★謹告★ 読者各位へ Web評論誌『コーラ』を2007年04月15日に創刊いたしました。 今後はこのWeb評論誌に注力しますので、本誌「カルチャー・レヴュー」は不定期の発行といたしますが、今後ともご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。 ■■■Web評論誌『コーラ』創刊号のご案内■■■ 本誌は、〈思想・文化情況の現在形〉を批判的に射抜くという視座に加えて、〈存在の自由〉〈存在の倫理〉を交差させたいと思います。そして複数の声が交響しあう言語‐身体空間の〈場〉、生成的で流動的な〈場なき場〉の出現に賭けます。賭金は、あなた自身です。 ★サイトはこちらです(すぐクリックを!) ★本誌のご紹介も、よろしくお願い申し上げます。
方向感覚を研ぎ澄ましながら ――論争的/論創的に 「コーラ」編集委員会/山本繁樹 ●シリーズ〈倫理の現在形〉第1回● 「嫌倫家」末木文美士氏への違和感 ――『仏教vs.倫理』をめぐって 広坂朋信 ●連載● 哥とクオリア/ペルソナと哥 第1章 「クオリアとペルソナ」仮名序 中原紀生 「新・映画館の日々」第1回 愛の再発明 あるいは愛される機械 鈴木 薫 発行日:2007年04月15日 発行元:「コーラ」編集委員会/窓月書房 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html |
中国の安い人件費でモノ作りを為し、業界に殴りこむという、所詮は価格競争を競り抜ける方策でしかない、「店舗用家具什器の物件対応・中国製作」なる生業を失って もう四年になる。当時、月に二度は上海で「美味い物」を喰っていたのだ。 何のことはない、直接中国に工場を作った競争相手に丸ごと奪われたのだ。低価格のアジア生産工場へ走る銭亡者の、構想なき私利行動の自業自得だ。 05年秋に交通事故に遭い、治癒しても進退極まっていた。06年、ひと様の熱い精神的支援を得て「本」を書き上げ、無謀にも出版した。探せど探せど、なおも仕事にありつけず、老年ハローワークの悲哀も経験した。 同年秋、旧知の人から「仕事」を与えられた。住み慣れた内装施工だ。昔、我が自主管理企業の下請けだった施工会社が、東京の案件が増え、都度大阪から出向いて対処しているが、都度出っ張りは先様にも失礼で限界。で、東京常駐者を探しているとのこと。若い施工職人、若いクライアントには、業界経験者・年配者・東京単身常駐可能者が好都合。有難くも、ぼくはそのいずれの条件も充たす人物だった訳だ。仕事は、新しい発見もあって、じっとしていた分際には、時代と世情を学ぶいい学校でもある。 オフィス施工に特化した業務は、まずは順調(?)に推移している。この施工業界にも在る、忘れかけた「創る」喜び(?)にくすぐられもして、早くも半年が過ぎた。 ぼくが昨秋から住んでいる文京区の向丘という地名は、新町名だそうだ。 旧東京府本郷区駒込追分町、駒込蓬莱町、駒込肴町、駒込曙町、駒込片町、駒込動坂町、駒込林町、駒込浅嘉町、駒込千駄木町などが再編成され「向丘」「千駄木」に統合されたのだと、車谷長吉の自己暴露的な哀しくも可笑しいエッセイに読んだことがある。 車谷は、自分だけが「俺はモノ書きだ」と認知して命を繋いでゆくしかない、あの極貧・不遇の「思い込みの美学」の一時期を、住いを転々としながらこの界隈で過ごしたという。そのころ旧町名はまだ生きていたと書かれていた。 家主に言わせると、「ここは由緒ある地域」だそうだ。それを聞いて以来、「由緒」とは何の由緒なのか?と思って来た。 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がこの辺りで囲い柵に馬を集めて飼育したから「駒」「込」なのだとか、駒込追分の「追分」は中山道と岩槻街道が分かれるその分岐の地点だったからだ、などが「由緒」だろうか? 日本武尊の日本平定譚が、実は九州王朝の祖先の「九州平定譚」を近畿天皇家が地名を改竄し経路を変えてそっくり盗み取り己が歴史とした詐術である、と確信しているぼくには、「駒込」の方は白々しく、「さすが帝都だ!」と揶揄したくもなる。 今日は午前中に指示を終え、あとを大工さんに任せ早く帰宅したので、「つつじが綺麗ですよ」と家主から聞かされてもいた近く(1Km)の根津神社(根津権現)へ出かけてみた。 訪れていた外国人グループが有難そうに本殿に見入っていて、パチパチと写真を撮っている。彼らには、ここが京都や奈良と同じように見えているのだろうなと思うと、「何を新しい物に騒いでいるのだ!」と茶化す普段の「反【帝都】ごころ」も、何故か穏やかに「それでいいのですよ」と鎮まった気分で居れるのだった。 1706年建立?綱吉?……わずか300年前か……。大江戸は、古くはない自らの世界に、こうしてこの那の古きものを必死に導入したのだ。