「哲学的腹ぺこ塾」読書会のレジュメ

■ 第3回
■ テキスト:『理論と実践』第一章「道徳一般における理論と実践との関係について」(『啓蒙とは何か』所収・岩波文庫岩波文庫)
■ 日  時:99年9月19日
■ 報 告 者:加藤正太郎

カント(1724-1804)
1770 『感性的なものと叡知的なものの形式と原理』
1781 『純粋理性批判』
1783 『プロレゴーメナ』
1785 『人倫の形而上学の基礎づけ』
1788 『実践理性批判』
1790 『判断力批判』
1793 『理論と実践』

ニュートン(1642-1727)/ライプニッツ(1646-1716) /ヒューム(1711-76)/ルソー(1712-78)

1『理論と実践』から

p113 /L9【純粋悟性概念は、カテゴリーである】
    ・純粋……
    ・悟性……
    ・カテゴリー……
P114/L13【数学と哲学】「ところで直観の対象に関する理論は、対象を概念によってのみ考察する理論とは著しく趣を異にする(数学の対象を取り扱う理論と、哲学の対象を論じる理論とを比較せよ)。
p115/L4「哲学的認識は、概念による理性認識であり、数学的認識は、概念の 構成による理性認識である。……概念を構成するとは、概念に対応する直観をア・プリオリに現示することである」
    ・「構成」とは「綜合」のことか?
    ・直観……
    ・ア・プリオリ……
    ・文章表現の持つ時間的順序の問題

P116/L4【実践の価値の成立】「道徳的なものに関しては、……実践の価値は、実践とこれを裏付けている理論との完全な一致によって成立する」(法則を適用する際の経験的、偶然的条件と法則そのものの条件は混同されてはならない)
    ・法則……

P119/L11【理性的存在者】「人間ばかりか、凡そ有限な理性的存在者」
    ・「人間」と「理性的存在者」は異なる存在か?
    ・さまざまな意味で用いられている「理性」……

P119/L12【義務の命令】「いったん義務の命令が発せられたならば、彼は幸福に由来するいかなる動機も、義務による意志決定の中にひそかに入り込むことないように、全力を尽くして自戒せねばならない。」
P120/L8【普遍的立法】「もし彼が、理性の普遍的立法とよく適合するところ の唯一の意志と合致しないような……意志を持つならば……」

P122/L9【法則の強制】「人間の行動が法則の強制のもとにのみあるような場合には、意志は無視せられなければならない、そして法則だけが意志規定の根拠をなすのである」

P126/L4【尊敬の感情】「彼のもち得る動機といえば、法則そのものよりほかにはありえないことは明白である、そしてこの動機はまさに法則が我々の心に喚起した尊敬の感情によって生じるのである」

P126/L12【定言命令】「いったい意志規定の根底に置かれた目的などをいささかも顧みることなく、人間の自由意志に対して定言的に命令する法則(換言すば義務)を無条件に遵守しようとする格律とは、……」

P132/L11【自由】「自由の現実的存在を証明することは、直接的経験においても、また間接的経験においても絶対に不可能である。……なぜガルヴェ氏が、……定言的命法の可能を保全するために、自由の概念に頼らなかったかを奇異に感ぜざるを得ないのである。」

2 悪文の問題

(1)カントの「から」の用法。「……、……からである」
P116/L10 、P120/L11
    ・同じ意味の繰り返し、結論の言い換え、
    ・突き当たり「物自体」からの思考法との一致?
(2)意味の取りにくい表現(訳文の問題?)
P114/L14「数学の対象を取り扱う理論」
p116/L14「私も……、発言者に関して……」
P122/L7「外的事情の欠無」
P119/L8「当面の課題」
P137/L16「このような警告」
(3)カント理解にかかわる不明確な表現
【哲学】P114/L15の「哲学」とP115/L16の「哲学」とP130/L3の「哲学」
    ・これらのうち最初の「哲学」は思弁的哲学、最後の「哲学」は道徳哲学のことと読めるが?
【自由】P116/L11「徳の義務とは、自己に加える自由な強制にのみ基づくところの義務」
    P138/L3「だが自然や心的傾向性は、自由に対して法則を与え得るも     のではない」
    ・P132の「自由」との混乱

