『カルチャー・レヴュー』62号



■連載「マルジナリア」第14回■


無縁とコモンズ─政策民俗学序説

中原紀生


●最近、政策民俗学という言葉を手がかりにして、あれこれ想像をたくましくしている。ここでいう政策は、外交政策や産業政策といった「ステイト」にかかわるもののことではない。中央政府や自治体の政策形成や遂行過程を民俗学的に分析してみるのも一興だが、当面の関心はそこにはない。自然発生的なものであれ人為的なものであれ、ステイトとの比較でさしあたり「ネイション」と一括することができる人間集団にかかわる政策のことを考えている。そのような意味合いをこめて、より一般的に地域政策と表現してもいい。「無縁」もしくは「コモンズ」としての地域。「公共体」もしくは「散在体」としての地域。

●かつて、いまから思うと民俗組織論とでもいえる方向を模索していたことがあった。組織過程の眼目は推論にあるというのがその時の基本的な考えで、そこで推論されるものは部分の総和を超える全体のうちに出現する超越的なもの、霊性といった事柄である。
 推論は儀礼の遂行や言説の交換を通じて、組織の内部において日々反復される。これには演繹や帰納だけでなく洞察[abduction]、生産[production]、さらにそれらを包摂する伝導[conduction]といった種類がある。この最後の二つが、組織という民俗社会(共同体)の存在原理であり、同時にこれを稼働させる原理でもある説話体系(命令体系)を造形する。そもそも組織が成り立つ観念的な基盤であると同時に、その生産と伝導こそが組織の現実的なプロセスそのものでもある説話体系。
 その説話にもいくつか類型があって、私はそれを伝説・民話・神話・スキャンダルに区分してみた。そこから先、ハレ・ケ・ケガレなどの民俗学的概念や文化人類学の成果などを駆使して「霊性の学としての組織論」なるものを構想できないかと想像をたくましくしていたのだが、あいにくこの作業は長く続かなかった。民俗政策学はこの未完の作業を組織(共同体)の外あるいは組織と組織の間で、より具体的かつ実践的な相において再度試みようとするものだ。

●ウィキペディアで「民俗学」を検索すると、「その由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれている…習俗の綿密な検証を通して伝統的な思考様式を解明する学問」と書いてある。この定義が学界的に正統なものなのかどうか、私は知らない。でも、政策民俗学というときの民俗学とはまさにそのような営みのことだ。政策という営みのうちに脈打つ伝統的思考様式の解明(政策に対する民俗学的アプローチ)を踏まえつつ、これとは逆に当の伝統的思考様式を具体的に再生もしくは賦活し、場合によっては生産していく政策のあり方を構想すること。

●「伝統的」の意味について。室田武がある対談で、柳田國男の「つららの論理」を紹介している。
《柳田は歴史は「つらら」だと言うわけです。つららは並んで垂れ下がっているわけですが、ある「つらら」はすごく小さいし、別な「つらら」はすごく太く長く伸びるということがある。でも、いつも「つらら」は並んで存在しているんだと。つまり、歴史は単線ではなくて複線なんですね。だから非常に古く思われていることも、いまは消えてしまったわけではなくて、何かの状況で小さく影を潜めているだけで、実はいまでもあるという考えなんです。》(『グラフィケーション』No.144)
 政策民俗学が、その再生・賦活・生産の処方箋を書こうとする「伝統的」思考様式とは、細く小さく影を潜めて垂れ下がったつららのように「いまでもある」思考様式のことだ。そして、それはつららのように身体で感覚できるものでなければならない。儀式や習俗といった社会技術、衣食住にかかわる生活技術、自然(資源)とのインターフェイスで培われる生産技術(資源管理技術)、民俗社会を垂直的に超越しもしくは水平的に横越する身体技術、等々。そのような端的にいえば食と性にかかわる具象的なもの(技術=芸能)のうちに宿る、というよりはそうした形象をもって存在する思考様式。

