『カルチャー・レヴュー』64号



■「La Vue」からの転載■


私はその存在を肯定したい
――立岩真也著『私的所有論』『弱くある自由へ』を読む

加藤正太郎


 そんなこと言うなよ、それで全部じゃない、とすぐに言いたくなっている。そのくせ自分はといえば結論をいつもためらい、Xとも言えるしYとも言える、それは難しい問題だと口ごもる。拙速な断言をいましめているつもりで、遅さを得意げにしてもいるだろう。

 何かの「思想」に依拠することなく書かれたという『私的所有論』(勁草書房)は、ある簡潔な等式の存在を浮かび上がらせている。そして誤解をおそれずに言えばこの等式は、私たちのもつ「単純」な「感覚」が、成立させているものなのである。「感覚は論理を備えている」と書く著者は、この現実をめぐる様々な問いの核心に、それなりに「単純なもの」があるはずだと言い、それを「論理を辿る」ことによって見出すのだという。だとしたらここで「論理」と呼ばれているものもまた(「部分は全体より小さい」「Pかつ非Pは矛盾」といった)、私たちがすでに身につけているものであるだろう。

 『私的所有論』の主題は、こうした作業を行うことによって、「能力主義」や「優生学」をめぐる問いに、具体的で規範的な答えを出すことに向けられている。導かれる結論は、例えば(1)能力を高めることはよいことであるが、能力に応じて財を得ることは制限され、また雇用に際しては能力以外のものを判断することは禁止される。(2)十分な分配だけをする(非介入的な)「冷たい」福祉国家を構想する。(3)ある時期までの妊娠中絶は認められるが、出生前診断による情報の請求は制限されるべきである、といったものになるだろう。

 一つの感覚を手放さず、身近な論理を踏み外さずにおくことで、誰もが同じ道を辿るのかもしれない。けれども私たちにそれができないとしたら、いったい何が邪魔しているのか。

  同じ労働力商品としての価値を持つのであれば、民族・性別等によって雇用を拒否すべきではないとされる。……十分に遵守されているとは言えないにしても、ともかくこの原則はある。……なぜ「能力」の場合は認めるのに、「民族」「性別」によっては差別してはならないのか。(第8章、『私的所有論』)

 例えば私たちは、「能力」が不平等へとつながることに抵抗を感じながらも(そして「能力」のない人の存在を知りながらも)、「能力」だけを評価すべきだと考え、またこの原則を(「属性」による差別を身分制の温存だと批判しつつ)「近代社会」の要請・要件とも捉えているだろう。しかし能力主義をめぐるこの一貫しない「感覚」は、著者の言う「はっきり認識されて」はいない「自明のこと」から、問い直すことができるのである。つまりこの一見「近代的な」原則は、近代社会の原理とされる「自由な契約」からは帰結しないのであり(契約が自由なら容貌や人種を理由にしてもよい)、逆にそれを制約するものとして働いているのだと。では、このような制約はどこから来るのだろうか。

 人はその効率性を理由としてあげ、「能力主義」を貫徹しない企業の競争力を問題にするかもしれない。しかし、事業主が生産効率を常に最優先するとは限らず、また「全人格的な包摂」が「奉公」を可能にするなら、その採用が見送られることもあるだろう。

 そしてさらに(どう評価するかにあたって)重要と思われる点は、この制約を正当化するときに用いられる常套的な区分、「能力/属性」は主体によって「作られる/作られない」から選別の対象と「してもよい/してはいけない」という説明づけが、根拠をもちえないということである。なぜならこの区分は、その「能力」のどれだけを主体が作ったのかという反問に答えることができないのだから。

 では「能力しか評価してはならない」のは何故か、この原則をどう評価するのか。著者は次のような回答を導いている。つまりこの「能力主義」による制約は、「他者が他者としてあること」を奪ってはならないという「感覚」によって肯定されているのであり、一つの倫理、〈必要に関わる部分以外については他者を評価し選別してはならない〉として擁護されなければならないのだと。そして、その実現は保証されてはいないのだから(市場はそうした傾向をもつとはいえ)、強制力による禁止が求められることになるだろう。

 能力主義批判の文脈で「もつ」価値に「ある」価値が対置されることがあるが、……「できる」ことも、「もつ」ことも否定する必要はない。……だがAが「できる」「できない」がAが「もつ」「もたない」ことに繋がること、それがAが「ある」ことを脅かすことを否定する。Aが「ある」ためにはAが「もつ」ことが必要であり、そのためには「できる」ことが必要だが、その「できる」人はAでなくてもよいのである。(同章)

