「哲学的腹ぺこ塾」読書会のレジュメ

■ 第9回
■ テキスト:ジャック・ラカン『神と女性(/つき)の快楽』(「現代思想」1985年1月号)  
■ 日  時:00年04月15日(土)正午
■ 報 告 者:加藤正太郎

1.読みづらく、理解しづらい
【読むこと】【理解すること】P105下L14 読むことは理解することをまったく必要としない
【読解】P108下L1 彼(アリストテレス)に知をより少なく想定すればするほど、私は彼をよく読める

2.「しかし、理解のために全体の流れを整理すると……

【満足】P105上L6(から話をしよう)
もうひとつの満足=言葉による満足=男根的快楽に答える満足
   →男と女の間でそれが起こるためにほどよく必要な快楽
      ↓そのためには
【話す主体においては、両性間で、性的関係はなされない】P107上L11 ということをさらに分節化
そこから出発してのみ、このような関係性を補足するものを告げることができる
      ↓そのためには
【一者がある】(L15)を(問わなければならない)
フロイトの言説においては、二者を一者にするところの混淆として定義されたエロスによって告げられる
      ↓しかし
あなたがたも一者にならない。一者に到達できない
      ↓だから
タナトス:塵への回帰というかたちでエロスに障害をなす
      ↓けれどもこれらは「精子と卵子」によって可能となった比喩
【精子と卵子】P107下L3……エロス/【減数分裂】P107下L7……タナトス
      ↓しかし
【無意識は言語として構造化されている】L12
      ↓だから
【「一者」を言語の次元で(生物学的比喩ではなく)問わなければならない】
      ↓そして一者だけがあるというニュアンスで
【愛】という名前で私達が呼ばなければならないものを把握できる(P108上L1)
【愛(という)、道】分析において、私達は愛をしか問題にしていない
【知を想定された主体】という公式を導き出してくれる(L7)
【ある人に知が想定されると、ひとはその人を愛する】(L10)
【脱−神秘化】以外のことを(私は)めざしたことがない(L16)
      ↓ところで
(唯物論者は)
(1)(私が)男と女のあいだに古き良き神のように見える他者を置いていると聞いて驚いた
(2) 愛についての討議を支配している(と私がいった)神に対して用心しなければならないと思い込んでいる
(3)(私が言明した)「神は存在しない」を理解してしまう(性急に)
(神学者は)
(1) 私以上に神なしで済ますことができる
      ↓しかし、私の問題としている
【他者】(l'Autre)とは
(1)古き良き神を厄介払いするひとつの方法
(2)もうひとつの性からあらわれるものと何らかの関係を持つ
【宮廷風の恋愛】P109下L4

自分たちこそが性的関係に障害を置いているように装うことによって、性的関係の不在を補おうとする方法
【人物とは主人の言説】 四つの定式
【アリストテレスの論理的障害の概念】 四つの定式と∃xΦxなどを統合しようとするときの問題

【神の快楽】P111上L3(について結論づけると)
        ↓【私達は快楽によってもてあそばれている】P110下L14(のであり)、【思考とは快楽】(であり)、【精神分析的言説がもたらすこと】は存在の快楽があるということであり、
        ↓1私達がその存在を感ずる最初の存在とは我々の存在(だから)
我々の存在の快をなすすべてのものは神の快楽
神を愛することによって我々が愛しているのは我々自身
        ↓しかし(私は)
私がそれ(思考のなかに基盤を得ている存在?P110下L13)に対立させる存在
意味作用の(による)存在(についてお話ししたい)
        ↓その根拠を(私は)肉体の快楽の中に認めるから 
        ↓(「肉体」といってもそもそも原子とは意味作用の要素だから、唯物論的でない)
【肉体の快楽がどのようにして性関係に役立つのか】P111下L2 (を見なければならない)
        ↓まず
【男性の側】すべてのxがΦ(x) にしたがって決定される(から簡単に見ておくと)
        ↓【ひとは選択によって男性の側につく】P111下L9(けれども)
【男根的関数】は男性が自分を男性として区分し、女性に接近するのに役立つ(のであり)
        ↓また
【去勢】P111下L17 男性にとっては去勢、つまり男根的関数に否というなにものかがなければ、彼が女性の肉体の快楽をうる、換言すれば性愛行為をするどのような可能性も存在しない(精神分析的経験の帰結)
【男性の定義】∀xΦ(x) ……すべての存在が男根的関数に従う
       ∃x〜Φ(x) ……男根的関数に否というなにものかが存在する
        ↓とはいえ、この条件が実現されていなくても男性が女性を、あらゆる仕方で欲望するこ
        ↓とはありえる。愛に似ているあらゆることを女性になす。
【対象a】女性に接近すると信じうるのは、言葉を用いる存在でありつつも雄であり、そのことをどうしていいかわからないでいるもの(であるが)、彼が接近しているもの、それは自らの欲望の原因(対象a)

