『カルチャー・レヴュー』29号



■創  作■


小説「月に昇る」のための習作2
〜二つ曲がりの辻〜

足立和政



 弥生三月のかかり。曇天。午後、遅い昼食と散歩をかねてマンションを出た。しかし、数歩もいかないうちに、ぽつりと雨が落ちてきた。傘を取りに帰るのにそれほど手間がかかるわけでもなかったが、何だか億劫でそのまま歩いていった。頭の上には、春の陽光を待つ桜が、投網を打ったかのように重っ苦しい雲の海の下に枝を広げている。また、ぽつりと木の芽おこしの雨がオレの額にあたった。
 昼めしといっても、食欲があるわけではなかった。最近ではよくて一日一食、ぶらり当てなく散歩する途中に見つけるそば屋に立ち寄り、文字どおり喉に流し込む程度だ。それも見つかればの話だ。駅前の商店街に出ると、酒屋でビールを買い、一気に飲んで、
 「今日は何に突き当たるだろう」
 と考えた。
 仕事を辞めて散歩は日常となった。永遠に徘徊を続けそうな不安をアルコールと一緒に飲み干しながら歩いていると、何かに突き当たり、突き当たったところで気づき、家に帰り着いている。そんな毎日が訪れた。その突き当たったものが、幾重もの壁となってオレを閉じ込めるときもあれば、今まで塗り固めて築いてきた壁を一瞬にして、打ち壊してしまうこともあった。


     ひと駅分の切符とビールを二缶買い、郊外へ向かう各停電車に乗った。
 「雨の降っていないところまで行こう」
 車内はガラガラだった。携帯電話にひたすら謝っている若いサラリーマン。高級を売り物にしているスーパーの買い物袋を下げた主婦。そして、オレの向いには大きな籐の籠を床に置いて化粧を直している若い女。ひと車両に四人だけだった。
 ビールを飲みながら、ぽつぽつと斜めに突き刺さる水滴越しに、窓の外を眺めていると、オレの足に絡みつくものがある。それは一匹のマルチーズだった。どうも、向いの女性の籠に潜んでいたらしい。
 「ちーちゃん、だめ、こっちこっち。おじさんが困った顔をしてるでしょ」  六つの人間の眼と二つの獣の眼が、オレを見つめている。向いの女が再び「ちー……」と言った瞬間、オレはそのマルチーズを蹴飛ばした。「きゃん」と転がった獣を無視して、また外の風景に眼を遣った。
 サラリーマンはメールを打ち始め、主婦は吊り広告を読むふりをし、向いの女性は獣に駆け寄った。ひとつの風景が車両の中に充満していく。次の駅でドアが開くまで、この風景は運ばれていく。網膜には土塊だらけの田畑、立ち並ぶ高圧電線の鉄塔、畦道を赤い傘をさしながら自転車を駆る女子高生、だれも待つことのないような小さな踏み切り。不思議と絶対性が混じる雨の風景が脳裏に映しだされる。そこに愛玩という自己膠着が這い入る隙はなかった。
 「この酔っ払い」
 と女は罵り、隣の車両へ移っていった。
 決して、オレが正しいなんて恥ずかしいことは言わないけれど、暴力はお互い様だろ。見ているものが違っているときにはときどきこういうことが起こる。電車に乗ったときぐらい遠くを見ろよ、ねぇちゃん。
 県境のトンネルを過ぎると、嘘のように空は晴れていた。こんなこともあるのだ。山端の上に、サンドブラストを施したような大きく白い月が残っていた。次の駅で降りよう。
 その地は新興住宅地として再開発され始め、駅も新しくなったばかりようだった。駅前のロータリーに「都心まで乗り換えなし、快速で40分。アメニティーライフを演出するガーデンタウン」との大きな看板がでていて、チベットの仏教寺院のような色鮮やかな旗がはためいている。駅前は整備されているが、看板や旗の、つい向こうには未だ古い町並みが続いている。なだらかな勾配のある道に沿って、商店が申し訳なさそうに肩を並べ萎縮している。オレの足は自然とそちらに向かっていた。
 蚊取り線香の古い看板の残るよろず屋で、そば屋は近くにありませんかと尋ねると、にきび面したそこの息子らしき兄ちゃんが、斜め向いにある一膳飯屋を指さし、食事のできるところは
 「壽屋さんしかないよ」
 と言った。
 その壽屋は、やっているのかやっていないのか、人の気配がまったくしない。建て付けの悪い引き戸をがたんと開けると、冷えたセメントの土間にデコラのテーブルが四つ、奥の三畳ほどの部屋に婆さんが座っていた。そばはともかく、酒にはありつけそうだった。
 塩豆を肴に燗酒を三合ほどやってから、婆さんに
 「ガーデンタウンってここから遠いの?」
 と聞くと、バスで20分はかかる山の中腹だという。じゃ、あの看板は詐欺みたいなものじゃないかと言うと、婆さんは聴こえていないふうで、
 「ここに、兵隊さんがおったころは……」と一人でしゃべり始めた。

