人間的実存を、徹底して「移動」という概念で読み解く、これが本書のモティーフである。(そして著者の思惟も又、現代詩・現代思想のフィールドを縦横に「移動」していく。) 「移動」するのは、空虚な点では勿論無く、実存が「言語によってとことんテクスト化された存在」である以上、「移動」の結果生ずる「出会い」は、テクスト間の相互作用であり、各々の項はその結果、新しいテクストとして織り込まれざるを得ない。そうした状況の端的な例として著者は恋愛を挙げるが、それは男性(著者?)にとって女性とは絶対的な他者であり、大いなる謎であるからだ。 「書くこと」もまた、「内面の迷宮を他者の目にさらす」という側面において、「出会い」の端的なあり方の一つである。だから、「書くこと」は、更には思考の行為そのものが、絶えず「移動」だといえる。 そして、その「移動」は、決して「たどり着くべき未来に投射された場所」を持たず、言い換えれば、「現在」とは、「生の倫理」を引き受ける唯一のトポスとして、常に「途中」なのである。 しかしそのことは、決してニヒリズムを招来するのではなく、「途中であること」の今日的普遍性が、むしろ「世界的同時代性」へと繋がっていく。そうした視座から、著者は国家や母国語の枠内に閉塞してしまわないエクリチュールの創造へと、詩を、文学を、思想を鼓舞しようとしているのであり、その姿勢には大いに賛同したい。 (「書標」99.01号掲載) |
「オリエンタリズム」の著者サイードのもう一つの代表作の、待望久しい翻訳。 文学研究なるもの、概して個々の作品を文学史という時系列の中で捉える事に終始し、時代状況(=世界情勢)との関わりの中で捉える事は少なかった。サイードは、そうした文学の聖域化を排し、世俗的世界との所属関係(アフィリエーション)の中で、文学作品を読み解いていこうとする。 そうした構えのもと、ディッケンズ、コンラッド、ジェイン・オースティン、キップリング、カミュらの小説に、サイードいわく「対位法的」読解を施したとき、それらの小説の時代背景(というより、ひょっとしたら小説というジャンルそのものの成立の背景)である「帝国主義」(=植民地の存在)が、抜き差しがたく織り込まれているさまが、明らかになってくる。ある場合は、「帝国主義」の残忍さに異議が唱えられ、ある場合は植民地の存在はプロットの背景として簡単に触れられるに過ぎないが、どんな場合でも、作品と「帝国主義」の所属関係(アフィリエーション)が色濃く刻印されているのだ。「西洋/非西洋」という創られた図式、それが「文明/未開」、「正義/不道徳」といった図式に容易に変遷していくこと、植民地が永遠に続いていくだろうという根拠も反省もない予感、それらのものを共有する文学と「帝国主義」は、互いに滋養・強化する共犯関係を免れないのである。 勿論、サイードの目的は過去の断罪などではない。「世界の警察」を自称する超大国が存在する以上、その問題意識は極めて今日的なものなのである。 (「書標」99.02号掲載) |
近代曙期の所謂「科学革命」を経て、加速度的に進歩した自然科学が知における圧倒的な地位を得、その趨勢が現在にまで至っていることは、衆目の一致するところであろう。しかし、その「科学革命」とはそもそも如何なるものだったかについては、評価は定まっていない。 ロムバッハは、「暗黒の中世」から「近代の目覚め」といった表層的な評価は全く認めず、それじしん筋の通った中世の世界構想の崩壊と解体のあとに初めて可能であった有論的な転回として捉える。しかも、その崩壊と解体は、中世的な世界観の内側から生じたものであり、神をその全能と完全さゆえにむしろ世界から解放しようとした唯名論、そして最も単純な統一である神と諸事物の媒介として「世界」を措定するクザーヌスが、決定的な節目とされる。そうした「世界」概念のもとでは、諸事物は最早実体ではありえず、他の全ての諸事物との関係の中でしか捉えられないからである。ここにこそ、機能主義の萌芽があり、それは徹頭徹尾数学的な自然科学を準備する(古代ギリシアと近代における数学と物理学の関係の対照性は、鮮やかなばかりだ)。 しかし、ロムバッハは、こうした転回を必然的あるいは進歩的なものと捉えているわけではない。そこで生じているのは認識理想の転倒であり、精密科学は「認識への期待を減少させることによって始まる」とさえ断じているからである。 実は、機能主義的な「体系」有論の後には、「構造」有論と呼ばれるものが用意されているのだが、原著の前半部の翻訳である本書においては、示唆されるに留まる。後半部の翻訳も、期待したい。 (「書標」99.03号掲載) |
