そもそもの発端は、生命学者・森岡正博氏がWebで展開している、「臓器移植法改正案に反対する」運動に呼応したことからでした。 そこで黒猫房主が掲示板「黒猫の砂場」で呼びかけて、この2ヶ月間に亘って「脳死・臓器移植」をテーマに、さまざま角度から共同討議をしてきたのです。その討議の途中成果あるいは私的総括としての五人の論考(対抗言説)を、本誌の別冊02号としてお届けします。 一度もリアルで会ったことのない人々がWeb上で議論をし、かつ論考をこのようにオンラインマガジンとして編集できたことは、インターネットの可能性のひとつだと思います。なおWeb上の言説主体であることを尊重して、著名はあえてハンドル名のままとします。 また本誌での論考を踏まえて、更なる討議への参加を期待します。 ★掲示板「黒猫の砂場」:http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain ★森岡正博氏のWeb:http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ |
脳死臓器移植問題について、もっともメリハリのある議論をしているのは生物学者池田清彦、であると私は思う(『臓器移植、我せず、されず』小学館文庫・『正しく生きるとはどういうことか』新潮社)ただし、論点は明確にしてくれてはいるが、私には同意できない部分も多い。ここでは、彼の論点を中心に愚見を述べる。この問題は事実問題ではなく倫理問題であるから結論はありえない。 ○脳死は人の死か 脳死、は、人の死か、という問題の建て方そのものが、おかしい。人の死、というのは定義の問題であるからだ。なにをもって、法律的な死(=人の死)とみなすか、という問題の建て方をすべきである。脳死(普通の人に判断しにくいと、異議をとなえるひと、があるが、現状の死だって、ふつうの人が判定しているわけではない。すべて、医者、病院まかせなのである)をもって、人の死と、「みなす」ということである。もとより、人の死、など、個人の思いこみ、でどうにでもなるものである(植物人間になった時点を死、とするひともあれば、腐乱死体を見てもまだ死んでいない、この人の生命は永遠です、というひともいるだろう)。何をもって、死、と定義するか? 必要に応じて、さまざまであってかまわないだろう。社会生活を運営するための死の定義も、複数あってもかまわない。どれかを選択的に決定できればよい。脳死、という概念がでてきたのは、臓器移植の必要が認識された後の、ことらしい。なるべくイキのいい、臓器をくり抜きたい、という要望から生まれた新たな死、の定義である。新しい医療技術が生まれれば、関連する法律はすべて見直しが必要になるのは当然である。 私は、本人の同意があれば安楽死、植物人間になった場合の延命措置拒否の自由も認めるべきである、と考える。こちらのほうが臓器移植のドナーカードなどより、有意味であり、遥かに重要かつ緊急の問題である(脳死臓器移植は、人工臓器により解消される、暫定的な問題である)。臓器提供の意志の有無より、延命措置拒否の意志をこそ、公的機関に登録しておくべきであるとおもう(臓器移植のドナーカードも技術的に稚拙な精度であり、登録制とすべきである。交通免許などと同じ)。 私は、臓器移植をやりたいひとは、やればいい、これを拒否する理由はない、と考えている。 ○自己決定権 自分の行動は自分で決定することができるのは当然である(というのは、自明の原理ではもちろんない。そういう要望をもつ人が経験的に多かった、というだけのハナシ。これを、公的に認知させた、これがすなわち権利、である。権利とは、天賦、ではなく、人賦である、という点)。脳死臓器移植に関連して、自己決定権という聞き慣れない(事実としては誰もが日常的に発動している)権利をことさら述べるのは、いかに自己決定が蹂躙されている(されてきた)か、ということの証明であろう。臓器移植において自己決定とは、ドナーはレシピエントまで決定するのが当然であるのにそれは、頭から無視されている(西部邁、池田清彦)。不完全自己決定、というべきである(ないよりはマシであるが)。しかし、臓器移植における自己決定とは何か? ドナーといっても、ドネートする本人、はすでに存在しないのである。死体というのは単なるモノであり、その処分方法まで生前の「所有者」が権利をふるうのは越権ではないか、という意見もあって当然である。 私自身は、死んだ後は、自分の体は、石ころ(道ばたの石ころは誰のもの?)と同じ、勝手に処分してくれてかまわない、とおもう。しかし、死体の処分責任は私以外の人がおこなう(家族)のであり、私自身の死体の処理により心的な影響を受けるのも家族であるから、移植の可否、については、本人の意志決定より家族の意志決定を重視してもよいのではないかとおもう(この点、私は、この一月で考えが逆転した。本を読めば考えがコロリ、と変わるノダ)。つまり、個人がドナーになる、と宣言しても、それを停止することができるし、ドナーになりたくない、といってもドナーに仕立て上げることもできる、ということである。こう考えるのは、死んでしまえば後は、ただの誰にも属さないモノ、と私が考えているからである。つまり、ドナー(贈与する人)という言葉自身がすでに矛盾を抱えているのである。 (註1)池田は、身体は個人の所有物ではなく、レンタルしているだけ、所有物でないモノの処分を借家人が決定できない、という論理。しかし、これも、見立て、である。所有、という権利そのものが上記のとおり、みなし、なのだ。屋上屋根、である。 (註2)小松美彦は、植物人間の自殺の自由をみとめない根拠として、死は己ノミの問題ではなく、看病に当たる家族、友人、などの問題でもある(共鳴、と呼んでいる)から、このような自由は制限される、といっている(NHK・ETVでの発言)。しかし、これは、自殺だけでなく、あらゆる自己決定に付属する問題であり、「共鳴」を根拠にすればあらゆる自由を無制限に束縛できる。諸刃の剣、である。 ○臓器移植を受ける権利? TV報道をみると、臓器移植の費用は、一億円近い場合がある。こんなものは治療と呼ぶべきではない。人命とは、高々100年。吹けば飛ぶようなモノである(べき)だ、とういことを常々教育すべきではないのか? 人の臓器をもらえないと生きていけない(だれが、このような判定を下すのか?)人の「生存権」を主張する人があるが、とんでもない発想である。権利を維持するためのコストは限りなく低い抑えるべきである。家族に、移植を必要とする事態が発生したらどうなるか。池田清彦さえ、家族にそういう事態が生じたら迷う、という。移植を当然とする体制ができあがってしまっているのである。私も、同じ事態になったら、迷うであろう。 ○死とはなにか 結局、なぜ人間(現代人は?)、長生きしたがるのか、という問題が残る。あるいは、なぜ死が怖いか? という問題。人間は犬や猫とは異なり、生命そのものでなく、ある価値(有形無形の所有物)の喪失がこわいのである。「ある時点で植物人間になり、それから数年後に死ぬとした場合、われわれが恐れるのは、あきらかに植物人間になる時点であろう」(岸田秀)。100年生きても、死ぬときは丸裸である。臓器移植してまで生きる価値はない、いろんな生があり、いろんな死がある、ということを悟ることが、もっとも価値あることである、とわたしはおもう。 ○脳死臓器移植。我関知せず。故に、我あり。 ■プロフィール■ 脱サラ、自営翻訳業。千葉県。52歳。男前。 |
【ファウスト】さて。己は哲学も法学も医学も、この世になくとも一向に困らぬ神学までも一向に探究し、隅の隅まで究め尽くした。そして、今の己があるのだ。憐れで馬鹿な己が。しかし学問を志す前と比べて、さっぱり偉くなっていない……。 【メフィスト】そんなに嘆くことはありません。お呼びでしたか。 【フ】何だ、藪から棒に。お前は何者だ。名はなんと云うのだ。 【メ】それは些細なご質問ですね。言語などと云うものを軽蔑し、うわべの世界をお避けになって、ひたすら事物の本質を探究されてきたあなたとしては。 【フ】それならそれで好かろう。それでは一体お前は何なのだ。 【メ】常に悪を求めるが故に常に善を為してしまうという、あの精神現象の一部です。 【フ】ふん。何だ、その謎めいた言い種の意図は。 【メ】わたしは常に事物を否定する精神的存在です。そしてこれは理の当然です。なぜなら、一切の生ずるものは滅すべきものですから。 【フ】何だと。おおっ。……ううう。己の心臓が焼け付きそうだ。若いころから鼓動にむらがあったが、この年になってから時折動かなくなることもあるのだ。 【メ】然り。あなたの心臓は、お若いころから欠陥品でして。そのために私が参上したわけです。もっと早くに心臓を交換しに来るべきでしたよ。 【フ】……ううう。漸くと発作がおさまって来た。はて面妖な。どう云う意味だ、心臓を交換するとは。 【メ】いや何、簡単なことですよ。世の中には、生きているだけと云うのが適切な下らぬ連中は幾らでもいます。その中の唯一人、たった一人に早めに死んでもらって心臓を召し上げれば宜しいのです。然る後に、あなたの御陀仏寸前の心臓と取り換えるなんてのは、造作もないことですよ。 【フ】生きているだけの者などは、この世にいない。誰でもそれぞれに応分の 価値あるが故に気概を持って生きられるのだ。 【メ】価値の基準もそれぞれでしょう。もっと気を楽に持てばよろしいのです。あなたがいくら価値あると弁護したって、赤の他人に云わせれば芥子粒です。決して心臓、いや心配には及びません。 【フ】まてまて、そう云うことならば死者の心臓を使えばよかろう。 【メ】止まってしまった心臓を動かすのは、この私にも難儀でして。止まった心臓というのは、死んだ心臓ですからね。死んでしまった奴は、もはや私の管轄ではないのです。 【フ】しかし、生きている奴を死なすのはいかん。それこそ悪意ある殺生というものだ。 【メ】いや、そもそも罪なき善人なんて何処にもいやしません。誰にでも罪の一つや二つはあるのですから、悪意ある殺生とは不適切な言葉です。天誅というべきです。それに私は天上の旦那とは懇意ですから、天誅を下すにまさに適任です。 【フ】誰にでも罪があるというのなら、一人にだけ天誅とは恣意そのものだな。 【メ】恣意的に選ぶのがお気に召さないというなら、一つこうしましょう。偶然に馬車に頭を轢かれるかどうかして今にも死にそうな奴を見つけ、ちょっとお手伝いしてやるというのはどうでしょう。こう云う奴ならどの道、死ぬわけですし、心臓を頂いた後、ささやかな葬式代を進呈すれば家族も助かりましょう。 【フ】しかし、いずれ死んでいくのは確実だとしても、まだ死んでおらぬ奴に止めを刺すことになるのだぞ。それに葬式代の金を見れば欲得勘定で、例え親でも見殺しにする奴が出るかもしれん。 【メ】そういう場合でも地獄に落ちるのは、其奴だけですからご安心を。 【フ】いや、そうとなれば己も見殺しに荷担したことになる。同罪ではないか。それに心臓を取られる奴の、先天的の生きる権利はどうするのだ。 【メ】いやはや、罪に権利と来ましたか。やれやれ。罪などというのはあなた方が自身で、その悪行の取り繕いである法律などというもので決めているだけです。とかく法律制度などと云うものは不治の病のように遺伝するのです。