 ここに兵隊さんがおったころ。それはガーデンタウンのなかったころだ。「二つ曲がりの辻」という路地があったらしい。小さな地道がクランク状に折れて続いているらしいのだが、一つ目の曲り角に来ると、どの兵隊さんもその角を昔、見たような気になるという。新しく赴任してきたばかりの兵隊さんもいつかどこかで、その辻を曲ったことがあるような既視感に囚われるという。その角を往くと昔の自分に出会う気がして立ち止まるという。思い切って曲ると、そこには三輪車が一台放置されている。どの兵隊さんも、その三輪車になぜか乗ってしまうのだった。そして、二つ目の曲り角で、また足踏みをする。その先を曲れば、今度は自分の未来に出会いそうな恐怖に襲われるのだった。そこで、二つ目の角を曲る者と引き返す者が現れる。その分かれ目が、戦争での生死の分かれ目だったのだという。

 婆さんの話では、二つ目の角を曲った者が死んだのか、引き返した者が死んだのか、よく分からなかった。しかし、その「二つ曲がりの辻」は、今のガーデンタウンのどこかに残っているという。オレは慌てて勘定を済ませ、よろず屋に戻り、缶ビールをバッグに詰められるだけ詰め、その分かれ目に向かうことにした。

 パステルカラーのおもちゃみたいな、あの小生意気なマルチーズの愛想みたいな家が延々と建ち並ぶ空間が「アメニティーライフを演出するガーデンタウン」だった。快適な生活を指向する人々にとっては、随分と怪しい人物と思われただろうが、既に酩酊に近いオレは太宰治の描く小説の主人公のように「大波に飲まれる内気な水夫」にはなれなかった。「二つ曲がり、二つ曲がり」と空念仏を唱えては、家々を心の中で蹴飛ばし、クランク状の辻を探した。こんな出来合いの町に既視感も未来もへったくれもない。が、果たして、整然と区画割りされた新興住宅地の外れにそれはあった。

 崩れかけた石塀の残るその角には電信柱が一本立っていて、電線は薄雲に溶け込み、その向こうにあるはずの電柱はなぜか見えない。ふらつく足で一つ目の角を曲ると、三輪車はあった。躊躇はなかった。片足を三輪車のステップに掛け、もう一方の足で地面を蹴った。グリップをアクセルのように回す。エンジンを全開にして、二つ目の角までの永遠を一瞬でたどり着く自分を感じる。光速の中で時間が往きつ戻りつする。婆さんの語った生と死の境界線が入り交じり、風景が飴細工のように歪む。光の霧の中を、兵隊さんが隊列を組んで行進し、あの婆さんの顔が娘に幼子に変容し、分裂し、はるか彼方後方で霧散消滅していく。万年雪を一秒で、また手に掴まえた雪を一万年掛けて溶かしていくような捕らえどころのない不確定な感情の流れ。ハンドルを握るオレの手は小さくなり皮膚一枚で世界と向かい合う幼児のものだった。皺だらけの年老いた男とすれ違う。咳き込む老人の背中には見覚えがあった。刹那が永久に彼岸が此岸に、すべてが交換可能のように思われた。一つ目の角を曲がりどれほどの時が流れたのか知る由もないが、遠近法によって絞りこまれた一点から、これまで出会ってきた者たちの視線が放射されている。そこでは、視線が風景だった。見ることは見られることだ。その視線の風景の中にオレがいる。そして、オレも一つの視線となって、視線は風景となって、風景は光となって「二つ曲がりの辻」を折れる。

 ホーと鳥が鳴いた。目を細めて「二つ曲がりの辻」の入り口に立ちすくんでいる自分がそこにいた。茫洋と酔っていた。一つ目の、二つ目の角を曲っても何もなかった。三輪車などあるべくもない。クランク状の路地を抜けると、ただ、整地を待つ野っ原が広がり、その果ては削り取られた山肌の断崖になっていた。その際まで行き、少し吐いた。涙がでて、風景が滲んだ。苦い胃液が口中に溢れる。二重写しですべては静止し、自らは輝やかぬ、擦り硝子のような白い月が浮かんでいるだけだった。

