『カルチャー・レヴュー』44号



■連載「マルジナリア」第5回■


存在の工場

中原紀生


●最近、面白く読んだ二冊の本のなかにベルクソンをめぐる記述が出てきたので、まずその引用から始めよう。
 實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』。實川氏によると、知覚を環境との関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組みのなかにある考えであって、百年ほど前のベルクソンによっても語られ、その後メルロ=ポンティが洗練された形で示した。この指摘は、次の文章につけられた註のなかに出てくる。
《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは「可能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出して、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい言葉づかいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》

●内田樹『死と身体』。内田氏はそこで、甲野善紀氏の「人間の身体は、一瞬手と手が触れただけで、相手の体軸、重心、足の位置、運動の力、速さがわかる」という言葉と、「人間は指と指がふれた瞬間に無限の情報が伝授される」というヴァレリーの身体論を紹介している。
《一九世紀から二○世紀の初めぐらいには、運動性の記憶とか、運動性の知覚と伝達とかは、ヨーロッパではまっとうな学問として存在していた。それがなぜか一九二○年代にあらかた消えてしまう。「記憶を司るのは頭ではなく身体である。記憶は運動的なものである」というベルクソンやヴァレリーの考え方が一掃され、もう誰も相手にしなくなるのです。(略)プルーストの『失われた時を求めて』では、つまずいてよろけた瞬間にありありとむかしのことを思い出すという有名なくだりがありますね。一九世紀までは、ある構えをすると身体記憶、過去の体感が、場合によっては自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくるというのは「常識」だったんです。それが九○年ほど前に、常識から登録抹消された。》

●この文章の最後に出てくる「自分自身が経験していない他者の体感がよみがえってくる」には強調符がついていて、これを目にしたとき、私は『思想史のなかの臨床心理学』でのある議論を想起した。
 實川氏は「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀まで一体だった」という。ところが近代になって──臨床心理学による、古代以来の「物質的な無意識」や「無意識の理性」(神の理性)に替わる新しい無意識の「発明」に先だち──物質と精神の二面をもつ中性的で根源的な(自然科学を基礎づける究極の事実としての)新しい意識が「発明」された。ユダヤ=キリスト教的な「神の理性」の後継者としての意識が登場し(意識革命)、世界は「神の国」から「意識の国」へと変換された。
《ここで、ひとつ注意しておきたいことがある。「意識革命」が起こり、「意識の国」が築かれたとは言っても、この時代にはまだ、意識は公共のものだったという点である。すなわち、意識は個々人の内側に閉じ込められてはおらず、もちろん感覚も含めて、みなが共有できるものだった。(略)意識が、観察できない個々人の秘められた主観性だと一般に考えられるようになるのは、二○世紀になってからである。》

●私が今回とりあげたいのはベルクソンの純粋知覚や記憶の理論ではない。あるいは(木田元氏が『マッハとニーチェ』で鮮やかに素描した)一九世紀から二○世紀への世紀転換期の「知殻変動」の実質や、そこから派生した心脳問題の意義といったことでもない。ベルクソンを話題の起点にして、プラグマティズムという一つの哲学的気質がもたらす帰結の一端を見ておきたいと思ったのである。
 ──ベルクソンは『思想と動くもの』に収められた「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム 真理と事象」で、事象[レアリテ]の多様な流れとの接触から生ずる真理(たとえば神秘家の心を動かす真理、その感情に属し意志に依存する真理)、つまり「考えられる前に感ぜられる真理」にこそプラグマティズムの起源があると書いている。
《実を言うと、ジェイムズが神秘的な心をのぞきこんでいるのは、ちょうどわれわれが春の日に朝風の柔らかさを感ずるために窓から乗り出したり、海岸でどっちから風が吹くかを知るために船の往来やその帆の膨らみを眺めるようなものであった。宗教的な感激に充たされた心は実際もちあげられて夢中になっている。ちょうど科学の実験におけるように、それを夢中にしもちあげる力の生きいきした姿をとらえさせるものではないか。そこに疑いもなくウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」の起源があり着想がある。われわれが認識するのにもっとも重要な真理は、ジェイムズにとっては、思考される前に感ぜられ生きられた真理である。》(河野与一訳)

●プラグマティズムの眼目は「行為」にある。ジェイムズは『プラグマティズム』で、パースの原理──「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。その行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である」──を紹介し、プラグマティックな方法について、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向おうとする態度なのである」と規定している。
《プラグマティズムはまったく親切である。それはどんな仮説でも受け入れ、どんなわかりきったことでも考慮に入れるだろう。それだからプラグマティズムは宗教の領域においては、反神学的な偏執を有する実証主義的経験論と、幽遠なもの、高貴なもの、単純なもの、抽象的な概念にもっぱら興味をよせる宗教的合理論とのどちらよりもはるかに有利な地歩をしめることになる。(略)プラグマティズムが真理の公算を定める唯一の根拠は、われわれを導く上に最もよく働くもの、生活のどの部分にも一番よく適合して、経験の諸要素をどれ一つ残さずにその全体と結びつくものということである。もし神学上の諸観念がこれを果たすとすれば、もしとくに神の観念がそれを果たすことが事実として証明されるとすれば、どうしてプラグマティズムは神の存在を否定しえよう。》(桝田啓三郎訳)

●その仮説から将来の経験や行為が導き出せないとすれば、もしくは過去回顧的な見地からは、唯物論も有神論も、つまり物質(盲目的なアトムの目的なき結び合わせ)も神(摂理)も同一物である。絶対者、神、自由意志、設計といった神学上の諸概念は、主知主義的には暗闇である。ただ未来展望的な見地、プラグマティズムの見地からのみ、それらは「救済の説」としての意義をもつ。たとえば自由意志。それは「この世界に新しいものが出現するということ、すなわち……未来は過去と同一的に繰りかえすものでも模倣するものでもないことを期待する権利」という意義をもつ。──ジェイムズは『プラグマティズム』の最終講で、われわれの行為こそが世界の救済を創造するのではないかと問いかけている。
《なぜそうではないのか? われわれの行為、われわれの転換の場、そこでわれわれはみずからわれわれ自身を作りそして生長して行くのであるから、それはわれわれにもっとも近い世界の部分なのである。この部分についてこそわれわれの知識はもっともよく通じており完全なのである。なぜわれわれはそれを額面どおりに受け取ってはならないのか? なぜそれがそう見えるとおりに世界の現実的な転換の場、生長の場でありえないのか──なぜ存在の工場であることができないのか。この工場においてこそ、われわれは事実をその生成過程において捉えるのであり、したがって、世界はそれ以外の仕方では、どこにも生長しえないのではいか。》