先祖から子孫へだらだらと継承され、国から国へじりじりと伝播していきます。そのうちに道理が非理になり、仁政が苛政にと変化していくのです。いやはや、末世には生まれたくないものです。ところで、人間の先天的権利 となると、残念ながら問題とするに値しません。 【フ】権利が問題にならないだと。 【メ】そうです。あなた方は、口先では権利、権利と仰いますが、そう云う輩ほど権利など蔑ろにするのが常道。他人の赤子を抱いて、口では良い子と云いながら手は尻をつねり、何時地べたに叩きつけようかと様子を窺っている様なものです。 【フ】そんなことはない。誰がなんと言おうと、権利は先天的に存在するものなのだ。 【メ】これは異なことを。他人がいなければ何の権利でしょう。一番初めの人間であるアダムにはどんな権利があったと云うのですか。いいですか。人が死ぬということは、自分以外の一切の人が消滅することと同じです。ですから、その状態では権利などありえないことになります。 【フ】お前は中々のソフィストだな。 【メ】いえ、私はメフィストなんですが。 【フ】しかし戯言で己を転向させることはできぬぞ。 【メ】まあまあ。頭を車輪で破砕されて死ぬほか仕様のない奴からは、心臓の鼓動が消えていくと同時に権利も消えていくのです。しかも、あなたが直接に誰かの頭を馬車で轢き潰すわけではないのです。ご安心して心臓をお受け取りなさい。 【フ】今すぐにでも手に入るというのか。 【メ】いや、そういうわけではありません。誰かの頭が馬車に轢かれるのが先か、あなたの心臓が御陀仏になるのが先か、ここは一つ根気比べですね。 【フ】そら見ろ。結局己が誰かの死を期待しなければならぬということではないか。こう云うことを大罪というのだ。……おお、また発作が起きそうだ。 【メ】大変だ、急がねば。私の手代に用意させましょう。 【フ】……うう。用意だと。どう云う意味だ。ああ、胸が苦しい。 【メ】実は屈強だが、暗愚で世間の役に立たぬ若者がいるのです。其奴をちょっと小衝いて、頭を車輪の下に押し込んでやるのです。すぐに片付きますよ。 【フ】止めろ。己は人を殺してまでも、心臓など欲しくはないぞ。……。 【メ】そうお思いになるのも今だけです。必ず感謝することになりますよ。さあ、受け入れなさい。 【フ】……いらぬ。 【メ】さあ。もう一度申しましょう。 【フ】………いい……いらぬ………。 【メ】おっと、心臓が止まった。死んでしまったか。ふん。しかたない。この先生の脳髄を取って、あの暗愚な若者の頭に仕込んでやろう。接ぎ木と同じだ。 【メ】ちょっと、あなた。目をお醒ましになって下さい。 【フ】何者だ、己を揺り起こすのは。おお。これはどうした事だ。己の身体が 何時の間にか変っているではないか。 【メ】お気に召しましたか。あなたの身体は若返ったも同じです。 【フ】心臓を交換するといっていたではないか。若者はどうした。殺したのか 。 【メ】滅相もない。死んだのはあなたなんですよ。あなたの脳髄だけは活気がありましたので、頭の潰れた若者の頭蓋骨の中に移植したのです。つまり、あなたは死んだが、若者は生き返ったという事になります。 【フ】ふうむ。難しい問題だ。……まあ好いか。それで、これからどうしようというのだ。 【メ】取り敢えず出掛けましょう。 【フ】どこへ行くというのだ。 【メ】お好きなところへ行きましょう。先ず俗世間をみて、それから大宇宙を見ましょう。まあ、一通り体験して御覧なさい。なかなかに面白くて有益ですよ。先ずは、私と賭けをひとつ……。 ■プロフィール■ 1949年8月31日、東京都に生まれる。千葉県柏市在住。家族は妻と二人の男児。電気工事会社の人材開発部門勤務、電気・計装エンジニア。電気は嘘をつかないが真理も語らない。ゆえに文化的嗜好は電気を避け、多岐亡羊を宗とする。Web「アルキメデスの館」http://arkhimedes.tripod.co.jp/ E-mail:Arkhimedes@lycos.ne.jp |
この改正案は、「森岡正博の生命学ホームページ」(http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/)の「現代文明学研究」コーナーに2000年10月20日に掲載されました。その特徴は、以下のとおりです。 1. 「脳死を人の死としないで『脳死した者の身体』からの移植用臓器の摘出を認める」という、違法性阻却論に立脚しています。法的な死は、呼吸と循環の不可逆的停止による「身体死」で統一します。臓器提供者の死亡時刻は、心臓停止後の臓器移植では心臓停止後数分を経たとき、脳死後の臓器移植では臓器の摘出が終わったときとします。 2. 身体または臓器や組織等を「人格権」の対象とします。 人格権は、所有権や財産権と違って、他者に譲渡できず、一身専属的で、死後も存続します。それは、その人の健康や生死とは関係なく、持続的な植物状態患者や無脳児にも存在します。 3. 人格権の行使は、臓器移植においては、次のかたちをとって現われると考えます。 「臓器提供は、臓器提供希望者が、生前に、移植医療に関する充分な情報を与えられ、変更の自由を保障され、かつ、いかなる経済的対価も伴わずに、自由意志と倫理的判断とに基づき、自発的な、任意の、書面による意思表示を行った場合にのみ、許される」これが、基本原則です。この原則は、生体間の臓器移植にも適用します。 4. 末期医療選択カード、臓器提供意思表示カード、チェックカード、臓器提供意思登録カードを作ります。こどもにも、こども用に表現をわかりやすく工夫したカードを用意します。 