『カルチャー・レヴュー』66号



■連載「伊丹堂のコトワリ」第10回■


「精神」って何なんだ〜!?

ひるます



獏迦瀬:たいへんごぶさたしておりました。というわけで、今回は「精神」とは何かをテーマにしてお話ししていきたいと存じます。

伊丹堂:なんじゃ、ずいぶん単刀直入じゃな。

獏迦瀬:はい、時間とスペースの節約です……なんか長くなりそうですからね〜このテーマは。

伊丹堂:しかしなぜ今、「精神」なのか。

獏迦瀬:これまでのところ、死とは、実存とは? ということで、個人としての「生」の問題を考え、一方でその外側の世界として、「世の中」とか「文化」というものを考えてきたわけです。それをつなぐテーマが、やはり「精神」ということではないか? ということなのですが……、ぶっちゃけ安倍新政権が発足し、憲法改正ということがおおっぴらに具体的な政治課題として語られ、一方では愛国心や教育の問題など、「右」寄りのある種の「精神主義」みたいなものが世の中に広がりつつあると感じるわけですよ。そこで、精神っていうテーマをきちんととらえておく必要があるかと。

伊丹堂:なるほどね。まあそういう右寄りの主義なり、改憲論には、それこそその都度その都度の対応をしていくしかないんじゃが、まあ原理的な話としてそれを押さえておくのも意味なくもないわな。

獏迦瀬:漠然としたイメージとしては、精神、というのは、ナントカ主義……というような「思想」傾向の基盤になっているもの、って感じですが。

伊丹堂:ま、そうじゃな。「精神分裂病」とか「精神に異常をきたした」なんて言い方の場合は「個人的な心の機能」というような意味合いになってしまうが、「精神分裂病」って言い方もなくなってしまったことじゃし、基本的には「精神」という言葉で語られるのは、個人的ではない、ある種の超越的なものを指していると考えられるのが普通じゃろうな。

獏迦瀬:それは神というか……?

伊丹堂:いや、そもそも精神ってのは、精霊、すなわちスピリトゥスの訳語じゃろ。つまり蒸留酒、スピリッツと同じ言葉なんじゃな。

獏迦瀬:心を蒸留したものが精神……っていうか。

伊丹堂:つまり心を超越しているが、心とは別の何か、たとえば"神"ではない。キリスト教で「父と子と聖霊と」とよく言うが、この場合の聖霊(ホーリースピリッツ)は、人と神とをつなぐ「媒介」の役割をしているとも言われる。

獏迦瀬:人を超えて神に至ろうとするのが精神ですか。

伊丹堂:ま、伝統的な意味での「精神」はそういうイメージじゃろうね。この連載ではたびたび話題にしているが、人間にとって「超越という構造」が宿命的にそなわっているということでもあるな。ようするにヘーゲルじゃな。

獏迦瀬:「精神の現象学」ですか……。あの本はようするに「ある見方」へのとらわれの状態から、それを否定してヨリ高い見地を得たとしても、さらにそれがまた狭い見方でしかないと否定され、あらたな見地が示され、さらに……ってのを延々と叙述していくわけですからね。

伊丹堂:ま、ある意味マンガのように面白い本ではあるな。個からの超出という過程を一般的な物語にして戯画的に語ってるわけで。

獏迦瀬:より個人的な見方からより普遍的、というか広い? 見方へと超え出て行く、その過程が「精神」だということになるんでしょうか。

伊丹堂:いや、それは人がそういう超越という構造を持つことを、一つの「事例」として語っているにすぎない。ようするに、そんな風にひとつの偏狭な考えから抜け出たということがあったとしても、それが「精神の高み」にまで往くなんて限らんわけで……。

獏迦瀬:そりゃそうですよね。それは今まで「実存」の話で、死を自覚す「れば」実存に至るなんてわけでもない、というのと同じですよね。

伊丹堂:ようするに単なる意識の経験的事実ってこと。まさに意識とは「長い時の流れの中でそんなことを考えてみたこともあった」(安吾)ってことにすぎないわけよ。

獏迦瀬:ヘーゲルの「精神の現象学」もサブタイは「意識の経験の学」ですからね。

伊丹堂:ヘーゲル学者によれば、それは本の前半部分のタイトルってことになるわな。後半の論では、ようするに教養や、文化、宗教というものが「媒介」となって、精神の高みに至るということになるわけじゃ。それが「精神」とは何かということを考える上では具体的な「イメージ」を与えてくれるじゃろうが、それもひとつの「物語」であって、「精神とは何か」ということにまっとうに答えるものではないわけよ。

獏迦瀬:物語ね……たしかにあの本は陶酔するらしいデス。

伊丹堂:話を戻すと、人がそういう超越という構造を持つということからして言えるのが、まず「人は経験によっては成長しない」ってことじゃな。

獏迦瀬:はあ……というと?