「いやぁロッパ(一八六八)さん」の掛け声一つ、一夜にして日本に「近代」がやってきた訳では勿論ない。「黒船到来」(より正確には漂流民渡航)から明治中期に至るまで、日本がどのように「西洋」を受容し、「近代」化していくかを、本書は、興味深いエピソードとともに、丹念に辿っていく。 蒸気船、鉄道、自動車、電信柱、小学校(学制ならびに建築物としての校舎そのもの)など、さまざまなモノたちが日本に上陸し、日本を「近代」へとシフトさせていった。と同時に、それらのモノたちを「眼差す」ことによって、日本のひとびとの意識もまた、「近代」人のそれへ変化する。時間観念そのものが変わり、視覚さえもが、車窓の外の流れる風景を眺めうるべく変化していったのだ。 一方、外国語との出会いが、それを鏡のごとくして「日本語」というものの生成を促がすことになったように、「西洋」需要期は、同時に「日本国」の確立期でもある。明治天皇巡行がその後を追うことになる全国の鉄道敷設が、その役目を大いに担ったのはいうまでもない。その鉄道が、主人公の空間的な移動を必要とする「近代」小説をも生んだ。「舞姫」や「三四郎」が、移動中の船や汽車の中から始まっているのは偶然ではない。 この時代について一度検証しておきたいという文学研究者・武田の直感は正しい。小説という文学形式と帝国主義=植民地支配との深い関係は、サイードによって明らかにされた通りであり、この時代の日本は、いわば陰画として、それを正確に写しているからである。 (「書標」99.04号掲載) |
「小さい頃から私は娼婦に憧れていた」才色兼備な女性のこの告白は、そそる。 といって、それは決して意外な告白ではない。気持ちはよくわかる(男のぼくにも?)。人生のある時期、天真爛漫な「生」の肯定性が、「性」そして/あるいは「死」によって判断停止に陥り、同時に自らの「存在理由」への問いが生じてくるのは、性差に拘わらず万人に訪れる経験であり、「娼婦」はその答えのひとつであり得るからだ。「娼婦」=罪悪/「処女性」=貴重という図式は、アプリオリなものでは勿論無く、一定の社会制度の下での価値観に過ぎない。 「それではなぜ、私は結局売春をしなかったのか。」著者は更に自問する。昨今流行りの「援助交際」論なども視野にいれながらたどり着いた答えは、「私」がこの社会を(快適に)生きていく上で、結局は「愛」という制度から逃れ得ないというものである。この結論に、特に斬新さは、ない。 面白いのは、レディースコミックからAVまでも俎上に乗せ、男と女の「セックス」や「エロティック・ファンタジー」のあり方の落差を徹底的に洗い出していく後半部である。常に主語が「私」であることが重要であり、それが議論に説得力と迫真性を与え、また、そそる。 ただ、意識して一人称に徹した本書のそそり度が、ほぼ三人称で通した前著「私の居場所はどこにあるの?」とそれほど違わないのは、執筆に当たってのかなりの決意を仄めかす著者としては、不本意か?「チラリズム」は飽くまで「視る」側=男のファンタジーだから。 (「書標」99.05号掲載) |
タイトルからメディア論を想像しても、全く間違いではない。通読した後も、基本的にはその意見に変わりはない。ただし形容詞が付け加えられる。「恐るべきメディア」論と。 括弧のつけ方でわかっていただけるだろうが、恐るべきなのはメディアそのものなのだ。メディア=運び手とする古典的な定義においては、常に運ばれるものが前提とされる。思想と呼ばれるものであったり、文学と呼ばれるものであったり、それら運ばれるものが主役であり、更にはそれらを創造する主体が、主役であった(今となってみれば、全きトートロジー)。ところが、本書において、レコードの溝と頭蓋骨の溝、録音再生と記憶とのアナロジーが論じられるに至って、「能記/所記」のせめぎあいにおける能記の優位が揺るがされるどころか、「/」が両項を凌駕してしまうのだ。 死すべき人間の営為も精神も、残るとすれば文書館にである。しかしながら、残され方は時代ともに変化する。口承伝承、手書き文字、印刷、タイピング、コンピュータ入力、動作としては全く違うこれらに何らかの連続性を見出すのは、「言葉」への信仰ゆえか?逆にそうした連続性への幻想がその信仰を生み出したのか?本書に、ヘーゲルが、ニーチェが、ハイデッガーが、それぞれの役割を担いながら顔をそろえているのは、勿論偶然ではない。 (「書標」99.06号掲載) |