それが職人文化と技術を育んだのだ。と、江戸を想う。アメリカがそのようにして、ヨーロッパを追い抜いて行った近代と同じく、大江戸の上方コムプレクスは、「発展」の原動力だったに違いない。 帰りに、神社の横の「権現坂」を上ろうとすると、坂の説明看板に「S坂」とも言われていると書かれていた。鴎外の小説『青年』に由来すると言う。 「純一は権現前の坂の方に向かって歩き出した。……(中略)……坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている……」とあるとのことだ。 旧制第一高等学校の生徒がこの小説を読み、好んでこの坂を「S坂」と呼んだのだと言う。坂を上り始め、その勾配に改めてこの先の我が居住地=向丘は「丘」であるのだと納得した。 そう言えば、「嗚呼玉杯に花受けて♪ 緑酒に月の影宿し♪」「向丘にそそり立つ♪ 五寮の健児意気高し♪」という寮歌はこの「丘」で生まれたはずだ。「寮」が「そそり立つ」「丘」なのだ。 向丘を西へ下ると、白山、小石川。東に下ると、根津、不忍通。不忍通を南へ20分歩けば、不忍池。湯島。 向丘から本郷通を南へ進み左に赤門を見て、さらに南進すれば、わずか徒歩20分で御茶ノ水に至る。その途中、本郷三丁目で東に折れると、痛い記憶の本富士署。(1969年、知人たちがここを襲撃して、陳腐な……と揶揄された) 本富士署を東に進むと湯島。そしてすぐ上野。もちろん、本富士署前はまだ通ること出来ないでいる。 いま上る坂の先にある我が住いは、丘のてっぺんに在るのだ。駒込・本駒込・本郷通だけを朝晩に通過する余所者の己は、大阪で言えば「上町筋」だけを歩き、台地は坂を下って、西に谷町、東に森之宮へ至るのだということを知らぬ者のようだ。 途中入った喫茶店で、「谷根千」(やねせん)なるチラシを手にした。谷中・根津・千駄木からの命名で、「谷根千」の「昭和」の街並みを残そうという市民運動があり、その会報らしい。じっと地図に見入っていると、あれこれ発見があった。 旧居:森鴎外・夏目漱石・樋口一葉・岡倉天心・木下順二 高村光太郎・幸田露伴・徳田秋声 墓 :八百屋お七・二宮尊徳・緒方洪庵・樋口一葉・他 旧跡:青踏社発祥の地、立原道造記念館・他 地図から広がる時空に独り泳いでいた。 高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」が思い起こされる。 この辺りを生活圏として鴎外が漱石が、そして時に訪れて来る極貧の青年啄木が、汝を、世界を、その虚実を、凝視していたのだ。 高橋は、「日本文学盛衰史」での推論=【漱石『こころ』の「K」は誰か?】で、「K」は北村透谷か? 幸徳秋水か? いやそうではない!とした。 『こころ』の先生が、かつて裏切ってしまった「K」。先生の自死、すなわち漱石が自罰をもって応えた相手とは……? 漱石はその人について『こころ』で、・坊主の息子・イニシャル「K」・途中で姓が変わって周りを驚かせた、としてヒントを提示している。 漱石が生涯「己が文学の敗北」として刻印した「K」とは……? 真摯に傍証を重ね辿り着いた高橋のあの「驚愕」の結論が、ヒリヒリ迫って来る。 坂に息切れて足が止まった。 識者は言う。明治の大文豪たちは「大逆事件」に際して、こぞって、沈黙をもって応えた、漱石もしかり、と。「K」とは幸徳秋水である、と。(注:徳富蘆花は兄の蘇峰を通じて死刑の執行停止に動いた。永井荷風は「文学者」停止を宣言、世間に背を向けた。昭和の戦争に対してもその姿勢は一貫していたと言われている。) 高橋によれば、「大逆事件」前後に漱石に推薦され場を与えられ、秘密裁判が始まるや、その同じ漱石に「場」を奪われた人物が居る、という。その人物は漱石を「先生」と慕い、何かにつけ相談にやって来ていた。 名を工藤一という。イニシャル「K」だ。彼は大逆事件に相前後して、「明治の暗黒」を撃つ評論を書いている。それは日の目を見なかった(どこにも出なかった。死後発見された)その評論は、今日では誰もが知っている。(2007.4.5記) 工藤 一。 明治十九年二月二十日、岩手県岩手郡日戸村にて生誕。 曹洞宗日照山常光寺 二十二世住職の子として生まれるも、妻帯隠蔽の為、母工藤カツの戸籍に私生児として日戸村戸長役場に届けられる。 父母の戸籍が統一された明治二十五年、彼の姓は変わる。 『こころ』の「K」のプロフィールにピタリ合致する。 明治四十三年八月、彼はある評論を書いている。「大逆事件」の僅か二ヵ月後である。 朝日新聞文芸欄に掲載されるはずであった。誰が執り持ったか? 朝日に『門』を連載していて朝日に力を行使できた漱石は、しがない校正係の彼を、その「歌」や「評論」で早くから注目していた。やがて漱石は、一目置いていた彼を朝日文芸欄筆者に推薦。が、その評論は何故か葬られ、掲載は実現しなかった。 