「哲学的腹ぺこ塾」読書会のレジュメ

■ 第11回
■ テキスト:Simone Weil 『神への愛と不幸』  
■ 日  時:00年06月18日(日)午後2時
■ 報 告 者:栗田 隆子

1. Simone Weil 略歴紹介
1909 パリに生まれる。(兄は数学者のアンドレ・ヴェイユ)
1910 1月重病を患う。以降11カ月闘。以降全生涯に渡り虚弱体質に苦しむ。
1921 偏頭痛の発作が始まる
1923 能力の凡庸さに絶望して自殺を考えるが、この時期を経て願望の効能を確信する。
1925 リセのアンリIV世校に入り、哲学者アランと出会う。以降この師弟の関係は、思想の上でも人生の上でも影響しあうこととなる。
1930 エコール・ノルマル・シュプリエール卒業,頭痛の発作が激化。
1931 アグレガシオン取得。ル・ピュイの国立女子高等学校の教授に任命。
この頃革命的組合主義者のグループに接触。
1933 ロシア革命が失敗したものとして論ずる「われわれはプロレタリア革命に向かっているのか」
1934 「自由と社会的抑圧のための諸考察」完成
   「個人研究」のための一年の休暇を申請
   12月アルストン工場のプレス工となる
。    「奴隷の刻印」を押されたと表現する経験をする。
1935 工場体験を終える。
   直後「キリスト教との第一の出会い」キリスト教はすぐれて奴隷の宗教であると直観する。
1936 スペイン市民戦線に義勇軍として参加するためスペインに入国(が、すぐに事故により帰国)
1940 パリ陥落。ヴィシーヘと避難する。
1941 農民哲学者ギュスターヴ・ティボンのもとで農作業に従事(ユダヤ人政策の一環)
1942 『神への愛と不幸』他多数の論文を執筆。
亡命のため、アメリカ、ニューヨークへ渡る。だが,フランスへ帰国する願望が強く渡航するためにまずイギリスへの潜入を試みる。
11月イギリスへ到着(このあと四ヶ月間多数の論文執筆)
1943 4月、急性肺結核のため意識不明になり入院。8月24日、病気療養中も食事を拒否したことから、衰弱死。

2.『神への愛と不幸』について
これは1942年春マルセイユで書かれ、亡命のための出国(1942年5月17日)の数日前に、信仰上の指導者ぺラン神父に託された随想である。ダヴィ(*)は、この随想について「『神をまちのぞむ』の中で、不幸に関するページは、この主題について今日までに書かれたもっとも美しいものである」と述べているが、不幸論として最初の結実である。(15)

2-1一般的な(と栗田が捉える)<不幸>の概念についての解釈
彼女は思弁によって<不幸>に関する体系的な思想を形成した作家ではない。1930年代の労働問題・政治問題に自ら進んで参加し、その主体的な経験によって問題の回答を探求した実践的な思想家である。(3)

彼女はその生涯を通じてつねに、他者の苦痛を見聞するや否や直ちにその痛みを分かつ人間となった。そういう<不幸>の経験の頂点に1934年から1935年にかけての工場生活が位置することには、おそらく誰も異存があるまい。(10)

(しかし)工場生活それ自体の中では使用されなかった「不幸」という語が同一の工場経験を反芻しつつ語る時期になって、六年ないし七年の時期を経過してから初めて現れている。(同上)<=<不幸>という言葉すら出なかったということ。「言葉がない」という状態をヴェイユ自身が経験したということが,工場労働におけるこの事実は、シモーヌ・ヴェイユにおける<不幸>の経験が単に形而下的(phisique)な経験の時期と、これを反芻して思想にまで昇華させてゆく形而上学的(meta-phisique)な経験の時期とに分かれていることを暗示している。<不幸>という用語の有無が標識となり、彼女の経験はいわば、体験記と反芻期とに区別されることが考えられる。=>『神への愛と不幸』はまさにこの『反芻期』の論文といえる。(11)

(以上参考資料 大木健『シモーヌヴェイユの不幸論』(勁草書房)。括弧内の数字はページ数)
* シモーヌヴェイユ研究者として著名。著作として『シモーヌヴェイユ入門』(勁草書房)『シモーヌヴェイユの世界』(晶文社)がある。

<<この「体験」とそれを反芻して生まれた「言葉」との関係を「不幸」という言葉をキーワードとしてテキストを読んでみたい。それは、前回のテキストの「サバルタンは語ることができるか」というところで、問われた「言葉」と照らし合わせて読んでいくと、多様な「読み」が実現されるのではないだろうか。>>

3.読書会の際のキーワード
「不幸(malhereux)」「同意(en hupomene)」「接触(contact)、もしくは触れることtoucher)」
「彼ら(不幸な者)に起こったことを表現する言葉を彼らは持たない(avoir pas de mots pour eprimer ce qui leur aririve)」 +「盲目のメカニズム」+「へだたり(distance)」+『方向付け(oriente』

