思想・文化情況の<現在形>を批判的に読む
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●15号の内容<休刊号>(03/12/01発行)● ◎装幀好き――天野忠の十三冊の本/涸沢純平(「編集工房ノア」代表) ◎手製本は周回遅れのトップランナー/藤井敬子(画家・装幀家) ◎オブジェとしての装幀/吉本麻美(うらわ美術館学芸員) ◎装丁違論/川口 正(「アース・インテグレート」代表) ◎「La Vue」の〈新創刊〉に向けて――自己の脱構築とさらなる他者との交響を目指して/山本繁樹(発行人) ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・文化センター他に配布 ■15号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・紀伊國屋書店出版部・光村推古書院・解放出版社 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ■15号編集後記 ★ブック・デザインは難しい。その一番の理由は「好き・嫌い」というものかもしれない。大切にしたいことではあるが、大切にしすぎてもいけない。本づくりには関わる人が多いからだ。執筆者、編集者、出版者、デザイナー、営業マン……、そして手にしてくれるであろう人たち。みんなの意見を聞いているとかえって混乱してしまう。だから方向を整理し決定する編集者の力がものをいう。涸沢さんの原稿から、天野さんの自著の装幀に対するスタンスがよく伝わってくる。好みはあるがあえて口にせず「お手並み拝見、楽しみにしていますよ」という目は、原稿を本という形に仕上げる側として大変に重くてやりがいのある、有難いものだと思う。ずっと製作をさせていただいてきた「La Vue」が今回でこの媒体形式を終えることになる。凝ったことはいっさい無しのシンプルな紙面は、黒猫房主の文字がいっぱいだとうっとりという「好み」だ。次の新しい形式が、どう変わるのかが楽しみである。(いのうえなおこ) ★「La Vue」も第15号である。これまでに、この紙面で出会った文章たちは、その時その場所で思考した筆者らによる、書くという行為の産物である。そしてまた、ここは、書くことや表現すること、出版すること自体を問い直すための場所でもある。だからここでの文章たちは、もともと容易に共鳴したり調和するようなものではない。おそらくは、それを承知で仕掛け人の役割を引き受けてきた黒猫氏の思いを、あらためて支持したい。(小原まさる) ★『「編集知」の世紀』(日本評論社)の寺田元一さんによれば、十八世紀フランスは、知情意の交流を通じた「公衆」勃興の時代であり、『百科全書』に代表される「啓蒙」とは、実は「編集知」のことであったという。人から読んだり聞いたりしたことを、自分が書いたり口に出す、出している、出してみる。そんな「私」の「編集」を考えさせられる。(加藤正太郎) ★今年の六月に、本の流通に携わる仕事からの方向転換を図った結果、むしろ直接本に触れる機会が増えた。そこでは本の構成要素としての紙や糸、糊などの部材の物理的構造にまで踏み入り本を観察する必要も生ずる。この本にまつわるマスからミクロへの視点の変化は思いのほか刺激的だ。そんな個人的な事情も手伝って、ルリユールを手掛ける藤井敬子さんの文章に興味を惹かれた。(山口秀也) ★涸沢純平さんの初稿を読みながら、著者と編集者との遣り取りを羨ましくかつ味わい深く感じた。また、編集者として著者に応接する態度や本造りへの拘りなど、名編集者から学ぶべきことは多い。また詩人・天野さんの横顔を描いた本稿は、関西の詩壇を語る上でも貴重な資料だと思う。それにしても、その天野さんから手造りの限定壱部也の本を贈られるというのは、編集者冥利に尽きるだろう。その貴重な書影を掲載できた本紙もまた光栄である。 (黒猫房主) |
●14号の内容(03/08/01発行)● ◎交換する声――青原さとし『土徳――焼跡地に生かされて』/今野和代(詩人) ◎『銀幕の湖国』番外編/吉田 馨(愛知大学・宝塚造形芸術大学非常勤講師) ◎映画『「夜と霧』の中で/康 守雄 ◎映画から届いた「肉声」/橋本康介 ◎「映画多彩」アンケート回答 ■投げ銭価格100円より・B4判・10頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・文化センターに配布 ■14号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・新泉社・紀伊國屋書店出版部 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ■14号編集後記 ★私自身は京都出身なのだが、五年ほど滋賀県は湖西(堅田のあたり)に住んでいたことがある。そのころ、かつて琵琶湖で多くの日本映画が撮影されていたというのを、あるテレビ番組で、俳優の佐藤蛾次郎が自らのロケ体験をもとにかのロケ地を、地元の人に話を聞きながら歩いているのを観たことがある。それから自分でも、琵琶湖大橋からすこし北にある琵琶湖畔の松林の辺りを見に行ったことがあるが、なるほど海の場面はこれで撮れるだろうと合点がいったことを思い出す。 ★最近も偶然テレビで市川雷蔵主演の『花の兄弟』をやっていて、あまりのテンポの良さに舌を巻き、このころの市川雷蔵主演の大映京都作品をもっと観たいと思った折だったので、吉田さんの原稿を読んで思わず笑みがこぼれた。 ★『花の兄弟』では琵琶湖ロケのあとは見受けれらなかったが、数年あとに製作された同じ市川雷蔵主演の大映京都作品 『てんやわんや次郎長道中』(森一生監督)や、「花の兄弟」の八ヶ月前に製作された『てんやわんや――』と同じ主演、監督の『おけさ唄えば』(驚くことにこの間、市川雷蔵は大映京都で七本もの作品に主演している。因みにこの年一九六一年の市川雷蔵主演作品は十二本!)などでは滋賀県ロケがあったのかも知れない。 ★吉田馨さんの原稿と先のテレビ放映のおかげで、この時代の日本映画をもっと観たいという気持ちにさせられた。(山口) ★私の幼少の頃は、夏休みとか冬休み前になると小学校で映画の割引券が教師から配布されていた。いまでは考えられないことだろうが、業者癒着とか批判する声などなかったのだろう。映画鑑賞が情操教育の一環として、おおらかに捉えられていたのかも知れない。しかし、それも中学校に上がってからはなくなったように記憶しているが、いまや定かではない。 ★その割引券で観た映画で『ゴジラ』がある。そのゴジラとモスラが対決するのは、ゴジラシリーズの何作目だったろうか。「モスラ〜やモスラ」とリフレインしてモスラを呼び寄せる、ザ・ピーナツの歌声の記憶は鮮明だが、その歌声もさることながらその肢体に、「胸キュン」した同世代は多かったのではないだろうか。 ★同じ頃に、アメリカ映画の『キング・コング』を観たように思う。海中深く沈んでゆくキング・コングが右手(だったと思う)を差し上げてその掌の中に人間を入れて助けるというシーンには、子供心に感動した。このラストシーンは、『ターミネータ2』のラストシーン(ターミネータが溶鉱炉に自ら身を沈めながら手を差し上げる)で反復されているように思う。ターミネータは未来からやってきて自己犠牲によって人間を救うというスペクタルな物語だが、おそらくは何度でもターミネータは復活する。それは私たちがターミネータを救世主として誤読しているかぎり、ヒーローは変身しながら物語は繰り返されるだろう。それが、仮にターミネータ役の俳優が政界に出馬するという事態の変奏であったとしても。(黒猫房主) |
●13号の内容(03/04/01発行)● ◎たちあがる ことば/寺田 操(詩人) ◎贈ることの宇宙/小原まさる(文化人類学研究者) ◎美って何なんだ〜?/ひるます(漫画家) ◎アカデミズム再考―三十数年ぶりに大学生になって思い直すこと/元 正章(牧師・神学部院生) ◎わかるということ―ある数学の体験/加藤正太郎(教師) ■投げ銭価格100円より・B4判・10頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・文化センターに配布 ■13号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・解放出版社・人文書院・紀伊國屋書店出版部 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ■13号編集後記 ★本号の加藤正太郎氏「わかるということ……ある数学の体験」を読んで「分からない」ということばが思い起こされた。はっきりいって内容がまるでわからなかったからだ。定義や公理や定理が頭に入っていないので細かい議論がまったく理解できなかった。しかし、加藤氏論稿の冒頭部分「xが出てきたときに、僕はがっかりしたのを覚えている」と言った友人の話を引き合いに、「発見の楽しみだった幾何の問題を、ある種の計算が解いてしまうことへの失望」を語る部分に興味を覚えた。 ★そこで、「分からない」ということに若干思いを馳せてみる。人間と人間の関係で、いちばんたいせつなのは「なんだか分からない」ということなのだとは、前号でも引用した内田樹氏のことば。先生役の内田氏と女子学生の掛け合いが軽妙な雑誌連載での最終回「「他者」とは何か? の不可能な問い、について」(「街場の現代思想」内田樹、「Meets Rejional」No.178、2003、04)の中で、「コミュニケーションを動機づけるのは「分かり合う」ことじゃないんだよ。「分からない」ということなのさ。「そうなんですか…」。「分からない」赤ん坊には自分の前でにこにこしている人が「誰」だか分からない。(中略)でも、ここにはいかなる知的了解もないにもかかわらず、ふたりをつなぐものがある。」とウチダセンセーが言うと自然と「分かった」様子のジョシガクセーは、間髪を入れず「愛?」と答える。 ★このように「分からない」ことが人間関係の揺ぎない起点になるべきなのだ、というかんがえに触れたときムーンライダーズの「HAPPY/BULUES'95」という曲を思いだした。「ぼくの考える億万時間は/きみの感じてる一瞬/違いがあるよぼくら/気にすることはないよ/これが愛」という魅力的な歌詞と、分子がブルーで、分母がハッピーという意味の素敵なタイトルをもつ曲では、十全な相互理解(つまり「分かった」)を基礎に置かない「愛」が歌われている。全部わかってる愛って苦しいし、おもしろくないハズだ。(山口) ★寺田操氏の原稿を読んで「まさしく「声に出して読みたい」と思わせるテキスト」という感想には共感する。私自身音読することがあるからだ。音読することによって、『死霊』の呪文がとけたという感想も面白い。あの埴谷の文体は、もともと大仰というか、かぶいている感じだから劇画的なんだと思う。 ★また「私はいつからか自身の読書に関して気づいたことがある。それは、書物を黙読しているのだが、いつも声にならないかすかな声で小さくつぶやくように朗読していることを」この感じも、よくわかる。私も、言葉を刻むように音にならない音読をしているからだ。発声になった言葉を空気を振動させて外から聞くのではなく、黙読する声こそが<内語としての私語>の本質のように思う。 ★その埴谷の『死霊』が講談社学芸文庫として再刊された。その2巻の解説で鶴見俊輔氏は「六十年前、はじめてこの作品に出会ったとき、『死霊』は、私にとって、とらえようのない作品だった。長い年月をへて、ふりかえってみると、『死霊』でくりひろげられた妄想の中に私自身が一つの浮島としてあるという感想をもつ」と書いている。老哲学者にして「浮島」という言葉は両義的で重いなあ。いま話題の『〈帝国〉』の共著者アントニオ・ネグリ氏は鶴見氏より少し若い70歳だが、鶴見−吉本隆明を横断して〈帝国〉の「multitude の可能性」を考えてみることは現在的課題のように思う。(黒猫房主) |