●室田は続けて「そのように見ていくと、コモンズや入会は古いものだけれど現在もあるし、形は変わるかもしれませんが、今後も恐らくあり続けるだろうと私は思いますね」と語っている。このコモンズは一般に共有地、共同地などと訳されているが、私はむしろ「無縁地」とでも訳すべきではないかと考えている。それは網野義彦がいう「自然と人間との境ともいうべき空間」すなわち「無所有」の世界に属している。
《人間がほとんど手を伸ばすことのできない世界は現在でも、まだ地球上にありますけれども、そういう世界が、中世以前にはまだ非常に広かったと思います。いわばそれは、「無所有」の世界、人間の全く関わることのできない世界だったといえましょう。しかし人間の力の全く及んでいない「無所有」の世界が、人間の社会に何の影響も及ぼさないわけでは決してないと私は考えております。そういう世界は、人の力の及び難い力を持った世界として、ときには神仏の支配する世界として、人間の社会に常に影響を及ぼし続けてきたと言ってよいと思うのです。(略)しかしそういう場所は、人間の社会活動の中にとりこまれても、それ以前からの聖界と俗界の境という性格を依然として持ち続けており、中世以前には神仏の世界と俗人の世界の接点と考えられていたのではないかと思います。それがさらに自覚的にとらえられた時、こうした場が「無縁」、「公界」の場としてとらえられるようになります。》(『日本中世に何が起きたか』)

●網野善彦との対談で、廣末保が「市というものは宗教的問題もあるし、交易の問題もあるし、芸能の問題もある」と語っている。
《近世になると、…商業的な場所というのはそれなりに自立してきます。それと同時に芸能とか、また売春的な要素を持っているもの、これは非常に未分化ですけれども、そういうものが悪所になってくる。市が分化していく過程を近世の中で見ていくと、悪所的なものと商業的なもの、それから宗教的なものと制度的なものに分けられていきますね。その中でぼくは、市の持っている超越性という性格が一番近世的な形で残っているのは悪所じゃないかという気がしているんです。/その超越性の中には宗教的な要素と、それから天皇のように領主を超越した、ある意味で観念的な、普遍的なレベルのものともつながりがありますが、一方で交易という問題、商業とか交換とかいうものの持っている超越性というか、つまり村落的なものを超えて交換する場所では、交易そのものが人間の観念を変えてしまうということがある。》
 ここに出てくる「芸能」について、網野善彦は次のように語っている。
《中世の段階では、実際、商人も芸能民に入るんですね。商人だけでなく、呪術者、宗教人も手工業者もいまのような狭い意味ではなくて、ひっくるめて全部「芸能」という言葉でくくっている。博打なんかも芸能民なんですね。勝負師の世界というのは、近世ではそれなりに分化して独立した世界になるんでしょうけれども、中世では未分化なんですね。それが「芸能」という言葉で全部ひっくくられていることに一つの意味があるような気がするんです。》

●宗教(あるいは霊性)と芸能と交易。市場(市庭)という「無縁の原理」がはたらく境界的な場の問題系をかたちづくるこれら三つ組は、スティーヴン・ミズンが『心の先史時代』で述べたネアンデルタール人の「特化型の思考様式」を構成する三つの知能、すなわち博物的知能・技術的知能・言語知能を思わせる。加えると、吉本隆明が「マルクス紀行」で論じたマルクス思想の三つの旅程、すなわち「<自然>哲学の道」「宗教から法、国家へと流れくだる道」「市民社会の構造を解明するカギとしての経済学」を思わせる。この文章が収録された『カール・マルクス』の文庫解説で、中沢新一はこれら三つ組をボロメオの輪のように結びつきマルクス思想の統一核をなす三位一体になぞらえ、それぞれをラカンの現実界・想像界・象徴界に対応させている。
 無縁の場にかかわる三つ組の問題系のうち「宗教」は「自然=リアルなもの」に、「芸能」は「宗教・国家・法=想像的なもの」に、「交易」は「経済的カテゴリー=象徴的なもの」にそれぞれ対応している。政策民俗学は主としてこれらのうちの第二の環、つまり網野善彦がいう中世的な広義の芸能の問題系(食と性にまつわる想像界)にかかわってくる。