末期医療選択カードでは、脳死後、(1)集中治療室の中で心臓停止を迎える(積極的または消極的治療)、(2)集中治療室の外の病室で心臓停止を迎える、(3)集中治療室から手術室へ移動して移植のための臓器を摘出することによって脳死状態を終える、を選択できるようにします。 臓器提供意思表示カードは、末期医療選択カードで臓器を提供することを選んだ人で、登録をしない人が使います。提供する臓器の種類を特定します。臓器提供拒否権者を指定できます。 チェックカードは、脳死と身体死の違いについて、本人が理解していることを確認するためのものです。健康保険証と同じぐらいの大きさのカード(二つ折か三つ折)で、臓器提供意思表示カードとともに携帯します。チェックカードのすべての項目に自筆のチェックがついていないと、臓器を提供することはできません。 臓器提供意思登録カードは、登録する前に、日本臓器移植ネットワークの説明を受けます。 登録には試験をし、法律で期間を決めて更新し、そのときに意思を変更することができます。 15歳以下の人は、登録することはできません。 5. 末期医療選択カード、臓器提供意思表示カード、臓器提供意思登録カードには、保証人の自筆署名を必要とします。保証人は、末期医療の選択が履行されるのを見届け、臓器提供において、本人に代わって権利を主張する主体となります。成人であることが条件です。本人の家族がなってもよいが、本人の選択に反対だったり、お年寄りや子供で、保証人の役割を果たすことがむずかしいとき、また、本人に家族がいないとき、家族以外の人を保証人に選ぶことができます。 基本的に、成人は、本人の意思だけで臓器提供でき、家族の同意は必要ないことにします。 6. ドナーの遺族とレシピエントとの交流 移植待機患者になる前に移植コーディネーターに会い、次の三つの問題点、(1)ドナーの遺族が金銭を要求しないか、(2)ドナーの遺族がレシピエントと深い人間関係を求めないか、(3)移植後の臓器の具合が悪い場合、レシピエントがドナーの遺族を逆恨みしないかを検討し、それでもドナーの遺族に会えるという人だけが、レシピエントの登録をするようにします。 7. こどもの臓器提供が許可される条件を定めます。 未成年者の臓器提供には、配偶者、親等の家族の同意を必要とします。 15歳以下の人が臓器を提供する場合、保証人は、親以外の成年の近親者か、本人のかかりつけの医師、担任の教師や保育士等の、本人の教育や保育や医療に携わる人にします。 幼いこどもが、臓器提供について意思表示をすることはほとんど不可能です。幼いこどもはまた、おとなよりも脳の障害に対する抵抗力が強く、おとなより長期間脳死状態が持続します。 幼いこどもはその存在そのものによって、臓器を提供せずにその元のからだのままで生きようとする、強い意志と生命力とを持っているとも思われます。しかし、そのような強い生命力は、移植を必要としているこどもも持っているでしょう。だから、おとなと同じように移植を受ける機会をこどもも享受する権利があると思います。それゆえ、赤ちゃんを除く幼いこどもから、こどもへの臓器移植は、厳しい条件のもとでなら許可されると考えます。 以上の理由により、6歳未満3歳以上で本人の自筆の臓器提供意思表示カードがない場合の仮の条件を提示します。 (1)親がそのこどもを虐待していない。 (2)親が、こどもの死を納得している。 (3)親が、医師や看護婦などの医療従事者であるか、または、家族・友人・隣人・同僚等の交友関係者に移植待機患者や移植手術を受けた人がいて、移植医療の意義を理解している。 (4)そのこどもの「脳死」状態が既に一ヶ月以上持続しており、親が、看護または看取りを行なう時間は充分に確保され、必要に応じてソーシャルワーカー等のケアを受け、さらに長期間に渡って看護または看取りを続ける経済的精神的余裕を残している。 (5)こどもが、生前、生や死について親と語り合ったことがあり、こどもが死ぬときに、他のこどものために臓器や組織を提供することが、こども本人の意思に添うと信じるに足る証拠を、書面・絵・ビデオ等で、親が提出することができる。 (6)以上のことを家庭裁判所で審査する。 ■プロフィール■ 関東在住の中年の学生。今までに、ホームページを三つ作りました。 「よしずのやど」 http://www.ulis.ac.jp/~yutaka/ 「『ちびくろ・さんぼ』哀歌」 http://www2u.biglobe.ne.jp/~yutaka-n/ 「Order-Made Memoranda」 http://www.interq.or.jp/earth/elephant/ 上の二つはもう長いこと更新していませんが、一番下のは生きています。 掲示板もあります。 「Order-Made 掲示板」http://www66.tcup.com/6601/morning.html 「週刊モーニング」随時掲載の漫画Order-Made のファンサイトです。 |
