『カルチャー・レヴュー』25号

■批評の批評■


柄谷行人『トランスクリティーク』批判の問題点

村田 豪



 フランス人よ! 共和主義者たらんとせば、いま一息だ。(マルキ・ド・サド『閨房哲学』)

 柄谷行人の近著『トランスクリティーク』についての批評、評論をいくつか読んだ。
 正直な感想を言えば、かなり落胆させられた。とくに批判的スタンスで書かれた論者の考察が、極めてお粗末に感じられた。もちろん各自が自分なりの観点から、柄谷の考えなり、主張なりを批判しているつもりではあるのだろう。そうであるならいいのだが、そして少なからず、そういうものを期待して目を通すのだが、しかしながら、異なった立場から批判しているというよりは、柄谷の提示した問題を理解しないまま、片言隻語を抜き出しては言いがかりをつけているだけ、というような印象を持った。
 一般の読者としては、ごく普通の意味で、柄谷の議論を問い直すような批評を読ませてほしいと思うのだが、それを果たしてもらえない。それにしても、なぜこんなことになるのだろうか。
 まずは、そういった論者にたいし公平を欠かないよう、とりあえずは、彼らの論旨を簡単に拾ってみる。その上で、それらが柄谷の著作の的を射ることもなく、単に自説の開陳にとどまるか、あるいはひどい場合には、悪意に満ちた中傷にしかなっていないことを示してみたい。

 たとえば大杉重男は「啓蒙と洗脳の結婚」(『文学界』2001年12月号)で、柄谷の説く「啓蒙」が、いわゆる「洗脳」とどう違うのか、という疑念をあらわしている。その例として、伝統的な見方に反して数学や形而上学が分析的判断だけでは基礎づけられず、総合的判断を含むのではないか、という柄谷(本当はカントのはずだが)の論点を取りあげ、以下のように批判する。

 しかし柄谷は「分析的判断を唯一確実なものと見なす形而上学」の代りに、総合的判断を唯一確実なものと見なす形而上学を数学に押しつけ、かつそれに依拠して自身の形而上学を正当化する。(「啓蒙と洗脳の結婚」前掲書p251)

 大杉は、柄谷の言い回しを巧みに自分の文章に折り込みながら、柄谷自身が、新たに「形而上学」を反復することになっている、とそう主張したいようなのだ。ところが、これにはまったく脈絡がない。
 「総合的判断を唯一確実なものと見なす」とは、まずなんのことなのか。柄谷もカントもそれに類することを、ひとこともいっていないのはもちろん、それ以前に文意が通じない。彼らの主張は、分析的で確実なものと見なされている理論的科学的認識においてさえ「総合的判断」が含まれざるをえない、ということであり、とくに柄谷は、むしろそれは「飛躍をはらみ、危うい」ものだと、繰り返し強調しているのではないのか。それのどこが「唯一確実なものと見なす」ことになっているのだろうか。  だから、大杉が上記のような奇妙なロジックを展開しているのは、『トランスクリティーク』をきちんと読んでいないからか、読んでも分からなかったからか、おそらく、どちらかだといえる。そしてこれはたぶん後者だと思う。なぜなら、たとえば以下の柄谷の洞察を、大杉はみごとなまでに理解できないからである。

 カントは『純粋理性批判』で、とりあえず総合的判断が成立していると見なした上で、その超越論的な条件を探る。それは事後的な立場である。しかしそれは総合的判断が容易であることを意味するものではない。総合的判断はつねにある飛躍をはらみ、危うい。だからこそまた、それは「拡張的」でありうるのである。(略)カントによれば、総合的判断でしかありえないことを分析的判断によって証明してしまうのが形而上学であり、思弁哲学であった。しかし、同じことが事後的な立場に立つ思想についてもあてはまる。形而上学とは、事後的にしかないものを事前に投射してしまう思考なのだ。(『トランスクリティーク』p280)

 このような批判を前にしながら、大杉は「事後的にしかないものを事前に投射して」はばかるところがない。たとえば、「未来の他者」をめぐって言及している以下の箇所がそうである。

 柄谷は「われわれが後代のために活動し死んだつもりでも、後代はそうは思わないし感謝もしない」と不満げにつぶやくが、しかしそれは必ずしも「不条理」なのではなく、単に私たちの活動が後代のためになっていなかったからに過ぎないからかもしれない。(略)だが少なくとも自分が未来において評価されないことに被害者意識を持つ必要はない。(「啓蒙と洗脳の結婚」前掲書p254)

 柄谷が「未来の他者」を持ち出すのは、環境問題のような、結果がでてしまってからでは手遅れになる現実的な諸問題と、それを事前に判断することの飛躍性について考察しているからである。そのことを、結果的な立場から応接してぶつけ返すのは、なんというか知性がなさすぎないか(ちなみに、大杉の「後代のためになっていなかったからに過ぎないからかもしれない」という見方は、勝手に「事後」を先取りしてはいるが、やはり「事前」の判断、一種の「総合的判断」である。そういうものに頼るのは「形而上学」だと揶揄していたのは、まさに大杉であるが、どうしたことか。おそらく自分が何を言い、何をおこなっているのよくかわからないのであろう)。
 しかし、それにしても、この箇所は言いがかりも甚だしいと思う。「不満げにつぶやく」や「被害者意識」などという形容は、本書を読めば分かるように、大杉の意地汚い創作である。柄谷は、該当個所で、むしろカントの考えを説明しているのであって、自身の意見として述べているわけではない。ただし、こんな品性のない見方が生じるのは、大杉自身の人間性の問題というよりは、彼が「他者のため」ということを、功利主義的な立場以外で考えることができないからでもある。柄谷ははっきり述べている。感謝されることもない未来の他者のためになぜ何かしなければならないのか。「それはわれわれ自身の自由の問題」なのだ、と。つまりこれが理解できないのである。

