『文化資本論』
山本哲士著 新曜社 2850円

書評者・福嶋 聡

 先行きが、見えない。

 今日的な全き閉塞状況を、著者は近代産業社会のシステムそのものの行き詰まり、と喝破する。それは分離・他律を基調としたシステムであった。二十一世紀に向けて目指されるべきは、非分離・自律であり、「モノ=商品」生産中心の産業社会経済から資本中心の「資本=環境」の文化経済への飛躍だと言う。
 注意すべきは、資本=資金ではない、ということだ。資金は、文化資本、社会資本、象徴資本と並ぶ経済資本という資本の一形態に過ぎない。資本とは、「中心となるもの」を意味する、元手、原動力なのである(「からだが資本」「人的資本」等)。とりわけ文化資本にこそ、「構造化する構造」「つくりだしていく力」として、主導的地位を与えるべきなのだ。(「文化」とはメセナ的な意味での余裕・余剰では決してない。)

 そうした時、近代産業社会が複雑で非効率なものとして切り離した空間や環境が、再び主役の座に上る。近代を乗り超えるべく前近代・古代更には前古代の様々な〈文化技術〉に学ぶ時、「場所には意志がある」ことが明らかになる。そして、図られるべきは、「所有の経済生産」から「領有の環境生産」への転換なのである。(著者の主張が近代の単なる陰画であるエコロジー的なそれとは正反対であることに注意。)その際、「労働」→「仕事」(他律→自律)、「人間の経済」→「場所人/男女の経済」というドラスティックな転換が、同時進行的に起きる。

揺るぎなき信念と、本質的かつ具体的な提言に満ちたエネルギッシュな好著。
「書標」00.01号掲載




『ハイデカー「存在と時間」の構築』
木田 元編著 岩波書店 1000円

書評者・福嶋 聡

 1月14日に創刊された岩波現代文庫の、書き下ろしの一冊。
 ハイデカーの「存在と時間」が二十世紀最大の哲学書であることは、衆目の一致するところである。と同時にこの書が、最初の企画の前半部のその又三分の二までしか出版されていない未定の書であることも広く知られている。だとすれば、書かれなかった部分を再構築してみたいというのは、ハイデガー研究の学徒が抱いて当然の野心であろうし、ハイデガーの愛読者が読んでみたいと企てでもある。ちょうど、漱石の「明暗」の続編が試みられたように。
 しかしながら、「明暗」が漱石の死によって中断したのとは違い、ハイデカーは「存在と時間」刊行後も長く存命、活躍した。そしてハイデガーの思索は、自身が「転回」と呼んだ様に「存在と時間」完成の挫折を境に実存思想から「存在の問い」へ切断される訳ではなく、後期の思想もそもそも「存在と時間」の本来の企図そのままだった、と著者は主張する。それは、プラトン以来の形而上学(=哲学=西洋)の「存在」概念に纏わりつく「被製作性」を暴き、「存在」を、即ち西洋哲学史そのものを相対化して、文化革命をも視野に入れた目論見だったのだ。
 そうした観点から、講義「現象学の根本問題」を中心的な素材とし、「存在と時間」の書かれなかった後半部分を再構築しようとしたのが、本書である。その試みは著書の長年のハイデカー研究に基づき、説得力のあるもに仕上がっている。ハイデカーが「存在と時間」完成を断念した本当に理由の著者独自の推察や、ハイデカー哲学への当時の生物学の成果の影響なども、面白く読んだ。
「書標」00.02号掲載




『倫理21』
柄谷行人著 平凡社 1600円

書評者・福嶋 聡

たとえば、神戸で起きた14才の中学生による連続殺傷事件で、たとえば、時代を溯ると連合赤軍事件で、犯人の親達にその責任を問うという行為言説を、柄谷は糾弾する。原因は、事件が起こってはじめて遡及的に見出されるものであり、また、原因の追求は、犯人の事件に対する責任を問えないという結果を、論理的にもたらすからだ。親達への非難は、原因と責任の誤った混同である。

 そのことを端的に示したのが、カントである。カントは、自由を倫理の根拠に置く。ヘーゲル的な共同体の倫理も、功利主義も、共に他律として否定される。その時、従うべき義務とは、「自由であれ」という命令以外ではありえない。そうした時に初めて、人は行為の責任を問い、問われることが出来るのである。構造論的な認識をする時には個人の責任は問う事が出来ず、罪とは全て(自由という理念を根拠とした)形而上の罪なのだ。