脳死・臓器移植法の「改正」、それが問題の焦点である。それにどう対応するか、ということを足下からキチンとしておくためにも、ここでは原理的な問題にさかのぼって改めて考察してみたい。それは「そもそも脳死の人からの臓器移植(摘出)などということが倫理的に許されるのか、否か」ということだ。 この問いに対しての私の暫定的な答えは、「本人の意思」によるものであれば(ギリギリ)許されるのではないか、というものだが(註1)、これは森岡正博氏の分類によれば「慎重派」という立場に一応はなるのであろう。そうは言っても、それは私個人の確信(信念)の表明でしかないわけで、本当にそのようなことが言えるのか、ということを率直に・根本的に考えてみようと思う。 まず賛成するにしろ反対するにしろ、どこか我々は「脳死の人からの臓器摘出などということは、本来、許されないことなのではないか」という感覚を持っていると思う。その感覚から考えてみることにしよう。 この共通感覚は、それこそ様々な理由に由来するのだろう(他人の臓器を体に入れるということに対する気持ち悪さなど)が、こと「脳死」臓器移植ということに関して言えば、「脳死は人の死ではない」のではないか、という疑義が、最大のネックだと考えていいだろう。脳死が「死」ではないからこそ、臓器摘出によって提供者を死に至らしめることは許されない(悪である)という論理だ。 たしかに「脳死」は死へと向かうほぼ不可逆的なプロセスに入ったことは示していても、死そのものではないということが科学的にも言われる。だが科学は「個体の死」を決定できないという相対主義なのでもある。死そのものではないが、死へのプロセスに入ったということが、どうして我々に「(摘出は)許されない」という感覚をもたらすのかは、それだけでは明確ではない。それには個体としての死とは? 個体としての「生命」が終わるとはどういうことなのか? を考えてみる必要がある。 それは、哲学的には「他我問題」に関わる。我々は生きている他人についてさえ、その人自身の「私」を確実に知ることが、原理的にできない。我々は他人を「外から」観察することしかできないからであり、「内側から」知ることができないからだ。しかし差し当たってたいていは、我々は、他人の中に「内側から分かっている私」というものの存在を平然と確信して暮らしている。この文章も、これを読む人の「私」を予想して、それが「郵便」的に届けられることを前提に書かれている。 だが死のプロセスにある脳死の人においては逆に、そのようにふだん確信している他人の「私」を消去することができない。これは脳死の人に「意識があるかないか」(おそらく常識的には「ない」とされるだろう)という問題とは異なる。問題は、その現時点でその人にとっての「世界」が内側から開けている可能性を否定できない、ということだ。具体的に言えば、脳死の人からの臓器摘出において、脳死の人が「痛み」を感じる可能性があるとする指摘がある。ならば「痛み」として、その人にとっての「世界」が開けている(世界が存在している)可能性がある、ということなのだ。もちろん「痛み」など感じていないと主張する人もいるだろう。だがたとえそれが「無感覚」だったとしてさえ、そこに「なんらかの世界」が開けている可能性(世界があるのであって、ないのではないということ)を否定できない。 このように言うならば、あまりに形而上学的にすぎるだろうか。たとえば「魂のこと」を語っていることになるだろうか。だがとりあえず、ここではそのような形而上学的な実在を問題にしているのではなく、そのような死のプロセスに立ち会う人(家族ではない第三者でもいいが)にとって、そのようなものとして死者の「世界」が直観されるし、それは恣意的にその「世界」を自分の意識の内から消去してしまうことが出来ないような「リアリティ」を持つのだ、ということを指摘しておくにとどめておけば足りるだろう。 そしておそらくは脳死の人からの臓器摘出が許されないのではないかという共通感覚は、このような意味での「他者」の世界がリアルに感じられ、それを侵してはならないという感覚から来ているのだろう。 ただし心臓死も「科学的」には「個体の死」とは言えないはずだが、心臓死となると、一転して我々はそこに他者の世界が開けているとは感じなくなる。これは端的に「文化」の作用と言える。身近な人間にとってはそれでも死者は「消えた」わけではないが、少なくとも「その当事者の身体において」世界が開けているという確信は断念される。この断念させる作用が文化の力と言っていいだろう。ミイラが生きていると主張した「科学主義」的な宗教団体のメンバーは、この「文化」に抵抗していたわけだ。脳死・臓器移植に反対する意見の中にも、脳死・臓器移植は、このような「(死の)文化」を破壊するから、ということを理由に挙げるものがあるが、これについては後に触れることにしよう。 さしあたって、脳死の人からの臓器摘出において問題になる急所は「他者の不可侵性」なのだ。したがって、他人が、ではなく当の「自分」が「決定する」なら許されるのではないか、という自己決定権論がでてくるわけだ。しかしこれが単に「自分のことは自分で決める」という意味での自己決定を意味するのであれば、やはり多くの人は「許されない」という感情を強く抱くのではないだろうか。これは自分の身体の所有権との関わりでよく議論される。そのような自己決定をなしうるほどに、人は自分の身体に対して所有権を主張できるのか、といったところだ。しかし「〜権」などと言えば、そのような権利なり権限というモノがあたかも実在しているかについつい感じてしまうが、ようするにそれ自体は、法的な概念であり、ヴァーチャルな取り決めでしかない。したがって「〜権」があるから(ないから)〜だ、と言ってみても、原理的な(倫理学的な)思考としては意味がない。 だが自分の身体といえども所有権を主張できないのではないか、という論理は単なる法律論ではない、何か我々の心情に訴えかける力を持っている。やはりその根底には「自分の身体(生命)といえども、なにか自分のモノではないという感じ」という共通感覚があるのではないだろうか。だから、我々は自分の身体に対して自己決定するということを認めることを躊躇してしまう、ということなのではないだろうか。つまりそこでは身体(生命)が「他者」として現れ、やはりそれを「不可侵なもの」と感じるのではないか(註2)。 とすれば脳死・臓器移植はやはり不可能(許されない)なのだろうか。