【女性の側】 P112上L15(はどうなっているかについて導入したい)
〜∀xΦ(x) (「すべてでない」)は、言葉を話すなんらかの存在が、女性の旗印のもとに自らを位置させるとき、そのひとは男根的関数の中に位置しつつも、「すべてでない」ことによって自らを基礎づけることから出発している、ということを意味している。
        ↓ただ(注意してほしいのは)
【定冠詞つきの女性(La femme)は存在しない】本質からして、女性は「すべてでない」のだから
        ↓しかし
「la femme」という言葉は使う。la によってその位置を示しておくことが不可欠であり、空白にしておくことはできないシニフィアンを象徴している(し)、la は何も意味しない唯一のシニフィアンだから
        ↓そして
女性は事物の本性、つまり言葉の本性によって排除されてしか存在しない。女性が現在、不平を言う何かがあるとすれば、それはまさにそのことについて(である)。
ただ、彼女たちは自分の言っていることが何であるか知らない。
        ↓ただ
【補足的な快楽】女性は「すべてでない」ことからして、男根的関数の指示する快楽に対して、補足的(補完的ではなく)な快楽を持っているから(こそ)、事物の本性から排除されている。
        ↓そして
女性は今問題にしている快楽で満足しており、女性こそが男性たちを所有している
        ↓たとえば
【男根】P113上L12 彼女の言いかたによれば「わたしのひと」である男根が彼女にとってどうでもよいものではないことはラブレー以来知られている。(〜∃x〜Φ(x) ?)
        ↓ただ、問題は
彼女は男根に接近し、それを保持するためのいろいろなしかたを持っている
【余計ななにか】彼女は「すべてでない」がゆえに、全く存在しないのではなく、全く存在するが、そこには余計ななにかがある。(〜∃x〜Φ(x) ?)
        ↓私達は快楽に話を限っているのだが、
【男根の彼方のものである快楽】【肉体の快楽】P113下L1 がある。
「それは女性解放運動に、もうひとつの根拠を与えるでことでしょう。女性、あの、存在せず、何も意味しない女性に固有な快楽が存在します。女性自身は感じてしてはいても、多分知ることのない、そして、自分が感じているということは知っているような快楽が存在します」
        ↓女性が、その快楽について何も知らないということの(証拠に)
跪いて懇願して女性に言わせようとしても、「静かにして下さい」といわれて何も引き出せない
        ↓そこでひとは
あの快楽について、勝手に名付けたり、馬鹿げたことを言ったりする(P114上)
        ↓しかし、(ある種の)神秘主義者の書いたものの中に小さな橋がある ひとは男性であるとき「すべてでない」の側につくこともできる(し)、彼ら(神秘主義者)は彼方の快楽があるにちがいない、ということを感じとる
        ↓そしてあの快楽は
我々を脱−自の道に導き、他者の一面、神の一面を支える(それらすべては意味生産の存在によって生じ、またその存在は他者Aの場以外の場を持たないのに)。aによって引き起こされたのではない快楽。

3.それでも理解したい?

(1) 性別論理式/性関係はなされない/定冠詞つきの女性は存在しない
【男性】 ∀xΦ(x) かつ ∃x〜Φ(x)
【女性】 〜∀xΦ(x) かつ 〜∃x〜Φ(x)
「わたしが、今のところそれ以外に方法がないため、論理的な方法によってあなた方にアプローチさせようとしている……」P114上L2

(2) セックス/ジェンダー
「言葉を用いる存在でありつつも雄」
「言葉を話すなんらかの存在が、女性の旗印のもとに自らを位置させるとき」

(3) 女になること(神秘主義)
「そうした神秘的な恍惚たる飛躍、それは……ひとが読みうる最上のものです」P115下
「そこにジャック・ラカンの『エクリ』を追加すること」という註をお付け下さい

(4) 四つの定式
  対象a
  その他

(5)性急な理解への不安
「欠損家庭」
「神経症」(ディプスコンプレックスの第1段階に固執?)

