そのことを口に出しました。
 すると、父が「向こうの人間は、もともと人前で裸になるのを嫌がるんや」と言い、私も少し前に読んだ、確か司馬遼の「韓のくに紀行」で、儒教にその様な文化意識があることを知っていたので「そうそう」と相づちを打とうと思った矢先、「大体、何でも形式ばっかりなんや」といつもながらの儒教(なのか、韓国、朝鮮なのか何なのかよく分かりませんが)への批判がつらつらと始まりました。あ、しまった、ヤバイ、ヤバイよおっと思っていると、横から「お父さんこそ、儒教そのものやないのっ!!」という、母のきっつ〜いパンチが……。
 そして、我が家のちゃぶ台がひっくり返ったことは言うまでもありません。

 と、どこかの例会案内のようになってしまいましたが、その父に昔から「儒教」の「教」は「教え」であって、即ち「学問」であって「宗教」ではない、と教えられてきたので、今回のテキストで「儒教の宗教性」という問題に触れ、新たに「儒教とは何か」と興味を抱きました。
 ただ、儒教が「宗教」か否かについては、時代、場所、人によってその位置づけが異なると思いますので、その議論はさておき(姜在彦さんは『朝鮮儒教の二千年』で「儒教が宗教であるという議論には賛成できない」とされていましたが)テキストがまとめているのをもとに、中国での儒教の歴史を追ってみたいのと、「論語」を読まれた方には、孔子の印象とか好きな言葉とかをお伺いしてみたいと思います。




第60回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:06年01月29日(日)午後1時より4時まで。その後、新年会。
テキスト:ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」・今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫)
参考文献:今村仁司『ベンヤミンの<問い>』(講談社メチエ選書)
野村 修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー)
報 告 者:村田 豪
テキストを一読して驚いたのは、逆説的で切断的なイメージの積み重ねで浮かび上がるベンヤミンの「歴史」概念が、ほとんど補足的な解釈を加えなくても、そのままこの現 在に適用できるように感じられることです。いえ、むしろ積極的に活用するよう、それは要求しているでしょう。メタファーを展開しては切り落とす、独特の形式と表現でありながら、イメージの内的緊密さはほとんど弛むことがない。それこそが、文章というものが本来宿すべき力が、このテキストにも備わっている理由ではないかと考えました。
当日は自由な議論による「ねらいを定めた跳躍」がおこれば、と思います。それと伝記的な側面をおぎなうために『ベンヤミンの生涯』野村修(平凡社ライブラリー)をさっと読んでいます。




第59回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年12月10日(土)午後1時より4時まで。その後、忘年会。
テキスト:ホルクハイマー=アドルノの『啓蒙の弁証法』(岩波書店)
参考文献:細見和之『アドルノ』(「現代思想の冒険者たち」シリーズ、講談社)
       カント『啓蒙とは何か』(岩波文庫)
報 告 者:加藤正太郎
先日発表された『自民党新憲法草案』は、「自分たちの犯罪行為を法則的連関の必然 的帰結とは認めない……この一味たちが抱く良心の疾しさの、隠しても隠しきれない 表現」?49)なのだろうかと考えたり、先の総選挙の結果は、「集団のうちでし か生を全うすることのできない個人の、内的自己硬直の表現」(p167)なのだろ うか、と考えたりしています。




第58回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年10月16日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:斎藤純一「政治責任の二つの位相」、青山治城「戦争と責任」(共に『「戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)、ヤスパース『戦争の罪を問う』(平凡社ライブラリー)
参考文献:丸山真男の「戦争責任論の盲点」の要約が下記のサイトで読めます。
        http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/maruyama.htm
宮台真司の戦争責任論 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=277
荒井信一『戦争責任論』(岩波現代文庫)
高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫)
仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)
参考資料:鶴見俊輔「戦争責任の問題」(『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』p168〜p172、筑摩書房)
竹内好「戦争責任について」(『日本とアジア』p230〜237、ちくま文庫)
高橋哲哉の発言(『グローバリゼーションと戦争責任』岩波ブックレット)
ベルサイユ条約戦争責任条項
報 告 者:黒猫房主
 加害責任(罪)のない戦後世代が、なぜ戦争責任/戦後責任を、何故/如何に引き受けるか(その応答可能性/不可能性)という論点で考るために、ヤスパース『戦争の罪を問う』をベースに、メインは斎藤純一「政治責任の二つの位相」論の現在的意義を検討したいと思います。
 斎藤の論点の特徴は責任主体の<受動性>と<能動性>ですが、ポスト・コロニアルの視線から「国民国家」批判、戦後の知識人による能動的責任論として丸山真男−加藤典洋の立場が批判されていますので、資料として用意した鶴見俊輔と竹内好(間接的に丸山真男)の戦争責任論も適宜参照します。
 時間があれば青山治城「戦争と責任」を、青山は「戦争」と「責任」を切り離して個別の問題をクリアーにしています。さらに時間があれば、岡野八代の「わたしの自由とわれわれの責任」(『「戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)を検討します。岡野の論考は自分の体験をとおして「戦争責任問題」における、ある種の<こわばり>の解体を企図しています。

参考文献の内、荒井信一『戦争責任論』は第一次世界戦争後にはじめて「戦争責任」という概念が現れ、今日までのその変遷の通史です。仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』の第一章は、手っ取り早く「戦争責任」の概略を知りたい人には便利で、ヤスパースにおける「罪と責任」の区別が簡便に説明されています。また参考資料としての、高橋哲哉の発言は加藤典洋との異同/類似がポイントです。
レジュメを掲載しました。




第57回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年09月04日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:1.岩波文庫『「古事記』2.西郷信綱『「古事記註釈・1』(ちくま学芸文庫)
報 告 者:野原 燐
 参考文献は
 本居宣長『古事記伝・1』岩波文庫 700円
 参考url http://www.neonet.to/kojiki/seikai/sinkoji-set.html
 『真福寺本古事記』影印

 「久遠の絆」さんによる偽物古事記原文
 http://applepig.idv.tw/kuon/furu/furu_index.htm
 新訂 古事記 ~古語追慕~




第56回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年06月19日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:パスカル『パンセ』中公文庫他(『世界の名著 パスカル』(中公バックス29巻)は品切れ。中公クラシックスだと上下2冊ですので、中公文庫版がお 得。なお新潮文庫版や講談社文庫版は絶版です。
報 告 者:F
私は中公クラシックスを入手いたしましたので、それを使いたいと思います。
「パンセ」は主にアフォリズム中心なので、いつもみたいにテキスト追ってというのは、ちょっとやり難い感じなので、まあパスカルのやろうとしてたこととか、生き方などをみながら、ざっくりいこうかなと思っています。
他に参考にしようと思って購入したのが
「パスカル 痛みとともに生きる」田辺保著/平凡社新書
「パスカル伝」田辺保著/講談社学術文庫




第55回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年05月22日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:スピノザ『エチカ・上』岩波文庫(『世界の名著 スピノザ・ライプニッツ』(中公バックス30巻・旧函版25巻)にも収録されていますが、同シリーズは品切ですので、古書店でゲットしてください。)
参考文献:上野修『スピノザの世界』(講談社現代新書)
報 告 者:村田 豪
上野修の新書を先日書店で見つけて購入、現在大ざっぱにさっと読んだところです。
かなり分かりやすく書いてくれているので、おそらくかなりこちらに依拠して話をするつもりです。
『エチカ』の本物を丁寧に読み解くのは、どうやらやや至難の業であるようですので。いいタイミングで本がでました。一読した限りでは、世界は必然性の連鎖で成り立ち、自由意志は存在しないのに、しかしスピノザからは独特の「倫理」が導かれる、というところが、面白いように思われました。




