表題のとおり、今回は村上春樹の『アンダーグラウンド』、いわゆる「オウム・サリン事件」にまつわるインタビュー集を取りあげる。これをオウム裁判などの現実的な事象とともに考察し、またそのうえで以降の村上作品も位置づけてみたい。といっても、1995年に起きた東京地下鉄サリン事件から11年、『アンダーグラウンド』刊行の1997年からも9年と、すでに問題が取り扱われた時期からそれなりの時間が経過しており、一連の出来事やこれらの村上作品に、その当時きっちり応接した人からすれば、こんなこころみは「いまさら」の感があるかと思う。 そのころのわたしは、マスメディアによる「オウム報道」をどちらかというと敬遠して積極的に摂取しなかったし、村上の上記作品も読まなかった。理由は、どう見ても世情におもねったマスコミの報道が、おうおうにしてアンフェアで、事実認識的にも混乱しているようにしか思えなかったからだ。またこれとは別に、村上春樹という小説家についても、いくつかの作品に目を通した限りでは、もともと特別な興味を持つこともなかった。だから『アンダーグラウンド』は、村上春樹がルポルタージュのような形でサリン被害者に話を聞いて、オウム問題に取り組んだ意欲作だ、といわれても、読もうという気持ちは生じなかったのである。 こういうことをいうのは、「いまさら」という感を持った人からすれば、それこそわたしが社会の問題にたいして根本的には鈍感で、ものごとを考えるにも怠惰であったことをあかしているにすぎないかもしれない。本稿を書くにあたって、村上作品のほかオウム事件関連の資料を自分なりにいろいろと当たってみたうえでも、やはりそれは認めざるをえないと思う。オウム問題にかかわるあらゆる言説のかたよりや行き届かなさ、あるいは膨大さと煩雑さ、そういったものをかきわけていけば、そこには考えるべきことが山ほどあったことに、あらためて気づかされるからだ。 ただし「いまさら」ともいえる現在において、つぎのことは確認しておきたい。これらオウム真理教関係者(*註1)がおこしたとされる事件と、それがもたらした社会的・文化的な問題群のなかでも、「たったいま」押さえておかなくてはならない重要な問題があることだ。それは、13の事件で起訴され、一審で死刑判決を受けていた麻原彰晃氏の東京高裁への控訴が、さる3月27日、審理にはいる前に棄却されてしまったことである。 これにたいして弁護団はただちに異議申し立てをおこなった。もし高裁でこの異議がとおらなければ、今度は最高裁への特別抗告をおこなうことになる。しかしこれも認められなければ、裁判は再開されることなく、一審の死刑判決が確定してしまうという。みなさんも直近のことなのでこのあたりのいきさつは、「なんとなく」あるいは「よく」ご承知だろう。 さて、控訴棄却があった当日と翌日のテレビや新聞がもっとも強調して伝えていたのは、どんなものだったかおぼえているだろうか。それは第一には、「被告人の精神鑑定を要求していた弁護団が、控訴手続きのための趣意書を期限までに提出しなかったことが、今度の事態をまねいたのであり、裁判がこのまま終結するとしたらそれは弁護団の責任だ」という裁判所の言い分であった。つぎに、その報をうけた事件被害者や犠牲者の遺族が、裁判打ち切りによる死刑確定を「当然だ」「むしろ長くかかりすぎた」などのコメントとともに「承認」している様子がクローズアップされる。最後につけたしとして、「このまま『真相』が解明されずに済まされることが残念でならない。弁護団の方針に疑問をぬぐえない」というような、松本サリン事件の被害者河野義行さんやその他の識者の意見が、そえられることもあった。 まずマスコミの報道があいかわらず司法権力の主張をひたすらうのみにし、麻原氏とオウム関係者を悪と決めつけ、メディアの中で引き回すことを繰り返したことには、「いまさら」ながら強く批判しなければならない。ただここで大切なのは、単にマスコミ批判ではなく、日本人民がおちいっている「苦境」がどんなものであるかを知ることである。少し長いが以下に二点ばかり示す。 第一に、表面上のあつかいの大きさとか大騒ぎのしかたにくらべて、本当はだれもなにも知りたいとは思っていないかもしれないことである。というのも、今回の報道でテレビや新聞に接した人は、みんな「麻原彰晃」を「見た」はずだ。だから「いまだに反省の色もなく、ふてぶてしくも自分の罪を認めていない」「訴訟能力がないなどウソに決まっている」と自動的に考えてしまう。 ところがそれは本当の麻原氏の姿ではない。より正確にいうと、それはたいてい11年前の逮捕時の映像か、もっと以前の宗教服をきた麻原氏の姿である。いったいこれが作為以外のなにものだろう。「いまさら」そんな昔の映像や写真をみて、現在の彼の何がわかるというのだろうか? 軽薄な逆説はつつしみたいが、これでは、警察権力を濫用してあれほど麻原氏への「帰依」を、教団信者たちにたいし強制的に禁止し、断念させようとしてきたわたしたち日本人民のほうが、「尊師」「グル」の変わらぬ姿を信じ、大事に守りつづけていることになってしまうだろう。 事実はまったく違っている。東京拘置所にいる麻原氏は、現在、「訴訟能力」どころか、どうやらふつうの生活を送ることができる状態にさえない。やつれ、やせ衰えており、車椅子によってしか移動できない。会話をかわすことができず、外からの刺激にたいする反応も鈍く乏しい。自ら用便をはたせないのでおしめを着用させられ、一日一度しか取り替えられない。それで拘置所の狭い房の畳やふとんは、糞尿でかなり汚れた状態だという。食事はとりあえずできるが、ご飯の上にいろんなおかずやデザートを全部盛り合わせて給食されるという嫌がらせをされても、なにも不平を言わずにたいらげるといった具合。これはわたしの類推によって使う言葉で問題があればわたしの責任だが、ようするに「エサ」のように食べているということになる。以上は『獄中で見た麻原彰晃』麻原控訴審弁護人編(インパクト出版会)によって知ることができた。(*註2) なにが言いたいかというと、弁護人たちが主張している精神鑑定が必要なのはもちろんのこと、いわゆるふつうの治療や介護などが必要な状態であることは、素人でもわかかるということだ。ところが裁判所が鑑定に指定した医師は、職業上の倫理と責任を放棄したかのように、麻原氏の様子を歪んだ解釈で塗りかため、「訴訟能力あり」という裁判所と検察の意向にそった結論を出した。それで裁判所は弁護人の主張を斥けたのだ。実は奇妙なことに、この判断が直後の控訴棄却を導き出すことになる(*註3) しかし、もしわたしたちが現実的な関心を持って麻原氏の現在の状態を知ろうとしていたなら、こんなおざなりな判断は通すことができなかったはずなのだ。注意力や想像力の弱さが、「教祖」のイメージを温存しつづけ、そして「病気を装っている」というような恥ずべき「空想」まで生みだしている。こうした「空想」の支配する社会にわたしたちは住み、またそれを支えているといえるかもしれない。だから、「裁判をつづけて真相を明らかにすべきだ」という本来なら真っ当な意見さえ、いまやどこかしらじらしいものに聞こえてしまう。(*註4) 第二に、官権の工作が非理をきわめており、マスコミ報道の偏向がはなはだしいため、上記のような事実をわたしたちが手にすることができないこともある。そうそう真実など知ることはできない。