●12号掲載内容(02/12/01発行)● ◎武田百合子『ことばの食卓』/内浦 亨(図書出版「冬弓舎」代表) ◎往還の湖――橋本康介『祭りの笛』覚書断片/今野和代(詩人) ◎マカール・ジェーヴシキンという性格/中島洋治(元編集者) ◎狂気なき狂気の現代―バタイユ『至高性』/宮山昌治(投稿者) ◎ありふれた平凡な自分とありふれた平凡なコトバ/安喜健人(編集者) ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 ■12広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・・ひつじ書房 ・アリーフ一葉舎・紀伊國屋書店出版部 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ■12号編集後記■ ★今回の特集で思ったこと。寄稿者それぞれの紹介する「自分に影響を与えた本」そのものが興味深いのはもちろんだが、各人の視点や距離のとりかた、自分が今までに出逢った本という対象を語るその語り口が、その人の本質を表しているような気がしておもしろかった。内田樹が『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)で、ロラン・バルトの思想を「ことばづかいで人は決まると言って」いる、と大胆にもひとことで要約していた。これを敷衍して、寄稿者の<ことばづかい>にこそその人が現れているというのは穿ちすぎだろうか。 ★もうひとつ思ったのは、やっぱり本読みには王道なんかないということ。つまり、本来本読みに常道なるものがあって、その道のプロがいるなんてことはないんだということ。そんなふうなことを考えていたら、あのスーパーエディター、ヤスケンこと安原顕が、余命ひと月であることをみずから発表し、書評や日記を書き続けているのをウェブで知った。この人はたしかに本読みのプロといえる数少ないひとりだろう。病に倒れてもなお、彼の本読みにたいする姿勢には並々ならぬエネルギーを感じる。この日記からはしばらく目がはなせそうにない。 ★また内田樹は、「知性がみずからに課すいちばん大事なしごとは、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです」ともいっている。どうやら今回の「La Vue」は、執筆者各人の「大きな問い」の集積であるようだ。(山口) ★概して人文書が売れない。期せずして? 紀伊國屋書店さん発行の「KINOKUNIYA TIMES」の読書週間号では、「私の人生に最も影響を与えた一冊」を特集している。まぁ、特集として人が考えることは同じようなものであるが、各界の著名人の回答(99人)がコメント付きで掲載されている。 ★たとえば、構造主義生物学者で全共闘世代の池田清彦氏は『望郷と海』(石原吉郎)を挙げているが、本紙「La Vue」においても、三十歳の安喜氏がこの本に思いを巡らしている。私の記憶では、『開かれた言葉』(長田弘)などと同じ函入りの筑摩評論シリーズとして刊行されていたはず。その後、ちくま学芸文庫になったが、それも現在は品切・重版未定となっている。この品切ということに時代の移ろいを見る思いがするが、いっぽうで確実に読み継がれているということも安喜氏の文章には顕れている。石原氏は、声の大きな詩人で永らく筑摩書房のPR誌「ちくま」の編集長を務めていたと聞く(これは石原氏ではなく、吉岡実氏の間違いですので、お詫びしてこの場で訂正します)。 ★また詩人の長田弘氏は、夏目漱石の『吾輩は猫である』を挙げ、「書くことはその人でなければ書けないことを書くこと。そのことをいやというほど思い知らされたのは『吾輩は猫である』の漱石である」と記している。抜群の読み手でもある長田氏の言葉は、書くことの本質を突いている。そして人生を一冊の本に喩えるならば、私は私でしかあり得ない生を、いまここで、生きていると言えるだろうか。と、私は猫の額に手を遣る。(黒猫房主) |
●11号掲載内容(02/09/01発行)● ◎「グローバリゼーションと身体のテクノロジー」美馬達哉(医療文化研究センター、京都大学医学部助手) ◎「ポストWTCの建築」米正太郎(建築家) ◎「肉声の明滅」上山和樹(『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)の著者) ◎「技術革新と個人出版」8月サンタ(「日刊デジクリ」ライター) ◎「翻訳学の可能性」岩坂 彰 (翻訳家) ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 ■11号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・・ひつじ書房 ・アリーフ一葉舎・紀伊國屋書店出版部 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ■11号編集後記■ ★本紙7号では「映画」学を、本号では「翻訳」学の原稿を取り上げた。どちらも実践に重きを置く「職人の哲学」が底流にある。職人が学者より低く見られる傾向にある(と思われる)のがこの国だ。ふたつの学が、学の意匠を身に纏った瞬間から、学問の権威に絡めとられる可能性が懸念される。それは、編集子もかつて夢想した「編集」学しかり、最近ではカルチャル・スタディーズもその辺りの問題に突き当たっているようだ。しかし、今挙げたものや「考現学」のようなものまで、われわれの生活を取り巻く「周辺」にこだわり、それぞれの微に入り細に穿った考察によって、そのものの本質を見い出すというスタンスが、学問の体裁にこだわる姿勢とくらべた時、編集子個人としては、ピッタリとフィットするように感じられる。 ★本稿では、究極の翻訳ソフトは、一個の人格をもつと岩坂氏はいう。突きつめれば、究極の映画学は映画そのものに、私がたまに書くサッカー評論(らしきもの)は、サッカーそのものになろうとしているのか。すると究極の翻訳は、翻訳すべき言語にもどろうとする欲望を備えているのかもしれない、などと、ひとり考えを脱線させながら、岩坂氏の試みに素直にエールを送りたくなった。 ★編集子も引越しを始めとして、すべて新しいこと尽くめの生活を送っています。仕事、プライヴェートとも難問は山積していますが、プレッシャーをこの暑さとともに吹き飛ばすべく努力の毎日です。(山口) ★最近、「勝ち組」という言葉が氾濫している。たとえば法科系大学のCMで、進路指導の高校教師が生徒に「将来、何になりたいの?」と聞くと、生徒は「勝ち組」と答えるという次第。リストラに怯える団塊のジュニアたちは、職業に対する夢とか理想を語る前に、リアルに経済的な「勝ち組」としての能力を「目指す/目指せ」というわけだ。CMは時代の気分を巧妙に反映する。この気分をもたらしているのが「グロバリーゼーションという妖怪」である。その妖怪は「ネオリベラリズム」や「ニューライト」という名で呼ばれている動きと密接に結びついており、「自己責任」や「規制緩和」という改革世論を誘導し、敗者や弱者の排除を合理化する。 ★次に「勝ち組」という言葉から連想するのは、ブラジル移民の日本人たちの間で、日本の敗戦を認めぬ「勝ち組」と敗戦を認める「負け組」との間に殺人を含む「思想的対立」があったことである。「勝ち組」は日本の敗戦は敵国の謀略であるとして敗戦の事実を認めようとしなかった。敗戦直後の移民の八割は日本の勝利を信じていたとも言われ、また九割以上の人たちが永住希望者ではなく一旗上げて故郷に錦を飾る心積もりだったとも言われる。その彼らにして見れば、帰国すべき「本国=想像の共同体」は勝利していなければならない。また「日本人」として経済的にも成功しなければならないという二重の意味で、「勝ち組」としてのナショナルな心情が増幅されたと言えるかもしれない。 ★CMの「勝ち組」とブラジル移民の「勝ち組」との間には、もちろん直接の関係はない。だが案外、通底している心情があるかもしれない。 (黒猫房主) |
●10号掲載内容(02/06/01発行)● ◎「出版物、大好き」ミルキィ・イソベ(装幀家・アートディレクター) ◎「「本をめぐるアート」をめぐる試み」吉本麻美(うらわ美術館学芸員) ◎「偶像崇拝の記号論」岩田憲明 ◎「Beとして存在した芸人マルセ太郎」梨花(パフォーマー) ◎「男が暴力をふるう本当の理由」沼崎一郎(東北大学教員) ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 ■10号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・・解放出版社・図書出版冬弓舎 紀伊國屋書店出版部 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ■10号編集後記■ ★レイアウトのためにイソベ氏と吉本氏の原稿を、ほぼ同時に拝見した。そして驚いたのは、まったく立場が異なるにもかかわらず、お二人が「本(あるいは出版物)」と呼ばれている物体の、様々なカタチや使い方や意味・主題・思い入れなど、媒体としての独自の魔力に、関われば関わるほど解らなくなる楽しみを感じておられることだった。その不可思議な魅力の大きな柱の一方は「見た目・形」、もう一方は「テキスト・意味」である、と書いたとたんにそれは境目があやふやになり溶け合ってしまう。そしてまた、大量に印刷される消耗品としての出版物にできないこともあれば、工芸の範疇にある手作り本にできないこともある。 ★去年、知人の装幀家の作品のためのテキスト(本文部分)をつくらせていただいた。フイルムに赤で印刷したデザインをほどこした本文は、美しい赤の皮で装幀され、海の向こうに送られた。書物の歴史の違いもあるが、今の日本に比べるとヨーロッパでは「オブジェとしての価値も併せ持つ書物」についての理解と文化に恵まれており、コンペや展示もひんぱんに行われるという。ふたりであれこれ相談してつくったこの世に一冊の本は、現在もヨーロッパのどこかをめぐり歩いている。 ★「オブジェとしての書物」に関心が生まれたことから、うらわ美術館の存在を知り、今回吉本氏に快くご寄稿いただけた。また、イソベ氏は「そのスジ」では知らぬ人のない装幀家・エディトリアルデザイナーで、私の書棚の奥付の何%かにお名前のある方である。美しい本をつくりつづけてきた出版社がここ数年で消えていくのを私はただ傍観するしかないが、色々な方向から「本」への熱い問いかけと愛情、そして秘めた可能性についてこうして語ってくださる方がいることを、今回嬉しく感じた。 (いのうえ なおこ) ★前号の編集後記で誤字や脱字のことを話題にしたが、案の定というか、重大なミスを犯してしまった(今号の「訂正とお詫び」を参照)。こういう話題を紹介したときほどミスを犯しやすいのは、「マーフィーの法則」(懐かしい?)だろうか。油断大敵です。 ★DV問題の核心は「支配」をめぐる権力関係であるということを、沼崎論考は強く示唆している。その「支配」を隠蔽する言説として、バタラーは悪いのは自分ではなく相手に非があるからだと責任転嫁する。だがこの責任転嫁は、「差別」をめぐる言説にも頻出する同型のトリックである。被差別者同様に被害者に責任はないのだが、被害者側に負い目を感じさせているのは、まさにその関係の「政治性」にこそある。フェミズムの原理に「Personal is Political.(個人的なことは政治的なことである)」という論点があるが、DVの事例はそのことをよく表象していると思う。家族関係や親密なパートナー関係にも通底している「政治性」を如何に脱権力的に開いていくのか。お互いの対等性(対称性)を如何に保証していくのか。それらは困難な課題だが、その都度の関係における「無意識/意識」の権力性を自覚することから始められなければならない、と思う。(黒猫房主) |