第54回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年04月17日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:ライプニッツ「形而上学叙説」(『モナドロジー 形而上学叙説』中公クラシックス41巻、『世界の名著 スピノザ・ライプニッツ』中公バックス所収
参考文献:八木雄二『中世哲学への招待』(平凡社新書)
報 告 者:加藤正太郎
前回から引き続き「独在性」が難所(特に13節)と思われますが、横軸に「観念と物質」(プラトン以来の対立)を置き、縦軸に「神と個体」を置くような感じで、考えてみたいと思います。(出来ればその「数学」についても触れることが出来ればと思います)




第53回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年03月27日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:永井均『私・今・そして神』(現代新書/講談社)
参考文献:永井均『マンガは哲学する』(講談社α文庫)
       永井均『転校生とブラック・ジャック』(岩波書店)
報 告 者:中原紀生
 文庫版『マンガは哲学する』のあとがきに、永井さんは「私自身にとっては、本書は画期的な出来事となった」、そしてこの本がきっかけになって『転校生とブラック・ジャック』『倫理とは何か』『私・今・そして神』という「私自身にとって、やっとのことで果たせた新たな飛躍の記念すべき三部作」が生まれたと書いています。こういう文章を書かせる「幸福な体験」(=永井均の神学的体験?)の実質はいったい何なのか。そのことをブラック・ジャックならぬジャック・ラカンの「想像界・象徴界・現実界」などをおりまぜながら、考えてみたいと思います。




第52回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:05年01月16日(日)午後2時より5時まで。
テキスト:ジャック・デリダ『声と現象』(理想社)
参考文献:高橋哲哉『デリダ』(講談社)
       林好雄・廣瀬浩司『デリダ』(講談社選書メチエ)
       東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社)
報 告 者:田中俊英
 デリダ(の邦訳)をすべて読んだわけではありませんが、ドゥルーズと違ってデリダの場合、かなりの初期から理論が完成していたように思えます。中でも、『声と現象』にはかなりのモチーフが詰まっているような。  主として、「脱構築の手法」と「他者性の先行性」の議論がメインだと思います。フッサールの『論理学研究』まで押さえる必要はないと思います。  しいて言うなら、『有限責任会社』(法政大学出版局)所収の、「署名、出来事、コンテクスト」を押さえておくと便利だと思います。同論文は「反復可能性」に直接言及しており、『声と現象』と「署名……」の二つで、デリダ理論の核心は押さえられると僕は思っています。




第51回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年12月11日(土)午後2時より5時まで。その後、忘年会に突入。
テキスト:中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫・「世界の名著」)
      サブテキストとして、カント『永遠平和のために』(岩波文庫)
参考文献:木下順次ほか編『中江兆民の世界―「三酔人経綸問答」を読む―』(筑摩書房)
       桑原武夫編『中江兆民の研究』(岩波書店)
       米原謙『近代日本のアイデンティティと政治』(ミネルバ書房)
       井田進也編『兆民をひらく――明治近代の<夢>を求めて』(光芒社)
       かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』(講談社コミック)
報 告 者:黒猫房主
 「どこにもない場所=無可有の里」「酔人の語らい」「荘子的世界」という設定、<現実>との距離を置くことで、逆説的に<情況>を照らし出すという手法によって本書は政治哲学を展開するSF( speculative fiction)とも言えると思うのですが、そのことによって本書の射程は現在まで届いているようです。
 それは本書の書かれた当時の情況や兆民の意図も超えて、さまざまな読まれ方の可能性を生み出す。それはまた読み手の立ち位置や読解の深度を映し出す効果もあるようです。

 高澤秀次は、酔人による夜を徹しての天下国家を論じるという作品の構成には構成以上の隠された意図がある。それは当時の民権と国権のイデオロギーを同時にパロディ化してみせること、つまり問答形式の採用は政治的二項対立の無効を告知するための仕掛けではなかったのか、とうがった見方をします。
そして折衷的で曖昧な「南海先生」の態度こそが、西欧の論理に同調でも反発でもない第三の道を、意見ではなく「態度」として示している。それはナショナリズムとインターナショナリズムを包摂した、第三の道の可能性=「風の抵抗」であった。ここに兆民の可能性の中心が凝縮されている。そしてこの思想の流儀を継承したのが、竹内好であったとつないでいます。(「その後の「三酔人」――中江兆民から竹内好へ」、井田進也編『兆民をひ らく――明治近代の<夢>を求めて』所収)

 また米原謙は自著『近代日本のアイデンティティと政治』(ミネルバ書房)や井田進也編『兆民をひらく――明治近代の<夢>を求めて』(光芒社)の中で、『三酔人経綸問答』は徳富蘇峰の考え方(『将来之日本』1886年、社会進化論)をパロディ化した展開であると述べています。
 「進化神」を信奉する「洋学紳士」=蘇峰との応答がパロディ化されており、三人の思想を兆民の分身あるいはモデルとする通税の読み方を否定しています。
 そして本書のテーマは国家独立論や防衛論ではなく、蘇峰の自我を経ない社会進化論批判にこそあるとしています。

 さて本書の執筆時、兆民40歳にして蘇峰24歳。
 蘇峰からの求めに応じて寄稿掲載(雑誌「国民之友」蘇峰主宰、1887年)されたのが、『三酔人経綸問答』の前半、「酔人之奇論」です。まさに文字通り「奇論」=パロディとして書かれたとするのが、米原説です。揶揄的な眉批の調子は、その意味では納得できますね。
 下記のWebで、米原謙氏の「図書新聞」インタビューから関連するある部分が読めます。 http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~yonehara/tosho_shinbun.html
レジュメを掲載しました。




第50回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年10月31日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫)
報 告 者:野原 燐
 この本は読みやすいので、一応1冊全部としますが、
 藤樹を中心に尊徳と隆盛をサブに鷹山と日蓮はカットするかも です。

 ウェーバーを受けて、藤樹の神秘主義的実存主義っぽい思想が
 世俗内禁欲と、維新革命のエトスに繋がっていくのだ!
 という方向で話をしたいのですが、上手くいくかどうか。
 できれば読んでおいてください下記のサイト。
 http://homepage3.nifty.com/hidefuurai/nakae.html 中江藤樹




第49回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年09月19日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)
報 告 者:F
 一応、テキストの中心は第一章の「問題」の部分と、第二章「二 禁欲と資本主義精神」にしようと思っています。
 異常に原注の多いテキストで、その為に非常に読み難いものとなっていますが、私の読んだ限りでは、細かい注は飛ばして読んでもあまり支障はないように思います。

 「プロ倫」はまだ格闘し始めたばかりで、正直しんどい本を選んでしまったことを後悔しちゅうですが、当日は賢明なる塾生先輩方のお助けをいただきつつ、楽しくできればと思っ  ています。(文責:文岩)

 参考文献として、大塚久夫「社会科学における人間」(岩波新書)の3章が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の解読になっています。「資本主義(家)精神」と「資本主義の精神」の違いに要注意です。
 それと、長部日出夫「二十世紀を見抜いた男―― マックス・ヴェーバー物語」(新潮文庫)も、お時間があれば。。。

