『カルチャー・レヴュー』57号



■連載「文学のはざま2」第4回■


『日本文学盛衰史』『ミヤザワケンジ・グレイテストヒッツ』ほか
高橋源一郎の最近の小説はいかが?(1)

――あの素晴らしい「国民文学」をもう一度


村田 豪



 高橋源一郎が、最近どんな小説を書いているのか、気にしている人はあまり多くないかもしれない。

 もちろん、デビュー作『さようなら、ギャングたち』は、本当に素晴らしかった、とその印象を心に強くとどめている人は、たくさんいるだろう。また、その後の『虹の彼方に』や『ペンギン村に陽は落ちて』にも、なんだか胸のすくようなすがすがしい気分を与えてもらった、とある種の感謝の念を、今なお作者にいだいている人もわりあい多いはずだ。そういえば『優雅で感傷的な日本野球』が、創設されたばかりの三島賞の第一回受賞作となったとき、どんな内容なのだろうと本屋で立ち読みをして確かめてみたなぁ、という人もそこそこいるにちがいない。

 しかしそれらの作品はすべて80年代の作品である。そうではなく、2000年代前半が過ぎようとしている現在、このたった今、高橋源一郎は「何を」「どんなつもりで」書いているのだろうか、このような問いと興味をいだいている人は、はたしてどれくらいいるものなのだろうか?

 確かに、大手新聞に書評や文芸時評を書いたり、また文学方面に限らず、競馬解説などを通じてテレビにさえ頻繁に顔を出すことのある高橋なのだから、世間の認知度は純文学作家にしてはかなり高い方だろう。にもかかわらず、今彼が書いているものが、広い関心をえているとは言いがたい。むしろ、80年代の、作者がそう広く知られていなかっただろう頃の作品の方が、まだしも読まれているのではないだろうか。

 本稿の今回の目的は、最近の高橋の作品にとりつき、それらが捉えようとしている「文学と日本語」、「文学と政治」のようなことを、つらつらと考えてみることにあるのだが、本題にはいる前に、この「認知度はあるが、本職たる作家活動の現在には、たいして関心を持たれてない」という、高橋の状況にかんして少し言及しておきたい。

 まず、お断りしておきたいのは、「読まれているか読まれていないか」「注目を集めているかそうでないか」という指標でもって、なにか作品の良し悪しを論じようとしているのではないことだ。そもそも、この連載で扱われてきた小説家や批評家のほとんどが、文学の領域以外ではずいぶんマイナーな存在だったのだから(そしてその多くが高橋よりもはるかに認知度は低いのだから)、今さらここにきてそんなことを言い出すのも奇妙なことだろう。つまり、私が特別にこのこと「広く読まれているか否か」を重視しているのではない。

 しかし、高橋の近作を読むうえでは、結構このことを考えなければならなくなる。なぜか。それは、実は小説家高橋源一郎こそが、この事態――自らの作品と現在の「文学」が世間からあまりにも気に留められていないことに、最も敏感であり、最も問題を感じているだろうからだ。そしてこの悲しむべき(?)事態に傷つき(?)ながらも、高橋は逆に、この受け入れられていなさ、自分たちの「文学」が帯びてしまう現実からの隔たりこそを手がかりにして、現在、自身の小説を模索探究している、と見うけられるからだ。どうしてそれが小説にとっての「手がかり」になるのかは、また後に述べるが、とりあえず以上のような理由によって、現在の高橋の小説を読むうえで、「一般に興味を持たれていない」ということはどうしても意識されてしまう。

 そして、いつからこうなったのか、というのも重要である。こちらはかなりはっきりしていて、97年に出た『ゴーストバスターズ』以降のスタンスだと言うことができる。なぜはっきりしているかというと、『ゴーストバスターズ』が思いのほか受けなかったからだ。

 高橋は、「これぞ現代文学! これぞ世界文学!」とよばれうる、後世に名を残すような傑作にするつもりでこれに取り組み、その意気込みに比例して80年代後半から90年代の大半、つまり10年近くをも費やして苦心のうえ完成させた。ところが出来上がってみると、大方の評価はまったくかんばしいものではなかったのだ。ついには作者自身が「あれは失敗作」とまで公言するようになり、その後はこれまでとうって変わって矢継ぎ早に作品を世に送り出すようになる。この一連のいきさつは、対談やインタビューなどで何度も繰り返し語られており、「文学」業界では一種の常識や共通認識に属するのかもしれない。

