『カルチャー・レヴュー』67号



■連載「映画館の日々」第13回■


それが物真似であることが私たちにわかるのは
――Emperor in Soclovland(2)

鈴木 薫







  よせあつめ 縫い合された国
  出雲
  つくられた神がたり
  出雲
  借りものの まがいものの 出雲よ
  さみなしにあわれ
  ――入澤康夫「わが出雲わが鎮魂」


 陰鬱なソクーロフ世界に拉致された“天皇”(イッセー尾形)がマッカーサー差し回しの車に乗って皇居を出ると、そこは、リアリズムの水準では敗戦直後の日本でも東京でもありえない――「当時」を舞台とした映画やTVドラマで“私たち”が見馴れた「焼跡」風景とはおよそ似ていない、だが、破壊されつくした首都が廃墟と化していることだけは圧倒的なリアリティで示す贋物の世界がひろがっている。建物の残骸に住みついている幽鬼のような人々。『太陽』の皇居の「外」の東京は、一種のパラレル・ワールド、日本が徹底抗戦して本土決戦が現実になった、「間違った世界」(日本SFのパイオニア小松左京の初期作品『地には平和を』はそうした世界を描いていた)なのかもしれない。1945年の日本というより、むしろ冷戦下のSFが描きつづけた終末後の世界――そこはソクーロフによって単純な要素の結合に還元され、組み立て直された「太陽の帝国」であり、人間らしい愛情と機械的な動きに分裂させられた、声を奪われた君主のいるところだ。

 イッセー尾形の演技が見事だというのは、この映画について語る者の一致した意見のようだ。顔が似ているわけではけっしてない俳優は、たしかに昭和天皇の外見を巧みに模倣している。それが物真似であることが私たちにわかるのは、むろんモデルのイメージを参照することができるからだ――そして、私たちにそれが可能になったのはそれほど昔のことではない。顔を上げることなく拝するものでこそあれ、「御真影」とはまじまじと見つめる対象ではありえなかったろう。映画の中で潜水艦めいた退避壕に隠れ棲む天皇は、もともとその姿を知られることのない隠れ潜む太陽だった。退避壕内の狭い自室で私的な「皇室アルバム」を“彼”は開き、ひとり自らのイメージを眺めるが、そこでは幼い“彼”がスカート姿で木馬にまたがり、あるいは即位のための装束に身を固めている。立憲君主国としての形式を整えるため“彼”がその役割を演じるべく導入された、西洋の君主の幼年時代のコピー。それは「天皇」をemperorと訳した、根拠のない借り物の地位に他ならないが、考えてみれば「天皇」という地位=名自体、シナの皇帝との差異化のために採用されたものにすぎない。“彼”は国軍の最高司令官であると同時に「国教」の主導者でもあるのだが、江戸時代の彼の先祖たちは仏教徒としての戒名を持っていたのだから、この地位が世襲の伝統などでないことはあまりにも明らかだ。衣冠束帯、軍服、そして来るべき時代における背広に着かえての全国行幸と、“彼”はマスカレードを続けることになるだろう。白馬に乗った大元帥陛下としての姿こそ見あたらなかったが、彼がつれづれに眺めるものの中には、ハリウッドのスターたちの写真もあり、また、デューラーの版画のページもあった。黙示録の四騎士を彼は見つめる。それに乗る者の名は死――阿南陸相(六平直政が熱演)が御前会議で一億玉砕を口にする状況下、彼の乗馬「白雪」は青ざめた馬なのだろうか?

 やがて、軍服を脱ぎ、背広をまとった“彼”――戦後の“私たち”が唯一知る天皇だ――が「外」へ出ると、ジープで乗りつけたアメリカ兵たちが彼を見つけて「チャーリー」と呼ぶが、それは彼が見ていたアルバムの中にすでにイメージとして先取りされていたものだ。彼らのカメラの前で、“彼”はむしろ進んでこの新たなイメージ化を受け入れるかのようである。

 御前会議で阿南陸相は戦争の続行を強硬に主張し、海軍大臣が木のボートでも戦えるというのに対し、「ドイツの軍用犬を使った自爆作戦」を提案するが、“私たち”は「事実」がこんなレヴェルでなかったことを知っている。犬ではなく人間が海でも空でも「犬死に」して行ったことを知っている。空襲が“彼”の午睡の夢のような、焼夷弾を産み落す魚の群れの飛来ではなかったことを知っている。戦争の原因はアメリカが日本人移民を排斥したことにまで単純化される。beastが原爆を落し、とマッカーサーに天皇は言う――私は残虐さを恐れて皇太子を疎開させた。マッカーサーはたじろいで型通り真珠湾に言及するが、まるで待っていたかのように“彼”は「私は命じていない」と応え、あっさり責任回避をなしえてしまう。映画にとってプロットとはフィルムを進行させるための口実だから、このようにわかりやすい筋書はむろん好ましいものである。

