『カルチャー・レヴュー』32号



■新創刊「コーラ」のご案内■


「コーラ」の〈新創刊〉に向けて
      ――自己の脱構築とさらなる他者との交響を目指して

山本繁樹



 本紙「La Vue」は市民の相互批評を目指す評論紙として、読者の方々の「投げ銭」及び「木戸銭=年会費」というパトロンシップによる発行運営を志向=試行してきました。
 「投げ銭」というのは、読者が内容を読み終わったあとで評価に応じて「後払い」していただくシステムです。そのことによって、在野の表現者や研究者を支援する評論紙の維持を目指したわけです。

 そしてお陰様で本紙は十五号を迎えました。その成果は、「La Vue」のWeb頁をご覧ください。年数にすると四年余りではありますが、ここまで継続刊行できたのは、寄稿者をはじめ読者および関係各位のご支援とご協賛があったからに他なりません。改めてこの紙面を借りてお礼申し上げます。

 しかしながら、「投げ銭システム」による運営は軌道には乗りませんでした。当方のアナウンスの不手際か、あるいは「投げ銭」それ自体のわかりにくさからか、ほとんどの読者は本紙を「フリーペーパー」と做していたようでした。配布先(書店・文化センター等)での捌け具合や風評では、多くの常連読者がいるとは想定できたのですが、本紙を維持するための有料定期購読者の確保へとは繋がりませんでした。残念ながら本号を持ちまして、「投げ銭システム」の実践=実験は中止といたします。

しかし休刊ではありません。さらなる継続に向けて、アクチュアルなWeb評論誌「コーラ」(季刊・無料)へと装いを新たにします。
 「思想・文化情況の〈現在形〉を批判的に読む」という視座から、各自の継続的なテーマや関心領域を発表する横断的かつ開かれた投稿誌でありたいと思っています。  そして、複数の声が交響しあう言語‐身体空間の生成と〈主体〉の脱構築に向けての協働、それらを通して新たな〈可能性〉を呼び込みたいと思います。具体的には講座や読書会、協働レヴュー(討議)を経ての共同執筆、編集作業、合評会なども志向しています。

 このような趣旨での〈新創刊〉に向けて、定期購読者および投稿を募ります(投稿料・原稿料なし。投稿規定は別途ご請求ください)。


 また〈新創刊〉の掲載内容を希望される方は、「るな工房・窓月書房」編集部までご連絡ください。追ってご案内申し上げます。
 なお姉妹誌メールマガジン「カルチャー・レヴュー」は不定期刊(2007年以降)のスタイルで継続発行いたしますので、併せてご購読をお願い申し上げます。

■「コーラ」最新号=http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
■「La Vue」告知=http://homepage3.nifty.com/luna-sy/lavue.html
■「カルチャー・レヴュー」=http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
■「La Vue」2号から15号までを特別セット価格1000円(切手可)にて承りま すので、前払いにて「るな工房・窓月書房」までお申し込みください。





■識字と在日■


「生野オモニハッキョ」に参加して




 「生野オモニハッキョ」とは、主に在日コリアン1世たちが日本語の文字を学ぶ識字学校のことで、韓国語で「オモニ」は「お母さん」、「ハッキョ」は「学校」を意味する。今から26年前に設立され、多少の紆余曲折を経て現在も生野区の聖和社会館で、週2回授業が行われている。叔母の紹介で、私はそこに3年ほど前に教える側のスタッフとして参加をした。

 実を言えば、日本語を教えることには少し抵抗感があった。在日3世である私が自分のハルモニ(祖母)と同じ世代であるオモニたちに日本語の文字を教えるというのは、何か歴史の奇妙な歪みであるように思えて、オモニらが苦労してきたおかげで私らが学校に行けて、じゃあこれはその恩返し? どうも納得がいかなかったのだ。だから最初は文字を教える際、筆順や筆法、うまいヘタなどはあまり気に留めず、より多くの文字を覚えてもらうことを中心に授業を進めていた。

 「せんせい、この字の書きかたおおてます?」と尋ねるオモニに対しては、一応合っているかどうかの確認はするものの、「そんなことを気にせんでええよ、ほとんどの人が書き順なんかめちゃめちゃに字を書いてんねんから」と不安がるオモニに安心して文字を書くようにすすめ、また「字汚いから恥ずかしいわあ」といって恥ずかしがるオモニに対しては「そんなことあれへんよ、ちゃんと読めるし、私よりうまいんちゃう?」と多少見栄えが良くなくても堂々と文字を書くようにすすめていた。そんな風にして一年ぐらい経った頃、あるオモニを担当していた私は、自分の「文字は読めればいい、書ければいい」という教え方が本当にオモニにとって良いのだろうかと疑問に思い始めたのだった。