 しかし、このことをどう受け止めればいいのかというと、これは難しい。というのは、『ゴーストバスターズ』が本当に「失敗作」なのかどうか、考えないといけないからだ。こういう私自身、当時さっそく本を買って読み出してはみたものの、どういう「ノリ」で受容すればいいのか、どういう「気分」で受け止めればいいのかわからず、途中で読むのをやめてしまっていた。まあ、ちゃんと読んでいなかった。いきおい読まずに「面白くない」と否定的な評価をしていたのだ。

 それで、この原稿を書くために今回『ゴーストバスターズ』を読み直してみたのだが、やはり一概に「失敗作」と決めつけてしまうわけにはいかないことが、わかるのだった。というか、作者がこれを「失敗作」というとき、通常の意味で「愚作」だと言っているのではないことがはっきりするのだ。単純に言って、『ゴーストバスターズ』は上質の抒情をたたえ、容易には解きがたいミステリアスな後味を感じさせてくれて、「すんげー面白い!」と断言できる傑作だと思う。実際、作者もそれだけの労力をつぎ込んだ意欲作だったのだ。

 ただし高橋はそのことを自分で「間違っている」と言うのだ。完璧な作品をめざそうとするのは、十九世紀的な「傑作意識」によるのであり、フローベールができたことを今も可能だと思うのはどこかおかしい、というのだ。作品完成後の対談で高橋は、そしてそう考えるようになった理由を、自分の中の批評性と小説作品との間のバランス、あるいは現実世界との関係をどのように取っているのかを問題にしながら説明している。

 高橋――そういう作家(=苛烈な批評精神をもっている作家)は、自分の作 品とどうやって折り合いをつければいいのか。何かスタンダードな方法はな いのだろうか。一つは、「名作」をつくるということだと思います。「名作」 は批評の埒外にあるものだからです。そして、もう一つは自分の批評のスピ ードに見合うスピードで走る小説を書くということです。そんなことを、こ の小説を書いている間ずっと考えていたんです。(『現代文学の読み方・書 かれ方』河出書房新社、1998年)

 この自注的な発言からうかがえるのは、『ゴーストバスターズ』は、「名作」として、あるいは「批評のスピード」に見合う作品として、位置づけられるべきだと作者はもともと考えていたし、それは可能性としてありえた。ところが、『ゴーストバスターズ』が現実的にはそのような作品にならなかったことで、高橋は今度は、問題を「世界のスピード」のほうから計り直そうとするようになる。

 高橋――たぶん『ゴーストバスターズ』のような書き方はもうしないだろう と思うんです。妙な言い方になりますが、自分のスピードと世界のスピード は別々にあって、たいがいずれているわけですね。批評とは、そのずれを正 していくことだと思うんですね。外の世界のスピードに無理に合わせる必要 はないけれども、こことここはずれているということは言わなければならな い。(同上)

 つまり「批評のスピード」こそが、先んじて「作品」と「世界」を導いていく感覚が、80年代には幸福的にありえたのに、それを「作品」に落としこんでいる間に、いつの間にか「世界」のほうが別のスピードでどこか別の方向に逸れていった、というのだ。あるいは「世界のスピード」の前では、「作品のスピード」も「批評のスピード」も相対化されてしまうと、感じるようになったのかもしれない。注目したいのは、先の発言では「批評」は自律的なものだったのに、後の発言では「世界」と「作品」の距離をはかる単なるものさしに格下げされているところだろう。

 もちろん、高橋は何度となく「まず第一に作家であるべきだから、とりあえず世界のスピードに合わせる必要はないわけです」と確認して、いわば『ゴーストバスターズ』のような作品が書かれることを肯定している。が、これから取り組む作品については、「外の世界に合わせて(書く)」と、はっきりそのスタンスの変化をうち明けていたのだった。

 以上のことから、近年の高橋の作品を読むうえで、一つの指針が浮かび上がる。「世界のスピードに合わせる」ことが、具体的にどのような姿で作品にあらわれて、かつどのような成果をおさめているのかを見ることだ。その上でこそ『ゴーストバスターズ』の「失敗」の意味は明らかにされるだろうし、またそのことなしに「いま広く読まれているか否か」というようなことを意味づけることもできないだろう。そして、可能ならば、それらを本稿の本題である「文学と日本語」「文学と政治」というような、難しくて高級な問題にも結びつけて考えてみたい。ちょっと意あまって力及ばずになるかもしれないが。