(6) 子供を思い出すこと

4.参考文献
『ジャック・ラカンの書』小笠原晋也(金剛出版)(第8章 その1 性別の論理式と「性関係は無い」)

【性別の論理式】
【男性】 ∀xΦ(x) かつ ∃x〜Φ(x)
【女性】 〜∀xΦ(x) かつ 〜∃x〜Φ(x)
は、フロイトの地平における定義。(解剖学的、生物学的性別とは関係ない)
【フロイトの指摘】
∀xΦ(x)  ……男児は「すべての人間はファロスを有す」と考えている
∃x〜Φ(x) ……ところが彼は、母親、姉妹におけるファロスの欠如に遭遇し、ファロスを奪う誰か、
         ファロスを有することに否という誰かの現存を措定する
〜∀xΦ(x)  ……女児は、おのれにおけるファロスの欠如に気づく。すべての人間がファロスを有するのではない
〜∃x〜Φ(x) ……かわりに、女児にとっては去勢の威嚇を与えるものはない。
(〜Φ(x) は「ファロスを有さない」ではなく「ファロスを有することに否という」)

【性別論理式】(男/女の解釈)が許されるのは精神分析の言論によって「書かれぬことをやめた」から。

【ラカンの定義】
「可能」「書かれることをやめるもの」
「偶然」「書かれぬことをやめるもの」
「不可能」「書かれぬことをやめぬもの」

【現代論理学の展開を促した逆説】……「論理学なしには、分析は愚痴であろう」(ラカン)
カントールやラッセルのパラドクス

【男性】 ∀xΦ(x) かつ ∃x〜Φ(x)
「その普遍命題を否定するひとつの現存によって限られぬような普遍命題はない」

【ゲーデル】ゲーデル数G=「Gは証明できない」  Gで表される式を∀xΦ(x)と書く

【性関係はない】
「男と女は、言葉にすまわっているということからして、この関係についての言現れをつくることができてもよかったはずであろう」
      ↓しかし
「性関係は不可能」=「性関係は書かれぬことをやめない」
論理式R(h,f) は決定できない。h={x:xはひとりの男である} f={x:xはひとりの女である}
 ∀xΦ(x) と 〜∀xΦ(x) は同時に措定することは不可能 だが、そのどちらかが措定されれば、徴の不完全な穴がかりそめにもふさがれる。∀xΦ(x) が措定されれば、∃x〜Φ(x) がともなう。
「それによって関数Φ(x)が否定されるところのひとつのXの現存において、この関数はおのれの限りを見出す」のであり、ひとつの確固たる多としての「すべてなるものは、例外の上に存立する」
(xが父と解釈されれば、フロイト的エディプス複合……しかし、あくまで仮想的主体)

【フロイトとラカン】
フロイトが∃x〜Φ(x) を軸に展開したのに対し、ラカンは、ファロスそのものを問題としてきた。
Φは、とりとめのない悦を、ファロスに結びつけ、性的悦として、馴致する機能 しかし、「ファロス悦は、男が女の身体から享悦することを妨げる」
(ファロスは、不在の性関係に対しては、ひとつの仮象にすぎない)

【女性】

〜∃x〜Φ(x) …… 女の側においては「ファロス関数へ差し止められたものは現存せず」
             しかし、Φ(1)、Φ(2)、Φ(3)、……とはみ出してしまう。
           たとえ 〜∃x〜Φ(x) であろうとも、∀xΦ(x) とはいえない。
           つまり、「すべて」を想定することは不可能だから
〜∀xΦ(x) …… Φ(x) であるのはすべてのXについてではない。
【すべてならず】  女性の特徴「すべてならず」、女「なるもの」は有らず。
          集合f={x:xはひとりの女である}は有らず。
「La femme.それはLaに棒線をひくことにおいてしか書かれ得ない」
「女の悦は、性交から得られる悦を超える」「ファロスの彼方の悦」書かれぬことをやめぬ悦。
【他のひとつの規定】「性関係はない」ことにおいて、根本的に他である他 「女たちを愛する者は」、その解剖学的性が男であれ、女であれ、「定義としてヘテロである」