 カントのマルクスやニーチェとの意外な親近性が明らかにされ、天皇の「戦争責任」や非転向共産党員の「政治的責任」が、冷静に問われる。カントの「物自体」とは未来の他者のことであると大胆に言い切り、環境倫理にも言及される。

 本書において柄谷は、「倫理」や「道徳」を極めて原理的な場面で語りながら、一方で今日的、具体的な問題に厳しく迫る。そうした離れ業が可能なのは、カントが真にに「倫理」の根拠を求め、柄谷が真ににカントを読み解いたからである。
「書標」00.03号掲載




『笑いの経済学』
木村政雄著 集英社 640円

書評者・福嶋 聡


 「戦後大阪で最も発展した工業は?」という問いに「吉本興業」と答えた小学生がいたという。社会科の解答としてはペケかもしれないが、現在の吉本興業の位置を思えば、その小学生の卓見やよし、又、その小学生を探し出し何とか一生の面倒を見ねばと言う本書の著者、吉本興業取締役木村政雄氏の志やよし、である。

 吉本興業のこれまでの足跡、なかんずくマンネリ化の打開と新しい芸人の育成のために大胆に行なってきたスクラップ・アンド・ビルドの実践にも教えられる点は多いが、それ以上に注目すべきは、今という時代を乗り越えよう、否今という時代でこそ発展しようとするそのバイタリティである。スポーツ界への進出、地域おこしの手助けをはじめ、広く人を楽しませることを天職とし、さまざまな可能性に賭けようとする思考の柔軟性である。その柔軟性が、日本が陥ってしまった画一的な判断基準を打ち破り、これからの世界で必要とされるユニークな人材の発掘、育成を可能にしたのは、明らかだからである。一方で、バブルにも踊らされず、芸人育成の場として劇場の存在は不可欠であるとの信念も堅持する。

 信号フライング率世界一という「柔の大阪」に誇りを持ち、「儲かりまっか」というあっけらかんな態度が通用する大阪弁を大事にし、企業や大学の在り方にも積極的にコミットする姿勢に勿論大いなる共感を覚えながら、何よりも「商は笑なり」という座右の銘こそ、共有したいと痛感した。
「書標」00.04号掲載




『ポストナショナリズムの精神』
立川健二著 現代書館 2800円

書評者・福嶋 聡


 読後、「狐につままれる」とは言わないまでも「あれ?」と思う読者が多いかもしれない。序章、〈日本人〉への帰属意識の余りに強い友人の何気ない一言に違和感を感じて稿を起こした著者が、終章では、「〈国家〉も〈家族〉も言葉の本来の意味での〈共同体〉である」から、「」をそれに返すべきだとまで、言うからである。本書の主題である「ナショナリズム」に関して、「否定から肯定に大きく揺れ動いた」ことは、著者じしん、明言している。そして、その揺り戻しは、西部邁、松本健一、清水幾太郎といった、どちらかというと保守的な思想家への好意的な言及と平行しているのである。

 推理小説ではないのだからどんでん返しに瞠目することもあるまいが、保守/革新、右翼/左翼といった紋切り型の図式を当てはめて批判するのも全く生産的ではない。大事なことは、本書を通じて立川が辿った思想上の「悪戦苦闘」を追体験し、それを検証することである。その事を通じて読者は、実は立川健二の個的実存と出会うことになるだろう。そして大きな揺り戻しの意味が少しずつ見えてくるのである。

 詳細は実際に読んでいただくしかない。ただ、国際平和を希求してエスぺラント語を創始したザメンホフが、ユダヤ民族主義を一方で大事にしていたことが語られる丁度本書の中間あたりを折り返し点と見、〈国家〉や〈家族〉の擁護が、戦後の〈会社〉(=似非共同体)主義への強い怒りの裏返しであることを踏まえることが、道標のひとつになるかもしれない。
「書標」00.05号掲載




『政治の生理学・必要悪のアートと論理』
中金 聡著 勁草書房 3300円

書評者・福嶋 聡


 「生理学」は、生体に対してリアリスティックな構えを持つ。即ち、善悪の価値判断を交えず、対象をあるがままに見つめようとする姿勢である。ところが、「政治」という対象は、例えば「正義」を語ろうとした瞬間、価値判断を伴ったものになってしまう。本書の読みにくさの一因はここにある。
 著者は、「本書を政治学の教科書のつもりで書いた」と「あとがき」で言う。プラトンからオークショットまで、古今の政治学説を、明らかにホッブズを軸に縦覧した構成は、そう言われてみれば「なるほど」と思うし、「政治学」への誘惑という教師としての著者のモチーフは、大事なことではある。しかしながら、そのことによって本書全体が、むしろ「政治学の生理学」乃至は「生理学としての政治学」の観を呈しているのは、本書の読みにくさのもう一つの原因であり、「欲張り過ぎ」と言いたくなるほど、惜しい。「哲学の『切り上げ時』」という章を立て、「進化したのはデモクラシーではなくデモクラシーに対する政治の反抗」であり、語るべきテーマは「デモクラシーの政治」ではなく「デモクラシーと政治」であると喝破するリアリスティックな視線が向けられるべき「生理学」の対象が、まさに目の前に現存するからである。勿論、現在の日本の政治状況である。