3 引用など

(A『プロレゴーメナ』、B『人倫の形而上学の基礎づけ』、C『哲学・論理用語辞典』(思想の科学研究会編)、D『カント入門』(石川文康 著)<不正確な部分あり、(  )内は加藤の補足>

(A)『プロレゴーメナ』から(1783)

序説
【ア・プリオリな綜合命題】
<分析的判断>たとえば、私がすべての物体は延長していると言うとき、私は物体の概念を少しも拡張したのではなく、ただこの概念を分解しただけである。
<分析的命題はア・プリオリな判断である>たとえば、金は黄色の金属である、という命題がそうである。それというのも、このことを知るために、この物体は黄色で金属であるということを含んでいる金についての私の概念のほかに、私はこれ以上経験を必要としないからである。
<経験判断はつねに綜合的である>
<数学的命題は、ア・プリオリな綜合的命題>直線は二点間の最短の線であるというのは綜合的命題である。直という私の概念は量については何も含まず、ただ質を含むだけだからである。したがって最短という概念は、まったくあらたに付け加わるのであって、いかなる分析によっても直線の概念から引き出されることはできない。だからここで直観が助けにされなければならず、綜合は直観によってのみ可能なのである。

【構成】純粋な数学的認識の本質的なもの、……は、それはまったく概念からではなく、つねに概念の構成(直観において表すこと)によってのみ起こるのでなければならぬ、ということである。だから、純粋な数学的認識はその命題において概念の外に出て行き、概念に対応する直観を含んでいるものへと向かわなければならない。(だからその命題は綜合的である)

【純粋数学と純粋自然学】純粋数学と純粋自然学だけが対象を直観においてわれわれに示すことが出来、従ってこれらの学問にア・プリオリな認識が現れる場合、この認識の真理をつまり、認識と客観との具体的な一致を示すことが出来る。(そして、形而上学の存亡は、いかにしてア・プリオリな綜合命題は可能か、という課題の解決にかかっている)

いかにして純粋数学は可能か
【空間と時間】物体や物体の変化についての経験的直観から全ての経験的なもの、すなわち感覚に属するものを取り去っても、なお空間と時間が残る。空間と時間は従って純粋直観であり、経験的直観の基礎にア・プリオリにあり、だからこれら自身は決して取り去られ得ない。これらは全ての経験的直観、つまり現実の対象の知覚に先行しなければならぬ、われわれの感性の単なる形式である。

【ア・プリオリな直観】完全な空間は三次元を持ち、空間一般はそれ以上の次元を持ち得ない、という命題は、三つ以上の線は一点において直角に交わることは出来ない、と言う命題の上に立てられる。しかし、この命題は概念からは全く説明されることは出来ず、直接、直観に、それも、その命題が明証必然的に確実だから、ア・プリオリな純粋直観にもとづくのである。

いかにして純粋自然学は可能か
【純粋悟性概念】知覚から経験が成立する前に、なお一つの全く別の判断が先行する。与えられた直観は概念のもとに包摂されねばならない。そしてこの概念が直観に関して判断一般の形式を規定し、直観の経験的意識を意識一般において結合し、それによって経験的な判断に普遍妥当性を付与するのである。このような概念が純粋悟性概念であり、これが行うのはただ直観に対して直観が判断の役に立ちうる仕方を一般に規定することだけである。

【悟性概念が付け加えられることによって経験判断となるような知覚判断の 例】
知覚判断……太陽が石を照らすと、石は暖かくなる。
これに原因という悟性概念を付け加えると
経験判断(普遍妥当的、客観的)……太陽が石を暖める。

