『「不自由」論』

仲正昌樹著 筑摩書房 700円

書評者・福嶋 聡

 今さら近代的な「自由な主体」には戻れず、無秩序の中で「動物的」に生きることもできない「ポストモダン状況」において、“とりあえず”どういう態度を取ったらよいのか? 主題の立て方は簡潔明瞭にして、適切である。
 そもそも「自由」「主体性」「人間性」とはいかなることをいうのか。使われている言葉のほんとうの意味を掘り下げていくことは哲学の本道であるが、先の設問に対して著者が辿っていくこの道は、一見迂遠に見えて、実はことがらの核心に至る唯一の道である。
 「自由」概念が(奴隷制を伴った)古代ギリシアのポリスの公的領域で「物質的・生物的な欲求から解放されて」初めて生じてきたこと。「主体subject」になるということは、同時に、特定の公共的秩序「に従う〜be subject to」ことを意味すること。「人間性」概念には、コミュニケーションを進行させるための弁論術の技法があらかじめ組み込まれていたこと。改めて押さえておくべきポイントは多い。ルソーの「自然人」から、アーレント、コーネルまで、多くの言説が渉猟され、検討される。新書版という形態に似合わぬほどの満腹感が残る。
 概念の成立史や変遷の叙述に、「ゆとり教育」や医療現場での「自己決定」の問題など、今日的な話題も切れ味鋭く直交する。そうした立体的な構成に魅せられながら、「『主体性』とは『気短さ』に対して後から取って付けられた名称」で、「今求められているのは『自由な自己決定』への強制からの“自由”」だという著者の姿勢に、大いに共感した。 (「書標」03.12掲載)



『差異と隔たり』

熊野純彦著 岩波書店 3000円

書評者・福嶋 聡

 熊野純彦の言説は、徹底したリアリズムである。リアリズムという語が冠される文学、演劇、映画などと同様、そこには悲劇性と残酷性が伴う。
 世界にはたらきかける身体は、一方で病み老いゆくものであり、そもそも私たちはその始まりと終わりに関与することができない。時間は「消滅に責めあるもの」として悲劇的な性格を有している。断絶した過去が、にもかかわらず不断に私の現在を強迫する。
 だが、徹底的なリアリズムの上に立つからこそ、次の様な一見逆説的な言説も説得力を持つ。「所有そのものが、中断され宙づりされた破壊なのである。」「私が生命を所有するのではない。生命が、私を所有する。」「ことばにコードは存在しない。」
 「倫理がありうるとすれば、それはどのような条件のもとにおいてであろうか」熊野の最初の問いかけは、これであった。きれいに三角形が嵌め込まれた三部構成(身体・所有、時間・歴史、言語)からなる本書全体がその問いをたんねんに解きほぐしていくであろう。
 とりわけ第三部の言語についての考察が刺激的であり、かつ重要である。「ことばは他者に向けて語り出され、ことばによって私は他者から呼びかけられて、応答を迫られることになる…… 倫理とはまず〈他者への関係〉のことであるのなら、ことばとは〈倫理〉それ自身であるといってよい」からである。 (「書標」03.11掲載)



『未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告』

菅谷明子著 岩波書店 700円

書評者・福嶋 聡

 浦安図書館の常世田良氏、ひつじ書房の松本功氏らによって、「ビジネス支援図書館」の構想が積極的に主張されているが、そうした議論の嚆矢は「中央公論」一九九九年八月号に菅谷明子氏が寄せた「進化するニューヨーク図書館」だった。本書は、その菅谷氏による、最新のニューヨーク公共図書館レポートである。
 ニューヨーク公共図書館は、専門テーマに特化した資料提供を行なう四つの研究図書館と、地域密着サービスを行なう八十五の地域分館から成る。ビジネス支援はもとより、アーティストたちの情報アクセスへの支援、医療情報や「九・一一テロ」直後の情報提供など、地域住民にとって、図書館がなくてはならぬ存在であることがよくわかる。
 「公共図書館」という名称そのものが誤解を生じさせるかも知れない。日本で「公共」というと、「お役所の手によるもの」との印象が強いからだ。アメリカでは公益を担うのは市民であるとの意識が強い。だからこそ、「地域でどんな情報が必要とされているかを最も熟知している立場にある」司書が活躍できるのだ。
 カーネギーをはじめ篤志家の寄付が支えてきたことも事実だ。だが、それ以上に、小口の寄付の獲得、イベントや講座の開催が、図書館の運営を支えている。
 本書が図書館に関係する多くの人に読まれ、予算削減や公共貸与権の問題を超え、図書館の未来を構想する活力の源になることを期待したい。 (「書標」03.10掲載)