●しかし、それは非合理ではないか。新しい存在が局所的に現われてくるはずがない。事物の存在理由は全自然界の物質的圧力ないしはその論理的強制のほかはない。だとすれば世界は万遍なく生長すべきであって、単なる部分がそれだけで生長するなどは非合理である。──このありうべき非難に対してジェイムズは答える。
《論理、必然性、範疇、絶対者、そのほか哲学工場全部の製造品をお気に召すままに持ち出されて結構であるが、およそ何ものかが存在しなければならぬという現実的な理由としては、誰かがそれのここにあることを欲するというただ一つの理由しか私には考えられないのである。それは要求されてあるのである。──どれほど小さい世界の部分であろうとそれをいわば救助するために要求されてあるのである。これが生きた理由なのであって、この理由にくらべると、物質的原因とか論理的必然性とかは幽霊みたいなものである。》

●プラグマティズムは「神学」の異称である。私はおぼろげにそう考えている。それは、たとえばパースの「プラグマティシズム」とジェイムズの「プラグマティズム」のうちにスコラ的実在論と唯名論を重ね合わせるといったよくある議論にはじまり、パースのいう「仮説についての科学」としての純粋数学もしくは「数学的形而上学」(『連続性の哲学』)、前田英樹氏がいう──形而上学の体系的思考(からごころ)を批判する共通の立脚点としての、あるいは「今、ここにしかじかの身体を持つ」というところから世界を捉える(身ひとつで学問の実義を生きる)こととしての──「深い意味でのプラグマティズム」(「『感想』とは何か」)、そしてジル・ドゥルーズの「生命論」などをブレンドした新しい神学のことである。

●ジェイムズは「変化しつつある実在という考えについて」(『純粋経験の哲学』)のなかで次のように書き、「ベルクソンの研究者たちがパース氏の思想をベルクソンの思想と比較してみるよう、心から勧める」と結んでいる。新しい神学をめぐる(私の)作業はこの比較論から始まるだろう。
《パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふたりの思想は完全に重なり合うものである。どちらの哲学者も、事物における新しさの出現は純然たる本物の出来事であると信じている。新しさは、それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては、多大な「偶然」の関与ということでしかありえないが、その内部に立つ者にとっては、それは「自由な創造的活動性」である。》(伊藤邦武訳)

●先の文章のなかで、ベルクソンは、自然の力を利用するために機械的な装置を創造するように、われわれは事象を利用するために真理を「発明」するのであって、そこにこそプラグマティズムの真理観の要点があると書いている。
《赤ん坊は、「物」すなわち過ぎていく雑多な動く現象を通じて不変に独立して存続するなにかについてはっきりした観念をもってはいない。この不変とこの独立を信じようと思いついた最初の人は一つの仮説を作った。その仮説をわれわれはふだん一つの名詞を使うたびに、われわれがものを言うたびに採用しているのである。もしも人類がその進化の過程において別の種類の仮説を採用する方がいいと思ったとすれば、われわれの文法は別のものとなっていただろうし、われわれの思考の分節も別のものとなっていたであろう。(略)私はこれが、表面には指摘されていないとしても、プラグマティズムのもっとも重要な論旨だと思う。この点でプラグマティズムはカント思想を続けているのである。》

●これを読んで私は、永井均『私・今・そして神』の序文を想起した。永井氏はそこで、矛盾対立する哲学上の学説がいつまでも淘汰されず敬意を払われつづけるのは、「哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝えることができないようにできているからだと思う」と書いている。
 プラグマティズムは「哲学」の異称でもある。私はいまおぼろげにそう考えはじめている。──哲学工場(というより、なにか特別の種類の哲学的技術が伝承される工房)における工具製造の技芸としてのプラグマティズム。その工具(概念)を使い、存在の工場を稼働させる推論の法則(可能態から現実態への仮説形成的=実験神学的な創造の法則)としてのプラグマティズム。
■プロフィール■
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。 共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
★E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html





■連載「伊丹堂のコトワリ」第5回■


「他者」って何なんだ〜!?


ひるます



獏迦瀬:前回は「実存」の話から、いきなりヒステリーについての話に飛びました。前々回の「世間」の話と共通するところとして、他人との共感というか、共通の時間を生きている感覚というのが問題になりました。そこで肝心なのが「他人」、「他者」ってのが何なのか?ってことなんだと思うのです。

伊丹堂:というと?

獏迦瀬:たとえば伊丹堂さんのいう「まっとうな生き方」「実存」というのは、これまでの対話で言ってきた「倫理」的な生き方と重なると思うのですが、その場合に「他者への配慮」ってことが肝心になるわけですけど、「ヒステリー」や「世間」の場合にもやはり「他人」への配慮ということが問題になってるわけで、このへんどう違うのかということですね。

伊丹堂:そりゃ全然違う。ようするに「他人がこう思うだろう…」という推量がすでに成り立っていて、それに合わせて行動を起こすのが「世間」的なものじゃが、「他人がどう思ってるか」ではなくて「こうすれば幸福になるだろう」と創造的に行動するのが「倫理」なわけじゃな。

獏迦瀬:それゆえ「倫理」は「ひとりよがり」とウラハラなのだということでしたね。

伊丹堂:しかし「世間的」に行動する場合だって「すでに分かってる」というのは本人の思い込みにすぎない、なんの保証もないものなわけじゃからな。原理的な問題として考えれば人は何をするにしても「ひとりよがり問題」とは縁が切れないわけよ。ま、実際問題として世間的に行動する方が「失敗」は少ないだろうとは言えるが、失敗しなかったからといって「幸福」になれるわけではないんじゃから、なんの意味があるのか?ってことになるわな。

獏迦瀬:たしかに…、まあ世間的に生きる人は、そういうふうに他人との間でうまくいってれば幸せなんでしょうけどね。

伊丹堂:人それぞれってヤツな。

獏迦瀬:そう考えると、実存の場合とヒステリーや世間が対象としているような「他者」とでは意味合いが違うということになってくると思うのですが。

伊丹堂:まあ言葉の問題じゃな。肝心なことは、人は根本的に、というか「構造として」他者を配慮する存在だということと、その前提の上で、どのような実存がありうるのか、この二つを分けて考える必要がある。これもいつも言っておることじゃが。