 マッカーサーが天皇にある質問をしようとすると、二世の通訳はそれが非礼に当たるのを恐れて取り次ぎを拒み、天皇の前で将軍と通訳は押し問答になる。そのとき、“彼”は静かに英語で語り出す――私はドイツ語、フランス語、イタリア語も少し、スペイン語、中国語も話す……。実際に昭和天皇が外国語に堪能だったかどうかなど考えてみたこともなかったが、アメリカ人の女家庭教師がつくようなことはありえなかったにしても、教養として、また欧州の王族との儀礼的なつき合いに必要という理由からも、“彼”が外国語を習得していたとしてもさほど不思議ではないように思われる。しかし、むろんここでは、映画が実在した昭和天皇を忠実になぞっているかどうかが問題なのではない。重要なのは――そして感動的なのは――ここで天皇が「声」を持ったことだ。

 声ならば、むろんそれまでにも私たちには聞こえていた。それはいうまでもなく「玉音放送」以来私たちが知ることになったあの声、終戦記念日がめぐってくるたびに「胸の痛むのを覚える」が繰り返されるのを、私たちが今なお記憶にとどめている声、日本各地の行事で「お言葉」を読んだあの調子を真似たものだ。(むろんそのことは“私たち”にしか知られない。)英語を喋り出したとき、しかし“天皇”はマッカーサーに対して、そして日本語を解さない観客に対して、内面を持った主体として自らを開示する。「玉音放送」、すなわち敗戦の瞬間を故意に欠落させながら、戦中と戦後にまたがった時間を描くこの作品の中で、それは“彼”が(御前会議の場面では欠いていた)声を取り戻す瞬間でもある。

 ソクーロフに『オリエンタル・エレジー』という作品がある。公開時に見たきりなので細部は忘れてしまったが、監督が日本で撮ったドキュメンタリーにロシア語のナレーションがつけられていたと記憶する。登場する日本人は、当然日本語で喋り、英語字幕がナレーションと日本語音声をカヴァーする。日本語を解する観客には、無名の日本人の喋る言葉はいやでも(いやでなくても)意味を形成し、そのつど字幕の英語との微妙なズレが沈殿してゆくことになる……。ナレーションのロシア語と英語のあいだにも、そうした齟齬は当然ありえよう。しかし、英語はソクーロフも理解しようし、ロシア語を解する人々以外にとってはスタンダードとなる英語のナレーション、および日本語から訳されたものとしての英語の台詞には、映像と同様、隅から隅までソクーロフのチェックが入ったに違いない。ひとり日本語の音声のみが彼のコントロールを最初から離れ、その及ばぬ領域として最後まで残りつづけ、完成作に収まり切らなかった残余としてのノイズを響かせていた。そこにどんな解釈の網がかけられ、そのためどんなニュアンスが失われたかを、ただ日本語がわかる者にのみに聞き取らせていた。

『太陽』にも『オリエンタル・エレジー』同様、英字幕があるものと私は思い込んでいた。だから、『太陽』の上映がはじまってすぐ、日本語の台詞が英語字幕によって秩序づけられず、生[き]のままの響きを聞かせるのみだと知ったときはちょっと残念に思ったものだ。進駐軍から贈られたチョコレートをおそるおそる口にした佐野四郎が「私はあられの方が好きです」とアドリブめいて口にする言葉や、「はい、チョコレートおしまい」と言うイッセー尾形に、“私たち”は編集という媒介なしに耳をかたむけることになる。

“彼”がその声を人々に聞かせることは重要な意味を持つにもかかわらず、「玉音放送」を巧妙にも欠落させた『太陽』の世界では、いわゆる「人間宣言」(実際には1946年1月1日の新聞各紙に載った新年の詔書)をも、録音盤のようなものとして想定しているらしい。「日本人が私一人になる」ことを避けるために戦争を終らせることを決意しながら、侍従長の言葉によってただひとり日本人(人間)ではないことを指摘されるという孤独は、これで終りを告げるはずだ。「私の国民への語りかけを記録してくれた、あの若い録音技師」はどうしたかと“彼”は思い出したように侍従長にたずねる。「自決しました」愕然としながらも彼はさらに問う。「で、止めたんだろうね」いえ、と佐野史郎。子供たちを連れて戻ってきていた皇后(桃井かおり)は一瞬顔を曇らすが、しかし決然として“彼”の手を取り、子供たちの待つ広間へと連れ出す。