 チャーチルとサッチャーの比較など、やはり具体的な事例でこそ著者の「生理学」は冴えを見せていることを鑑みても、現在の日本の政治を斬る著作を期待したい。政治学への誘惑も、その方が早道であると思う。
「書標」00.07号掲載




『ヘーゲルにおける自由と近代性』
工藤 豊著 新評論 5400円

書評者・福嶋 聡


   「理性の狡知」や「絶対精神」という術語のためか、ヘーゲルの思想は、個人の自由が、「世界史」の手段とされる、即ち「世界史」に抑圧されるものだ、という非難を受けやすい。「主体性が真理である。」というキルケゴールの呪詛に近い批判が、その代表と言える。
 しかしながら、ヘーゲルの「主体=実体」のモティーフは、個々の人間の「自由」を、カント的な形式論理に終わらせずに現実化することにあった。  そうした「自由」へのヘーゲルの拘りを、初期の神学論(キリスト教の実定性=イエスの神格化、教会の権威化における個の主体的信仰の抑圧への批判)、「精神現象学」における意識の経験の道程(「感性的確信」から「自己意識」を経て「理性」、「精神」へ)、「法哲学」における「家族」→「市民社会」→「国家」という弁証法、更には晩年の「歴史哲学講義」における「古代」→「中世」→「近代」という発展形態に、それぞれの著作を丹念に読み解きながら見出していったのが本書である。
 ヘーゲルという巨人を相手にした時、常にその著作を一々解説していかないといけないという運命を背負うため、本書を読み通した時、「自由と近代性」というモティーフについては少しぼやける所があるかもしれないという恨みはあるが、経済行為に対するヘーゲルの理解の重視、ヘーゲル自身がいみじくも言った「哲学は時代の子である。」という限界を踏まえながら、ヘーゲルの意図した「自由の現実化」というテーマが今なお問われているという著者の視点には大いに共感する。
「書標」00.08号掲載




『哲学を話そう』
木田 元著 新書館 2400円

書評者・福嶋 聡


 ハイデガー哲学研究の泰斗・木田 元氏による八つの対話を編んだ一書。
 木田氏じしんは、「人前で喋るのが苦手」で、本書所収の対談においても「私は適当に相槌を打っているだけ」と言うが(「あとがき」)、年来の僚友生松敬三氏らとの対談には、氏のハイデガー研究のエッセンスが随所に織り込まれ、特に氏がハイデガーとの間に取った距離の変遷が、時間をおいたいくつかの対談を通して明確になってくる。いわば、かつて氏がドストエフスキーを読む参考書としてキルケゴールを得たように、我々は、今年はじめに上梓された『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫)を始めとする木田氏のハイデガー研究の成果のよき参考書として、本書を得たと言える。
 本書の中盤に配された「哲学以外」をテーマとした対談では、木田氏の興味範囲の広さがよく現われていて、特に、笠井潔氏との対談の中で、「探偵小説」というジャンルが第一次世界大戦の「悲惨で無意味な」大量の死を経て生まれた(そしてハイデガーの死の哲学も)という件を、ぼくは面白く読んだ。また、松山巌氏との対談を読んだあとでは、木田氏じしん大ファンであるという山田風太郎の「明治もの」を、無性に読みたくなった。
 ハイデガーを直接テーマとしたものを前後に固め、「哲学以外」を中盤に配したいわば「ソナタ形式」の編集の工夫が、本書をして、対談集にありがちなクドさや散漫さを免れさせている点も、付け加えておきたい。
「書標」00.09号掲載