獏迦瀬:構造として…というのは、ようするに人が何かを考えたり表現したりすることが、すでに「他者を想定」している、というレベルの話ですよね。

伊丹堂:そう、言葉で考えたり、何かを意識すること自体にすでに「他者の視点」というものがかかわっている。こういった話は『オムレット』でさんざん語ったとこじゃな。前回のヒスの話との関連でいうと、「感情」というものもまた「他者」に対する表現という側面があるというのも言っておく必要がある。

獏迦瀬:ああ、感情というと何か「身体的な」もので、個人的なもののような気がしますが、たしかに感情というのは何かの「意味」というか「コト」の表現になってるわけで、「他人に理解可能」な形式になっていますね。

伊丹堂:それが極端に「分かれ!」という押し付けになったものが「ヒス」とも言えるわけじゃな(笑)。それはともかく、感情というのも人にとってはコミュニケーションというか、ある種のコトの創造としてあると考えられる。ところで感情というものは「怒ろうと思って怒る」のではなく「喜ぼうとして喜ぶ」のでなく、いわば「自動的に起こる」わけじゃが、ここからして言えるのは…。

獏迦瀬:恋に似ていますね…。

伊丹堂:それも「感情」じゃからな。ともかく、それが自動的に起こることからも言えるのは、コトの創造が他者の視点からのものだといっても、それは「他人の視点」がまず先にあって、そこからコトが作られるのではない、ということな。そうではなくて、まず感情というリアルが到来して、それがさまざまなコトとして形を変えていくといってもいい。

獏迦瀬:その際に他者の視点からのコトの創造がなされる…。

伊丹堂:いちばん分かりやすいのは「怒ってる」とき。怒ると人は凶暴に暴れる人もいるが、だいたいはむしろじっと考えるようになる。何を考えるのかというと、その怒ってる相手に対する反論やらなにやらを再現なく反復しているわけじゃ。

獏迦瀬:たしかに(笑)。相手の言い分までくりかえし思い出したりしますね。

伊丹堂:ヒステリーの場合もそうじゃが、ようするに悪感情の中でコトを表現しようとすると、それが意味のない繰り返しになってしまう。自分の中でぐるぐる繰り返しているならいいが、他人を巻き込んでぐるぐるまわっているのがヒステリーとも言えるな。

獏迦瀬:なるほどね〜。

伊丹堂:それはともかく、いま話してる「構造的に」他者の視点でコトを創造するというレベルでは、その他者は具体的な「だれ」というわけではないし、また「あらかじめシカジカのような他者」というのが想定されて、それに対する表現としてコトが作られるわけでもない。まずリアルが到来して、コトが語られ、それがウラハラになんらかの他者を想定させる。というような関係にあるわけじゃな。

獏迦瀬:コトの創造がまずあり、他者は後からついてくる…って感じですかね? コトの創造においては、想定される他者=文脈そのものが生成される、と肥留間氏がどっかで言ってましたね(注1)。

伊丹堂:ふうん。で、その上で肝心なのは「実存的な」レベルで、ワシらがまっとうに、実存的にモノゴトをなそうとすれば、それは必然的に「他者に先立つ」ものにならざるを得ないってことな。

獏迦瀬:はあ…。

伊丹堂:ようするに、もしもあらかじめどういう他者かが明らかであり、それに対して、それに合わせてモノゴトをなすのだあれば、すでに語られたことは「分かっていた」ことなのであり、そこにはなんの創造もないのだということになるじゃろう。語ることの不確定さこそが、そこで語られたことを他者がどう受け取るかということの不確定さイコール、他者という存在の不確定さなのであり、その不確定さにこそ「創造」ということがありうるわけよ。

獏迦瀬:なるほど、おっしゃることはよく分かりますが、そうすると単に相手が誰だか分からない、何が確かか分からない…闇雲だという感じですけど。

伊丹堂:いや、だからその不確定さに対して、表現する人の「決断」と「責任の引き受け」ということがあるわけよ。

獏迦瀬:ああ。

伊丹堂:不確定だから、そこで本人がいつまでも不確定さのままに漂うのではなくて、これでどうだ?! と言い切ることが表現における実存ってことであり、そこで言い切ったことに対しての責任を引き受けるということが、決断ってことの意味なわけよ。

獏迦瀬:表現は決断ですか…、まあずるずると漂ってるだけ、みたいな小説もいっぱいありますけどね(笑)。

伊丹堂:(爆)がはは、たしかに。そういうものも「表現」として許容してしまう日本人の問題ではあるな。それは小説だけではなくて、もちろん哲学や芸術の領域でごまんとあることじゃな。

獏迦瀬:そこで日本人、というか「世間」の問題とつながると思うのですが、いまの実存の話とはまったく逆に、すでに分かっている他人、というか「身内」ですよね、それを相手に、すでに「承認された」モノゴトを「創造」ではなく「反復する」のが、世間を生きる日本人の生き方だということになりますかね〜。

伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。創造=決断がないから「責任」もない。世間の中で「責任」を誰もとらないのはそういう構造によるわけじゃな。表現や発言の内容が問題になるとすぐ出される反応が「私の意図が十分に伝わっていない」というやつね。意図がどうかでなく発言の「内容」が問題になっているのに、そういう反応が出るのは、意図というあいまいなレベルでは「みんな分かりあっているハズ」という奇妙な共感が背景にあるわけじゃな。

獏迦瀬:あいまいな共感の中で表現しているから、どこかで決断したという自覚もないわけですね…。

伊丹堂:世間というより「ヒステリー」の人も同様なんじゃが、表現の内容を批判されると、自分がそれを行ったときに「ああだったこうだった」という事情を説明したがるのな。ようするにそれは個人的な「事情」なんじゃが、それを「理解」してもらえば、その表現も理解してもらえると思うらしい。まさに誰もが「共通の時間」を生きているハズという感覚なんじゃな。

獏迦瀬:そういえばどっかの政治家が「私は寝てないんだ」といって笑い者になりましたね…。

伊丹堂:決断をともなう表現は、その結果についての責任を引き受けるのみ。そういう潔さがないんじゃよ。

獏迦瀬:ようするに自分の、ではなくて、事情をわかってくれる「みんな」の共同責任というイメージなんですかね? だから「世間をお騒がせして申し訳ない」という謝り方になる…。いずれにしても「世間」や「ヒステリー」という中には「他者」はなくて、「身内」とか「みんな」というあり方だけがあるということでしょう。とすると、あらためて「他者」とは何か? ということになるかと思うんですが。

伊丹堂:定義の問題じゃな。不可知な「外部」として現れる極性を「他者」と呼ぶ、ということにすれば?