【悟性概念の先験的表(カテゴリー)】
1)量のうえから   単一性/数多性/総体性
2)質のうえから   実在性/否定性/制限性
3)関係のうえから  実体/原因/相互性
4)様相のうえから  可能性/現実存在/必然性

【物自体】われわれが感官の対象をごく当然に単なる現象と見なすときには、同時にそれによって現象の根底に物自体があることを承認する。といっても、れわれは物自体がどんな状態にあるのかを知らず、ただその現象、すなわち、感性がこの知られない或る物によって触発される仕方だけを知るのである。そのようにして、悟性は、現象を容認する。まさしくそのことによって、物自体の存在もまた承認する。

いかにして一般に形而上学は可能か
【形而上学は理性と関わる】いま提示されている第三の問題は、したがって、いわば形而上学の核心と特性とにかかわる。すなわち、理性のひたすらな自己自身への没頭、および、理性が自己の概念について考えにふけることによって、そこから直接生じると思い込まれている客観の知識、……とかかわるのである。

【理性とその迷い】純粋悟性の使用はただ内在的であり、与えられる限りでの経験に向かうが、一方、理性概念は完全性へ、すなわち、全ての可能的経験への集合的統一へ向かい、それによって、与えられた経験のいずれをも越え出ていき、超越的となるのである。……理性が迷いに陥るのは、理性がその任務を誤解して、自らの主観とそのあらゆる内在的使用での指導に関わるにすぎないものを、超越的な仕方で、客観それ自体に関係させる場合なのである。

【純粋理性に限界を】われわれはまた純粋理性の限界を規定することもできる。というのも全ての限界には何か肯定的なものがあり、これに対して、制限は単なる否定を含むからである。

【知っているものと知り得ないものとの結合】今問題となっているのは、われわれが知っているものと、われわれが知らないし、また、決して知るようにならないであろうものとを結合する場合に、われわれの理性は、どのように振る舞うのか、ということだからである。

【知られないものの認識】われわれは世界を最高の悟性及び最高の意志の作品であるかのように見なすよう強要されていると、私が言うときに、私が実際に言っていることは、次のようなことに他ならない。すなわち、感性界が知られないものに対する関係は、、時計、船、連隊が、技師、建築家、指揮官に対して持つ関係のようなものである、ということである。従って、これによって私は、知られないものを、それ自体であるようにではないが、私に対してあるように、すなわち、私がその一部である世界との関係において認識するのである。

【限界の認識】われわれの理性においては、現象と物自体との両方が、ともに包括されている。そこで問われるのは、理性は、いかなるやり方で、これら両方の領域に関して悟性を限界づけるか、ということである。……限界そのものは、限界のうちにあるものにも、与えられた総体のそとにある空間にも属する肯定的な或るものであるから、理性が、みずからこの限界にまで拡大し、しかし、この限界を越え出ようとしないという仕方でのみ関与する現実的な肯定的認識がともかくもある。限界を越え出ないのは、理性は、そこにおいて、確かに物に対する形式を考え得るが、物そのものを考え得ない、空虚な空間を見いだすからである。
……この認識によって、理性は、感性界のうちに閉ざされもせず、また、感性界を越えてさまよいもせず、限界の認識にふさわしいように、ただ感性界の外にある物と感性界のうちに含まれているものとの関係に、みずからを制限するのである。

【理性に望みうる効用】(『純粋理性批判』の命題が与える制限は、)理性がわれわれを経験の客観的限界まで導くこと、すなわち、それ自身は経験の対象ではないが、全ての経験の最高の根拠でなければならない或るものへの関係にまで導くことを妨げはしない。もっとも、理性は、われわれにこのあるものについて、それ自身としては何も教えず、可能経験における理性自身の完全な、最高の目的へ向けられた使用との関係においてだけ教えるのである。しかし、このことは、ここでわれわれが理性に望みうるすべての効用でもあり、もともと、この効用でもって満足すべきなのである。