「神をまちのぞむ」(en upomene)<=ギリシア語「耐え忍んで」。Sがもっとも好きだった言葉。ギリシア思想の影響+「神に身をささげ、すべてを神にゆだねる」(ペラン)
・・・わたくしが生まれてからずっと立っている点、すなわちキリスト教とキリスト教でないすべてのものとの交差点を立ち去るとすれば、わたくしは真理にそむくことになるでしょう。わたくしはいつもこの点に、教会の入り口に、身動きしないで、動けないで(傍線栗田)、<en upomene>(これはpatientialよりもずっと美しい言葉です)にとどまってきました(ペラン神父への手紙4『霊的自叙伝』よりp41)。

4.『神への愛と不幸』(括弧内数字は春秋社のテキストのページ数)
二つの観点から
不幸からみる社会的・個人的という枠組み
経験における「言葉のなさ」そして「言葉」の復活という観点で「神の愛」について考えてみる。

A.苦しみと不幸の違い(81)
*不幸は還元(reduction)できないもの
「人間は奴隷になるとき、自分の魂の半分を失う」
B.不幸と肉体(82)
* 不幸は肉体的な苦痛を含む、がそれだけではない。<=>苦悩(souffrance)はロマンティックなもの、文学的なもの
* 肉体の苦痛だけでは魂に痕跡を残さない<=>が長く続く苦痛は不幸になる(ニーチェ・パスカル参照)がしかし肉体的な苦痛がまったくなかったとしたら魂は不幸を感じることがない。肉体的苦痛が軽くても不幸の現存を認める場合それはひどい(terrible)ものとなる。
C.不幸と社会的因子(83)
本当に不幸が存在するといえるのは、人生を引っつかみ根絶やしにするような出来事が起こること。
*直接にか間接にか、社会的・心理的・肉体的にその生命のすべての部分に達していなければ、本当の不幸はない。社会的な因子は本質的なものだ。何らかの形で社会的な堕落かその心配かがなければ,本当の不幸はない。
* 苦痛と不幸の境界線は客観的に定められるものではない(この差はある)。この教会は純粋に客観的なものではなく、個人的な因子が入ってくる。 =>不幸における社会と個人の関係(ポイント)
肉体の苦痛であると同時に魂の苦痛であり、社会的な転落である極端な不幸は、このくぎのようなものだ。釘の頭は空間と時間の全体を通じて散らばるすべての必然である。(95)
D.神と不幸(83−84)
* 人生の大きな謎は不幸である。 * 神が不幸に力を与えたということ=>「神は罪のない人々の不幸をあざ笑う」(ヨブ記9-23)
* キリストも叫びをあげずにはいられない
* ヴェイユにおける「神」とは「盲目的な必然性」という性質を持つ自然とニア・イコールな存在(イコールではないが・・・)
* 不幸は神を不在にする。
* 不在=愛するものがない。しかし「愛しようとの願い」を持ちつづけるということ。<=>魂が死ぬ。
* 現在のように不幸が誰の上にも垂れ下がっている時代・・・(時代的背景)
E.言葉と不幸(83) 半分つぶされた虫のように、地面の上をのた打ち回るような打撃を受けた人々にはじぶんの身に起こったことを表現する言葉がない。彼らが出会う人々は、多くの苦しみをなめていても、本来の意味の不幸に触れたことがなければ、それがどういうものなのかぜんぜんわからない。・・・それはほかのどんなものにも還元できない独特のものなのだ。そして自分が不幸で傷ついている人たちは、だれにも助けを与えるような状態ではないし、助けを与えようと欲することもほとんどできない。

不幸をへだたり(distance)としてみること=>神がへだたっているということ。=>愛を抱きうるものをさまざまな「へだたり」に創造した。神は愛である、けれどもその「愛」はもっとも、「愛」から離れた場所にいる。不幸にの感受性(1)の状態。
だから愛することのできないところで愛することこそ、神との絆を結ぶということ
=>至高の愛が至高のきずなを結ぶこの分裂は、たえず宇宙を通じて、沈黙の底に、離れて溶け合う二つの調べのように,純粋ではげしい調和音のように鳴り響いている。これこそ神の「言葉」なのだ。創造のすべてはその振動に過ぎない。(86)

人間の理解できる言葉<=>神の言葉
「神の言葉」(ロゴス)とはまさに「関係(rapport)」である(SW『前キリスト教的直観』より)。
cf.『鉄の帯』(暴力)も縛られた人々は、暴力によって同じ反応を示すものとして扱われるために,互いに言葉を交わしながら関係性をつむいで行く必要性のない同じ存在、つまり一者(one man)となる。そこにはひとびとの<あいだ>に存在する空間が存在する余地がなくただ目的―手段といった単線的な論理が人々を支配している・・・第一の破壊を、関係性の網の目を人間の内面から破壊することだとすれば,他方の破壊はさらに直接的に人から言葉を奪う。暴力が個々の体へと向けられ、ひとが自分の苦痛に閉じ込められるとき、その結果として人は言葉を失ってしまう。
(岡野八代『暴力・ことば・世界について』現代思想‘00.2月号)
新しい関係としての「言葉」。愛が最も愛から隔たっているということ、愛≠愛であるという言葉以外に「不幸」を表すことができない・・・?従来の「言葉」というのではない、矛盾を内側に秘めている言葉・・・?
*「個人的」な問題は「政治的」な問題である(フェミニズム・テーゼ:Sはアンチ・フェミニストであったが・・・)。
*道徳は社会存続のために外側からの規範としてあるはずのものなのに自分の内側に存在するものとなる。
F.不幸な人々の感覚(84) 不幸が魂をかたくなにし、絶望させるのは、不幸が魂の底まで、いわば真っ赤に焼けた鉄で,自分自身に対するあの侮蔑、あの不快、あの嫌悪を刻印し,罪と汚れの感覚を刻印するからだ。
G.罪と悪
それは論理的には罪の行いが生み出すはずであるのに実際には生み出さない。悪は罪のない不幸な人の魂の中で感じられるのだ。
H.不幸な人への対応
不幸な人への「同情(compassion)」は奇跡である(水の上を歩くよりも)。

