『カルチャー・レヴュー』01号



■創刊のご挨拶■

房主の開口一番


黒猫房主



 『歩くひとりもの』(ちくま文庫/親本・思想の科学社)の著者・津野海太郎さんは、わたしの心の師匠(瞼の父ではない!)である。

 中年シングルの境遇であるわが身にとっては、関川夏央さん(『中年シングル生活』講談社)と同様、病気と老後の不安に怯えながらも、清く正しくシングル街道をひた走ってきたのであった(笑)。
 関川さんはバツイチ・シングル(職業シングルという山口文憲さんの揶揄もあるが。因みに文憲さんはアマチュア・シングルだそうである)だが、わたしは一応(?)純粋シングルである。世間の家庭的な幸せあるいは不幸せからは、無縁に生きているのだ。

 津野さんは、そのシングル街道の風上を歩いているわが先人であり師である。彼のライフスタイルといかなる老後の着地点を理想とするかを、大阪の彼方より遠望してきたのだった。
 しかるに先年、60歳の声を前にして結婚されたそうである。
 とある酒場で、ひとりで呑んでいた女性が帰り際に、津野さんの耳元で後ろからひとこと「歩く裏切り者」と斬りつけるような口調で囁いたそうである。(「実話」だけに、その切実さを笑うしかあるまい!)


 ところで、わたしは20代前半にある書店のPR紙の仕事(版元訪問)で、津野さんにインタビューをしたことがある。その際の立派な体格(偉丈夫)と好奇心の眼の輝きは、昨年のNHK・TV『未来潮流』の出演でもその衰えを感じさせなかった。
 その番組は、未来の出版(本とコンピュータ)をテーマに、津野さんがリポーターとして登場したものであった。このテーマについて、マック狂の津野さんは先進的かつ刺激的な本をいくつも執筆されている。(注)

 わたしもかねてよりその書物に触発されてきたひとりではあったが、パソコンのディスプレイで<本>を読むなんてことは、ありえないと信じてきた。
 そんなわたしが昨年暮れにDOSマシンからWin95に乗り換えて、遅蒔きながらメール文化やインターネット(INET)の世界に開眼したのだ。そして最近、ボイジャーの萩野さんやひつじ書房の松本さんたちとの面識を得て、デジタル・パブリシャーの可能性と面白さに、改めて気づいたわけだ。

  そこで以前より構想していた『カルチャー・レヴュー』のペーパー季刊紙(このプロジェクトについては、評論紙『La Vue』への誘惑を参照)を刊行する前に、その手始めとして<メール・マガジン>でその構想を実現することにしたという次第だ。
 <メール文化>は、電話と手紙を統合して進化した文化といってよいだろう。両方の長所を併せ持ち、その手軽さは抜群である。しかしこの手軽さと<メール通信>の内容の密度が如何に拮抗し得るかは、これからの<課題>としたい!

 創刊号は、<教育><コンピュータ><詩>のジャンルでお三人に寄稿していただいた。またこの<メール通信>と並行して<シャノワール・カフェ・サロン>も随時開催するので、奮ってご参加いただきたい。

■(くろねこ・ぼうしゅ)1953年愛媛県生まれ。3社の出版社を経て5年前に独立。専門書の販売促進から企画・編集制作を生業とする「るな工房」を経営。隔月刊誌『カルチャー・レヴュー』発行人。読書会・自主講座の運営及びDTP・デザイン装幀を制作するグループ「Chat noir Cafe 」を組織
※(注)津野海太郎さんは、1938年、東京生まれ。60年代より、単行本をはじめ、ミニコミ誌など、さまざまなかたちの出版に携わってきた。『本とコンピューター』『本はどのように消えてゆくか』(晶文社)、『歩く書物』(リブロポート)、『新・本とつきあう法』(中公新書)などの著書がある。現在、晶文社顧問と季刊『本とコンピュータ』(トランスアート)の編集長を兼務。




■教  育■

ドーナツトークは僕なりの解答


ドーナツトーク社代表・田中俊英



 昔僕は、友達と始めた小さな出版社でライター兼編集者をしていた。 そこでは主に医療問題を扱うミニコミを発行していて、印刷屋のバイト で生活費を稼ぎながら、僕は空いた時間のすべてを取材・執筆・編集・ 営業に当てていた。23〜26才頃の話だ。

