■表現/メディア■

メディアに隠された場所で
――ユーゴへの旅――

元吉瑞枝

 私がユーゴを訪れたのは、二〇〇一年九月二日、まだ、あのアメリカでの同時多発テロやその後のアフガン空爆などを知る前のことである。

 かつて非同盟、自主管理社会主義を掲げた多民族・多文化の国家であった旧ユーゴは、一九九一年のスロベニアとクロアチアの独立以来、数十万人の死者、数百万人の難民を出す内戦が長くつづいて解体し、五つの独立した共和国に分かれたが、この内戦の過程で欧米諸国は、セルビア共和国とモンテネグロ共和国から成るユーゴスラビア連邦共和国、いわゆる新ユーゴに対して、一貫して制裁の立場をとり、九二年の国連からの追放や経済封鎖、文化交流の停止などをつづけ、九九年には、新ユーゴ内のコソボ共和国のアルバニア系住民の分離・独立要求に対する弾圧を理由に、NATOによる七十八日間にわたる激しい空爆を行なった。それらの政策はすべて、ユーゴ/セルビアによる他民族への抑圧に対する制裁としての「人道的介入」という論理に基づくものであり、メディアも世論の多くもそれに同調していた。他民族に対する抑圧は(セルビアに限らず)裁かれねばならないとしても、それがいわゆるダブル・スタンダードであり、欧米が当時世界に大量に流した情報の多くが操作されたものであり、当時「人権擁護」の名のもとに行った政治が多くの思惑や駆け引きを含んだものであったことが次第に明らかになりつつある。その後、対アフガン攻勢を通して、アメリカをはじめとする「国際社会」の掲げる正義のレトリックの奇怪さがいっそう目に見えるようになったが、「アフガンの前にはコソボがあった」(高村宏「情報操作の恐ろしさ」“Ashikabi Journal”No.37)のである。

 それだけではない。ユーゴ問題の本質は、本当に、バルカンに特有のものとされた民族や宗教の対立(あるいはそれだけ)に根ざすものなのであろうか。既に一九九五年のボスニア和平合意の直後に、オタワ大学教授のミシェル・チョスドフスキーが、そうではないことを指摘している。彼によれば、ユーゴは一九八〇年以前の二十年間、その地域の産業大国であり経済的な成功を収めていたが、一九八〇年代に西側経済の援助を受けて以降、西側の巨大資本はユーゴに対して、かつてのような労働者による自主管理という実験をやめさせ、西側の望む市場経済を導入しようとして、NATOの軍事・諜報活動と合わせた市場の力の意図的な操作を行なって経済活動や市民生活を崩壊させ、それが民族間の緊張を高め、国家を解体へと導いたのだという。またユーゴの内部からの崩壊は、一部はアメリカの陰謀によるものであるとし、レーガン政権時代に、ユーゴを市場経済に組み込むことや東欧諸国の社会主義政権の転覆を目標に掲げていた極秘文書の存在を挙げている(ミシェル・チョスドフスキー著/ビル・トッテン編「崩壊したユーゴスラビアと植民地ボスニア」http://www.billtotten.com/japanese/ow1/00285.html http://www.billtotten.com/japanese/ow1/00285&00286.html。また最近アフガン問題との関連で、ノーム・チョムスキーは、アメリカが、「セルビア人から過度の残虐な反応を誘い出すためにセルビアの警察と一般市民を攻撃した」と公言している、かつての「テロリスト」コソボ解放軍を、みずからのセルビア攻撃においては「フリーダム・ファイター」として利用し、戦いのあとで彼らがアメリカの同盟国マケドニアで同様の行動を起こすと、再び「テロリスト」として見放したことに言及し、アメリカがテロを含む陰謀を常套手段として、ユーゴでも行なっていたことを指摘している(『週刊金曜日』二〇〇一年三八三号)。まさに、アフガンの前にユーゴありき、なのである。