しかしそうであっても、彼らの言葉には隠しようもない欺瞞があふれ返っており、そこからなにかを考えることはできるように思える。 先日の控訴棄却の時にもっとも欺瞞度の高い言葉をはいたのは、東京高裁裁判所の須田賢裁判長である。棄却決定の理由の中で、弁護人が趣意書を出さなかったことを非難し、「原審で死刑を宣告された被告人から実質審理を受ける機会を奪うという重大な結果を招くおそれをもたらすものであって、被告人の裁判を受ける権利を擁護するという使命を有する弁護士がその職責をまっとうするという点からみても極めて問題があるというべきである」とのたまった。 裁判所と弁護人の間での「趣意書提出」をめぐる駆けひきとその本質については「註3」を見てほしいが、どういういきさつにせよ、控訴を棄却し、「被告人の裁判を受ける権利」をいままさに剥奪しているのは、当の裁判所自身なのである。これはまったく隠しようのない事実だ。その不正義に恥じる様子もなく、いわば権利侵害を言い渡している文章のなかで、なんとその自分の罪を弁護人になすりつけているのである。もし「被告人から実質審理を受ける機会を奪うという重大な結果を招く」といつわりなく考えるなら、自分の決定を変えればいいのである。というか、それ以外はないはずである。弁護人は趣旨書を出すといっているのであるから、いまからでもそうすべきであろう。でなくては、こんな手前勝手な情念にねじまがったことばを、だれが裁判所のことばとしてまともに受け入れられるだろうか。 しかし、わたしたち日本人民は、ひょっとするといつもこんな調子なのかもしれない。あれだけ赤裸々な責任転嫁も、どうやら素通りであるからには、最近はやりの「憂国」的な教育論がいうように、わたしたちの「基本的な読みとく力」や「自ら組み立てる論理的な思考力」は、いちじるしく低下しているともいえよう。あるいは、あれだけの暴論は、日常さすがに目にすることも少ないから、「ああ、これは権力がテンパっていて(後戻りできないほど行き詰まって)、なりふりかまわず迫ってきそうだからヤバイな」と気づき、自らに火の粉が降りかからないように押し黙るのだろう。いまや日本人民の「苦境」は、これほどまでにきわまっているといえる。 さて、以上のことをふまえて、本題の村上春樹についての考察に入ろう。わたしの見たところ『アンダーグラウンド』において村上は、たんに「地下鉄サリン事件」という主題に向きあうだけではなく、「日本人」や「日本社会」のありかたにも強い関心をよせている。そしてそれは、いま述べた「日本人民の苦境」のようなものとも、また無縁ではないように思える。一般には「作家としての責任」とか「デタッチメントからコミットメント」ということばによって、前作『ねじまき鳥クロニクル』あたりから、村上のそういった変貌は注目されるようになっていた。では、この社会問題にも積極的にかかわろうとする、村上の転換の具体的な中身は、いったいどんなものなのだろうか。そういった点を中心に検討していこう。 『アンダーグラウンド』は、東京地下鉄サリン事件でサリンの被害にあった六十名あまりの被害者やその家族へのインタビューを、村上が構成しなおしてまとめた証言集である。「一九九五年三月二〇日の朝に、東京の地下鉄でほんとうに何が起こったのか?」という疑問を出発点に、著者は被害者それぞれの固有の視点を尊重したかたちで、事件の実相を浮かびあがらせようとしている。 あとがきで「乗客一人ひとりについて細かいところまで、それこそ心臓の鼓動から息づかいのリズムまで具体的に克明に知りたいと思った」と村上はのべているが、そのことばにたがわず、聞き取りは詳細をきわめている。事件当時の被害者たちのちょっとしたエピソードや各自の感じた印象の細部なども盛り込まれ、事件の多様な局面や、状況の複雑さというか混乱というか、そういうものまでもが非常によくつたわってくる。 またインタビューは、被害者の生い立ちや、仕事を中心とした生活の状況、その人の性格や人生観のようなものにまで立ち入っている。それゆえ、事件がもたらしたものが、その人にとってどんなものであったのかさえも、とても切実に迫ってくる。亡くなった人の家族の衝撃と絶望、後遺症や障害をかかえ人生を大きく変えられてしまった人の怒りと苦悩と現在を生き抜く懸命さ、身体的に回復したとしてもいまな人々をおびやかす精神的な傷としての恐怖心や不信感、もとの日常の生活に復帰した場合でもなんとなく残る不安のようなもの、など。事件の影響は、さまざまであったことがうかがえる。 作品を読んだ人も多いと思うので、概説はほどほどにしておきたいのだが、描きだされるこういった被害者のそれぞれの経験と感情を、これほど強い共感や同情とともに読ませうるのは、村上春樹の力量だと、まずは確認しておきたい。これは大方の論者が認めるものだったと思う。とくにわたしが一番強い印象を受けたのは、村上がまったく労をいとうことなく、被害者への聞き取りにつくすその丁寧さであり、行き届いた配慮とそれに見合うことばの選択の、これ以上ない「ふさわしさ」である。 たとえばほんの一例だが、地下鉄職員で被害にあった「豊田利明」さんが「あまり思い出したくないんだ、正直に言って」と事件について語り始めるのをためらう場面での、村上の説得のことばを引用してみよう。 わかりました。おっしゃっておられることはよくわかります。私もこんな風に無理にお話をうかがわなくてはならないことについては、ほんとうに心苦しく思っています。ふさがりかけている傷口をこじあけるようなことは、できるだけしたくありません。でも私といたしましては、この事件に関して一人でも多くの方から直接お話をうかがって、それを生の証言として文章にして(略)、少しでも多くの人々に正確なかたちで伝えたいと思っているんです。 ですから無理にとは言いません。もし話したくないということがあれば、それはべつにお話にならなくてもけっこうです。これくらいは話してもいいということだけでもいいですから、聞かせて下さいませんか。(『アンダーグラウンド』講談社文庫p75) 説得の流れはこうなっている。まず「被害者への心よりの同情」があり、「思い出すことがさらなる苦痛をもたらすかもしれないことへの気づかい」を示し、それでも「経験を知らせることには社会的意義がある」ことを強調。最後に「できることだけで十分だという無限の譲歩」をそえて、語ることをすすめる。いったい被害者を前にして、これほど行き届いたことばでだれがインタビューできるだろう? そしてこのような丁寧さと相手への配慮なしに、そしてそれをも超えるようなことばの力なしに、あれほどの事細かな証言を引き出すことはできなかったはずだ。作品の圧倒性は、村上の非凡なことばづかい、作家としての能力と比例している。こういった全体にたいし人が誠実さを感じたり、「作家としての責任」というようなことばを思いうかべても、いっこうにおかしくはない、とわたしは思う。 ここで比較したくなるのは、地下鉄サリン事件の第一審裁判で、検察側が提出した「三点セット」とよばる被害証拠のずさんさであろう。これは被害者からの調書とアンケート、および医師による診断書からなるもので、これによって麻原氏は、3938人の被害者にたいする殺人または殺人未遂で起訴された。しかしこれらの証拠は、警察からの送られてきた被害者名簿の一覧をそのまま流用したような代物だったという。