『太陽』はこのようにして終る。子供たちとの再会という晴れやかな「外部」にはけっして到達せずに、それは暗鬱な内部で終始する。それは正統的な神話ではなく、あたかも出雲神話のように、統制され、しかもそこからはみ出たものだ。ソクーロフが現出させたはじめと終りのあるフィルムというかりそめの統一は、古くは土人の首長が大陸に倣い、近くは西洋に習って作り上げた「伝統」に似ている。疎開させている皇太子に“彼”が書く手紙は「愛する息子よ」ではじまっている。日本語の使い手がわが子への手紙をそのような言葉によって始めることはありえない。西洋語からの翻訳としてのその言葉を、日本語を知らぬソクーロフが、台詞として俳優に発声させてしまうことはまだ許されよう。だが、イッセー尾形は、墨と筆で紙に書くという“伝統的”な身振りで堂々とそう記す――愛する息子よ。この贋物の現前もまた、“私たち”にしか知られない。「愛する息子よ」がヨーロッパ語に訳しもどされて字幕としてあらわれるとき、それはこの上なく自然なものとして彼らの目に映り、ノイズは感知されず、ヒロヒトは彼らと変わらぬ一人の自然な「父」として受容されることになるだろう。

「録音技師」は“彼”の声が無防備に人々の前にさらけ出されるのに堪えられなかった。なぜ?

 たぶんそれは、声が(そして「愛する息子よ」と筆で書かれたエクリチュールが)“彼”の「似せもの」性をあらわにしてしまうからだ。“彼”が純粋な黄金ではなくその反対物であること、映画というものが監督ひとりで作るものではなく、作者のいない引用、かりそめの統一しか持たぬ、意思を欠いたつぎはぎの世界であるように、“彼”が「借りもの」で「まがいもの」であり、今また、与えられた新たな役を演じようとしていることが明らかになってしまうからだ。

  よせあつめ 縫い合された映画
  つくられた神がたり
  借りものの まがいものの 映画よ

 それが「さみなし」であることを祝福しよう。

■プロフィール■
(すずき・かおる)前回の続きは延期とし、ひとまず映画の話に戻りました。どうも語りそこなっているようですが――しかし、ロラン・バルトも言うように、愛するものについては必然的に語りそこなうということで――。なお、Emperor in Soclovland(1)は拙ブログ「ロワジール館別館」にあります。
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■特別転載「教育基本法「改正」反対■


このバカバカしい時代に立ち会った者として、
これまでに至る一連の経緯を注視し、記録し、広く知らせよう


t-hirosaka



■新聞の怠慢

マスコミはカウントダウンをはじめたらしい。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/wadai/archive/news/2006/11/20061102ddm005010080000c.html

http://www.asahi.com/politics/update/1102/002.html

毎日新聞の記事では未履修問題が、朝日新聞の記事ではいじめ問題が問題となっていることに触れているが、そうしたことと教育基本法改正がどう関係があるのか、またはないのかということについてはなにも述べない。

毎日新聞の記事はこうだ。

 【特別委では履修不足問題が主要テーマとなっているが、与党は救済策が1日固まったことで、早期採決の環境が整ったと判断している。
 一方、野党側は履修不足問題に集中させることで「時間稼ぎ」(公明党幹部 )に出るこれまでの戦術を踏襲し、さらに同問題で突っ込んだ質疑を行う方針。公聴会をもう1日開くよう求めるなど、できる限りの審議引き延ばしを狙っている。】


朝日新聞は次のような扱い。

 【これに対し民主党は、地方公聴会のほか、9日以降に中央公聴会の開催や参考人質疑を行うことも要求。政府の教育再生会議座長の野依良治氏やいじめ問題の専門家らを呼んで質疑する案も浮上している。】

つまり、未履修問題もいじめ問題も与野党間の審議日程をめぐる駆け引きという文脈の中で報じられている。もはや政府案成立は既定のコースであって、新聞社の関心はもっぱら採決のタイミングとスタイルにのみ集中しているようだ。

もっとも、政府案成立が既定のコースであることは当然の判断ともいえる。議会制民主主義の前提に立つ限り、前回の国政選挙の結果が出た時点で、政府与党は衆議院において圧倒的な優位を得た。もっともあれは郵政民営化しか争点にならなかった選挙だからと留保を付けたいところではあるが、結果は結果である。

