■ 第37回『哲学的腹ぺこ塾 レジュメ ■ テキスト:J・J・ルソー社会契約論 Du Contrat social ou principes du droit politiqe』1762年(岩波文庫・他) ■参考文献:ルソー『人間不平等起源論』(岩波文庫)の「序論」と「解説」 山本繁樹による『人間不平等起源論』のレジュメ ディドロ・ダランベール編『百科全書―序論および項目』の「主権者」「自然法」の項目(岩波文庫) カント『啓蒙とは何か』(岩波文庫) ■ 日 時:03年01月19日(日)午後2時 ■ 報 告 者:黒猫房主 1.「契約論」の系譜 「服従契約説」(主人と奴隷の服務契約)――自然法 ↓ 「君民統治説」「暴君放伐論」(専制君主に反対)―封建勢力に支持される。 ↓ 「社会契約説」――ブルジョワジーによって要請される。グロチウス、スピノザ、ホッブス、ロック、ルソー ルソーはこの系譜では、啓蒙期自然法学派の最後に登場したが、啓蒙派と一線を画し従来の自然法を批判している(「不平等論起源論」)。 自然法思想とは「実定法を法的意味をもって規範的に制約し、あるいは基礎づけるものとして論理的には実定法に先立つものとして考えられるような、超越的価値をもった思想の体系」をいう。 ディドロの「一般意志」は、この自然法に内在する悟性であり、その悟性によって公共的な「社会契約」が生まれると考える。 2.なぜ、「社会契約」は結ばれる必要があるのか? 「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」(p29) この契約は、各人の「自己保存と自己への配慮」に動機づけられている。 「不平等起源論」2部の社会状態の結末を想起せよ! 3.ルソーの「社会契約論」 「社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である。しかしながら、この権利は自然から由来するものではない。それはだから約束にもとづくものである。」(p15) 「いかなる人間もその仲間に対して自然な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利をも生み出すものではない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけがのこる。」(p20〜p21) 4.「社会契約」の内容 各構成員が自分のすべての権利を共同体全体に全面譲渡し、それと引き替えに安全や財産に対する権利を受け取る。(p30) (「自然的自由(消極的自由)」から「市民的自由(積極的自由)・「所有権」の獲得へ、P36) 「共和国/政治体」は、能動的には「主権者」受動的には「国家」と呼ばれる。 構成員として、集合的には「人民」、個々には「市民」、法(一般意志)に服従する場合はには「臣民」と呼ばれる。 主権者を構成する市民(公民)は「一般意志」としての個人意志を表明する(選挙→立法)。 一個人としては「特殊意志=自己利益」をもち、その意志の総和は「全体意志」である。 「一般意志」は共通の利益(公益)目指す故に、「全体意志」とは一致しない。(p47) (cf:「公益」と「共通/共同の利益」は同じか?「公民」と「国民」は同じか?「公共体」と「共同体」は同じか?) 5.「社会契約」を担保するものは何か? 「社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何びとにせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる。そして、この約束だけが他の約束に効力を与えうるのである。このことは〔市民〕自由であるように強制される、ということ以外いかなることをも意味していない。」(p35) ルソーは、国家成立の根拠として「力」を否定したが、「自由であれ!」と強制することは正義(法=一般意志)の効力(力)である。(一般意志は、誤らない!) cf:<法内>の正義(=実定法)と<法外>からの正義(「法の脱構築」=デリダ『法の力』)の要請 6.「社会契約」を解除する手段は明記されているのか? 政府の設立は人民との契約ではなく、法であること。(p140) 政府の腐敗を防止するために定期集会(民会)を行い、必ず次の2項目を選挙するべきである。(p142) 1)主権者は、政府の現在の形態を保持したいと思うか。 2)人民は、現に行政をまかされている人々に、今後もそれをまかせたいと思うか。 (cf:「社会契約」は毎回確認されなくてよいのか?) 「国家(=人民)には廃止できないような基本法はなにもなく、社会契約ですらそうである、ということを仮定しているのだ。」(p142) 全市民の満場一致で社会契約を破棄すれば、その破棄は合法的である(p142)。 