●さて、ウィキペディアによると「政策とは、公共体が主体となって行う体系的な諸策のことである」。ここに出てくる「公共体」は「res publica」の日本語訳だという。レス・プブリカはたしかプラトンの「ポリティア」にキケロがつけたラテン語訳で、ポリティアは一般に「国家」と訳されている。シモーヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』(冨原眞弓訳)では、ポリティアは「都市」と言い換えられていた。ヴェーユによると、プラトンのいうポリティアは「魂を表象する純然たる象徴、虚構」である。ポリティア=公共体=都市(魂を表象する純然たる象徴、虚構)。そのような意味での「地域」はたとえば無縁の場、あるいはコモンズと同義なのではないか。

●柄谷行人は『世界共和国へ』で、「プラトンが哲学者=王が支配するような国家を考えたとき、エジプトが念頭にあった」と書いている。ギリシアのポリスは国家以前の、互酬原理がはたらく部族的な共同体にすぎない。これに対してエジプトやペルシャのような東洋的専制国家こそが完成した国家の形態である。
《国家は共同体の中から発生するものではありません。それは本来、一つの共同体が他の諸共同体を継続的に支配する形態なのです。したがって、国家の基盤は何よりも暴力的収奪にあるのですが、それが一時的なものではなく永続的かつ拡大的であるためには、むしろ被支配者を保護し育成しなければならない。国家は、他の国家からの略奪に対して、共同体を防衛します。また、積極的に「公共的」事業を興す。たとえば、灌漑のような大がかりな事業です。もちろん、それは、農業共同体からの賦役と貢納(租税)を確保するためになされるのですが、被支配者は、支配者の仕事を贈与として受けとめ、賦役や納税をそれに対するお返しと受け取る。そこに一種の互酬の擬制が成立するわけです。また、共同体の間で葛藤・対立があるとき、国家はそれを調停し制御します。かくして、国家は公共的あるいは理性的であるという観念が生じるのです。》

●「軍事的・産業的な技術だけでなく、人間を制御する技術──文字言語・宗教・通信網」をもった公共的・理性的な帝国。そのような「国家」は官僚制と不可分なものだと柄谷は書いている。
 官僚制組織こそが、言い換えれば「個人として責任をとらない『システム』」(石牟礼道子)こそが「無縁」あるいは「コモンズ」から発生する組織の一つの完成形態なのではないか。私はそのように考えている。ただし、ここでいう「官僚」には、たとえば巫女のような存在も含まれる。無縁の場における「宗教(あるいは霊性)=自然=リアルなもの」と「芸能=宗教・国家・法=想像的なもの(あるいは食と性)」をめぐる問題系の接点に位置づけられる媒介としての巫女=官僚。

●松岡正剛は千夜千冊(第七百五夜)で、トインビーの「散在体」(「ディアスポーラ」の吉田健一流の訳語)についてこう書いている。
《われわれには世界国家や世界宗教に代わる想像力というものもある。また、「小ささ」というものがある。それによるのなら、おそらく「散在体」とは、移動する共同体であって記憶をもったコモンズであり、電子の網をつかった情報の複合体でありつつ、応答をこそソリューションとするプロセス組織というようなものなのではないかとおもう。》
 末尾に添えられた文章が示唆的だったので、ついでにペーストしておく。
《[トインビーの『歴史の研究』について]とくに注目すべきは、すべての歴史は「神と人間の遭遇の歴史の変形」であって、神をその成員として認知しうる高次な社会を形成しないかぎり、どんな文明も次々に崩壊するであろうと予告したことだった。そして、今日なおわれわれの間に、イスラム文明、ロシア文明、ヒンドゥ文明、中国文明、日本文明が「現存する文明」として共存混在したままにあることに注意を促し、これらをどのように見ていくかということに、もっと世界が賢明な意識をもつべきであると強く示唆した。》
 ここに出てくる「神と人間の遭遇」を自然と共同体との「あわい[betweenness-encounter]」(坂部恵)に置き換えれば、無縁=コモンズ=公共体=散在体という多大な矛盾をはらんだ「地域」が主体となって行う体系的な諸策にかかわる政策民俗学の最大の射程が見えてくる。つらら状に共存混在する諸文明のうちに保存された諸技術(現存する伝統的思考様式)の解明を踏まえつつ、それらを具体的なかたちで再生もしくは賦活し、場合によっては生産していくこと。