伊丹堂:そもそも人が一つの思い込みからそうでない見地に至ったときに「ああ、そういうことだったのか」と思う、ということが「経験」なわけじゃろ。ようするに経験というのは、あるコトガラに対して「結果としてそう考えた」ことなわけで、「そうだったのか」と後で思わないようなことは、経験として意識すらされないわけよな。

獏迦瀬:そりゃそうですよね。日々、空気のようにやり過ごしていることの方が多いわけです。

伊丹堂:つまり経験というのは結果なのであって、それによって人が成長する「原因」ではない。

獏迦瀬:まあ屁理屈みたいですが、そうでしょうね。

伊丹堂:屁理屈みたいだが、カンジンなことヨ。「ああそうだったのか」が後付けの意識である以上、それは、あるコトガラの意味を「そういうこと」に限定する作用が大きいということになる。

獏迦瀬:なるほど、人は納得したがる動物だということですよね。

伊丹堂:岸田秀的にいえば、人間においては「本能」という世界了解のプログラムが壊れているから、さまざまに「幻想」を作って了解しないと収まらない、ってことになるじゃろう。それはともかく、経験論なんて考えも世の中にはあるわけじゃが、経験ってものは、知識の根拠ではなくて、むしろ「結果」の別名なんだってことはわきまえておいた方がいい。

獏迦瀬:なにかというと「経験」を振り回す人ほど狭量ってイメージはありますよね。

伊丹堂:ようするに「コトワリ」がないし、説明する能力もないから、経験っていうしかないわけじゃろ。

獏迦瀬:なるほどね。

伊丹堂:ようするに、人は「超越する」という構造を持つとともに「経験」の中に納得したがるものでもある、というこの二面性を持ってるということじゃね。で、肝心なことは、その「経験」なるもの、つまり結果としての納得ってのは、なんら絶対的な根拠があるものではないってことよ。

獏迦瀬:それはこの対談では何度も語っているように、なんらかの「理解」というのは「コトの創造」である限り、「ひとりよがり」の思い込みであるという可能性からは逃れられないってことですよね……。

伊丹堂:逆にいえば、いかなる「経験」といえど「客観的な何事かの真理」なのではなくて、ようするにその都度の「コトの創造」として、個々の人々において納得されているにすぎないというわけじゃな。

獏迦瀬:その自覚がダイジと……。

伊丹堂:ようするに単に経験‐個々の体験レベルのことを繰り返していても、それ以上の知見には至らないわけで、そこに文化や教養という他者との遭遇(エンカウント)が必要、というのは、ヘーゲルの重要な指摘だったということになるわけよ。

獏迦瀬:文化については、以前の連載でとりあげてきました。文化ってのは、
人がそれぞれの「コトの創造」をなす場合の背景になるフォームみたいなもの、ってことでしたよね(「文化って何なんだ〜?」カルチャーレビュー38号 )。

伊丹堂:単に個人的というか、個別的な体験の中で人は成長するのではなくて、「文化」といったものと接触することで、自分の私見を「超越」して新たなナットクにたどり着いていく……という構造があるわけじゃな。それがまず前提としてあり、そこでさまざまな「実存」がある。そしてその中には「宗教」というあり方にナットクを見いだす人もいる……と( 「宗教って何なんだ〜?」カルチャーレビュー52号)。それがまあ、これまでのこの連載の流れだったというわけじゃ。

獏迦瀬:まとめましたね(笑)。とすると、精神ってのは、そういった文化や宗教以上のあり方ってことになるんでしょうか。

伊丹堂:そうではない、というかヘーゲルと違って、精神だからエライってことはないわけよ。

獏迦瀬:でわあらためて精神とは何なんでしょう?

伊丹堂:ひとことでいえば「共有された生命のコト的発現」ってことを以前から言っているわけじゃが、例えば前々回の「死って何なんだ〜」の回(カルチャーレビュー50号)でも紹介した中塚則男さんの「魂脳論序説」(LaVue5号)について論評したときにも語っている(臨場哲学通信55号)。

獏迦瀬:さいでしたね。おおざっぱに言うと、あの論では「魂」というものを様々に検討していたのですが、よく使う例としては、人間の個体の「単一性」を示すと。「私の魂、あの人の魂」なんてことですね。それに対してまた別の様相があると、ある人が例えば敵を愛するという行為をしたとき、その人はその瞬間、キリストになる……。そこには「キリストの魂」というようなものがある(リアルに感じられる)というような例でした。これを中塚さんは魂のひとつの様相として語っていたのですが、伊丹堂さんはそれこそ「精神」だろうと。

伊丹堂:というのは、その場合キリストになる、というよりも「キリスト的な行為」を自ずから実行する行為主体になるわけじゃろ。そこでは、ただ「その行為〜コトの創造についての自覚」みたいなものがあるのではないか、ということじゃな。

獏迦瀬:忘我というか脱自的というやつですか。

伊丹堂:いや、そう言ってしまうとマインドコントロールみたいじゃね……ま、そういうバアイもあるじゃろうが、精神が成り立っていることの条件としては、単に行為をなぞってるのではなくて、自分のコトとして臨機応変に行えているわけじゃ。

獏迦瀬:融通がきいているということですよね。

伊丹堂:ようするにそういう行為についてのコンテクスト(文脈)が自覚されているから、そこからブレない。その場合、「主体」的な意識(誰がそれをやっているか)が、背景に退いて、ただ「述語的行為」のみが自覚的になる、ということじゃな。

獏迦瀬:それが「コト的発現」ってことですか。では、主体が「共有された生命」というのは?