獏迦瀬:極性ね…。レヴィナスの絶対的な他者みたいなもんですか?

伊丹堂:いや、そうではない。公共性や普遍性というのを、ヨリ公共的〜とか、ヨリ普遍的〜という修飾辞として使うべき、ということを以前にいったが(「La Vue」掲載の対話シリーズ等)、それと同じ。関係概念として捉えるってことじゃな。倫理における「他者」ってのは、現状に対して「そうではない」と否定しうる視点がありうる、ということを徹底的に考える契機としてあるわけで、誰か特定の特殊な事情の「他人」を想定しているわけではないからの。獏迦瀬:ヨリ他者的〜ってことですか(笑)。

伊丹堂:どのように他者性を意識しているかという態度の問題として捉えるワケよ。ともかく、そういう使い方をしていれば、「他者」が「他人がどう思うから〜する」などといった「根拠」には間違ってもならないということが、はっきり分かるはずなんじゃがな。

獏迦瀬:なるほどね…。そういえば以前の竹田現象学批判の巻( 「カルチャーレビュー」25号)で、竹田青嗣が「ありふれた他者を倫理の根拠におく」と言ってたのを批判しましたが、あれがまさに「すでに知っている他人」を根拠に行動するものとしての世間=グローバリズムという思想だったわけです。

伊丹堂:ま、さしあたってたいていは人は「他人がどう思うかをすでに知っている」という前提で、というか「かのように」行動しているわけで、それが問題だというわけでは全然ないんじゃが、ようするにそれは「倫理」とか「生きる意味」とかとはまったく関係がないってコトよな。

獏迦瀬:「実存」ではない…というか。

伊丹堂:まっとうじゃないってこっちゃな(笑)。以前「世間って何なんだ〜」の巻で言ったように、今やワシらは「個人としての時間」を生きなければ、ほんとうの意味で「生きた」とか「コミュニケーション」をしたとは思えない、という時代にいるからじゃ。

獏迦瀬:世間という生き方ではもはやいけない、というかイケてない、という話でしたね。

伊丹堂:ただ付け加えておかねばならないのは、世間がなければよいという話ではないというこっちゃな。たとえば西洋では世間がなく個人が「自分の時間」を生きている、という。しかしそれだけで「実存的」というわけでもない。日本人が「相手のことをすでに知っている」かのように行動するのが単に「様式」であるように、西洋人が「相手のことを知らない」し、「自分のことをはっきり表現しないかぎり絶対に理解してもらえない」というふうに行動するのもまた「様式」なわけじゃ。実存というのは、そういう前提の上で、ある種の「決断」を持った生き方なわけでな。

獏迦瀬:やはり精進っすね。

注1)ひるますなど参照 「世間と他者性〜大澤真幸「戦後の思想空間」を読む」

■プロフィール■
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」






■連載「映画館の日々」番外編■


猫撫で声のイデオローグ
三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)を読む(2 )

鈴木 薫


I:Sさん、カゼ引いたんですって? 年に一度くらいしか引かない人が。

S:ちょうど一年目だったんですよ。カゼそのものはひどくならなかったけど、歯茎に黴菌が入ったらしく、右下の奥歯から顎まで腫れちゃいました。今、左だけで噛んでいるんですが、まだ頚のリンパ腺がはれていて。唾を飲み込んだだけでも痛いんです。でも、これは、そこで菌の侵入が止まっているということでしょう。

I:大丈夫?

S:食欲はあってちゃんと食べてますから。一番ひどいときでも食事だけはしてました。あとは寝てましたが。

I:対談、延期します? 花じゃなくて食べ物をお見舞いに差し入れますよ。

S:ありがとう。でも、大丈夫。今話しているようなことが、実は身体性というものです。今回は微熱程度だったので助かったけれど、体温が二、三度上昇すれば、もうそれだけで私たちは何もできなくなってしまいます。ロラン・バルトは、自分の身体の中立性が掻き乱される契機を偏頭痛と官能性だと言ったことがありますが……。

I:あー、もう対談はじまってるの?

S:はじまってるの。「官能性」の原語はサンシュアリテ、英語のsensualityですが、松浦寿輝がそう訳して引用していた「偏頭痛とセックス」との方がわかりやすいかな……要するに苦痛と快楽の、どちらも軽微なもの、というわけで、だからセックスといっても生殖器性――genitality――とは異なります。性器を排除するものではもちろんないのですが。

I:Sさん、ここで取り上げているのは、たかが『オニババ化する女たち』ですよ。バルトを持ってくる必要あるんですか? そういうのを、ほら、なんて言うんだったか――龍頭蛇尾。違った。羊頭狗肉?

S:何を言いたいの? 鷄を割くに牛刀をもってす?

I:そう、それそれ。

S:まあ、較べるのも笑止なことながら――『オニババ化』の著者が回復を訴える身体性とは、たんなる生殖器性なわけです。逆に言えば、女の身体の、生殖器への還元、矮小化です。妊娠、出産 の過大評価が、逆説的に、身体性というものを、極めて限局されたものにしてしまっています。

I:歯茎が腫れて寝込んだり、熱が出て思考能力がなくなったりすることもまた、身体性だというわけですね。

S:「至高体験」に至らないちょっとした快楽もね。だから逆に、『オニババ化』みたいな本は、身体性の詰めが足りないんですよ。私たちが徹頭徹尾身体であることに対してよほど鈍感にならなければ、こんな本は書けません。

I:「スピリチュアル系」とやらに惹かれる人に対しては、「からだは、いずれ捨てていかなければならないものなのですから、今、今回持ってきたからだを、大事にするしかないですね」とかきくどく――うーん、意味不明ですねえ。

S:「スピリチュアルな世界」とやらを結局は認めているんですよね、この著者は。「性生活というのは出産と同じで、魂の行き交う場、霊的な体験でしょう」とも言ってるでしょ。もういいです。否定するにも値しませんから。いい加減、これを話題にするのもあきちゃったんですが――ずいぶんあちこちで話のタネにされているようで、どんなにひどいのか確かめてみよう、新書だからいくらもしないし、と買う人が多いとみえ、ピンクの腰巻に替えて本屋に平積みになってるんですよね。いかに微力とはいえ、仮にも宣伝に加担するようなことに手を出すべきではなかったか、と思わぬでもありません。

I:え? 私はまだ言い足りませんよ。付箋はまだまだ挟んである。「卵子の悲しみ」紹介します。でも、その前に、私、Sさんに質問があって。前回の最後でSさんが指摘したヒステリーの図式って、フロイトによるものなんでしょう?