 帰りの電車の中で、オレは白濁した頭で、この電車に乗っている自分自身をずっと見つめていたことを思い出していた。それは辞めた小さな印刷工場に勤めていたときのことだ。二階のトイレから刺激臭のするだらだらとした小便をしながら窓の外を眺めると、送電線に肩を預けながらいつもこの電車が走っていくのだった。
 「どうして、オレはあの電車に乗っている自分ではないのだろう」と。
 最寄り駅近くの小さな踏み切りで、男の子が三輪車に乗って、この電車が通り過ぎるのを待っているのを見た。それは、その男の子がだれであってもかまわないのと同様に、その踏み切りで待つのはこの酔っ払いでもよかった。風景のあちらこちらに交換可能なオレは佇んでいた。
 もう一度「二つ曲がりの辻」に行ってみようと思った。
 その時、ホーと鳥がまた鳴いた気がした。
 薄情にも、新しい夜を待つ月は、もう消えていた。

■プロフィール■
(あだち・かずまさ)1955年京都生まれ。現在、大阪寝屋川市在住。編集・執筆業を生業としていたが、アルコール依存症にかかる。現在、リハビリ、アルバイト、小説を書いて日々を過ごす。






■シックハウス■


わが家に化学物質過敏症がやってきた(3)

―シックハウスから脱出する方法―
山口秀也


 化学物質にからだと神経を蝕まれ、病気を治すという積極的な意欲が湧かない妻との諍いを越えて、具体的な取り組みをつづけた結果は…。

■初診後のとりくみ

 妻は、心理的な負荷と、体の痛みやだるさのため、この病気を治そうという積極的な意欲がすぐに湧いてくるわけもなく、私がそれを辛抱強く励ましながら改善へと取り組んでいった。いちじるしい体調の快復を見た 11月ごろまでは、激しく落ち込む妻との諍いがよくあり、病気について夜中まで話し合う日が続いた。結果的にはそれが個々の問題を解決する方向に進んだので、喧嘩も無駄ではなかったのかもしれない。
 取り組みの端緒は、まず、家中の窓という窓を開け放すという原始的なものだった。換気をよくすることで、家中のホルムアルデヒドやトルエン、キシレンそのほか多くのVOC物質(揮発性有機化合物)をできるだけ放出することが肝要なのだ。妻と子どもが実家へ避難し、空家状態になってからは 24時間窓という窓を開け放した。
 7月当初に空気清浄機能つきのエアコンを2台購入し、清浄機能を付け放しにする。7月の中ごろには、近所に住む妻の両親の厚意により、家族ごと住まいを替わってもらった。彼女の実家の旧い木造家屋は通気性からいっても理想的だった。
 8月のはじめには、階下の3ヵ所に新たに換気扇をとりつけた。各部屋とも、新しい家具や調度品(靴箱・水屋・食器収納棚・システムキッチン)およびクローゼットについて、開けられるものはすべて開けたままの状態に保った。また7月初旬に、F医師に紹介されたA工務店で活性炭を購入、さっそく車に一袋3kgの活性炭を3つ積んだところ、妻の症状が若干ではあるが軽減した。
 食事についてもF医師の進言を受け入れ、試行錯誤ののち、調味料も複数種類そろえた。食材も、週1回宅配してくれる完全有機無農薬野菜や肉、魚を購入するようになった。おやつも、できるだけ安全なものを心がけ、つとめて妻が手作りのクッキーやぜんざいなどを子どもに出すようにしている。食卓では肉けを極力減らし(週に1〜2回、しかも妻は肉なら1回 30gていど)、野菜の煮炊きものを中心に、朝と昼に重点をおいて採るようにした。もちろん、朝はパン食をやめ、カフェインをふくむコーヒー・紅茶・緑茶なども摂らないようにしている。飲料は、どれも完全無農薬の、番茶・どくだみ茶・ハブ茶・すぎな茶・ルイボス茶・柿の葉茶などをなるべく日替わりで飲んでいる。
 そのほか、日々の生活では有酸素運動を心がけ、夜子どもたちを寝かしつけてから夫婦で近隣を散歩することにしている。さいわい近所には自然の公園があり、散歩のための長いコースが設えてある。これを、行き帰り1時間以上かけてゆっくりと散歩する。夜、自然の木々に囲まれての散歩は、病気に蝕まれたからだや神経、ささくれだった心も落ち着かせてくれた。
 11月に入ってから、地域のコミュニティ誌で「家庭用サウナ売ります」というのを見つけ、格安で手に入れた。化学物質過敏症の治療にも有効だが、彼女は自分が放出した化学物質を含む汗に反応したのか、かぶれてしまい、いまのところ休んでいる。
 新しい電化製品を買うときには、抗菌剤を練りこむなり塗るなりしたものを避ける必要があった。妻は以前から掃除機をかけるたびに気分が悪くなっていたため、化学物質が使用してある使い捨てゴミパック式の掃除機を、ゴミパックを使用しないものに替える必要があった。妻は、体調が悪いのをおして店頭展示品をかたっぱしから試してまわった。結果、そのどれもが妻の気分を悪くする臭気を放っていたが、ひとつだけ大丈夫なものがあったらしい。
 「これって、抗菌してない?」と妻が聞くと、店員は「もちろん抗菌してます。」
と言い、今は抗菌でないと売れないと思ったか、とんでもないというふうに手を振った。いったん家に帰り、そのメーカーのサービスセンターに問い合わせたところ、なんと「この製品については抗菌剤は使用していません」とのことだった。念のために別地区のサービスセンターにも電話したが、同じ答えだった。
 私はあらためて妻の嗅覚に脱帽した。