 それとは別に、僕は教員志望でもあった。大学時代にとれなかった教 職の単位を25才頃通信教育でとって、遅ればせながら教育実習に行っ た。学校が肌に合わなかったし、友達との出版社も忙しかったので、結 局教員は諦めてしまったが、そもそも僕には、「書くことと援助するこ と」が両輪の夢だった。

 あれは確か、ある難病団体の取材に出かけた日、長時間インタビュー をし、その団体の代表を僕はすっかり尊敬してしまった。けれども、そ こが出しているチラシを見せてもらったり、新聞記事なんかを読んで も、まったくその人の良さが出てない気がして残念な気持ちになった。 僕はその時、「もっとうまいやり方があるはずなのに」と思ったのだ。

 こういう気持ちはこの時が初めてじゃない。別に患者さんの団体だけ が僕にこういう残念な気持ちを抱かせたのではなくて、いわゆる「市民 運動」的なところは、社会問題にかっこつけた自己救済的な側面とか、 ナルシズム的側面とか、視野の狭さなどのいやな面を差し引いても、 「やり方がもったいなあ」と思わせたものだ。

 やがて僕は出版社をやめて、フリーターをしながら「相談家庭教師」 という変わった仕事をし始めた。一言で説明すると(今まで納得できる 「一言説明」をできたためしはないが)、不登校や20代のひきこもり の子の家を訪問し、子どもを尊重した信頼関係を築くことで、子どもが もう一度社会へ戻ったり何かをやろうという気分になるよう援助する仕 事だ。現在は相談家庭教師という名称は使わなくなったが、この仕事を 始めてかれこれ7〜8年になる。

 なぜこういう仕事をしようかと思ったかというと、サリンジャーの 「ライ麦畑で捕まえて」という小説があるでしょう? あの主人公の ホールデン・コールフィールドの夢が「ライ麦畑で遊ぶ子どもたちが崖 から落ちないよう見張っておく」仕事をするというもので、僕は高校時 代、これを読んでいたく感激したのだ。教師はこれとは何となく違って いて、やっぱり1対1の援助でなくてはダメで、専門的なヒエラルキー 的なカウンセリングはちょっと肌に合わず、何より「自分で作る新しい 仕事」という感覚が僕は好きなのだ。

 ちなみにもうひとつの夢は「自分なりの『ロッキングオン』を作る」 というもので(テーマはロックでなくてもいい)、どちらも自分の青さ に逃げ出したくなるが、本当だから仕方ありません。

 今僕は、「ドーナツトーク社」という事務所名で1週間に6〜7人の 子どもたちを訪問・援助している。そして空いた時間で「キッド」とい うミニコミ誌を作っている(不登校/子ども問題がテーマ。16ペー ジ、200部、月刊)。人を援助する仕事を基本とする、文章を書く、小 さくてもいいからメディアをもって他の人にもどんどん書いてもらった りインタビューする。「難病団体」の話とは直接関係ないかもしれない が、これが僕なりの、あの時抱いた残念な気持ちへの解答だ。あと、も うちょっと経営が楽になれば言うことないんだけどなあ。興味ある人は 連絡ください。

 E-mailアドレス<zan01701@nifty.ne.jp 田中俊英>
 http://member.nifty.ne.jp/donutstalk/
 ドーナツトーク社
 〒563-0047 池田市室町6-23-104 TEL 0727-54-1009


■(たなか・としひで)1964年生まれ。大学卒業後、1992年頃より、友人と設立した出版社(さいろ社)勤務のかたわら「相談家庭教師」という名称で不登校の子への訪問活動を始める。96年、個人事務所「ドーナツトーク社」を設立。訪問・相談活動の他、講座運営などを行なう。また月刊誌『Kid―「対話する」ことで子どもへの援助が見えてくる』を発行。