伊丹堂:繰り返しになるが、主体が背景に退いていると言っても、主体がなく行為そのものがバラバラ、まさに統合失調されてしまうわけではなくて、あくまで「ある精神であれば〜する」だろうという「統覚」がある。つまりコンテクストの自覚とウラハラに、それはあくまで主‐述という構造にある。では「後から」その「主」とは何なのか、と反省してみればそれは、自分という個人でもなければ、「キリスト」という具体的な人でもなく、それこそ個体をこえたなんらかの「大きな存在」だということなるじゃろう。それを定義的に表現したわけじゃ。

獏迦瀬:大きな力が自分を動かした……なんていいますよね。

伊丹堂:いや、それは宿命というものを言う喩えじゃろう。

獏迦瀬:はい……。ちなみに、コトが発現するフォームとかコンテクストが精神だとすると、精神というものが、文化や宗教とどこが違うのかがいまいち分かりませんけど。

伊丹堂:そもそも見方というか切り口が違うところから出てきた概念じゃからな。われわれがおそらくもっとも身近に感じているのは「リベラリズム」の精神であり、「民主主義」の精神なのじゃが、こういったものも以前、文化の一例として語ってきた。

獏迦瀬:ロールズの正義論なんかの時ですね。リベラリズムというのは、公平性を追求する思想ですが、たとえば「無知のベール」という仮想をすれば、自分が不当な立場におかれるのは嫌だから、公平さを志向することになるだろうという理屈に対して、しかしそもそも有利な立場にあるものが、あえて(そうしなくていいにかかわらず)無知のベールをつけてみる理由というのは、理屈からは導きだせないというアポリアがあったわけです。

伊丹堂:つまり経験論から公平の志向という文化は生じない(笑)。

獏迦瀬:逆に公平性を志向する文化が醸成されていたからこそ、リベラリズムという考え方が成り立ち得た、と。

伊丹堂:文化との遭遇ね。

獏迦瀬:リベラリズムというものが成り立つ「文化」と、リベラリズムの「精神」というのは、また別な見方なんだということですか。

伊丹堂:単純にいったら、宗教や文化ってのは「背景」。宗教について前回考えてみたように、それは人が「超越」という問題をどう納得するかという全体的な知の体系なわけじゃろ。それは単にその都度のコトの創造のヨリドコロとなるフォームというよりは、その創造の背後にあるシステム全体をさす広い概念なわけじゃな。つまりそれが「文化」ってこじゃろ。

獏迦瀬:静的なシステムとしてみた場合のあり方……というか。

伊丹堂:それに対して、精神というのは、さっき言ったようにある特定のコンテクストにおける「主‐述」という統覚構造を示している。

獏迦瀬:文化概念が水平的(共時的)とすれば、精神は垂直的(通時的)っていうか。

伊丹堂:外れてはいないが、そりゃ図式的すぎじゃな。ならば精神ってのは、もっと限定的に「倫理的」な実存に即したものだと言ってもいい。たとえば「スポーツマン精神」ってのがある。

獏迦瀬:スポーツマン精神?

伊丹堂:こんなものはありふれているようでいて、実は「精神」というもののあり方をよく示している。つまりスポーツマン精神ってのは、たんに表面的にスポーツのルールを守るという道徳を言っているのとは違い、さらに「倫理的」に、明文化されていないルール、というかラジカルな意味での公平性にのっとる、というようなもんじゃろ。

獏迦瀬:倫理とは「そうしなくていい、にもかかわらずそうする」ということでしたね(「倫理って何なんだ〜?」La Vue 7号参照)。

伊丹堂:ある意味、非日常的なものがそこにはあるじゃろう。

獏迦瀬:なんたって「宣言」するものですからね(笑)。

伊丹堂:経験的な「知」を否定して「そうではない」あり方を示すというところに、まさに精神が「倫理的」なものである性質があらわれているわけじゃろう。つまり、精神というものは、この世の現状に対して、なんらかの否定をつきつけているわけじゃろ。「そうではなくて、こうではないか」と。

獏迦瀬:改革派ってことですか(笑)。

伊丹堂:そうではない(笑)。保守派であっても、反対勢力が存在すれば、それに対する「否」を語らねばならぬように、一般的に、倫理的主張というものは、それに対立するものを想定している。ま、そんなのはウワッツラの話じゃが、本当の意味で倫理的であろうとするなら、少なくともそれは「自分自身の今の現状」に対して「否」という形で到来するわけじゃよ。

獏迦瀬:ほんとうに倫理的……ってのはケウですよね。。。

伊丹堂:いずれにしてもカンジンなことは、その「内容」とは関係なく「精神とは何か」ということが概念づけておく、ってことがここでの課題じゃったわけよ。

獏迦瀬:なるほど。

伊丹堂:結局、精神というのは、まず背景としての「文化」システムが存在しており、そのシステムにおいて、なんらかの「どうあるべきか」という倫理的なコンテクストが自覚されていて、それを人が「主‐述」的に統覚されて行う態勢になっている、という複合的な関係になっているってことじゃな。