■再リフォーム終わる

 10月も終わろうとするころ、最大の懸案だった本格的な再リフォームにとりかかった。施工は、活性炭を購入したA工務店。有害な化学物質の使用を可能なかぎり避けた、自然材を用いた施工をうたう施工会社である。
 活性炭を購入したおりに、私たちの話をていねいに聞いてくれた担当者は、それから数日と空けずにホルムアルデヒド測定装置をもちこみ、各部屋のホルムアルデヒド濃度を測ってくれた。結果は、ほぼどの部屋もWHOの基準値(0.08ppm)を上回る数値(最も高い数値で0.19ppmだった)を記録した。のちにトルエンやキシレンほかの濃度も測定してもらった。
 再リフォームの眼目は、ふた部屋ある畳の間を板敷きに替えることと、台所の天井をやりかえることが中心だった。そのさい、建材に何を使用するかが大きな問題だった。防虫処理など化学薬品を使用していないことが大前提だが、工務店の申し出によって、化学物質の含有量の少ないものもふくめていつくかのサンプルをもってきてもらった。このころ妻は、たとえ無垢材でも針葉樹系の樹木の放つ匂いにも拒否反応をおこしていたので、檜や杉といったいちばんポピュラーなものを選択肢から外さねばならなかった。
 サンプルは、輸入材のホワイトアッシュや、タモの木、いたや楓などの中から選ぶことになった。このときも、それぞれの木の匂いがまざらないように、細心の注意が払われた。そして、たんねんに匂いを検討した結果、いたや楓の木を床材として使用することになった。
 10月の末から行われた工事は、畳を上げることから作業が始められた。あらかじめ不動産屋にシロアリ駆除剤の散布の履歴を問い合わせ、4半世紀以上前に撒かれていて安全であることを確認するなど念のいった作業となった。一般に出回っているフローリング材とくらべ、1枚1枚ボンドを使わずに釘だけで打ちつけていくのでひじょうに手間がかかったが、床の張替えは無事終了した。心配していた不快な臭いもせず、私たちは一安心した。
 そのあとのワックスに何を使用するかについても入念に検討を重ねた。自然素材のものを使うにしても、たとえば「柿しぶ」は臭いがきつすぎ、「蜜蝋ワックス」を試してみたが、最初に業者にもってきてもらったものには香料が入っていてだめだった。結局、香料の入っていないものを階下に使用。結果は上々だったので、さて2階にもと思ったが、ここで妻は食用に使っている「べに花油」の使用を提言。これがまたしっとりとしてすばらしいものだった。こうしてみると、体に悪いとわかっている化学合成したものをなぜわざわざ使うのか、夫婦して本当に不思議に思った。
 天井は、天然素材であるしっくいの塗布によりホルムアルデヒドを分解するという触れ込みのものを、サンプルも取り寄せて十分に検討して使い、押入れには調湿機能が高く消臭性にすぐれた火山灰を使用した。