 ところで、森嶋道夫はヴェーバーを批判して、日本や韓国などで見られる儒教倫理を基礎とした資本主義の発達があり得ることを指摘しているそうです。(森嶋道夫「イギリスと日本 続」岩波新書)
 個人的には、利子を否定するイスラム経済に関心があります。  また、C.ダグラス・ラミス「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(平凡社ライブラリー 513)と立岩真也「停滞する資本主義」もお薦めです。(文責:山本)




第48回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年07月18日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:毛沢東『矛盾論・実践論』(岩波文庫・中公バックス「世界の名著」)
報 告 者:村田 豪




第47回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年06月27日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:J・ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」(『近代 未完のプロジェクト』の1章、岩波現代文庫)
報 告 者:加藤正太郎




第46回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年05月23日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:立岩真也『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店)の第3章を中心に。時間があれば、4章以降も。
報 告 者:黒猫房主
 立岩氏の主張は単純明瞭である。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」ということだ。この主張の系譜は空想的社会主義者と呼ばれる一群から、そしてK・マルクスの「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて」(「ゴーダ綱領批判」)までたどれるだろうが、立岩氏の立ち位置は異なるだろう。
 出来ること(働くことや能力)と所有の関係を切断あるいは相対化した上で、存在の肯定を目指すために分配が主張される。その分配は、譲渡したくないものを譲渡せずにすむように、分配が要請される。

  「私がただ私であるというだけで存在していられることを望むなら、また、人が人であるだけで存在していることはよいことだと思うなら、その双方が存在と存在の自由のための分配の規則を支持する。ならば分配の主張は、私たちのありようの相当に基本的なところに発するもので、格別の心情を要する困難な主張ではない。」(本文より)

 だが他者の存在を肯定はするが自分は供出したくない、あるいは分配を受けるのは嬉しいが働けるのに働きたくない人は「ただ乗り」になる。
 そこでこのただ乗りを自ら禁ずる行いとして徴収の強制が承認され、その機構が要請されるが、そもそも分配の制度はその本性からしてそれを抑止する要因は常にあり不安定であることを免れない。
 だが「存在の自由/肯定」を認めるならば、これ以外の道が途がないから、制度としての分配が選ばれる、ということになる。以上、3章までの荒削りなポイント。

 立岩氏は「問い」を立てそれを手放さないで、証明問題を解くようにじゅんじゅんと論証してゆくのだが、その論証は細部にわたり執拗で、それを跡づけるには忍耐と繊細さが要求されるだろう。




第45回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年03月21日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:J・デリダ「限定経済学から一般経済学へ」(『エクリチュールと差異(下)』所収、法政大学出版局)
報 告 者:野原 隣
◎清水徹、出口裕弘『バタイユの世界』新版・評論集 青土社
 デリダよりバタイユが好きな方は、こちらに入ってるのでも同じです。
 いまさらバタイユでもなかろうとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなことはないですよたぶん。
 ◎酒井健氏の『バタイユ入門』ちくま新書
 はとても分かりやすく良かったです。
   今読んだ下記の文章にあるように、
 「バタイユに肉化されたコジェーヴ、そのバタイユとサルトルの狭間で首をひねるイポリット。」なんて話題にも興味はありますが、そこまでは行きません。
 http://www.aguni.com/hon/back/gogatu/12.html




第44回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:04年01月25日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:ヘーゲル『精神現象学』(作品社版)
参考文献:加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門[新版]』有斐閣選書
       城塚登『ヘーゲル』講談社学術文庫
報 告 者:村田 豪
 「精神現象学」が実際どんな本なのか、よく知らないまま担当を引き受けたことを今や少々後悔しています。というのは、難解であることに加え、翻訳がどうもなあ、という感じが拭えないのがまずありますが、さらに問題に感じたのは、本書や解説書をある程度読んだ限りでの僕の感じでは、一部を細かく読んでいくのではなく、全体を見通す必要があると思われたからです。そうでないと、ヘーゲルの目論見が何なのかよく分からず、議論の堂々巡りに巻き込まれ、言いようのない徒労感に襲われてしまいます。
 よって担当者としてあらかじめご容赦いただきたいのは、まずテキストに指定されていた平凡社版をあまり使用しないことです。通して理解するのにかなり無理を感じましたので、参考程度にしています。代わりに長谷川宏訳の作品社版を随時使用させていただきます。しかしながら、これも完全な通読は、腹ぺこでは不必要だと思うので、解説本などを参照しながら、解釈を補いたいと思います。今のところ利用しやすそうな参考文献は、上記のものです。
 『精神現象学』を通して、ヘーゲルの弁証法がどんなものか、あるいは、ヘーゲル的な態度、思考法が、現在どのような形で一般に浸透しているのか、むしろそういうところを議論できれば、と考えています。




第43回『哲学的腹ぺこ塾』

日  時:03年09月28日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:E.W.サイード『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)
加藤正太郎




<第42回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:03年07月20日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
      範囲は第2章の「公的領域と私的領域」まで。





<第41回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:03年06月22日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(青土社)
       主に第2章「禁止、精神分析、異性愛のマトリックスの生産」
参考文献:加藤正太郎「余りの方から割り算されて――『性現象論―差異セクシュアリティの社会学』を読む(加藤秀一・勁草書房)http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/re03.html#03-1
       竹村和子<「資本主義社会はもはや異性愛を必要としていない」のか>(上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房)
報 告 者:村田 豪
構造主義・精神分析の言説がいかに巧妙な権力として機能するか、バトラーに説得されました。バトラーの批判には、賛同します。ただやはりここでも、「法とは何なのか?」という問いが残るような気がしました。




<第40回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:03年05月18日(日)午後2時より5時まで。その後、暫時呑み会に突入。
テキスト:M・フーコー『性の歴史1』の4、5章
参考文献:http://www.nakayama.org/polylogos/papers.html(中山元)
報 告 者:野原 隣
セクシュアリテと言説と権力がからまっているのですが、セクシュアリテは分かりにくいので、あと二者を主に考えたい。前回の『<帝国>』の<生権力>からの続きもあるし。 あと、この本が、「性を語る」ゲイリブなどの活動に大きな影響を 与えたという一見皮肉な関係についても考えたいが、力不足に終わ るでしょう。(野原・記)
『自由を考える――9・11以降の現代思想』(東浩紀・大澤真幸、NHKブックス)の1章の権力論もご参考に。(黒猫房主・記)




<第39回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2003年03月30日(日)午後2時より5時まで、その後、二次会。
テキスト:ネグリ/ハート『〈帝国〉』の2部まで(以文社)(後半は、次回以降)
参考文献:中山元氏の「ハート/ネグリの『帝国』を読む」http://nakayama.org/polylogos/empire.html
       「特集 『帝国』を読む」(現代思想、2003.2号、青土社)
       「特集 帝国』」(現代思想、2001.7号、青土社)
報 告 者:田中俊英
いま話題のネグリ/ハートの『〈帝国〉』の前半を読みます。  グロバール化による国民国家の衰退と、生政治的な社会秩序の中から  立ち現れてきた世界秩序=〈帝国〉とは、何か?  第1部:現在性の政治構成 第2部:主権の移行  




<第38回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2003年02月16日(日)午後2時より5時まで、その後、二次会。
テキスト:田中修士論文「心的外傷と反復――ドゥルーズ、フロイト、ハーマンの外傷論について」
報 告 者:田中俊英 