■プロフィール■
(なかはら・のりお)サラリーマン
ブログ「不連続な読書日記」
★「オリオン」http://www17.plala.or.jp/orion-n/

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■連載「メディアななめよみ」第4回■


ワールドカップはすでに始まっている


山口秀也


 続けてサッカーの話題が続くが、4年にいちどのこととてご寛恕頂きたい。 このところ当然のことながら、日本が初戦を戦うことになっているワールドカップの対オーストラリア戦の6月12日に向けて、新聞、テレビその他のメディアの別を問わず、サッカーの話題にこと欠かない。
 各スポーツ紙等のウェブでの特集記事が充実しているように見受けられる一方で、テレビや週刊誌の記事には、バラエティ色の多いものが目立つようだ。 そこで、ごく最近の新聞・テレビ・ウェブ等で取り上げられたものについてランダムに拾っていきたい。
 併せて、ドイツとのテストマッチの最新のレポートもお届けしたいと思う。

■内閣の人事ばかりではないサプライズ

 まるで小泉内閣の組閣のときの焼き直しのようだが、やはり出たと言う感じでサプライズ人事「23番目の男」フォワード巻については、代表合宿のファッションチェックから、高校時代のアイスホッケーとの二束のわらじについての取り上げられ方に至るまで、本当に良く出ることではある。

 「女性自身」は「がんばれジーコJAPAN! W杯代表23人の「少年時代の秘密」」(5/30発売、2261号)、別に読む気もないが、その他週刊誌も、お宝写真ものもふくめて、直接サッカーと関係ないものが多いが、僕自身嫌いではないところが少し悔しい。

 新聞等に掲載される選手のコメントについては、前回の大会(2002年日韓ワールドカップ)の時にも取り上げた(カルチャーレヴユー第24号「コメントで読むワールドカップ」)が、大会前のこの時期には、各国有名選手の代表不選出にあたってのコメントが出ているのでA紙よりいくつか拾いたい。

 まずは、開催国ドイツのフォワードのクラニー「僕の全世界が崩れた。自分に問い続けるだけだった。どうして自分が、と」。内容もさることながら、前回大会と少し趣を異にしているのは、これがクラニー自身のサイトから採られたものだということだ。

 つぎに、ポーランドのGKデュデクは「まだエープリルフールの冗談かと思える」。昨期の欧州チャンピオンズリーグ覇者であるイングランド・リバプールの守護神であるベテラン選手の落選は物議を醸した。

 また、アルゼンチンでは前回の主将のサネッティの落選に「全力を尽くした結果だから心安らかだ」とはさすがベテランのコメントではある。

 また、日本の属するF組のオーストラリアには、前回韓国をベスト4に導き、多くの名言を残した監督ヒディングが初戦の相手日本について「あきらめずに死ぬ気で戦うだろう」とのコメントを残している。

■ワールドカップで日本は点を取れるのか

 テレビでは、毎日のスポーツニュースはもちろんのこと、ウィークエンドのサッカー専門番組を中心に国営放送の特集番組など、この時期に合わせて放送している。

 その中で、5月28日放送の「グレートマザー物語」(第282回、テレビ朝日)では、かつての名フォワード釜本邦茂を取り上げていた(「釜本邦茂の母〜息子はストライカー 母はゲームメーカー〜)。釜本は、そのプレーの映像が残っていない川本泰三という伝説的な選手を除くと、間違いなく日本サッカー史上最高のストライカーである。