●9号掲載内容(02/03/01発行)● ◎「暴力と男性――バタラーたちとともに」中村 正(立命館大学教員・メンズサポートルーム主宰) ◎「変革の起点としてのコミュニティ」榎本輝彦(自治体職員) ◎「マスコミは生活に出会えるか」松本康治(「いのちジャーナル」編集長) ◎「パフォーマンス・バブル」フルカワトシマサ(「クライン文庫」代表) ◎「<歌集 死明>上梓のこと」富 哲世(詩人) *「歌集 死明」は、窓月書房から3月に刊行しました。 ◎「メディアに隠された場所で――ユーゴへの旅」元吉瑞枝(熊本県立大学教員・ドイツ文学専攻) ◎「ペヨトル・ファイナル祭 in 京大西部講堂“MEMORY”」今野裕一(元「ペヨトル工房」代表) ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 「La Vue」9号の7頁掲載の3段10行めの「……と公言している。」とあるのは、正しくは「……と公言している、」です。訂正してお詫びいたします。したがって、文意としては「……と公言しているのはチョムスキーではなく、コソボ解放軍」となります。 著者の元吉瑞枝氏ならびに読者・関係各位に対しまして、重ねてお詫びを申し上げます。改めて、別のページに訂正済みのエッセイを掲載いたしましたのでご高覧ください。 ■9号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・・解放出版社・ 紀伊國屋書店出版部・窓月書房 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ・英出版研究所 ■9号編集後記■ ★本紙は第三期に入りました。お陰様で刊行間隔と編集製作のリズムが身についてきた。本紙ほどのボリュームの季刊紙では、入稿締切は発行日の二ヶ月前としている。それから文字校のみの初校を出して、この時点で著者に加筆訂正などをお願いしている。その後の再校は、文字校と図版等の確認をしていただく。その後に、DTPでレイアウトを組んで、タイトル回りや写真・図版、広告スペースなどを調整して最終校正をするわけなのだが、この段階でも編集者(黒猫房主)のミスで誤植や脱字が出てくるので油断はできない。この校正に纏わる話題は奥深くて尽きないが、高橋輝次編著『誤植読本』(東京書籍)や倉阪鬼一郎著『活字狂想曲』(時事通信社)はお薦めの本です。 ★窓月書房から、昨年刊行したデジタルブックとは趣をかえて、風情のある和綴造本の歌集を三月下旬に刊行します。定型詩には、言葉のリズム(律)の美しさが顕著だが、「リズムはすくなくとも二重の時間性からなる構造」であると示唆にとむ洞察をした菅谷規矩雄によれば、七音は日本語のリズムの統括力において限界だという。この限界を超えると、音声知覚と意味統覚の融和から生じる言語体験としての快感が損なわれるということらしい。ちなみに、菅谷の指摘した「二重性」とは、「拍の運動法則たる等時的反復と、それにたいする非等時的傾向性との相互作用が、表現=構造としてのリズムをうみだすという」(『詩的リズム――音数律に関するノート』大和書房)ことである。 ★「遠くに逝くひとの声身に滲みて、近しきひとの言葉消ゆる」(黒猫房主) |
●8号<2周年記念号>掲載内容(01/12/01発行)● ◆これからおもしろくなる 立岩真也(信州大学医療技術短期大学部助教授・社会学専攻) ◆将来の公正らしさを保つ」という「超」能力の要求 ――裁判官採用人事における思想差別―/神坂直樹(原告) ◆竹田エロス論と<他者=外部>/神名龍子(在野研究者) ◆六条御息所の魂/ゆふまどひ あかね(作家、女優、チェリスト) ◆正義って何なんだ〜!/ひるます(漫画家) ◆魂の経済学序説/中塚則男(在野研究者) ■投げ銭価格100円より・B4判・10頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 ■8号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・・解放出版社・ 紀伊國屋書店出版部・広英社 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ・英出版研究所 ■8号編集後記■ ★早いもので本紙は二周年を迎えた。継続は力なりとはよく言ったもので、バックナンバーのリストを見ながら、よくここまでやって来られたものだとつづく思う。隔月刊の『カルチャー・レヴュー』(別冊号も含めて23号刊行)と並行して季刊紙8号を刊行できたのは、ひとえに関係各位のご支援の賜であり、改めて深謝申し上げます。とくに本紙を資金面で支えていただいた、賛助会員や協賛広告主、「哲学的腹ぺこ塾」の皆さんには、本紙をより充実した紙面に発展させていくことで今後ともお応えしていきたいと思っています。 ★本紙は、いわゆる商業紙ではないことの利点を活かして、さまざまな立場での思想・意見をもつ「無名」の執筆者が中心の紙面構成だが、これは「民間学」の可能性を蔵していると自己評価してもよいと思っている。密かな発行人の想いとしては、かつて刊行されていた『思想の科学』や『展望』という雑誌の後継紙として、本紙が批評紙としての力を蓄えていけたらと願っているが、多くは語らないで措く。 ★今号は、二周年を記念して通常の8頁から10頁に増頁した。またウェブ上で出会った寄稿者にも恵まれた。在野には「無名」だが、可能態としての表現者が日々生まれている。一つではない彼らの複数の声が本紙を通して読者に届けられれば、そこには希望があると思う。「カルチャー・レヴュー」別冊03号では、「対米同時テロル事件特集」を刊行したので、併せてウェブでお読みいただけると幸いです。(黒猫房主) |
