『カルチャー・レヴュー』別冊03号
<対米同時テロル事件特集>


■難民緊急救援募金■


 ◆アフガニスタン難民緊急救援募金を開始しました(転載)◆

シャプラニール



 アフガニスタンでは、ここ3年続いてきた旱魃で収穫が充分なかったことに加え、今回の戦争で非常に危機的な状況です。すでに100万人が自分の家を離れアフガニスタン内部で難民化しています。このままこの状態が続けば、今後500万人が難民になる可能性が出てきています。国連の推定では11月半ばまでに56,000トンの食糧が必要になると言われています。
 シャプラニールは、バングラデシュとネパールで30年近い活動を続けてきたNGOです。この状況に対して少しでも何かできないかと、アフガニスタン難民支援募金を開始することにしました。
 現在の非常に不安定な状況下、すでに活動を展開しているNGOを支援することが一番合理的と考え、いくつかのNGOを検討した結果、世界のオックスファムの連合であるオックスファム・インターナショナル(Oxfam International)を支援することにしました。
 皆様からいただいた募金はシャプラニールが責任を持ってオックスファム・インターナショナルにお届けします。またオックスファム・インターナショナルから定期的に情報収集し、皆様にもその情報をお知らせしていきます。最新情報はシャプラニールのウェブサイトで随時ご紹介していきます(http://www.shaplaneer.org/)。
 オックスファムはアフガニスタン国内に140名のスタッフが残っています。また外国人スタッフは現在パキスタンに待機中です。9月21日には1,500トンの食糧をアフガニスタンで配給を行いました。現在の空爆で一時救援活動を停止していますが、できるだけ早いうちに次の活動を開始するチャンスをうかがっています。
 今後はアフガニスタン国内、またパキスタン国境付近で以下のような支援活動を計画中です。

◎救援活動の概要
 活動地域:ヘラート州、カンダハル州、バダフシャン州、ハザラジャット州  期間:10月から8カ月
 配布物:食糧配給(小麦、豆、食用油)
 飲料水の確保
 次の耕作のための種の配布

◎救援募金の送り先
 1.郵便振替
 実施期間:10月17日〜12月末(場合によって延長することもあります)
 振込先:00140-1-133937 口座名シャプラニール緊急救援(通信欄に「アフ ガン難民」とご記入ください)
 2.インターネットオンライン寄付
 当会ウェブサイトからリンクでご寄付が可能です。
   http://www.shaplaneer.org/

◎連絡先
 特定非営利活動法人 シャプラニール=市民による海外協力の会
 〒169-8611 東京都新宿区西早稲田2-3-1 早稲田奉仕園内
  TEL 03−3202−7863 FAX 03-3202-4593
  E-mail info@shaplaneer.org
  Website http://www.shaplaneer.org/