しかしそもそも臓器提供は「自己決定」というコトバでくくれるものではない。それは確かに「そうしなくてもいいにもかかわらず」そのように自分で決めた、と言う意味では自己決定だが、それは(原理的には)なんら「自分のため」の行為ではない。それは、どこの誰とも知れぬ他人を救うための行為なのであり、まさに「他者を手段としてではなく、目的(主体)として扱う」という意味で「倫理的」な行為なのだ。 倫理的行為は、(あくまで原理的には)自己のためではない行為であり、他者への無償の供物である。この点において(のみ)臓器提供という行為は、他者の不可侵性と拮抗しうるのではないだろうか。他者を救うという意味での他者を「目的」とすることと、他者を侵さないという意味での他者を「目的」とすることが、まさにちょうど計り得ない重さで向き合っている。だからこそ我々は、これまで生きてきた経験や共通感覚をヨリドコロにしてこの問題に向き合うときに、どうしてもどちらと決められないという境涯に立ち至るのではなかったろうか。 そこで提供を(ギリギリ)許される、と私は考えているが、それは私の個人的な意見、それこそ「決断」にすぎない。もしも脳死・臓器移植が「許される」とすれば、それはこのような意味での「倫理的な判断」として(他者の不可侵性に)拮抗しえていることが条件だろう…ということまでしか、原理的な思考としては言うことはできないとも思う。ただ、このように他者性の拮抗を明確にすることで、様々なかけ離れた立場の間での「対話」が成立する可能性はあるだろう。 あとは若干の論点を補足しておきたい。 このような倫理的行為は「善意に基づく」行為だということは言えても、その行為自体が「善」であるかどうかは言えない。一般に「倫理」的行為というものは、共同体内の「善―悪」という評価や決まりと関係がない(註3)。たとえば蜘蛛の命を救ったカンダタは、その「善意ある倫理的行為」を釈迦に評価されるが、この行為自体は社会やこの世にとってなんら「善」をもたらすものではない。倫理的行為とは、行為する者の実存にかかわるものでしかない(ただしそれは他者の実存こそを「目的」とする)と言ってもいいだろう。善意による行為といいながら、社会にとって臓器移植は善ではないのではないか? という「反対」意見はよく耳にする。それはこの倫理と善との区別が出来ていないところから来る混乱だろう。 もちろん臓器提供は社会的な行為として為される以上、それについての社会的評価がなされなくてはならないのは当然である。この点は冷徹に見極める必要がある。「文化の破壊につながる」という件の反対派の意見ともかかわる。心臓死を死とする「死の文化」の破壊であるとともに、他者の死を期待するごとき風潮を生み出すという意味での文化の破壊も指摘されている(註4)。 この点は微妙ではあるが、ある意味で「運用上の問題」ということもできる。つまりすでに指摘したように、臓器移植が可能であり許されるには、提供者の倫理性が条件となる。ならば、肝心なことは、いかにしてその倫理性(提供者の実存)を担保することが出来るかということだと思う。現在のように単なる善行としてドナーとなることが推奨されている状況では、ドナーとなることが極めて「オートマチックな事態」となりやすい。このような状況ではたしかに文化の破壊は起こるだろう。しかし、単なる自己決定として死が扱われるのでなく、倫理性が担保されるならば、死の文化そのものが破壊されるはずはないし、倫理性の顕揚は、それはそれで新たな「文化」を創出することになるかもしれない(圧倒的にドナーは減るだろうが)。 そういう意味では、倫理的判断がすでに行われたと見なす町野案(倫理的判断ではなく自己決定という言い方ではあるが)は、まったくの問題外ということもつけ加えておかなくてはならないだろう。倫理学的に言えば、善を行う本性があるから善を行うべしとする「本性論的誤謬」である。さらに臓器提供への意思が(すでになされたと見なされたにしても)倫理的判断であるとすれば、倫理的行為を法律で押しつけることになる。これは自由主義社会(国家)の根本ルールである「特定の倫理的行為を強制しない」ということを侵犯するものだ。我々は自由主義社会において、人に迷惑をかけないのであれば、非倫理的に生きる―倫理的にはなんでもない者でいる―それこそ「権利」があるのだ。それを明確にしておくことも、倫理性を担保するためには不可欠なことだろう。倫理的行為とは、そうしなくてもいい「にもかかかわらず」そうする、というものだからだ。 また当然「死の教育」というより「倫理についての教育(道徳教育にあらず)」も必要になるが、それと深くかかわる「子どもからの脳死・臓器移植」についてはまったく触れることができなかった。しかしそれを考えるための捨て石にはなったかと思う。 【註・参照】 (1)今次の「移植法改正」の動きに対するネット上での反対運動の中で、私は次のようなウェブ掲載用のバナーを作成した。 「脳死の人からの臓器移植は、本人の善意ある倫理的な判断によってのみ許されるはずです。」 (2)立岩真也『私的所有論』(勁草書房)参照。自己決定や所有が尊重され、かつまた制限されるべき根拠を、まさに「他者の不可侵性」によって示そうとした立岩氏の思考は説得力がある。 (3)柄谷行人『倫理21』(平凡社) (4)池田清彦『臓器移植 我、せずされず―反・脳死臓器移植の思想』(小学館文庫) ■プロフィール■ 1961年、岩手県生まれ。マンガ家。単行本『オムレット―心のカガクを探検する―』(広英社刊、1999年)のほか、商業誌掲載作品に「平成大逆転男」「黄昏まで3万マイル」(いずれもコミックモーニング)がある。HP「ひるますホームページ/臨場哲学」で書評・エッセイ・デジタルコミック等を発表中。 http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/ E-mail:hirumas@cancer.bekkoame.ne.jp |