 釜本のストライカーとしての資質については、いままでも沢山の人が語っているところである。自らをプロフェッショナルと位置付け、徹底的な自己管理を行い、日に何度も体重計に乗り、少しでも体重が増えるとランニングをする。トレーナーもいないのにケガをしない。してもすぐ治す。スランプらしいスランプもなかったという。その背景には「意思の強さ。サッカーに対する取り組みのレベルの高さ。クレバーさ」があったことを釜本全盛期のヤンマーディーゼルではじめてコーチに就任した元日本代表監督の加茂周が証言している(「釜本邦茂「点獲り屋の骨頂」」藤島大、「Number PLUS June1999」文藝春秋)。

 これからワールドカップに臨む日本チームの得点力不足を、ただ個性的で強烈な点取り屋の不在と捉えるか、日本人の特性と捉えるかは難しいところではある。が、ポジションに拘らず日本人プレーヤー全般に「我」が弱すぎるという欠点はあるように思われる。しかもそれが、「ゴール前には敵がおって、さらにゴールキーパーがおる。それを排除するという条件を考えれば、それは特殊なポジションである」(前掲誌)といえるフォワードでより顕著に現れるのは当然のことか。

 昨年引退したばかりの小倉隆史が、同じような視点で日本人選手の特質を、ウェブにおける金子達仁との対談で指摘している(スポニチAnnex)。

 オランダでのプレー経験のある元日本代表フォワードである小倉については、現役時代にも「Number」誌に各国の有名なストライカーについての考察が載ったことがあるが、その時にもその明快な語り口に驚いた経験がある。引退後にサッカー専門番組に出ているが、その淀みのない口調にさもありなんと合点がいくところである。

 それはさておき、小倉はワールドカップの開幕に合わせて、出場国のストライカー比較を行っているのであるが、ポジションに拘らず、日本選手の外国でのプレーの困難を、体格的な差はありながら、技術的な差は感じられない、しかしやはりエゴイスティックな部分が少なく物足りないという意見だった。

「金子 欠点もないけど、チョイスしたくなるものもないということかな。」「小倉 協調性という日本人の特質が災いしている。多少あくが強くても外国人のストレートな個人主義のほうがいい。個人として認められている部分。それがプレーにも現われる。」

 やはりという感じで、こうしてみると、日本のフォワードたちがどうしても心もとなく感じられるも無理のないことであるのだろうか。

 また、ストライカー論とは別ではあるが、この対談の冒頭では、小倉がかつてプレーし、国土も狭く、リーグのレベルもそんなに高くもないのに世界的な強豪であるオランダについて言及している部分が面白いので挙げておく。

  「(オランダの強さについて訊ねられて)国としての気質、文化でしょう。国土が海面より低い。世界的に地球温暖化で地球の水位が上がっていると言われているが、オランダは随分前から100年構想で堤防を造っている。そんなこと、日本ではあり得ない。先を読む政策は独特で国も小さいから足並みもそろう。サッカーでもアヤックスが象徴するように一貫システム。エリート教育でシステム的に育成される。九州ぐらいの大きさなのにいい選手がたくさん出る秘けつですよ。」

 蓋し卓見である。クレバーでシャープ、スケールの大きなプレーが身上のストライカーであったが、高卒でできたてのJリーグに入り、どちらかというとやんちゃ坊主のイメージが強かった「オグ」が、30歳を過ぎたとはいえ、立派になったと関心することしきりであった。

(蛇足ではあるが、前述のテレビプログラムでは、釜本をサッカーに導いた人物として小学校の恩師池田璋也先生がインタヴューを受けていたが、先生はのちに、僕の小学校に赴任されて、うちの兄の学年でサッカーチームを作ってくれた人でもある。僕も最初にサッカーを教わった懐かしい先生である。)