わたしたちの理性が罪に結び付けるすべての侮辱,すべての嫌悪,すべての憎悪をわたくしたちの感受性は不幸に結びつける。キリストが魂の全体を占めている人々を除いては、すべてのひとが、ほとんどだれも意識していないけれども、不幸な人を侮辱している。
(不幸における)感受性の法則
(1) 侮蔑・嫌悪・憎悪が不幸な人はまず自分に向かう
(2)そこから毒のある色彩で全宇宙を彩る。
超自然的な愛が残っているか否かで(2)への移動がくいとめられる。
I.不幸と無気力
充分に長く不幸だった人には、自分の不幸との一種の共謀関係がある。この共謀関係は自分の運命を改善しようとするすべての努力に付きまとう。それはそのひとが不幸から解放される手段を探すのを妨げ、ときには解放を願うことまで妨げる。するとその人は不幸の中にすみついて、人々はその人が満足しているのだと思うこともある。
不幸な人は恩恵を与えてくれたものを憎むときがある。
神だけが不幸な人を過去の不幸から解放することができるが、しかし神の恵みでさえも癒しがたく傷ついた自然性をこの世で癒すことができない。(たとえば・・・サバルタンということとどう関係してくるか?慰安婦問題等々)
J.不幸・へだたり・必然性
神は最大限へだたりに遠ざかる。
そのへだたりを我々はうずめることはできず、「今の場所にくぎ付けになっていて,ただ視線が自由であるだけで必然性に従属している」(87)
神の摂理とは盲目のメカニズムとして必然性が働く。

メカニズムが盲目的でないとしたら、一切の不幸はないはずであろう。不幸は何より無名なもので、とらえた人々から人格性を奪って、その人々を物にしてしまう。不幸は無関心であって、
不幸に触れるすべての人々を魂の底まで凍らせるのは、この無関心の冷たさであり、これは金属のような冷たさだ。彼らはもはや熱を取り戻すことがない。かれらはもはや自分が誰かであることを信じなくなる。(87)

不幸の中に偶然が含まれていなければ,不幸はそう言う力を持たないことだろう。
ヴェイユの言う「必然性」とはおそらく我々にとっては「偶然」であるとしか言いようのないこと。

わたくしたちがひとつの細胞として生きているこの世界は、神の愛が神と神との間に置いた隔たりなのだ。(89)
=>物質としての従順性を生きることこそが神へと同意すること<=スピノザの影響がみられる。ただし自然=神とは微妙にならない。「超自然的な愛」は「自然」ではない(はず)。自然のメカニズムを超える「新しい必然」をヴェイユは考えているから・・・。
人間は決して神の服従から抜け出すことはできない。
機械的な必然<=>新しい必然。超自然的な必然。
「自然の必然」「機械の必然」を受け入れようとすること=>「仕事が体の中に入っていく」
その「同意」(これこそがen hupomene)<=無限の空間と時間を超えて、それよりも無限の神の愛が「捉えに来る」

* ただし愛は「方向付けoriente」」であること<=>「状態」ではない(95)
「方向付け」という概念(cf. Sur la science/ la science et la perception sur Descartes)ただしそこではorienteではなくdirigeeという概念について考察。
DESCARTES"REGULAE AD DIRECTIONEM INGENII"
規則第一:研究の目的は、現れ出るすべての事物について括弧とした真実な判断を下すように精神を導くこと、でなければならない。
このデカルトの「方向付け」を疑ったのが彼女の卒業論文である。この精神を導くためには、物質の受動性にいったん還元し、物質をobstacleとして捉え、そこからまっすぐに進むのでなく「ジグザグに進むlouvoyer」しながら進むことこそが真の思惟とヴェイユは考える。<=>またずいぶんゆっくりとしか歩かない人でも、「まっすぐ」な道をいつもたどれば、走ってしかも道からそれる連中の及ばないほど、ずっと先へ進めるのです。(『方法序説』第一部)

Diriger 1.指導する、2.経営する、3.感情を制御する、4.導く
Orienter1.向きを決める2,方針、進路を指導する、道案内する<=神の方向に「向く」というときこちらが良く用いられている。



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