大部分の被害者には事情聴取さえなされず、簡単なアンケートですまされていたのだ。 だから裁判が始まると、サリンの袋を見たことがなかったのに、警察から言われるがままに袋のあった場所に印をうったと証言しはじめる被害者があらわれた。ほかにもそれらのなかには、被害者がどの電車に乗っていたのかあいまいなもの、症状の内容が不明瞭なもの、警察官が代筆したものなど、証拠として成立しないものが多かった。結局まともな捜査はされていなかったのだ。そして検察は、自らのデタラメさのため、2年後になって多数の被害者に関する起訴を取り下げ、死亡・重症の被害者にたいしての殺人と殺人未遂に絞り込まざるをえなかった(以上は『生きるという権利』安田好弘や『麻原を死刑にして、それで済むのか』渡辺脩などより)。 要するに、警察や検察といった国家権力の出先機関にとって、被害者というものが、「反国家的」団体や個人を捕縛し、罪を着せ、罰するためにだけに必要とされてしまう実態を、このケースはしめしているだろう。だからこんな現実において、村上の基本的な問い「ほんとうに何が起こったのか?」は、まことに正当であり、その成果としての作品は、官権の不様な「物語」などとうていおよびもつかない、第一級の資料でもあると思う。 しかし、ここでわたしは村上の奇妙さにも言及しなければならない。というのは、これだけの仕事を残しながら、その成果の主要な側面を、本来の仕事である小説作品において、村上はとんでもなく台なしにしてしまっているのではないかと感じるからだ。実際、それ以降書かれた小説『スプートニクの恋人』『神の子どもたちはみな踊る』『海辺のカフカ』を順に読んでいくうちに、わたしは暗澹たる気分にとらわれることになった。『アンダーグラウンド』において見て見ぬふりをしてすませたいとわたしが感じた部分、実際これまでの言い方ではとりあえず無視してきた要素、そういったものだけを、村上はむやみにふくらませて、以降の小説を書いているのではないか、と疑ってしまうのだ。 わたしがあまり触れずにきたのは、『アンダーグラウンド』が小説作品としての要素をもつという点である。これは今までも多くの論者から指摘されてもいることで、割合目につきやすいものである。たとえば、証言する被害者の顔立ちや表情、服装や振るまいなどを、積極的な感情移入となじみの言葉づかいで描くところなどは、ふつうのルポルタージュにはない印象をあたえる。あたかも村上作品の登場人物が自らの痛みを読者に語りだす、そのようなリアリティで被害者の存在感が迫ってくる、と感じたひとも多いのではないだろうか。 わたしはこのことをたんに否定的にとらえているのではない。 たとえば、事故や事件体験者の面接をおこない、それをもとにしたノンフィクションを手がけもしている精神科医の野田正彰は、村上の同書への書評「隠された動機――ノンフィクション作家からフィクション作家へ」(『群像』97年5月号)で、村上の態度と、自らの方法=「出来事ではなく、その人が出来事に直面して生じた感情の流れ」を尊重する聞き取りの手法とが、非常に類似していることを指摘している。これは語り手の「主観的現実」を浮かびあがらせるのにたいへん優位だという。ならば、村上が被害者の「感情の流れ」をよびこもうとして、自分の得意な小説家らしい感情移入とことばづかいをもちいているのだったら、なんら問題はないだろう。それは野田のいう、相手の「主観的現実」を浮かびあがらせるために他ならないのだから。 ところで村上はこのことに自覚的である。それは、同書を書き終えて、著者なりのオウム論と作品の意味づけを展開している「あとがき」を見ればあきらかだ。そこで村上は、被害者が「記憶」をたどって語る「物語」には、それぞれの人にとっての「紛れもない真実」があるのだと、強調しているからである。そして、その真実性へ強く「感応」してしまう自分を、被害者にかわって彼らの「物語」をひたすら「紡ぎ出していく蜘蛛」にさえ、見立てているのだ。 ただし、語り手にある「主観的現実」への限りない尊重から、無私になってその「物語」の作品化(小説化)につとめる村上には、別の面では、より強い積極性が生じていることを見のがしてはならない。 村上が問題にし、こだわっているのは、マスコミなどをふくむ社会全般が、「被害者=善」対「オウム=悪」ときれいに切り分けてしまうことに無反省である、ということである。そうではなく「あちら側」の「オウム」が描きだした「物語」と、「こちら側」=「私たち一般市民」の「物語」が実は鏡像的なものであり、「暴力」や「暗闇」において通じ合っているのではないか、というのだ。「あとがき」ではこのことが全面的に論じられている。 そして村上がたどり着くのは、人びとが魅入られた「オウムの物語」を乗り越えるような「こちら側」の物語を、小説家としての自分こそが生み出さなければならない、という結論なのだ。『アンダーグラウンド』の作業を通じて、「こちら側」の「日本人」の「物語」を集約し、その傷をいやすような「物語」を新しく生み出すこと、これこそが村上のいま一つの目的となっていくのである。しかし『アンダーグラウンド』のすぐれた質量を保証する「手段」としてこそ小説的側面があったのに、これでは「手段」と「目的」が完全に反転してしまうだろう。 わたしは『アンダーグラウンド』における小説の要素を、単独ではまったく評価できないと思う。村上はその部分を、被害者その一人ひとりのためだけに使いつくすべきではなかったのか、と考える。なぜならそれは、極端な「感情移入」に支えられる、その人とその場においてだけ「真実性」が保証される「物語」なのであって、それをレベルの違うものに拡張してしまえば、ことばは現実的なものに依拠せず、上滑りしかねないからだ。 しかし残念ながら、村上は全体としての「日本人」の「物語」を構想していたのである。きわだった小説的要素(強い感情移入とことばの巧みさ)は、それにこそ役立てられることになるのである(「この地下鉄サリン事件についての長期取材は、わたしが『日本についてより深く知る』ための作業を展開させていく上でのひとつのてだてになった。」同書p760) 実は、野田正彰は前出の書評で、語り手の「主観的現実」を浮かびあがらせた後の作業についても注意を向けている。一人ひとりだけでなく、何人ものひとの「現実」を積み重ねまとめていくと、矛盾や対立をふくむような「綜合的な現実」が立ち現れる。そして「ノンフィクション作家のさらなる仕事は、立ち現れた構造物に人びとの共同のフィクション、いわゆる物語としてのイデオロギーを見付け、それを批判することが求められる」のだという。 お分かりのように、村上にはこの作業が見られない。野田もそのことを暗に指摘し(別の事件や事故の被害者でなく、なぜ、この「サリン被害者」にインタビューしその記録を発表するのか、その「動機」をはっきりさせていないと指摘し)、その作業に代わるものが、フィクション作家の村上にとっては何なのか、を最後にきっちり言い当てている。つまり、「答えは、これから作家が小説によって求めていくものであろう」と。 当時の野田がこれをどんなつもりでいったのか、わたしにはわからない。皮肉にも見えるし期待にも見える。が、どちらにせよ、おそらくのちにはがっかりしたのではないだろうか。村上がだした「答え」は、「物語としてのイデオロギーを見つけ、それを批判する」のではなく、「物語としてのイデオロギー」をいかに強化するかだったからだ。