■おわりに

 こうして無事リフォームが済んだ。結果からいえば、とくに畳を取り替えてからは、それが原因で惹き起こされる症状、とくにじんましんはほとんど出なくなった。それでも、まだまだ薬への依存度は高いし、突発的な要素で重い症状がぶり返さないという保障はない。
 今回の闘病をふりかえったときつよく感ずるのは、安全なり健康といった本来きわめて個人的なことがらに関する情報が、われわれ個人に隠されていることである。安全や健康のキャスティングボードを握っている技術や制度に、専門性の高い敷居が設定されている。もはや個人の判断のレベルを超えたところで成り立ち、かつおびやかされてもいる日常生活を自分たちの手に取り戻すためには、矛盾しているがひとつひとつを自分で確かめてから判断する必要がある。判らないながらも、じぶんの五感を信じ、医療機関や家電メーカー、食品メーカーなどにたいして、臆せずに素朴な疑問をぶつけることがだいじなのではないか。その意味で、当事者である妻が自らの体をセンサーとしてさらけだし、それに注意深く耳を傾けるさまには一種の感銘を受けた。
 このような一般に認知を受けていない病気では、まわりの無責任な言動や偏見の視線に対してどれだけ強くなれるかということと、理解者をそばにおくことがとくに必要であるように感じたこともつけくわえておきたい。(おわり)

[参考文献]ブックガイドとして活用いただければ幸いです。

★入門書(闘病記をふくむ)
『化学物質過敏症』(柳沢幸雄、石川哲、宮田幹夫著、2002年、文春文庫)
『化学物質過敏症 ここまできた診断・治療・予防法』(石川哲、宮田幹夫著、1999年、合同出版)
『化学物質過敏症 忍び寄る現代病の早期発見と治療』(宮田幹夫著、2001年、保険同人社)
『室内化学汚染 シックハウスの常識と対策』(田辺新一著、1998年、講談社現代新書)
『あなたも化学物質過敏症? 暮らしにひそむ環境汚染』(石川哲、宮田幹夫著、1993年、農文協)
『誰もがかかる化学物質過敏症』(渡辺雄二著、1998年、現代書館)
『化学物質過敏症家族の記録』(小峰奈智子著、2000年、農文協)
『シックハウス対策のバイブル』(日本建築学会編、2002年、彰国社)
『シックハウスよ、さようなら 室内空気汚染から家族を守るには』(中野博著、2002年、TBSブリタニカ)

★用語解説・事典類
『検証!くらしの中の化学物質汚染』(河野修一郎著、2001年、講談社現代新書)
『暮らしにひそむ化学毒物事典』(渡辺雄二著、2002年、家の光協会)
『これが正体身のまわりの化学物質 電池・洗剤から合成甘味料まで』(上野景平著、199年、講談社ブルーバックス)
『明日なき汚染 環境ホルモンとダイオキシンの家 シックハウスがまねく化学物質過敏症とキレる子どもたち』(能登春男・あきこ著、1999年、集英社)
『シックハウス事典』(日本建築学会編、1999年、彰国社)

★アレルギー一般
『環境問題としてのアレルギー』(伊藤幸治著、1995年、日本放送出版協会)
『暴走するアレルギー アナラフィキシーに負けない本』(角田和彦著、1999年、彩流社)

★食についての概説書
『安全な食べものたしかな暮らし』(安全食品連絡会編著、1992年、三一書房)
『イラスト版輸入食品のすべて』(全税関労働組合・税関行政研究会著、1991年、合同出版)
『食卓にあがった死の灰』(高木仁三郎、渡辺美紀子著、1990年、講談社現代新書)

★啓発本
『買ってはいけない』(『週間金曜日』別冊ブックレット2、1999年、株式会社金曜日)
『食べるな、危険!』(日本子孫基金、2002年、講談社)

★環境ホルモン、農薬問題
『環境ホルモン・何がどこまでわかったか』(読売新聞科学部、1998年、講談社現代新書)
『よくわかる農薬汚染 人体と環境をむしばむ合成化学物質』(安藤満著、1990年、合同版)
『人体汚染のすべてがわかる本』(小島正美著、2000年、東京書籍)
『危ない化学物質の避け方 アレルギー・ホルモン攪乱・がんを防ぐ』(渡辺雄二著、2000年、KKベストセラーズ)
『環境ホルモン入門』(立花隆著、1998年、新潮社)

★一般化学知識
『化学反応はなぜおこるか 授業ではわからなかった化学の基礎』(上野景平著、1993年、講談社ブルーバックス)
『新版 元素の小事典』(高木仁三郎著、1999年、岩波ジュニア新書)