獏迦瀬:ポランニーのいう人格的知、みたいなもんですね。それに対して文化や宗教はとくに人が関わらなくても「そこにある」という感じがします(笑)。神社仏閣とかね。

伊丹堂:ま、ほんとにそうなったら死せる文化であり、死せる宗教ってことになるがな。「リベラリズム」や「民主主義」の精神といったものも、日々われわれが「実行する態勢」になければ、なかったことになってしまうわけじゃ。

獏迦瀬:精神は精霊がやってくれるわけではないと(笑)。

伊丹堂:「精神」という実体がまずあって、それが人を動かしているわけではないからの。あくまで、人が実存として生きようとしたところにヨリドコロとして精神というあり方が浮かび上がってくるっていうこっちゃ。

獏迦瀬:ま、○○主義者と称される人で、まずお題目ありという人も多いと思いますけどね。

伊丹堂:それはただの事実じゃろう。そこに実は「精神」はない、と考えればいいだけじゃな。

獏迦瀬:なるほど。なんの信念もないくせにかっこつけだけで靖国に参拝した元首相もいましたね……。

伊丹堂:その人については以前から「実存がむなしい」だけということを言っている。靖国が出たついでに言っておくと、精神ということを概念的にとらえれば、そこでは「主体」が背景に消失していく、ということじゃったが、実際にナニガシカの主義・主張を精神的に語る者の中には、主体としての「神」や「霊」、靖国でいえば「戦争霊」というものをたてて、あえて信仰するという立場もある。この場合は宗教と区別できないから、宗教的精神、と言っておく必要があるじゃろうね。

獏迦瀬:宗教もそうですが、やはり「精神」の問題は「政治」と関わってきますよね。

伊丹堂:精神というのは、別に政治に限ったもんではないがな。政治とは世の中に対する超越的介入であり、それは人間の世の中にとっては構造的なものだって定義をした(「世の中って何なんだ〜?」カルチャーレビュー48号参照 )。したがってそれはシステム的に動いているわけで、そこに必ずしも「精神」的なものが関わっているかどうかは単にその都度の事例でしかないわな。

獏迦瀬:本当はそこで精神を発揮しなければならないんじゃないんですか?

伊丹堂:誰が? という問題がある。民主主義国家においては、すべての人が倫理的精神を発揮することなどそもそもありえないが、しかし「そこそこに倫理的」であるという必要がある。

獏迦瀬:それが極端に少なくなってる気がするのですよ。

伊丹堂:実際にはマスコミの堕落というものが一番大きいわけじゃが、ほとんど政府側の情報を垂れ流すだけで、あとは与党政治家をお茶の間の人気者にしたてあげ、和気あいあいと「身内」気取りになってるというのが現実じゃな。

獏迦瀬:ジャーナリズム宣言ってのがあきれましたね。

伊丹堂:実際のコトの発現が皆無なところで、むなしく「精神」の看板をかかげている、といういい例じゃな。

獏迦瀬:もっとジャーナリスト精神を発揮してほしいですよね。

伊丹堂:しかし精神ならなんでもいいというわけではない。精神がエライという話ではない、ということを言っている。

獏迦瀬:すみません、というと?

伊丹堂:精神というのは、倫理的なものであり、常にある特定の「コトの創造」に即してある。

獏迦瀬:ようするに、実際のコトの創造をともなう……。

伊丹堂:ということからして、常に「ひとりよがり」に陥る、独善的な「正義」に走る、という可能性とウラハラにあるということは、ずっと言ってきたことじゃ。さっきの「経験」がそうであるように、それは人の納得を強化し、それ以外の考え方ができなくなるような作用もまた持っているということでもあるわな。

獏迦瀬:ひとりよがり問題……、原理的に「ナントカ主義」が宗教化する理由ってのがそこにあるわけですね。

伊丹堂:というか宗教をベースにした宗教的精神というものがあるわけで、宗教化といっても問題の提起にはならない。ここではもっとはっきり言っておくべきコトがある。

獏迦瀬:というと?

伊丹堂:以前、文化について語ったときに「間違った文化」というものはない、ということを言った。それは文化というものが世の中で生きる人々の生活の背景となって息づいているものだからなんじゃが、しかし、精神ということを考えた場合、それははっきりと限定されたコトを創造するものであり、そうである以上、それは間違った精神であるということがある、ということじゃ。

獏迦瀬:間違った精神……ですか。

伊丹堂:間違った精神であっても、それにハマった人は「経験」を絶対化するのと同じで、決して自分の立場を変えようとはしない。

獏迦瀬:たしかにね。まさに話せば分かるわけではない、というキナ臭い状況が最近の日本をおおいつくしてますからね。

伊丹堂:コトの創造である以上、間違ったものははっきりあっても、逆に絶対的に正しいということはありえない。それをふまえて、とにかく間違った方向にはいかんように、語り続けていく必要があるってこちゃな。