 さて、現実の「世界のスピード」からずれていることを意識して、高橋源一郎がまず取り組みはじめたのは、『日本文学盛衰史』(1997-2000雑誌連載、2001年刊)だった。これは、ある意味で現実とは逆の方向に目を向けることになっている。というのも、作品の趣旨が、明治の近代文学にさかのぼり、近代文学と口語日本語をつくりださんとする明治の作家たちの苦心に間近に立ち会うことだったからだ。『浮雲』の二葉亭四迷や「ローマ字日記」の石川啄木、『蒲団』の田山花袋、そして森鴎外に夏目漱石。なかば文学史をなぞり、なかば設定を現代におきかえて、自在なフィクションとしてそれらの文豪たちを描き出したのだ。

 それで、これのどのあたりが「世界のスピードに合わせる」ことになっていると見なせるかというと、

(1)明治の文学者が格闘した「言語革命」を通じて、現代日本語における「文学」の可能性を示すこと
(2)明治の文学者を使って現代の「風俗」を描き、またそこに潜む書くことの『政治性』を浮かび上がらせること

この2点が顕著に浮かび上がってくる。

 たとえば、作品は、日本近代ではじめて「自由な散文」で小説を書こうとした二葉亭四迷の「失敗」(!)とその死を描くプロローグから始まりるが、それに続づく章に置かれているのが石川啄木なのだ。啄木は貧困と借金で首が回らなくなっているのに伝言ダイヤルにはまりこみ、女子高生と「援交」する気の弱い若者として描かれている。その「ローマ字日記」が以下だ。

 4gatu 8niti. Tyusyoku wo tabete Densya de syussya. Yugata 5ji-han goro, Sinbun no Daiippan ga Koryo ni naru to Yo wa Sya wo deta. Densya de Sibuya ni oriru to, Denwa Box ni hairi, Dengon Dial ni Denwa wo kaketa. Yo wa Kyonen no Aki goro kara Dengon Dial ni kotte ita. Tuki no Denwa no kakari ga 6yen kara 7yen mo atte, Kindaiti ni ayasimareru hodo datta.[Isikawa-san, zuibun Denwadai ga kakarune] to Kindaiti ni iwareru to, Yo wa [Hakodate no Setuko tati ni Denwa wo kakete iru kara] to kotaeta. Zibun no Ansyobango wo osu to, Nangen kano Henzi ga haitte ita. Yo wa Sono naka kara Zyosikosei wo erabu to, haitte ita PokeBell no Bango wo osita. Sibaraku suru to, Yo no PHS ga natta. [Ano, Bell haittandesu kedo] [Aa, Dengon de Henzi moratta Isikawa desu ga] [Isikawatte?] [Etto, Tanka kaiteru Isikawatte Message ni iretanda kedo] [Aa'…… Tankatte, Tawara-Mati toka aayu yatu?] [Tyotto tigau kedo, Namae kiite ii?] [Miki] [Miki-tyan ne] [Ano, Enko nandesu kedo, iidesuka?] [Aa, iiyo] [Ikura moraeru?] [3yen gurai?] [Ee? 5,6yen wa hosiindakedo]

 (日本語訳)
 四月八日。昼食を食べて電車で出社。夕方五時半頃、新聞の第一版が校了になると余は社を出た。電車で渋谷に降りると、電話ボックスに入り、伝言ダイヤルに電話をかけた。余は去年の秋頃から伝言ダイヤルに凝っていた。月の電話の掛かりが六円から七円もあって、金田一に怪しまれるほどだった。「石川さん、ずいぶん電話代がかかるね」と金田一に言われると、余は「函館の節子たちに電話をかけているから」と答えた。自分の暗証番号を押すと、何件かの返事が入っていた。余はその中から女子高生を選ぶと、入っていたポケベルの番号を押した。しばらくすると、余のPHSが鳴った。「あの、ベル入ったんですけど」「ああ、伝言で返事もらった石川ですが」「石川って?」「えっと、短歌書いてる石川ってメッセージに入れたんだけど」「ああっ……短歌って、タワラマチとかああゆーやつ?」「ちょっと違うけど、名前聞いていい?」「ミキ」「ミキちゃんね」「あの、援交なんですけど、いいですか?」「ああ、いいよ」「いくらもらえる?」「三円ぐらい?」「ええっ? 五、六円は欲しいんだけど」