 こんなことをいちいちあげつらっていても仕方ないけれども、どこを読んでもこんなことばっかりの大杉の批評なのである。ところが、こういう弊は、どうも大杉に限らないから驚く。たとえば、水谷真人は「『理論的信』について−コメンタリオルス試論(T)」(『早稲田文学』2002年3月号)で、柄谷が抱える「認識上の分裂」「概念上の混乱」を指摘しているのだが、これもまったくの理解不足からくる身勝手な論点にすぎない。
 水谷がポイントにして批判しているのは、たとえば、柄谷が科学的認識の「実践的」側面を示すものとして取りあげた「理論的信」の具体例「詰め将棋の問題は実践におけるよりはるかに易しい。かならず詰むという信が最大の情報である」(『トランスクリティーク』p80)という箇所にたいしてである。これは大杉の意見を受けた形で展開されている。

 だが大杉重男も述べるように、詰め将棋が実戦よりも易しいのは、「かならず詰むという信」によるものではなく、「単にかならず詰むから」に過ぎない。「かならず詰むという信」は、詰め将棋を詰め将棋たらしめようとする「構成的」な要請から来ている。この情報は、柄谷の用語法に倣うならば、「思弁」(スペキュレーション)の領圏に属する。ところで詰め将棋が実際に詰んでしまうのは、そのような情報とは何ら関係のない、「投機」(スペキュレーション)に属する事柄なのだ。「理論的信」と「かならず詰むという信」を混同することは許されない。(「『理論的信』について」前掲書p43)

 正直、唖然とされる方も多いだろう。柄谷がいっているのは、明らかに、詰め将棋を詰め将棋と分かって解く場合と、同じ問題を実戦で与えられた場合をくらべての話である。実戦ではすでに詰み筋に入っていても、プロでさえそれを確信できないまま、正解を発見できずに負けるのである。なぜか。本当に詰んでいるのかどうか、その時点では対局者には分からないからである。結論が出る手前でせめぎ合う「勝負」において、どれほど「かならず詰むという信」が大きな意味を持つのか、と考えれば、それを「理論的信」の例としてあげたことも容易に理解できよう。それをただ詰め将棋の話だと思いこみ、それが易しいのは「単にかならず詰むから」にすぎないなどと居直る論者の不明は覆いようもない。
 さらに「柄谷の用語法に倣う」という部分も、首を傾げてしまう。確かに柄谷は「科学認識(総合判断)はスペキュレーション(思弁)ではないが、ある種のスペキュレーション(投機)をはらんでいる」と書いた。しかし言葉の意味合いとしては、ごく一般的なものである。科学認識は「思弁」つまり「経験によらない推論」ではないが、「投機」つまり「予測に掛けること」を含む実践性がある、というほどのことである。ところが水谷にかかれば、「かならず詰むという信」が「思弁」に属し(これが「投機」ではないか)、「実際に詰んでしまう」ことが「投機」に属する(まったく意味不明。単なる結果ではないのか)、などと展開されてしまう。そしてそんな不可解な主張を通じて、「『理論的信』と『かならず詰むという信』を混同することは許されない」というような結論を導きだしているのである。
 いささか細かい指摘のように思われるかもしれないが、水谷論考の多くの箇所でこういったことが目立つので、典型的な例をあえて取りあげた。そして気がつくのは、大杉・水谷の両者に共通する問題点である。それは、(1)柄谷の主張とはかけ離れたことを引き合いに出し、(2)柄谷が論じ扱った概念や術語を不正確に援用することで、(3)最終的には論者にとって都合のいい結論を出して柄谷への批判とする、という信じがたい三段論法である。
 いったいなぜこんなことになっているのだろうか。一つは、やはり批判者たちが『トランスクリティーク』をきっちり読んでいない、ということにつきると思う。内容を把握しているなら、柄谷の見解に反対するにせよ、賛成するにせよ、上記のような議論は存在しえないはずである。だから、有益な議論を期待する一読者として、こういった論者には、あらためて『トランスクリティーク』を再読いただいて、批判の立てなおしをはかってほしいと願うばかりだ。
 ただし、そうはいっても、これは難しい要求なのだろうか、ともう一度考えさせられることになった。というのは、この間、竹田青嗣「資本主義・国家・倫理−『トランスクリティーク』のアポリア」(『群像』2002年9月号)を読んだからである。  もちろん、竹田の論評は、上記の大杉らほど雑なものではないし、彼らよりはるかに真面目に考察をほどこそうとしてはいる。全10章分のうち3、4章分ほどを割いて、丁寧に柄谷の主張やカントの議論をあとづけてもいる。つまり批評の対象をいちおうは読んでいると思われる。にもかかわらず、竹田の議論の全体は、結局は、大杉や水谷のような、相手を批判したいがためだけの信じがたい三段論法と何らかわるところがなく、いっそう深く読者を徒労感におとしいれることになる。
 とくに、この竹田論文がひどいのは、『トランスクリティーク』を批評をするというよりは、それにかこつけて自説を延々と述べつづけていることである。たしかに、竹田はあらゆる場所で、柄谷の見解の略述を試みていはいる。しかしそれがあまりに「自分なり」すぎるので、結局は、柄谷を自己対話の材料にしているにすぎない。
 たとえば「1」から「4」は、おもにカント論の妥当性をめぐっての評価であるが、最初の2章からしてすでに、ほとんどが竹田自らのカント解釈の展開である。「3」で、ようやく柄谷の議論の吟味にはいるが、これも柄谷が「普遍性」を考える上で「未来の他者」を取り出したことに一定の評価を与えるだけである。しかもそれは本当は自らの他者論をなぞっているだけなので、柄谷の提示した論点をまったく別の物にしてしまっている。たとえば、以下のような記述がある。