 そのオモニは戦後日本に渡って来た六十代くらいの方で、日本で生活する中で仮名の読み書きや漢字もある程度知っていて、だから私も最初から小学校高学年レベルのテキストを使用して授業を進めていたのだった。ある日、教科書ばかりでは飽きるだろうし、覚えた漢字の実践にもつながるだろうと思った私は、オモニに「今日は、日記を書いてみましょうか。」と提案してみた。最初少し戸惑っていたオモニも暫くしてその日の一日をノートに書き始めた。朝起きて、仕事をして(オモニの多くはヘップや鞄などの内職をしている)、お昼を食べて…‥。

 文章中、小さな「つ」や濁点が抜けたり逆に余分に付けたりすることは少し気になったけれども、これはオモニたちが文字を書く際によく見られる現象で、その都度指摘をするだけであまり強く間違いを正すことはしていなかった。けれども、その後も時折日記を書く授業をしたりしているうち、私はやはり文章に頻出するそれらの現象が気になって、試しに私の言う言葉を全てひらがなで書いてもらうことにした。「学校」「兄弟」「給食」「土曜日」「女中」。オモニが書いたのはこうだった。「かこ」「きょたい」「きゅそっく」「とよび」「ぞつ」。

 「濁音」「促音」「長母音」はオモニたちの最大の難所であることは知っていたものの、正直私は少しショックだった。「折角」「掃除」「電球」「冗談」などを漢字で書けるオモニが、これをひらがなで書いてもらうと「せかく」「そじ」「てんきゅ」「ぞだん」となるのだ。それにも拘わらず実際オモニたちはそれらの漢字で読み、書き、意味も理解できるのだから(但し、発音はひらがなの通りになっているが)、このまま漢字テキスト中心の勉強を続けても良いのかもしれない。けれども、どんなに難しい漢字をたくさん覚えたとしても、いつかまたこの「学校」=「かこ」の位置に戻って来てしまうのではないか。漢字というベールにくるまれて表面上みえてこないこの「綴り」の問題が、もしかするとオモニにとっての不安要素となっていて、文字の間違いを指摘した時その事実を否定するかのように、慌ててその字を鉛筆で黒く塗りつぶしたり消しゴムで消したりするオモニの振るまいにつながっているのではないだろうか。私はオモニに聞いてみた。

 「Kさん(そのオモニの姓)は、とてもよく漢字を書いたり読んだり出来はりますけど、でもひらがなで書くとやっぱり小さい『つ』が抜けたり、伸ばす音がぬけたりしてしまいますよね。このまま漢字の勉強を続けてもいいんですけど、私は一回ちゃんとひらがなから勉強してみたらどうかなと思うんですけど」。
 「構いませんよ」がオモニの答えだった。私は次の授業に小学校一年生用の「かなドリル」と「かんじドリル」を用意し、ひらがなの書き順から徹底して教えることにした。また「止め」「はね」「払い」等の筆法も意識しながらきっちり書くようにしてもらい、バランスの悪い文字やおざなりに書いた文字は何度も消して書き直させたりもした。このやや過剰すぎる私の方法も、オモニハッキョを続ける中で私が新たに感じ始めていたことの実践の一つだった。それは、先にも書いたオモニの「不安要素」の原因を取り除くことにあった。

 オモニたちはやはり、文字に対してどこか恐怖感をもっている感じがあって、それで私は「書ければいい、読めればいい」と「文字の正しさ」にあまり捕らわれずに気楽に文字を書くようにと、以前はすすめてきたのだった。  けれども、実際にオモニがここで文字を覚えどこかで文字を書いた際、ふとしたことで誰かに間違いを指摘されたりする。そうするとオモニは傷ついて、また文字に対してネガティブになってしまうのではないだろうか。またどこか外に出掛けることにも億劫になってしまうのではないだろうか。だからこそ、オモニには誰よりも「正しい文字」「美しい文字」を身につけて堂々と社会に出られるようになって欲しい。「正しい日本語」「美しい日本語」なんて大嫌いだけれど、僅かなことで識別されるという社会的現実がある以上、「書ければいい、読めればいい」という無責任な言い方ではなく、オモニ自らにその体現者になってもらうというのが戦略的に有効なのではないだろうか、そう思い方針を変えたのだった。

