著者が「はじめに」で語るように、ヘーゲル『法の哲学』ほど激しい毀誉褒貶にさらされた書物も珍しい。それは、ヘーゲルが生きた時代の激しさを、その時代が孕む様々な困難を反映している。 その困難を、現代社会も共有している。だからこそヘーゲルの問題意識は、現代のリベラリズムが格闘するアポリアとも、しっかりと通底しているのだ。 著者とともにヘーゲルに共感するのは、観念論哲学の完成者と名指される彼が、徹頭徹尾現実と対峙していたことである。そしてややもすれば国家主義者と見られる彼が、実は近代市民社会、そしてそこにおいてようやく得られた個の自由を徹底的に追求していたことである。 ヘーゲルのリアリズムは、個の自由の追求が、言い換えれば欲望の体系としての近代市民社会が必然的に矛盾に陥ること、そして一方で伝統的な倫理とのあいだに齟齬をきたすこと、その両面を冷静に見て取る。その上で、その齟齬を乗り越えるには個の陶冶しかないと喝破する。それは「われ」が「われわれ」へと昇華することであり、「国家」とは、ある意味でそのための舞台装置でしかないのだ。 「自分に与えられた国家に不満を感じる人も決して少なくはない。それを自分に合うように、というより国家の場合は単に私だけではなく私たちに合うようにしていくことが必要だろう。」こうした著者の視座は、ヘーゲルの建設的な読み方として、まったく正しいと思う。 (「書標」05.06掲載) |
森達也は、モザイクを使わない。 モザイクは、共同体に埋没することで現われる思考の停止や集団の無自覚な残虐性を、再び埋没させることになるからだ。「客観性」や「公共性」、「プライバシー」の名のもとに、森はモザイクの使用を求められ続けた。だが、森にとっては、モザイクを使わないことを了承してもらえるような関係性を被写体との間につくりあげることこそ、ドキュメンタリー製作において最も重要な仕事なのだ。 被写体の事情や都合を最優先順位におくのならドキュメンタリーは成立しない。キャメラを回すという行為は即座に他者のプライバシーを侵害し、キャメラの存在自体が「現実」に介入してしまうからだ。それでもなおドキュメンタリーを撮り続けるには、理屈抜きの「エゴ」を肯定するしかない、と森はいう。 ドキュメンタリーが描くのは、「客観的な現実」などでは決してない。作る者の主観と、被写体との関係性なのだ。ドキュメンタリーは、「報道」とは正反対の属性を持つ。だが、わかりやすさばかりが優先された情報のパッケージ化をマスメディアが一様に目指す状況だからこそ、曖昧な領域に焦点を当てるドキュメンタリーの補完作用は、今後ますます重要な意味を持つ、と森はいう。 「まずは現実を知ること、そして知ったうえで煩悶すること。僕の作品はいつもここで停まる。なぜなら僕自身がその先に到達できないのだから。」 テーマは、「目を逸らさないこと」。だから森は、モザイクに抗い続ける。 (「書標」05.05掲載) |
“現代(の若者)文化における二つのアンチノミー、つまり「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」(『電車男』)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)というアンチノミーがいかにして生成したのか”、その解明が本書の課題だ。 そのために北田は、時代を少し遡り、連合赤軍事件から稿を起こす。彼らの徹底的な反省=自己否定=総括を反省するものとしての「コピーライターの思想」(70年代・cf糸井重里)、その前世代への抵抗にも抹消線が付される「無反省」のあり様としての「純粋テレビ」(80年代・cf「俺たちひょうきん族」)、そして超越項としての「ギョーカイ」さえ失効させる「シニシズム」(90年代・cf「2ちゃんねる」)へと「アイロニズム」が弁証法的に変遷していく結果として、先のアンチノミーが生成した、と北田は読み解く。本書は、70年代以降の日本に時空を限定した、「精神現象学」なのだ。 もちろん、北田もまた、そうした精神史の中の一つの世代に属している。一世代上の大澤真幸が、「自分もオウムだったかもしれない」という可能性に拘っているのに対し、北田はナンシー関に拘る。 一方で、世代を鳥瞰する作業には超越的な視点が伴ってしまう。そのことにおそらく北田は気づいている。だから、宮台真司の「変節」に社会学者としての真摯さを見、自らの「戦略」をそれとパラレルなものとして語るとき、少し「及び腰」になるのだろう。だが、決してそのことを批判しようとは思わない。言説のエネルギーは、自覚的に困難を引き受ける姿勢からこそ備給されるからだ。 (「書標」05.04掲載) |