【実践理性】(しかし……)超越的概念へ向かうわれわれの理性におけるこの素質が目指しうるような自然の目的を見つけだすことは、やはり探求に値する課題である。なぜなら、自然のうちにあるすべてのものは、もともと、何か或る有用な意図を目指しているにちがいないからである。……(この場合には)問題は形而上学的判断の客観的妥当性に関わるのではなく、この判断への自然の素質に関わるのであり、したがって、形而上学の体系のそとにあり、人間学に位置するからである。……(思弁的にかかわり合うためではなく)実践的原理は、その必然的な期待と希望のためにそういう場所を見いださなければ、道徳的な意図で、理性がどうしても必要とする普遍性にまで広がることは出来ないであろうが、……

【理性と道徳的理念】(理性の先験的理念は、)(心理学的理念によって)唯物論を、(宇宙論的理念によって)自然主義を、(神学的理念によって)宿命論を、無効にし、それによって、思弁の領域のそとに、道徳的理念の場所を与えるために役立つのである。そのことが、あの自然の素質をかなりの程度、説明するように私には思われる。

【理性使用の統一】形而上学での理性の思弁的な使用と道徳での実践的使用とが、必然的に統一を持たなければならない。

いかにして学問としての形而上学は可能か
【形而上学は】理性の自然の素質としては現実にあるが、しかし、ただそれ自身としては弁証論的で、人を欺くものである。……学問としての形而上学が、人を欺く説得ではなく、洞察と確信とを要求しうるためには、理性そのものの批判が、次のようなものを、すなわち、ア・プリオリな概念のすべての在庫、これらの概念の、感性、悟性、理性という、異なった源泉にしたがっての区分、さらには、これらの概念の完全な表、これらの概念およびそれらから推論されうるすべての概念の分析、……ア・プリオリな綜合的認識の可能性、……最後にこの使用の限界をも、しかもこれらのすべてを、完全な体系において提出しなければならないのである。したがって、『純粋理性批判』が、そして、実際にこれだけが、学問としての形而上学を成立させうる

(B)『人倫の形而上学の基礎づけ』から(1785)

第1章 通常の道徳的理性認識から哲学的な道徳的理性認識への移り行き
【偽りの約束により困惑を脱するがよいという格率について】私はこう自問する。……すべての人は、困惑に陥ったとき、……偽りの約束をしてよろしいと、と私はみずからに言うことが出来るだろうか、と。そこで私は直ちに気づく。私は嘘をつくことを意志することは出来るが、嘘をつくようにとの普遍的法則を意志することは全く出来ないことを。というのは、そういう法則に従えば、そもそも約束というものが存在しなくなるからである。
私はただ次のように自問すればよい。汝は汝の格率が普遍的法則となることをもまた欲するか、と。
かくて、われわれは通常の人間理性の持つ道徳的認識を考察してその原理に到達したわけである。

【自然的理性は哲学に助けを求めるが……】<以下要約>(ところが)無垢の状態は保存されがたく、学問的知識が必要となる。出来るなら法則をわれわれの希望と傾向とにもっとかなったものに作り直そうとする態度、いわば一つの弁証論が生まれ、通常の人間理性は、みずからの領域を越えて実践哲学の領域に一歩を踏み込まざるを得なくなり、この領域の中で、明確な方針を得ようとする。自然的理性は哲学に助けを求めざるを得なくなるのであって、このことは理性の理論的使用において起こるところと同じである。そこで自然的実践理性も、理論的理性と同様、われわれの理性の完全な批判においてしか安定した状態にいたり得ないだろう。
第2章 通俗的道徳哲学から人倫の形而上学への移りゆき
【現代の道徳論】(現代の)道徳論の書物に目をやると、すぐに目に付くのは、あるいは人間本性の特殊規定であり、あるいは完全性、あるいは幸福であり、ここでは道徳感情、かしこでは神への恐れがあり、これを少々あれを少々というように奇妙な混合をなしている。……(だから)道徳原理を純粋実践哲学または人倫の形而上学として、充分完備した形で仕上げなければならない。……(というのは)純粋な、経験的刺激の外からの付け加えを交えない表象は、人々の心に対し、理性のみを通じて、他の動機よりも遙かに強い影響力を持つから。……われわれは実践的理性能力を、その一般的限定規則から始めて、それが義務の概念を生み出すところまで追跡し、判明に記述せねばならない。