 また、「美しい文字」にはもう一つ別のねらいがあって、文字には一種のナルシズムがあると思うので、きれいな字を書いて自分の書く文字を愛するようになってくれれば、文字を書くことが好きになって楽しいと思えるようになるのではないか、また消して再び書くことでより早く覚えられるのではないかと思ったことだった。
 ただ、仮名をきっちりと覚え「美しい文字」を書けるようになったからといって、オモニが「学校」を「がっこう」と書けるようになるわけではない。それは日本語と韓国語の発音体系の違いに原因があるからだ。例えば、韓国語では「語頭に濁音がこない」という規則があるので「電気」は「てんき」と、また日本語にはあって韓国語には無い音があるので「雑誌」は「じゃし」と発音し、かつそう書いてしまう。これは外国語を学ぶにあたっては当然のことで、逆に韓国語の「アヤオヨオヨ」の二つの「オ」と「ヨ」の音の違いが私には容易に区別できないだろうし、また英語の場合、もし私が「マザー」を「mother」と綴り「スクール」を「school」と綴るということを知っていなければ、おそらく「mazar」とか「skule」という風に書いてしまうだろう(昔、「dictionary」を「ディクチョナリー」と「dangerous」を「ダンゲロウス」というようにして英単語を暗記していたし、今でも心の中でそう唱えながらキーを押している)。また「長母音」や「促音」が抜けるのも韓国語の音のリズムがあるので同様に難しい。

 だから、音による文字の違いを認識してもらうことが困難な以上、オモニには「学校」を「がっこう」という綴りとして覚えてもらうしかないのだけれど、これがなかなか大変なようなのだ。漢字は楽に覚えられるのに、ひらがなの綴りがなかなか覚えられないというのは、やはり漢字の象形性によるものなのだろうか。いずれにせよ、オモニには意識して「が『つ』こ『う』」と強く発音するようにお願いするのだけれど、そうすると今度は「がっこうううう」と「う」が3つ4つ余分にくっついてしまったりする。オモニにとっては本当にしんどいことだと思う。このやり方がオモニに役立っているのかどうか、正しいのかどうかはいつも不安に思っているのだけれど、毎回オモニが来てくれることをその答えだと思い、一応そのやり方を私の方針として今も授業をしている。

 半年ほど前にKさんは病気をされて、しばらくオモニハッキョを休んでいた。その間私は、Iさんという別のオモニと一緒に同じ方法で勉強をしていた。そのIさんは今ではひらがなを書くことにとても熱心になっていて、「『か』の点の位置がおかしい」とか「『の』」の空間が少し狭いと言っては、何度も消し、消しては書きと、十分きれいだから次の文字に進みましょうと私が促さなければならないほどになっている。これは効果があったと言っていいのだろうか(?)。

 最近、オモニたちの中に文章を書き始める人が増えてきた。その多くは日記であったり、旅行記であったりするのだけれど、自分史のようなものを少しずつ書き始めているオモニもいる。そこには、日本に渡って来た(来させられた)経緯や、学校に行けなかった理由など、大きな歴史の中で生きてきたオモニの生がある。私の祖父・祖母もこんな風にして日本に来て、そして私が今日本に生まれ生きているのだなあと思うといつも不思議な感覚にとらわれる。
 オモニハッキョは1977年の7月に設立され、同年の8月に私が生まれた。そんなことにも何かの縁を感じながら、今や「正しい日本語」のタカ派となった私も「筆順」や「美しい文字」の勉強のやり直しに励まんとしている。

■プロフィール■
(エフ)1977年、大阪生まれ。在日韓国人3世。会社事務員。
 
〜〜〜◎◎◎「いくのオモニハッキョ」第5号、発売中◎◎◎〜〜〜

 「いくのオモニハッキョ」では昨年開校25周年を記念して文集をつくりました。オモニたちが一生懸命に手書きで書いた文章がそのまま掲載されています。オモニたちの思いやハッキョの活動が知れる内容となっておりますので、興味を持たれた方はご連絡ください(20周年第4号の在庫も若干あります)。

 ■定価500円(送料のご負担をお願いいたします)
 ■連絡先(文岩優子)E-mail:DZN02303@nifty.ne.jp






■ひきこもり■


肉声の明滅

上山和樹



■出版まで

 僕には子供のころから、悩まされている感覚があった。何かの現場にいて、あるいは人と話していて、「いや、それは違う、本当は、こうじゃないか……」という小さな火花みたいな感覚が、まさに火花のように閃き、そして周囲の圧倒的な力学の中で消えてしまうのだった。それは何か異常に貴重なものに思えたが、自分の言葉の政治力ではまかなってやることのできない、小さな小さな声の明滅だった。消えてしまった後、それは何だったかもう思い出せない。取り返しのつかない喪失感が僕を責め続け、あまりにも貴重な記憶や意見がどこにも記録されないまま消えてゆくこと、それは「恐怖」に近い喪失感だった。――二〇〇〇年六月に大阪のある親の会で発言して以後、僕は自分がそれまで流産させ続けていた小さな声たちを、必死にまさに「声」にした。形を与えて、「公の場所」に出す努力をしたのだった、それは語っている最中、自分を忘れることができるぐらいに熱中できた、必死の取り組みだった。語っている間、僕はまさに「自分を忘れた」。そんな熱中は、生まれて初めてであり、このテーマ以外ではあり得なかった。