 さて、柄谷が言うように、一共同体のうちの「公共的合意」は、他の共同体のそれを対置したとたん、「主観的」なものにすぎなくなる。これはつまり、一つの「世界認識」と他の「世界認識」とが互いに自己の認識の「真」を信憑しているところでは、「正しい世界観」という概念を超え出る原理が存在しない、ということだ。相互が自分の「世界認識」を、事実認識の問題としてではなく、「統整的理念」つまり「かくあれかしという要請」としての「世界了解」として自覚し、相対化できた場合だけ、二つの絶対的な「世界認識」は、はじめて相互了解の可能性の原理を持つのである。(「資本主 義・国家・倫理」前掲書p175)

 柄谷は、まったくこのようなことを論じていない。むしろ竹田が言及している箇所では、「単独性」について論じているのであって、異なった主観の認識を「相互了解」で乗り越えるなどという安易な発想は、竹田のものにすぎない。
 しかも次章の「4」では、すぐにもヘーゲルに依拠して、柄谷の「他者」にひそむという「超越性」や「絶対性」を批判し始めるのだが、これも奇妙な展開である。柄谷は、当該箇所で自身やカントの「普遍性−単独性」および「自然−自由」を、ヘーゲルやヘーゲル的なロマン派の定式「普遍性−特殊性−個別性」と丁寧に関係づけて、論じているのではないのか。ある意味で、竹田の疑問に答えているようにも読めるのに、そこを無視する理由がまったく分からない。それをぬけぬけと、大上段にヘーゲルをもってきて「柄谷の『他者』はいわば“直接性としての他者”であって、そのためこうして取り出された「倫理」の根拠にはまだ超越性の残滓があると言わねばならない」などと見得をきるのは、ほとんど間抜けである。
 しかし、問題はまだまだある。「5」は柄谷のマルクス論の概説だが、そこで竹田は資本主義を「人間欲望の顛倒した普遍形態」と要約してみせる。ところが柄谷は資本の運動の背後にある要因を厳密に「欲動」と書いている。しかも「イントロダクション」では「マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたい――なのだ」と、その語の意識的な使用について、親切にも注意をうながしてくれているではないか。なのに、言葉の違いにたいする竹田のこの救いがたい鈍感さは、何によるのだろう。不思議で仕方がない。もちろんそういうことも含め、竹田は、柄谷の資本主義批判の要点をまったく見過ごすことになっているし、何も取り上げていないのに等しい。
 だから次章以降で、柄谷のマルクス論をもっと厳密に検討するのかと思いきや、「6」「7」は、柄谷の議論とは関係のない文脈で、ルソーによる「自由」と近代社会の政治原理を長々と語り始めるのである。そして最後に資本制における「所有」「分業」「交換」が、近代的「自由」を実現する条件として数え上げられる。なぜそんな話になっているかというと、「8」以降で、資本主義に対抗するために柄谷の提示した「アソシエーション」や「LETS」を批判するためなのである。資本主義の廃棄は、「自由」の否定につながる、というような論拠をもって。しかも柄谷の議論を、最後までまったく何も検討しないままに。「『貨幣』も、また人間の幻想的な欲望の本質の表現形態である」などという記述で自身の知的怠慢さを平気でさらしながら。
 とどのつまり、以上の説明で明らかなように、竹田は柄谷を論じる必要がまったくないはずなのである。自説を展開するのはかまわない。大いにその思索を深めていただきたい。しかし文芸誌の2段組の46ページにも及ぶ枚数をかけて、自説を、こんな冗長で、ばかばかしい言いがかりに仕立て上げるほどの無益が、いったいどこにあるというのだろうか。少なくとも読者にとっては、こんなものを読まされるのは、いい迷惑である。
 しかしながら、柄谷批判者たちが、こうもそろいも揃って同じ轍をふんでいくことに関しては、少々下世話な連想が働かないわけではない。要するに、彼らはもともと純粋に柄谷を論じようということよりも、文壇・論壇上の覇権争いでもしているつもりなのではないのか。柄谷を格好の競争相手として、できれば叩いておきたい、というような動機に突き動かされているのではないかと。
 私自身は、一概に文壇上のヘゲモニー争いを悪いと思っているわけではない。そういう要素はなくなるものではかもしれない。とくに、それを必要とする経済的基盤(文芸ジャーナリズム)の上にいる限り、ほとんど避けられないだろう。しかしこれについても柄谷は、たびたび著作権の問題などを取り上げ、むしろ知識というものはコンピュータOSの「Linux」のように誰もがフリーでアクセスし、利用可能なオープンソースであるべきだと発言している。そして実際に、自身の著作を、有志で立ち上げた「生産協同組合」を通じて出版し、「NAM」や「Qプロジェクト」というかたちで、その理論を誰もが活用できるように具体化したのだった。だから自身の思索の成果を、より大きな資本主義的利権へと転化しようなどという動機そのものを批判していることになる。そういう柄谷の理論的・実践的構想にたいして、一方の側は、その中身を吟味することもなく、単にヘゲモニーを握らんがための表面的な批判を展開するのでは、あまりに弱いというほかない(実は、大杉は、そのことには気づいていて、先の論考の最後で「文芸誌の注文に漫然と受動的に応じていうるだけで日々をやり過ごしている私は、柄谷たちの主体的、実践的な態度を前にして恥ずかしく思うしかない」と少々本音をもらしているが)。
 まずは以上のことには自覚的であるべきだと思う。そして批判者たちは、運動を始める柄谷に自分がなぜうさん臭さを感じるのか、政治・経済的システムのオルタナティブを提起する柄谷になぜ「洗脳」や「超越性」をかぎつけるのか、もっと明確にすべきである。それは、彼らがくどくど言い立てていたほどには、理論的・哲学的問題からとは見なせない。
 むしろそれは、柄谷の理念の内容そのものに反感を抱いているからではないのか。たとえば、彼らは、カント論についてはあれだけ紙幅を費やしながら、マルクス論についてほとんど語らなかった。しかし本当はそちらについて考察すべきだった。彼らは、カント論にこそ柄谷の「超越性」や「倫理」の原因があるのだと思っているのだが、それは思いこみである。たとえば、価値形態論を分析する柄谷が、そこに混じっているマルクスの「労働価値説」をなぜ同時に評価するのか。それは「各人がその必要に応じて与えられる社会こそがあるべきだ」という理念に貫かれているからである(『トランスクリティーク』p340註54を参照のこと)。それこそが、実践的態度の動機であろう。柄谷は、マルクス論においてこそ厳しく倫理的だと言わざるをえない。  だから、批判者たちは、柄谷の理念にたいして反対したいのなら、「まだ超越性の残滓がある」というような持って回った言い方をせず、「人が飢えて死のうが、自分の取り分を主張できる社会こそがあるべきだ」と自身の直情を明確にするべきであった(たとえば、竹田の議論では、せいぜい「各人がその労働に応じて与えられる取る社会」しか実現しないだろう。それは柄谷の理念とは決定的に違うものである)。しかしそういった自身についての洞察も、あの蒙昧さでは、おぼつかないままなのかもしれない。
 しかし、私は彼らをそういうレッテルに押し込めるために、こんなことを書いたつもりではないので、最後にそれをお断りしておきたい。ただ何度も言うが『トランスクリティーク』をもう少しきっちり読んでいただいて、「作品を論じる」というまともな批評のスタイルにつかれんことを願ってのことである。それは、おそらく、思想的決着をつけるためでもなく、文壇的覇権の意味合いでもなく、あるいは、私のような読者を満足させるためでもない。きっと論者自身のために、と気づいたときに、それはなされることであろう。