それは『スプートニクの恋人』や『神のこどもはみな踊る』、『海辺のカフカ』における「空想の勝利」として実現されている。あれほど「真実」に切り込もうとした『アンダーグラウンド』から、なぜこれほどまでに後退してしまうのか、愕然とするほどの不思議である。 作品の中身に照らして、このことを論じていこうと思ったが、紙幅にもかぎりがあるので、ここでは村上における「空想の勝利」の、主要な側面についてひとつ指摘しておく。つまり「物語」の内容が「空想」的だということもある。しかしそれよりも問題なのは、ことばがもつであろう力にたいして、作者の「空想」があまりにはなはだしいということなのだ。どういう義務を感じているのだろうか、村上は、なぜかあらゆるタイプ、あらゆる立場の人を引き込んだり、気にさせたり、引っかからせたりするような、エピソード、セリフ、ことばづかいを懸命に作品の中にちりばめる。それらは、「作者がそこに何かを読ませたがっている」と感じさせるものであり、非常に誘導的なのだ。 たとえば、ソフトポルノまがいの性描写、古今東西の文学的引用、あらゆるジャンルの音楽への絶え間ない言及、推理小説的仕掛け、天皇制・歴史論争的問題・少年犯罪・精神障害・ジェンダー論・学生運動などの社会的議論の素材の断片的な利用、「メタファー」や「記号」についてのメタ小説的講釈などなど、あきることをしらない。それが意味深いものであると自ら信じているかのように、丁寧に配置させていく。しかし、内的関連があるのかと思って、慎重に文脈をたどっても、それが互いに正確には意味をもってつながってゆかず、残されるのは登場人物の「苦痛」と「喪失」を強調するための、「暗示」や「ほのめかし」あるいは「謎」だけなのである。 人のいい、悪くいえば能天気な読者は、親切にもそこに自分なりの解釈をふくらませ、埋めこむのだろう。たとえば嬉々として「謎」解きに精をだし、作者の「意図」を描きだしてしまう加藤典洋編著の『イエローページ村上春樹PART2』など、ほんとうにご苦労様といいたい。しかしそういった読み込みは、村上のことばへの「空想」をなぞるだけではないか。それはまったく「目的を欠いた」感情移入でしかなく、わたしはこの不健全さに我慢ならない。 『アンダーグラウンド』では、被害者という現実的な根拠があった。それは、見かけに反して、一様に描きえないような個別性、偶然性、矛盾、混乱、バラバラさにあふれている(*註5)。しかし以降の作品では、やくたいもない「物語」への不必要な「感情移入」がほとんど「強要」されている。ここに、現実的で批判的な視座が構築されることは、どう考えてもありえない。だから、「あとがき」で村上が展開していた日本社会への批判は、いまやまったく空疎なものに転じている。ようするに、村上は『アンダーグラウンド』でとらえかけた「現実」と「空想」の緊張関係を、自身の本業たる小説において、何ひとつ生かすことができなかった、というしかない。 しかしこういった帰着を見るのは、当初から予想できたことなのかもしれない。『アンダーグラウンド』と対になるオウム真理教信者(元信者もふくむ)へのインタビュー集『約束された場所で underground2』(1998年)が、そのあかしである。ここで村上は、前作と同様の手法をとるとのべるが、信者への「感情移入」はあまりに希薄であった。そして当時進行していた事件関係者への裁判にたいする世間的な偏った予断を、彼らに臆面もなくぶつけ、「麻原彰晃を頂点に、実行犯も、一般の信者も同質(=同罪)である」という下品な情念に混濁した観念、つまりファシスト的観念を、インタビュー中に随所ににじませていたのだった。 村上がそんな態度で聞き取りをするためか、オウム信者たちは開き直って、自分たちの実際の生活が、意外に現世的で即物的な側面を持っていたことなどを、あっけらかんと語っていて、『約束された場所で』は、読み物としてある意味で面白いものになっている。しかし、それでもやはり『アンダーグラウンド』との比較において、「こちら側」=「一般市民」と「あちら側」=「オウム信者」の印象の違いを、鮮明にしようという目論見は露骨である。そしてこの目論見の送り先は、「善良なるわれわれ日本人」以外ではありえない。「『一般市民=善』対『オウム=悪』と単純に切り分けられない」などと主張していた村上のことばが、当初から「空想」的なものだったというのが、あきらかになっている。 本稿の冒頭で、麻原氏がおかれているきわめて切迫した「現在」から照らして、わたしたちを丸ごと包んでいる「空想」の存在を指摘したが、こうして村上のオウム問題への「コミットメント」の実態を確認してみると、村上がいかに小説家として、日本人民を「苦境」へ追いやることに手をかしてきたのかがはっきりするだろう。ことばの力を「空想」に従わせ、「被害者を代行し、権力による復讐を正当化する」という問題を、文学的にいろどってきたわけであるのだから。 しかし、なぜなのだろう、とわたしは思う。あれだけの事象の多様さや物事の細部に目を向ける力のある小説家が、現実に張りついた「空想」を引きはがすことができず、むしろ「空想」的なことばの主宰者になるのはなぜなのだろう。「事実」に接近し、思考を深めることが、いつまでも「空想」の打破につながらないのは、どうしてなのだろう。おそらく、ここにこそ「文学」にとっての「苦境」が、現在あらわれているのだと思える。 (註1)本稿で「オウム真理教」「オウム」と名指しているものが、何をあらわすのか、わたしは実は、きちんと考察できていない。そしてカギ括弧をつけたりつけなかったり、非常に恣意的である。批判の対象としているマスコミなどの用法と変わらなかったり、むしろそれを受けて使っているところもある。問題点があるかもしれない。しかし、本稿の考察の内容から、不必要な意味づけはないし、そう受け取られることはないと考えている。 関連して一つだけ指摘しておきたいのは、団体規制法によっていまだに公安調査庁の観察処分下にあり、不当な人権侵害・生活の破壊を受けつづけている宗教団体「アーレフ」とその信者にたいして、「オウム」ということばを使うのは、異常な精神のたまものだということである。 そもそも破防法適用の脅威と警察権の濫用で、彼らに「オウム」であること「オウム」を名乗ることをやめさせたのは、わたしたち日本人民とその国家権力である。ところが政府に提出された公安調査庁の観察処分継続の報告書などをみると公文書にさえ「オウム真理教」と堂々と書かれている。また新聞などのマスメディアでは、「オウム真理教(現アーレフ)」という、汚いやり口がまかり通っている。 暴力的にその名前を奪い、本来の名前を使うことを弾圧しておきながら、奪った名前でレッテルをはりつづける手法は、大日本帝国植民地政策における「創氏改名」などに通じているかもしれない。 (註2)拘置所に収容される裁判中の被告人たちの世話をする「衛生夫」の仕事には、すでに服役している模範の受刑者が選ばれ、つけられるらしい。『獄中で見た麻原彰晃』では、元受刑者で、麻原氏の食事の配膳などをしていた人のインタビューが、その日常の詳細な様子を伝えている。これは、刑務官や拘置所関係者以外に絶対に知ることができないきわめて貴重な証言である。 