 二〇〇一年五月、「本を書いてみませんか」というお申し出を頂いたのは、毎月のように続けられた「声を形にする」作業がある程度ルーティン化し、「同じことをいつも言わなければいけない」つらさが始まった頃だった。即座に受諾した。
 「インタビューをテープ起こしして、他の人に書いてもらうこともできる」という選択肢を断わり、「自分で書く」――自分の言葉の機能に賭けてみる――ことを決めたものの、「書き始める」までが大変だった。「ひきこもり」は、「コミュニケーションが機能しない」ことを最大のテーマの一つとしている。どんな文体で書くか。――それは、「誰に向けて書くか」という問いと重なっている。自分のことを「私」と言うか、「僕」というか。「です・ます」で書くか、「である」で書くか。僕は「書く形」を決めるまでに、一ヶ月を要した。

 出版社からのお申し出は、「一人称で、体験告白を書く」ことだった。僕としては、それはそれで貴重なアイデアだったが、僕がどうしても伝えたいことは、それだけで尽きているはずではなかった。「本当は、そうではないのに」――その声には、もう少し一般化すべき、「私」個人の経験に還元されるべきではない一般性を伴った内容が含まれているはずだった。七月初旬、僕は本を二部構成にすることを編集者に提案し、いよいよ本格的な執筆作業が始まった。

 「書くまで」はあれほど停滞していた僕の指は、書き始めると、今度は止まらなくなった。最高で、四百字詰め原稿用紙七十枚分を一日で書き上げた。「二七〇枚」という制限枚数を越え、気が付くと僕は八〇〇枚以上の原稿を書き上げていた。  「ここでだけは、嘘をつきたくない」――その覚悟は、いつの間にか僕の執筆作業を「遺書作成」の真剣さに変えていた。その作業は、実際に僕にとって「遺書」の領域にあった。「これだけは、言っておきたい、さもなくば死ねない」――その感覚は、極端に私的性格の強いジャンルにあるはずの僕の文章を、極めて無私的な純粋さに精錬した。つまらないナルシシズムで自分の文章が汚されることは、そのまま自分自身への冒涜を意味した。僕は、「書き終えたら死んでもいい」と思える執筆姿勢を保ちつづけた。

 僕は生身の個人として生きている。当然、そこに絡み付いてくる人間関係には、僕にとっては都合よくとも、相手にとっては困る話もある。出版にあたって削除された原稿の多くは、そうした「トラブル」めいた話の数々だった。そこには僕個人の私怨に留まらない、公的性格をもったトラブル――「ひきこもり」というテーマにとって――も含まれていたのだが、まったく無名の新人として本を出そうとしている僕が、そういう話を書くわけにはいかないらしかった。

 書く作業は、僕から食事と睡眠への生理的機能を奪った。消耗し続け、十一月末に全ての作業を終えた頃には、僕は完全に寝込んでしまっていた。近くのコンビニにも行けない体力。「書き上げた今、僕はこれからどうするか」――まったく分からず、かといってそれまで続けていた訪問活動もやめるわけにはいかず、僕は自分をあらためて「ひきこもり支援」の活動に再投入した。心と体の機能は衰弱し続けた。

 個人的な衰弱を書いても意味はない。しかし、「遺書」を書き上げた僕に、もう何か為すべき仕事があるとは思えなかった。書き上げたあとのエアポケットのような時間を、僕は支え損ねた。酒の量も増え、僕は「一日中寝込む」日々を断続的に続け、それでも訪問活動への使命感だけを支えにしつつ、やっぱり「死にたい」話が始まってしまっていた。二〇〇一年十二月中旬、本は出版された。

■出版以後

 本の執筆と出版は、母には完全に内緒で行なわれた(父はすでに他界している)。執筆のきっかけになった雑誌取材さえ拒否した母が、僕の執筆を許可するはずはなかった。僕はもう確信犯の心情で、「これで死んでもいい」などと幼稚にも考えていたのだった。
 すでに執筆を終えたはずの僕は、しかし衰弱の一途をたどった。訪問活動の頻度も減り、やはり「一日中寝込んで、布団の中でしくしくと泣き続ける」バカな日々が続いた。出版社経由で送られてくる読者からの感想文、それに「君には死んでほしくない」と言ってくれる友人たちの声だけが、その時の僕の支えだった。ここでも僕は、「声」に支えられた。