 「できる」ことと「もつ」ことの切断が主張される時、一つの等式、つまりα=A−βは、いわば公理として位置づけられていると言えるだろう。αとはAが「ある」ことに、βとはAが「できる」ことに関わるものである(著者は領域α、βにおける人A、人Bの互いの関係を図示している)。そして少なからず先回りして言えば、この単純な等式は、著者の言う(歴史性を問う立場にとっての)「禁じ手」を解除することによって、つまり能力や生産をよいものとし(βは必要である)、この社会の価値(A=β)に対して「抵抗するもの」があるとすることによって、見出されたものなのである。

 そして構想されるべき機構は、「市場+再分配」(ただし生産物は各生産者のものとはされない)という一見「ごく平凡な」ものではあるだろう。しかし、著者は「この平凡な答えにどのように至れるかが問題だった」のだと言い、それは私たちの知っている「福祉国家」と同じではないと付け加えている。

 思えば、対立する利害の調整を「他者の尊重」と捉える私たちは、「福祉」の必要を誰もが認めるこの社会において、時にはその施策を逆差別として語り始めるのであり、さらには「福祉は雇用を生み出す」といった主張のもとにおいてさえ、「福祉」を「施し」と考えることを止めてはいないのかもしれない。だとすれば、私たちが辿ろうとしてきた道筋もまた、問い返されることになるだろう。

 先に見た「能力/属性」の区分に戻れば、私たちは次のように問うこともできたのである。もし「能力」が生育歴や出身階層によって規定されているのだとしたら、「能力」による選別も差別ではないのかと。そして実際に真摯な論考や実践が取り組まれるその一方で、しかしこの問いは、決着のつかない対立をもまた、導いてきたと言えるのではないだろうか。「ある程度は生得的である」(だから施策によっては解決しない、あるいは、だとしたらいっそう差別ではないか)、「その少なくない部分は努力によって身につけたものだ」(だから差別ではない)といった論点を交えた議論は、果てしなく続けられるしかないものであるだろう。〈生得因も環境因も主体に対して外的なものである点は同じではないか〉と反問する著者は、〈どうするべきか、どうすべきではないか〉は〈因果関係を拠点とする論理自体からは出てこない〉(第7章)と書いている。

 「能力」の由来をめぐる論争が、結局は曖昧な境界しか示しえず、規範的な回答に根拠を与えないのならば、「作るもの/作れないもの」という区分自体へと暗黙のうちに導いているものが、考えられるべき問いとして立ち現れることになるだろう。つまり、「自分の作ったもの(制御するもの)は自分のもの」という「私的所有」の「原則」である。

 そして著者の述べるようにこの社会が、〈何もかもの始まりとして〉「私」を位置づけながら、と同時に〈様々な因果のもとに捉え〉るものであり、〈私のもの、私のものでないもの、というよくわからない境界線を動かしたり、……私のものは私のもの、という言葉のまわりに様々な観念と実践をめぐらす〉(第6章)のであれば、先の議論の道筋は、次のように書き直されるべきなのかもしれない。

 私たちは(自ら作る)「能力」こそが「ある」価値α1だと誤解するとき、(作れない)「属性」γ1を存在Aから引き算するのであり(A−γ1=α1)、さらには「能力」の歴史を問いながら、「環境」や「生得」による(作れない)ものγ2をさらに差し引くことで(α1−γ2=α2)、努力する「意志」といったものへと切り詰めているのではないかと(ここで演算を止めるとき「意志」こそが人としての価値となるだろう)。そしてこうした演算の繰り返しにおいて(A−γ1−γ2……)、「ある」ことαは見失われているのではないだろうかと。

 人は「理性」や「快苦」を人であるための「資格」とするのかもしれない。しかし、〈私達は、既にそのものが人であることを知っている〉のであり、そして〈ここから私達は引き算をする、……知っていたことを否定するのである〉(第5章)。
 二つの引き算式の(一つの等式と連立方程式)、そのどちらを選ぶのか。著者の示す分岐点を、こう言いかえることができるだろう。

  私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。……私達はこのような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか(第4章)。

