「哲学的腹ぺこ塾」読書会のレジュメ

■ 第2回
■ テキスト:「〈子ども〉のための哲学」(永井均著・講談社新書)
       ●第2の問い「なぜ悪いことをしてはいけないのか」
■ 日  時:99年7月11日
■ 報 告 者:田中俊英

 新書版というお手軽な見かけとは正反対に非常に難解なこのテキストについて、まずはその要旨をまとめてみる。あっちこっち論点がバラバラなように見えて実は計算された流れがあり、けれどもこのテーマは永井自身どうやらまだ未完のようで(とりあえずの結論はあるのだがその次に現れた問いを出しっぱなしにして終わっている――4のラスト)、論中には重複や反復がやはりあるような気がする。しかしその点を明確に示すのが難しい。
 第2の問い(第1の問いは言わずとしれた永井独我論)は「なぜ悪いことをしてはいけないのか」「なぜ善いことをすべきなのか」である。ここで注意したいのは、「してはいけない」「すべき」という行為・規範的な問いだということ。「善悪とは何か」という直接その意味を問うものではない。いわば、whatではなくmust的な問い。これはそのあともずっと僕が気になる点だ。だがいちいちこだわっていてはレジュメとして成り立たないので、以下、とりあえずまとめていく。

1.もうひとつの問題
●問題のはじまり
 この問題ははじめから他の子ども(永井の友人)たちにも理解された。しかしそこにズレがあるのに気づく。多くの子どもたちは道徳に普遍性がないことに問題を感じるが、永井の問いの質は違うと感じていた。中学3年生時に精一杯ひねり出したのが「功利主義的」な考え。人々が「好い」と感じる状態をつくりだす行動が「善い」こと、その逆が「悪い」ことという考えだ。「人が好いと感じたり嫌だと感じたりする内容はさまざまだが、だいたいにおいて一致する」という確信を持った。
●好いと善い、嫌なと悪い当時は気づかなかったが、実は上の考えには重要な発見がある。それは、「道徳的な善悪は、道徳外的な好悪(好いことと嫌なこと)に依存している」ということ。しかし、言語において「好悪」と「善悪」は同表現なことが多い(goodとbad、ネーゲルの本に対する学生の反応、倫理学の教科書等)。これが混乱の原因だ。
 ではなぜこういう混乱が起こるのか。多くの場合、道徳的に悪いことはまた嫌なことであり、道徳的に善いことはまた好いことだから。善悪は好悪に包み込まれている。
 しかし実は包み込まれていない、と永井。「悪いことは(少なくともそれをする当人にとっては)普通に好いことであり、善いことは(同じく当人にとって)たいてい嫌なことである」。この「単純な事実」は「非常にしばしば、隠され、ごまかされ、否認されている」。これに気づいたのはニーチェであるが、彼は、善悪を好悪からではなく「優劣」からの転化とみなした。優劣はことがらの一面でしかない(この部分、最後の「感想」で考察)。
●僕のほんとうの問題
 問題は「何がよく何が悪いか」という基準の問題ではない(このあたり、後述するが田中はひっかかる)。「ほんとうの問題」は、「なにごとかが善いこと(悪いこと)であるということと、それをしなくてはいけないということ(してはいけないということ)とを直結させ、それをしなかった人を(した人を)非難すること」だ(ほんとうの問題・)。冷静に考えれば、道徳的に悪いことはそうたいしたことでないのではないか。「善いこと」が、なぜ「しなくちゃいけないこと」になるのか(4で一応の答えが示される)。
●授業中におしゃべりをしてはいけない
 殺人者は、殺人が道徳的に悪いことだということを知っているだろう。だが殺人をしてしまったということは、道徳的根拠を凌駕するようなもっと強い動機を持ったからだろう。道徳は考慮された上で捨てられたのだから、それが道徳的に非難されることがどうしてできるのか(ほんとうの問題・)。
●善いことをする動機の問題
 ではいったい人はどうして善いことなんかをするのか(ほんとうの問題・)。ひとつの答えは、道徳に従うことが自分にとって有利になるから。こう考えると、道徳的行為も利己的観点からの一戦術に過ぎなくなる。

2.だれも教えてくれなかったこと
●道徳の限界
