『メタモルフォーゼ』

河本英夫著 青土社 2600円

書評者・福嶋 聡

 第三世代のシステム論といわれる「オートポイエーシス」は、実に難解である。それは物質と運動、運動と感知、運動と認識など、常にシステムが相互に還元不可能な二重作動を伴うことによる難解さである。そうした事態はそもそも言語や数式では表現不可能なのである。「認識によって届きようのない事態を、届きようのない限界点で描こうとしたのが、オートポイエーシスである。」と河本はいう。
 オートポイエーシスは、機械的な自動運動ではなく、「みずから自身を形成する運動」である。即ち「メタモルフォーゼ」の基本的な機構のひとつである。
 さらに、オートポイエーシスの「認識」、叙述という行為自体が、オートポイエーシスである。それは、「経験が新たな形成回路に入り、別様な経験を実行する」ことであり、「知のメタモルフォーゼ」といえる。だから本書を読むものは、単にそれを享受するだけでなく、自ら河本英夫とともに新たな経験の回路を体得しなければならない。それは一種の修行であり、苦行と呼べるかもしれない。
 読者がそうした苦行を自らに課してもなお余りあるのは、オートポイエーシスが拓く豊穣な世界である。それは、先行するシステム論はもちろん、アフォーダンス理論、「内部観測」論や、シェリング、ヘーゲルの自然哲学、ゲーテの構想とも「相即」する。「動物性の神経を備えた場合に、(植物の)感受に近いものを見出そうとすると、覚醒でも睡眠でもない目覚める行為そのものに行き当たる。」という叙述に、脈々と流れる生命の連鎖を感受することが出来るのである。 
  (「書標」02.12載)



『日本精神分析』

柄谷行人著 文藝春秋 1333円

書評者・福嶋 聡

 漢字、カタカナ、ひらがなという三種の文字を使って語の出自を区別している集団は、日本のほかには存在しない。日本に関して「精神分析」というべきものがあるとしたら、そうした文字の問題を抜きにしてはありえない。
 柄谷のこうした言語観、そしてそこから敷衍されるネーション=ステートについての議論には、充分説得力がある。日本では、いわば世界宗教による去勢が「排除」されたために、「自己」が形成されず、外来のものをすべて「造り変える力」を持ち続けたのである。
 そうした構造を芥川龍之介の「神神の微笑」に見て取った柄谷は、普通選挙による代表民主主義のパラドックスを菊池寛の「入れ札」に、貨幣のアンチノミーを谷崎潤一郎の「小さな王国」に読み解く。それは、自らの十年越しの仕事である『トランスクリティーク』(批評空間)の具体的な解説となり得ていると共に、文芸評論家としての面目躍如とも言える。
 だが同時に本書は、そのような理論的考察を経た後に柄谷が提唱する実践(=「NAM」)へのぼくの違和感も、鮮明に炙り出す。おそらくは三つの文学作品がそれぞれのテーマと向き合う目線と柄谷のそれとの相違にパラレルであろうと思われるぼくの違和感とは、柄谷が現在の政治・経済状況への代替案として「籤引き」や「市民通貨」を提出する時、「人間性を変える必要などはない。そのような人間が出てくる余地が無いようなシステムを作ればいい」と言い切ってしまうことへの違和感である。
  (「書標」02.11掲載)