 「他者」という主題へと至る論述において、著者は「私的所有」の「原則」が「信念」にすぎないことを指摘し(第2章)、また「あるものを手段として扱う」ことへの「抵抗」を浮かび上がらせ(第3章)、その「抵抗」の核心が「私の」不可侵性ではなく、「私が」(制御)すること自体にあるのではないかと述べている。

 したがってα=「その人のものであるもの」とはまず、「私が触れようとしないもの」として読まれなければならないだろう。そして、〈全てが自らに還ってくるように作られているこの社会の仕掛けを信用しない感覚〉があり、また〈私からそうした他者性を消去してしまうことの否定が「肯定」と呼ばれるものではないか〉とも言いかえられていくとき、これらの慎重な言葉遣いは、「肯定」を必要以上に語ることへの警戒でもあるだろう。なぜなら私たちが「みんな」や「わかりあう」と言うとき、「本当にわかるということはどういうことか。それがわからないのだとαは言う」のだということを見失うのだから。

 「PならばQ」が正しければ、「QでないならばPでない」が正しい(対偶の関係)。けれども時として私たちは、その逆や裏を(「QならばP」「PでないならばQでない」)を正しいとしてしまう。このことは例えば「能力のある者に生きる価値がある」と考える人が、「能力のない者には生きる価値がない」としてしまうことと何か関係があるのではないだろうか。この間違いを次のように指摘することはできるだろう。能力のある人の集合をPとし、生きる価値のある人の集合をQとするなら、PはQより小さいだけである(単なる部分集合)のだと。あるいはこの間違いは、人の存在をすら因果の列の中に捉える私たちの「感覚」が、「能力」を原因(始まり)とし、「生きる価値」を結果(終わり)とすることによってもたらされているのだろうか。

 だとするなら、αがβのあり方を指示する、と著者が言うとき、社会の価値(A=β)に対する抵抗から得られたはずのαが、逆にいま「何もかもの始まり」として位置づけられたのだと考えるなら、これも因果に囚われた誤解であるのかもしれない。等式α=A−β(A≠βとするαがある)は「公理」として「すでに」あったのであり、「A≠βならばαがある」という(正しい)命題が(わざわざ)証明されたのではなく、また社会(原因)から他者(結果)が導かれたのでもないだろう。そして「この価値も、すべての価値が結局のところそうであるように、それ以上根拠を辿ることができない」のであり、「公理」(態度)もまた、選択されるものである。

 けれども、「制御しないことからくる快楽」とも語られるものが、この社会へと行き渡っていく光景を想うとき人は、すでに見たいくつもの情景をもまた、思い浮かべ始めているのではないだろうか。恋人ならわかる。友人もわかる。いくら軽蔑していても人としては存在を認める、こともわかるような気がする。(どんな経験でも与えてくれる)「経験機械」はつまらないものだろうとは思う。そして同じ空の下に彼や彼女がいることを想いながら、と同時に、あの人、見知らぬ人、「思想・信条を取り下げさせられること」を「認めないこと」を認めない人、そして制御できないままに制御してみたいという欲望をもつ自分もまた、そこにはいるのではないだろうか。

 障害の進行ゆえに歩けなくなった彼を「努力が足りなかった」となじる家族。「健常者と見分けがつかない」と言われることが一番嬉しいと語った授産所職員の自慢げな顔。「たまにしか学校へ来ない奴(障害をもつ同僚)にそんな重要な仕事をさせるな」と書類を投げつけた元同僚。とあるドキュメンタリー映画の登場人物は街頭に出た障害者を指さし「これを片づけろ」と言い放ったのだという。

  好きではないあるいは憎悪したり軽蔑しているけれども認めてしまうといった位相、水準があるだろうということである。……どこかでそうであったらよいとは思ってはいて、そのように思うことの中に既に承認は訪れている〉(「遠離・遭遇」、『弱くある自由へ』)
 
 近著『弱くある自由へ』(青土社)は、さらに具体的な作業を続けるその過程を通して、「他者」なる主題をさらに踏み出させているのかもしれない(そして前著の行間にかいま見せていた「感情」を顕わにしてもいるだろう)。