 ほんとうの問題・に対する答え。――真剣な道徳的説得が必ず人の心を捉えるはずだというのは、〈うそ〉ではないか。「この〈うそ〉を信じている人は、それを信じていない人に対して無力であり、せいぜいのところ、ただ『軽蔑』とか『侮辱』という武器で対処できるだけだ」(〈うそ〉のより詳しい分析は4に)。
●人間はみんな利己主義か
 ここで「動機」に関しての、「道徳的行為は利己的観点から選ばれた一戦術にすぎないのでは」という1のラストで出た答えについての考察が行われるが、ここはかなり難解。しかし、哲学的説明は難解だが、テーマを理解するうえではそれほど重要ではないと田中は思う。
 例を出して「戦術」を考察(学校に行かない、強盗に脅される銀行員、溺れかけている人を助ける)し、人間はみんな利己主義者で自分にとって好きなことしかやらないのかどうかを考える。そしてこれは、論理的なところで考える必要性があるだろう。
 論理的とは、この問題が「経験的事実を述べたものか」か「経験に先立つ枠組みを述べたものか」(いちおう先験的とする)ということだ。経験的であれば「この原理に従わないケースもある」し、先験的であれば「この原理に例外はない」。先験的利己説をとると経験的利己説は主張できなくなる。
 経験的の場合、利己的でない人間もいる可能性もあることから、「道徳性と対立する利己性」であるとも言える。だから「人は道徳的であったり利己的であったりする」(「私にとっては好いことなんだけど、悪いことだからやらない」と言うことができる)。  先験的の場合、利己性の中に道徳性を包み込んでいるので、「人は道徳的であることにおいてなお利己的」。たとえば「私にとっては好いことなんだけど、悪いことだからやらない」のは、悪いと(利己的かつ道徳的に)思うことによって、それが私にとって(利己的に)嫌なことに変化してしまったから。
●大人の立場から
 しかし、これだけでは言うことができたり説明できたりするだけで、さらにその上に「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問いがたてられてしまう。そこで今度は人柄や好みの水準の話になり、わかりやすくするめに「親の立場」で考える。親は子どもを育てるとき、「善いと思うことでそのことがしたくなりがちな(悪いと思うことでしたくなくなりがちな)人に育てようとすることが多い」。なぜか。
 社会全体から見ると、「善いことをしがちな世の中のほうが、その逆の世の中よりも、みんなにとって好いに決まって」おり、そうすると、世の中にとっての好さ(社会の利益)を代弁するものとして親が現れるのは当然のことだ。なぜなら親自身がその世の中の一員だから。そして子どもの善い行動から利益を受ける世の中の人々の一人だから。
 ところで道徳という制度は万能ではなく、道徳的行動をするかしないかを識別する能力を持つことこそが、人間にとって有利なはずである。しかし親はそうは教えない。そういう「損得計算ができる人間」に子どもがなってしまうと、親にとって不利になるからだ。そして、たいていの親は利己的で愛情深くないので、道徳的な人として(親や社会にとってつごうのいい)子どもを育てる。
●子どもの立場から
 上に気づいてしまった〈子ども〉からすると、「道徳的に善いと思うとそれがしたくなりがちな(悪いと思うとしたくなくなりがちな)人にならなくちゃいけない理由もない」ということになる。そのことは、世の中の多くの人たちが「はじめからちゃんと知っているらしいのだ!」制限速度と同じで、道徳は「あらかじめ少し高めに設定されていて、それに杓子定規にしたがったりしてはいけない」。カントのほうが「道徳的狂気」だ。

3.まやかしの必要性
●つりあいの善さ 現実には、道徳を永久に「考慮に入れ」続けることもなく、どこかでつりあいがとれている。このつりあいは、普通は自然にできているつまらない事実であるが、やはり実現すべき規範であり、微妙な課題だ。
●言葉の問題
 「法律に違反しなければ何をしてもいい」という主張は、道徳的観点や主張を超え出る主張だ。この観点は不道徳だが、もう道徳は考慮に入れられているので道徳的に批判できない。「道徳というものは、常により高次の観点から利用することができるものなのだ」(詐欺師の例)メタ道徳とも言えるか?