★その他資料
『2000-2001化学物質の危険・有害便覧』(厚生労働省安全衛生部編、2002年、中央労働災害防止協会)
『五訂食品成分表2002』(香川芳子監修、2002年、女子栄養大学出版部)

★その他関連
『家族が心身症になったとき』(河野友信著、2000年、創元社)

(「いのちジャーナルessence」2003年1-2月号 No.18より改稿転載)

※この文章を「カルチャー・レヴュー」にアップしてもらうべく用意している5月現在、妻のからだはもうずいぶんと快復に向かっている。いままで病気のせいでできなかったこともでき、行けなかったところへも足を運べ、もう一生食べられないとおもっていたものさえも口にできるようになりつつある、というのは、うれしいとしかいいようのないことである。しかし、免疫力の衰えたからだは、すぐになんらかの不調をうったえる。それらが化学物質過敏症特有の症状とはかならずしも言えないことから、これからは健康一般といったものとの付き合いを考える新しいステージに移るべく試行錯誤しているところである。それは、食事のとりかたにせよ、日常生活の送り方にせよ、からだ自身、たとえば姿勢ひとつとってみても、精神的なことがらにせよ、なにかにつけ「バランス良く」をこころがけるようにしたいということなのだが、これがいちばんむずかしいようだ。ついては、情報の取捨選択には慎重を期している。世間さまざまに流布している健康にかんする情報にふりまわされ、それらの処方に拘泥することは避けたいからである。怖がらず、でも侮らず、希望を持ってがまずもって肝要ではなかろうか、ということである。

■プロフィール■
(やまぐち・ひでや)京都市出身。メールアドレス:slowlearner02@ybb.ne.jp





■音楽/河内音頭■


日本一あぶない音楽
―河内音頭断片―

鵜飼雅則



■山……「なかにひときわ悠然と」

 いつ頃からだろうか、通勤時、自宅の玄関を出てすぐ眼に入る山並にほんの少し目を遣ってから駅に向うのが、私のならいとなっている。
 私の住む大阪の河内と奈良の境を南北に画するそれらの山々は、この夏も何度か櫓で聞いた河内音頭のマクラの中で次のように歌われている。

 大和河内の国境、生駒、葛城、信貴、二上、なかにひときわ悠然と、そびえ て高き金剛の……

 このようにやや強迫的に山の名を並べる音頭の定型フレーズについて、「オンドロジスト」(河内音頭研究家)のひとり、朝倉喬司は書いている。

  音頭取りの心意の深みにおいて、山々の名は歌われているというよりもむ しろ、唱えられているのであり、山の呪力を満身にのりうつらせ、カラダを 歌の動力源と化していくプロセスの一端をなしているはずなのだ。」(「河内、湖水の幻影」、『走れ国定忠治』所収、現代書館)

 卓見だと思う。そして、私自身に即して言えば、遠景に生駒連山の山並が見えている、そのこと自体が、私たち河内に住む者にある種のやすらぎを与えてくれているように思うのだ。それは、いわば心の拠りどころとも言うべき河内の原風景なのである。

 秋風や山の見ゆるをやすらぎに  雅則

■「丸」考…浅丸、光丸、小石丸、菊水丸

G様
 昨日はありがとうございました。
 久しぶりにお会いし、大変楽しかったです。
 お借りした鉄砲光三郎のカセットは、「民謡鉄砲節 第2集」として出された(一九六〇年代前半)LPをカセット化したもので、全盛時の光三郎の音頭を楽しめます。独特の弾むような歌声は、当時の人々を熱狂させたのでしょうね。
 さて、音頭取り達の名前にどうして「丸」が多いのかという問題ですが、河内音頭について最も包括的に論じた村井市郎さんの書物(『八尾の音頭いまむかし』/八尾市)を見ても、特にふれられていません。
 いうまでもなく「丸」は、「若」、「千代」、「王」などと同じく「童名(わらわな)」(幼名)ですから、昨日、Gさんがおっしゃったように幼年時に弟子入りした音頭取り(菊水丸は八歳のとき、父河内屋菊水に弟子入りしています)の名に「丸」が付けられたというのは一応理解できます。(「丸」には、「一人前の人間とみなされていないものに対する蔑称」という意味合いがあるからです。また音頭の口上の定型フレーズである「お見かけどおりの若輩で」と同じように、一応自分を卑下して見せるという心性がそこにあるとも考えられます。)
 けれども、日本の中世期からあった童名の場合ですと、元服(成人)すると、実名、字といった大人の名前に変ってしまいます。音頭取りの場合、ベテランになって名前から「丸」をとるとか、改名するというようなことはないようですから、問題のポイントは「丸」を付した名前の歴史的意味にありそうです。
 童とはイメージ的に遠いアメリカ出身の相撲取りがなぜ「武蔵丸」という四股名を名乗るのか? 一人前の河内男の音頭取りがなぜ「浅丸」を名乗るのか?
 卓越した中世史家である網野善彦さんはその書『中世の非人と遊女』(明石書店)の中で、中世の非人であった「放免」や「囚守」達が、「童名」である「丸」を名乗っていたことを指摘した後、次のように書いています。