『デジタルを哲学する』
黒崎政男著 PHP研究所 660円

書評者・福嶋 聡

 著者黒崎政男は、カント哲学を専門とする哲学者である一方、『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』(哲学書房)をはじめとする、コンピュータや人工知能についての著訳書でも知られる。その二本の柱の実は素朴な連環は、本書の「あとがき」を読めば、腑に落ちる。
 本書もまた、二つの柱で構成される。インターネット時代の到来とともに訪れた「知」と「情報」のせめぎあい、「哲学の住処」である「書物」の危機、「著作権」の揺らぎなどを主題とした第T部『デジタルを哲学する』と、「洗剤ゼロの洗濯機」「クローン羊」「ロボット」などを論じる第U部『テクノロジーを哲学する』である。
 哲学者、教育者、そして著作者である黒崎にとってより切実な問題を扱った第T部が、テーマから少し距離をおいて論じることのできた第U部よりも迫力があるのは当然だろう。ただし、黒崎が「現代」において「哲学」することの意味と意義を確信し、真摯に問い続ける態度を第T部、第U部にわたって終始貫いていることは、見逃されてはならない。
 いわば本書は、新書判190頁のコンパクトな一冊でありながら、コンテンポラリーなさまざまな問題群への水路の埠頭を、数多く持つ港なのだ。
 本書第1章末でも書評されているドレイファスの『インターネットとは何か』(産業図書)を併読されることを、是非ともお薦めしたい。
(「書標」02.10掲載)



『海辺のカフカ』(上・下)
村上春樹著 新潮社 各1600円

書評者・福嶋 聡

15歳の誕生日に、「僕」(=田村カフカ)は、中野区の家を出る。夜行バスに乗って四国高松に向かう。車中、幼い頃母とともに彼の前から姿を消した姉と同い年のさくらと出会う。そして、毎日を高松郊外の私設図書館で過ごすようになる。そこには、親切な図書館員の大島さんと、哀しい過去を持つ女性館長の佐伯さんがいた。そして「海辺のカフカ」と名づけられた、絵と音楽があった。
 戦時中の不思議な事件の後、字を読むことも書くこともできなくなったナカタ老人は、猫と話をすることができる。彼は、捜索を依頼された迷い猫の生命を助けるため、猫殺しを続けるジョニー・ウォーカーを殺害する。次の日、終生出ることはないと思い定めた中野区をあとにし、東名高速をヒッチハイクで一路西へと向かう。富士川サービスエリアで出会った気のいいトラック運転手星野青年(本作品を教養小説として読めば、彼こそ主人公)の助けを借り、引き寄せられるように高松へ…。
 きれいなフーガ形式で、快適なテムポに乗って紡ぎ出される村上春樹ワールド。やがて結び合わされるミッシングリンク。運命的な男と女の交わり。
 今蘇るオイディプス神話、現代のオルフェウス伝説。
 9月12日の発売を、乞うご期待!
(この書評は、校了前に制作されたバウンド・プルーフを読んで、書かれたものです。)
(「書標」02.09掲載)



『文明の内なる衝突』

大澤真幸著 NHK出版 970円

書評者・福嶋 聡

 「9.11」は、社会哲学を失効させた、そう大澤真幸は宣言する。失効させられた社会哲学は、大澤によれば「相互に反目しあう3つの陣営にほぼ整理することができる。」
 そうした三幅対の閉鎖空間は、キリスト教的世界=資本主義世界のそれと、おそらくは重なり合う。だからこそ、事件後即座に、その空間を逸脱する「テロ」行為の主体がイスラーム原理主義者に同定されたのであり、アフガニスタンへの報復攻撃は、ブッシュが「これは宗教戦争ではない」と叫べば叫ぶほど、「聖戦」の性格をあらわにしていったのである。その結果、「報復」は「テロ」と同型のものになっていき、爆撃されたアフガニスタンの荒野は、「グラウンド・ゼロ」と風景を共有する。
 こうした図式は、すでにたとえば「緑の資本論」の中沢新一が、明確に指摘している。中沢は終始キリスト教とイスラームの非対称を強調する。その点についていえば、大澤の議論もほぼ同型である。ただ、違うのは、それでもなお、大澤が「両者は、それぞれ、互いに相手に通じる穴のようなものをもっている」ことを見出そうとする姿勢である。
 「喜捨」という姿勢、罪あるものか罪なきものかの線引きをなさずに行なわれるアフガニスタンに対する援助、いわば「イスラーム以上にイスラーム的に」振る舞う姿勢にこそ、「テロ」を無意味化していく戦略がありうると、大澤はいう。政治や経済に通暁した人には「甘い」といわれるかもしれないこの戦略に、むしろぼくは徹底した論理性を、そしてその論理性の可能性を感じる。
(「書標」02.08掲載)