■出版・コンピュータ■

変わる本世界


毎日新聞社東京本社・学芸部論説委員
池田知隆
ご厚意により、下記の記事を転載いたします。
【掲載日】1998年09月11日 【紙誌名】毎日新聞東京朝刊 15頁



テキストを自由に操作−−画期的な読書ソフト登場

 コンピューターと読書を考えるうえで「革命的」といわれるソフトが このほど発売された。「T-Time(ティー・タイム)」。ワープロは 「書く」ことに特化したソフトだが、これはモニター画面上での「読 書」に狙いを絞ったソフトだ。その一方で、著作権のない「電子本」な どを集めた民間の電子図書館も広がっている。「本の未来」が大きく変 わろうとしている。【池田知隆】

 「ソフトの名前には、休憩のお茶=ティータイムと、テキストの時代 との意味を込めた。コンピューターのモニターから今、派手な映像や音 声が飛び出しているけど、私たちは文字を『読む』ことの重要性を考え たい」。ソフトを開発したボイジャー代表の萩野正昭さん(51)はい う。

 インターネット上では、さまざまな電子テキスト情報があふれ、文学 や書物に関するものも豊富だ。だが、これまでそれらを画面上では「斜 め読み」で済ませ、いったん紙に印刷して読む人が多い。テキストはた いてい横書きで、行間も詰まっているから、読みやすさの点で明らかに 印刷物に劣る。だから、電子本が登場しても「紙の本は不滅」と言われ てきた。

 しかし、「T-Time」は、読者がテキストを自由に操作できる。「紙 の本」では、文字の大きさや組み方は編集者によって決められるが、こ れはいわば読者の「白紙の本」で、その中にテキストを取り込み、瞬時 に「大活字本」などにできる。

 今回、このソフトを「T-Time インターネット縦書き読書術」(ひつ じ書房発売)という本にして販売する戦略「書店流通プロジェクト」も ユニークだ。電子本出版社であるボイジャーは、紙の本を一冊も作って いない。文学、哲学、科学関係の本をCD-ROMで販売しようにも、再販 商品としての書籍扱いはされず、書店流通から排除され、結局はコン ピューターソフト店でアダルト作品やゲームに交じって売られることに なる。

 一方、小さな出版社のビジネス環境は厳しい。そこで、デジタルメ ディアの利用で活路を開こうとしていた「ひつじ書房」と、電子本の書 店流通を願うボイジャーの提携が生まれた。

 さらにインターネットの世界では、デジタルでものを書き、発信する 作家たちが増えている。そうした作家にとって、商業出版の枠に収まら ない小部数の「本」の出版、流通が可能になる。インターネット上でデ ジタル情報を「紙の本」で読みたい人が集まれば、その注文を受けて出 版社が出すような展開もできる。

 「T-Time」を機に、作家、出版社、書店を巡る新たな関係が生まれ そうだ。

◇「青空文庫」−−古典作品など150点・自費出版や絶版本も収録
◇無料で利用「電子図書館」
 「T-Time」のマニュアル本を書いたジャーナリストの富田倫生さん (46)は、インターネット上で本のテキストをどこからでも無料で引 き出して読むことができる電子図書館「青空文庫」を開いている。

 「本はいつも空にあって、誰かが読み始めるのを待っている。そのよ うに『先人の知恵』を知ることができたらいい。だれにとっても心の糧 になるような基本的な作品をインターネットに置きたい」。そんな期待 を込めて、富田さんは自らパソコンに打ち込んだ文芸作品や大学の研究 者がデジタル化していた古典作品を集めて、有志4人で昨年9月にス タートさせた。テキストをデジタル化し、共有財産として活用する活動 は、アメリカでは「グーテンベルク・プロジェクト」という名で大掛か りに進めらているが、その日本語版だ。

 芥川龍之介、有島武郎、尾崎放哉……。ボイジャーのホームページに 間借りする形で設けられた「青空文庫」を訪ねると、作品や作者別に蔵 書が整理されている。読みたい本をマウスでクリックすれば文章が表示 され、無料で保存もできる。共通するのは、没後50年以上が経過し、 著作権の保護期間が過ぎていることだ。これまでに「源氏物語」(与謝 野晶子訳)、「土佐日記」などの古典や、森鴎外などの文豪から一部の 現役作家の著作まで約150点を収録している。アクセス数は1日数千件 に上る。