接見できる弁護人であっても、このような麻原氏の具体的な状況を把握することはむずかしい。たとえば拘置所つきの医者に、麻原氏の治療データを出すように再三要求しても、その意図ある秘密主義によって、弁護人は被告人の健康状態の一端さえ知るすべを阻まれていた。あとは接見で本人が話さないかぎり拘置所内での状況をつかむ方法はない。そして麻原氏はまったく話せなかったのである。 ここでいくつかの重要な疑問がわいてくるだろう。なぜ「いまになって」麻原氏が精神の変調をきたしていることに気づいたのか。なぜそこまでひどくなるまで放っておかれたのか。確かに奇妙に感じられるかもしれない。これには、実際の経緯がどんなものだったのか押さえなくてはならないだろう。現在の問題の意味を理解するうえでも必要だと思われるので、以下に簡単にまとめてみる。 (1) 発端は、「地下鉄サリン事件」を審理していた1996年10月から11月にかけての第13回と第14回公判である。第一審弁護団が、起訴されている弟子への証人尋問をおこなっていると、突然麻原氏がそれに反対しはじめたのだ。弁護人と被告人が法廷で対立してしまい、麻原氏が退廷させられた。それまで裁判に協力的であった麻原氏が、この時期を境にして様子が急変する。 (2) 弁護団は、麻原氏が裁判方針に反対したことに驚くが、麻原氏の無罪を主張し、その権利擁護に最大限の努力をする目的で、そのまま裁判を継続する。麻原氏の変化は、信頼していた弟子たちから裏切られたことによる精神的ダメージのあらわれだと、当初弁護団は考えていた。 (3) 麻原氏は、次第に弁護士の接見も拒むようになり、法廷においても意味不明の不規則発言をするようになる。97年から98年あたりのこの時期に、すでに関係者は麻原氏の状態に問題があると気づき始めていた。 (4) しかし、弁護団は精神鑑定や治療などを要求することが、裁判を不利にすると考え、実行できなかった。起訴事実にたいして、明確な否認の意思を示していたそれまでの被告人の立場そのものを、危うくする状況にあったからだ。また、麻原氏の被告人としての発言がなくても、「犯行指示の具体的な証拠がない」という点で無罪であるという主張を十分構成できた。 (5) それでも弁護団は、麻原氏の状態をケアして、問題を打開する方法を模索しようとしていた。しかし1998年12月に、主任弁護人であった安田好弘弁護士が、完全なでっち上げの事件で不当逮捕され、麻原氏の裁判から引き離されてしまう。 (6) 麻原氏との連絡係として重要な位置を占めていた安田弁護士が欠け、またその後も接見などが実現できないまま、裁判は進行する。法廷での麻原氏には、不規則発言や奇妙な挙動、居眠りなどが継続して観察される。裁判所、検察、マスコミは、麻原氏の病気を酌量せず、「詐病」「異常性格」というレッテルをはりつづける。 (7) 2004年2月、第一審は死刑判決で幕を閉じる。第一審弁護団は裁判を離れ、控訴審は新たな私撰弁護人に引き継がれる。 (8) 控訴審弁護人は、何年も実現できていない接見に熱心にでかける。これを何ヶ月もつづけていた2004年7月、38回目の接見で、突然麻原氏が接見室にでてくるようになる。これで麻原氏から話が聞けて、趣意書を作成できるかと考えたが、麻原氏は完全に意志疎通をおこなうことができなくなっていることがあきらかになる。(突然あらわれるようになったのは、弁護人が接見できなければ趣意書がだせないと主張していたため、おそらく裁判所か検察から拘置所に話がまわり、刑務官が一人で動けない麻原氏を車椅子に載せて連れてくるようになったのだろう。) 以上の経過を見ると、麻原氏の変調は、なんと10年前からのことである。必ずしもそのとき完全な病気を発症していた、とはいえないだろうが、弁護団側が依頼した医師の鑑定、麻原氏の「精神状態に関する意見書」でも、相当早い段階で麻原氏の状態に問題が生じていたかもしれない、という疑いを呈している。現在は、「拘禁反応」が悪化した、治療を要する状態と診断されている。 第一審の国選弁護団が堅持した裁判方針にも、疑問が投げかけられるかもしれない。しかし、これはおそらくいまから考えれば、ということでしかないだろう。弁護団は当時、ごくふつうの公判審理を維持することのためにさえ、裁判所・検察の拙速な審理進行とたたかう必要があった。安田弁護士の不当逮捕の問題もあり、麻原氏の変化を裁判闘争の方針の中に組み込むのは、むずかしかっただろう。 しかしどちらにせよ、麻原氏は現在かなり深刻な状態にある。これを招き、いまなお放置しようとしているのは、本稿全体で問題にしている、日本人民の想像力のなさによることは、動かせない。 (註3)よく考えてみてほしい。もしかりに「訴訟能力あり」という主張をするなら、それは「裁判継続」を求めるものであり、かつ「裁判継続」の理由となるもの以外ではないだろう。ところが今回の決定は、「訴訟能力あり」という鑑定を使って、逆に「裁判停止」を決定したのだ。なぜそんなありえないことがおこるのか。日本人民は考えなければならない。 これには趣意書提出をめぐる裁判所と弁護人の駆けひきの要素が絡まりあっていて、そこを丁寧に解きほぐして振りかえる必要がある。以下に簡潔にしるしてみる。 (1) 控訴審弁護人は麻原氏と接見を重ねても意思疎通ができず、趣意書の提出が不可能と主張。提出期限の延期と厳正な精神鑑定を要求した。 (2) 裁判所は麻原氏の状況の深刻さを知って(いて?)、弁護人の主張を一方的に退けるわけにもいかずに、趣意書提出の期限を05年8月31日に延期した。 (3) 8月半ばようやく裁判書は「精神鑑定」をおこなうと決定。しかし条件をつけた。それが以下の(a)(b)のふたつ。 (a) 「鑑定」は裁判所がおこない、医師の選定、鑑定内容やそのプロセスには弁護人は一切関与させない。裁判所がその内容を判断する。 (b) 8月31日をすぎても、「鑑定結果」がでるまでは控訴を棄却しない。ただし趣意書は、「鑑定」が出るまでに提出されなければならない。その場合だけ期限内の提出とみなす。 条件(a)は、端的に「公正な精神鑑定」が望めないことをあらわしている。そして(b)の条件が、裁判所がおこなう「精神鑑定」に反対できないように弁護人を宙吊りにしてしまう点で、悪辣だとわかるだろう。要するに「鑑定」は形式的におこなうだけで、結果はきまっており、一方でその結果がでる前に趣意書を提出さないなら、控訴を棄却すると脅していたのだ。 これは二重に不当な圧力である。まず、「正しく精神鑑定をおこなえば治療が必要だということがわかるはずだ」という弁護人の本来の主張をまったく踏みにじっている。そして、もし弁護団が控訴棄却を避けるために、とりあえずでも趣意書を出してしまえば、それは「精神鑑定」がおこなわれているなかでは、麻原氏に「訴訟能力がある」という証拠にされかねないことだ。だから弁護団は、趣意書をすんなり出せなかったのだ。鑑定結果を待つとともに、趣意書提出のタイミングをうかがうというギリギリの選択を強いられるしかなかったのだ。 結局今年2月、危惧していたように事実をねじ曲げた「精神鑑定」がだされ、裁判所は「被告人に訴訟能力あり」の判断をくだした。これにたいしてただちに弁護団は強く抗議し、鑑定人の尋問、鑑定のやり直しなどを要求した。それまでにも、弁護側で独自におこなった四人の医師の「訴訟能力に疑問、治療の必要がある」という精神鑑定を意見書として提出していたからだ。