『ラカンの精神分析』新宮一成(講談社現代新書)
【主の語らい】の中に入った……主体は、おのれが属する社会の意向を表す、「主としての言葉」S1の名のもとに、自分自身の知S2に命じて……業績を生産する。これらの業績を……自分を支える対象aとして保有しようとする(たとえば「人類」という発話者S1が、彼の「知」S1に語りかける。彼は[知]からの産出物aで自己を補完することによって、全体性を取り戻す)。
「主の語らい」を通じて互いに同一化しあい、……全体性(「幻想」と呼ばれるひとつの構造)の中に住まうことを許される(主体Sと対象aのあいだに幻想の領域がつくられる)。「主の語らい」は、われわれを社会的な意味構造の中につなぎとめ、かつ個人の内面に全体性の幻想を供給する、基本的な枠組みとして機能している。

【フロイトのエディプス期】(ファルスの有無に関心が向けられる時期)の子供の倫理と論理
男の子「それを取られるかもしれない」
女の子「それを取り返さなければならない」
……物事があるがままではなく、別様でありえたかもしれない。
       ↓(そこから)さまざまな物語がうまれる
「取られるよりも、もっと良いものを作ってそれを献呈しよう」「今はあんなものをほしがらないようにしよう」「(取られることの不安に耐えられず)もう僕にはそれはないのだ」「(取られた負ことの怨念に耐えられず)私にはそれがあるのだ」
       ↓フロイトはこれらの感情性を「去勢不安」「ペニス願望」と名づけたが、
       ↓重要なのは、感情的態度を基礎づける論理作業。
子供は、ファルスの有無の認識にあたって偶然そうなったとは考えない。ファルスを付けたり、付けなかったりすることの出来る存在があるはずだと考える。その存在が私にその必然性を与えた(自分にはわからないが)し、その存在は、ファルスのあるものとないものの関係の必然性を握っている。

【愛と必然性】我々はその存在に、神や、死せる父、といった象徴的な名を与えて、いったんはそこから身を引き離すが、……自己の運命を掴みなおさなければならない状況に立ち至ったとき、再び呼び戻すことになる。我々は、愛という名のもとに、自己と世界との関係の中に必然性を導入せざるを得ない。

【「主の語らい」とエディプスコンプレックス】
我々は、己の存在を事実として知っていても真理としては知らないということに困惑しているのだ。あの者からの要求にしたがって私が私の真理を表現することは、私の生涯の希望となる。私は、自己がなんであるかを知るものとして知の主体となり、自己を対象aとして産出できるように、自己を駆り立てることになるのだろう。「主の語らい」は、こうして、自己を示す言葉を自ら発することの出来ない主体の、内面の欲望の図式として読むことが出来るのである。

【Φ去勢】
自己言及の不完全性という論理上の無力を、肉体上の無力によって表現した言葉、それが「去勢」という分析用語である。
【∃x〜Φ(x) は機能としてのΦを行使する者、命題関数Φの例外】
ファルスを左右することは、私以外の、あの必然性を知る者の機能とされる。Φという記号は、この者が行使する去勢という機能を示している。機能としてのΦを行使する者は、自らはその機能に何ら拘束されない位置に立っているといえるから、その者は、命題関数Φの例外として書き表されることになる。

【∀xΦ(x) かつ ∃x〜Φ(x) の例】 日本国憲法の条文の総体をΦとすると国民一人一人はそれに左右されるが、国民の三分の二という「多数者」はその例外に相当する。どのような法律も、その外部からその法律を左右する立法者を示す言葉を持つ。「多数者」とは我々自身の内部に設定された外部である。

【性関係はない】……人間は人間の言葉を話す限り、あの者の座に立つことはありえない。
「関係」……何らかの必然的な法則に基づいたという意味
ラカンは、ファルスを媒介変数とすうとした存在論をうかびあがらせながら、それが拵え物であることを同時に明らかにしようとした。
        ↓ところが
【転移性恋愛】の内実は、分析家との関係の中に、自己が自己であることの必然が蔵されているという観念。必然性を担うものの呼び出しが、エディプスコンプレックスの核心だから、分析家は、呼び出されたこの必然性への志向、つまりは愛を、分析することが仕事になる。