■アナロジー■


ブッシュ大統領のアナロジー

アルキメデス



 とうとうアフガニスタンへの攻撃が始まってしまいました。この文章を書いている時点(2001/10/11)で、引き返せる可能性があるのか、はたまた取り返しのつかない泥沼へと、人類は突入してしまったのか、皆目見当がつきません。
 顧みればWTC事件のあと、アメリカ合衆国とその眷属は、執拗に自陣営を正義とし、事件の首謀者たちを悪なるテロリズム集団と断言し連呼しました。わが国の為政者たちも「テロリズムは絶対悪」と主張して臆面もありません。これらの点に関しては議論する価値が十分ありますが、おそらく別の記事で吟味されるでしょうから、ここでは触れません。
 WTC事件が起きて間もないころ、ブッシュ大統領が行ったスピーチ場面をTVで見ていて、ふとシェークスピア『ジュリアス・シーザー』を想い浮かべました。あの、シェークスピアにしては得意の駄洒落が出てこない、荘重な悲劇です。少し前NHKのBS放送で放映されました、チャールトン・ヘストンがアントニーを演じた短縮版のアメリカ映画のシーンが想起されたのです。戯曲でいえば第三幕第二場、第一場のシーザー暗殺の場面に続くローマの広場のシーンです。この場面は、当然のことながら映画では割愛されていませんでした。
 第二場の冒頭ブルータスがシーザー暗殺(B.C.44年3月)の理由をローマ市民に弁明します。「シーザーはローマ皇帝に成り上り、諸君を奴隷にしようとしていたのだ。奴隷の身となるか、自由なるローマ人であるか、賢明なる諸君はどちらを取るか」
 戦争で疲弊したローマの市民たちは、なるほどと了解し納得します。
 弔辞を宣べるためにアントニーは、そこにシーザーの遺骸を運んで来ます。第一場の終わりの部分で、ブルータスはアントニーが自陣営につくと信じ、アントニーが弔辞を宣べるのを許可したのでした。この弔辞がシェークスピアの面目躍如といったところです。アントニーの巧みな弁舌でローマ市民の、ブルータスによって確固としたローマ市民の敵と位置付けられた、シーザーに対する意識のなかに疑問を起こさせ、次第にアジテーションへと盛り上げていきます。始めのうちはブルータスをたたえる詞を述べながら、何時の間にかブルータスに対する疑念を聴衆に吹きこんでいく、という見事な長口舌です。
 TVに映るブッシュ大統領のスピーチを見ているうちに、そういうことだったのか、崩壊したWTCビルはジュリアス・シーザーの遺骸であり、ブッシュ大統領はアントニーなのだ、というアナロジーが脳裏に浮かんできました。思い起こせば、ブッシュ大統領の声明はアジ演説そのものではなかったでしょうか。ヒステリックに国民の憎しみを掻き立てるような、アメリカ合衆国は正義であり、実行犯たちの糸を引くオサマ・ビンラディン一味は悪である、という言明。アジ演説は証拠を必要としません。
 マーク・アントニーがローマ市民たちに示した、シーザーの遺言状は本物だったのでしょうか。シェークスピアの芝居には、その遺言状を見せろ、というような台詞はなかったと思います。ともあれアントニーもブッシュ大統領も、スピーチに成功しているのです。「シーザーの遺骸」さえあれば、民衆の心を動かすのは、案外簡単なことなのかもしれません。結局、ブッシュ大統領のスピーチの巧みさに感心するべきでなく、シェークスピアの透徹した民衆観を賞賛すべきだということでしょう。これは、大統領がゴアであっても同じだったのではないでしょうか。
 最後に、もう一つアナロジーを考えてみましょう。
 アントニーは『ジュリアス・シーザー』の後半、ブルータスたちとの戦争で勝利を得ます。(B.C.42年)しかしこれも束の間、同じシェークスピアの7、8年後の作品『アントニーとクレオパトラ』で描かれるように、アントニーはクレオパトラ(7世)に出会います。(BC.41年)因みにクレオパトラはエジプト人でなく、ギリシャ人だということを、どこかで読んだことがあります。アントニーは、クレオパトラの妖艶な色香に迷い、ローマの執政官でありながらエジプトに寄り添い、ローマと不和になっていきます。そして最後はローマのオクタヴィアヌス軍との戦いで敗れ、哀れアントニーはエジプトに逃れ自殺します。(BC.30年8月1日)
 さて、アフガニスタン攻撃の指揮者、ブッシュ大統領の結末はどうなるでしょうか?

■プロフィール■
(あるきめです)1949年08月31日、東京都に生まれる。千葉県柏市在住。家族は妻と二人の男児。電気工事会社の人材開発部門勤務、元電気・計装エンジニア。電気は嘘をつかないが真理も語らない。ゆえに文化的嗜好は電気を避け、多岐亡羊を宗とする。http://members.jcom.home.ne.jp/arkhimedes/
E-mail:Arkhimedes@lycos.ne.jp







■対抗言説■


正義=自己の脱構築

野原 燐



 9.11にツインタワービルが崩壊した直後に、ブッシュ大統領は叫びました。「戦争だ!」と。それに追従する勢力は多い。だが、その巨大さはまた、それに反対する勢力をももたらす。反対派を便宜的に3つに分けて考えることができよう。

α.どんな戦争も絶対悪である。
β.「国連憲章どおり国連の枠組みでの対応でおこなうべき」という主張がある。
   この内部にも、小沢一郎や日本共産党などいろいろな差異がある。
γ.アメリカ帝国主義がまず巨大な悪であり、テロリストは仮に悪であるとしてもより小さな悪である。
   「新左翼」などがこれに属する。便宜的に<反帝派>とする。
 以上三派に対し、それぞれ彼らの<神>を想定することができる。

α:WTCビルの死者たち
  (これは戦後最も強力な死者だったヒロシマの死者たちを引き継ぐ)
   祭司としてはジョン・レノン
β:国家というレベルをまがりなりにも越えた国際秩序、国家を越えた<普遍性>
γ:パレスチナの死者たち
  (最も抑圧されしもの、世界革命の究極の主体に近い)