1.議論の整理 この間、脳死・臓器移植に関連する幾つかの言説を読んできたが、そこで議論されていることの「問題」がどのように構成されているのか、ここで整理してみることから始めたい。 何が問われていて、また何が不問にされているのか。 まず手始めに「脳死」と「臓器移植」に対しての肯定・否定の立場を、社会学ではお馴染みの座標軸で整理してみると、下記のようになる(この分類は、美馬達哉「「脳死」と臓器移植」(『医療神話の社会学』所収・世界思想社)の図表を参考に簡略化したが、その簡略化の責任は黒猫房主にある)。 これらの立場は別の視点からみると、(1)の移植推進派・脳死肯定派と(4)の生体間移植推進派・人工臓器の開発派・臓器移植慎重派は、近代医学の進歩を肯定(信奉)する立場であるが、(2)の尊厳死推進派・延命拒否派と(3)の脳死絶対反対派・移植絶対反対派は近代医学の適用に懐疑的あるいは批判的な立場で、なかでも(3)の立場の中には、脳死移植は「脳死の人」の人権侵害(殺人)であるとの告発をしているが、パラダイムとしては近代医学の範疇を逸脱することはない。 したがって、某宗教団体の高橋グルのようにミイラ化した「死体」を「生体」とは考えないという点では、(1)から(4)は一致する。「死の定義」という問題が、このミイラの事例では象徴的に噴出している。 2.「死の定義」という問題 この「死の定義」に関しては、科学的立場・哲学的立場・法学的立場でのそれぞれの議論の位相が、レベル混同されて議論されるために錯綜することが多い。 このレベルは森岡正博の整理によれば、 レベル1 科学的事実としての死・・・・「脳死」「心臓死」「生理学的に見た個体死」 レベル2 哲学的レベルの死・・・・・・・「人間の死」 レベル3 法的レベルの死・・・・・・・・・「法的に見た死」 となる。 現在、焦眉の急として批判されている「町野案」は、脳死を一律に「人間の死」として法制化することを提案している。レベル1の議論を、レベル2を飛び越えて、レベル3において統一しようとするものである。因みに、現行法で法的に死を定義しているのは、唯一「死産の届出に関する規定」にある三徴候であるが、その中でも心停止が重要な指標とされており、その死の認定は医師の裁量権として行われている。 しかし三徴候死(心停止、自発呼吸停止、瞳孔散)も脳死も、いわば死に至るプロセスの指標であって、そのどちらにも科学的な優位性はなく、「死」そのものは部分的には特定できない、プロセスとして把握されるしかないものである。だから私たちは「死体という現象」(レベル1)を目の当たりにしても、「死という概念」(レベル2)が理解あるいは受容できなければ、「死体」として見做すことはできないのである。 「脳死」の指標が優位性を持つのは、臓器移植を前提にした場合のみであって、言い換えれば「早すぎる死」(レベル3)といってもよい。だからその「脳死判定」をいっそう厳密にしてゆくならば、「脳死」を判定する時点は限りなく後退するだろう。あるいは、医療技術の発達によって「脳死の人」を限りなく延命させることも可能だろう。 3.「移植医療」という問題 現行の「臓器の移植に関する法律」(臓器法)に先行して、「角膜及び腎臓の移植に関する法律」(臓器法の登場によって現在は廃止)によって、すでに死体(心臓死)からの臓器摘出を部分的に合法化している。その際に、倫理問題は発生しなかったのか。 脳死とは別に、移植医療全般の倫理的問題はあまり議論されていないようである(最近、ぬで島次郎が「ヒト組織の移植等への利用のあり方」の提言をしているが)。 ある意味では、角膜と腎臓移植の合法化によって、それらのことは解決済みとして不問にされてきたのではないか。だから、脳死体からではなく、生体間や心臓死からの移植には、表だった反対の声が挙がっていないように思われる。 池田清彦は、脳死移植医療は患者(レシピエント)に「他者の死」をあてにさせる意味で浅ましく、社会的デメリットも大きいという。だから善意でドナーになることは、却って愚行である、ともいう。だが一方で、「他者の死」を前提としない人工臓器とか自己再生臓器ならば倫理的問題はないともいう。 しかしこの議論は、「機械としての身体」「パーツとしての臓器」という近代医療パラダイムに基づいた批判である。ならば、他者の臓器をリサイクル・パーツとして移植することと、人工臓器を移植することには、いわば程度の差しかないともいえる。だがその程度の差に、嫌悪感や抵抗感が浮上してくるわけだが、それは自己認識ネットワークとしての「免疫機能」が他者臓器に拒絶反応を起こすこととどかで通底していて、「人間的自然」の抵抗なのかもしれない。しかしこの免疫反応を抑制剤で抑圧すること自体の是非は問われていない。 そして他者の臓器移植あるいは異種移植という技術は、しょせん過渡期の医療にすぎないのに、「移植でしか助からない」という言説と抑圧によって、他の可能性ある医療技術の開発を阻害することから、移植産業の繁栄がもたらされていることを忘れてはならない。 また今後の移植医療の発展によって、どこまでが「人間」で、何をもって「人間」とするのかという「人間としての概念」「概念としての人間」の変容が、必然的に要請されてくるようになるだろう。たとえば身体がすべてサイボーグ化されて、脳機能の記憶や感情もすべてコピーされた場合、それでもその身体あるいは機械は、「この私」と言えるのか。 