獏迦瀬:まさに日々の発現ですね。

伊丹堂:まあね、しかし考えてみよ、さまざまな精神というあり方が、この世に存在しているのは、なぜか? といえば、結局は、そのような精神を日々実行して来た先人がいて、それが「普遍的なもの」となってきたから、じゃろ。

獏迦瀬:ああ、あらゆるコトの創造は誰かの発明である、という。

伊丹堂:文化を背景に精神というあり方が成立する、というのと同じくらいに、精神という人のあり方が文化を創って来たとも言えるわけじゃ。

獏迦瀬:循環的な論理ですが、つまりそういう循環的構造にあるってことなわけですよね。

伊丹堂:変な言い方じゃが「精神」の側からみれば、人が生きる目的ってのは、本人(当事者)がどう思おうとかかわりなく、精神というあり方をこの世に残していくってことなわけよ。

獏迦瀬:ヘーゲルちっくですね……(笑)。逆にそれが個人から見れば、魂から精神への浄化(蒸留)ってことになるんですかね。

伊丹堂:名を残すのではなく、コトそのものを残すってことじゃ。

獏迦瀬:精進します。(2006.10.01)

■プロフィール■
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、グラフィック・WEB デザイナー。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。お気軽にお問い合わせください。ひるますホームページ「臨場哲学」
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■「La Vue」7号より転載■


倫理って何なんだ〜!
――倫理の共有は可能か?

ひるます



 心とは何か? を探求するマンガ『オムレット』の中で、心に関する様々なテーマについて対話をしてきた二人、古本屋主人の伊丹堂と大学生の獏迦瀬くん。今回は特別篇として「倫理」について語ってもらいましょう。

獏迦瀬:倫理って何なんでしょうか。

伊丹堂:なんじゃ藪から棒に。

獏迦瀬:っていうか、ひるます氏のホームページではこのところ、ずっと「倫理」についての話題が大半を占めてたじゃないですか。でも書評やら時事問題にからんでアチコチ話がとんでるので、ここらで一つまとめてみてはどうかと思ったワケです。

伊丹堂:ふぅん。そう言うならキミがまとめてみたまえよ。ワシは聞いてて横槍を入れさせてもらうから(笑)。

獏迦瀬:なんですか、それ……。まぁともかく時間もないんで始めますが、なんと言っても「倫理」ということが一般的にもクローズアップされてきたのは、例の神戸の少年殺傷事件をきっかけにしてジャーナリズムで「なぜ人を殺してはいけないのか」なんて問いが語られてからのように思います。社会的な善悪の基準みたいなものが揺らいできた……ってことでしょうか。

伊丹堂:ふふ、そんなものがそう簡単に揺らぐハズもないんじゃが、基本的に「悪」という見なしができにくい、どこにでもいそうな少年がそのような犯罪を為したということによって、そういう問いを語ることがリアリティを持ちうる状況が出来たってことではある。

獏迦瀬:……そういうことでもなければ「哲学的な問い」がリアリティを持ち得ないってのも皮肉なものですが。

伊丹堂:しかしそれが「哲学的な問い」と言えるホドのものなのかいな。この問題についてはすでに何度も触れてるんでここでは深入りしないが(註1)、基本的に押さえておかなくてはならないのは、この問いそのものは実は「倫理」とはなんの関係もないってことじゃな。

獏迦瀬:その場合の「倫理」ってのは、すでに特殊に定義された用法ですよね。

伊丹堂:つまり共同体規範としての善悪とは関係なく、より「良い」状態に向けて、自己の責任において為される行為ってホドの意味じゃな。ようするに「実存」の問題と言ってもいい。

獏迦瀬:それは柄谷行人の『倫理21』(註2)における「倫理」と「道徳」の使い分けにほぼ相当するということでしたね。

伊丹堂:完全に一致するわけではないが……ともかく、共同体のルールに従う行為、主体的な判断を介すまでもなく、あらかじめ善悪が確定されているような局面を「道徳」と呼び、そうではなく、主体的な関わりとして為される判断や行為の局面を「倫理」と呼ぶ、……と。

獏迦瀬:とすると、道徳というか共通の価値基準と合致するようなコトを為してもそれは倫理とは言えないんでしょうか。

伊丹堂:もちろん社会全体としてもっている価値の共通感覚をヨリドコロにすることなしに、「決断」をしては突拍子もないことになってしまう。しかし倫理的行為というのは、そういったヨリドコロを単になぞっている(反復している)だけではない。具体的な場面ではある面から見れば価値基準に則って善と言えても、別な面からみれば善とは言えないというようなことはおうおうにしてある。例えば見知らぬ人が線路に落ちたのを助けようとして巻き添えになったという場合、それは人を助ける行為としては善と言えるかもしれないが、家族やまわりの人を不幸にしたという意味では悪かもしれない、ということじゃな。

獏迦瀬:一概に確定しえない状況だからこそ、決断によって決定するしかない……それがウラハラに責任を引き受けるってことでもあるわけですね。その決定は誰かがしてくれるワケでもなく、自分がするしかない、そういう意味で実存の問題なんだと……。