各派を攻撃したいときには、それぞれの<神>を逆に「・・・にすぎないものを絶対の正義の基準として物神化している」という言説によって攻撃することができる。

αの相対化、例:えひめ丸事件の死者による相対化
βの相対化、例:ブッシュの唱える国際秩序と大差ない
γの相対化、例:ビンラディン、タリバンの残虐性、未開性の強調

αへの批判:戦争の否定とは現在の国際秩序の肯定になる。それは国際秩序を変えていく別の方法が存在しない限り、現状肯定主義になる。アフガンなどの最貧国の人々は彼らの責任で貧しいわけではないのに、いつまでもそれを甘受し続けるべきなのか。 WTCの死者と、アフガニスタンの死者を比べた場合、わたしたちの生活感覚が前者とのみ通底していることは明らかである。アフガンの死者とニューヨークの死者は対等だ、と言うことは抽象的正しさにしか到達できず、その落差を感傷性が埋めることになる。

γへの批判:自ら日本人として豊かな生活をおくりながら、頭脳の一部でだけ現在の世界秩序を激しく批判している。批判は自らに帰ってくる、それをどこまで受け止める用意があるのか。それ無しの批判はただの自己欺瞞である。

βへの批判:ビンラディンは悪であるとどう言う立場で言えるのか。いまある国際秩序はアメリカ中心のもので、パレスチナやアフガンに中立的に接近できる国際機関はいまだ成立していない。国家のエゴイズムをコントロールできないし、しようとするべきでもない。

最も優れたα(平和主義)とは。
 「私が何年ものあいだ主張してきたのは、我々が今日アラブ人として持っている主たる武器は、軍事的ではなく倫理的なものだということだ。」(サイード)彼は、アラブ人の立場で、こう言う。我々のうちの何人が、あらゆる自爆的な活動を非道徳的で間違えていると非難してきただろうか。 見境なく殺そうとする人々の戦闘(それは愚の骨頂である)を一瞬たりとも認めたり支持したりすることなく、新しい世俗的な[原文イタリック]アラブの政治を知らしめなければならないのだ。
 サイードは自爆テロを否定する、だがそれは、それを悪とし自らを善とする構図においてではない。(サイード「バックラッシュとバックトラック」http://www5a.biglobe.ne.jp/~polive/)  「9.11大事件に出会って心に地震が起こったほどの衝撃を受けたアメリカの大衆」のその絶望は決して戦争によって癒されるべきものではない。

最も優れたβ(国連主義)とは。
 国連総会は緊急人道援助においては「犠牲者へのアクセスが肝要である」と宣言し、こういう救援を必要としているすべての国に対し、人道的救援活動をおこなっている諸組織の活動を容易にするよう呼びかけた。1988年。アフガン空爆のような「加害者をたたく」のではなく、「犠牲者を救う」ことを考える方がましである。(p152、最上敏樹『人道的介入』岩波新書)

最も優れたγ(反帝国主義)とは。
 松下昇氏の「ラセン情況論」と言うパンフに次のような文章がある。(p8右)「事件全体の解明とは別に、オウム関係者の逮捕を歓迎し死刑を当然のこととして予測する全ての人〜位置への批判的立場を持続する。
オウム関係者の行為を審理〜評価しうるのは、かれらのやろうとしたことと対等なことを別の方法で実現していくことを開示している者だけである。オウム関係者の行為にたとえ非人間的な要素が感じられるとしても、現代の非人間的な要素の総体との関連において、とりわけヒトラー、スターリン登場から現在の世界的な内戦状況における無数の死者の群の重さを視野に入れない判断は、必ず国家によるオウムへの報復(の安易な追認)と真の問題の隠蔽を招く。この社会の全ての矛盾の責任追及との関連なしにオウム責任追求などなしえない。」
 ビンラディン一派が犯人であったとして、この文章のオウム関係者をビンラディン一派と読み替えて見よう。オウムの場合と違いわりに素直に納得できる。というのは、国家の恣意性というのは国内だけの視野では極めて見えにくいものなのだ。今回の事件はアメリカなどの掲げる秩序というものが先進国向けのものであり、誰にとっても普遍的なものだとは言い難いと言うことを明らかにした。
 ここで松下は、現在有る国家による裁きを否定している。しかし、革命の大義を仮託できる位置に有ればすべてが許されるといった発想はとっていないだろう。無罪なわたしは存在し得ず、自らの被告人性を切り開いていくことが未来につながる、というのが松下の発想だったように思える。

以上まとめると、
 自分が主張するとき、敵を圧倒しようと焦るあまりつい他者に開かれていない正義を絶対的なものとして強く押し出し勝ちである。そうではなく、自己の弱みをも公開することを避けないようにしてリラックスして進んでいくべきだ。
 各派をそれぞれそれが何らかの求心的価値を持っているはずだ、という予断のもとに判断してはいけない。