【不可能と必然】 性関係を、普遍的な形式で人間関係の中に書き入れようとするとき、その者は、人間の外部の空間に立ち、人間の言葉を話せなくなる。この、言語の不可能性が、分析における不可能性である。外部には、言われたことが妥当するための必然として要請されるが、そこに立つものは、言うことの不可能を担う。
(分析の中で意味を織り成しながら進んでいた語らいが、突然、言い違いによって区切られる。日常生活においては偶然のせいにされるそういう瞬間は、分析においては、まさに、人間の言語を語れない者によって、必然的にもたらされたものと感じられる)

『負のラカン』石田浩之(誠信書房)
【男根が「ない」ということ】
男根の「ある」と「ない」という対立が形成され、「ないこと」が確立されることによって、それ以前「ないこと」が存在しなかった想像界(現実界)においても一種の「なさ」、「欠如」が導入されることになる。

【言語によってはじめて可能となる「欠如」】言葉と無関係ではないが、言葉によってはとらえる事が出来ずに、しかも言葉がそれをとらえようとする「不在そのもの」が、失われた事物とての「対象a」である。
(たとえば)何かが欲しいという気持ちと、それを言葉にして「〜が欲しい」とねだることによってそのねだられた対象が与えられた事態とでは、必ず何か満足されないものが残る。そこで言葉でねだる以前の気持ちと、言葉でねだった後の気持ちの間で、何かがつねに残余として残る。この残余が欲望を形成するのである。

【エディプスコンプレックス】
第一局面(φ想像的男根)
母親に欠けていて、母親が欲望しているもの、想像的男根φに自分がなることによって、子供は母親と自分だけで閉じた一体を作ろうとする。
第二局面(Φ象徴的男根)
あってもないものという象徴的欠如としての去勢がうまく行けば、こどもはφであることを禁止され、男根を持つことΦへと進むことが出来る。
【男性、女性の欲望の形式】Φ象徴的男根 φ想像的男根 A(/つき)欠如を付与された他者
男性の欲望の形式Φ(a) ……自分の中に「欠如」をしっかりと持つこと
女性の欲望の形式A(/つき)(φ) ……他者が男根を持っていることを認めることによって、自分の側に「喪失」があることをはっきりと引きうけること……「女性は自身の欲望の能記を……男性の身体の中に見る」

【想像的ファルスφの喪失(去勢)】男性も女性も去勢を経なければならない。ペニスがあるとかないとかとは直接関係がなく、男性にとっては持っていると「思っている」ものを失うことによって、女性にとっては持っていないと「思っている」ものを失うことによって、どちらも想像的ファルスの喪失を経なければならない。
【象徴的男根Φ】 在と不在の根源的様式。/ と  というかたちの「対立」をなしていなければ存在し得ない能記、つねにセットでしか考えられないもの

『性愛と資本主義』大澤真幸(青土社)

【他者と宇宙の〈単一性〉】
他者が真正なものとして顕現することによって、孤独は、解除されると同時に、潜在的に保存されてもいるわけだ。すなわち、<私>とそれに相関した宇宙の<単一性>についての、痛烈な覚識とともに、他者は、私に与えられているはずである。……他者は、「私」の経験に内在する志向作用がそれへと向かうときには、けっして積極的に対象を結ぶことはない。志向作用の対象として構成される存在者は、何であれ、私の宇宙の内的な要素でしかないからだ。
【真正なる他者と性的差異】
……真正なる他者とは、むしろ、このように志向作用から逃走するものとして、まさにその限りで関係しうるような身体なのである。他者は、このような志向作用からの逃走という、否定的な様態によって、「私」の宇宙に痕跡を残すことが出来るだろう。このような、奇妙な身体間の関係のことを、何と呼ぶべきであろうか。性的差異の中核的な部分に、このような関係の集約を認めることが出来るように思われる。というより、身体が、このような逆説的な様態において顕現しているとき、人は、その身体に、同一性の内に還元不可能な執拗な差異を、つまり、性的差異を、見出すのではあるまいか。