伊丹堂:つまり倫理的行為ってのは、創造であり発見なんじゃな。だから誰も思いもよらなかった倫理的行為というのがありうるが、誰も思いもしなかった「道徳」ってのはない(笑)。

獏迦瀬:たしかに……。

伊丹堂:もうひとつカンジンなのは、個々の場面において、人はそういう意味での倫理的行為をしてもいいし、しなくてもいいってことじゃ。倫理的行為をしない自由というものがあるわけじゃな。というかそういう自由とウラハラのものをこそ倫理と呼ぶ、これも定義じゃな。

獏迦瀬:倫理とは「あえて〜しなくていいにもかかわらず〜する」というカタチを取る、ということですね。これは以前ひるます氏が脳死・臓器移植法改正問題について議論したときに(註3)、脳死における臓器提供は本人の「倫理的決断」においてのみ許されるのだから、本人の意思なしで強制的に提供を決定してしまう改正案(いわゆる町野案)には同意出来ないという時の根拠にもなってました。

伊丹堂:倫理性の担保とか言っておったの。この問題についても触れてる時間はないが、ひとつだけ言っておくと、臓器提供が善意に基づく倫理的行為だというと、すぐにあたかも臓器提供が他人を救済する行為だから(いわば規範として)善だと主張しているかに取られてしまうが、これは今言った意味で「関係がない」。

獏迦瀬:そこでもう一歩話をすすめると、ここまでのところで「倫理」というのは、共同体規範とは「関係ない」としても、ようするに何らかの意味で「善」を志向する行為とは言えますよね。その「善」とはそもそも何なのか? ということです。そしてさらに、人はなぜそのような「善」をなしうるか、ということが問題になると思います。

伊丹堂:それはある意味でそれ以上、遡れない問いじゃな。人はともかく、人間同士の関係の中で、なんらかの「良い」状況をめがけて行為してしまう、としか言えない(註4)。

獏迦瀬:関係の中で……ですか。たとえば柄谷さんはカントを引きつつ「他者を目的として」ということを揚げていますが、ようするに他人の救済とか援助といった「目的」をもった行為が「善」だということではないのですか。

伊丹堂:そりゃ臓器提供が善だという論理と同じで単純な規範化じゃよ。「他者性」の問題はもうちと繊細に詰めておく必要がある。

獏迦瀬:というと?

伊丹堂:ようするに「他者」というのは「目的」としてとってつけたように出てくるのではなくて、ワシらの行為に構造的に関わってくるもんだってことよ。つまり基本的に、どのような行為であっても、人が行為を為すときにはそれは必ずなんらかの意味で他者を配慮したものになっている。他者との共通理解が可能な形式で、我々はコトの連鎖(論理)を作り出す、というカタチでしか行為しえない、ということじゃ。

獏迦瀬:コトの創造ですね(註5)。

伊丹堂:必ずしも明確なコトバになっていなくても、行為そのものが「論理」的な成り立ちをし、他者を配慮しているってことじゃな。それによって、ヨリ普遍的(まっとうなもの)にしようとめがけてコトは創造されるのだから、その意味で、アラユル行為(コトの創造)は倫理的である、ということが言える。

獏迦瀬:「倫理」そのものではないんですよね(笑)。

伊丹堂:ようするに「我々にとって」の視点から見れば、倫理的な形式を持っている。当の本人にとって「倫理」かどうかは別としてな。ところで当の本人が他者を配慮するといっても、別に常にアラユル他者のことをすべて配慮するなんてことがあるはずもなく、さしあたって自分がワカル範囲、すでに共有が成り立っている範囲内で適当に配慮してなされるわけじゃな。

獏迦瀬:ひとりよがりってことですね。

伊丹堂:そう。しかし逆に言えば、アラユル他者を配慮するなんてことはそもそも不可能じゃろ。

獏迦瀬:それが出来たら「神」ですね。

伊丹堂:しかし不可能とは言っても、我々はなぜか知らんが、「すでに共有が成り立っている範囲」を超えた他者を配慮して行為しようと「も」する。ようするにそういうとりあえずの共有では、ほんとうに良い・ほんとうに正しいことではないかもしれない……。ヨリ普遍的なコトとは何かを考えるわけじゃ。

獏迦瀬:そうしなくてもいいにもかかわらず……ですね。それが当人にとっての「倫理」ということになるわけですか。ただ、どうしたってそれは絶対的な普遍に到達することはできないわけですよね。

伊丹堂:それは原理的にしょうがないわな。しかしいずれにしても単なるひとりよがりではない。また家族や身内・知り合いといった自分に関わりがある限りでの関係性のみを配慮しているだけではない。

獏迦瀬:家族や身内だけのことを考えるなら「倫理」ではないですよね。むしろエゴイズムの変形でしょう。

伊丹堂:あと「世間」とかな。原理的に言って「自分がすでに分かっている他者」を配慮して行為するのであれば、オートマチックな行為であって、そこに自分の判断や責任は必要ない。ここで問題になっている他者への配慮というのは、常にそれを否定する他者を想定する、という否定の運動のことなんじゃな。当人にとっての「倫理」というのはそれを「自覚」し続けることのウチにしかない。