■プロフィール■
(むらた・つよし)1970年生まれ。サラリーマン、「哲学的腹ぺこ塾」塾生。 




■哲学/倫理■


資本システムと「倫理」〜竹田現象学のアポリア       


ひるます



獏迦瀬:「群像」9月号に竹田青嗣さんによる柄谷行人さんの『トランスクリティーク』に対する批判が掲載されてましたね。

伊丹堂:あれね。柄谷の運動にはワシはあまり興味がないんじゃが…。

獏迦瀬:そうですか? 柄谷さんの『倫理21』については、ウェブマガジンで取り上げて(註1)、高く評価するっていうか学ぶところが多いと、そんな話をしましたが…。

伊丹堂:そりゃあくまで「倫理」ということをどう捉えるかという点だけのことじゃな。

獏迦瀬:ではやはり竹田さん同様、柄谷さんに対しては批判的、というとこですか?

伊丹堂:柄谷に対する批判はすでにその『倫理21』についての論評の中や、その後の「倫理って何なんだ〜?」(註2)という対話でしているが、竹田の批判に同意するわけでもない…。むしろこの論文では、竹田の考え方のほうに重大な「問題」を感じるがな。

獏迦瀬:というと…。

伊丹堂:ようするに倫理ってコトがまったく分かっていない。ということはひいては「創造」とか「普遍性」ということが分かってないってことなんじゃが…。

獏迦瀬:ずいぶんデカイ話ですが(笑)、竹田さんも柄谷さんの「たえざる他者への配慮」という論点(他者=物自体)のところだけは「重要な直感」が含まれてるとして評価してますね。

伊丹堂:しかしそう言ってるだけで、だから何だってことは何も展開されてないんじゃないの? 「意志と努力の可能性の原理」と読み替えているが、いったいぜんたいどこの誰がそんな努力を買って出るのか…。

獏迦瀬:まあ他人事ですよね。伊丹堂さん的に言えば「〜しなくてもいいにもかかわらず〜する」という倫理の実存的なファクターが欠落してるってことになりますかね…。

伊丹堂:それは後半の社会契約とか権力に関しても問題になるところじゃが、とりあえずは、他者への配慮ということで問題になるのは、普遍性とは何かってことじゃろうね。

獏迦瀬:竹田さんは柄谷さんに同意しつつ、普遍性というのは、他者相関的なものだとは言うわけですが…。

伊丹堂:しかしそこで展開されるのは、お得意の認識とは対象との一致ではないとかいう教科書的な認識論話になっていて、普遍性という問題からはズレている。

獏迦瀬:ズレてると言えばそうですよね。共同体が相容れない「世界認識」を主張して対立している場合、お互いがそれを事実問題としてではなくて、世界了解の仕方の違いとして自覚し、相対化できたときにだけ相互了解ができるんだ、というような話がでてきましたケド、ようするに、みんながカント哲学、ひいては現象学を学べばお互いに理解し合えるんだと、そういうことですかね。

伊丹堂:わはは、ちゅ〜ことになるんじゃろうな。しかしそんなのが成り立つのは、独断論を信奉する共同体と経験論を信奉する共同体が対立している、なんていう希有なバアイだけじゃろ。