明治四十三年九月、 埋め合わせるように、漱石の盟友池辺三山から彼に、「朝日歌壇選者」の大役の打診があり、彼はそれを喜んで受けた。 再び「誰が執り持ったか」? だ。 以上が、高橋が辿り着いた『こころ』作者漱石と「K」の関係である。 「K」はその短い生涯のうちに、ただの一度も漱石への非難・異論を口にしなかったという。彼は「じっと手を見」ていたのだ。 『何もかも行末の事見ゆるごときこのかなしみは拭ひあへずも』(同年8月) 『秋の風我等明治の青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く』(同年9月) 「事件」は大審院に構成された上告審なしの特別裁判所で秘密裡に審理を終え、幸徳秋水逮捕の約半年後明治四十四年一月、幸徳秋水・大石誠之助・管野スガら24名に死刑判決。翌日、大赦により12名無期に減刑。判決六日後12名に死刑執行。 「明治」は遠くなりにけり? 再び坂を上り始めた。敬愛して止まない車谷長吉が、この界隈で、何度となく転居を繰り返し、見果てぬ悪夢にのた打っていたという、狭く暗く湿った部屋が想起される。 寒い春に、冷や汗をかいて「根津権現坂」を上ってゆく車谷の後姿が浮かんだ。 「昭和」も遠くなりにけりか? 『こころ』の「K」が見ていた「明治の暗黒」「知の荒野」に想いを馳せ、車谷『赤目四十八瀧心中未遂』の主人公=生島与一を想いながら、坂の上を走る本郷通に出て、歩き、その夜の「一人豚チリ」用の豆腐・白菜・白ネギ・しらたき・豚肉を買い求めた。 袋を抱えて住まうビルの階段を上ろうとすると、ポストに、過日女房に送るよう依頼した、ひと目で我が主治医が出したものと分かる「血圧降下剤」の包みが入っていた。 包みの裏面に何やら字が踊っている。「タバコ止めなさい!」。 女房の見慣れた大きな文字だ。 明日は、また5時半起きだ。早朝から次の現場が始まる。昭和に続く「平成」なる世の、あいてぃー企業のオフィス施工だ。 窓の外の本郷通を、残り二日となった「都知事選」の車が往く。 平成「帝都」の「偉大」な現職知事支持を訴える宗教政党の車か。 注:(1) 「日本武尊」の日本平定譚が九州王朝の祖先の九州島平定譚のパクリであることの傍証は五万とある。詳細を希望される方はご一報下さい。 お伝えしましょう。 注:(2) 「『こころ』の「K」は誰か?」……はムチャクチャにスリリング。機会が在ればご一読を……。「日本文学盛衰史」は小説です。 注:(3) 恋しい男に再び逢えることを願い火をつけた八百屋お七は、助命しようとして発せられた奉行の「まだ十五であろう」に対し、七五三奉納記録を証拠に挙げてまで「いえ十六でございます」と答えたという。十五であれば、極刑は回避できたのだ。このお七の墓は、我が住いから徒歩わずか五分である。 ■プロフィール■ 橋本康介(はしもと・こうすけ) 1947年 兵庫県生まれ。 1970年 関西大学社会学部除籍。 1977年 労働争議の末、勤務会社倒産。 五年間社屋バリケード占拠の中、仲間と自主管理企業設立。 1998年 20年余の経営を経て、同企業及び個人、自己破産 2000年 店舗用家具中国生産輸入開始。 2002年 『祭りの笛』出版(文芸社)。フリーター生活開始。 2006年 『祭りの海峡』出版(アットワークス)。 同10月より、東京単身出稼ぎ業務中。 |
■黒猫房主の周辺■「春は桜か躑躅か、あるいは創刊」 ★今号は、東京に単身赴任中の橋本さんよりエッセイを寄稿いただきました。黒猫房主も十数年前、「根津駅」のお隣「千駄木駅」界隈の谷中に四年ほど住まっていたことがあり懐かしく読みました。「カルチャー・レヴュー」のWeb版とBlog版には、橋本さんが撮影した根津神社やツツジ(漢字で書くと「躑躅」、こんなの書けねやー)の花を掲載しております。 ブログ版は、こちら(http://kujronekob.exblog.jp/i24) ★なお、橋本さんご推奨の『日本文学盛衰史(高橋源一郎)』は漫画<『坊ちゃん』の時代>全5部(関川夏央・谷口ジロー、双葉社)に刺激されて執筆されたそうなので、併せて読むと「明治の時代」が近くなるかも知れませんよ。その『坊ちゃんの時代』の第4部で、関川は「いわゆる「大逆事件」とその背景」という一文で、漱石が文部省からの博士号をかたくなまでに拒否したことを、啄木との関連で示唆しています。 ★また高橋源一郎については、村田豪さんの評論が「カルチャー・レヴュー」57号57号と59号に掲載しておりますので、こちらもお読みください。とくに59号での高橋批判は秀逸です。 ★Web評論誌「コーラ」を創刊しました。同誌はレイアウトも工夫しWeb上で読みやすくしましたが、如何でしょうか? 本誌読者の方にもお読みいただき、広くご紹介賜りたく存じます。(黒猫房主) http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html |