しかし、だからこそ、多数派の専制をチェックする上でも、たとえ強行採決されようがどうしようが、審議の過程で政府提出法案の問題点を明らかにするのが野党議員の努めであろうし、もしそれすらなされていないとしたら、かくもお粗末な議論しかなく重要法案が衆院を通過しようとしていることを報知することが新聞社の仕事ではないのか。

どうせ決まるんだから反対したってしようがないとは子供じみた考えから出る言い草であって、人間の行う決定は、いかなる決定も未来永劫不変にして普遍ということはない。ましてや国際化の時代に対応するためと称して日本的特殊を強調する政府案は、成立しても遠からず矛盾を来すだろう。十年先か二十年先かはわからないが、再度見直しがはかられる時期が来る。

その際、このバカげた改正案が国会でどのような審議をされたのかは大事な検討材料になるだろうし、この歴史の曲がり角に立ち会っている私たちにとっても、それを知り記憶しておくことが、将来のためにどれほど大切かはわからない。

こうしたニーズに応えようとする気持ちを失うことは、新聞の怠慢といわざるを得ない。

■ヒューマン・チェーン

ちょっと昨日書きかけてやめてしまった記事があるので、こちらに書き直します。それはヒューマン・チェーン、案外名案だったのではないかということです。
http://kyokiren.seesaa.net/article/26603673.html

上にも書いたとおり、冷静に考えれば、政府与党がその気になれば、あんなトンデモ法案でも可決される。

それはまことに不愉快なことだけれども、これを物理的に阻止することは議会制民主主義のルールを破ることになるためできない。現状では、総理か文科大臣のスキャンダルでも発覚して大騒ぎになるといった僥倖を期待するほかないわけです。

そうだとしたら、いまこの流れに危惧を抱いている人間としてやるべきことはなにかは、だいたい限られてくるように思うのです。

 1. この法案の内容が民主主義の原理を損なうものであることを広く知らせる。
 2. この法案について国会で行われている審議がその内容に踏み込んだ充分なものではないことを広く知らせる。
 3. この法案の成立に反対している人が多くいることを広く知らせる。

ほかにはちょっと思い浮かびません(あったら教えてください)。

デモ、チラシの配布、意見広告、講演会の開催など、これまでも多くの方々がやってこられたことは、そうしたことでしたし、実に意義のあることだったと思います。実際、中教審答申が出た直後には、この問題への関心がこんなにも拡がるとは思えなかったほどでした。

手段は尽くしたけれども、前回選挙の結果、及び与党内にこのトンデモ法案を恥じらうプライドのある議員が少なかったために、来週あたり採決か、という流れになりました。

そこでこれまで用いた手段以外の、アッと驚く秘策はないか、と思わないでもありませんが、どう考えてもそういうものはない。

このバカバカしい時代に立ち会った者として、これまでに至る一連の経緯を注視し、記録し、広く知らせる、それこそが最大にして最強の反対運動だと思うのです。

新聞などは、無責任に11月10日という日付ばかり書き立てていますが、その後も参議院での審議もあるわけですし、まだまだこの法案の無理無体を広くうったえることはしていかなければなりません。11・12全国集会は中締めであって、お楽しみはまだこれからでしょう。11月10日という日付という日付に振り回されてそこに全力投球するというのはとても上策とは思えない。

そうすると、当初は11・12全国集会もあるのにしんどいことだなあ、知らない人と手ぇつなぐのやだなあ(でもきれいな姉ちゃんだったらいいなあ)、そんなに人が集まるかなあ(チョボしか来なかったら大恥)と私には思われた11月8日のヒューマン・チェーンは、なかなかよいアイデアだったことになるなあ、と思った次第です。

こうしたことについて運動を直接担っておられる方々のお考えはいかがでしょうか。

あんころブログのコメント欄に投稿しようと思ったのですが、長くなったので自分の日記に書きます。もし関係者ののお目にとまることがあればとてもうれしく思います。

★転載元のブログ → http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20061102
★t-hirosakaさんの了解を得て転載します。タイトルは本誌編集部が付けました。

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■黒猫房主の周辺■「デモとか、愛国心とか」

★教育基本法「改正」審議は来週には山場を迎えるようだが、「改正」反対への市民の意思表示の在り方として、t-hirosakaさんのブログ記事を転載させていただいた。

★僕はどちらかというと「政治的人間」ではないと思っている。デモは嫌いではないが、そんなに頻繁に行くほど熱心でもない。そもそもどこかの組合員でも市民運動のメンバーでもないので、数合わせで「動員」をかけられるわけでも、もちろんない。参加する場合は、まったくの自主的な個人参加だけだ。