『シャルラタン 歴史と諧謔の仕掛人たち』

蔵持不三也著 新評論 4800円

書評者・福嶋 聡

 「シャルラタン」とは何か?  鳴り物入りの大仰な口上と共に市場に登場し、言葉の魔力で聴衆に「万能薬」を売りつける、「いかさま薬売り」である。自ら毒をあおり、或いは毒蛇に腕を噛ませ、「万能薬」の効能を証明するパフォーマンスも付随する。(日本伝統の「蝦蟇の油売り」に近しいといえるか。)
 それゆえ中世から近代に及ぶシャルラタンの伝統は、フランス演劇史とも深く関わってくる。(だから、本書にはラシーヌもモリエールも登場する。ついでに言えば、ラブレーやノストラダムスも。)多くは国王劇団が自らの特権を守るために権力者に禁令を出させるという形で。
 「シャルラタン」とはフランス史における「異端」の典型なのだ。「異端」は、「正統」(たとえば大学の「お墨付き」を貰った医師)を確立する原動力でもある。その結果、自らの存在を危うくせしめるのだが、民衆的な眼差しは、必ずしも権力側のそれとは重なり合わない。  だからこそ、民間療法や健康法の中に、今日でも「シャルラタニズム」は棲息しているのだ。「癒し」という言葉が、今ほど求められたことはない。
 本書のテーマは、フーコーの権力理論やカルチュラル・スタディーズの文脈とも通底する。著者自身実はそうした領域への興味をもちながら、550頁を越える大著のどこにもそうした知見をひけらかさず、「フランス民族学」の城内に踏みとどまる。いたずらに「クロス・オーヴァー」が称揚される中で、著者の姿勢はむしろ新鮮で、好もしい。
(「書標」03.09掲載)



『レイアウトの法則 アートとアフォーダンス』

佐々木正人著 春秋社 2300円

書評者・福嶋 聡

 「人間の運動を記述するということに興味を持っていて、実物に近い記述をしたい」と言う佐々木の本書冒頭の論文は、まさに舐めるような描写で、さながら現代詩を読んでいるようでもある。
 だがその記述が「レイアウト」に収斂していくことに気付いた時、そして「レイアウトというのは周囲にある具体のことである。」という一文が腑に落ちた時、パッと明るいところに出た気がした。
 続く絵画、写真、建築、ブックデザイン、映画を巡るいくつかの対談の中で、「レイアウト」のイメージがどんどん具体的なものとなっていく。第1にサーフェス(表面)のレイアウトに利用できる意味を貪欲に探す、第2にサーフェスのレイアウトを修正する、そしてもともとサーフェスになかったものをサーフェスに刻む、「人間なんて偉そうにしていますが、3種の修正をサーフェスに続けているだけ」という佐々木の言葉に納得できたとき、アフォーダンス理論における「肌理(きめ)」、「縁」、「包囲光」などの意味と意義が、ようやく理解できた。
 佐々木の論文に対談部分が挟み込まれ、更にその間に論文や対談に関連するアートの写真が挟み込まれる。注の位置取りが特に印象的な各頁、目次や扉のレイアウトがとても素敵な本書の構成そのものが、「レイアウト」の遍在を実感させる。
 そのブックデザインを担当したのが対談相手の一人、鈴木一誌氏なのである。「クラインの壷」を連想させる「凝ったつくり」が、本というメディアの魅力を満喫させてくれる。 (「書標」03.08掲載)