<第37回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2003年01月19日(日)午後2時より5時まで、その後「新年会」突入。
テキスト:ルソー『社会契約論』(岩波文庫・他)
参考文献:ルソー『人間不平等起源論』(岩波文庫)の「序論」と 「解説」、山本繁樹による『人間不平等起源論』のレジュメ(第4回「哲学的腹ぺこ塾」)、ディドロ・ダランベール編『百科全書―序論および項目』の「主権者」「自然法」の項目(岩波文庫)、カント『啓蒙とは何か』(岩波文庫)
報告者:黒猫房主
 ルソーは、「社会契約」をフィクショナルなものと考えていたようで、ロッ クのように自然権によって基礎づける「契約」とは断絶している点が新しいの だそうです。つまり、今日風に言えば、法実証主義的発想によって、権力が正 当化される初源としてのcontrat(双務契約)を考察した。
 そこで課題となるのは、自由と権力の対立の止揚(一般意志)ですが、自由 の問題はカントやケルゼンに継承されるテーマですね(「自由であれ!」)。
 この「一般意志」は、全員参加の選挙(直接民主主義)の過半数によって実 現(主権者としての自己立法化=自由の実現と平等の確保)するのですが、な ぜ多数決が正当性をもつのかという問題は残ります(多数決を採用するにあたって、全員一致の約束があったことを前提するとルソーは言っているが。p28) 。
 が、ルソーによれば選挙に「全員が参加(全体としての主権者というルソー 的理念の特徴)」して、個々人が「共同の利益」の一致をめざすことが重要だと考えています。そして選挙による「投票」という個人の意思表明は「特 殊意志」を前提にしているが、「特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞく と、相違の総和として、一般意志がのこる」(p47)という点が重要(「全体意志」と「一般意志」の相違)ですね(カントの「理性の公的使用」と比較せよ!)。
 当初の「一般意志」についての私の理解は、特殊意志を超えた理念として捉 えていましたが、むしろ「特殊意志(個人意志)」という具体的な利害によっ て担保(調整)されていると読むべきなのでしょう。その意味で、第一編の 「正義と有用性が決して分離しないようにするために、権利が許すことと利害 が命ずることとを、この研究において常に結合するように努めよう」(p14) というルソーの課題の意味が明らかになってくるようです。
 ところで、この一般意志という言葉はディドロが「自然法」(『百科全書― 序論および項目』)の中で最初に使用したそうです。

   さて今日、「国民」というメンバーシップの暴力性批判(メンバーに入れて あげる、あげない! 誰が判断するのか? 誰が誰を<国民化>するのかという問題 「帰化/帰属」による権利獲得と 排除=「対称性という閉域」と「平準化=差異の抑圧」)において、ルソー的 「一般意志」の「妥当性/限界性」からアナーキズム〜リベラリズムの「可能 性/不可能性」を吟味してみたいと思います。
 いま手元にある『憲法対論』(奥平公平・宮台真司/平凡社新書)の中で、 リベラリスト宮台は、リベラリズムの原則として「立場を入れ替えても耐えら れるか、耐えられなければ不公正だ」(ローティ)という規範を紹介しています。また「論座」2003年1月号掲載の「シンポジウム9.11以後の国家と社会」では、リベラリズムの一国主義的な弱点を指摘しています。(文責・山本繁樹)
レジュメを掲載しました。




<第36回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年12月14日(土)午後3時より4時
       4時より「忘年会」を行います(「忘年会」のみの参加も可。会費は割り勘、3000円位を予定)
テキスト:「La Vue」12号の合評会




<第35回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年11月17日(日)午後2時より5時まで、その後二次会に突入。
テキスト:柄谷行人『トランスクリティ−ク』
報告者:村田 豪
「NAM」のWebに、柄谷行人の声明(02/11/14)が掲載されたのでその一部を下記に引用しますが、資料として全文をお読みください。
引用していない「本文」では、Qの理論的欠陥は西部忠にあると批判し、そのQに換わって「市民通貨L」を柄谷は提唱しています。(文責・黒猫房主)
http://www.nam21.org/japanese/
------------------------------
「Qは始まらなかった」柄谷行人

 昨年の11月に、私はこのフォーラムで「Qが始まった」というエッセイを書いた。ちょうど一年後に、私はこう言わなければならない。「Qは始まらなかった」と。すなわち、地域通貨と称するQは、ついに「通貨」にはならなかったのである。
 私はこれまでQを推奨してきた誤りを認める。また、それによって、結果的に多くの人に迷惑をかけたことをお詫びする。そして、そのお詫びは、事実を認識すること、そして、それを公開することによってのみ果たされる、と考える。それゆえ、私は、NAMの内部においてのみならず、外部にも開かれたこのフォーラムに、これを書くことにしたのである。(後半略)




<第34回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年10月20日(日)午後2時より5時まで、その後二次会に突入。
テキスト:「La Vue」11号&「カルチャー・レヴュー」25号
今回は、「哲学的腹ぺこ塾」の例会と合評会を合同で行います。




<第33回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年09月15日(日)午後2時より5時まで、その後二次会に突入。
テキスト:『孟子』(「世界の名著」中公バックス・他)  
参考文献:F・ジュリアン『道徳を基礎づける―孟子VSカント、ルソー、ニーチェ』(講談社現代新書)
報告者:野原 燐




<第32回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年07月21日(日)午後2時より5時まで、その後二次会に突入。
テキスト:プラトン『国家』(「世界の名著」中公バックス・他)  
報告者:F
Fさん曰わく「キルケゴールやハイデガーをみなさん苦もなく読み通せるのだから、分量多くてもたぶん大丈夫でしょう。私も読めたし」とのことです。
人間が「善いこと」「ほんとうのこと」をめがけて<普遍性>を追及すること、これは主観=客観の一致をめざす<真理=絶対>とは別のことであって、プラトンのイデアを<真理>と見なすのは、竹田青嗣のプラトン理解によれば間違いであるそうです。
このことは、また「哲学するとはどういうことか」という竹田=プラトンの態度にも表れているようです。(文責・黒猫房主) 




<第31回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年06月16日(日)午後2時より5時まで、その後二次会」に突入。
テキスト:K・マルクス『ブリュメール十八日』(岩波文庫・他)  
報告者:加藤正太郎




<第30回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年05月19日(日)午後2時より5時まで、その後二次会」に突入。
テキスト:K・マルクス『資本論』第一巻「資本の生産過程」の第一篇 「商品と貨幣」の第一章「商品」(中央公論新社『世界の名著54「マルクス・エンゲルスT」』所収。P98-144)ほかにも岩波文庫版、大月書店文庫版などあり。おそらく該当個所は最初の巻。
報告者:村田 豪
やはり誰もが問題にする「価値形態」論にしました。それを基礎に現実の労働や経 済活動にまで考察を広げられれば、と考えています。参加者のみなさんの中には、 マルクス通が何人かいらっしゃるようなので、その他の章や主要なマルクス論者な どについてご教示いただければありがたく思います。




<第29回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年04月21日(日)午後2時より5時まで、その後二次会」に突入。
テキスト:J・P・サルトル『実存主義とは何か 増補新装』(人文書院)
報告者:黒猫房主
実存主義への非難に応えた講演と、これに関する討論からなる本書は、実存主義 の本質を伝え、その思想がヒューマニズムに直結することを明快に説く。初期作 品を増補した、サルトル哲学理解への新たなアプローチとなる書(「bk1」の 内容説明より)。