弁護団としては、当然の正当な主張であろう。(ちなみに本稿村上論で引用している野田正彰が、四人の医師の一人である。) ただし控訴棄却がなされる最悪の事態を避けるために、弁護団は3月28日に趣意書を提出する意向であることを前もって表明していた。それまで提出を控えていたのは、先にも説明したように「正しい精神鑑定」を要求するための大前提であったためである。ところが、その矢先の3月27日の東京高裁の控訴棄却の決定なのである。これだけ見ても、「弁護団が裁判引き延ばしのために趣意書提出期限を無視していた」というような報道は、完全な虚偽であることがわかる。 しかしそれにしても、なんという悪意に満ちた裁判所のやり口だろう。このように見てくると、ひょっとすると裁判所は、「鑑定」をおこなっていると称している間に、控訴棄却のカードを切る可能性をさぐり、その時のために各方面への調整などもしていたのではないかと疑わざるをえない。これはわたしの推測だが、これほど重大な決定なのに、弁護団が趣意書を出すと表明してのすぐのタイミングは、すでに控訴棄却のシナリオができあがっていた印象がぬぐえない。 というのは、今回、あやつり人形の鑑定人に「訴訟継続可能」の結論を出させても、裁判が始まり、公判に麻原氏を連れ出せば、本当の麻原氏の姿をみんなが知ってしまい、問題化せざるをえなくなるからだ。やつれた姿で車椅子に乗せられてやってきて、一人で「うんうんうん」とうなずきつづける人にたいし、なおも極悪人のレッテルをはり、その行為と罪と反省を問い続ける自分たちの振るまいの空疎さと非人間性に、気づかずにはいられなくなるからだ。 そして公判途中に病気療養で病院からでてこれなくなったり、あるいは非道にも無理矢理裁判を続行して麻原氏の命をちぢめてしまい、死亡させてしまうようなことがあれば、裁判は結審せずに終了してしまう可能性だってある。そのとき国家権力者たちやある種の日本人民の執拗な復讐心は、宙づりにされてしまうだろう。彼らは、それだけを避けたかったのではないか。自分たちの情念をぶつける場所を失うのだけをおそれたのだ。そして裁判所は、弁護人に責任をなすりつけるかたちでの控訴棄却を、まんまと実現させた。 ここで「被害者や遺族はどうなるのだ」といいだしたい向きもあるかもしれない。しかし、なんと言えばいいのかわたしにはわからない。ただ、ひとこと言えるとしたら、「権力=人民の復讐心」と結合してしまった被害者の「感情」というものは、非常に不幸なものだと思う、ということだ。これは後段の村上春樹の考察を通じても、はっきりしている。 (註4)たとえば、松本サリン事件で、深刻な被害を受けた立場であるのに、警察によるオウム真理教関係者への不当な弾圧を批判し、どんな被疑者にも公正な裁判と法の適用が要求されることを主張していた河野義行さんのような人が、「真相をあきらかにしてほしい」うったえるのは、ほんとうに当然のことだと思う。そして、そこでつかわれている「真相」ということばには、「どういう動機で犯人がなにをしたのか」というようなことだけではない、広がりをもっているだろう。 しかし、権力による不公正を助長させるような「空想」をもてあそぶものたちが、「真相をあきらかにすべきだ」と平然と口にするのは、なにかめまいをもよおす光景ではないだろうか。そしてこのめまいは、本論で展開する村上春樹への考察のさなかにも紛れ込んでくるものだ。それは「空想」への抵抗の感覚ではある。が、ただし、「空想」にわたしたちが丸飲みされていて、そこから抜け出すのに簡単ではないことをしめしているようにも思える。 (註5)村上の一様な文体の向こうに、まったくバラバラな個人が、まったく個別の世界に生きていることが見えている。それを、一つの出来事めぐる、同一のようでいて同一でない経験と感情にまとめるには、取材者の強い「感情移入」が必要であったことは、本論でも述べたように、それなりにうなずける。 しかし、上記の「註3」と関連することだが、『アンダーグラウンド』において被害者のかなりの割合のひとが、怒りや苦しみを「犯人」に向けてもしかたがないと、考えていることを明確に述べている。そして、自身の受けた暴力を、むしろ警察や社会、国家の責任と結びつけて考えているひとも、少なくない。そこには、みずからが「権力=人民の復讐心」に結びつけられることへの警戒がはっきり見てとれる。ところが村上は、自分で取材してえたこうした問題については、拾いあげることをまったくせずにすませている。 ■プロフィール■ (むらた・つよし)1970年生まれ。サラリーマン。「腹ぺこ塾」塾生。 |
成瀬巳喜男のフィルムに交通事故が頻出するのは誰でも気づくことですが、その長いキャリアの終りから二番目の作品『ひき逃げ』(1966)は、題名の示すとおりまさしく交通事故を主題化したものでした。しかし、確かに『腰辧頑張れ』(1931)では実直なセールスマンの幼い息子が電車にはねられ、『生さぬ仲』(1932)では実の母に幼い娘を奪われた育ての母が車道に飛び出した娘をかばって身代りになり、おまけに実母を恋うて夜中に家を抜け出した娘は自転車とぶつかり、『夜ごとの夢』(1933)では事故に遭った息子の治療費を工面するため斉藤達男が強盗をはたらき、『限りなき鋪道』(1934)では女給のヒロインがブルジョワ青年の車に引っかけられたのがきっかけで彼と結婚しますが、別に成瀬自身はそれまでの監督作品で交通事故を「主題」にしていたわけではありません。『君と行く路』(1936)では、車は登場人物の一人に悲劇的な最期を遂げさせ、『娘・妻・母』(1960)では原節子を寡婦にして実家へ戻らせ、『女の歴史』(1963)では、平和な時代に若い男の突然の死の原因となりうるものが交通事故でした。要するに交通事故とは、それを口実にたやすく人を死なせることができると同時に、ありえない出会いを――文字通り〈交通〉を――可能にする機会なのです。それによって登場人物の運命が激変し、物語が駆動する。成瀬の映画にとって交通事故とはそういうものでした。 『ひき逃げ』でも、交通事故が基本的にそういう役割を果たしていることは言うまでもありません。高峰秀子と、自動車会社の社長夫人司葉子は、高峰の幼い息子が低地に建つ貧しい家から高級住宅地へ通じる道路へと、切り立った斜面を登ってきて、司の運転する車にはねられるということがなかったなら、互いに顔を合わせることすらなかったでしょう。司が罪を逃れたために、高峰は身元を隠して彼女の家に家政婦として入り込むことになるのです。『ひき逃げ』は、高峰の熱演がしばしば人をうんざりさせるフィルムです。『女の中にいる他人』(1966)では外から侵入してくるものだったノイズ(前回参照)が、あたかもここでは、交通量の多い道路を行き交う車の騒音として全篇を覆い尽くしているかのようですが、高峰の誇張された演技もノイズのうちというべきなのかもしれません。『晩菊』(1954)や『乱れる』(1964)の冒頭でやかましく街を走り回っていた宣伝カーにも通じるそうした騒ぎのただなかで、たとえば高峰は「橋」の上から眼下を流れる車の「川」へと、世話を任されることになった司の息子の身体を掴み上げ投げ捨てたりもしますが、むろんそれはただの空想で、本当に死が間近にあるとき、それはたとえば、ガス管から漏れるガスのシューという、いわば内部からの持続する音として示されることになるでしょう。