『見たくない思想的現実を見る』
金子 勝、大澤真幸著 岩波書店 1800円

書評者・福嶋 聡

 ひょっとしたら、金子/大澤のふたりがこの企画のための取材旅行に出かけた当初は、沖縄をはじめとするさまざまな「辺境」がまさに「見たくない思想的現実」として予想され、取材・執筆作業はそうした「辺境」にこそ鮮明に見て取られる現代日本の病理を抉り出すことに主眼があったかもしれない。もちろん、そのことにも本書は充分成功している。
 しかし一方で、沖縄の作家目取真俊さんが自分たち(沖縄人)の加害者性について語る言説の有効性に震撼し、あるいは24時間の介護体制なしに生きることも出来ない難病の発明家高井綾子さんの目に希望の輝きを見出すとき、そしてまた過疎地の運動の想像力や韓国のNGOに触れ、さらには「仕事がない」状況下での意欲ある若者と出会うとき、ふたりの、特に大澤真幸の筆致は予定外に活き活きとしたものになっていはしないか。
 金子 勝もまた、次のように呟く。
「もし私が『見たくない思想的現実』を見たとすれば、それは現場にほとんど届かない研究をしている私自身だったのかもしれない。」
 おそらくは〈現実〉の予想外の層の厚さがもたらしたこうした誤算を、ぼくは著者たちとともに歓びたいと思う。元々はぼく自身何よりもそれに期待して読み始めた、金子 勝と大澤真幸という大好きな論客たちの「公共性の理念」と「第三者の審級」をめぐる真剣な切り結び(巻末の「対論篇」)さえ、本書に限っていえばどうしても必要なものではなかったかもしれないという読後の印象をも含めて。
(「書標」02.07掲載)



『時代のきしみ 〈わたし〉と国家のあいだ』

鷲田清一著 TBSブリタニカ 1900円

書評者・福嶋 聡

 哲学の課題を、この本では「『観念』に見いだしている」と、鷲田清一は少し照れ臭そうに宣言する。しかしそれは、これまであえて身体、他者、顔や衣服という哲学の本流からは外れたものを主題としてきた鷲田の転向では決してない。鷲田の視線は、つねに現代という時代の具体的なありように注がれ続けてきたのであり、「観念」とは、それらの主題同様、否それ以上に、時代に「実在」し、時代を形成しているものだからだ。
 たとえば、「自由」という、現代にあってもひとつの究極の目的である観念も、「所有」「自律」という観念と切り離せない形で近代において成立したものである。「所有」をめぐる様々な争いは、数多くの悲劇を生んだ。また、〈わたし〉というトポスそのものが揺らいでいる現在、「純粋」な「自律」も存立しがたい。だとすれば、「自由」もまた、徹底的に問い直されなければならない。
 自明と思われたさまざまな観念の問い直しを迫られる、危機と批判の時代である現代に、鷲田は「〈前のめり〉の時間意識」を見いだす。卓抜な表現であり、大いに共感する。
 国家と単独者、そして人類をめぐる議論は田邊元の哲学を想起させ、「偶然性」をめぐって九鬼周造が再三引用される。そうなると、ぼくなどはどうしても鷲田清一という哲学者を(もちろん肯定的な意味で)「京都学派」の水脈の中に位置づけたくなる。
 鷲田さん、ご迷惑ですか?
(「書標」02.06掲載)