この間、キルケゴール、ハイデカーと読み進んできました。そこで、いよいよサル トルの登場です。
実存主義の父がパスカルならば、正しくサルトルは実存主義のヒーローだったと思 います。
訳注によれば、本書は、ごく通俗的な形によってではあるが(1945年、講演会と討 論の形態を指しているのだろうか? 引用者註)サルトルの主著『存在と無』を一 歩超えた内容だそうです。
かの国フランスではサルトル復興の兆しありとも仄聞しますが、この国日本ではサ ルトルに言及されることは、ほとんどないようですね(苦笑<追記:その後調べたら、そうでもなかった。私の不勉強でしたので訂正します>)。
講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズにも、カフカやハイデカーは取り挙げ られていますが、サルトルはありません。
サルトルの射程の限界なのか? たった50年足らずで、思想が「消費/流行」され てしまうのですね。
そこで、改めて「主体性」「自由」「責任」「行動」について、サルトルを鏡とし て吟味したいと思います。
なおテクストは増補新装版が出ていますが、古書で探せば旧版が見つかると思いま すので、それでもOKです。




<第28回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年03月17日(日)午後2時より5時まで、その後二次会」に突入。
テキスト:死にいたる病」桝田啓三郎訳、『世界の名著40 キルケゴール』(桝田啓三郎[編]、中央公論社)所収。または、『死に至る病』斎藤信治訳、岩波文庫
参考文献:工藤綏夫『キルケゴール 人と思想19』(清水書院)
報告者:中島洋治




<第27回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年02月17日(日)午後2時より5時まで、その後二次会」に突入。
テキスト:ハイデガー著『存在と時間』(ちくま学芸文庫版・上巻) 序論「存在の意味への問いの提示」p25〜101
参考文献:参考文献集(中山元さんのWeb「ポリロゴス」より)        http://nakayama.org/polylogos/philosophers/heidegge.htm
報告者:田中俊英




<第26回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2002年01月27日(日)午後2時より5時まで、その後「新年会」に突入。
テキスト:メルロ=ポンティ「表現としての身体と言葉」(『メルロ=ポンティ・コレクション』ちくま学芸文庫・所収)
参考文献:木田元『現象学の思想』(ちくま学芸文庫)
        鷲田清一『メルロ=ポンティ』(「現代思想の冒険18」講談社)       
報告者:野原 燐




<第25回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年12月02日(日)午後1時より、その後「忘年会」に突入。
テキスト:フッサール『デカルト的省察』の内、第5省察「モナド論的相互主観としての先験的存在領域の解明」(岩波文庫版『デカルト的省察』)
参考文献:木田元『現象学』(岩波新書)、竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)、西 研『哲学的思考―フッサール現象学の核心』(筑摩書房)
報告者:山口秀也




<第24回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年10月21日(日)午後2時より
テキスト:野口勝三「クィア理論とポスト構造主義」
       (「QUEER JAPAN3巻・特集/魅惑のブス」掲載/勁草書房)
参考文献:竹田青嗣「<差延>と<根源>」(竹田青嗣『意味とエロス』ちくま文庫所収)
       神名龍子『「クィア」の終焉 』http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign51.html
報告者:田中俊英・黒猫房主
***わたしはこの論考で現在クィア・スタディーズが「形而上学的思考」をそ の中心に保持しているという事態について明らかにしてきた。それは「外部」 の思考をその本質とする「性差の解体」や「セクシャリティの装置からの脱 出」のようなテーゼのことであった。このことは現在のクィア・スタディーズ の多くが、これらのテーゼに基づいて積み上げられているということを示して おり、この前提が「形而上学的観点」を含んでいるということは、わたしたち が一切を最初からやり直さなければならないという事実を表しているのであ る。***(「クィア理論とポスト構造主義」P216より)




<第23回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年09月16日(日)午後2時より
テキスト:バタイユ著「エロティシズム」の序論及び第1部「禁止と違犯」第1章〜第9章、
第13章(「ジョルジュ・バタイユ著作集」第7巻・二見書房)
報告者:加藤正太郎




<第22回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年07月22日(日)午後2時より
テキスト:フロイト「自我とエス」(『自我論集』ちくま学芸文庫、p201-p272)
参照文献:『ヒトはなぜ戦争をするのか? アインシュタインとフロイトの往復書簡』花風社
       「死とナショナリズム」柄谷行人(『批評空間』U−15太田出版、p35-p50)
報告者:村田 豪
「快感原則の彼岸」を通読したのですが、あまり面白くありませんでした。生物学的なモデルを使った考察・比喩が大部分をしめていて、しかも推測の域をでない議論が延々と続くので、腹ぺこで議論するのにあまり適していないように思えます。というわけで、思い切ってテキストを変更させていただきます。
「快感原則の彼岸」の続編となる「自我とエス」にします。
フロイト自身が冒頭で解説しているように、「精神分析」の枠組みのなかで「死の欲動」を考察しているので、こちらのほうが今回の主旨にふさわしいかと思います。ただし、「快感原則の彼岸」も興味深い部分はあるので、報告者が簡単に解説するつもりです。すでに「快感原則の彼岸」を読まれた方には、たいへん 申し訳ないのですが、何とぞご容赦願います。




<第21回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年06月17日(日)午後2時より
テキスト:T・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)
参照文献:トーマス・クーン「パラダイム再考」(『本質的緊張 2』(みすず書房)所収)
報告者:中島洋治
トーマス・クーンは、「パラダイム」という哲学上の術語を、『科学革命の構 造』という著作のなかで作り出しました。
しかし、同書では、パラダイムという語は非常に多義的に使われています。 それを同書の「補章」や上記「パラダイム再考」を参考にして整理しつつ読め たらいいのですが・・・。

クーンの思想からは、少なくとも、(知識)社会学の方向と、(自然化され た)認識論という方向を読み取ることができます。
認識論(epistemology, theory of knowledge)は、ギリシャ語・英語では、 知識に関する理論(ロゴス)を意味し、知識論、知識哲学とも訳されます。 (もちろん認識論は存在論と切り離せないのでしょうけど。)

『科学革命の構造』は、我々が何を知識とし、何をもって正しいまたは真であ るとしているのかを考えるによい本だと思います。
その意味では認識論の流れから読むことが可能です。
この本は、私が何かを信じている、その根拠について反省を促してくれます。 哲学は、本当はそれを意識するための強力な理論を提供してくれるのかもしれ ませんが、しかし私にとっては、それがそんなに簡単にいくわけがありませ ん。
哲学者の中でもクーンは、科学史をデータ(いわば経験的事実)にするという 方法を貫こうとする、地道な姿勢を感じます。それは一つの大切なやり方です。

クーンはいわゆる「分析哲学」の流れとはちょっと違う位置にいるのではない でしょうか。
言語論的転回後に言語論的な展開(語呂がいいですね)を行うというよりも ずっと彼は科学史学者だったのかもしれません。
彼の方法は、もちろん内観的なものではないですし、論理分析を中心にしてい るのでもありません。
しかしまた、そのいずれとも対抗(敵対)するとは限らないと思います。

・・・ただ、文章自体は多くの哲学書にくらべれば平易なのでしょうが、論考 のベースには科学史があるため、それを知らない私にはとても難しいです。 (T_T)




<第20回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年05月20日(日)午後2時より
テキスト:ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』(中央公論社「世界の名著64:ベルクソン」所収)
             または『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫)
報告者:大北全俊
今月の哲学腹ぺこ塾についてですが、読む箇所を絞り込みましたので、お知らせします。
『道徳と宗教の二つの源泉』(中央公論社)(岩波文庫も同じ節わけをしているものと予想しておりますが、多少の異同はあるかもしれません。)
「社会の秩序と自然の秩序」P219、「閉じた社会」p241、「神的人間の招き」p245、「情動と創造」p252、「正義」p281、「躾と神秘的生」p309、です。
もし余裕があれば、「解放感」p264、「前進」p265、とりわけ、ベルクソンの「癖」を知りたければ、「主知主義について」p296、をお薦めします。