S:それはかなり微妙な問題で、むしろ通俗フロイディズムというべきですね。ヒステリーについていえば、三砂さんが推奨するような通常の性交によって満足を得られないからこそ起こるとフロイトは理解していたはずです。三砂さんは性に関する、これまでさんざん問題にされ、退けられていた紋切型を、出所を明らかにせずに引いてきてまことしやかに語っています。前回引いた、クリトリスを排した腟中心主義もそうで、誰もが知るとおり、悪名高いフロイトの記述の引き写しです。(もっとも、クリトリスに触るななんて馬鹿なことをフロイトは言っちゃいませんが。)私、以前、トマス・ラカーの『セックスの発明』(工作舎)の書評を書いたことがあって……。

I:今度、ブログにも載せたんですよね。(http://kaoruSZ.exblog.jp/

S:最後の部分を読みますね。
「性感帯のクリトリスから膣への移動説に関して、私は以前から当時の医学界の常識に興味があったのだが、本書を読んで驚いた。何とフロイト以前には、クリトリス以外に女性がオーガズムを感じる場所があるとは、誰も思っていなかったし、彼自身、自分の主張の解剖学的・生理学的根拠のなさを知っていたに違いないというのだ! 結局彼の関心は、解剖学的には根拠のない異性間性交を身体が役割の性として引き受けさせられる、という事実を確認することにあったのだと著者は言う。(……)フロイトは、クリトリスがペニスに相当すると知りながら、腟とペニスを対立させて、男女の社会的役割の根拠を身体組織の中に見出したいという同時代の熱望に応えたのだった。私たちの居場所も基本的にはここからさして隔たっていないのだが、さてそれは、いかなる同時代の欲望の反映だろう?」
というわけで、フロイトの書き方を、たんに中立的な記述とばかり言うわけにもいかないのですが、この書評を書いたのは六年前で、こう書きながら私は、実は「同時代の欲望」について明確なイメージを持っていなかったんです。だからこそ、疑問形で終え、読者に思いえがいてもらうようにしむけたわけで。それが今、『オニババ』のような本という形で、ある種の「同時代の欲望」が不意に見えてきたような気がします。

I:もしかして、悪い時代になりつつある!?

S:そうなの。けっして私の目がよくなったわけじゃない。女に生まれた「不幸」を、母になるという「至高体験」で帳消しにできると信じられれば、女性は社会に疑問を抱かなくてもすむわけですよ。

I:それを信じられるのが不思議なんだけど……。ともあれ、子宮中心主義のトンデモぶりについて、次に「卵子の悲しみ」を紹介しましょう。

S:念のために言っておくと、ここではもうフロイトは何の関係もありません。著者のオリジナルです――とも言えないか。以前、国立科学博物館の片隅で、特別展とは別にひっそり映写していたアニメーションがあったのですが、それを思い出しましたね。受精の絵解きで、男の子の恰好をした精子たちが卵子めがけて競争するんですが、その卵子がまた、髪が長くてロングドレスで、松本零次のマンガみたいな。イスカンダルで待つスターシアかって。

I:(笑)そこまでは行ってないかな。こっちは、精子にめぐりあえなかった卵子の話ですからね。でも、擬人化はアニメに劣らずすごい。まず、月経後一週間ぐらいのときには、「『誰か探せ、誰か探せ』と卵子がからだに呼びかけている」んで人恋しくなるんだそうです。「それは、別にすごく性欲が昂進する、というかんじではなくて、それこそ誰かと電話で話したい、とか、一緒に何かしたい、とか、一人でいることがたださみしいような気持ちになることがあるのです」それから、月経前に起こる――

S:人によっては起こる、とすべきですね。

I:月経前に人によっては起こる「月経前緊張症」は、「卵子の悲しみ」が伝わってきてそうなるのではないかと三砂さんは思っているんだそうで。「せっかく排卵したのに、全然精子に出会えなくて、むなしく死んでいく卵子が毎月毎月いるわけです。トイレに落ちてしまって、あれ〜という感じで流されてしまう」

S:スターシアみたいなのが、あれ〜と。(笑)

I:「なかには、「私はもう絶対に赤ちゃんになりたい」と思っているような卵子もあるわけで――」[吹き出してしまって続けられない]

S:やっぱり、トンデモですねえ。

I:次はオカルトですよ。「ですから、排卵して一週間ぐらいすると、卵子のくやしさ、悲しみというのが女性の感情に移ってくる」卵子の怨念ですね。

S:卵子供養が必要だね。

I:「だから月経前一週間ぐらいは、ものすごく暗い気分になったりするのではないでしょうか」Sさん、そんなことあります?

S:ないですよお。

I:ないときの理由も書いてありますよ。「でも、そういう気分にならないときもあるわけで、それは卵子の個性ではないかな、と思います。卵子にしてもあきらめの早いのもいて、「しょうがないか、まあ今回は」みたいな感じでトイレにすっと[笑ってしまって続けられない]」

S:卵子ィの気持ちィは〜よ〜くわかる〜。

I:何ですか、それ。

S:いや、知らなきゃいいです。えーと、「そういう気分にならないときもある」んじゃなく、たんにならないんですよ。

I:もともとSさん、生理痛もほとんどない羨ましい人なんですよね。

S:ただ、月経直前に性欲が昂進するのに気がついたことはあるんで、はっきりした指標がないときには、気分の変化をいちいち月経周期と結びつけたりしないということもあるかもしれませんが。

I:そういう人は、子宮の声に耳をかたむけない女性と言われちゃうんですよ。「そういうことをまったく無視していると、だんだん子宮もいじけてきて、頑なになって筋腫になってしまったりとか、ねじくれて子宮後屈になったりとか、子宮がいがんでくるような気がするのです」また、「気がするのです」ですか。

S:「いがむ」ってどこの言葉?……はあー三砂さんは山口の人ですか。なかなか感じ出てるじゃないですか。いがんで、いじけで、ねじくれて。物質的なもので気分が左右されるというのはむしろ面白いと思いますが、子宮がいじけると言われてもねえ。ついでに言うと、人恋しいのと性欲は、性欲と生殖が別ものであるのと同様、別ものです。