 詐欺師や「法律に違反しなければ〜」と言った人や火事場泥棒は、この高次の観点、メタ道徳の位置から道徳を眺めている。しかし、ラスコーリニコフやボランティアの若者たちは道徳内にいる(ボランティアは道徳内にいるからこそメディアの援護射撃を受けることができた)。
●倫理学への失望
 倫理学はすべてつまらなかった。倫理学は教義学であり、ひとつのイデオロギー。このイデオロギーは「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問題を認めない。それは根本前提だからだ。つまり、倫理学は「それ自体が道徳的な学問」である。
 けれども、こういうものがなくては「人間は自然な同情心を超える範囲まで、自分にとって好いことと世の中にとって好いことを重ね合わせる動機が持てない」。だからそれは「必要な〈うそ〉」「善なる嘘」(ニーチェ)なのだ。法律は権力を背景とするからうそはいらないが、道徳にはこういうまやかし=〈うそ〉が必要だ。
●ニーチェと青年の哲学
 このことにだれもが気づくと世の中は今より悪くなるだろう。それはあくまで「真理」として語られねばならない。道徳的言説とは一般にそういうものではないか(ニーチェと「裸の王様」の例)。

4.僕が感じていた問題のほんとうの意味
●2つの文体(略)
●〈子ども〉の哲学者ニーチェの洞察
 以上のような議論をすると、2種類の反応「なぜそんな当たり前なことを言うのか」と「なぜそんなとんでもないことを言うのか」というふうに、なぜ分かれるのだろうか。それは、現にある概念体系(世界解釈)が2種類あるからだ。それは、「道徳的な善悪を基本とする概念体系」と、「道徳外的な好悪を基本とする概念体系」の2つ。
 後者からすれば、道徳はすべて道徳外的な価値(みんなの安全や幸福等)を実現するための制度だ(この言い方からも、永井が道徳を「善悪」「正誤」の問題に絞っていることがわかる)。しかし前者からすると、その見方自体がすでに道徳的に悪になる。
 重要なことは、道徳的世界解釈(前者)から見ると、その外部にある道徳外的世界解釈(後者)は「道徳的世界解釈の内部での悪」に見える。逆に、道徳外的世界解釈から見ると、道徳的世界解釈は「道徳外的世界解釈の内部で道徳外的価値を実現するための一機構」のように見える。そして、両者はお互いの言葉を理解できない。
 なぜ2つの世界解釈が成立したのか。3の「まやかしの必要性」だけでは説明できない。第2段階が必要なのだ。それは、「まやかし的な側面だけが、不必要で不健康なまでに増殖していく段階」だ。その結果、道徳的価値が「特別に崇高な意味を持った価値に成り上がっていく」。実体のない空虚な価値が次々と生み出される(例「無償の献身的行為こそが尊い」「悪を行うと自分が自分であることそのものを破壊してしまう」)。
 だがその本質は、〈うそ〉を〈ほんとう〉のように見せかけること。その〈うそ〉とは、「道徳的によいことはそれをする当人にとって好いことであり、道徳的に悪いことはそれをする当人にとって嫌なことである」ということ。この「〈うそ〉を〈ほんとう〉に」と「まやかしが不必要に増殖していく」は同義だろう。この段階が定着すると「いじめはいじめる側にとって好いことだ」という言葉づかい自体が否定され、そこにある問題が隠される。
 しかしまだ次の段階がある。それは「道徳的に善いことをすることだけが自分にとってほんとうに好い(幸福な)ことであり、道徳的に悪いことをすることだけが自分にとってほんとうに嫌な(不幸な)ことである」という、上より限定・強調された「高度な〈うそ〉」がつくられる段階だ。この時に価値観の転倒が起こる。好悪と善悪の無関係性という素朴な感覚は、「それ自体不道徳なものへと転化する」(道徳主義的な概念体系の成立、ほんとうの問題・への回答)。