 冷戦終結後、アメリカをはじめとする欧米諸国は、みずからは犠牲を払うことなく、敵を壊滅できることを誇ってきた。イラクやユーゴ、そしてアフガンに対する空爆は、その最たる例である。そして「戦争のあと、勝者は敗者の戦争犯罪を断罪したが、自らの犯したことについては沈黙を守った」(星田淳『空爆下 ユーゴからの通信』北海道エスペラント連盟発行)といわれるような流儀がいつの場合でもまかり通ってきた。「はじめて銃が(弱者から強者へと)反対方向に向けられた」(チョムスキー、前掲書)二〇〇一年九月十一日までは……しかし翻って考えれば、アメリカの敵とされた「ならず者国家」やその首班者は未だ健在であり、ユーゴのミロシェビッチ政権も空爆によって倒れたのではない。犠牲となったのは、爆弾で倒れた人々であり、制裁のもとに苦しんだ人々である。テロの犠牲者も同様である。アメリカ国家とアメリカの人々が同一ではないように、ユーゴの為政者とユーゴに生きる人々は同一ではない。国家や民族の概念ではとらえられない存在、メディアによって操作される空間には存在しない生、そこにこそリアリティがあるのではないだろうか。ドイツ語圏の作家ハントケが、あえて空爆下のユーゴに赴き、当地の人たちに直かに触れて、その姿や言葉や表情を確かめようとしたのも、そのような〈リアリティ〉にこだわったからではないだろうか。(ペーター・ハントケ『空爆下のユーゴスラビアで』同学社)。彼の表現のメディアとの違いは、爆弾を落とす側ではなく落とされる側に視点をおいているという点だけではなく、特別の事件や集団の動きを追うのではなく、ニュースにはならない人々のふだんの様子を描いていること、そしてそれを「事実」として(事実のふりをして)「報道」するのではなく、「自分の見たこと、感じたこと」として、「自分だけの言葉で」表現しようとしている点である。

 私のユーゴへの旅は、ユーゴ空爆からもう二年以上経過した時点でなされたものである。その間、二〇〇〇年秋に民衆の圧倒的な声の前にミロシェビッチ政権が崩壊し、国際社会の制裁も解け、ユーゴはもう「禁断の国」ではなくなっている。しかし、私が旅行前に尋ねたとき、日本の旅行社からは、ベオグラードのホテルの予約は扱っていないとの返答が返ってきた。また、ユーゴと(かつては同国内であった)他の共和国内の交通は今も不便で航空便が全くないか非常に少ないため、いったんウィーンなどに出て遠回りしないと行けないというような状態がまだ続いていた。チューリッヒからベオグラードに向かう飛行機の中からは、爆撃されたノヴィサド近郊の橋が川の中に崩折れたままになっているのが見えた。NATOは軍事施設だけではなく、ドナウ川やサヴァ川にかかる多くの橋を「誤爆」し、その上にいた人たちは犠牲になったのである。

 ベオグラードに降り立つと、そこでも爆撃された建物がそのままの姿であちこちに残っているのが目に入った。けれどもその傍らで人々は、それについては多くを語ることなく、明日に向かって生きているように見えた。かつて空爆の中で、胸に抗議のターゲットマークをつけて街を歩き、広場や橋の上で毎週ロック・コンサートを開いていたように、いま夕方のカラメグダン公園やクネズ・ミハイロフ通りでは、仕事を終えた人たちが、日が暮れるまでのひとときを楽しんでいる。他の都市と全く変わらない光景である。戦争などなかったかのように……もしそこに戦争の影があったとしたら、そこに、このいまのひとときを楽しみたい、という思いが特別にこめられているように感じられたということである。私は、空爆時にはみんな地下室で抱き合って難を避けたが、その後はまた離れ離れになって、そんなことなどなかったように元に戻った、と当地の人が話してくれたのを思い出していた。「そんなことなどなかったように」……各人の胸の中にしまった忘却と記憶。それはまだ簡単には手を触れることができないもののように思えた。けれども、きっと、いつか何かのかたちで……否、いまこういうかたちで表現されているのだ。