「死産される日本語・日本人」の酒井直樹と、「戦争論」の西谷修のスリリングな対談。 フランス現代思想の翻訳・紹介に尽力してきた西谷と、アメリカの日本研究の現場にあり続けてきた酒井の話題は、「移民の国=アメリカ合州国」の「ナショナリズム」(=マイノリティの夢の国)や「ヨーロッパ」という概念そのものの実態に端を発し、様々なテーマに縦横無尽に展開されていく。宮古島という場所のアンビヴァレンス、宮沢賢治とハイデッガーの微妙な関係、「フマニタス(=ヨーロッパ)/アントロポス(=非ヨーロッパ)」という図式を持ち続けてきた「人類」概念…。 中でも面白いのは、江戸期に初めて、「翻訳」の萌芽が芽生え、それと同時に「日本語」が生じ、明治期の西洋受容と並行して行なわれた翻訳語の確定と発明が、「日本語」を、そして「日本語」による支配体制そのものを確定していったという議論である。そうした議論を前提とした西田哲学の再評価の可能性(例えば”Subject”を主語、主観、主体、基体、隷属と訳し分けなければならないそのこと自身の可能性)も意義深い。 半年近くにわたって繰り広げられた対談の最中にルジャンドル(「ロルティ伍長の犯罪」=西谷修訳の著者)という共通の興味対象を見出していくことも、本書にダイナミズムを与えている。 対談形式が陥りがちな、「語り手/聞き手」の図式や、平行線を辿る議論に堕していないのは、二人がそれぞれの仕方で、「他者」を「主体」を形成する前提として意識しているからだろう。 (「書標」99.07号掲載) |
ここに、「格闘」を見る。 「ルネッサンス」も又、単なるギリシア・ローマの模倣ではなかった。千何百年にもわたるカソリック支配を通った上で、さまざまな技術的進歩を経た上での「再生」=「革命」だった。松本氏の「ルネッサンス」宣言もまさにそうだ。「出版物」という、自らの存在を成立させているとさえ言える商品を脅かすやもしれぬコンピュータの出現と成長(=情報革命)を逆手に取って、「書籍」という名の商品を売っていこうという試みだから。 それを「格闘」と呼ぶのは、言うまでもなく、敵を味方に、味方を敵にしてしまうようなダイナミックな戦場だからだが、そんな戦場で我々が武器とするのは、システムに対するコンテンツ(内容)のある意味での優位さであり、それこそが、出版業界の歴史の持つ、唯一の強みである。そうした状況は、ヘンリー=フォンダが、僅かに残った補給基地の燃料のドラム缶で、ロバート=ショーの戦車隊を全滅させた「バルジ大作戦」を想起させる(我ながら狂おしいが)。 所謂「知」や、具体的には「文学部」という存在そのもののバブリーさを冷静に語りながら、なおその存在意義を否定しない、それを支援してきた書籍出版のありようも、商業主義で否定し切りはしない、但し現状維持的な戦略展開では決して存続し得ない、だからこそ提案したいという「前書評」や「投げ銭システム」というコンピュータを利用しての戦略、松本氏の「格闘」には是非参戦したい。 (「書標」99.08号掲載) |
これまで、哲学は、語り過ぎてきたのではないだろうか?むしろ「聴くこと」の哲学を、あるいは「聴くこと」としての哲学を志向すべきではないだろうか? 鷲田氏のこの構えは、充分魅力的で有意であり、かつラディカル(それゆえ反哲学でありながら勝れて哲学的)である。 〈わたし〉が 〈わたし〉であるのは、様々な意味において他者あればこそででであり、この根源的(ラディカル)な事態が、反省(モノローグ)からは明らかにならないからである。 こうした構えから模索される〈臨床哲学〉は、哲学にかかわる者が特定の「だれか」として他者に遇う場面で立ち現われる。そこには遇われる他者の偶然性も含まれる。両者にはその都度ある〈間〉が生じる。聴く、遇うという行為は、この〈間〉に足を踏み入れる行為であり、おのれの同一性の外に出ることなのだ。 だから、そこには常に傷つきやすさ(ヴァルナラビリティ)が付き纏う。それは、他者の痛みを自らに引き受けることでもある。もてなし(ホスピタリティ)、即ち他者を迎え入れる行為においては、異邦人が共同体の論理に合わせてくるのではなく、むしろその逆なのだ。人間(ヒューマニティ)、謙虚さ(ヒューミリティ)、卑しい(ハンブル)という語が、同じ腐蝕土(フムス)を語源としているというのも示唆的だ。 こうして〈臨床哲学〉は、われわれが苦しむひと(ホモ・パティエンス)であると知る。そして、他者をそのままそっくり肯定する。焼け跡の明るさが、そこにはある。 「聴く」が如く静かで暖かく、それでいてラディカルな語りに溢れた好著。 (「書標」99.09号掲載) |