 そうした作品のほかに、絶版になった本や自費出版本など流通から外 れた本も対象にした。作家、詩人や絵本作家など著者から収録を申し出 るケースも多い。

 「優れた作品でも絶版になったら読めないが、インターネットなら簡 単に手に入る。商品としての期間が過ぎた作品も広く読まれていいはず です」と富田さん。ボランティアでテキストの入力作業をしている「青 空工作員」は約40人。点字や音声入力への利用なども視野に入れてい る。

 青空文庫のホームページのアドレスは次の通り。
 http://www.voyager.co.jp/aozora/


■(編集部・注)関連するホームページは下記の通りです。
ボイジャーのホームページのアドレス
 http://www.voyager.co.jp/
ひつじ書房のホームページのアドレス
 http://www.hituzi.co.jp/
『本とコンピュータ』Web版(室 謙二・編集長)は、鶴見俊輔さんへ のインタビュー記事、津野海太郎さん上野千鶴子さん、粉川哲男さんの エッセイなど盛りだくさんの内容です。http://www.honco.net/toc-j.html
■(いけだ・ともたか)1949年熊本県生まれ。毎日新聞社入社後、社会部、学芸部副部長などを経て編集委員(東京本社生活家庭部)。神戸女学院大学講師(94年〜97年度)、国際日本文化研究センター共同研究員(97〜98年度)。著書に「新聞記者」(実業之日本社)、「理想のゆくえ」(長征社)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。
■(編集部・注)このメールマガジンも『T-Time』(ソフトのみ3400円・ 税別)に取り込んで読むと便利ですよ。なおこのソフトは、書店でも購入 できます。その場合は「発売元・ひつじ書房」をお忘れなくお伝えくだ さい。本文中の新刊名は『インターネット快適読書術 T-Time付 』 (マニュアル+ソフト 5500円・税別)に改題、98年10月上旬発売です。




■現代詩■

さようなら・1999


詩人・富 哲世



 「できれば世界の終わりを見たいものだ」と自分の不死のなかにあっ て、まだ大丈夫、もう一度と思いながら、命の罠にはまるように衰弱を 重ねていく。田村隆一の死も亦、そのようなふつうの死のひとつだっ た。「死を養うために生きているようなものだ」と80年代半ば、齢60 を過ぎて老いの思いをそう詩に書き記していたその人にも、ついに本番 がやってきたというわけだ。「死よ、おごる勿れ ジョン・ダン」とい う死の敗北を謳った詩の一節の引用の絶筆も、しばし身近なひとのここ ろにやさしさととどまったのち、無辺な言葉の土にかえる。

 1982年刊行の詩集『スコットランドの水車小屋』のなかに「1999」 という「蟻」の詩編があり、「『1999』//という詩集が出してみたい/ もしそれまでに生きていられたら/」というくだりがあった。98年のこ の春上梓された最後の詩集『1999』は「さようなら 遺伝子と電子工 学だけを残したままの/人間の世紀末/1999」というコトバで閉じられ ている。それは去っていく世紀への未来からの挨拶ではない。それは立 ち退らんとするものの岸からみた、今一度のこの世への挨拶であった。 そこには批評精神とともに、この文明社会への愛着と哀惜の感慨が込め られているように感じられ、それが愛すべき「個」への愛情と哀惜の情 となって、コトバの痛切な普遍性を生むことになる。


 まだ だれも
 猫の足音を聞いたものはいない
          (『装飾画の秘密』最終連 同上詩集より)

 『足音』

 ぼくはまだ
 猫の足音を聞いたことがない
 桃色の耳の動きだけは知っているつもりだが  (詩集「1999」)