獏迦瀬:それってショートショートの世界じゃないですか。

伊丹堂:竹田がそういう解決を提示する「カントの思考」について「本質的に哲学的なのだ」と言っとるが、まさにそのとおりで、そういう「解決」は哲学的な「だけ」なんじゃな。もっとはっきり言えば、そういう解決は「哲学的文脈」が成立するような関係においてしか成り立たないってことヨ。竹田はいとも簡単に「事実問題」と「理念としての世界了解」を分けて考えることができるかに言っとるが、そもそもそれを分けるということ自体がある特定の「文脈」の中でのみ可能だということに思いいたるべきじゃな。

獏迦瀬:そういえば、ひるます氏がある掲示板で「竹田現象学に文脈なし」と書き込んでましたが、そのことでしたか…。

伊丹堂:それはともかく、ここで問題なのは、そうすると「普遍性」というものが、特定の哲学的な理解に限定されてしまうってことじゃ。

獏迦瀬:柄谷さんの提起した「物自体=他者」の無限の異義申し立てということを、他者との相互了解の要請、と読み替えることで、そういう哲学的な文脈での理解を「普遍的な認識」とするわけですね。

伊丹堂:しかしそんなものは、ワシらが「普遍的」とか「普遍性」とかいうときのコトバ使いからは、とてつもなくかけ離れてるじゃろ。少なくとも、そもそもこの論文のはじめで話題にしておったハズの「美の普遍性」という問題すら考えることができない。

獏迦瀬:そういえば「美と普遍性」の問題については、我らが「臨場哲学」で肥留間氏が「美っ何なんだ〜?」という対話をしてましたけど(註3)。

伊丹堂:あれも直接ではないが、竹田現象学への「批判」になっておるようじゃから、あわせて読んでみるといいわな。そこで言ってるのは、ようするに普遍性ってのは成熟とか洗練の度合いだってことじゃ。

獏迦瀬:というと…。

伊丹堂:以前「正義って何なんだ〜?」という対話で(註4)、「公共性」という概念を、ヨリ開かれている状態を示す関係概念(修飾辞)と捉えた方が使える、ということを言ったが、それと同じことヨ。普遍性も、ある条件を満たせば決定的に普遍的だ! というのではなくて、ヨリ普遍的かどうかという関係概念として捉えた方がいいということじゃ。

獏迦瀬:その場合のヨリ普遍的というのが問題ですが…。

伊丹堂:ワシらがコトを認識したり判断したりする際には、つまりコトを創造する際には、ワシらはそれが「他の人にとって同様に成り立つ」という想定を行いつつ、それをなしている。それが結果として本当にそうなっているか? 共有しうるまでに練り込まれてるかど〜かというのがようするに、普遍的かど〜かってことじゃな。すなわち結果論よ。

獏迦瀬:そう言っちゃうと軽い感じがしますが…。

伊丹堂:しかしその程度のコトすらワシらにはナカナカ創りだせない。これは「努力」とか「意志」とか、あるいは「問題意識」とはある意味で関係ないのな。結果とは、かくも残酷なのじゃよ。

獏迦瀬:たしかに。そもそも美だけではなく知や善がコトガラとして「創造」されるものだって発想は、現象学にはないんでしょうね。

伊丹堂:ないね。一般に哲学者ってのは「アイデア」とか「創造」ってものに対する考えや敬意がキハクじゃな。もうイッコ肝心なのは、そういう創造には「リアル」ってもんが関わってるってことじゃ。

獏迦瀬:リアルの到来ってやつですね。

伊丹堂:人においてコトの創造はリアルの到来とウラハラだってことじゃな。人に伝えられる。それを受容する人においてもリアルが到来するなら、そこでコトの説得−納得が成り立ったということになるわな。しかしそんなことが起きるかど〜かは結果論だってことだったわけじゃ。

獏迦瀬:さっきの共同体間の世界観が衝突するって場合でも、お互いが理解しあおうとするなら、お互いが納得できるような新たなコトを創造するしかないわけですね。

伊丹堂:というより、共同体が衝突する場合ってのは、そもそも「相手が何を考えてるか」が分からない(笑)。相手がこう思ってるだろう…という詮索そのものが一つのコトの創造(判断)でしかないわけよ。しかし問題は共同体が衝突するというような場合に限らず、一般に人の世ってのは、常識に対して新たなコトが創造されては普遍性を獲得しようとする戦い、というよりは修練、の場だってことじゃな。

獏迦瀬:逆に言えば、同じ共同体だからって同じ「普遍性」をもって生きてるわけでもないですからね。

伊丹堂:さしあたって共同体が共有してるようなものは、単に「常識」っていうんじゃな。創造とリアルがわかってないと、単なる常識と普遍性の違いってものも分からなくなるのよ。ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論がいい例じゃな。

獏迦瀬:なるほどベタな話ですよね…。ところで話を戻すと、その普遍性と倫理ってのはどういう関係になるんでしょう。

伊丹堂:いや、だからそれは関係ないわけヨ。倫理ってのは態度の問題であり実存の問題なわけで、普遍性というのは実際問題としての結果なんじゃから、そもそもの尺度が違う(註5)。それは反映されればめっけもんってくらいのもんじゃろ。

獏迦瀬:でも創造ってのは倫理的なワケでしょ。

伊丹堂:わはは、いつも言ってるように倫理ということを考える場合、「我々にとって」という視点と「個人にとって」という視点を考えないと何いってるのか分からなくなるぞ。我々にとって、人はそうしなくていいにもかかわらず創造をしてしまう、という意味で、「あらゆるコトの創造は倫理的である」ということが言えるのじゃが、個人の視点においては、人はそうしなくていいならば、さしあたってたいていの場合、そうしない(笑)。