 『私的所有論』において、「単純なもの」があるはずだと書いた著者はその一方で、「私達はもっと複雑な生を生きてはいないか」とも語っている。「遠離・遭遇」と題された論文は、その複雑なものを一つ一つ丹念に取り出す過程を示すだろう。例えば障害者を介助することにともなう二つの感覚、逃れたいという気持ちと、それをよいことだと思う気持ち。この矛盾する二つのものから、分配は義務とされうるのであったし、また、「よさ」を肯定的に語ることの危険性が指摘されてもいく(それは「動員」や「介入」、介助する側の主導権につながる)。著者はそうした体感を積み重ねることで、考えうる機構の細部(「ある」ための分配は前提である)を組み立てていくだろう。介助は有償化されるべきであり(それは「遭遇」を妨げるわけではない)、その仕事はフルタイムでなくてもよいこと、また家族による介助も同等に扱われるべきこと、そして専門化されることへの制限。これらはいわば「感覚」が部品へとつなげられていく作業であり、読者はその現場を目撃することになるだろう。

 もしかしたら人は因果を問いながら、その複雑さの中で、何か単純なものを見つけることができるのかもしれない。けれども、単純なものから始めることを強いられたときに、複雑だったものが一つ一つの輪郭を持って立ち現れる、そんな経験を知ってもいる。『私的所有論』と『弱くある自由へ』は、「感覚」をこぼれ落とさないための、微速の、けれどもいまある広大な風景の変革を提起している。

■プロフィール■
(かとう。しょうたろう)高校教員。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。

★評論紙「La Vue」5号(01/03/01発行)より転載(但し、Web用に改行を増やして調整しています)。
立岩真也氏の新刊『希望について』(青土社)の註で上記の加藤氏の書評が紹介されています。それもあって今回Webにて公開する次第です(発行人)。


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■黒猫房主の周辺■「<ある>ことは、よい!」
★久方ぶりに加藤正太郎さんの書評を再読しながら、いくつかの感想をもった。例えば「感情は論理を備えている」という立岩真也さんの引用文を、感情は論理を含んでいる/感情は論理を基礎づけている、という具合に読み換えてみるとどうなるだろうか。
★論理によってこれ以上根拠を証明されない「公理」に対する私たちの態度において、この「公理」を基礎づけているのは、それを真としている私たちの感情ではないだろうか。
★ところで論理的に根拠があるように信じられている(それはほんとうは論理的には正しくないのだが導かれてしまう)「判断」が世の中には、たくさん罷り通っている。加藤さんの説明によると、こうなる。以下引用。
★<「PならばQ」が正しければ、「QでないならばPでない」が正しい(対偶の関係)。けれども時として私たちは、その逆や裏を(「QならばP」「PでないならばQでない」)を正しいとしてしまう。このことは例えば「能力のある者に生きる価値がある」と考える人が、「能力のない者には生きる価値がない」としてしまうことと何か関係があるのではないだろうか。この間違いを次のように指摘することはできるだろう。能力のある人の集合をPとし、生きる価値のある人の集合をQとするなら、PはQより小さいだけである(単なる部分集合)のだと。あるいはこの間違いは、人の存在をすら因果の列の中に捉える私たちの「感覚」が、「能力」を原因(始まり)とし、「生きる価値」を結果(終わり)とすることによってもたらされているのだろうか。>
★因果律的な発想は原因や根拠を遡及的に求めようとするが、ある人が「このようにある」ことの理由や根拠を、その現在の「社会的価値観」のレンジにおいていくつかの属性でその人のことを説明できたとしても、それで終わりではない。すでにしてその人が<ある>ことを最終根拠に、それ以上は遡及できない正当性があるのではないのか? これは「公理」と同じではないだろうか? そうだとすればその「公理」から導かれる態度は、人から一切の属性を除いた存在として<ただある>ことの肯定であるほかない。これはすでに<ある>のだから、そのように<ある>ことを「よし」とする感情であるだろう。
★だが私たちは時として、<ただある>ことだけを肯定する態度に堪えられないので「存在の意味や有用性」を問うことで、間違えてしまう。確かに、意味がないよりあったほうが満足できるかもしれないし、その存在が有用であることやそのように努力することはよい場合もあるが、有用性や努力の評価は社会構築的であるのだから、つねによいとは限らない。肝心なことは有用でないことや努力できないことが、その存在を否定する理由にはならないということである。そのことを、しっかりと確認しておこう。
★昨今高まりを見せている「尊厳死法」の法制化運動は、延命治療の苦痛や無意味、さらに医療資源の枯渇化を脅迫的に喧伝しているように思われるが、この運動が「尊厳なる死=美しい死」の自己決定を唱道することの効果として、<ただある>ことの存在否定に荷担していることも確認しておかなければならない。(黒猫房主)



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