『カルチュラル・ターン、文化の政治学へ』

吉見俊哉著 人文書院 2700円

書評者・福嶋 聡

 何よりも、「カルチュラル・スタディーズ」の成果の豊穣さを理解して欲しいという著者吉見俊哉の思いが、痛切に伝わってくる。それは決して「カルスタ」と揶揄的に述べられる(読みもせずに差別される)ようなものではない。
 「カルチュラル・スタディーズ」の方法論を論じる第I部、グローバル化のなかでの文化と空間の変容に焦点をあてる第II部で、近代における「文化」概念の成立そのものを問い返す「カルチュラル・スタディーズ」の今日的な有効性が、説得力をもって主張される。
 「メディア天皇制」とナショナリズム、スポーツについて展開される第III部、現代日本のメディアの状況と直接切り結ぶ第IV部の諸論文は、「カルチュラル・スタディーズ」への無理解が「この知的実践の中核をなすべき多様な批判的エスノグラフィーが、いまだほとんど書かれてはいない状態の反映でもある」という吉見自身の認識を背景に、そうした状況への抵抗の具体的なかたちとして、充分に読み応えのあるものである。
 であればこそ、タイトルにも採られた「カルチュラル・ターン」に異議を申し立てたい。「社会理論のパラダイム転換とグローバル資本主義の新たな文化的構制を同時に指し示す」と説明されるこの概念の二重性には、どうにも無理があり、必要以上に議論を複雑にしているように思える。それは、「人々の日常的な文化実践の場の政治学であり、同時に詩学」である「カルチュラル・スタディーズ」の複雑さにも通じるか。 (「書標」03.07号掲載)



『生命40億年全史』

R・フォーティ著 草思社 2400円

書評者・福嶋 聡

 カントは、壮大な自然を前にした人間が抱く感情を表わすのに、「崇高」の観念をもってした。本書の描く、途方もない時間に及ぶ生命の全史によって、読者はまさにその「崇高」の感情に襲われる。
 生命の全史は、壮大であるだけでなく、劇的な要素も多い。極端に高温の生育環境でなければ生きられない、すべての生物の共通祖先にとって、酸素は致死的な毒物だったこと。協同と共存はごく初期の頃から生命の特性だったが、いったん生物界に導入された競争原理の支配は、いまだに生物界の隅々におよんでいること。進化は、同時に絶滅の歴史でもあったこと。生物の変遷には、気候の変動、大陸の移動、隕石の衝突といった環境的動因が、決定的な役割を果していること。「交響的な和音を奏でながら、その場に居合わせるものの全員を否応なく踊りの場に引き込むようにして変貌をとげていった」生命の全史は、実に壮大なドラマなのである。およそ「勝ち目のないギャンブル」だった「発生」から、脈々と、したたかに、生命は勝ち抜いてきたのだ。その結果として、ぼくたちもある。
 壮大なスケールのテーマを担う480頁近い大著を読者が飽きることなく辿れるのは、著者のユーモアとウィットに負うところも大きい。「科学者もその研究対象とだんだん似てくるようだ。ときには名前まで一致していたりする。…植物学者にグリーンさんやブッシュさんが多いのも驚きだ。」という件があるが、「生命40億年全史」の著者の名前がフォーティであるのも、恰好の実例か。 (「書標」03.06号掲載)



