■ 第7回 ■ テキスト:デイヴィト・ヒューム『人間本性論』 ■ 日 時:00年02月20日(日)午後1時 ■ 報 告 者:平野 真 David Hume(1711‐1776) デイヴィト・ヒューム 1735年 『人間本性論』(A TREATISE OF Human Nature)執筆開始 1739年 脱稿、そして、出版 序論 諸学問の基礎の脆弱さ →「ただ信じ込んでいるだけの原理、こうした原理からつじつまもあわせず導 き出された帰結、各部分の間の整合性の欠如、全体における明証性の欠如、こ うしたこととは最も公明な哲学者の体系においてさえ至るところにおいて目に つく」 学者たちは、曖昧なまま難解な議論をぶつける したがって、形而上学的論及について誤った偏見が生まれることになった。 「なんにせよともかく難解で、了解するにはかなりの心の集中を必要とするよ うなすべての種類の議論のことと考えている」 それに対してヒュームが考えるところでは あらゆる学問は、人間本性(human nature)に関係している。 「数学、自然学、自然宗教にしたところで、多少とも「人間」についての学問 に依存している。…もしわれわれが、人間の知性の及びうる範囲と力とをあま すところなく知り、推論に際して用いる観念の本性、われわれがそのときに働 かせる作用の本性とをあきらかにできるならば、これらの学問がどんなに改め られ、進歩するか、とても述べることは出来ないのである。←自身の功績はそ れほど偉大だと自負している。 「こうした進歩は自然宗教の場合にとくに期待できよう。それというのも、自 然宗教は神々の本性を教えるにとどまらず、視野をもっと広げて、神々のわれわれに対する配慮、われわれの神々に対する義務をも考察するのであり、したがって、われわれは論及する者というだけではなく、われわれ自身が論及される当の対象の一つでもあるからである。」 →『自然宗教に関する対話』(結論部) 「人間の学において解決されていないようなものはない」 精神の学(人間本性の学の不利な点) 自然科学に由来する「観察と実験」という方法を用いるとしても、意図的に十 分に計画を立てていても、特殊な問題点において十分になっとくできるような 仕方で、実験は行いうることができない。 精神の学問において、なんらかの実験を行うために、「なんらかの疑いを取り 除こうとすれば、私が考察する事態と私をおかねばならないが、明らかにこの 場合には、このように反省し、あらかじめ計画を立てることで、私の心を自然 に動かしている原理の作用が乱れ、観察する現象からなんらかの正しい結論を 引き出すのを不可能にするのに違いないのである。」 人間本性に関する学問における問題点は、精神において問題が純化できないと いうこと、問題を考察しようとする意識の作用が問題にかかわってしまうとい うこと、それが、困難に導く。 だからこそ、ヒュームは以下のように言う。 「したがって、精神に関する学問では実験を人間生活の注意深い観察から拾い 集めなければならない。そして、その際、交際、業務、楽しみ事での人々の振 舞い方を通して、世の中のふだんのなりゆきに現れるままにとらえなければな らない。」 哲学がここにいたり、ポピューラーなもの、交際と楽しみごととを伴った営み へと生成するのだ。 第一篇 知性について 1.観念、その起源、構成、結合、抽象について 1‐1 観念(心に再現されたもの)と印象(生きられた充実) 観念:思考や推論の際の勢いのない心像(the faint images) 印象:極めて勢いよく、激しく入りこむ知覚を印象と名付けてもよいだろう。 そして、私は心に初めてあらわれるときの感覚、情念、感動のすべてをこの明証で包括することにする。P411 ( Those perceptions, which enter with most force and violence, we may name impressions: and under this name I comprehend all our sensations, passions and emotions, as they make their first appearance in the soul.) 1‐2 私が感じ取る観念は前に感じ取った印象を再現する。P412 そこには類似と再現が働く。 例、暗闇のなかでわれわれが作る赤の観念と陽の光のもとで目に入る赤い印象 とは、程度が違うだけで、本質上違いはない。 観念と印象の類似 観念は先行する印象を持つ。(因果) 実証、子供の教育の例 子供に、緋色やオレンジ色の観念、甘さや苦さの観念を与えるために実物を示 す。子供はその印象に観念を形成する。P413 類似する知覚の恒常的な相伴は、一方が他方の原因であることの証拠である。 1‐3 「感覚印象」、「反省印象」の分離 「感覚の印象」:知られていない知覚から 「反省の印象」:観念に起因する 「反省の印象」=印象が感覚機能を刺激して、各種の快、不快、渇き、飢え、 熱さ、冷たさを感じさせる。この印象が心によって写し取られ、写しは観念と なる。そして、その観念がさらなる印象を産み、欲望を起動させる。 記憶=印象、想像=観念 記憶は変容することができないが、想像は、次々に連想を呼び起こし観念を結 合する。