★それでつい最近は、教育基本法改悪反対集会とデモに参加した。これまでは「共謀罪」との関連でこの論議に関心はもっていたが、その集会での野田正彰さんの講演を聞いてからは、いろいろと法案の問題点を自分なりに勉強して、遅まきながらその重要性と緊急性に気づいたという次第だった。その辺のことは僕のブログにも記した。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20061025
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20061031

★ところで、政府の「改正」案に対案として「新法」を出した民主党案に宮台真司が関与していたことを、つい最近知った。そのことは「愛国心と教育」という対談で明らかにされているが、その対談は次のWebサイトで読める。http://www.hideshima.co.jp/newpage32.html またその対談の宮台発言への(たぶん、僕よりは若い)demianさんの感想と考察も意義深い。http://d.hatena.ne.jp/demian/20061030/p2

★宮台によれば、愛国心の規定は「戦後的なものをシンボライズするものとしてのナショナリズムならば、これを肯定するというふうにプレゼンテーションするためのものであった」そうだが、民主党は見事にそのプレゼンを失敗したので、その結果、政府案よりも民主党案のほうが右寄りだという印象を与えてしまったと説明している。

★そのことは、端的に10/31の国会審議での民主党の野田佳彦議委員の発言にも表れている。同氏は、政府案の「<国と郷土を愛する態度を養う>の態度は形だけなのか」と批判し、戦後教育の総括として「民主党内でも異論があるかもしれないが、自分はしっかりと内面の心の教育に踏み込むべきだ」という趣旨の発言をしている。

★しかし国家が「思想と良心の自由」に踏み込んではならないというのは、まさに宮台の言う「戦後的なもの」の象徴だと思うが、野田議員の発言はそれを否定しているように思われる。そしてこのような発言を生み出す言語空間は、すでに「戦前への回帰」ではなく「新しい戦前」の始まりではないかとも思われるのだが、そのことに対してマスコミを含めて僕らはあまりにも鈍感になっているのではないのか。

★そして現在の国旗掲揚・国歌斉唱の義務化と強制の教育現場を見るにつけ、やむなく「形」だけ従ったとしても、ひとたび「愛国心」が法制化されてしまえば、「自発的服従の臣民」が「内心」はどうなんだ? という査問および評価を教師・子ども・親・私たちにしてくる可能性は極めて高いと危惧されるのだが、それは「左翼」によるフレームアップだと思いなす人たちも一方にはいるようだ。そいう人たちは「左翼言説」への嫌悪からこの危惧を認めようとしない。あるいは「愛国心の強制」を歓迎している。だがそれは「愛国心」の在り方に関わってくる。

★宮台じしんは「愛国心の強制」には反対している。先の対談では「右翼の伝統的な発想から言えば、愛国心を含めて、すべての価値は内発性、つまり、内側から湧き上がってくるものでなければ、ダメで、人を蹴落とすために、あるいは上に上がるために、これを利用した方がいいということの中に、日の丸や君が代、愛国心を、あるいはロイヤリティを示すということがあるんであれば、こんなバカなことはない。むしろ、右翼こそが、あるいは右翼的な感受性を持つ左翼こそが、愛国心の義務化に反対をしてきたという歴史があります」と応じている。また山崎正和のような「開かれた保守」も「愛国心の義務化」には反対している。

★しかし僕はどこかで暮らすにおいて、その国あるいはその郷にしろ、その共同体に格別の愛情を持たなくても他者と共生して(その共生のための義務を履行して)暮らせる社会が、もっとも抑圧の少ない社会だろうと思う。そうは言っても永年暮らしてくると、そこへの「愛着」は生まれるだろう。しかしその共同体を維持するために「格別の愛」という調達は、むしろ過剰ではないだろうか。むしろそれは「われわれ/国民/国境」を制限し、他者を排除することに繋がる。何百年先になるかわからないが、国境は超えられたほうがよいと思っているが、それは「格別の愛/熱い愛」からではなく、淡々と共生のための義務を履行する「冷たい愛」からでよいと思う。

★今号は村田氏の連載は休載です。それで、僕がピンチヒッターでブログの記事を基に、あらたに「カルチャー・レヴュー」用の原稿を書こうと思って、アレコレ思案している内に(けっきょく書けなかったが)、11月01日の発行日を過ぎてしまったという失態。発行日に合わせて入稿していただいた鈴木薫さんには申し訳ありませんでした。発行日の奥付は、いちおう11月01日にしていますが……(笑)。(黒猫房主)



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