I:「いったい自分のからだの中に何コ卵子が準備されていて、そのうちのどれだけが精子に出会えるのでしょうか。やはり失意のうちに落ちていく卵子がほとんどで――」

S:すごい数、準備されてるんでしょう? 生まれたときから。というより、もう生まれる前に。それを全部受精させろって? シャケか。

I:三砂さんもそこまでは言っていないでしょう。ただ、一人で十人産んだ昔の女性を例に出すんです。生殖年齢にある間、排卵、妊娠、授乳、排卵、妊娠、授乳の繰り返し。「そう思うと、そのころの卵子ってむだになっていなかったのですね」

S:それでもやっぱり、準備された卵子のおおかたは、成熟することもなく閉経を迎えていたわけで。私たちって、実にむだに作られているんですよね。それよりも、避妊手段がないまま、性交を拒否できずにたかだか十箇ほどを受精させたばかりに、健康をそこねた女性がどれだけいたことか。

I:ひいおばあちゃんが裸になると、文字どおり「垂乳根」だったのを今思い出しました。

S:そこまでが、「卵子にも個性がある」の節、その次が、「子宮口にも心がある」ですね。

I:子宮口が、「たとえば子宮ガン検診のときに子宮口の粘膜に金属がふれたりすると、ビクッと反応したりする(……)それがものすごくリアルな反応で――」

S:そりゃ、ビクッとするでしょうよ。だからって、「子宮口にも心がある」はないでしょう。このすぐあとでは、子宮は筋腫などがあってもできることなら取ってはいけない、使わなくてもなるべく取ってはいけない臓器だとありますが、これは本当だと思いますよ。ただし、他の臓器もまたそうであるように、ですけどね。別に、三砂さんの言うように、「女性性の中心だから」という理由ではなく。

I:管理されたお産はよくないという話なら、私たちも賛成じゃない? この本で取り上げられている話題、総じて最初はもっともらしいんだけど、途中からおかしくなるのよね。

S:最初はまともに見えて、途中でトンデモ化する。

I:ここでは次のようにトンデモ化します。「ですからいくつになっても、『自分の子宮はピンクでハート形みたいになってキラキラしている』というようなイメージを持っているのがいいのでしょう」

S:サンリオとタイアップして売り出したらどうかな。ピンクの子宮。

I:いや、すでにこんなのあったような。セーラームーンの持ち物とか。

S:手術で子宮を摘出した人に対しては、「たとえ、今までにすでに取ってしまった人でも、もとはあったのですから、イメージするのがよいと思います」だって。

I:大きなお世話ですよー。

S:ほんと、想像力ないというか、さもなきゃ変な想像する人ですね。不妊の話のところでも、「自分の女性性や子宮の存在を受け入れられないで生きてきて、ここへきて急に子どもだけ作ろう、と思っても、それは虫がいい話ではないかと思うのです」とか、「不妊で苦しんでいる人を傷つけることになったらとても不本意ですが」と例によって前置きしつつ、「やはり自分のからだに向き合って、自分が女性であることを楽しんでいるでしょうか、という問いかけをしてみたいと思います」とか。

I:お説教がしたいんでしょうか。

S:それ以前に、レイプでだって妊娠するのにと思いましたよ。

I:一つ抜かした。「友人の産科医」いわく――

S:「おばあちゃんなども産科の外来にいらっしゃることがあるそうで、内診させてもらって、「いやー、おばあちゃん、まだ元気でいけそうだよ!」などと言うと、みんなぽっと顏を赤くして嬉しそうにするんだよね、と言います。そんなことを言われて嫌がる人など、一人もいない、と」

I:セクハラでしょ、これ。

S:セクハラです。

I:あと、Sさんは、「昇華」について言っておきたいんですよね。

S:ええ。昇華という言葉の、この本でのいい加減な使い方について。

I:昇華ってそもそも何なんですか?

S:すごく簡単に言ってしまうと、性的欲望が目標を変えて、社会的に認められた「高い」形に変換されることですね。

I:私も、たしかそんなもんだと思っていたんですよ。そうすると、物欲の「度が過ぎるのも、性欲が満たされていないからでしょう。やはり、物欲が多い人は欲望がガーッと出てきているのが目に見えるようです。でもそれはもともとは性欲なのですから、きちんと性欲としても昇華させてあげるために、世の御主人たちももっとがんばってください、とも言いたくなります」とあるけれど――。

S:ああ、最後、御主人が出てくるわけですね。性欲として昇華させるというところは、私もクエスチョン・マークつけたんですが。

I:変ですよね、「性欲としても昇華」って。

S:だいたい、物欲に昇華されるってのも変ですが、「性欲としても昇華」なら、もとにあるのは何なんでしょうねえ。

I:やっぱり性欲なんですよ。

S:それでその性欲は、「御主人」に満たしてもらうしかないわけですね。だとすれば、ここには「昇華」なんてものははじめからなかった。あるのはなまな性欲だけで、ペニスの反復服用――これはフロイトの先生が女たちへの処方としてフロイトに耳うちした言葉ですが――でしか満たされないということです。

I:やっぱりもとはフロイトなんですね。

S:非難されるべきはフロイトではなく、今どきこうした図式を平然と持ち込んでくる著者、そしてそれに感心する記憶喪失の読者です。

I:「昇華」なんて言葉使わないで、最初から、性欲は性欲として満足させよとだけ言えばいいのにね。

S:そうしないのは、フロイトのいう「昇華」にも色目をつかっているからでしょう。「人間というのは、性欲を抑圧することで、いろいろな文化を作ってきたようなところがありますから、一概に否定するつもりはありません」とあるでしょう?

I:なまな性欲の充足以外のことも否定しないということですね。でも、その欲求不満のおばさまたちのやっているのは、物欲の充足なんですよね。それが、ここでいう文化になるのかしら。

S:そのすぐあとに、「特に女性はある年齢になると性欲をうまく発散させていく必要が出てくる」とか、「性欲がうまく昇華される必要があるのは、三十代後半以降だと思っている」とか、「このような時期に適切に昇華していかないと、オニババになると思うのです」とかありますが、これらの昇華という語の使い方はすべてデタラメです。「御主人たち」に満足させてもらうことを昇華と呼んでいるのですから。おおもとにあるのは、女には男とのセックスという形でしか「発散」できないという偏見です。フロイトも女には昇華が困難だと思っていたし、女が知的方面で発達を遂げると、生殖系はだめになると十九世紀には思われていました。

I:ああ、やっぱり、元凶はフロイト?!