獏迦瀬:非−倫理的、なんですね。

伊丹堂:非−倫理的っていうと、なんか悪いことをしてるようじゃが、ようするに別に倫理的でも倫理に反するというわけでもない、倫理とは関係ないってことだね。肝心なことは、ワシらは誰でも非−倫理的に生きる権利(まっとうさ)を持ってるってことじゃ。

獏迦瀬:ちなみに竹田さんも柄谷−カントの認識の普遍性の根拠を倫理におく考えを批判していますが、そこからなぜか近代市民社会のルールとしての「自由の相互承認」という話になる…という何かどんどん話がズレていく印象でしたね。

伊丹堂:だから関係ないといえば済むんじゃが(笑)、柄谷の場合、自由であれという根拠もそうじゃが、「他者を自由な存在として扱う」「他者を手段ではなく目的としてみる」というコトが「善」であるということになり、結論としてはようするに「資本主義を否定することが善」というわけで、こういった一連の論理がすべて「規範化」している。それを以前批判しておいたのじゃが(註2)、ある意味柄谷のそういう大雑把な善意ってのは、無邪気さという意味で罪がない。しかし竹田の理屈を追っていくと、ようするに近代市民国家がそのものの構造において「倫理的」であると語ってしまっているんじゃないかの? それは罪深いぞ。

獏迦瀬:実際、自由の相互承認と一般意志の成立という論理の中で、「ありふれた相対的な他者を倫理と普遍性の根拠としておく」と言ってますから、それを「倫理的」と思ってるんでしょうけど。

伊丹堂:ふうん。そんなものは倫理でもなんでもないと思うが…。ありふれた相対的な他者の想定というが、そのような想定は竹田が批判する「超越的な他者が誰かを自分こそが知っている」という僭称と同様にそもそも恣意的なものでしかないじゃろ。それでもとりあえず竹田の市民社会論が成り立っているかに見えるのは、ようするにそれがすでに成立している市民社会−国家システムを前提に語ってるというだけのことで…。

獏迦瀬:他者の自由の相互承認は「一斉に」行われなければならないとか…、そんなことが行われたためしはないと思いますが、それこそどういう「文脈」の話なのかはっきりしません。

伊丹堂:哲学的に「物語」を語ってはならないというのが竹田のモットーかと思っていたが、これって徹頭徹尾、物語そのものじゃな。

獏迦瀬:ようするに国家権力の正当性を物語りたいわけですか。

伊丹堂:柄谷のポストモダンを批判しつつも、どっぷりとポストモダンなんじゃよな。つまり「権力」なんてものの存在を認めるという程度のことにこれだけのリクツをつけないとど〜しても認められないってことじゃろ。それはある意味哀れじゃがな。ようするに社会システムと権力ってことがまったく分かってない。

獏迦瀬:ああ「世の中とは…」って話ですね(註4)。

伊丹堂:そう。世の中とは、人々がその都度その都度の目先のコトガラへ配慮してする行為の連鎖が全体としては調和して成り立っているような「社会システム」のことだと言ったわけじゃな。しかしそこには常にシステムに対して「超越する」視点から介入するという構造があるのであって、それを一般的に「政治」(権力)としたわけじゃ。これを直に「国家」と言ってしまわないのは、とりあえず「国家」というものを歴史的に特殊なものと見ておく立場からなんじゃが、ここで肝心なのは、この構造は近代市民社会にかかわらず、さしあたってワシらが知っている歴史的な社会においてはすべてあてはまる「構造」だってことヨ。

獏迦瀬:その構造の「ナカミ」が近代市民社会ではど〜なってるのか? ってことですよね。「世の中」において人々がその都度その都度の目先のコトガラへ配慮して行為するってのを「倫理的」に表現すれば、それこそ竹田さんのいう「ありふれた他者の想定」ってことになりますね。でもそれは単に世の中のあり様だと…。

伊丹堂:そういう「見方」をしないと、構造(システム)の話をしているのか「倫理」の話をしているかが見えなくなるわけよ。自由の相互承認なんて別に人々が意志的に・倫理的にやってるのでもなんでもなくて、資本主義社会においては人々が「自由にさせられている」ということだし、私的所有が自由の根拠なんて話もでてくるのじゃが、私的所有だって、別に勝ち取ったものでもなんでもなくて、商品経済が可能となるようにシステムにおいて「私的所有させられている」と見ることもできるわけよ。それこそ非−倫理的な世の中の流れってことじゃな。

獏迦瀬:世の中がそういうシステムになっているから、それに対する介入権力もまたそのような「自由」を保障することを主目的にしたものに変化したっていうのが民主主義ってことですかね。それもとりあえずは「構造」としてある…と。

伊丹堂:民主制だからといって、倫理的だとか正義だというわけではない、ということは前も話した。ようするに単なる構造である以上、そこで人は非−倫理的に流れていくわけで、常に政治腐敗がおこり官僚機構が腐敗してしまうということのコトワリがそこにある。

獏迦瀬:ところが竹田さんの論理だとまずは社会契約があって、権力がつくられ、それは成員の自由を確保するという一般意志を実現するためのものであったのに、国家間の競合や緊張関係のために、それが国家の利益共同体としての特殊意志に後退させられてしまう。それが近代国家のアポリアだというのですよ!

伊丹堂:それはまた独断的な「理由づけ」じゃな…。なんども言うがやはり「創造」ってことがちっともわかっとらんのじゃな。

獏迦瀬:というと?