●7号掲載内容(01/09/01発行)● ◆映画学事始め――映画研究者失格の記 上倉庸敬(大阪大学大学院教授・芸術学講座) ◆緑の国のインディアン/小原まさる(音楽研究家) ◆新宮市住宅地図調査日誌――新宮で読む中上健次/村田 豪 ◆本の取り寄せ奮闘記/山田利行(ヒントブックス) ◆倫理って何なんだ〜!――倫理の共有は可能か?/ひるます(漫画家) ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 ■7号広告協賛■ ナカニシヤ出版・東方出版・・ボイジャー・ 紀伊國屋書店出版部・図書出版冬弓舎 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ・英出版研究所 ■7号編集後記■ ★上倉氏のエッセイで紹介されている『陽暉楼』の導入のシーンは、私もよく憶えていたので、「聞き書き」での説明には至極納得。緒方拳の存在感が圧倒的な映画だったと思う。いまは亡き成田三樹夫も脇役で、いい味を出していた。 ★脇役の連想で、「三文役者」をビデオで観た。名脇役・殿山泰司の伝記的映画で、殿山役に個性派俳優の竹中直人が演じている。姿形(後ろ姿や歩き方がソックリ、のような気がした)や声色を本人に真似ているが、力み過ぎているように感じる。殿山本人は、もっと涸れた感じの役者のように記憶している。この映画でもっとも感心したのは愛人(妻)役の荻野目慶子で、その奔放振りが抜群によい。 ★ひるます氏の「倫理」を黒猫ふうに変奏すると…。事的存在であるとは素朴実在的に「在る」のではなく、関係存在的に「在る」ということに他ならない。私たちが、共同主観的存在構造をもつということは、すでに/つねに「他者性」を組み込んだ存在であり、「他者への配慮」は不可避な経験でもあるだろう。この経験を自覚し続ける態度の内に「倫理」が生じ、「アラユル行為(コトの創造)は倫理的」な形式であるということが導かれる。つまり「あえて〜しなくていいにもかかわらず〜する」という形式である。 ★次に<永続的な他者への配慮>ということは、「我々」(私としての我々/我々としての私)を超えた、あるいは否定しようとする、<外部>としての他者への「応答可能性」のことであるだろう。このことが可能であるかぎり、<倫理>は無限に拓かれている。(黒猫房主) |
●6号掲載内容(01/06/01発行)● ◆鳳凰堂のペルシャ美と京都復興――「京都デザインリーグ」の試み 渡辺豊和(京都造形芸術大学教授・渡辺豊和建築工房主宰) ◆わたしは、『「懸命に」ゲイに「ならなければならない」』 大北全俊(大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室) ◆「態度の変更」として――柄谷行人著『倫理21』を読む/村田 豪 ◆「これが好きだという」ことが好きだ/小杉なんぎ(コラムニスト) ◆わたしたちは忘却を達成した――大東亜戦争と許容された戦後/野原 燐 ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 ■6号広告協賛■ ナカニシヤ出版・解放出版社・東方出版・・内田事務所・図書出版アリーフ一葉舎・ 紀伊國屋書店出版部・真和クリエイション ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ・英出版研究所 ■6号編集後記■ ★他国の死者への哀悼を蔑ろにする語り口と、自国の死者への哀悼を蔑ろにする語り口、とがあるようだ。そしてそのことを巡っての議論と応答がある。「戦争責任」と「戦後民主主義」をめぐる課題は、現在進行形である。だが「個人」として、この課題の共有(公共性)は、どのようにして可能なのか? ★加藤典洋は「私利私欲=私の立場」の徹底において「公共的な意思」が発現されることにこそ意味があると言っている。これはカントが「啓蒙とは何か」で展開している、私的な立場での「理性の公的使用」と同じ水準での「公共性」だと言う。一方、柄谷行人は「自由であれ」という命法による「倫理的態度」への理路を説いている。そしてカントを援用しながら、人が「国家」や「文化」への所属を括弧に入れて「世界市民」として振る舞うことが出来るかぎりにおいて、「公的な存在」になり得るとしている。 ★「私利私欲に依拠すること」と「括弧に入れること」、この差異は何を示唆しているのか? その差異は、「欲望と自由」への理解と態度に由来しているのかもしれない。それでは、「個人とは、何か」。私見では、「私的な存在」が「私」として「公的」に振る舞う際に「個人」が発現すると考える。 ★「私利私欲を識る私よ。自由であれ、そして応答せよ」(黒猫房主) |
●5号掲載内容(01/03/01発行)● ◆詩をめぐるのことばの現在/高橋秀明(詩人・第二回小野十三郎賞受賞) ◆紫の上のいのり/ゆふまどひ あかね(作家・女優・チェリスト) ◆魂脳論序説/中塚則男(中山元編集『ポリゴロス』執筆メンバー) ◆複製芸術論のアクチュアリティー/平野 真(在野研究者/共著『反論―ネットワークにおける言論の自由と責任』光芒社) ◆日本一あぶない音楽―河内音頭断片/鵜飼雅則(「BBCC」広報担当) ◆私はその存在を肯定したい。――立岩真也著『私的所有論』『弱くある自由へ』を読む/加藤正太郎(高校教員) ■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部 ■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布 ■5号広告協賛■ ナカニシヤ出版・解放出版社・東方出版・・内田事務所・図書出版アリーフ一葉舎・ 紀伊國屋書店出版部 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾 ■後援■ヒントブックス ・英出版研究所 ■5号編集後記■ |