以上、わざとではありますが、主張(色分け)のはっきりしない文章でした。

■プロフィール■
(のはら・りん)1953年、兵庫県生まれ、男性。18歳のときペンネーム野原ひとしを名乗る。その後野原燐に改名。1975年、松下昇氏に出会い以後大きな影響を受ける。E-mail:VYN03317@nifty.ne.jp  http://members.tripod.co.jp/noharra/







■情  況■


「正義」の行方

黒猫房主



情況としての「世界内戦/安全保障=危機管理」
 9.11の「同時多発テロ事件」は、ドナルド・ラムズフェルド国防長官によって、「新しい戦争」と名付けられたが、それは、前線(戦闘員)/後方(非戦闘員)、日常/非日常、国家/非国家、敵/味方の境界が不鮮明で、「終戦戦略」を持たない、「終わりのない戦争」へとアメリカ政府が突入したことを示唆した(註1)。
 つまり9.11事件が象徴しているのは、アメリカを盟主とする世界システムの中心が襲撃されたことで、情況としての「世界内戦=global civil war」が鮮明になったということだろうか(土佐弘之が指摘するグローバリゼーションのスピンオフ:「世界内戦」化)(註2)。だが戦争であるためには、「敵/味方」が要請されなければならない。そのことをブッシュはよく知っていたからこそ、「この紛争に中立領域は存在しない(In this cnflict there is no neutral ground)」と全世界に宣言したのだろう。
 だが実のところアメリカ政府とその同盟国は、誰が(どこが)「ほんとう」の敵なのか、よく理解(特定)できていないのではないか。それがいまだに、ビンランディンを首謀者とする証拠を公開できないでいる最大の理由ではないのか(註3)。
 すでに、自爆テロの実行犯は死んでしまったのであるから、その直接的な「敵」を「犯罪者」として懲罰することはできない。そこでアメリカ政府とその同盟は、別の「敵」を見つけ出して「正義」を行使(証明)しなければならなかった。それが別の理由から当面の「敵」として選ばれた、ビンラディンとタリバーンであったに過ぎない(という可能性は充分にあるだろう)。
 そうしなければ、アメリカを盟主とするグローバリゼーションという帝国の「正統性」は保証されないだろう。いち早く駆けつけて戦争支援を表明したイギリスのブレア首相は、そのことをよく理解していた。小泉は、少し寝ぼけて遅れをとった分だけアメリカに尻尾を振りすぎた。それで、憲法解釈を無視して「個別的自衛権」から「集団的自衛権」へと一挙にジャンプしてしまったのだ。これは歴代の内閣がなし得なかった、事実上の「改憲」である。
 小泉は、グローバリゼーションを錦の御旗に「世界の常識」と「国際貢献」を<超法理>として、いわば「無血的」にかつ「違憲的」に「改憲」してしまったも同然なのだが、小泉を支持する7割の国民のその大半はそのことを、リアルポリティックスに、かつ「民主的」に? 支持しているようだ。つまり、憲法の平和主義によって「国家を開く」という方向ではなく、同盟のパワーポリティックスによって安全保障的に「国家を閉じる」というリアリズムを選んでいるのだと言える。それはこの間の「周辺事態法」「通信傍受法」という法案にも端的に表象されている。
 情況はグローバル化に反比例して、ますます閉塞的に後退している。人々には、前進的な「平和」よりも後退的な「危機管理としての安全保障=安心」が焦眉の課題とされている。炭疽菌しかり、狂牛病しかり、災害しかり、「外国人」労働者しかり、「精神病」者しかり、テロリストしかり、潜在的テロリストしかり、サヨクしかり、等々。すなわち「消費/市民社会」への脅威は「敵」として「認知/排除」され、強大な公安警察の権力化を呼び込んでいるのだ。