【可能性(あるいは抽象性)と現実性との乖離】
(1) 量化記号(∀[すべての]とか∃[ある]という記号)をともなう述語論理において
「全称命題=普遍命題」(「すべてのaはbである」)……「bであるようなa」の存在を要請していない。aが存在していない場合も全称命題は真でありうる。必ずしもaの存在についての現実性を導かない。
「特称命題=存在命題」(「あるaはbである」)……「bであるようなaが存在する」を主張。「bであるようなa」の事例が少なくともひとつ現実に存在していることが、この命題の真理性の条件。
(2)「事実存在」と「本質存在」
「本質存在」(「〜である」)……性質を記述するということは、事物の本質存在を規定すること
「事実存在」(「〜がある」)……名前を与えるということは事物の事実存在を指定する操作

【カントの二律背反とラカンの男/女の定義】
(ア)「数学的」二律背反(カント)……………………「女性」(ラカン)
   Φ:可能な体験の対象である(カント)…………ファルスの作用を受けている(ラカン)
  (テーゼ)「宇宙は限界を持つ」 ∃x〜Φ(x)
  (アンチテーゼ)「宇宙は無限である」 ∀xΦ(x)
 テーゼとアンチテーゼがともに偽となっても不合理が生じないのは、宇宙は、通常の意味では、つまり他の諸現象と同じような意味では、存在していないから。
  (テーゼの否定)経験の可能的な対象ではないような現象は存在しない。〜∃x〜Φ(x)
     ↓しかし
   「宇宙は無限」を意味せず、つねに未確定であるということを示す。現象を次々と追っていっても、
   これと差異化されうるさらなる現象が存在し、いつまでも現象の総体には到達しない。
     ↓つまり
  (アンチテーゼの否定)すべての現象が体験の可能な対象になるわけではない。〜∀xΦ(x)

 よって次の二つの主張を同時に行うことができる。
  (1)テーゼの否定    〜∃x〜Φ(x) [Φでないようなxは存在しない]
    (2)アンチテーゼの否定 〜∀xΦ(x) [すべてのxがΦであるわけではない]

    【宇宙の全体と他者】宇宙の全体がそれと区別されるような外部が、つまり他者が、宇宙の内的な要素(現象)という形式では存在しない、ということ。他者は、現象としては存在しないということによってこそ、つまり体験に対して積極的に定立された現象から背進しつづけるということによってこそ、存在するのだ。

  (イ)「力学的」二律背反(カント)…………………「男性」(ラカン)
    Φ:因果律に従う(カント)
  (テーゼ)「自然の因果律に支配されない無制約者、つまり自由が存在する」∃x〜Φ(x)
  (アンチテーゼ)「一切が自然の因果律に従っている」∀xΦ(x)
  テーゼとアンチテーゼがともに真となる。
  (アンチテーゼ)宇宙内のすべての対象は因果律にしたがって変化していくと考えざるを得ない
       ↓しかし
  (テーゼ)まさにその因果律を駆動させるためには、最初に、因果律に規定されずに運動を開始しうる   もの、つまり自由が、存在していなくてはならないように見える

  よって(1)テーゼ ∃x〜Φ(x) [Φでないxが存在する]
        (2)アンチテーゼ ∀xΦ(x)「すべてのxはΦである] がともに成立

【余分、余剰、他者】
(ア)において、二つの命題がともに偽になるのは、積極的には存在しているとは言えない対象……より正確にはまさに不在であることがその存在の条件であるような対象……が、あたかも実体のように存在していると仮定してしまったからである。つまり、余分に言いすぎているわけである。
(イ)この「余分」な言表に対応する余剰的な対象を除去。余剰を除去することによって、統一性(たとえば「因果律が支配する領域」)が現れる。このことは、除去した余剰分(たとえば「自由」)を、例外的な位格で積極的に実在する実体として承認することを意味する。(イ)のテーゼとアンチテーゼは、異なる対象に言及。テーゼは、例外的な余分を含む異種的な全体に対して、アンチテーゼは、まさにその例外性のゆえに除去しうる異種的なものによって統一的なものとして規定された同種的なものの全体に対して。
以上のような連関は、空虚な他者を、超越的な実体として自存している(かのように捉えられる)<他者>に置き換える機制と、並行したものとして描くことが出来るだろう。



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