■4号掲載内容(00/12/01発行)■ ◆インタビュー「生命学者の森岡正博さんに聞いてみよう。 ―大切な「本人の意思」原則―臓器移植法「改正」に異議あり!」 森岡正博(大阪府立大学教授) ◆「書物受難の時代」福嶋 聡(ジュンク堂池袋店副店長) ◆「シドニーは燃えているか、あるいは日本<的>サッカーの行方」 山口秀也(フリランサー) ◆「横に立つ――演劇を遠く離れて」桃田のん(元・演出家) ◆「千早振る『うつ病者の手記』三年目」 時枝 武(『うつ病者の手記』人文書院の著者) ◆「言葉という原罪―「癩」の表記をめぐって」森ひろし(フリーランサー) ■4号広告協賛■ 図書出版冬弓舎・文研出版・図書出版ジャパンマシニスト社 図書出版アリーフ一葉舎・紀伊國屋書店出版部 ■協賛■哲学的腹ぺこ塾・マジックメモ ■後援■ヒントブックス ・英出版研究所 ■4号編集後記■ ★自己決定と自由の条件において、「〜する自由」と「〜しない自由」を比べた場合に、自由の許容度はどちらが大きいだろうか。そんなことを『カルチャー・レヴュー』別冊02号(00/11/01発行)で論及(「脳死・臓器移植の問題構成」に関する素描)しましたので、ウェブ版で読んでいただけると幸いです。 ★ゴチック様式の硬質な論理もいいが、風通しがよくてしなやかで粘りのある感受性のほうが、関係における〈可能性〉としては、より大きいように思う今日この頃です。 ★本号にて『La Vue』は第一期を逐え、来春刊行する5号からは第二期のスタートです。そこで改めて本紙発行の趣旨を述べれば、執筆者の無名/有名に関わらず、かつ思想的あるいは趣味的嗜好性の相違を超えて、その寄稿者の〈現在形〉としての表現の顕現、そしてその表現の「交差」を通して「他者」との新たな関係性が開かれてくることを目指しています。 ★「ハンマーで打ち砕かれしロゴスのセンチメントな呻き寒天を裂く」(黒猫房主) |
■3号の内容(00/09/01発行)■ ◆ダンスに感応する関西の日々〜「観る身体」になるために 小暮宣雄(芸術環境研究・大阪市文化振興懇話会座長) ◆セクシュアリティにおける「語り口」の問題あるいは「私の問題をわからせるには、どうしたらいいのでしょう?」 栗田隆子(大阪大学文学研究科「臨床哲学」博士前期課程在籍) ◆ビデオ『罪なく罰せられて─婚外子の声─』を制作して 江上諭子(ビデオ工房AKAME) ◆殺 佛/富 哲世(詩人) ◆音触りのすすめ/小原まさる(音楽研究家) ◆風土と身体に刻まれた歴史感覚――琉球弧の思想的〈現在〉 大橋愛由等(図書出版「まろうど社」社主) ■広告協賛■ アリーフ一葉舎・澪標・まろうど社・解放出版社・編(あむ)書房・丸善(株)出版事業部・さいろ社・スペイン料理店「カルメン」 ■協賛■:哲学的腹ぺこ塾 ■後援■:ヒントブックス ・英出版研究所 ■3号編集後記■ ★この世界に文化の多様性がなかったら、つまらないだろう。何か違うものに出会えるから人は旅への魅力を感じるのだ。急速な情報化と経済のグローバル化や国を越えた経済圏の広域化は、情報や資本の流通のための標準化を多くの局面で促し、個々の文化の存立を危うくするように見える。だからと言って、たとえば今国家に着目しても、何の回答も得られないと思う。マイナーな文化はすでに国家によって標準化の洗礼を受け、時には分断されて来たのである。しかし一方、政治は時に文化的同一性に自らの根拠を求める。だが文化はその複合性と流動性ゆえに生き延びるのだ。(小原) ★ある凄まじいダンスを見て、もうこれからは率直に言葉を使い、背筋を伸ばして向きあいたいと考えたのもつかの間、言葉の仕様を測りそこねるうちに、率直のありかを探しあぐねる。そのくせ誰かの想いが集まって来はしないかと、恋心についてしゃべりちらし、いつかの君の気持ちが好きだと書いたその足で、逃げ去るタクシーを追いかけている。今だけのものでも、私だけのものでもないと小暮さんが語る「踊りを観る身体」と、「性」を語る未来のほうから思いをめぐらす栗田さんの「私」を、何度も交換し、現在という体験への貴重な資料としたい。(加藤) ★日夜仕事でいろいろな人たちの悩み事を聞いていると、そこにいろいろな偏見が混入されていることに気づく。たとえばゲイなんかは、当たり前のように差別対象として現れる。それを言うほうは、「在日」韓国人・朝鮮人差別・障害者差別・部落差別などとはまったく別の次元で、つまり、そのことを「差別ではない問題」として気軽に冗談として語る。「バツイチ」なんかも気軽に笑いの対象になる。性や家族の問題は、我々の社会生活の根本を支えているから逆に見えなくなっている。というか、見たくないんだ。(田中) ★うちの一歳になるこどもはいま、様ざまな方法で〈じぶん〉を確かめている。鏡に映る自身の顔に興味をもち、風呂上がりにからだの色いろな部分を撫でたり摘んだりしては神妙な顔をしている。夜は部屋を暗くして寝かしつけるのだが、ふいに目覚めては暗闇のなか母親をさがして這いずり廻る。漸く母親の腕やからだにぶつかると、安心してからだをひっつけたまま眠る。私もやたらとこどものからだに接触し、きつく抱きしめ頬ずりするが、改めてかんがえると、他人の皮膚とじかに触れることによって〈じぶん〉を確かめているのはどうやらこどもだけではないようだ。(山口) ★言葉に向かい合い窮屈な想いを繰り返し、幾晩かの後に手練れ、あるいは鈍感になってゆく頃には、闇に投げ入れし創意の言葉の行方を探しあぐねている。突如、天空から果たし状は涙にも似た赤い血を滲ませてやってくる、多情多感のイデーを秘めて(そんなこともあった!)。そして、いま・ここの「私」と「他者」との誤配や遅配という「交換」の困難さは、「応答」における「可能性\不可能性」の〈現在形〉を顕わにしている。いまどきの超高速情報時代に、本紙のスピード感(早さ/遅さ)は「反時代的」で気に入っている。(黒猫) |
■2号の内容(00/06/01発行)■ ◆ジェンダー・立ちすくむ経験 落合祥堯(「人文書院」編集者) ◆フットボールの進歩についての試論 山口秀也 ◆商品の呪術的性格の脱魔術化に向けて 平野 真 ◆ヘーゲル『精神現象学』は〈超・娯楽読み物〉である 佐野正晴 ■広告協賛■朱鷺書房・澪標・アリーフ一葉舎・人文書院・東方出版・さいろ社 ■2号編集後記■ ★ネット上では多くの個人や団体が情報の発信者となることが可能だが、逆にネット上には、読み手にとっての言わば巨大なテクストの雲が形成されることになる。個々のテクストは印刷されたもの同様に、読まれるべきのとして流され蓄えられ、あるいは消え去って行く。これらが多くの人に利用・消費されるために必要なのは、テクストを自由に楽しみ利用するための新しいアイディア(複数形)である。しかしそれは当の読者によってのみ生産され、その時読者は、すでに次の発信者となる可能性をも得たことになる。