『ヘーゲル〈他なるもの〉をめぐる思考』

熊野純彦著 筑摩書房 3200円

書評者・福嶋 聡

 ヘーゲルの面白さを本当に伝える本には、いくつかの条件があると思ってきた。  まず、時には足早に書き遺されてはいるが、具体性に富んだ歴史や社会に関する豊穣な論述と丁寧に付き合い、その鋭さを伝えてくれること。言い換えれば、「精神現象学」の「理性」の章の面白さをほんとうに理解する著者のものであること。と同時に、晦渋という形容詞を決して外すことのできないヘーゲルの「論理学」ともとことん付き合い、ヘーゲル哲学の全体像の中で、ヘーゲルがほんとうに言いたかったことは何なのかを、飽くことなく追求していること。
 その一方で、「体系哲学の完成者」としてヘーゲルを静的に捉えるのではなく、生涯を通じて苦闘したヘーゲルの思索のみちすじを、ていねいにあとづけてくれていること。そしてその著作を文献学的に研究することで事足りとせず、現代的な(哲学においては普遍的なといってもいい)問題意識の中で、その思索をいきいきと「現在」させていること。
 一読、本書はそれらの条件をクリアしていると感じた。本書が「ヘーゲルの特異な思考をたどりなおす通路のひとつとなること」を著者と共に願い、また著者が、のこされた「いくつもの課題」にさらに挑んでいかれることに期待したい。
 タイトルに選ばれた〈他なるもの〉は、「論理学」で登場する時と、「自己意識」の「相互承認」論で登場する時とでは、さしあたり「指示対象」が異なっているように見える。しかしながら、それらが同じ〈他なるもの〉であるところに、ヘーゲル哲学のスケール、ダイナミズムの根源があるのだ。
(「書標」02.05掲載)



『情報エネルギー化社会』

ポール・ヴィリリオ著 土屋 進訳 新評論・2400円

書評者・福嶋 聡

 「情報は24時間でほとんど価値がなくなる唯一の商品である」ことを思えば、情報が速度と親近性を持ち、否自ら速度そのものとなっていくのは、自然な流れであろう。そして、同じく加速の歴史そのものであったテクノロジーとともに、軍事と不即不離のつながりを持つ、即ち軍に巧妙に利用されるだけでなく、軍によって生み出されるものでもあることは、今や明白な事実である。三者は既に一体化したと言ってもいい。
 輸送機械が地理的な距離を無化していき、光速度を得た情報は時間をも破壊する。情報こそ、位置、運動に続く第三のエネルギーなのだ。
 「核抑止力」といった「神」を戴いてきた軍=テクノロジーは、地球の植民地化を完了した後、宇宙を超えて、人間の生体の植民地化に着手し始めた。臓器移植や人工臓器、いわば新たなる優生学は、いまや「現実」である。
 自らが速射砲のように言葉を繰り出して紡ぎ出すヴィリリオの世界像は、それ自身余りにもダイナミックで、一読明確な輪郭を与えてくれるとは言えない。しかし粘り強く付き合った時、浮かび上がってくるその焦点=速度は、現代世界の本質を抉り出す確かなキイワードであることを実感できるだろう。
 確かに、ヴィリリオはこの流れを止める戦略を明確にはしない。しかし、「批判とはやみくもに反対を唱えることではなく、認識すること」(「純粋戦争」)なのだ。われわれ自身が、立ち止まって考えることを、迫られているのだ。
(「書標」02.04掲載)



『テロと報復とコミュニズム』

荒 岱介編著 実践社・1600円

書評者・福嶋 聡

 「破天荒伝」で全共闘時代以来の自らの活動を「総括」した荒 岱介の、新たなマニフェストといえる一書。「破天荒伝」後の論文、講演記録を集めた「第一部 見果てぬ夢の果てに」と六人の書き手による「第二部 オルタナティブ・コミュニズムは可能か」からなる。
 荒は、「マルクス主義そのものが間違ってなかったのか」と問い、「プロレタリア革命は幻想でしかなかった」と答える。そして、いまだ「可能なるコミュニズム」を目指してさまざまなマルクス解釈を試みようとする論者に。「『本当のマルクス』などあるのか?」と直截な疑問を投げつける。
 後半部は、荒のそうした疑問(というより否定)の各論部となっている。ただし、前半の荒自身のマニフェストでは、マルクス主義の無効性がソ連・東欧諸国の崩壊という歴史事実から自明という論調が強く、読みごたえのあるのは、「貨幣」や「アソシエーション」を具体的に論じ、「LETS」や「自主管理」などに言及した後半部である。
 自らマルクス主義からの「転向」を高らかに宣言する荒であるが、反体制運動に対する意欲を失ったわけでは全くない。理想の実現をめざすのではなく、現実の矛盾と闘うこと、それこそが「もともとのマルクスの考え方だった」と(つい?)言ってしまう荒は、自らの世代のエネルギーを若い世代に伝達することへの情熱も相俟って、とても元気である。
 であればこそ、柄谷行人らの「NAM原理」や、ポストモダン思想への反撃を目論む現像学(先月号の書評参照)との三つ巴が、期待できるのだ。
(「書標」02.03掲載)




