「哲学的腹ぺこ塾」読書会のレジュメ

■ 第1回
■ テキスト:永井 均『<子ども>のための哲学』(講談社新書)の前半
■ 日  時:99年6月13日(日)午前11時
■ 報 告 者:山本繁樹

<Q1>
我が家の猫は「レイ」という名であった。彼女は、如何にして自分の名前を理解したのか?
つまり「レイ」と呼ばれた時、それがなぜ、他ならぬ自分のことであると理解できるのであるか? 規則的な音の連鎖である「rei」に条件反射しているだけだと見なしても、なぜその猫だけがそのように条件付けることが可能なのか?
猫が、少なくとも個体識別の能力を持っていることは明確だ。
しかし複数の猫の中で、その猫だけがその「rei」に反応し、その音と自分を関連づけて(自己同一)、呼ばれていることを理解しているように見えるのは<奇跡>ではないか。(個別性の理解―実在的)

<A1>
この事例は、鏡に映っている我が姿をその猫は「自分のこと」であると識別できるか、という問いに変換したほうがよい。
残念ながら「レイ」にはその識別が出来ていない。チンパンジーには、その識別が出来るらしい。
この猫の事例を、「少女」にしたほうが適切だという指摘があるが、言語を解さない猫が「私」を理解できるかということが、例題としては有効ではないのか?

<Q2>
ところが実は「レイ」は「rei」以外の名前で呼ばれても、尻尾や鳴き声で返事をするのだが・・・彼女は、この個体に対して呼ばれていることを、明らかに理解しているように思える。
しかし彼女はこの呼ばれている個体が、この<自分>であると理解しているのであるか?(独在性の理解―存在論的)

<A2>
この事例は、次のようにも変換出来る。
彼女は自分の名前が「レイ」であることを知らないが、自分が自分自身であることは(「自己とは自己自身との関係である」キェルケゴール)知っているが、その自分がこの<自分>であることを知っているか?
永井<独我論>と「脱人格的自我の個別性=<魂>」の関連について。
これを、主語としての「普遍的自己」=「自己一般」として理解してはならない。それは、「この」という強い指示性によって「普遍的自己」から区別された唯一無二の「私=単独者」(世界に隣人=他者をもたない<独在者>としてではなく!)として、不可避的に読み換えられてしまうものなのである。
しかし永井<独我論>の意義は、<いま、ここの、この私>を不断に「一般化=均質化すること」への拮抗、脱構築として<発見的>に捉えなければならない。

<Q3>
この事例は、幼児が自分自身と自分または自分の名前とを同一化する過程と同じであるのか?
また赤ちゃんが笑いながら、天空に指さしている。この指先の延長に赤ちゃんの視点が届いている。これを<あの、この意識=指示性>の発生と呼んでよいのか?

<A3>
この自己同一化(人格的個別性・自己意識的存在者一般)とは無縁なところで存在する、この<私>の在り方こそが<独在性>なのである。
この場合、赤ちゃんが笑いながら自分を指さす事例こそ、「この意識=自我意識」の成立というのに相応しいだろうが、この<私>を巡る問題とは無関係である。

<Q4>
ところで映画「転校生」は、男子生徒=僕と女子生徒=わたしの記憶や心が入れ替わる思春期ドラマなのだが、この場合、この<私>を意味しないものは何でありえるのか?
同様に、脳を移植された個体は、いかなる<夢>を見るのか?

<A4>
<魂>に対する態度としての、「ウィリアムズ・永井・榑林説」の第六段階の意義を、下記のように展開してみる。(本文84頁)
この映画「転校生」では、お互いの心が入れ替わってからもう一度入れ替わって(現象的には、元通りにになる!)、男子生徒=僕は転校してゆくのだが、その映画のラストシーンがなんとも美しい。
彼=僕=A(a)は別れ際、手を振りながら「さよなら僕B(a)、さよならわたしA(b)」と、女子生徒=わたし=B(b)、に向かって呟くのであった。(A・Bは身体を意味し、a・bは心を意味している)

<Q5>
因みに、「離人症/人格喪失体験」と呼ばれる神経症がある。
これは意識は鮮明ではあるが、「自分が自分であるということ」、「ここ」とか「そこ」とかという意味がわからなく「世界」を「意味の連関」として捕まえることに障害を来すようである。
木村 敏によれば「この症状においては外界の事物や自分自身の身体についての実在感や現実感、充実感、重量感、自己所属感などといった感覚が失われるだけでなく、なによりも自分自身の自己がなくなってしまった、あるいは以前とすっかり違ってしまった、感情や性格が失われたという切実な体験が訴えられるためである」とある。(「時間と自己」中公新書)
しかし木村の言っている<自己>や<近代的自我>と、永井が発見したこの<私>とは無関係であると永井は言明しているように読めるが、それは「語り得ぬもの」として示すほかないのであるか?

<A5>
<デカルト的自我>とは、「存在を疑い得ない「私」とは、「私」一般ではなく「この私」ただひとりでなければならない」(永井『他者』」より)

「言語ゲームとは、つまりぼくがみんなと生きている世界とは、この読み換えの場なのだ。そして、僕の人生とは、結局この読み換えを生きるということだったのだ。もちろんこの発言自体が、ひとに通じるときには読み換えられて通じるのだけれど」(本文102頁)

このとき、永井は他の<私>すなわち「他者(他者の他者性)」を想定しているが・・・。(他の<私>を非主題的に暗示する!)
だが永井<独我論>から「他者=他の<私>」を予想することは、論理的ではなく、ある種の<飛躍>があるに違いない!
それが「他者」との言語ゲームを志向することであり、「倫理もんだい」を提起させているのではないか。

<おまけ>
5月30日の朝日新聞の読書欄で、清水良典が「<私>という演算」(保坂和志・著/新書館・刊)を紹介しています。私=山本は未読ですが、読書会のテーマにも関連するようなので、ご案内します。




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