 なぜこんなことが起こるかというと、まやかし(必要な〈うそ〉)にしかすがりつけなかった人々が、「まやかしのもっともまやかし的な部分に、そこだけに、すがりついたから」だ。そして当人たちはすがりついたことを知らないでいる(永井はここでまやかしを「空虚(ニヒル)」とも言い換えており、ニーチェのニヒリズムを彼なりに解釈していることがわかる)。以上のような世界解釈および概念体系は、今日ではすでにひとつの伝統として定着している。だれもが自然に使える道具になっている(思わず使ってしまうというほうが田中にはしっくりくるが)。
●倫理学と実在論
 3でふれた倫理学はすべてこの伝統の中でつくられている。前提の前提(善いことをしなくてはいけない)は問いとして認められない。また、自分だけに「真実」がわかるといった実在論の中には「他者に対する深い深い侮蔑がある」。この種の「真実」の存在を否定することがニーチェの目的でもあった。
●〈子ども〉の哲学者ニーチェの不幸
 道徳的世界解釈の中でしか感じられないような「道徳性そのものに対する道徳的罪悪感」をバネにして、その外部へと脱出しようとしたことがニーチェの驚くべきところ。しかし、道徳的・道徳外的世界解釈の中にいる両方の人たちともに、ニーチェを理解できない。「反道徳的」か「何らかの道徳的意図が隠されている」と道徳的世界解釈の人はみなすし、「一人相撲」のように道徳外的世界解釈からは見える。なぜ一人相撲で滑稽に見えるかというと、その人たち自身(道徳外的世界解釈)がすでにニーチェが憧れた境地にいるから!
 つまり道徳的世界解釈が世界を支配してしまったと嘆くのは、その人自身(ニーチェや田中)が圧倒的に道徳的な心性の持ち主であることからくる「錯覚」がそもそもの原因なのだ。現実には、2種類の世界解釈(概念体系)が併存していて、「どちらの住人も、その併存をうまく、的確に利用しているにすぎない」(田中の感じでは、道徳的世界解釈内にいる人が圧倒的多数派だと思うのだが……。これも「錯覚」だろうか)。
●ぼくが感じていた問題の真の意味
 実はここには最初から「2重の問題」があった。ニーチェには、根底的な道徳意図(道徳的世界解釈以前の、「もっと純朴で強力な道徳感覚を取り戻したい」という願い)があった。しかし、「なぜ、そこまで純粋に道徳的に清潔でなければならないのだ?」「限度を超えた善」には悪のにおいがするものだが、この種の純粋な願いの内にも悪いにおいがかぎとれないか。この疑問こそが、「なぜ善いことをしなくちゃいけないのか?」という形になって永井の中に現れたのだ(ニーチェに対する問題)。
 また、そういう問いをどこまで感じとることのうちにも、ある種の道徳的直観が隠れていないだろうか(永井自身に対する問題)。一番はじめの永井の問い「なぜ善いこと(悪いこと)を云々」という問いには、「道徳的世界解釈からある大切さの直観を借りていて、そのうえで、その世界解釈の外にある大切さを指し示しているように思われる」。
 「それはいったい何なのだろう?」という「問いへの問い」で、この文章は終わる。しかし、道徳的世界解釈からの直観を借りない「道徳的問い」というものが、果たして存在できるのだろうか。仮にできたとしてもそれはすでに道徳的問いではないだろう。道徳的直観を用いずに善悪を論じることがそもそもできないように田中には思える。

田中の感想
●ニーチェの「優劣」と永井の「好悪」の違いについて
 「優劣」ははじめから「善悪」とくっついている(優が善、劣が悪)。ところが劣側のルサンチマンがもとで(式を単純化します)、優は邪悪・敵とみなされ悪へとおとしめられる。同時に劣は善良で真面目・禁欲的として良とされる。この転化をニーチェは「道徳における奴隷一揆」と呼ぶ。