『言語的思考へ』

竹田青嗣著 径書房 2000円

書評者・福嶋 聡

 「意味とエロス」の竹田青嗣が、戻ってきた。本書は、「フッサールの申し子」による、フッサール現象学からのポストモダン思想への反撃の狼煙である。  竹田は、反撃のための上陸地点をデリダの「声と現象」に定める。「声と現象」こそ、デリダがフッサール現象学に「形而上学的予断」を認め、その「音声中心主義」や「現前の形而上学」を徹底的に批判した、その後のポストモダン思想の隆盛の先駆となった書物だからだ。
 反撃の端緒に相応しい要塞であり、それだけに攻略には困難が予想される。そのかわり、ひとたび攻略に成功すれば、ポストモダンの今日的展開まで、広く射程に収めることができる。
 竹田は、改めて自らが手にする武器を確認する。現象学の根本方法は、世界についての「確信成立の条件と構造」を解明することである。それは、自然的態度を括弧に入れつつ、あくまで自然的態度の持つ自明性に踏みとどまる。そして、「言語の謎」を執拗に論じ立てる論理実証主義やポストモダン思想のメタ論理的な議論、「語りえないもの」や「他者」といった概念の中に、対立二項性を特質とする形式論理的思考、「スコラ哲学」を嗅ぎ取るのである。それは、デリダによる現象学批判の、見事な反転であるといっていい。その反転のいわば軸として、ヘーゲルの懐疑論批判が有効に使われているのが、印象的だ。
 攻撃の矢は、柄谷行人、東浩紀といったポストモダン思想の有力な書き手たちにも、当然届いている。
 面白くなってきた。
(「書標」02.02掲載)



『思想読本4 ポストコロニアリズム』

姜 尚中編著 作品社 2000円

書評者・福嶋 聡

 「ポストコロニアル」とは、すなわち現代日本の述語である。本書は、そのことを徹底的に読むものに語りかける。「ポストコロニアル」という概念そのものは、再び西欧起源のものかもしれないが、それを「輸入」するにあたっては、自らがまさにその概念に「相応しい」もの、そのことを自認することが、まずもって求められるのである。
 若手研究者たちの論文・座談を中心に纏められた本書は、その語りかけに成功している。それは、書くもの、語るものすべてが、自らのアイデンティティを「賭けて」いるからである。
 「皇民化政策」という欺瞞に粉飾された植民化政策は、確かに「戦後」という概念のもとに、忘却を強いられていた。しかしながら、「在日韓国・朝鮮人」のさまざまな問題、「沖縄」の問題を想起する時、現代日本が「ポストコロニアル」と形容されるべきことを自覚することを越えて、その「ポスト」が、「コロニアル」のまさに延長にあること、つまりは我々じしんの存在そのものが、東南アジア諸国での出来事と喧伝される「開発独裁」とパラレルであることを自覚すべきなのである。
 そうした上でなお、「黒船来航」の衝撃を近い過去の記憶として待ち得た人たちの思考、そうした状況の中で、では西欧にどう対応していくのかを探求し続けた人たちの言説、それらを「近代の超克論」に至っただけだと断罪するだけでなく、勿論批判的な眼をもってでいいから再考していく姿勢、それだけを「ポストコロニアル」論者に求めたい。ひょっとしたら彼らはあなたたち以上に切迫していたかもしれないと思うから。
(「書標」02.01号掲載



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