「西洋哲学」の2500年を鳥瞰し、古代と現代における「二度の溺死事件」を指摘、「哲学」に向かって「お前はもう死んでいる!」と引導を渡す。この身も蓋も無さが、須原一秀の真骨頂である。 その一方で、正に「哲学」が誕生した古代ギリシア世界は、情報化された国際商業都市の中で、価値観が多様化、伝統的倫理が衰退し、「まさに、現代と同じ状況」だったことを見て取る。2000年以上時を隔てた世界が、共に「民主主義」を基本的な政体とする所以だ。 同時に須原は、肯定主義と自由主義的個人主義が必然的に生み出す、猥雑と悪趣味と犯罪が多少はびこる社会においてしか、「民主主義」は機能しない、と言う。 「高潔な理想」は「民主主義」の敵だという指摘には同意するし、栄華も悲惨も名誉も没落も経験しうる前進基地に投げ出されている現代人の状況を、「元気のある人にはワクワクするような状況」と呼ぶ須原の姿勢には、心から共感する。 しかし、だからといって、「西洋哲学」は民主主義と肯定主義の敵だ、と断言すること、言い換えれば「哲学」は死んだ、と宣言することについては、留保したい。「哲学」はその語源を辿れば「愛知」であり、その言説が常に、須原の言うように全面性と一般性、そして厳密性を要求したとは思わないからである。 「あとがき」の中で、「戦略的」な筈の須原自身が、「できれば哲学研究の成果を何ほどかでも活用して実社会や現実の政治に役立つ本を書きたい」と、うっかり(?)吐露してしまっている。 (「書標」05.03掲載) |
第一章で、カントとマルクスを架橋せんとした柄谷行人の『トランスクリティーク』を批判的に吟味したあと、竹田はまさに歴史的にも思想的にもカントとマルクスの「間」に屹立するヘーゲル哲学へ向かう。第二章で「精神現象学」を、第三章で「法哲学」を読み解く竹田は、「近代」にして初めて人間的欲望の本質となし得た「自由」をカント的な超越性から解放し、「自由の相互承認」としての「良心」に「精神」の最高の境位を見出すヘーゲルを、大いに評価する。 ヘーゲルの国家観を批判するマルクス主義は、深刻な「イデオロギー対立」をもたらした。それは「近代」がそもそも乗り越えようとした宗教的対立に似通っていて、「精神現象学」においては、「心の義」「徳の騎士」として現われる独我論的な「正しさ」の情熱の状態である。そのマルクス主義をも乗り越えようとするポストモダン思想は、実はヘーゲルが批判する「イロニー」の範疇におさまってしまう。ヘーゲルの思想に現代をも刺し貫くような射程の長さを見て取る竹田の読みは、同時に安易な「近代の超克」を誡め、十分な説得力と魅力を持つ。 唯一不満なのは、ヘーゲルの「法哲学」が結論的に「君主制」を目指したことを、「時代の制約」で済ませてしまっている点だ。ヘーゲルにとっては、そのことは論理的な帰結であった筈であり、ヘーゲルの論理との真摯な対決を更に望みたい。それは、現存の君主制を擁護するためでも、逆にヘーゲルを断罪するためでもない。「自由の相互承認」と「一般福祉」の実現という「近代」の「未完のプロジェクト」を推進するためである。 (「書標」05.02掲載) |
一読、「酔い醒めの水」を思った。
平易な表現で静かに語りかける透き通った文章と、ひかえ目ながら著者の思いを充分にくみ取った素敵な挿絵のコラボレーションが、直前に「ポスト・モダン」の迷路をさまよっていたぼくにとっては、この上なく清しく、「おいしく」味わえたからだ。(「酔い醒めの水」には、「下戸には分らぬ」という修飾が伴うことを、ほんの少しだけ危惧している。) 無味無臭であることこそ「酔い醒めの水」のおいしさだが、本書には菅野がこれまで取り組んできた社会学(ジンメル)や思想(竹田青嗣)のエキスが、サプリメントとして適度に溶け込んでいる。 「他者」とは、「私」にとって謎だらけの存在」と思い知り、なお幸福を求めていこう、〈生のあじわい〉を深めていこうとする意欲を持ち続けるだけの心の柔軟性を失わないことが大事であると菅野は言う。そのためには、まず自分の「弱さ」をしっかりと見据え、「傷つく」体験を通して〈耐性〉を高めていくこと、「自分を表現することへの恐れ」を少しずつ克服する可能性を求めること、そして、〈こうありたい私〉と〈いま・ここの私〉とのバランスを保つ「自分との距離」が、とても大切になる。 「愛の本」と題されるこの本には、不思議なことに、(引用部分や章題以外に)「愛」という言葉が、全く登場しない。しかし、卓抜な辞書の語意説明に決してその語そのものは含まれていないように、そのことは、本書がすぐれた「愛の本」たり得ている事の証しなのである。 (「書標」05.01掲載) |