「その性質上、全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは、社会契約でる。(・・・)社会契約の時に、反対者がいても、彼らの反対は、契約を無効にするものではない。それは、ただ、彼らがその契約に含まれるのを妨げるだけである。彼らは、市民の中の外国人である。」(p148) 7.「一般意志」とは何か、また如何にして可能であるのか? A「国家をつくった目的、つまり公共の幸福にしたがって、国家のもろもろの力を指導できるのは、一般意志だけだ、ということである。なぜなら、個人の利害の対立が社会の設立を必要としたとすれば、その設立を可能なものとしたのは、この同じ個々人の利益の一致だからだ。」(p42) B「特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこる。」(p47) C「なぜ一般意志がつねに正しいのか、またなぜ全部の人が。それぞれの人の幸福をたえず欲するのか? およそ人たるかぎり、このそれぞれの人のという言葉を自分のことと考え、また、全部のために投票する場合にも自分自身のためを考えずにはおられないからでないのか? このことは、次のことを証明する――権利の平等、およびこれから生じる正義の観念は、それぞれの人が自分のことを先にするということから、したがってまた人間の本性から出てくるということ。」(p50) *ルソーの自然法的態度が隠れている? <自分のことを先にする=自己保存=本性>から「正義=共通の利益」を導き出すというレトリック。 D「一般意志は、それが本当に一般的であるためには、その本質と同様、またその対象においても一般的でなければならぬということ。一般意志は全部の人から生まれ、全部の人に適用されなければならないということである。そして、一般意志は、何らかの個人的な特定の対象に向かうときには、その本来の正しさを失ってしまう。なぜなら、そうした場合にはわれわれは自分に関係ないものについて判断するので、われわれを導く公平についての真の原理を何らもっていないのだから、ということを証明する。」(p50) E「意志を一般的なものにするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利益である。」(p51) F「ある法が人民集会に提出されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するかということでなくて、それが人民の意志、すなわち、一般意志に一致しているかいないか、ということである。各人は投票によって、それについてのみずからの意見をのべる。だから投票の数を計算すれば、一般意志が表明されるわけである。」(p149〜150) 「一般性(=経験的・媒介的)」と「普遍性(=超越論的・無媒介的)」の差異に注目すれば、「一般意志」の「限界性/可能性」が見えてくるのではないか? 「社会契約」という相互主観(同時に、相互承認によって法主体の源基となる)による<合意>の妥当性は、一般意志によって合法化されるということで、<法=われわれ>において自己言及的であり、<法=われわれ>として自己組織的でもある。 「社会契約」という初源は、<法>の内部に痕跡を残すことで<法>の外部を示唆しているか? ★補足:社会契約は、<法空間>を生み出す原因(根拠)であり、その契約を結び合う利己的個人は遡及的に<法主体>と見なされる。純粋法学(実定法を徹底化し、法を厳密に適用する考え方)のケルゼンによれば、法の根拠は「根本法=憲法」が初源であり(それ以上に遡及しない)、そこから自己準拠して法体系が自己組織されると考えるわけである。つまり、憲法の外部に「社会契約=これは、<法空間内>の法ではない!」を考慮しない。 ところが憲法の条文に改正条項が明記されていることは、その外部の痕跡を残しているが、改正の正当性の根拠は「社会契約」ではなく、憲法それ自体の条文=法である(自己準拠)。 因みに憲法に改正条文がない場合は、革命があるのみ、自然法的に「革命権」は肯定されるだろう(ベンヤミン「神的暴力」)! 一般意志は、メンバー内の「他者」に対して合法的な正当性(正義)をもつが、メンバー外の<他者>には普遍性をもたない。デリダが、「法の脱構築」というのは、このことを言っているのだろう。★ 「結論部」で「国際法」に言及しているが、それも「社会契約論」の延長で展開されるのではないか? つまり、各国家の意志=特殊意志が共通の利益を目指して、国際法としての一般意志を形成するという展開になるのだろう。 8.「自然状態」から「社会契約状態」へのマトリックス
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