【定言命法「べし」】或る客観的原理が意志を強制するものである限り、そういう原理の表象は、(理性の)命令と呼ばれ、命令の言語的形式は命法(「べし」)と呼ばれる。

【普遍的法則】「汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率に よって意志しうる場合のみ、その格率にしたがって行為せよ」(行為が自然秩序に似た普遍的法則に合致すべき)
(しかしこの法則を守ることが義務であることの証明はまだなされていない)

【普遍的立法意志】「普遍的実践理性と意志との合致の最高条件は、おのおのの理性的存在者の意志を普遍的立方意志として示すところの理念である」

【自律と他律】道徳の最高原理としての意志の自律/道徳のあらゆる不純な原理の源泉としての意志の他律
(これまでの人々の失敗は)「人間が立法意志に従って行為するよう義務づけられていることに思い至らなかったからである。人々は服従しているとしか考えなかった」(他律)。

【人倫の形而上学では解決できない問題】われわれはただ、すでに事実上世に行われている道徳の概念を詳しく考えることにより、それは、意志の自律ということが不可避に所属すること、あるいはむしろ根底にあることを示しただけである。
(以上はまだ分析的な研究であった。純粋実践理性の綜合的使用が必要であ る)

第3章 人倫の形而上学から純粋実践理性批判への移りゆき
【感性界と知性界の両方に所属する自己】次のことを認めるのに必ずしも立ち入った思索を必要とせず、最も普通な常識でも、それなりに、それが「感じ」と呼ぶところの、判断力による不明瞭な区別によって、そのことを認めうる、と考えてさしつかえないだろう。……表象はすべて、対象がわれわれに影響を与えることに応じてのみ、対象をわれわれに認識させるのであり、……われわれは単に現象の認識にいたり得るだけでものそれ自体の認識には至り得ないということ、である。……この区別がいったんなされると……われわれは諸々の現象の背後に、現象ならざる何か他のものすなわち物自体があることを許容し想定せざるを得ないのであり、しかもその際物自体は決してわれわれには知られえず、……。さてこのことによって必然的に、感性界と知性界との区別が大まかながら与えられることになる。そして自己自身においてさえ、……【それ自体においてある姿】での彼の自我を、想定せねばならず、したがって自己を、単に知覚と感受能力とに関する限り感性界に属するものと認め、自己における純粋な活動に関しては自己を知性的世界に属するものと認めねばならない。しかしこの知性的世界についてそれ以上のことを知るのではない。

【理性的存在者と自由】理性的存在者、したがって知性的世界に属する存在者としての人間は、彼みずからの意志の原因性を、自由の理念のもとにしか考えない。なぜなら、感性界の決定原因からの独立性は【自由】であるから。

【定言的命法はア・プリオリな綜合命題】私は私自身を、一方では感性界に属する存在者と認めながらも、知性としてはやはり知性の法則に、……服従するものと認めねばならず、したがって知性界の法則を私に対する命法と見、この原理に従う行為を【義務】と見なければならないであろう。
(「べし」はア・プリオリな綜合命題をなす。感覚的欲望の影響下にある私の意志に、知性界に属する理念が付け加わるから)この事情は、(理論的認識において)感性界の直観に、悟性の概念が付け加わり、かくして、全自然認識の基礎をなすア・プリオリな綜合命題を可能にするのと、大体同じである。