<第19回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年04月15日(日)午後1時より
テキスト:「La Vue」5号&「カルチャー・レヴュー」15号16号
今回は、「哲学的腹ぺこ塾」の例会と合評会を合同で行います。




<第18回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年03月25日(日)午後2時より
テキスト:ジャック・デリダ著「第1部 正義への権利について/法(権利)から正義へ」
          (『法の力』法政大学出版局・所収)
参照文献:高橋哲哉著『デリダ』講談社
報告者:田中俊英
「決定の、決定可能性と不可能性の間について/我々はどこで決定するのか」
僕はテクスト・クリティックは苦手です。デリダを紹介するのに僕のこうした傾向は致命的かもしれませんが、テクスト・クリティックが苦手な故に語れることもあると思っています。それが、我々の日常の中で日々起こっている「決定」に関する問題系だと僕は考えています。
僕が勝手に認識しているのですが、デリダは「決定」に際してかなり「使える」テクストではないでしょうか。こんなこと言うと、デリダに怒られるのは見え見えなんですが、僕は自分の仕事のなかでかなりデリダのお世話になってきました。デリダよごめんなさい、あなたは僕の「決定」に関するバイブルです。というような話ができたらおもしろいですね。




<第17回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年02月18日(日)午後2時より
テキスト:シモーヌ・ヴェイユ著作集第5巻(春秋社)『根を持つこと』の第一部「魂が要求するもの」のなかの「自由」「責任」「言論の自由」「真実」の四つの個所。特に中心は「言論の自由」の個所で、他の三つの部分は、それを補う形にします。
参照文献:カント『啓蒙とは何か』岩波文庫(理性の公的使用と私的使用の部分を特に)と、ハンナ・アーレントの『人間の条件』(ちくま学芸文庫)の第2章「公的領域と私的領域」。
報告者:栗田隆子
去年の6月に引き続き、またヴェイユを発表することにしました。
今回は、言論の自由というテーマを中心に私的・公的という領域の問題、 さらに教育の問題にもつなげて、考えられればいいと思っています。
今までのはらぺこ塾での話題とも関連させていきたいです。




<第16回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2001年01月28日(日)午後2時より
テキスト:M・フーコー「ニーチェ・系譜学・歴史」
     (『ミシェル・フーコー思考集成4』筑摩書房、5800円、所収)       
参照文献: http://www.nakayama.org/polylogos/philosophers/foucault/
(中山元さんにサンクス)
報告者:山口秀也




<第15回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年11月19日(日)午後2時より
テキスト:アリストテレス『心とは何か』(講談社・学術文庫)
参照文献: http://nakayama.org/polylogos/philosophers/aristote.htm
(中山元さんにサンクス)
報告者:中原紀生
敬して近寄らず、食わず嫌いだったアリストテレス。それはたぶん、子供時代 の読書体験の残響だろう。偉人伝、たとえばガリレオの物語では、中世のアリストテレス的宇宙観など愚者のたわごとでしかなかった。実はこの「的」というのが曲者で、そこにはデカルトとデカルト主義、マルクスとマルクス主義はまったく別物だといった事情以上の断絶があるに違いない。『霊魂論』ではなくて『心とは何か』。この新鮮な、現代的といってもいい新訳でもって、「心」について論じた「歴史上最初の書物」(訳者解説)を堪能してみたい。




<第14回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年10月15日(日)午後2時より
テキスト:榎並重行『ニーチェって何?』(洋泉社新書y)
参照文献:http://nakayama.org/polylogos/philosophers/nietzsch.htm
(中山元さんにサンクス)
報 告 者:野原 燐
今年出た『ニーチェって何?』榎並重行/洋泉社新書y/680円はいいと思う ので、推薦したい。
ニーチェの真実を解明し分かりたい、と思っているのか、きみは。そのような 態度こそが問題だ、とニーチェは指摘したのだ、と榎並は語る、冒頭で。
「われわれがいかにわれわれのやっていること、われわれ自身の知っているこ とについて、問わないか、疑っていないか、そのことをニーチェは摘発し」 (p10)続けた。つまりニーチェは大事なこと言ったみたいだから、知らないから勉強したーい! という動機自体を否定しようとする。

  すべての事物の照明と色彩が変化した! われわれは、もはや、
  昔の人間たちが最も親密なものともっとも頻繁なもの――
  例えば、昼と目覚め−−をどう感じていたのか、まったくわから
  ない。昔の人間たちは夢を信じていたため、覚めた生活は別の光
  を持った。そして、同じく人生全体も、死とその意義の反射によ
  って。われわれの「死」はまったくべつの死だ。

                    (ニーチェ『知識』152)

わたしたちの生の機軸たる価値は造られたものだ。それを皆が受け入れたと き、わたしたちは価値を失いニヒリストになるのか。そうであればそうならな いために天皇でも大事にするのか。そうではないだろう。

それはニヒリズムではない。
それをいうために、ニーチェから少し離れるが、竹村和子を引用しておこう。

「自分自身に対してであれ他者に対してであれ、アイデンティティを分節化する、その瞬間、瞬間に、自己のアイデンティティの脱分節化に向き合う」その 持続的な強度が、わたしのよろこびでありうるのだ、ということが大事なのだ と思う。(引用は 『思想』7月号 p54から)
   われわれはわれわれに知られていない。(ニーチェ)
例によって半端な文章に成りましたが、本書良いと思います、という発言でし た。

追記:(ひとりごと)
「わたしは欺きたくない、自分さえも」(同書p146)と野原は思っているよう だ。それって道徳的なことなのか?
うーん。

    趣味の事項に関して裁判官の役目を果たすためには、我々は
   事物の実在にいささかなりとも心を奪われてはならない、要
   するにこの点に関しては、あくまで無関心でなければならな
   いのである。(カント『判断力批判』p73)


を読んだときには笑ってしまったが…




<第13回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年09月17日(日)午後2時より
テキスト:I・カント『判断力批判』岩波文庫版、あるいは「カント全集」版も可)
           岩波文庫版・上巻の第一部・第一編・第一章「美の分析論」の「趣味判断の第
           一様式」(岩波文庫p70-p83)と「趣味判断の第三様式」(p100-p129)ですが、
           文庫版は現在絶版です。カント全集新版では、8巻のp55-p65とp78-p100を
           対象とします。
参照文献:http://nakayama.org/polylogos/philosophers/kant.htm(中山元さんにサンクス)
報 告 者:村田 豪




<第12回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年07月16日(日)午後2時より
テキスト:ヴァルター・ベンヤミン「運命と性格」
     (ベンヤミン著作集1巻『暴力批判論』所収・晶文社版
      あるいは、ちくま学芸文庫版・岩波文庫版でも可)
参照文献:http://nakayama.org/polylogos/philosophers/bemjamin.htm(中山元さんにサンクス)
報 告 者:F




<第11回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年06月18日(日)午後2時より
テキスト:シモーヌ・ヴェーユ「神への愛と不幸」
     (シモーヌ・ヴェーユ著作集4巻『神を待ちのぞむ』所収・春秋社
参照文献:http://nakayama.org/polylogos/philosophers/weil.htm(中山元さんにサンクス)
報 告 者:栗田隆子
事前レジュメ  Simone Weil 『神への愛と不幸』