伊丹堂:いいかね、一般に世の中ってのは、人々が「目先のこと」を配慮して活動しているのだから、本人がいくら社会に反することをしていないつもりでも、社会は全体としてはかく乱していくわけヨ。これはよく言えば、世の中というものは常に「創造」によって変化しているということじゃろ。これを世の中への介入によって調整して安定したところへ着地させるというのが政治機能なんじゃが、近代国家においてその介入原則をいくら「成員の自由の確保」なんてことに決めておっても、その実現ってのは、ようするにその都度さまざまな条件や経緯の中で変わってくる。そこではどうすれば一般意志にかなうか?なんてことが、最初からはっきり分かっているわけでもなんでもない。

獏迦瀬:まあそれが分かってたら裁判はいりませんからね。

伊丹堂:したがってそれはその都度のコトの創造としてなされる以外ないわけじゃろ。とすればその結果が原則からかけはなれたものになる、という可能性は常にある、ということじゃ。

獏迦瀬:ようするに失敗するという可能性ですよね。

伊丹堂:つまり構造としてつねに社会介入システムは失敗したり腐敗したりする可能性があるということじゃな。…ところでここがまた肝心なんじゃが、それを解決しようとする人々が倫理的であろうと非−倫理的であろうと、それは実は関係がない。

獏迦瀬:まあさっきの倫理と普遍性は関係ないというのと同じですよね。倫理的な人も失敗はするわけで(笑)。

伊丹堂:だから竹田のいうような「理由」で近代市民社会がうまく行かないのではなくて、そもそも構造的に社会介入システムというものがうまくいかないということが単なる当たり前としてあるのであれば、やはりどこかでそれがうまく行くような「努力」というものが必要になるわけじゃ。

獏迦瀬:最初に出て来た「努力」=倫理性の問題ですね。まるで他人事って話しでしたが、竹田さんの論理からいけばそもそも最初に一般意志として決定されれば、あとはうまく作動するはずなので、努力はどこにも介在する余地はないってことになりますよね。

伊丹堂:ところが構造としてうまく行かない以上、努力なしに市民社会における介入原理=民主主義は成立しない。「民主主義とは日々の実行である」ということの意義がそこにあるわけよ。

獏迦瀬:小室直樹さんの民主主義論ですね(註6)。

伊丹堂:倫理性は創造や判断の結果の正しさや普遍性を「保証」しないが、人々ができるかぎりそれを正しく、普遍的にしようとする努力、そうしなくてもいいにもかかわらずそうする努力によって、日々それは実行されているということじゃな。

獏迦瀬:そのためにはようするに教育が必要だということでしたね。

伊丹堂:ワシ的に言えば、人々がそこそこに「倫理的」である程度に習慣化されている必要があるってことじゃな。

獏迦瀬:それは「システム」の問題であると同時に「システム」だけではしょうがない、実存の問題でもあるという微妙な話ですよね。

伊丹堂:いや単純に言って「文化」の問題じゃ。

獏迦瀬:なるほどね…。文化というとちょっと気になったのは、竹田さんの、国家間の緊張が特殊意志をつくり出すという近代国家のアポリアの解決として、国家間の「普遍意志」をつくり出さねばならないというところです。これってようするにグローバリズムの普遍支配っていうか、文化帝国主義なんじゃないですか?

伊丹堂:それはちょっとというより大いに気にしてほしいとこじゃな。竹田自身が現実のグローバリズム台頭をどのように考えているかは知らんが、しかし竹田の考えがグローバリズムに接近するのは、そもそもの根拠を「自由の相互承認」という考えにおく限り当然の帰結ではあるわな。

獏迦瀬:というと…。

伊丹堂:ようするにそれは竹田流の「倫理」として捉えられているわけじゃろ、ワシはそれを「倫理」とは思わんが。竹田にとっては「自由の相互承認」という契約は、かならず「すべき」こと、という積極的な意味あいのものなんじゃな。

獏迦瀬:実際は「〜させられてる」としても…。

伊丹堂:しかし考えてみるまでもなく、自由の相互承認なんて、とりあえず相手の自由を拘束したり侵害したりしないってだけのことで、そんなものは「とりあえず積極的に何もしない人」なら、意識する必要すらなく実行しているわけじゃ。よ〜するに「さしあたって人の嫌がることはしないでおこう・人の持ち物には手出ししないでおこう」って程度の気分じゃね。

獏迦瀬:立岩真也さんの『私的所有論』にそんなくだりがありましたね。

伊丹堂:そういうあり方に対して積極的な意味合いの「相互承認」ということを言うこと自体がすでに「文化帝国主義的」なんじゃよ。つまり「メンバー」として参加せよ、という命令になっているのな。

獏迦瀬:それが一気に「世界大に拡大する」原理ってことになるわけですよ。

伊丹堂:まったく別な社会システムにおいて成り立っている共同体に対しても、同じメンバーとして参加しろ、しかも「お互いに自由であることを認めよ」というわけじゃろ。

獏迦瀬:このへんのリクツは、市民社会においては「我々」という共同体が崩壊するので、我々が「すべての人間」に拡大するしかないという展開です。そこですべての人間が「自由」と「尊厳」において対等であるという「世界大の感覚」の上に市民社会の自由が成立する…と。なんかコトバとしてはかっちょいいのですが…。

伊丹堂:一言でいって大きなお世話じゃろうね。自分とこが崩壊したからって全部一緒にって話じゃないの。

獏迦瀬:まあ実際は世界中で共同体的な社会システムは崩壊しつつあるんでしょうけどね。

伊丹堂:そこを見ないで「自由の相互承認」なんてことを言うのが欺瞞なんじゃな。別にワシらが他国の悲惨な状況をなんとかしなきゃと感じるのは、お互いに「市民社会の一員として対等」だから、などというのではなくて、単にかわいそうと思うだけのことじゃろ。向こうの人に「お互い自由だ」と認めてほしいとも思わんしな。