【自由と必然の結合】理論哲学の必ず取り上げなければならぬ課題は、少なくとも次のことを示すことである。……われわれは、人間を自由だというとき、人間を自然の一片として自然法則に従うものと考える場合とは違った意味と関係とにおいて、人間を考えているということ、さらに自由と必然との二つの特質はまことによく両立しうるのみならず、同一の主体において必然的に結合していると考えられねばならないこと、である。これによって理論哲学は実践哲学に対して道を開くのである。

【実践理性は限界を越えてはならない】実践理性は、みずから知性界に入って考えるということによっては、おのれの限界を越えるのではない。しかし彼みずから知性界に入って直観しようとしたり感覚しようとしたりすれば、おのれの限界を越えることになるのである。……実践理性が知性界から意志の対象を、すなわち動因を、得て来ようとするなら、理性はおのれの限界を越え、みずからのよく知らぬことを知っていると不当に主張することになるであろう。

【道徳法則が関心を引く】自由は、意志……を持つと信じている存在者について、理性が立てる必然的前提としてのみ、承認されるのである。意志の自由を説明することが主観的に不可能であることは、人間が道徳法則に対して抱きうる関心を発見し説明することの不可能であることと、同じ事柄である。……ただ次のことだけは確かである。道徳法則はわれわれの関心を引くがゆえに、われわれに対して妥当性を持つのではなく、逆に、道徳法則がわれわれ人間に妥当するがゆえにそれはわれわれの関心を引くのである。

【知性的世界とは】知性的世界とは、感性界に属するすべてのものを、私の意志決定根拠からのぞいた後になお残っている或るもの、を意味するにすぎない。そしてこのように感性界に属するすべてのものをのぞくのは、感性の領域から出る動因からなる行為原理を制限するためであって、
……上の点に道徳研究全体の最高の限界がある。この限界をはっきりさせることは、それだけでも、次の理由によって、大変重要なことなのである。すなわちそれは一方では、理性が、感性界の中で、最高の動因や理解不可能なしかし経験的な関心を訪ねまわって、結局道徳を台無しにするようなことがないようにするためであり、他方ではしかし、理性が、知性的世界という名をもつところの、理性にとっては空虚な、超越的諸概念の空間の中でむなしく羽ばたくだけで、少しも前進できず、妄想の中に正気を失うようなことにならないようにするためである。しかし念のためにいうが、純粋な知性界の理念は、……理性的信仰のために、どこまでも有用なかつ許された理念であることには変わりはないのであって、われわれは目的それ自体の普遍的な国という壮大な理想……によって、道徳法則に対する生々した関心をわれわれの内によびおこすことが出来るであろう。

結論
【理解しえぬことを理解する】われわれは、道徳的命法の実践的な無条件な必然性を理解しないが、しかしその理解しえぬことを理解するのであり、これが人間理性の原理の限界までつきすすむ哲学に対してわれわれの正当に要求しうるすべてなのである。

(C)『哲学・論理学用語辞典』(思想の科学研究会・編)より

【ア・プリオリ】「論理的に経験に先んじている」こと。感性形式(時間と空間)と悟性形式(カテゴリー)は、「経験に先だって」そなわっていて、あとから来る経験に統一を与えるものでなければならぬ、と考えられた。
【カテゴリー】判断を得るときの悟性の働き方の形式。
【悟性】感性に与えられた表象(感覚内容)をカテゴリーにしたがって整理 し、その対象をつくり上げる能力。
【純粋】「時間」と「空間」は「直観の形式」として「直観の内容」、つまり感覚的なものとはまったく別モノと考えられた。このように「経験的なモノ、あるいは感覚的なモノを一切そのうちに含んでいない」ことを純粋という(「時間」と「直観」は純粋直観)。あるいはもっとひろく、われわれが物事を知るとき、「その知られる内容について」ではなく、知るときの「知り方の形式に関するコトガラ」を「純粋である」という(カテゴリーは純粋悟性概念)。
【理性】カントの「理性」の用語法を整理してみると表のようになるが、このうち純粋理性と呼ばれているのは大体つぎの四つ。



(D)『カント入門』(ちくま新書)より



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