『神聖家族』

山口 泉著 河出書房新社 2500円

書評者・福嶋 聡

 《禁作家》酉埜森夫の未発表中編小説の、刊行委員会による公刊という形式が、「ユートピア小説」の伝統を連想させる。「千里眼」の「超能力者」水藤セツを北関東の果てに訪ねる「私」=十滝深冬の2度の道行きが、コンラッドの「闇の奥」、それゆえコッポラの「地獄の黙示録」を想起させ、水野セツが、在日朝鮮人の老女、「不法滞在」の若いアジア女性、不治の病を抱えた幼女、実母から離れて暮らす小さな男の子と形成する「神聖家族」に出会うとき、その連想は更に強まる。
 しかし読者は、そこに「ユートピア」を見るわけではない。水藤セツの「神聖家族」は、(恐らくは「神聖家族」にふさわしく)外部からの迫害を日常的に受けている。水藤セツの過激な「血縁」への憎悪に、深冬が執拗に反論するさなかに、「事件」は起こる。  そして「事件」後のセツの余りに無謀な企図に、深冬が強く異議を申し立てた直後に、物語は意外な展開を見せ、更なる「悲劇」を紡ぎ出す。
 「悲劇」の原因をセツ自身に帰し、激しい非難を投げつけて別れた深冬に、ある日セツから一本のカセットテープが届く。そこで「語られる」セツの重大な秘密を聞き終えた深冬がセツとの再会を決意して、物語が静かに幕を閉じる時、セツの語る「闇」の「共和国」の可能性=「人間同士の新しい結びつき」の夢への、絶望的な状況下での微かな「希望」を、読者は著者山口泉と共有することになるであろう。 (「書標」03.05号掲載)



『可能性感覚』

大川 勇著 松籟社 4200円

書評者・福嶋 聡

 ムージルの「特性のない男」が、第一である。その中で、「存在することも可能であろうすべてのものを考え、存在するものを存在しないものよりも重要視しない能力」と定義された「可能性感覚」を跳躍台として、第二ともいうべきライブニッツの「可能世界論」に到る時、本書は人類の豊穣な知的遺産を鳥瞰すべく導かれることになる。「可能世界論」は、「神」が創造したこの世界に「悪」が存在していることへの弁護=弁神論から要請され、その問題はアウグスティヌスへと遡り、古代ギリシアの宇宙論をも射程に収めるからだ。
 時代を下って、SF小説や、地球外生命の存在を追う科学的探求においても、「可能性感覚」は重要な役割を果たす。本書は、ムージルの「特性のない男」を起点としたハイパーテクストなのである。「可能性感覚」はまた、ユートピア小説を生み出す原動力でもあった。同時にそれは、現前する「ユートピア」の「唯一絶対性」を虚構として相対化する視角でもある。ナチズムとスターリニズムに挟撃される20世紀前半のオーストリア、そうした時代状況にあってある種(皮肉にも)必然的に、ムージルは「可能性感覚」を執拗に検討したのだ、ともいえる。「ありうるかもしれぬ『別の生』にむけてわたしたちを送り出す」原動力である「可能性感覚」を、やはり時代の閉塞感の中にあるぼくたちもまた、携えておきたいと思う。パンドラの匣に最後に残っていた「希望」とともに。 (「書標」03.04号掲載)



『待つしかない、か。』

木田元、竹内敏晴著 春風社 2200円

書評者・福嶋 聡

 哲学者木田元と演出家竹内敏晴の語りおろし対談。
 初対面であるという二人の対談が、すぐに淀み無く実り豊かな形で進行していくことには、三つの理由があると思う。
 一つは、三才しか年の違わない二人が、青春期に敗戦という経験を共有し、それぞれがそれぞれの形でいったん「絶望」を引き受けたこと。
 そして、竹内が自らの演劇実践の中で共感を深めていったメルロ=ポンティの著書の翻訳のほとんどに木田が関わっていたこと、即ち本を通じて二人が既に長い年月に渉って語らいあっていたこと。
 更には、十六才まで耳の聞こえなかった竹内の「自分のからだからことばがうみだされてくる」という体験、そこから生れる「ことば」に対する独特の感性が、「読書は完全に身体的なトレーニングだ」と言い切る木田の思考と見事に共振すること。
 「待つしかない」は、木田が生涯かけて取り組んできたハイデガーが、「つくられてある」と見る西洋の存在概念の変更を訴えて達した境位である。「『待つ』とは何もせずに坐っていることでなくて、仕掛けよう支配しようとすることを絶つこと、生起して来るものへ向って身を謙虚に保ちつづけることだろう」と竹内は言う。
 西洋近代的な世界観の限界を見据え、それに代わるものを手さぐりで探し求めながら、哲学と演劇が切り結ぶスリリングな現場である。 (「書標」03.03号掲載)