  童そのものの中に、人の力の及ばぬものを見た当時の社会の見方を背景に、 こうした童名を名乗る童形の成人も、また神仏の世界につながる特異な呪的 能力を持つ人と見られていたのではないかと、私は考える。

 さらに、網野さんは、私達が良く知っている船の名だけではなく、鷹や犬のような動物、刀剣や鎧甲などの武具、笛、笙、などの楽器が、しばしば「丸」を付した名前を持っていたこと、そこには「童、さらに童名の持つ呪性」が深く関っていたことを指摘しています。
 「丸」という名前には、「異形の者」達がもつ「力」が宿っていると考えられていたのでしょう。興味深いのは、楽器に童名が付されていたことに関しての、次の記述です。

  これも音そのものが神仏の世界と俗界を媒介する役割を果たすと考えられ ていたことと関係があろう。(前掲同書)

 元来が仏供養の音曲(おんぎょく)だった河内音頭の音頭取り達が、「神仏の世界につながる」名である童名「丸」を名乗るのは、このあたりに歴史的な背景があるのかもしれませんね。

 光三郎の「河内十人斬り」、幸枝若の浪曲「河内十人斬り」、いかがでしたか? 昨日、次の三つの河内音頭をダビングしました。
 浅丸「悪名」
 浅丸「浪花侠客伝 薬師の梅吉」
 幸枝若「森の石松」
天童よしみの「天童節 新河内音頭」(抜群にうまい!)と一緒にお渡ししたいと考えています。またお会いするのを楽しみにしております。

■日本一あぶない音楽―三音家浅丸と座頭市の周辺

 私がなぜ河内音頭に惹かれようるになったかと言えば、もちろん八尾に住んでいるということもありますが、以前からずっとアメリカの黒人音楽であるソウルやブルースが好きだったということが大きいと思います。
 音楽雑誌「ニューミュージック・マガジン」周辺のソウルフリーク達の間では、随分以前から日本のリズム・アンド・ブルースとして河内音頭が熱く論じられていました。(註)
 その代表的な論文が、朝倉喬司の「大阪の闇をゆさぶる河内音頭のリズム」(「ニューミュージック・マガジン」78年10月号)だったのですが、この夏、これを巻頭に収録した朝倉の本、『芸能の始原に向って』(朝倉喬司、ミュージック・マガジン)や、朝倉を中心とした音頭フリーク達を結集した本、『日本一あぶない音楽 河内音頭の世界』(全関東河内音頭振興隊篇、JICC出版局=現・宝島社)を読み、私も河内音頭に目覚めたのでした。
 といっても、河内音頭といえば、子供の頃、テレビのCMで、鉄砲光三郎の民謡河内音頭(鉄砲節)の一節(「きっちり、実際、まことに、見事に読めなけれど,八千八声のほととぎす……」)を聴いたことぐらいしかありませんでしたから、まず代表的な「音頭取り」のレコードを探すことから始めました。 私がまず聴いてみたいと思ったのは、四十二歳で夭折した天才音頭取り「伝説の浅丸」こと、三音家浅丸でした。彼は河内松原出身の音頭取りでしたが、朝倉は、追悼文「三音家浅丸の死によせて」の中で、彼についてこう書いています。

  気合一本の、思い切りのいい歌いっぷりが彼の身上だった。(中略)大仰 な身振りの全くない、芸を自分だけでかかえこむことを絶対にしない人だっ た。(中略)夏になれば、若い衆とライトバンにのりこんで河内の盆おどり 場をかけめぐり、いつも全力投球で、晴々と歌った。