 出版から五ヶ月、二〇〇二年四月の二十日、僕は衰弱のきわみで譫妄状態に陥り、幻覚と幻聴の恐怖を味わった。日本兵の幽霊が僕を責め続ける。取り乱した僕を支えてくれたのは、またしても知人たちだった。メールでのSOSに即座に電話で応答してくれた精神科医、電話で冷静に僕をなだめてくれた先輩、深夜の救急診療に車で二時間以上かけてかけつけてくれた友人、――僕はやはり人に救われていた。人を避け続ける「ひきこもり」の僕が、「人」に救われている。
 幻覚に怯え続ける僕を、母は「手を握って」いたわってくれた。これまで二〇年近く、「冷戦」のような状態にあった母子関係が、ガラリと変わった。幻聴の多くは、母に関係していた。優しくいたわりのある母の声が、何度も僕の耳だけに現れた。

 五月、本の出版が母に知れる。親族の誰かが本屋で見つけて母に報告したらしい。――が、母に会っても、本のことには何も触れない。――そして五月の暮れ。母は朝から、ついに本のことで僕を責め始めた。「家の恥を世間に晒した」「和樹はまだまだこれからの人なのに、自分で自分の首をしめている」……。やっぱりそうか。一番分かってほしかった人に、こんな言葉をかけられてしまった。今度は僕が激怒し、「俺が命懸けで書いた本なのに、そんなことしか言えないのか!」……惨めだが、そのまま報告しておこう。今はそういう状態だ。今日これから、実家に戻るが、おそらく本のことは二度と母子間で語り合われることはないだろう。「なかったこと」として、完全に封印されるだろう。少なくとも、時間はかかる。「ひきこもり」とは、そういう話題なのだ。

   今の日々、僕はやはり「読者」と「知人」の声たちに支えられている。声。僕は「目線」に傷つけられ、「声」に癒されている気もする。この辺の事情は、まだこれから考えてゆきたい。――でも、ひとつだけはっきりしている。「ひきこもり」――それは、僕にとって自分の自由意志とは関係ない形で僕にインストールされてしまったテーマなのだ。自分にミッションがあるとして、僕にはこのテーマ以外に考えられない。しかしひどくつらい。でもやめられない。――僕はこういう形で、自分の「必然的テーマ」と出会い、人々と声を交し合っている。――僕はひょっとすると、世間の大多数の人々よりも幸福で明確な形で自分のミッションと出会ったのかもしれない、三十代も半ばにさしかかって。

 声。僕はこれからも、自分の肉声を、他の人間の肉声と絡み合わせてゆきたい、そこで何かを形にしていきたい。それに付き合ってくださる方、どうか僕に声をかけてほしい。そこで何かを、いっしょに形にしていきましょう。恐らくは、少数派の試みにとどまり続けるだろうけれども。

■プロフィール■
(うえやま・かずき)1968年生まれ、兵庫県出身。中学で不登校、高校中退。大学に進学するも不登校・休学。父親の病死でなんとか卒業はするが就職せず、アルバイトに挫折するうち引きこもりに。2000年3月、31歳で初めて自活。ひきこもりの親の会での発言をきっかけに、それまでひたすら隠し続けていた自分の体験を生かした活動を考えるようになる。不登校のための家庭教師・訪問活動・地域通貨の試みなどをしながら、ひきこもりの問題に取り組んできた。現在は休職・療養中で、これまでの無理のあった活動形態を見直し、「親世代」にではなく、「当事者たち」本人に呼びかけることのできる取り組みを模索している。著書:『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)ネット上で日記をつけています。http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/

■編集後記■
★現代人は「経験ではなく経験のイメージで、生活を満たしている」とは社会学者プーアスティンの言葉だそうですが(孫引き)、今号掲載のお二人のエッセイはイメージや知識からではなく、それぞれの切実な経験を反問することから獲得された好論考だと思います。
★10月半ばにリアルの仕事場を移転して、ようやく荷物の整理も片付いたところで師走ですね。思えば、早い一年でした。
★移転作業と「La Vue」15号の製作とが同時並行だったので、とくにPCの保全と原稿データや著者校などを紛失しないように気を遣いました。また今回は特集の関係から多数の書影を掲載しましたので、印刷の仕上がりにも特別留意しました。ぜひご覧ください。(黒猫房主)





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