実際に高峰の息子が事故に遭って命を落す場面は、仰々しくももどぎつくもなく、むしろ淡々と描かれます。ただ、それが報告される際の科白と演技がTVドラマ並みなのです。目撃者となった観客には、弟役の黒沢年男が急を告げに走ってきた時点ですでに事態がわかっているのですから、「大変だ、**ちゃんが事故にあった」「**!」という高峰とのやりとりはたんに不要です(1)。 この作品と『乱れる』(1964)といずれも松山善三脚本なので、メッセージ性が強いというか、単純に映像なしで自立したがっているようなというか、そうした科白が目につくのはそのせいかもしれません。というのも、そのような科白抜きの部分、つまり、『ひき逃げ』の冒頭で車が高速で画面を横切り、平行するガードの上をそれを追うように電車が通過する、またそれに続いての、司葉子の夫の会社が試作したバイクがサーキットを試走して幹部たちが建物の中からそれを眺める、いずれもワイドスクリーンを十二分に生かした場面にしても、『乱れる』でくだんの宣伝用トラックが「高校三年生」を大音量で鳴らしながら走り回る場面にしても――たとえば後者なら、右から左へ車がシネスコ画面を横切り、荷台の人々を縦にとらえたショット、逆に荷台からのショット、角を曲がってさっきとは反対方向から出てくる車を迎える形でのショット、引いたショットという具合に――映像はいささかの乱れも見せることがないからです。 成瀬の遺作となった『乱れ雲』(1967)が、先に述べたありえない〈交通〉の話であることはいうまでもありません。『乱れる』では、高峰秀子と加山雄三が性関係を持つことを妨げるのは義理の姉弟(戦死した夫の弟)であることと、十一歳の年齢差でしたが、ここではそれは、加山が、司葉子の夫を殺した交通事故の加害者であることです。顔の半ば以上を繃帯に覆われて横たわる司葉子の夫を見る者は、思い出さずにはいられないでしょう。映画の終り近くで車を暴走させ、瀕死の状態で繃帯に包まれていた『限りなき鋪道』の夫や、軽微な事故にふさわしからぬ大仰な繃帯を頭に巻かれた『生さぬ仲』の女の子や、『腰辧頑張れ』で電車にはねられ、やはり繃帯姿になった男の子を。それでは、司の夫は、ああした繃帯を巻いた者たちの最後に連なるのでしょうか。いいえ、『乱れ雲』でもう一度、そうした姿が幽霊のように反復されるのを私たちは見ています。加山と惹かれ合うようになってしまった司は、ついに意を決して彼とともに一台の車に身をゆだね、緑深い山へ分け入って行きます。小さな「橋」を渡った直後、突然、警報器が鳴り(そんな山の中で?)、踏切の不吉な赤いシグナルが点滅します(2)。行く手を遮る列車が通過するまでの長過ぎる時間を、二人は座席の上で押し黙ったまま、ワイドスクリーンの左右に身を置き正面から映し出されるままになります。そもそも、その日引き払う加山の下宿に司が訪れ、階段の上と下で見つめあったあと、彼らは何一つ言葉をかわしていないのでした。 そして踏切を越した彼らは、タクシーのウィンドウがスクリーンであるかのように、起こってしまった事故の残骸を目撃することになります。急カーヴの道を辿る車の座席で、移動撮影するキャメラとなった彼らの目は映画館の客のように黙って見つめるしかありません。「事故だな」「こりゃひどい」空々しい棒読みの運転手の声だけが響きます。やがて行く手に視界が開け、大きな前庭のある旅館があらわれます。二人が部屋に通された直後、サイレンの音が鳴り響き、ボンネットのある古風な救急車ともう一台の車(警察車?)が旅館の敷地に走り込んできます。窓辺にあらわれ、二人並んで、彼らは見ます。さして大きくはない池というか水たまりのようなものの縁にそって救急車が回ってくるのを。それが玄関前に後部を向けて勢いよく停まるのを。そして旅館の中から運び出された担架が、救急車の後部扉に吸い込まれるように消えてゆくまでのあいだに、彼らは見るのです。司の夫と同じかたちに頭に繃帯を巻かれて横たわる男と、遺体確認時のときの司そっくりに悲嘆にくれて男にすがりつく女を。変えられない過去が上演されるのを、手の届かない二階席でのように、再び映画のように二人は見ます。 この直後、室内で司が加山に向かって口を開くまで、階段の上と下の場面以降、私たちが耳にした科白といえば、事故現場を見たときの運転手の声と、「あなた、しっかりして」と叫ぶ女の声だけで、実にここまでのあいだ、主演の二人には一言も科白がありません。 対する高峰/加山カップルも、『乱れる』後半では科白の少なさが際立っています。『乱れる』冒頭のけたたましい宣伝カーは、内容的にもこのフィルムの前半を象徴するものでした。結婚半年で夫が戦死したあと、空襲で焼けた嫁ぎ先の酒屋を独力で再建し、実の子供たちに代わって舅を看取り姑の世話をしてきた高峰秀子の地位をゆるがすのは、直接的にはこのトラックが告げているスーパー・マーケットの開店なのですから。何しろこの映画の前半は、賞金ほしさにゆで卵をわれ先に口に押し込むホステスたちだの、加山雄三のバーでの乱闘だの、成瀬らしからぬ乱れた絵と長科白の連続で、スーパー進出のため経営を圧迫されて自殺した店主の妻、中北千枝子までが、「スーパーがあの人を殺したのよ!」とわめきちらすいつにない「熱演」ぶり(十朱久雄ならずとも、まあ落ち着いてと言いたくなります)、中盤までは、説明的な科白と単純な切り返しのやりとりが目立ち、いつもの速度と生彩を欠くかに見えます。 しかし、その後の展開は前半の冗長さを償ってあまりあるもので、むしろ、成瀬の演出の確かさを見せつけるために、前半の喧しさはあったのかと思ってしまうほどです。私たちに見せられるのは再び「乗物」、しかし、意味を全く異にしたそれです。故郷の山形へ帰る列車の座席に身を落ち着けた高峰(加山の求愛を退けるため、実際には彼女は婚家を永久に去るつもりでいます)の前に加山があらわれ、最初は立ったままなのが、車内がすくにつれ、席を替わって段階的に近づいてくる、このときのサスペンスは多くの人が指摘するとおりですが、二人の距離が縮まってゆくショットと相互に挿入される走る列車の外観のショットも見のがせません(これもワイドスクリーンです)。それは、最初左から右へ向かって、次には左下から右上へ(行く手には山が見えます。前半の舞台は清水市だったので、まず東海道線で東京へ向かうわけです)、次は角度は同じながら、鉄橋を渡る姿をとらえ、その次は俯瞰気味(角度は同じ)といった具合に見事なヴァリエーションを生み出しつつ、ひたすら一方向への帰ることなき運動を体現します。 上野駅で、彼らは東北本線に乗り換えます。ひとりで席にいた高橋がふと見ると、窓の外では新婚旅行の見送り風景が繰り広げられています。自らの状況と彼らのそれを重ね合わせての思いが高峰の胸をよぎらないはずはありません。それは彼女と義弟のありうべき/ありえない出発をも二重写しにしていました。これ以前に高峰が、酒屋の店の中から斜め前の別の店の軒下で、そこの女店員と自分の店の使用人とが話をしているのを見るシーンがありました。見とがめられたと思って気まずい様子で店員は戻り、彼女の視線を嫌って娘も去りますが、あのとき、高峰は羨望の目で――加山の愛の告白のために生じた、それまでには意識しなかった感情で――見ていたはずなのです。 