『負の生命論―認識という名の罪』

金森 修著 勁草書房 2500円

書評者・福嶋 聡

 「汚れた知」と題する第T部では、アメリカ南部、アラバマ州で1930年代に始まったタスキーギ研究が主題となる。それは、四百名余りの黒人の梅毒罹患者を、治療を施さずにその経過を見るという、結果的に40年の長きにわたった、いわば「消極的な人体実験」である。
 著者は、告発調の弾劾になることを、あらかじめ自戒する。そして事件発覚時の轟々たる非難に対する当事者や医学界からの抗弁―研究開始当時の治療的、経済的限界や医学史の流れの中での位置、他の人体実験との比較などをひとつひとつ検証していく。結論的には、「この研究は全体的に見て、ある種の〈悪〉を湧出していた」と著者は思うのであるが、すぐさま、「〈悪〉を感じ取る私の視線は、科学的文脈からは本性的に逸れたところから発している」と付け加える。
 徹底した唯物論者であり科学主義者であったル・ダンテクについて論じ、精神薬理学やLSDと20世紀の対抗文化に論及される第U部を併せ読んだあと、読者は次のことを改めて確認するだろう。
 科学の「進歩」は、(その本性上)ジグザグな道を辿らざるを得なかったこと、極論すればすべての医療行為は人体実験でもあること、凡そ「知」とはある種の暴力であり、そもそもリスクを伴なわない「生」などあり得ないこと。それでもなおかつ「生命倫理」の可能性を留保した上でこれらのことを再確認できた時、「資料自体がもつ凄みと、自分の想念の暗さにあてられて」「何度も筆を止め」ながら本書を「『最終的には』とても肯定的なものとして捉えて」いる著者へ、読者として応答できたかな、と思う。 (「書標」03.02号掲載)



『中味のない人間』

G・アガンベン著 人文書院 2400円

書評者・福嶋 聡

 『アウシュヴィッツの残りのもの』(月曜社)などが翻訳され、近年日本でも注目されてきた現代イタリアを代表する哲学者の処女作。弱冠二十八歳で上梓された本書はすでに、古代から現代までを縦断し、哲学、美学、政治学など広く学問分野を横断する、スケールの大きい、絢爛豪華なテクスチュアを織りなしている。
 柱となるテーマは、芸術だ。アガンベンによれば、芸術作品は、古代と近代でそのステータスが大いに変化した。カントの「判断力批判」を画期とする「美学」の誕生、あるいは近代の始まりとともに、ギリシア人にとって作品の本質であったポイエーシス(生―産)から、芸術家の遂行へと、アクセントが移行したのである。古代のポイエーシスが、真理を生産すること、およびその結果として、人間の実在や行動へと世界を開示することであったのに対し、近代の芸術作品は、ひたすら創造の天分に関わる。それらは、倉庫に蓄積された商品よろしく博物館やギャラリーに保存され、鑑賞者に「良き趣味」を発揮するための機会を提供することをもっぱらにするようになる。
 天才と趣味、芸術家と鑑賞者のあいだの亀裂こそが近代の特徴であり、趣味の誕生を、ヘーゲルは「純粋な教養」の絶対的な分裂と一致させている。
 アガンベンは、ポイエーシス(生―産)とプラクシス(実践)のせめぎあいを古代ギリシアにまで遡って論じながら、ニーチェとともに「世界は、芸術作品として自己自身を分娩するのだ。」と叫ぶ。その時我々は、芸術の古くて新しい相貌を垣間見るかもしれない。 (「書標」03.01号掲載)



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