他者なき正義の言説
 法哲学者のラートブルフは、「法の理念」として「正義の実現」を言っている。「正義は、真・善・美のように一個の絶対的価値であり、したがって、自己自身に基礎をもち、より高次の価値から導き出されるものではない」、そして正義の中核を「平等」思想に求め、アリストテレスいらいの「配分的正義」と「交換的正義」に分類して、正義の原形式を配分的正義(各人に彼のものを)にあるとし、交換的正義は正義の派生的形式であるとした(註4)。
 だがその形式性ゆえに、正義はポジティブには定義できない。それは、「不正義でない」と相互承認できる範囲で、事後的にかつ生成的にしか出現しない事態ではないのか。また、この「不正義でない」と相互承認できる範囲を、相互承認に基づく「妥当性=法」と捉えると、それは「その都度の正義」を実現してしまうが、それでは相互承認の対称性から「排除されたもの=他者」は、「不正義」として異議申し立てすることになるだろう。
 それで正義は、より正しくあろうとしてその他者を対称性に回収することで、その他者性を否定し、「普遍性としての正義」を目指そうとする。だが、それは正義の自己中心性という閉域を拡大強化するだけで、「普遍性という暴力」によって他者を根こそぎにすることにしかならない。

 この正義が言説として、具体的に他者を否定する事例として1999年のコソボ紛争でのNATOの「人道的介入」は、そのことをよく示している。当時のヨーロッパのメディアや多くの知識人たちは、ミロシェビッチによる「民族浄化」は「ナチスの再来」であるとして、NATOによるユーゴ空爆を支持表明した。「民族浄化」というレトリックは、「人道的介入」という「正義」を発動させ、その空爆による他者の否定を正当化する言説を組織した。そのような情況下においてドイツではほとんど唯一その空爆に「他者として」抗議し続けた、ペーター・ハントケという作家がいる(註5)。彼は、実際に空爆下のユーゴを二度に亘って訪れ、空爆下の人々の「現在」を照らし出すことで、この正義という言説の暴力性を見事に炙り出している。
ユーゴスラビアに対する戦争――それは単にクラスター爆弾やミサイル弾によって遂行されたのではなく、とりわけ「コンテクスト」と「理念」によって成されたのだ。
(p175、P・ハントケ『空爆下のユーゴスラビアで―涙の下から問いかける―』同学社、2001年)
「正義」の行方
 現下のグローバリズムにおける「正義の自己中心性=他者なき正義」は、アメリカを盟主とする第4帝国を正統化するだろう。だが、このような「正義」は脱構築されなければならない。
 J・デリダは「脱構築とは正義である」と宣言した。しかしどのようにして「脱構築/正義」は可能であるのか。「脱構築は、不可能なものの経験として可能である。すなわち、正義――は現実存在していないけれども、また現前している/現にそこにある(present)わけでもない――いまだに現前していない、またこれまでも一度も現前したことがない――けれども、それでもやはり正義は存在する(il ya)という場合において、脱構築は可能である」(註5)。
 そして「世界内戦化」を終焉に導くものは、この正義に他ならない。具体的には、「富の偏在」から世界的な「富の再配分=分配的正義」であるだろう。あるいは、「能力に応じて働き、必要に応じて配分される」世界の実現であろうが、それはいまだ現前していない。

(註1)「哲学クロニクル」208号  http://nakayama.org/polylogos/chronique/208.htmlで、ラムズフェルドの コメントが読める。
(註2)土佐弘之「脱領土的テロリズム、ポストモダン帝国体系と世界内戦」(「現代思想」2001年10月臨時増刊、青土社)
(註3)ダグラス・ラミスは、同時多発テロルの首謀者として、米軍とCIAに育てられたテロリストがアメリカへの反発や憎悪から攻撃したのであって、大義名分などもたない「犯罪者」であるとの見解を示している(「中立地域」、「現代思想」2001年10月臨時増刊、青土社)
(註4)グスターフ・ラートブルフ「法哲学入門」(ラートブルフ著作集4『実定法と自然法』所収、東京大学出版会)
(註5)ペーター・ハントケは、1942年生まれ。戦後西ドイツの文学を牽引してきた「47年グループ」をその大会に乗り込んで批判すると共に、みずから『雀蜂』や『観客罵倒』などの作品で、斬新で前衛的なスタイルを提示して注目された。ヴィム・ベンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』の脚本も書いている。
(註6)ジャック・デリダ『法の力』(法政大学出版局)

■プロフィール■
1953年、愛媛県松山市生まれ。3社の出版社を経て7年前に独立。専門書の販売促進から企画・編集・製作を業務とする「るな工房」を営む。隔月刊誌『カルチャー・レヴュー』および季刊紙『La Vue』編集・発行人。「哲学的腹ぺこ塾」世話人。Web「Chat noir Cafe′」の黒猫房主として、リアルの黒猫房開店を模索中(スポンサー求む)。




■編集後記■
★今回の「対米同時テロ/戦争」には、すでに多くの分析や言説が巷に充満していますが、情報操作に惑わされることなく、冷静に真偽を見極めて行動したいと思います。(黒猫房主)


TOPへ / 前へ