当然のようだが、この循環にこそ可能性があるわけだ。(小原) ★僕は「ジェンダーと私」という会を月に1回主催しているのだが、この前そこで、「他者との身体接触」が話題になった。身体接触というと大げさだが、たとえば僕は恋愛関係における「腕組み」というのがどうも苦手だ。されるのはこっちが偉そうみたいだし、するのは何か恥ずかしい。手を握るのはそれほど抵抗がないのだけど。でも、男同士手を握ったり触れ合ったりするのは、社会や内面からの「視線」が気になってできない。我々の日常の何気ない仕草や習慣にジェンダー/セクシュアリティの問題は忍び込んでいる。そしてこれを言葉にすることも相当難しい。(田中) ★電車待ちのプラットホームで雨傘を逆さに持ち、ゴルフの素振りに興じるマナーの悪さが話題になったのは、いつ頃のことだったろうか。間延びした雑談の最中に、よい歳をした大人がシャドーピッチングを始めていたりもする。最近の僕ならきっと、へんてこなダンスを踊っているのだろう。何故だか態勢を崩しながら(相手からチャージを受けているつもり)右足のアウトサイドでボールを撫で、今度はインサイドで隘路を通るつもりなのだ。山口秀也さんのクライフ論は、そんな幻の身体をともなってきて、強烈に懐かしい。(加藤) ★〈まなざし〉とは、〈まなざす〉ものと〈まなざされるもの〉の関係の謂である。また他者理解とは、その〈まなざ〉し〈まなざ〉される行為をとおして自己と他者のちがいを分かることにほかならない。多くの問題を抱えている人間たちが、ラストの(本当に!)あっと驚く奇跡(啓示)的な出来事にむかって生の営みをくりかえしていくP・T・アンダーソンの映画「マグノリア」。ここにはお題目でなく予定調和でもない〈他者との共生〉が描かれている。〈やさしさ〉などというまやかしでない〈まなざし〉の交感がある。〈La Vue〉がそんな交感の場であることを願っている。(山口) ★創刊号を刊行してから、あれこれする間に半年の時が過ぎゆく。かくて入梅の季節に至て、2号発行となる。次号次々号は、9月・12月に発行する心積もりしながら街を徘徊、とある書店を訪う。古(いにしえ)の本屋にはクラシックのBGMが似合っていたが、いま時はやりの新古書店にはモー娘(短縮形、時代も本も短縮形)のビートがフィットしている、と感慨深く店を出る今日この頃。世紀末は、なにかにつけショートカットで早いぞ。そう言えば、巷ではIT革命という幽霊が彷徨いているらしい。21世紀の思想・文化・出版モデルを、一緒に模索してみませんか。(山本) |
「La Vue」への誘惑 ―オンラインマガジンとオフラインマガジンの共振を目指して― 発行人・山本繁樹 メールマガジン『カルチャー・レヴュー』もお陰様で本年10月を持ちまして創刊一周年を迎えました。そこでオンラインマガジンと連動・連携するペーパー版の思想・文化レヴュー紙『La Vue』を1999年12月上旬に創刊いたします。 ことの起こりは、表現を通して「他者」との交差、あるいは「視座」の交換(相互性)をめざす媒体を模索していたことから始まっている。その基底には、文化・思想情況の<現在形>を射抜く批判的視座の発芽に関与できればというホット/クールな想いからでもあった。 そんな想いもあって、当初は「ラディックス(根源的批判)からルナティックス(遊星的発想)まで、文化・思想情況を<展望>する!」なんて、壮大なコンセプトを用意していたのだったが、まずは身近なところからと、友人・知人に原稿依頼をしながらボチボチと開始したのが、昨年の10月のことだった。その際に選択した媒体形式は、ウェッブ上でのメールマガジン(以下「メルマガ」と略す)である。時に、ウィンドウズ・マシンを購入して22ヶ月目のことであった。そして創刊されたのが、『カルチャー・レヴュー』なのである。その辺の事情は、「房主の開口一番」(『カルチャー・レヴュー』01号掲載)に記したので、ウェブで読んで貰えると嬉しい。 その創刊から一年後、さらなる展開としてオンライン版『カルチャー・レヴュー』と連携・連動する形式で、オフライン版『La Vue』の創刊を企図したという次第である。 パソコンと電話さえあれば、誰にもでもお手軽に発信できるインターネット上での表現活動は、表現者の敷居を低くしたことは確かで、巷には一万誌以上のメルマガが空間を行き交っているそうである。だが情報系、趣味系あるいは自分史系のメルマガが圧倒的多数の中で、本誌のような評論系メルマガはまだまだ少数だろう。少部数でしか成立しない本誌のような評論誌こそ、発行形態としては印刷物ではなくむしろメルマガに向いているのかも知れない。発行スピード、更新の素早さを考慮に入れると、今後、学術誌などはこの方向に転進するかも知れない。 だがこのメルマガを購読できる人々は、とうぜん電脳コミュニティの人々に限られている。ならばそのコミュニティへの誘惑(入り口)としても、オフラインでの媒体形態も必要であろうと考えたのである。また紙面の読みやすさと読解の定着力においては、現時点では遙かにオフ版に優位性があると思う。かてて加えて、実在感の手触りには執着するものがある。 この両誌・紙の長所を生かして、オンとオフがいわばスイッチのように切り替わるのではなく、共振し合う媒体に発展することを願い、2000年に向けて『La Vue』の出帆(出版)とする。(1999/11/13) ■創刊号の内容(99/12/01発行)■ ◆社会改造プログラムとしての「投げ銭」・・・・・松本 功(「ひつじ書房」房主) ◆余りの方から割り算されて・・・・・加藤正太郎 ◆ドラゴンアッシュは「親離れ」の90年代型モデルである・・・・・田中俊英 ◆ヴァジラヤーナの封印について・・・・・森ひろし ◆季刊『La Vue』への誘惑(創刊の言葉)・・・・・山本繁樹 ■広告協賛■ジャパンマシニスト社・朱鷺書房・ボイジャー・ひつじ書房・さいろ社 〈発行所〉るな工房/黒猫房/窓月書房 〒534-0016 大阪市都島区友渕町1丁目6番5―408号 TEL:06-6924-5263 FAX:06-6924-5264 TOPへ |