 別の日の別の光景。クネズ・ミハイロフ通りでベンチをさがしたが空いていなかったので、端の方に一人の青年が腰かけているベンチの反対の端の方に腰を下ろして休んだ。ふと気がつくと、すぐ近くに、銃をもった警官が何人もいる。いったい何だろう? 何かが始まるのだろうか。前日街を案内をしてくれた人が、空爆後もしばらく、ミロシェビッチ派と反ミロシェビッチ派が街頭で争うことが多く、そのために武装警官が多く見られたが、いまはそんなこともない、と言っていたのに……いったい何なのかわからないまま、私は反射的に席を立った。すると、それにつられたのか、ベンチのもう一方に腰かけていた青年も席を立った。が、その姿を見て私は、あっと叫びそうになった。その人は、膝から下がなかったのである。思わず警官たちの方を見ると、彼らもいっせいに、台車のようなものを動かして移動している彼の方を悲しげにじっと見ている。が、その姿は一瞬にして人込みの中に消え、気がつくと警官たちの姿ももうなくなって、街には、その前からも流れていた、リズム感のあるロックが風に乗って流れていた。

 次の日、ベオグラードから列車でクロアチアを通ってスロベニアの首都リュブリャナに向かった。十時間の列車の旅である。ベオグラードから北へ、そして西へ折れ、クロアチアに入ってザグレブまで、ひまわり畑やとうもろこし畑の延々と続く中を、列車はゆっくり進んでいった。最後尾に食堂車がついていて、クロアチアの店員が、乗り込んできたユーゴの警官や乗務員にコーヒーを出して互いに世間話をし、笑い声も聞こえてくる。しかし、ユーゴとクロアチアの国境では、ユーゴ側、クロアチア側での各々の検問があり、時間をかけて列車の下なども覗いたりして丹念にチェックするのだった。クロアチアとスロベニアの国境でも同様だった。

 ところで列車がユーゴから離れ、クロアチアに入り、そこからさらにスロベニアに近づいていくにつれて、どんどん貧しさを捨て、豊かさの方へ進んでいるという感じが強まっていった。特にザグレブからリュブリャナへ向かう車窓には、息をのむように美しい山岳の別荘地のような風景が次々に現れたが、さらに下車して見たリュブリャナは、絵のように美しい中欧の街であった。それに比べると、ベオグラードは、いままさに生きるか死ぬかの戦いの中にあって、躍起になって生きようとしている、そんな街だったのだ、と、リュブリャナに来てみて、初めてそう感じた。経済制裁を受けるとは、こういうことなのか、と……いまにして思えば、ユーゴでは、車が見すぼらしく、道路もガタガタしていたし、ホテルのトイレット・ペーパーやタオルなども質素で不足し、旅行者の姿もほとんどなかった。ユーゴは、十年に及ぶ経済封鎖や内戦や空爆でヨーロッパの最貧国になったのだった。けれども不思議なことに、ユーゴにいる時には、全くそのようには感じなかった。それは、彼らのユーモアと誇りを秘めた落ちついた態度からきていたのだろうか。爆撃された建物がまだ所々に残っている、その「最貧国」の街並みや人々の中に、私は、ピカピカの車や物や広告が溢れている日本よりも豊かな何かを感じずにはいられなかったのである。

■プロフィール■
(もとよし・みずえ)熊本県立大学教員。ドイツ文学専攻。二十世紀初頭の文学、主にカフカを中心に研究してきたが、二〇〇一年、本文でも言及したペーター・ハントケの『空爆下のユーゴスラビアで』を翻訳。ユーゴからの帰途、パリ郊外に住むハントケにも会ってきた。これについては別途「ペーター・ハントケへの旅」(『ラテルネ』同学社、二〇〇二年三月刊行予定)に記した。




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