 永井の「好悪」は「善悪」の体系と別のところにある、というのが本論のポイントだろう。ニーチェと違って、最初は2つはくっついていない。個人の善悪を社会の善悪と一致させるために(まやかし、必要な〈うそ〉等)、2つはくっつく。くっついてそれが強化されていく。この強化を永井は「道徳主義的な概念体系の成立」と呼ぶ。
 永井は明らかにニーチェをヒントにしているが(4の小見出しに「ニーチェの洞察」とある)、この両者は似ているようで明らかに違う。永井自身が書くように、ニーチェは道徳的世界解釈の内側にいる。そこであがき、脱出しようとしている。永井が実はどこにいるのか明らかではないが(〈子ども〉の側というのは無理して認識しようとしている気がする)、永井の「好悪」が道徳外的世界解釈の根本であることは明らかだ。
 一番最後の「2重の問題」において、ニーチェの問題のほうが永井の問題よりもはるかにわかりやすいと僕は思う。ニーチェはとにもかくにも「超人」を夢想した。ニーチェが抱く超人への夢想と道徳社会に対する反感そのものが、ニーチェ独自のルサンチマンだという批判ができるが、そのルサンチマンや永井が指摘する「純粋性に潜む道徳性」は、ニーチェ自身(僕自身?)気づくことが可能だ。そのことが超人に結びつかないまでも(ツァラトゥストラどまりだろう)、道徳的世界解釈以前の世界を「わるいにおい」をたてずに憧れることが可能ではないか(ニーチェ自身は無理だとしても)。
 これに対して永井の問題の場合、道徳外的世界解釈と道徳的世界解釈のつながりの説明に道徳的直観を用いざるをえない、というのは、言い換えると、道徳的直観の上に両者が乗っているということではないか。「好悪」の世界の把握・位置づけ・説明も、「善悪」的直観でなされるとしたら、そしてもしその逆がないとしたら(僕にはないように思われる)、道徳外的世界解釈のまだその外側に、「道徳的直観による世界解釈」というものがあるのだろうか。
 本論のタイトルは「なぜ悪いことをしてはいけないのか」であり、それ自体、道徳的直観による世界解釈の存在性というのを暗示しているようにも思える(これって実在論?)。
●「善悪とは何か」という問いについて
 当レジュメの前がきにも書いたが、本論を読むと、このような「何か」という問いはないと思う。「してはいけないのか」とか「なぜか」というのは頻出するが、「善悪とは何か」というのはない。そもそもの基準が明示されていないところで、そのまわりの規範や原因を問い続けていくから、何か命綱のない登山をしているような、カフカ的堂々巡りのような、そんな不安定ななか僕は読み進まざるを得なかった。
 これは僕の直観だが、永井自身、何かイデア的な「善悪」をイメージしているような気がするのだ。だからあえて「善悪とは何か」という問いはたてない。それとも善悪一般として議論していくのが倫理学の常識なのだろうか。そうだとすると、永井自身も「倫理学の前提」にわずかながら足を突っ込んでいるのではないか。
 僕は、善悪は個別のケースで判断していかざるをえないものだと思う。だから同じ行為でも善悪は変わってくるし、その行為をまた細分化して一つひとつに善悪を感じていくこともできる。イデア的善悪に照合して善悪を決定するというより、言語で切り取ったその一つひとつの出来事に対して判断を下していく、その内容が「善悪とは何か」の答えになるのではないか(そして、言語ゲーム的に親和性を持ったグループがより大きな善悪となり、これらはもっと膨らんだり重なったりする。今僕は、倫理・道徳に関してそういうイメージを抱いています)。
 それとも「善悪とは何か」という問いは「答えられない問い」なのだろうか。イデアでもなく、ケースごとの判断でもないとしたら、どういうイメージを描けばいいのか。
●以上、だらだらと書きました。ニーチェなり功利主義なり、もっと基本文献を読む必要性を感じています。




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