‐P414 1‐4 観念の結合 想像は、観念を自由に結合するように見えるが、実は、一定のルールが働き、 観念間に「引力」が作用するのである。 「類似」、時空的な「近接」、「原因と結果」 そうした論理によって、結合される仕方を「連合」と言う。 1‐5 関係、様相、実体 連合された複雑観念は、関係と様相と実体に分けられる。 関係について: 類似、同一(恒常的で変化しない対象)、時空的な関係(近接、隔たり、上、 下、先、後)、数的規定、性質、反対、火と水のような「因果」や「結果」が 反対のもの 様相:バラバラなもの。結びつける原理が、複雑観念の基礎にならないもの。 実体:あるものに属する(近接の関係や因果の関係と密接に結合している)。美の観念 1‐6 抽象観念 抽象観念、一般観念、P.419 抽象観念は、一般的なのか、個別的なのか? 人間という抽象観念 それは、個別によって数え上げられるわけにはいかないが、かといって、個別 的な性質を失っているわけではなく、一定の「質と量」を持っている。 抽象観念は、表現において、一般的であるが、それ自体は、個別的なものにか かわっている。一般的観念を形作ろうとしても、すべての個別なものを数え上 げることは不可能であるし、そして、質量が多少違っても、類似という性質に よって、一つの観念に纏め上げる。 2‐1 知識と蓋然性について 原因と結果は、経験が媒介されてはじめて、解かるのであるから蓋然的である。 P427 観念の時間的状態、空間的状態、因果性において観察される同一性は、経験を 随伴しているがゆえに、感覚器官を媒介しているのであって、それは、推論で はない。習慣の蓄積によって、そうであるらしいと認識されているだけなので ある。 原因と結果の間には、空間的時間的な条件が重なっており、そこには近接、継 起という問題がある。それは、「必然的に結合」されたものではない。 1.存在に始まりがあるすべてのものは、必然的に原因を持つ、と明言するのはいかなる理由によるのか。 2.しかじかの特定の原因は、必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばなら ないと断定するのはなぜか。一方から、他方へと導く推論の本性、およびこの 推論を信頼する信念の本性は何か。 『自然宗教に関する対話』 わたくしたちは、真にポピュラーな哲学を考えることが出来るだろうか。ポピ ュラーな哲学、ポップ哲学とはなんであろうか? かつて、ジル・ドゥルーズは、シャトレの編集する哲学史のヒュームに関する 極めて明快であり、かつ高度な内容を持った研究の結論部に「民衆的で科学的 な哲学」という表題を与えている。ヒュームの哲学とは、 「一種の民衆的で科学的な哲学であり、一つのポップ哲学である。そして、決 定的な明快さを理想とするが、これは観念の明快さではなく、関係と作用の明 快さである。・・・『自然宗教についての対話』というみごとな作品はヒュー ムの死後(1779)に出るが、ここでは最も複雑なものと最も明快なものとがと りもどされる。多分、これは哲学における真の対話の唯一の例である。という のはここにいるのは二人の人物ではなくて三人の人物であり、彼らは一義的な 役割をもたず、暫定的な連繋を結び、立ち切り、和解する、等々。デメアは啓 示宗教を主張し、クレアンテスは自然宗教を代表し、フィロは懐疑論者である。 ヒューム=フィロのユーモアは、諸<段階>を分ける懐疑論の名のもとに人々 すべてを一致させる仕方だけなのではなく、すでに、18世紀の支配的な主張と さえ袂を分って、未来の思想を先取りして示すためのものなのである。」 (『シャトレ哲学IV』P93) ドゥルーズによるヒューム哲学の完璧といえるまで明快に擁護された内容につ いては、別の論考を必要とするだろう。 しかし、ここで、ドゥルーズが語っている民衆的でポップな哲学を私なりにあ れこれと考えることは出来るだろう。 懐疑論は、ヒュームのもとでは経験論として私たちの前に登場する。それは、 世界を可能世界において考えさせることを要求する。懐疑論者フィロは、デメ アやクレアンテスと暫定的に連繋し、対立し、和解する。それは、宗教と世界 の本質についての洞察を得るためである。私たちにとって、重要なのは、ここ で生じている内容ではなく、フィロが可能にする彼らの議論の場の定立である。 ここでは、多様な立場が、自己を定立させ、複雑に絡み合い、しかも、己の立 場を変更することなく、自己を主張する。ここでは、三者が三者として私たち の前に送り届けられているのである。すなわち 「相対立する意見は、なんらの決着をみない場合でも快適な楽しみを提供する。 また主題が珍しく興味をそそるものであれば、書物はわれわれをいわば、会話 の仲間に連れ込み、そして研究と社交という人生における二つの最大で至純な 快楽を併せ持たせてくれる。」(『自然宗教に関する対話』p5) なんという贅沢なことであろうか。人生にとって、最も、重要な主題、それは、 当時は宗教に関するものであったわけであるが、それについての飽くことない 探求は私たちを社交の場に引きずり出し、そして、つかの間の一致と対立そし て、社交のとりあえずの収束に結果する。そうした三者が、それとして議論の 結果においてもなお定立するということこそが、人間的本性論において、主張 されていることであり、それは、ヒュームの時代をはるかに超えて、一つのユ ートピアの形象になるのである。 |