1. Simone Weil 略歴紹介

1909 パリに生まれる。(兄は数学者のアンドレ・ヴェイユ)
1910 1月重病を患う。以降11カ月闘病。以降全生涯に渡り虚弱体質に苦しむ。
1921 偏頭痛の発作が始まる
1923 能力の凡庸さに絶望して自殺を考えるが、この時期を経て願望の効能を 確信する。
1925 リセのアンリIV世校に入り、哲学者アランと出会う。以降この師弟の 関係は、思想の上でも人生の上でも影響しあうこととなる。
1930 エコール・ノルマル・シュプリエール卒業、頭痛の発作が激化。
1931 グレガシオン取得。ル・ピュイの国立女子高等学校の教授に任命。 この頃革命的組合主義者のグループに接触。
1933 ロシア革命が失敗したものとして論ずる。「われわれはプロレタリア革 命に向かっているのか」
1934 「自由と社会的抑圧のための諸考察」完成 「個人研究」のための一年 の休暇を申請。
    12月アルストン工場のプレス工となる。「奴隷の刻印」を押されたと表 現する経験をする。
1935 工場体験を終える。直後「キリスト教との第一の出会い」
    キリスト教はすぐれて奴隷の宗教であると直観する。
1936 スペイン市民戦線に義勇軍として参加するためスペインに入国(が、す ぐに事故により帰国)。
1940 パリ陥落。ヴィシーヘと避難する。
1941 農民哲学者ギュスターヴ・ティボンのもとで農作業に従事(ユダヤ人政 策の一環)。
1942 『神への愛と不幸』他多数の論文を執筆。亡命のため、アメリカ、ニュ ーヨークへ渡る。だが、フランスへ帰国する願望が強く渡航するため に、まずイギリスへの潜入を試みる。
   11月イギリスへ到着(このあと四ヶ月間多数の論文執筆)。
1943 4月、急性肺結核のため意識不明になり入院。8月24日、病気療養中も 食事を拒否したことから、衰弱死。

2.『神への愛と不幸』について

これは1942年春マルセイユで書かれ、亡命のための出国(1942年5月17日)の 数日前に、信仰上の指導者ぺラン神父に託された随想である。
ダヴィ(*)は、この随想について「『神をまちのぞむ』の中で、不幸に関す るページは、この主題について今日までに書かれたもっとも美しいものであ る」と述べているが、不幸論として最初の結実である。(15)

2-1 一般的な(と栗田が捉える)<不幸>の概念についての解釈
彼女は思弁によって<不幸>に関する体系的な思想を形成した作家ではない。 1930年代の労働問題・政治問題に自ら進んで参加し、その主体的な経験によっ て問題の回答を探求した実践的な思想家である。(3)

彼女はその生涯を通じてつねに、他者の苦痛を見聞するや否や直ちにその痛み を分かつ人間となった。そういう<不幸>の経験の頂点に1934年から1935年に かけての工場生活が位置することには、おそらく誰も異存があるまい。(10)

(しかし)工場生活それ自体の中では使用されなかった<不幸>という語が同 一の工場経験を反芻しつつ語る時期になって、六年ないし七年の時期を経過し てから初めて現れている。(同上)

<=<不幸>という言葉すら出なかったということ。「言葉がない」という状態 をヴェイユ自身が経験したということが,それまでヴェイユの想像を絶する状 態だった。この事実は、シモーヌ・ヴェイユにおける<不幸>の経験が単に形 而下的(phisique)な経験の時期と、これを反芻して思想にまで昇華させてゆ く形而上学的(meta-phisique)な経験の時期とに分かれていることを暗示し ている。<不幸>という用語の有無が標識となり、彼女の経験はいわば、体験 記と反芻期とに区別されることが考えられる。=>『神への愛と不幸』はまさ にこの『反芻期』の論文といえる。(11)

(以上参考資料 大木健『シモーヌヴェイユの不幸論』勁草書房。括弧内の数 字はページ数)* シモーヌヴェイユ研究者として著名。
著作として『シモーヌヴェイユ入門』(勁草書房)『シモーヌヴェイユの世 界』(晶文社)がある。
<<この「体験」とそれを反芻して生まれた「言葉」との関係を「不幸」という 言葉をキーワードとしてテキストを読んでみたい。それは、前回のテキストの 「サバルタンは語ることができるか」というところで、問われた「言葉」と照 らし合わせて読んでいくと、多様な「読み」が実現されるのではないだろう か。>>

3.読書会の際のキーワード

「不幸(malhereux)」「同意」
「接触(contact)、もしくは触れること(toucher)」
「彼ら(不幸な者)に起こったことを表現する言葉を彼らは持たない (avoir pas de mots pour exprimer ce qui leur aririve)」
レジュメを掲載しました。



<第10回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年05月21日(日)午後2時より
テキスト:G.C.スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)
参照文献:『現代思想』の98年7月号<スピヴァク特集>
報 告 者:野原 燐
スピヴァクは、ポスト構造主義者にして、マルクシストで、フェミニスト という矛盾した存在です。なかなか面白いひとだと思います。

(1)中心的には、第4章(P72〜p116)の部分をやります。サティー(寡婦 殉死)という具体的出来事がとりあげられている部分です。
(2)時間が余れば、第1章(p3〜p29)の部分もやりたいです。フーコー/ ドゥルーズ批判の部分です。
(2−2)ここで取り上げられているテキストは「知識人と権力」という題の 対談です。
『現代思想』1973年3月号または『杼』第四号 1985年に翻訳があるそうですが、いずれも入手できていません。お持ちの方は連絡して欲しいと思います。
(2−3)何もないのでしかたなく、参考までにドゥルーズの文章(語り)を 添付します。(文責・野原燐)
(付録)
――あなたはミシェル・フーコーに向かって、こんな発言をしておられます。 「あなた(フーコー)は、『他人にかわって語るのは下劣だ』という、とても 重要なことを教えてくれた最初の人間だ」、と。これは一九七二年の出来事で すが、あの頃はまだ六八年五月の余熱をとどめた時代でした(六八年五月につ いて、あなたは今度の本のなかで「ある種の分析を読むと、六八年はパリに住 む知識人の頭のなかでおこったことにすぎないと思われるかもしれない」と書 いておられる)他人にかわって語るのではない、ということの尊厳こそ、知識 人の態度であるべきだ――あなたの発言は、そういう意味だったのではないか と思います。知識人は口をつぐんでしまったと新聞が書きたてている今日この ごろですが、いまでもなお、同じ表現で知識人のあり方を規定なさいますか?