インターネットの普及が言葉の大氾濫をもたらし、テクノロジーの加速的な発展が世界大の標準化、統一化をもたらす。 その一方で、人々はかえって言葉に飢え、規格化を嫌ってすべてを差異化し個別相で見ようともする。こうした二つの顔を持つ現代の時代的状況を、繰り返し国際会議に招かれ、又みずからそれを組織してきた哲学者である著者が、時にはエッセイ風に、時には熱っぽく論じる。 近代化がヨーロッパ化と殆ど同義である以上、今では全ての国が内なる異国を孕んでいると言っていい。世界は今や常に自己の文化的アイデンティティが問われる「インターカルチャー世界」であり、その状況は、インターネットや多国籍企業の広がりが加速し続けている。そうした様が、例えば翻訳の問題などを通して(自動翻訳ソフトなどが登場するのも興味深い)具体的に叙述される。 翻訳の困難は同時にその可能性でもある、壁が同時に通路でもあるように。 こうして、著者の眼は現状分析から今後日本が担うべき役割に振り向けられる。富国強兵型・経済大国型の過去を乗り越えて世界文化の多極化を促がすような文化創造型へ。内に「静寂」を持つ創造的な活力を語る時、著者は勇ましくさえあるが、そうした役割を日本はかつて経験したことがない。「超近代」を語る時、戦前の「近代の超克」論争が想起されるのは自然であり、むしろ海外から再評価されているようなのは嬉しいが、これも功罪を正確に見極めて論じるべきだろう。 だが、徒に閉塞状況を嘆いているのも建設的でない。著者の姿勢を支持したい。 (「書標」99.10号掲載) |
本書を開き、読み辿ったのは、模糊とした道だった。パレスチナへの「帰郷」で出会われたり、言及される多くの著者の知人達が、ぼくになじみの無い人達であるまま説明もなく通り過ぎ、著者の訪れる土地土地の位置関係もよく把握できないまま、旅程が、即ち文章が進んでいくのが大きな理由だろう。 しかしこの模糊とした感じは、長らくパレスチナの為に身の危険も顧みず歯に衣着せぬ発言をしてきた在米パレスチナ人である著者サイードが、自らの病気(白血病)の宣告を機に政治の世界から距離を置こうと決意した後の無力感と鬱屈した気分を、そして又オスロ合意以降の、ユダヤ人入植地を結ぶ道路で寸断されたパレスチナ自治区の惨状を、おのずから見事に反映しているとも言える 現在の見せ掛けの「和平工作」、今やその元凶とさえ言えるPLOやアラファトへのサイードの怒りは激しい。サイードの目指すのはユダヤ人とパレスチナ人が互いの歴史を認識し合い真に和解して共存することであり、土地の分断などでは決してないからだ。それは、ホロコーストとイスラエル建国の共通性と連続性を認識し、そのいずれもが暴力を正当化できないことを確認する作業なのだ。 九二年にサイードに連れられて二〇歳で初めてパレスチナを訪れた息子ワディは、自らの意志でアラビア語を学び、九六年には現地NGOで働く彼が、逆に父親を迎え案内する。その生き生きした姿をさりげなく描くことで、著者は、バトンの静かだが確かな受け渡しを暗示しているのかもしれない。 (「書標」99.11号掲載) |
「ジェンダー化する哲学」は、自らのジェンダー(主に女性)をたえず振り返りつつ、ジェンダーの権力作用による構造化を明らかにしようとする。それは、昨今の様々なフェミニズム理論の成果を踏まえた、極めて現代的な作業である。 その一方、このタイトルは、哲学がこれまで、恒にもう一方の側のジェンダー(男性)化を宿命づけられていた事実を、(勿論批判的に)示唆してもいる。 思えば、近代社会の到来を高らかに告げた「人権宣言」の「人権」は、あくまで男性の権利であり、女性の様々な権利は封殺されたままであった。参政権の獲得にも一世紀以上の長きを要したのである。そうした歴史を無視して、「価値中立」的、表層的にジェンダーの現在的状況を論じるのは、他の多くの「過去の忘却」と同様、犯罪的であると言える。 本書の諸論文が明らかにしているように、哲学の歴史において、文化/自然、精神/身体、理性/感情、崇高/美といった様々な対立図式が創造され、暗に陽に男性/女性という対立図式と重ね合わされてきた。この構造からの脱却には、それぞれの図式の非対称性(前項の後項に対する優位)と、今言った「重ねあわせ」双方への批判が要求される。この複雑性が、「本質論」と「歴史研究」との間を揺れ動くフェミニズム思想の困難を招来すると共に、ポストコロニアル思想などとの連帯を可能にしていると言える。 「戦争と殺戮の世紀」から「共生の世紀」へのジャンピング・ボードたらんとする本書の編著者たちの志を、共有したい。 (「書標」99.12号掲載) |