S:だから、それをこんなところへ持ち込むのがおかしいんだってば。

I:もっと前のところに、「性に関わらない身体性なんて本当はない」ではじまるくだりがありますよね。

S:ええ。今の言葉については、私も心から賛成しますよ。

I:ところが、三砂さんの場合は、そのすぐあとにこう続くのです。「生まれてからそういうことは何も教わらずに、勉強とか趣味とか、いろいろなことを現代の人間はしていますけれども、それらはすべて、本質的な性欲が満たされないなかでの発散手段になっているところがあります。ですからそういったことだけしかしていないと、やはり歪みが入りますよね。所詮発散なのであって、まっすぐな発露ではないわけですから。でもその歪みによっていろいろな芸術ができたということももちろんありますから、一概に否定はできません」そうか、発散ではなく、発露というわけですか。

S:突っ込みどころ満載のくだりですね。まず、この書き手は、「本質的な性欲」が存在し、それが「御主人」のペニスによって解消されると信じているんですね。御主人にもうちょっと頑張ってもらえれば、おばさまたちもヨン様の方ににがーっと行ったりしないというわけです。

I:女にはともかく「発露」をすすめるんですよね。

S:そう、「発散」したってろくなことにはならないからって。気づいたときにはオニババよって。三砂さんのいう「性に関わる身体性」というのは、繰り返しになりますが、その「本質的な性欲」の発露に限られています。

I:では、芸術は誰が作るんですか。

S:男ですよ。

I:あー、やっぱりそういうことなのか。自分は男じゃないから男については語らないようなことを言って、結局はそういうことなんですね。性欲を否定することでいろいろな文化を作ってきた「人間」というのは、結局は「男」のことなんだ。

S:オヤジとの結託っていう最初の話ともこのへんでつながるかと思います。

I:いったいどうやってこれに対抗したらいいんでしょう。

S:参考になりそうなものをざっとですが紹介してみましょう。デイヴィッド・ハルプリンは『同性愛の百年間』(法政大学出版局)で、ギリシア以来、それこそ、「ヒステラ」が身体中を移動するのでヒステリーが起きると考えられていた時代以来の、女のセクシュアリティが生殖と避け難く結びつけられているとする考え方を総ざらいしています。そうした上でハルプリンは、性的快楽と生殖が分かち難く結びついているのは男性のセクシュアリティなのであり、男が女にそれを投影していたにすぎないと指摘します。長いあいだ信じられてきたのとは反対に、女のセクシュアリティは生殖を目的としない。そのとき、快楽のためにだけある器官、クリトリスがプロブレマティックになるわけですが、『オニババ』のクリトリス軽視もこうした問題系から一ミリもはみ出していないのがわかるでしょう。昇華については、レオ・ベルサーニが人間の性欲はそのはじまりからして昇華なのだと言っているのが役に立つでしょう。生殖に向かう「本質的な性欲」とは、その特殊な形態にすぎない。『オニババ』の著者が採用しているのは、性欲を抑圧してゆがめた結果「勉強とか趣味とか」へ向かうという紋切型ですが、ベルサーニは「遊び、仕事、芸術、哲学的・科学的探求の喜び」について、抑圧されないエネルギーが昇華されるのだと、昇華とは「自我の楽しみの精緻を極めた形式」であると言っています。ついでに言うと、性欲は低いもので、昇華は高級だというわけでもないんですよね。

I:女を生殖から自由になれないものと決めつけて、男にどういう得があるんでしょうね。

S:さあ。所詮女は異なるもの、理解を超えたもの、としておきたいんでしょうか。『オニババ』では、月経に関する情報は好奇心から読むかもしれませんが、所詮ひとごとですから。女が書いて、女が批判し、あるいは賞賛するのを、男は面白がっていればいいんですね。身体性は女のもの、精神性は男のものとして安堵する。

I:一方では嫉妬もしますよね。

S:しますね。そこまで身体性を極められる女がうらやましいって。女の方が快楽が深いという幻想を維持しつつ、忘我できる女を憎むんですね。

I:女に対するあからさまな軽侮とひそかな嫉妬。

S:優越感と嫉妬ですね。相も変わらぬ男と女の再生産に役立つわけです。

I:女の快楽に関して、私がもう一つ納得できなかったのは、胸についての過小評価です。

S:ああ、胸などにこだわるのはおかしいという。「性体験の深さということで言えば、たとえばお乳にこだわって吸ったりするというのは、性行為としてすごく稚拙なことといえないでしょうか」という記述。

I:乳首を吸うのは赤んぼにまかせておけというわけですか。

S:女性の胸のセックス・アピールの過大視については確かにそのとおりだと思います。でも、不思議なことに三砂さん、ここで乳首を吸う男の「性体験」の側に立っているんですよねえ。

I:女性の側の快感を無視するんですよね。

S:まして、男が吸われる場合の「性体験」においておや。

I:そうそう、男性だって、乳首は性感帯じゃないですか。「性に関わらない身体性なんてない」という、その身体って下半身だけみたいですね。

S:性は大事だと言いながら、ついに性にはかかわることなく終っているとしか思えません。Amazonのレビューで、少なくとも著者が性欲旺盛な方だということはよくわかりました、と皮肉っている人がいたけれど、私はそういう印象はまったく受けませんでした。

I:Amazonといえば、この本について、男女機会均等法に遅れた世代の女性が若い世代を嫉妬しているんだという無茶なレビューを書いている人がいますが、無知からくる見当はずれは恥しいよ。

S:「この世代の女性には、泣こうが喚こうが「結婚して男に従う」しか選択肢がなかった」って、遠近法が間違ってますねえ。

I:均等法だって天から降ってきたわけではないんだから。上の世代の女性が、指くわえて羨ましがっているなんてよく思うなあ。

S:あなたが大人になったときそこにそれがあったのは、前の世代が頑張ったからこそです。別に私が頑張ったわけではないけれど、「たった数年の差でチャンスがなかったこの世代の女性は可哀相ではあるのだけれど」って、差別に対して戦った女性たちに対して失礼ですよ。

I:仮にあなたの周りにそういう屈折した四十代女性が多かったとしても、それを一般化しちゃいけません。ひどいレビューっていうだけなら他にいくらでもありますが、『オニババ』否定のレビューなのであえて苦言を呈しておきます。

S:最後に、二十年以上前の私自身の経験を紹介させてください。当時の私の勤め先に、M書房の編集者と大学で同級だった、私より十歳ばかり年上の男性がいて、あるとき飲み会にその編集者が来たんです。バルトの翻訳書のあとがきに訳者たちにより一度ならず名前を記され感謝を捧げられている人で、私は勇んで、バルトの愛読者であることを告げました。『恋愛のディスクール』の翻訳が出る前で、当時は洋書を注文すると船便で半年かかったんですが、私は神保町の田村書店で、「恋愛講義」と手書きの標題のあるカバーで包まれた原書を見つけて大喜びで買い求め、ろくろく読めないのに撫でさすっていたところでした。

I:そういう人に会えて、その編集者も喜んだでしょう。

S:それが、別に嬉しそうな顔もせず……たいした話もしなかったんですが、そのとき彼が言った中で、ひとつだけ今でも忘れないことがあります。バルトの場合、エクリチュールそのものが官能的だというのが、女性にはわからない、と言ったんです。

I:なにィ? Sさん、何て応えたんですか?