『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』
ダグラス・ラミス著 平凡社 1300円

書評者・福嶋 聡


 ラディカルなタイトルである。勿論、本文もラディルである。そのラディカルさは、急進性ではない。ましてや暴力性ではない(むしろ、その対極にある)。それは、「常識」と呼ばれるものの徹底的な問い直しの中にこそ現われる。
 読者として、広く我々「普通の人間」が想定されている。いま、我々「普通の人間」こそが、思考を「常識」と呼ばれるものの枠型に押し込められながら、大いなる違和感と漠とした不安に包まれている存在だからである。
 国際法が「侵略戦争」を認めてない以上、「交戦権」の放棄は、論理的に「自衛的交戦権」の放棄であり、そして「国家」に「軍隊」という暴力装置を与えた今世紀が世界史上例を見ない殺戮の時代であったことを省みれば、「憲法第九条」の遵守こそが、「現実的」な道であること。
 破滅的な環境破壊が周知の事実である以上、本書のタイトルの問いに「否」と答えることのみが「現実的」であること。
「代表民主主義」は、その誕生時(アメリカ合衆国憲法起草時)、「連邦主義」と呼ばれ、「民主主義」の対極にあった(そしてその「代表民主主義」国家こそ、核爆弾を使用した唯一の国である)こと。
 ラミス氏の、穏やかであるが力強い語りかけは、読者の身体奥深くを揺さぶるに違いない。その揺さぶりを一人一人のエネルギーに変えずにおくまいと思う。民衆が力を持たない限り、民主主義は成立しないのだから。
「書標」00.10号掲載




『科学から哲学へ―知識をめぐる虚構と現実』
佐藤徹郎著 春秋社 2500円

書評者・福嶋 聡


 科学技術万能を謳う現代にあっては、先人の業績を引き継ぎ、先人の到達点から更に先を進む「知識」の進歩は、自明のことのように思われている。しかし、そこで使われる「知識」という言葉は、科学革命以後、大きく変質している。
「科学」という言葉じたいが象徴しているように、「知識」は細分化された学問分野の専門家間でのみ継承・発展させられ、一般人は必要に応じてただそれを利用するだけである。それゆえ、学問そのものが、啓蒙時代に信じられた万人に共通な理性に基づく統一した世界像とは、無縁のものと言える。いわば、継承や進歩によって、「知識」は、その意味内容の重大な部分を失ったのだ。「別の精神において再生」(ウィトゲンシュタイン)されたり、「聞き手の精神の自発的な働きによって再発見」(アウグスティヌス)される「知識」を。
 古来さまざまな挑戦をされながら現在に至るまで満足な結果を得ていない「ソリティス・パラドックス」を検討しながら、経験論に端を発する知覚優位論や論理実証主義の「命題」論と果敢に切り結び、巻末では大森荘蔵思想にも言及しながら、著者は、そもそも「知識」とは何かに、深く切り込んでいく。そして、「言語」による「知識」の「伝達」という図式そのものに、疑問を差し挟む。
 「継承」や「進歩」の為に「知識」が重大な部分を失ってしまった事態を、著者は、「知識」の「情報」への還元と呼ぶ。この一節を、インターネットだIT革命だと騒ぎ立てる人は、よくかみしめるべきである。
「書標」00.11号掲載




『日本の「哲学」を読み解く』
田中久文著 筑摩書房 680円

書評者・福嶋 聡


 「哲学=フィロゾフィー」は、明らかに、明治時代に輸入された学問である。継承するにも批判するにも、予め、輸入元の西洋の哲学に深く食い入るより他に無い。翻訳、紹介に明け暮れた明治時代の終わりに、ようやく「邦人のものした最初の哲学書」と言われる西田幾多郎の「善の研究」が刊行される。
 西洋の形而上学的原理を批判し、生涯を賭けて「西田哲学」という独自の哲学体系をつくりあげていった西田、そして、師の哲学を継承しながら、その限界をそれぞれの角度から乗り越えようとした和辻哲郎、九鬼周造、三木清の思索を、一貫して「無」の哲学の系譜の中で捉え、和辻の「空」、九鬼の「偶然性」、三木の「構想力」の限界と可能性を改めて問おうとしたのが、本書である。
 彼らの「無」の哲学は、最初に言ったように、西洋の「有」の哲学の内在的突破を経たものであり、漫然とニヒリズムがはびこる現代の社会状況に即効性を持つ処方箋とはなり得まい。が、未だ西洋主導でありながら、全世界的に価値観の(もはや多様化ではなく)崩壊を招いてしまった危機的状況から脱出するための水路として、西洋哲学と真摯に対決した先人の思索を再発見・再評価することは、ひとつの有効な選択肢ではあろう。
 その水先案内人役をもくろむ本書において、4人の哲学者の社会的・時代的背景に敢えて深くは足を踏み入れず、主著の丹念な読み解きに終始した著者の姿勢は、間違っていないと思う。
「書標」00.12号掲載




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