少し眠りなさい……いや、眠くない……というやりとりのあと、眠っている加山の姿が示されるとき、いつの間にか窓の外は霧に閉ざされています。そこに至るまでの道程で、窓の外にはさまざまなものが映し出され、消えて行ったのでしょうが、今、霧は二人を外界から完全に切り離してしまいました。銀山温泉に着いたとき立ちのぼっている湯気もまた、この霧の変奏でしょう。加山が眠っているあいだに彼女は心を決めたのでした。それまでずっと彼女に向けられることをやめなかった加山の鋭い視線(間違っても現在の顏を想像しないように)を遮断したところで高峰の決心は行なわれます。無言のうちに、あふれる涙だけでそれは表現されます。 「幸司さん、降りましょう、次の駅で」 次の駅……そこは川の両岸に何層にも重なる木造の旅館がそびえる、橋と階段が特徴的な古い温泉場です。「次の駅」にすぎない大石田がこのような場所を用意していたとは。高峰と加山が同居していた清水の家は、高峰のやすむ階下と加山の寝る二階を階段がつなぐだけでなく、座敷と台所のあいだに小さな橋(揚げ板のような)がかけられてもいたのですが、あたかもそれを大がかりなセットにしたものが銀山温泉であるかのようです。水平の距離をここまで移動してきた二人ですが、今度はこの階段が上下の運動をも可能にします。その夜、加山の接近に高峰が最後の距離の踏破を拒み、加山が駆け降り、高峰も玄関まで追ったものの、あきらめて部屋へ戻ってくるのはこの階段でした。加山が酔って電話してくるのは東京でもあったことの反復ですが(どこにいるの、と高峰は、東京の自宅で電話を受けたときと同じ問いを発します)、そのとき高峰が受話器を取るのはその階段の下でした。 女たちと一緒にいると高峰に信じさせて加山が受話器をおくと、他に客のいない、ただひとりでやっている飲み屋のおかみ浦辺粂子は、東京から来たのかと彼に訊きますが、「立ち木のように」生まれた村から出たことのない浦辺にとって、東京とは行ったことのない遠い所、つまりはただの名前であり、それはフィリピンの先、息子の終焉の地としてのみ知るミッドウェーにしても同じことです。二十五歳の死。戦死か、と呟く加山。それは高峰の夫、彼の死せる兄を思い出させずにはおきませんが、同時に、今年二十五歳になると何度も強調されていた、彼自身の死の可能性をもひそかに導き入れるものでもあります。この温泉の下足番をしてでも貴女と一緒にいたい、と高峰に訴えたとき、生まれた村から一歩も出ない老婆の生をも、彼は可能性として選び取っていたのでした。それがかなわないなら、ひとり「遠い所」へ行くしかありません。駅から乗ったときはロング・シートに並んで腰掛けたバスに、明朝はひとりで乗って去るようにという言葉を、電話という隔たりそのものに他ならない装置を通して、先刻二人は互いに掛け合っていました。 そして翌朝。窓から何気なく見下ろした高峰は、運ばれてゆく担架を目にとめます。『浮雲』(1955)で、まだ生きていた彼女が、「遠い所」まで森雅之についてゆくために乗せて運ばれたのもその「乗物」でした。『乱れ雲』では、見知らぬ男が救急車に運び込まれるときそれが使われることになるでしょう。距離をおいて、もはや手の届かなくなった加山を彼女は見ます。『乱れ雲』の司葉子と加山は、過去に決定的に起こってしまったがゆえに手のとどかない、改変不可能な出来事の(再)上演を旅館の窓から見たのですが、ここでは彼女は、いまだ現在である距離を踏破すべく走り出します。転げるように階段を下り、まっすぐ橋を渡ります。和服姿でよろけながら追いかけます。蓆をかぶせられた担架は、しかし四人の男たちによってすみやかに運ばれてゆきます。彼女は追いつけません。抱擁を許しながらそれ以上の接近を拒んだとき、彼女は、『流れ雲』の司が加山に向かって叫ぶことになる「遠くへ行ってしまって!」という科白を口にしたも同然だったのです。前夜彼女は、加山の右手薬指にこよりを結びつけていました。彼を、そして自分を縛った、欲望を縛ると同時に互いを離れがたく縛りもした、筵からはみ出して揺れている手の薬指に巻かれたこよりを、その距離にあってさえ見てとって、彼女はようやくそれに気づきます。けっして踏破できない距離の向うに彼は行ってしまった。清水を離れた二人が越えてきた距離よりなお遠くに。立ちつくす高峰のクローズアップ。見事に抑制されながらふるえる唇、みだれた髪、その息づかいを漲らせたままフィルムは終ります。 (1)『夜ごとの夢』に、同じような状況での見事な処理の例があります。事故に先立って、失業中の父親、斉藤達男は、子供と遊びながら横あいから車が来たのに気づいてそれをよけさせます。この伏線をおいた上で、斉藤が玩具の自動車をもてあそんでいる手元が大写しになった直後、細かいカット割りで子供たちが駆けてきます。「大変。文ちゃんが!」この作品はサイレントなのでこれは字幕なのですが、この叫びが実際に頭の中で響かない観客はいないでしょう。 あるいは、『ひき逃げ』で車を運転していたのはお抱え運転手ではなく「女」だったという目撃者浦辺粂子の証言について言えば、『女の中にいる他人』で小林桂樹が被害者と連れ立っているのを見た草笛光子同様、彼女が正しいことを観客は知っていますから、問題は証言の真実性ではなく、知覚の疑わしさを示すことにあります。道をやってくる小林桂樹と他人とをすりかえるといういかにも映画的な詐術によってそれを実際に観客に体験させる『女の中にいる他人』に較べ、そのことが科白でしか説明されない『ひき逃げ』はいかにも見劣りがします。 (2)映画の最初の方で司が夫を送ってゆくとき、彼らの住まいの近所の踏切で、それは司の夫の死の前触れのように――とは、そのときはむろん観客は思わないのですが――点っていました。『妻として女として』で警報機の音が室内の場面にかぶせられて「無意味に」鳴っていたことは前回指摘しましたが、『女の座』では、『乱れる』同様、未亡人で、しかし跡継ぎの母親だった高峰秀子が、現実にひとり息子を電車の事故で失いますし、サイレントの『腰辧頑張れ』では、息子が事故に遭う以前、父と子の戯れる場面の端を電車がさりげなく横切っていたのでした。 ★参考文献は最後に載せます。 ■プロフィール■ (すずき・かおる)終りへは向かっているようなのですが……終りませんでした。もう少々おつきあい下さい。今回、4月30日朝には原稿を仕上げました。なぜなら、午後には谷中の朝倉彫塑館へ友人を案内する約束があるからです。最近発見したばかりの、外からは想像もつかない、水の湧く池の周囲に廊下と座敷をめぐらした素敵なところです。新しい場所を一つ見つけたものの、しかし最近、私の好きな場所が次々に、いつの間にか、あるいは公然と、消えてしまったり、消えてゆこうとしたりしています。美しいアーチで構成された内部空間を持つ日比谷公園前の三信ビルは、3月末で閉鎖・解体といわれていましたが、薄暗くなってしまったアーケードでは今なお数軒のテナントが営業を続けています。5月1日はまず上野の東京都美術館でプラド美術館展を見、三信ビル内の古い喫茶店「ニューワールドサービス」で昼食をとり、旧万世橋駅遺構見学の予約をしてある閉館間近の交通博物館へ行く予定。浦和移転と称されていますが、新しい施設名は「鉄道」博物館。子供のときから親しんできた、吹き抜けに小型飛行機が吊るされたあの場所も、あと半月で失われてしまうのです。 ★ブログ「ロワジール館別館」 |