■自由と規律

 さて、ジーコである。

 交代のカードの切り方などベンチワークその他にいささか問題があるように思いながらも、前任者(前回大会で指揮を執ったトルシエ)に飼いならされた迷える羊たちを、つまり「フラットスリー」や様ざまの規律で「システムの奴隷」にされ、あまつさえそれに快感さえ感じていた日本人プレーヤー、いや日本人そのものを自由にし、自分で行動できる大人にしようとするジーコの命題は明快である。

 そこで思い出したのだが、僕が高校に入ってクラブ活動に精を出していた1年生のころ、男臭い男子校の教室で回し読みされていた「週刊プレーボーイ」で、当時すでに数かずのスポーツノンフィクションを手がけていた沢木耕太郎が一文を寄せていた。沢木はサッカー先進国でチームをどう統率するかということについて、ヨーロッパのサッカーとブラジルのサッカーの違いについて言及していた。そこではその違いを規律のありかたにもとめていて、整然としたヨーロッパのそれに対して、ブラジルサッカーに見られる「ゆるやかな規律」を挙げていたのを思い出した。

 ブラジルではまず自由ありきで、それをゆるやかに束ねる規律が存在し、日本ではシステムありきである。

 ジーコにとってサッカーとは少なくともフィールド上ではプレーヤー自身が考え、行動し、作り出していくものである。しかしそれは無条件に自己責任が伴ってくるものなのである。ブラジルの代表選手は、自分や家族の生活、そして全国民の期待といったものを背負ってピッチに立っている。そこで結果を出すためには、不正を働くという意味とは違ったニュアンスで、勝つためにはなんでもするになってくるのである。と言って悪ければ勝つためにできることはすべてするのである。そのためには、当然ずる賢さが必要になるし、絶対に勝とうという意思を持たなければならないのは当然であろう。

 これも今から20年近く前、日本の小学生の日本選抜チームが、外国のジュニアユースチームを招いて行った国際大会をテレビ放映していたときのこと。決勝に残った日本チームと、対戦したブラジルのチームの試合前の両ロッカールームを映していた。日本チームのコーチは、かんたんなシステムの確認等を行っていたようだったが、ブラジルのコーチは、非常に興奮した口調でまくし立てていた。通訳を聞いてもやはり「勝て!」としか言っていないようだった。
 そこでさきほどの「ずる賢さ」であるが、ポルトガル語では「マリーシア」と言う。読売クラブ(現 東京ベルディ1969)で、ブラジルから日本に帰化したラモス瑠偉や、ブラジルから「逆輸入」されて入団した三浦カズの口からは、「プロ意識」とともに日本人に欠けたものとして語られていた。ブラジルにおいてサッカーとは、貧しさを抜け出すための手段であるという要素に最大の比重がかかっている。そんな環境を身をもって知る彼らにとって、プロリーグ発足前の日本のサッカーの置かれた環境が「ぬるま湯」に映っていたにちがいない。彼らは、これらの言葉とともに、時には選手のシューズを磨いたりする用具係であるホペーロとよばれる人間をブラジルから連れてきて、選手のプロ意識の向上に腐心したものである。

 これらのずる賢さの欠如をして、日本人一般の特性としてとらえるむきがあるが、はたしてそうだろうかということについて『予感 日の丸を背負った男たちへ』(セルジオ越後、金子達仁著、戸塚啓構成、廣済堂文庫、2002年)で面白い考察があるので紹介すると……。「金子 (前略)柔道の選手に話を聞くと、外国の選手とやるほうが楽だと言うわけ。なぜか。「ずるさがない」からだって」。サッカーにおいて日本と世界との関係がまったく逆転している様子を端的なエピソードで語っている。負けるのが許されない状況では、日本人でもあらゆる手段を講じるのであると。