 ここで取り出され、反復され、付け加えられているのは、観念の距離 からより肌身の側へといよいよ近く、積み重ねられていく「経験」の質 である。それは何でもない、ごく当たり前の経験、ごく当たり前の認識 のひとつに違いないのだが、詩人にとってそれは全「歴史」に等しい重 みをもっている。この詩集でもそうだが、彼の詩作品にはしばしば過去 の自詩からの引用や、西脇順三郎などの他者の詩の一節やコトバが繰り 込まれているが、それは謂わば時を隔てた長いポエジーの継続であり、 交換可能性という真理の反面で人の心理に維持されつづける「個」と 「個」という「かけがえのなさ」同士のコレスポンダンスであるように みえる。これは転向を出発とした第二詩集以降の彼の長い詩の歩みにお ける、手法としての彼の発見であっただろう。

 第一詩集『四千の日と夜』(1956年刊)を読み直してみると、うっ かりすると今それはよく分からないものにみえるほど、緊張したコトバ たち、劇をするコトバたちであるように見える。もう20年以上も前、 それを最初に読んだとき、その意味を超えた表現のダンディさは、魅力 的な距離というよりキマリすぎるなにものかとして、かまえる気持ちを こちらに起こさせたものだった。その呪法のようなパラドキシカルなレ トリックに現れた、観念のラジカリズムは、全否定の精神の高揚の裡で それでも「体験の共同性」という恐らく当時「荒れ地」の初期同人がエ コールの共通項としてそれぞれの位相でそこから妄想を紡いでいただろ うことを「存在の共同性」へと昇華させ、存在論的な手法で、「じごく のきせつの色とひびき」を表したものだった。それがそのまま「じごく のきせつ」という暗黙の了解性の裡にとどまっていたとすれば、それは ただ一度の「瞬間の王」(谷川雁)として捨て去られてしまっていただ ろう。しかし「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と書く彼にあって は最初から「詩」になりうるコトバとは、ついには捨て去られるべき武 器などではなかった。それは他者の涙や血のなかへ物として帰ってくる ための方法であった。

 「存在の共同性」への距離が「ぼく・きみ・彼・彼女・われわれ」な どのなかへデモン的に、人格分離的に仮構していたことを一人称のなか へ回収すること、一人称の外へ見えない「対話者」を獲得することが、 第二詩集以後最後の詩集に至るまでの彼の長い消費の歩みだったのでは ないだろうか。垂直的人間(おれは垂直的人間/おれは水平的人間にと どまるわけにはいかない−−『言葉のない世界』)とは、沈黙の高度の 発見と地上の身体性を結び付けて生きようとする人間のことであると同 時に、「語り手」として通時的対話者を措定しうる人間のことでもある のだ。

 『四千の日と夜』からそれ以降へ、世界の否定から、否定の否定へ、 それは自然な一歩だが、そこにはコトバの「死」の宿命的な様相を見定 めたゆえの潔癖さのごときものがあり、ふつう(論述的布置の)コトバ で詩を書くことにも、自己否定的な濾過装置の働きとそこに聴き手の 「時」を待つ勇気があり、見えない対話者をもつその「語り」の時間的 位置に、身体のように消費し続けることが、同時に「死」のようになに ものかを養い続けることである反復の、持続の、田村隆一という詩人の 真骨頂があったと云わざるをえない。

■(とみ・てつよ)神戸在住の詩人にしてパフォーマー。 「MELANGE(めらんじゅ)」同人・「カルチャー・レヴュー」編 集委員。詩集『血の月』(蜘蛛出版)を上梓。
■(編集部・注)田村隆一の最後の詩集『1999』は集英社より発売 中です。なお、現代詩文庫『田村隆一詩集』(思潮社)が入手容易で す。




■編集後記■
◆このメールマガジンは現在、詩人、編集者、新聞記者、書店人、大 学・高校教員、予備校講師、作家、ルポライター、デザイナー、装幀家、建 築家、都市再開発プランナー、ゲームプロデューサー、レストランオー ナー、公務員、ソーシャルワーカー、ドクターなど約80名の方々に送 信しておりますが、より多くの方々に購読していただきたいので、ご友 人・知人の方々のメールアドレスをお知らせいただければ、送信いたし ます。
◆ご意見・感想・投稿をお待ちしております。採否に関しては 編集部一任となります。◆ 集会・催しの情報を適宜掲載いたしますので、情報を編集部までお寄せく ださい。



TOPへ / 前へ