S:黙って聞いていましたよ。若かったから。

I:今のSさんからは考えられませんねえ。

S:要するに女には、即物的で直接的な性しかわからない、ぐらいに思っていたんでしょうねえ、その男性編集者は。女にはわからない、しかし自分は男だからバルトがわかる、と。

I:鼻もちならない野郎だなー。

S:おまえにはバルトはわからない、と真向から言われたのなら、まだケンカのしようもあったのですが。

I:Sさん、自分が女に属しているのを知らなかったんじゃない?

S:いえいえ、そんなことはないですよ。そのことをいつも思い出させてくれる社会ですから。ただ。男がそれほどまでに女を自分とは同類と認めたがらぬことを、当時の私はまだ十分認識してはいなかったふしがあります。『オニババ』の本は、こうした反動的で退屈な挿話の反復からできている歴史に、ごく最近つけ加わった、凡庸な一ケースと考えるべきでしょう。それからもう一つ、自らの女性性を無視したために病気になったとは、精神疾患にせよ、子宮や卵巣や乳房といった女性特有とされる部分の病いにせよ、これまで多くの女たちに、それもしばしば医療従事者によって、不当にも向けられてきた言説です。『オニババ』を賞賛したい人はすればよいが、そのときは自分がこうした中傷に手を貸しているという自覚を忘れないでいただきたい。自分の生まれる前のことだとて忘れてはならないこともあるのです。

■プロフィール■
(すずき・かおる)ポルノグラフィ=女性の人権と主体性を侵すものと信じる女性は少なくないようだ。いったいそういう女性はどんなセクシュアル・ファンタジーを持つ(あるいは持たない?)のだろう。研究者の友人は、発表の際に資料としてつけた、彼女自身が愛読する「レディース・コミック」について、「どんな階層の人が読むのか」と先生方に聞かれたことがあるという。ポルノグラフィに表現された男性表象を女性が見ることを、たんなる「項の入れ替え」にすぎず、ジェンダーからの解放は「『全員男に似る』ことではありえない」とする著名な日本のフェミニストに異議を唱え、「項の入れ替え」を擁護する彼女の文章を読みながら、男同士の性愛の表象を女性が読む場合の「入れ替え」について思いめぐらす。これについての、精神科医・斉藤環の、「主体の立場」を完全に抹消しての「他者の享楽」だとする説は全く信用できない。分析が享楽の完全さを傷つけるから彼女たちは作品の分析を好まないとか、彼女たちにレズビアンはいないとかいう説も同様だ。高倍率だった冬コミ(12月30日)当選し、目下〈ポルノグラフィ〉執筆中。http://kaoruSZ.exblog.jp/





●●●●INFORMATION●●●-------------------------------------------------

★新刊案内★
『ALS──不動の身体と息する機械』


立岩真也著 医学書院・449頁・2940円(税込)ISBN:4-260-33377-1
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b2.htm

サイボーグたちは、真の生命/生活を得んがための犠牲といった発想をイデオロギーの源泉とすることを拒む。[…]生存こそが最大の関心事である。」(Haraway[1991=2000:339])

私たちの社会では一方で、身近な、とくに善意もなにも必要とせず、むしろそれがうっとおしく感じられるような場面で、やさしさやふれあいが語られる。善意が押しつけがましく押しつけられ、それは問題にされない。他方で、生死に関わるような場面になると、本人の意志を尊重して云々と言う。周囲は口を出さないようにしようと言う。これは逆さではないか。(p.143 第4章6節「「中立」について」より)

◎なお下記のWebで、稲葉振一郎氏による同書の書評が読めます。
http://www.arsvi.com/2000/0411is.htm




■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★今号は、鈴木薫さんの番外編を隔月ではなく連続で掲載しました。
★中江兆民の『三酔人経綸問答』(1887年)を読むと、西洋近代思想を理想とし小国の平和主義(軍備放棄)を唱える「洋学紳士君」、屈折を含んだ膨張主義的国権主義を唱える「豪傑君」、折衷的に対応するように見える現実主義の「南海先生」との問答が、昨今の憲法「改正」論議との関連においても、いまもなおアクチュアルでありその先見性に驚くだろう。
★はたして「南海先生」が現実主義者が否かは措くとして。括弧付きの「現実」主義について丸山真男は、(1)現実の所与性においてそれをこの国(日本)では端的に既成事実と等値され、その既成事実に屈服せよという諦観を意味する、(2)現実の多面性が無視されて現実の一面のみが強調される、(3)その時々の支配権力が選択する方向が事大主義的・権威主義的に肯定される、と指摘している(「「現実」主義の陥穽」、『現代政治の思想と行動』所収)。
★いっぽう現在の社会意識としての「現実主義」に関して北田暁大は、かつては保守派が左派を攻撃する際の常套句から、いまや保守/革新という冷戦的対立軸を超える一つの(反)イデオロギーとして屹立している、という。そして、「「現実主義者」は時と場合によって、左派にも右派にもなる。その独特の思想的融通性、あるいは反思想的な立ち位置こそが「現実主義」の本質である。「憲法の戦後レジーム」、「憲法問題=九条問題」フレームを瓦解させた(させつつある)のは、こうしたクールな相貌を持つ反イデオロギー的思想としての「現実主義」なのではなかろうか」と。しかもそのクールな「現実主義者」は、自らが「現実」と定義する世界解釈によって複雑な現実を我が手中に収められるという不遜な欲望(設計主義)を秘めている、とその危険性も指摘している(「反イデオロギーとしての「現実主義」」、別冊「世界――もしも憲法9条が変えられてしまったら」2004.10掲載)。
★そのクールな「現実主義者」は、排除/抹殺という自覚をもつこともなく「制御できない/すべきでないもの」(他者性)を、社会工学的にノイズとして「処理」するだろう。いや、すでにそれは始まっている。(黒猫房主)





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