 しかもこの本の著者たちは、このすぐ前段ではさらに、これがスポーツにかぎったことではないことも指摘している。「金子 日本の会社やサラリーマンたちは、生き抜くためにいろんなことをやっていますよね。これだけ厳しい社会になっているわけだから。それが、ラテン語風に言うところの「マリーシア」であり「マリッツィア」だと思うのね。ドゥンガやジーコから「日本人はマリーシアが欠けている」と言われるけど、日本人だってマリーシアと言っていい生活の知恵はちゃんと持っているんですよ」。悪い点数を取ることが許されなければ人はカンニングをするのである。

■日本に「すし」にされたドイツ

 今朝がた行われた国際親善試合、日本―ドイツは結局2対2の引き分けに終わった。

 ともにワールドカップ本番を控えた大事な調整試合であったが、同じ同点でもそれぞれの受け取り方に微妙な違いが出てくるのは当然のことである。

 ドイツは格下の日本をスパーリングパートナーに、最近とみに不調をかこっていた代表に弾みをつけさせたかったに違いない。しかし、後半には一時2点差をつけられる失態を演じてしまった。試合後「大騒ぎするようなことではない」とコメントしながらも、ドイツのクリンスマン監督は、2点リードされたあとベンチで「信じられない」といったふうに首を左右に振っていた。

 試合後、時事通信では「われわれは日本にすし(食い物)にされた。日本がドイツの問題点を明らかにした」と伝えていた。

 日本についていえば、このところの不甲斐ない戦い振りから一転して、めりはりの効いた小気味の良い試合を見せてくれた。

 負傷の癒えたばかりの柳沢が質の良い動きで、高原の得点をアシストした。中田英寿が攻守に大車輪の活躍をすれば、負傷退場の加地のあとに右サイドに入った駒野が、ドイツの大柄なディフェンダーを相手にボールを失わずに、質の良いセンタリングをゴール前に供給していた。ディフェンダーは、取られた2点に象徴されるように、セットプレーへの対応の拙さが露呈したが、それ以外は概ね無難にこなしていた。とくに全員について、相手ボールを奪ったあとの繋ぎに最近の反省が活かされていたか、進歩の跡が見られたのが、ワールドカップ本番に向けての最大の安心材料であろう。ボールを奪ってからの前線へのフィードについては、中田と福西のプレーが際立っていたように見受けられた。

 負傷の加地を除けば、ワールドカップの初戦、オーストラリアとの戦いのキックオフでピッチに立っているのは間違いなく今日の先発メンバーであろう。リードした時に、ゲームを落ち着かせるための小野の起用、同点あるいはリードを許している場面で玉田、大黒をピッチに送り込む可能性を考えれば、小笠原、遠藤の出番が果たしてあるかどうか微妙なところである。

 パワープレーを多用したドイツにくらべると、オーストラリアは、ビドゥカのポストプレーでしっかりためを作って両サイドから切り崩してくるので、よりやっかいかもしれない。ビドゥカへ送られる球の出所を押さえることと、最初から中澤あるいは思い切って田中の負傷のため新たに召集された茂庭をビドゥカに貼り付けておくことも考えたほうが良いかもしれない。

 ラインは若干深めでも良いが、ペナルティエリアに近い位置での、福西、三都主のファールがむしろ気になるところである。

■プロフィール■
(やまぐち・ひでや)1963年生まれ。京都市出身。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。

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■黒猫房主の周辺「信と不信」■
★さいきん読書会の縁で親鸞の『歎異抄』を読んでみた。しかし信仰をもたない者は、この『歎異抄』で説かれている「信仰のパラドックス」を文学的にしか理解できない。だが、信仰者は信仰が深まれば深まるほど信仰への疑問が湧いてくるのではないだろうか。菅谷規矩雄は「思想としてみれば、<信>とは、その内部によびこんだ<疑>の深さにほかならない――そして、<信>が、みずからそのそとに告げることができるのは、その点につきる」と書いている。『歎異抄』で唯円の問いに応じた親鸞の姿は、そのようであったのだろう。その<疑>の深さが底まで達したとき、<信>はそのそとの<不信>と通底するかもしれない。(黒猫房主)



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