獏迦瀬:それが永続的な他者への配慮ということですね。

伊丹堂:ただ配慮し続けるというと、なにか問題を常に先送りしているかのように聞こえるが(笑)、ようするに否定し続けるというのは信念の開放性を担保しておくということであって、すでに言ったように「倫理」というのは、その都度責任を引き受ける決断としてなされるほかない。

獏迦瀬:それが実存たるところでしょうが、そこでもう一つ問題なのは、そう言うとやはり「責任はとる」としても、なにか言いっぱなし・やりっぱなしという感は拭えません。つまり「自己決定権論者」はそういうことを言うわけです。

伊丹堂:自己決定権論者はそもそも「配慮」しとらんじゃろ(笑)。配慮しつつ行為するということが何を意味しているかと言えば、実は(よくよくスジミチをたどってみれば)その行為の「まっとうさ」が、自分だけでなく「他の誰にとっても」妥当するはずだ、ということを訴えかけている、ということなんじゃ。

獏迦瀬:共有を訴えているというか……。

伊丹堂:共有と言っても、もちろん誰もがそういう倫理的行為をすべきだ、というのではないよ。人は非―倫理的に生きる自由があるんじゃから。しかし理解可能だと言うところにむけて倫理的行為は創造されている。もちろん相手に迎合するのではなく、普遍的に・誰にとっても、そのコトのまっとうさが成り立つだろうということを、訴えかけるわけじゃ。むしろその相手の分かり方をも否定する他者をめがけて説得がなされるのが、否定の先の先を配慮するということじゃな。具体的に知り合いなり身内に分かってもらいたいというのではないってのは、言わずもがなじゃ。

獏迦瀬:キミだけには分かってほしかった、というのは泣き言ですか(笑)。

伊丹堂:矜持がないんじゃ。それはともかく、このような意味での「倫理」は、いわゆる倫理的―道徳的行為にのみ関わるんではなくて、科学や芸術・技術や起業など、アラユル人間の探求的な創造全般に関わることなんじゃな。

獏迦瀬:アラユル行為は倫理的である……という観点からもそうなるでしょうね。

伊丹堂:柄谷も『倫理21』の中で、カントの物自体を独自に解釈して、打ち立てられた科学理論(仮説)に対して、常にその否定として現れる他者のことなんだと言っているが、まさに卓見ではあるわな。ま、科学的な知識といえども、倫理的なコトの創造であるということは、マイケル・ポランニー=栗本慎一郎の暗黙知理論において、科学が個人的関与による創出であるということですでに明確にされていたことではあるがな(註6)。

獏迦瀬:ところでさっき出しておいたもう一つの問い、人はなぜそのような「善」を為しうるかという問題です。こういう文化についての倫理的な態度というのは、ある意味で自分の名誉欲とか功名心というのもかなりあると思うんですが、いわゆる倫理的―道徳的な行為(たとえば無償の他者救済というような行為)というのがなぜに為しうるかは、謎として残るんじゃないですか。

伊丹堂:そりゃまた俗流心理学的見方じゃな(笑)。いくら功名心があったって、さっぱり「発見」も「創造」もできない学者や文化人はいくらでもおるぞ。

獏迦瀬:それは……たしかに因果関係にはないと思いますが。

伊丹堂:なぜに「善」をなしうるか? と言えば、さっきも言ったように、我々がなぜか「良い」状況をめがけてしまうから、としか言えない。これは科学や創造の分野であれ、いわゆる倫理的な行為であれ、原理的には同じことじゃな。ただ言えるのは、そこでそのような創造=倫理が為されうるのは、そのような「否定の運動」を引き起こしてやまぬホドの「リアリティ」がその人に到来したからだ、ということじゃな。リアリティとは、つまりアイデアであったり使命感、責任感だったりするわけじゃが……。

獏迦瀬:到来……ですか、なんか無理やりさせられてるみたいですが(笑)。

伊丹堂:いや、それが内側からリアルに感じられるからこそ、人は自発的にその行為をなしうるのじゃ。他律的に無理やり「やらされた」と感じる場合は、そこに何のリアルもないわけじゃろ。とりあえず「アタマで」理解してそれをやってみる、とか。

獏迦瀬:では、なぜにリアルが到来するか、というか、どうしたらそれは到来するんでしょう。

伊丹堂:それは経験の積み重ねの中での偶発事というしかないな。文化の積み重ねや歴史の中で新たな創造が行われるというのと同じじゃろ。歴史の中でのさまざまな倫理的な経験の積み重ね、歴史と文化の中で、個々人も倫理的行為がなしうるように(無意識的に)錬成されているんじゃ。ハビトゥス(習慣)とかフーコーの言う倫理的美学的様式化ってやつじゃな(註7)。