ドゥルーズ――ええ、表象=代理の批判を徹底させた現代哲学であってみれば、他人を代弁することを拒絶するのも当然でしょう。「なんぴとたりとも否定できない」とか、「万人が認めざるをえない」といった言葉の後にはかなら ず虚偽かスローガンがひかえているということを、私たちは熟知しているので す。六八年を体験したあとでも、たとえば監獄をとりあげたテレビ番組であら ゆる人の話を間く、判事、看守、面会に来た女性、一般人など、あらゆる人に 話してもらうというのに、肝心の囚人や監獄生活の経験者にはしゃべらせない というのは、ごくふつうにおこなわれたことです。さすがにそんなこともやり にくくなりましたが、それは六八年によって獲得された、人びとが自分のため に語るという態度のおかげなのです。
これは知識人にも当てはまる。フーコーはこう述べています。知識人は普遍的 であることをやめ、特殊になった、つまり普遍的価値の名において語るのではなく、みずからの能力と立場に応じて語るようになったのだ、とね(フーコーによると、この変化は物理学者たちが原爆反対に立ち上がったところに端を発しているとのことです)。医師が患者を代弁する権利をもたず、医師は医師の立場から、政冶問題、法律や産業の問題、そして環境問題などについて語る義務をもつということは、六八年がもとめていたような、たとえば医師と患者と看護人を団結させる集団が必要になる状況と同じです。
つまり多声的な集団ですね。フーコーとドゥフェールが編成した監獄情報グループも、やはりそうした集団のひとつでした。この種のグループを、他人の名において語ることを強いてくる階層秩序型の集団と区別するために、ガタリが「横断性」という呼び名を使ったわけです。ちなみにエイズ問題にかんして、ドゥフェールが受け入れと情報提供と闘争をかねたグループを組織しています。さて、それでは他人を代弁するのではなく自分のために語るということは、いったいどんな意味をもつのでしょうか? もちろん、これは誰にでも真実を語る瞬間があるというのでもないし、回想録を著したり、精神分折を受けることがあるというのでもありません。一人称の奨励とは違うのです。そうではなくて、心身両面の非人称的な諸力を名ざし、それに挑み、それと戦うということなのです。なんらかの目標を達成しようとこころみても、目的を自覚するには戦いのなかに身を置くしかない。だから、ほかにどうしようもないのです。その意味では、存在自体が政治の色合いをおびてくるわけです。
(「リベラシオン」1986年9月2日〜3日)『事件と記号』p146より



<第9回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年04月15日(土)正午より
テキスト:J・ラカン『神と女性(/)の快楽』(「現代思想」1985年1月号<特集=フェミニズム以後>に掲載)
参考文献:下記のWebを参照ください。(中山元さんにサンクス)
http://nakayama.org/polylogos/philosophers/lacan.htm
なかでも、新宮一成・著『ラカンの精神分析』(講談社新書)は、入門書としては手頃かと思います。
報 告 者:加藤正太郎
前回で採り上げたラカン批判派の精神分析家であるイリガライの関連で、 「<女性>は存在しない」というラカンを検証しようという次第です。 加藤さんの緻密なテキストクリティックが愉しみです。
諸般の事情により、定例の第3日曜日を変更して、前日の土曜日といたします ので、お間違いないようにご注意ください。(文責・山本繁樹)
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<第8回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年03月19日(日)午後2時より午後9時頃まで(二次会を含む)
テキスト:L・イリガライ『ひとつでない女の性』(勁草書房)
報 告 者:田中俊英
ラカン批判派の精神分析家であるイリガライを取り上げたいとの、たっての田 中氏の希望により、フェミニズムにおけるイリガライの視線=位置を検討して みたいと思います。
なお今月例会は、午後2時から9時までといたします。開始時間を、従来より1時間遅らせますので、お間違いなきように願います。(文責・山本繁樹)
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<第7回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年02月20日(日)午後1時より午後9時頃まで(二次会を含む)
テキスト:ヒューム『人間本性論』(中公バックス版)
報 告 者:平野 真
私が学部生の頃(1976年)に翻訳が出た『シャトレ哲学史4 啓蒙時代の哲学』(白水社)の中で、ドゥルーズはヒュームの哲学はSFでありポップ哲学であると言っています。その後にも、ドルーズは『ヒュームあるいは人間的自然―経験と主体性』(朝日出版社/現在は、河出書房新社より再刊)でヒューム論を出しています。
どこかでヒュームを気に懸けながら読む気力を持ち得なかった私にとって、今回、ヒュームをテキストにしたのは、個人的には僥倖です(大袈裟か)。平野さんによる報告も「ポップ哲学とは何ぞや」みたいな線で、行っていただけるようです。またヒュームの『自然宗教に関する対話』(ウニベルシタス)にも言及していただけるようです。(文責・山本繁樹)
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<第6回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:2000年01月16日(日)午後1時より2時間程度 その後、新年会に突入。
テキスト:デカルト『方法序説』(岩波文庫版)
報 告 者:村田 豪
永井均<自我論>から始まったこの会は、カント、ルソーと遡行して、遂に 「近代哲学の父」デカルトに辿り着きました。
デリダリアンの村田さんによる「方法序説」における「合理主義=理性主義」の再・解読は、たぶんスリリングでしょう? 乞うご期待。(文責・山本繁樹)
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<第5回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:99年11月20日(土)午後1時より2時間程度
テキスト:ニーチェ『道徳以外の意味における真理と虚偽について』(「ニーチェ全集」白水社版)
報 告 者:山口秀也
第2回例会で問題にした永井「道徳」に関連して、ニーチェにおいて重要な論 文と言われる上記のテキストを、山口さんに解題していただきます。(文責・ 山本繁樹)



<第4回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:99年10月17日(日)午後1時より2時間程度
テキスト:J・J・ルソー・著『人間不平等起源論』(岩波文庫版)
報 告 者:黒猫房主
ルソーは、「自然状態」という方法概念(状況設定)から仮説的・条件的推論(「自然科学」の実験方法をモデルにして)を駆使して、なぜ「政治的不平等」が生まれて行くかを明らかにしていく。
そこでは、「制度」がまさしく「自然」に対して「約束事」であることから、「在るべき」状態(後の「社会契約論」)への考察の序章として、本書は展開されているだろう。
ルソーは、後のカントやヘーゲルに大きく影響を与えた「近代」思想の継承・批判者である。
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<第3回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:99年9月19日(日)午後1時より2時間程度
テキスト:カント・著「理論と実践」(『啓蒙とは何か』所収・岩波文庫)
報 告 者:加藤正太郎
「道徳においては、理論にとって正しいことはすべて実践にも当てはまらねばな らない」とカントはいうのですが、この意味するところについて、なんとか考え をめぐらせてみたいと思っています。
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<第2回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:99年7月11日(日)午前11時より2時間程度
テキスト:永井均・著『<子ども>のための哲学』(講談社新書)の後半(110頁から)
報 告 者:田中俊英
同書後半の<倫理もんだい>を、田中さんがニーチェに絡ませて報告します。
参考文献として永井均・著「これがニーチェだ」(講談社新書)、永井均著『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)、永井均/小泉義之・共著『なぜ人を殺して はいけないのか?』(河出書房新社)を挙げておきます。できるだけ論点を絞りたいと考えています。
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<第1回『哲学的腹ぺこ塾』>

日  時:99年6月13日(日)午前11時より
テキスト:永井均・著『<子ども>のための哲学』(講談社新書)の前半(108頁まで)
報 告 者:黒猫房主
永井の展開する<独我論>について報告します。
なお、永井<独我論>の補助線的参考文献として
勝守 真・著「他者の語りとしての<私>論―永井独我論の脱構築」(「現代思想」98年1月号<ウィトゲンシュタイン>に掲載)
「自己と他者」(叢書<<エチカ>>B/昭和堂・刊/本体2500円)所収の、森岡正博・著「この宇宙にひとりだけ特殊な形で存在することの意味―「独在 性」哲学批判序説―」は重要です。(この論文は、現在下記のHPでも読めます。http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/library01/kono01.htm)
因みに、同書に所収の永井均の「独在性と他者―独我論の本質―」は、現在、永井均・著『<私>の存在の比類なさ』(勁草書房・刊/本体2500円/98年2月25日初刷)にも収録されています。この論文集の内容は『<子ども>ための哲学』(講談社新書/96年5月20日初刷)より以前のもので、現在、その<独我論>の立場に変更はないようです。
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