 浅丸の代表的な音頭が「河内音頭 悪名」(今東光原作)ですが、私はこのCDと「河内音頭浪花侠客伝 薬師の梅吉」を新世界のレコード店「音楽のナニワ」(このレコード店の存在を知ったこともこの夏の収穫でした。この店では現在でもローオン<浪曲と音頭>・レコードのLPが売られているのです。)で手に入れ、それからというもの一日中彼の唄を聴いていました。
 私の最も信頼する音楽評論家のひとりである藤田正は、日本の音楽レコードの史上ベスト1にこの「悪名」をあげていましたが、「さもありなん」と思います。こんなに心と身体がゆさぶられる音楽はめったに聴けるものではありません。レコードでさえこんな風なのですから、櫓で行われるライブはすごかっただろうなと思います。
 「悪名」といえば、浅吉、モートルの貞のコンビを勝新太郎、田宮二郎が演ずる映画が有名ですが、浅丸が河内音頭「悪名」で歌う浅吉と貞の人間像の分厚さは、この映画の最良の作品(第一作、第二作までの「悪名」)に匹敵すると私は思います。
 映画「悪名」の第六作目「悪名市場」に、自分が本物の八尾の浅吉であることを「証明」するために、四国の親分衆の前で、浅吉が河内音頭を歌うシーンがありますが、さすが勝新、うまいものでした。
 勝新太郎は私の最も愛する役者です。
 この夏、平岡正明の勝新太郎論が出て、さっそく読みました。
 『座頭市 勝新太郎全体論 市ッつぁん斬りまくれ』(平岡正明、河出書房新社)

 映画「座頭市」全作を縦横無尽に論じた快作ですが、この本によって映画「座頭市」の原作が子母澤寛の「座頭市物語」であることを知りました。
 これは子母澤寛の随筆集『ふところ手帳』の中に収録されています。それで早速、古書店を廻り手に入れました。

 『ふところ手帳』(子母澤寛、中央公論社)
 この本の中にある「座頭市物語」はわずか十頁にも満たない小品です。書き出しは、「天保の頃、下総飯岡の石渡助五郎のところに座頭市という盲目の子分がいた」です。この小品を基に犬塚稔ら脚本家達がストーリを膨らませていって、二十六作にも及ぶ映画「座頭市」が作られたわけです。「座頭市物語」の背景には、渡世人笹川繁蔵と飯岡助五郎の対立を描いた浪曲「天保水滸伝」(正岡容原作。昭和初期、二代玉川勝太郎の名調子「利根の川風たもとに入れて……」によって一世を風靡した)があるというのも、平岡の本で知ったことでした。映画の第一作「座頭市物語」に天知茂演ずる浪人、平手作酒(ひらてみき)が登場し(彼は繁蔵の客分です)、最初は友人だったのが、最後は宿敵として,助五郎のところに草鞋を脱いでいた市と対決するのもこれで得心できます。
 子母澤寛の「座頭市物語」には勝新の歌う映画の主題歌で有名になった次の文句が出ています。

  な、やくざあな、御法度の裏街道を行く渡世だ、言わば天下の悪党だ。…
 映画「座頭市物語」では市は、汚い策略によって繁蔵一家を破り勝利の美酒に酔う助五郎に対して、このセリフを吐きます。得意の居合斬りで助五郎の前にすえられた酒樽を一刀両断。見えぬ目をクワッとひらきながら。

(註)河内音頭とリズム・アンド・ブルースやソウルなどの黒人音楽との類似性は両者ともダンス・ミュージックであること、エイトビートを基本的なリズムとしていることなどいくつか挙げることができるが、最も本質的な共通点は、どちらもボーカル(音頭取り)の圧倒的な歌唱力の上に成立している音楽であるという点である。抜群の歌唱力を誇るボーカル(音頭取り)と、太鼓、三味線、ギターから構成されるリズム・セクションとが櫓の上で繰り広げるスリリングな掛け合いこそが、河内音頭の醍醐味に他ならない。(★La Vue」5号、2001年03月01日号より転載)

■プロフィール■
(うかい・まさのり)1951年、福岡県に生まれる。会社員。現在は、都はるみの歌とステージに魅かれている。

■編集後記■
★今年の5月で、黒猫はとうとう齢五十の大台に乗ってしまった。これまでの節目を思い起こすとそれなりの感慨がある。四十にして人生の大転機を迎えたが、今回はしみじみとしている。この間、何回か大病もして現在も故障だらけの体だが、ずいぶん遠くまで来たものだ。この世界に偶然に生まれて、生きていること=生かされていること、私が<この私>であることの奇跡を思う。(黒猫房主)





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