獏迦瀬:でも経験や学習からだけでは新たな創造は起こりませんよね。
伊丹堂:ロボットや人工知能ならな。そこで創造が起こるのが人間の不思議ってことよ。逆に言えば、「人を倫理的にすることはできない」、にもかかわらず、「倫理は伝承されうる」ってことじゃな。ようするに文化とは倫理的―創造的行為の「可能性の条件」なんじゃ。それが起ち上がる「地」ってこと。とにもかくにもカンジンなのは、倫理というのが、とってつけたような正義感や義務感によるものではなく、人間の根源的なリアリティに裏打ちされたものだということなんじゃ。

獏迦瀬:なるほどね……。ところで「倫理」ということに関して、ここまで「公共性」だとか「正義」という問題、つまり国家とか社会全体に関わる問題については触れてませんでしたが……。

伊丹堂:それはすでに話に出てきた他者への永続的な配慮ということと、現時点での歴史的文化的状況ということをおさえとけばいいと思うが、すでに長くなりすぎた。それはまたの機会ということにしておこう(註8)。

(註1)ひるますのホームページ(URLはプロフィール参照)での時評参照。この問いの形式を「ヒステリー的な問い」として批判的に分析している。小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』(洋泉社新書y)も参考になる。
(註2)柄谷行人『倫理21』(平凡社、二〇〇〇)
(註3)ひるます「脳死・臓器移植と「倫理」―その可能性と条件―」(「カルチャーレヴュー」別冊02号、二〇〇〇)
(註4)竹田青嗣氏は『プラトン入門』(ちくま新書)等で人間の欲望は真・善・美をめがけるとしている。ここでいう真・善・美は、例えばこの世において、何が良いか・正しいか・美しいかは確定していないが、我々は「良さ・正しさ・美しさ」という観念(あるいは方向性)を共有している、という意味でのイデアとされている。つまり、それがあって初めて何が良いかを問うたり、確認しあったりすることが出来る基底的なヨリドコロであって、その意味でそれ以上その根拠を問うことができないものである。
(註5)ひるます『オムレット』(広英社、一九九九)、第4章。
(註6)栗本慎一郎『意味と生命』(青土社、一九八八)
(註7)内田隆三『ミッシェル・フーコー』(講談社現代新書、一九九〇)
(註8)公共性と政治の問題に限定しては、ひるますのデジタルコミック『民主主義で行う!』(インターネットで無料配布中)の末尾に、この架空対談と同様の形式でのコラム「政治ってなんなんだ〜!?」としてすでに公開している。


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■黒猫房主の周辺■「他者への〈配慮〉、義務の先行性と内発性」

★ひるます氏から久方ぶりの寄稿を頂戴した。この間のひるます氏のテーマは「共有された生命のコト的発現」を廻っての体系的な考察になっていますので、過去の寄稿も参照してお読みください。そこでの重要なポイントとして、「ひるます倫理学=そうしなくてもいい、にもかかわらずそうする」という、「リアルの到来」に基づく実存的決断というのがあります。今回これまでWebでは読めなかった、「ひるます倫理学」を主題とした「倫理って何なんだ〜!」も転載いたしました。

★かつて黒猫はその論考に次のような感想を書いたことがあります。
《ひるます氏の「倫理」を黒猫ふうに変奏すると……。事的存在であるとは素朴実在的に「在る」のではなく、関係存在的に「在る」ということに他ならない。私たちが、共同主観的存在構造をもつということは、すでに/つねに「他者性」を組み込んだ存在であり、「他者への配慮」は不可避な経験でもあるだろう。この経験を自覚し続ける態度の内に「倫理」が生じ、「アラユル行為(コトの創造)は倫理的」な形式であるということが導かれる。つまり「あえて〜しなくていいにもかかわらず〜する」という形式である。/次に「永続的な他者への配慮」ということは、「我々」(私としての我々/我々としての私)を超えた、あるいは否定しようとする、〈外部〉としての他者への「応答可能性」のことであるだろう。このことが可能であるかぎり、〈倫理〉は無限に拓かれている。》(「La Vue」7号、2001.09.01)

★黒猫は「倫理主義」と〈倫理〉を区別しています。「倫理主義」というのは共同体等による他律的な「道徳」のことであり、それに対して〈倫理〉とは自ずから立ち上がる他者への〈配慮〉のことだと考えています。この「自ずから立ち上がる」ということを、ひるます氏は「リアルの到来」と呼ぶのだと思います。また他者への〈配慮〉のことを、「義務の先行性と内発性」と理解してもよいように思います。

★そのことについて、最首悟は次のように書いています(立岩真也『自由と平等』の脚注p322より孫引き)。
《最首が義務の先行性と内発性について述べている。「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」(最首[1993→1998:131])「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])これを受けて、[2000b→2000g:312-313]で本文に記したことを述べた。最首の言う内発的義務については川本[2000]に言及がある。》

★しかしこの「内発的義務」の到来は、「この人、あの人がいること」の〈快/不快〉の恣意性に左右されるから不安定です。しかし私たちが他者との関係性において、好悪はあるにしても互いに〈ある〉ことの欲望にあるいは「正しさ」に忠実であるならば、強制としての義務=権利は承認されるのだろうと思います。(黒猫房主)



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