因みにクローン人間は、「私の複製」ではなく、別人格の「他者」であることに注意を喚起しておく。したがってクローン人間の臓器を、ストックとして「私の臓器」にするという考え方は、他者侵害的である。 4.「自己決定」という問題 「自己決定」とは何であるのか。その前に、「自己という主体」は如何にして可能であるのか。 近代においては、この主体は「フィクション」であると考えられる。つまり、そのように決定しうる個人が社会を構成する主体であるという「約束」である。言い換えれば、「社会契約制度」を正当化するために発明された「個人という制度」として捉えられる。それは同時に個人の自由(恣意性)と責任(義務)を担保することで、その個人は同型・同質的に社会化されている。ここには、ルソー的な意味での「自然人」はいない。 そのように考えるならば、個人はつねに/すでに、何事かを決定せざるをえない社会的な存在としてある以上、次のような発言が導かれる。それは「臓器移植法改正案」提案者である町野朔が森岡正博との対談(『論座』2000年8月号)で、ドナー拒否の意思表示をしていない者は、「臓器提供する存在」として自己決定していると見做すべきだという発言である。 だがこれは選択肢を操作した上での、いわば強いられた自己決定に他ならない。本来、自己決定するということは、すべての情報開示と選択肢の公開を前提になされる自由意思(恣意性)の行使と責任の発生ではなかったか。 しかし同時に、「決定をしない」ことの恣意性(消極的自由)も担保されることによって、その自由の実質は保障されるべきである。その視点の導入によって、「自己決定できない」個人の人権・自由が確保されるからである。 では「死の自己決定」とは何であるのか。 生前に自己の死の迎え方、末期医療の受け方(尊厳死)、脳死や心臓死による臓器提供の有無の決定を言うようであるが、この決定はいわば遺言のようなものであり、その決定を下した当の本人は末期患者あるいは死者であり、その時点での意思表明も変更もできないと考えられる。 であるならば、その時点で本人は決定の主体とはいえない。そこで、その決定の実行はその末期患者あるいは死者を取り巻く関係者の主体に代理されるほかないわけである。 そこで「死の自己決定」とは、死者の生前の意思を憶測することではなく、あくまで明確な遺言状やリビィング・ウィルによる「本人の意思」に限定すべきであり、その意思を如何に尊重実行するかが、この死者を取り巻く倫理問題として浮上しくるのである。 だが「死の自己決定」をしない自由も担保されなければならない。すなわち、提供の有無を明記したドナーカードの携帯を義務化・強制される謂われはないのである。その場合、臓器提供に関して言えば、その提供の意思なしと見做すのが当然であると考える。 5.私の立場 現状での、「脳死の人」からの臓器移植は人権侵害の可能性が高いという認識において、私は反対である。それは臓器移植を前提にした場合、医師によって脳死状態が「操作」される可能性が高いからである。しかし、これはよく「管理」された心臓死からの臓器移植という問題も、実は隠蔽されているので、心臓死の場合でも人権侵害の可能性はゼロとは言えないが、脳死よりは透明性が高いと判断している。よって、ケースバイケースで心臓死からの臓器提供には、必ずしも反対はしない。 またドナーカードを持つことによって、救命救急活動が疎かになる可能性が高いことから、携帯にも反対である。加えて「脳不全状態」あるいは「不可逆性昏睡」をことさらに「脳死」と呼ぶことで、死の承認および臓器提供を強要しているパフォーマティブ(行為遂行的)な用法にも反対する。 以上のことを踏まえ理解した上で、それでも臓器提供をするという、まったく恣意的な自己決定には私は反対できない。また社会は、そこまでパターナルであるべきではないとも思う。 それでも上記の人権侵害のリスクを回避するために付言すれば、「脳不全状態」が明らかになるまでは、臓器提供の意思表明はしかるべき第三者によって本人以外には厳重に秘匿されるべきである。またこの自己決定の変更が、柔軟にできるシステムも必要である。 だがこれだけの環境整備に公的資金を投入するよりも、人工臓器や自己再生臓器の開発費に投入したほうが、よほど社会的メリットは大きいのではないか。 【参考文献】 美馬達哉「「脳死」と臓器移植」(『医療神話の社会学』所収・世界思想社) 池田清彦『臓器移植 我、せずされず』(小学館文庫) 近藤誠・他『私は臓器を提供しない』(洋泉社y新書) 森岡正博『生命学への招待』(勁草書房) 森岡正博『脳死の人』(福武文庫) 笠井潔・小松美彦「他者・共同体・死」(『情況 1996/11号』掲載・情況出版) 小松美彦『死は共鳴する―脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房) 立岩真也「空虚な〜堅い〜緩い自己決定」(『現代思想 1998/07号』掲載・青土社) 『「脳死」ドナーカード 持つべきか、持たざるべきか』(『いのちジャーナル』別冊MOOK1・さいろ社) 加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』(PHP新書) ■プロフィール■ 1953年、愛媛県松山市生まれ。3社の出版社を経て7年前に独立。専門書の販売促進から企画・編集・製作を業務とする「るな工房」を営む。隔月刊誌『カルチャー・レヴュー』および季刊紙『La Vue』編集・発行人。「哲学的腹ぺこ塾」世話人。Web「Chat noir Cafe′」の黒猫房主として、リアルの黒猫房開店を模索中。 |