獏迦瀬:単にまっとうさの感覚があればそう思いますよ。

伊丹堂:ようするにそこからどういう「解決」とか「相互理解」をつくり出していくかってことはすでに言ったように、それぞれの場合における解決や理解のアイデアとして創造される以外ないわけじゃろ。世界が一つのシステムになる、ということが先にありき、ではないのじゃよ。

獏迦瀬:そういう創造がなされるように人々を教育するってのも文化だってことですかね。

伊丹堂:そう。教育というと、メンバーとしての意識を植え付ける、みたいなイメージが、とくにポストモダンな人々にはあるじゃろうが、自分達の文化を押し付けるのではなくて、それを越えてその外側の他者をも配慮していこうというのもまた、ある種の文化によるしかない。システムや原理がこうだからこうだという機械的な思考はそろそろやめて、まじめに文化としてどうあるべきか? って話をするべきじゃろうな。ま、それが美学の問題ってことなんじゃがな。

(註1)柄谷行人『倫理21』を読む、臨場哲学Vol.33(2000年3月)     http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/WEBZIN/hirumas33.html
(註2)「La Vue」7号掲載(2001年9月)
(註3)臨場哲学通信 Vol.76(2002年7月)     http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/RIN/head76.html
(註4)「La Vue」8号掲載(2001年12月)
(註5)ひるますヘッドライン 第30号(2000年2月)     http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/HEAD/head30.html
(註6)小室直樹『悪の民主主義〜民主主義原論』書評、臨場哲学Vol.32(1999年11月)   http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/WEBZIN/hirumas32.html

■プロフィール■
(ひるます)1961年、岩手県生まれ。マンガ家。単行本『オムレット―心のカガクを探検する―』(広英社刊、1999年)のほか、商業誌掲載作品に「平成大逆転男」「黄昏まで3万マイル」(いずれもコミックモーニング)がある。HP「ひるますホームページ/臨場哲学」で書評・エッセイ・デジタルコミック等を発表中。http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/ E-mail:hirumas@cancer.bekkoame.ne.jp





■ご 案 内■


合評会の案内と「La Vue」12号の予告

編集部



       ■「合評会」
       ■対 象:『LaVue11号』および『カルチャー・レヴュー25号』
       ■日 時:2002年10月20日(日)の午後2時より5時まで
       ■場 所:るな工房/窓月書房。
       ■会 費:500円
       ■予 約:定員に限りがあるので、お早めにお申し込みください
       ■問合先:るな工房/窓月書房(TEL:06-6320--6426)
            予約は、こちらまで、YIJ00302@nifty.ne.jp


       ■「La Vue」12号掲載予告(02/12/01発行)
       ■3周年特集号《一読多読》
        ◎武田百合子『ことばの食卓』/内浦 亨(図書出版「冬弓舎」代表)
        ◎往還の湖――橋本康介『祭りの笛』覚書断片/今野和代(詩人)
        ◎マカール・ジェーヴシキンという性格/中島洋治(元編集者)
        ◎狂気なき狂気の現代 バタイユ『至高性』/宮山昌治(投稿者)
        ◎ありふれた平凡な自分とありふれた平凡なコトバ/安喜健人(編集者)
        ◎アンケートの回答



■編集後記■
★今号は2本の長文の論考を寄稿していただいたので、一挙掲載にするため通常号より掲載本数を減らしました。共にアクチュアルで論争的な内容になっています。
★村田氏の論考を読みながら、テクストの読解における「態度」と「誤読」の有り様とは何かを思いめぐらした。たとえば文学テクストにおける読者の「創造的読解/創造的誤読」は、作者を超えて作品の可能性を広げることもあるだろう。自然科学論文の場合は追試によって、その理論や成果が検証されるが、そこでは厳密な実験方法と観察者の態度や認識が問われる。同じように「人文批評」においても、厳密な読解と批評者の態度と認識が問われると思うが、それ故にか? また「誤読」の不可避性にも思い当たる。
★今号の2本の論考では、共に竹田青嗣の柄谷批判が採りあげられている。竹田は柄谷の問題提起に時代的な本質力があることを認めながらも、柄谷の方法は「あるべき崇高な理想=超越項(市民社会の外部)」からの発想であり、そのような発想では人々を暗黙のうちに超越項を後ろ盾とする義の立場に立たせ、現実の全体を善悪の二項対立に引き裂くだけで「近代市民社会」の原理を超える代替原理足り得ていないと批判している。そのように柄谷を読解する竹田は、そのような方法では、その「あるべき崇高な理想」がその理想を共有しない者にとっては抑圧の真理に転化すると言いたいのだろうと憶測する(竹田の論考では、そこまで書いていない。因みに私は「トラクリ」を精読していないので竹田の読解の当否は問わないが、村田氏が書いているように柄谷を素材にしながら竹田の「市民社会論」との自己対話になっていることは確かだ)。
★だが仮に竹田の言うように柄谷の「理想」が超越項だとしても、私たちはその「理想」をさまざまにある可能性の理想のひとつに引きずり降ろして、対話・批判して練り上げてゆくことを始めればよいだけのことだ。そして、竹田が言うところの、歴史的社会制度の一段階としての本質をもつ「市民社会のルールゲーム」ならばこそ、それは歴史的限界を有している。竹田じしんもそのことには自覚的なのだから、そのルールゲームを乗り超える、新たな原理を「市民社会内部」から編み上げていくべきだろう。(黒猫房主)




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