 私が高橋源一郎をエライと思う一番の理由はこのあたりにあるのだが、まだうまく言う自信はない。もちろん、啄木に伝言ダイヤルさせ「援交」させることを面白がっているのではない。それは別に素晴らしいとも、くだらないとも言う必要はない。重要なのはこの「ローマ字日記」を、近代日本文学の成立の過程で、四迷の試みの次に配置しているところだ。

 四迷は自らロシア語の小説を翻訳し、それを日本語での近代小説の基礎にしようとした。しかし過度といえるほどロシア語原文を尊重したため、その文はあまりに生硬でぎこちなく、口語的な小説を実現できないまま、死んでしまう。そもそも外国語に理念と形式を与えられながら、その理念と形式の実現は、民族が日常に使用する俗語によってなされなければならない、ということほどの矛盾があるだろうか。しかしその矛盾を矛盾のまま実現するのが、近代国民国家の言語であり、そしてこれは日本語だけの特別な事情ともいえないのだろう。

 ややわかったように書いてしまったが、私はこのことが実はよくわからない。たぶん高橋もよくわかっていないように思う。四迷が懊悩する「状況」を描きはするが、具体的にそれがどんな懊悩となるものなのか、できあがった日本語で書かれるしかないこの『日本文学盛衰史』からは想像できないからだ。とりあえず私にはできない。高橋にはひょっとすると想像できるのかもしれないが、それを現在の日本語の小説で描くことははたして可能なのだろうか。

 近代における国民言語・国民文学の創出についての歴史研究は、今日ではたくさん著されている。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』や柄谷行人『近代に本文学の起源』を先駆として、いまやポストコロニアル的文化研究の視座は、良心的な知識人には常識の範囲に属するだろう。けれど、本気でそれは理解可能なものなのかどうか、どうも私には今もってよくわからない感じがする。

 要するにこれは、理解できたら済んでしまうというような種類の問題ではないからだろうと思う。ものすごく単純な言葉で言うと「実践」しなくては意味のない問題だからだ。実証的な研究によって問題を分析的に理解できるようになっても、その矛盾や課題に取り組まないならば、結局それはわかっていないのと同じではないだろうか。

 『日本文学盛衰史』では、四迷の「革命」と「失敗」の意味を十分に理解しえたのは、漱石と鴎外だということになっている。彼らこそが四迷の試みの本質を受け継ぎながらも、その生硬さを洗練にかえることで、私たちがいま知るような日本語による国民文学を作り上げたことになっている。だから、漱石や鴎外という大先輩にまじって小説を書こうとして果たせなかった啄木の「ローマ字日記」は、そういう意味で「また別にありえたかもしれない日本語」の可能性を示している。そしてそれをいまでも使えるのではないかと考える高橋には、その「実践」を模索するぐらいの良心はあることになる。「ローマ字でも現代日本語は表現できるんじゃない?」「ローマ字でも啄木ならコギャル語を書き留めるんじゃない?」って具合に。

 では、実際この文は「読める」のだろうか。ほとんどの人は、一目見て反射的にそれを飛ばして次の「日本語訳」を読んでしまうだろう。でも丁寧にローマ字を拾っていけば、音の連なりに意味が生じ、理解できることもわかる。注意深い人なら、外来語はもとの外国語のつづりでつづられていることにも気づく。「ダイヤル」は「Dial」のように。それにしてももしこの文が広く定着して存在することが可能だった場合、「Dial」ははたして何と発音されていたのだろうか?

 また女子高生の話し言葉「ああゆーやつ?」は「aayu yatu?」となっている。しかし正規のつづり方である「ああいうやつ?」も同じく「aayu yatu?」とするしかないだろう。ということは「ローマ字日記」では、女子高生の口ぶりを写したかのような日本語文の作為性(「間違った」棒引き使用の表記は、もちろん話し手が選択しているのではなく、書き手が「だらしなさ」「ばかさ」のレッテルをはるためにある)は、消えてしまわざるをえない。たぶんに口語的な文体を随所に折り込み多用している高橋にとっては、現在の日本語のある種の偏りと偶然と歴史性をあばくローマ字つづりには、可能性と同時に、おそらく自らの文飾の消失点としても捉えられているだろう。

 田山花袋にも、高橋は石川啄木と似たような位置づけをあたえている。四迷のなそうとしていたことのラディカルさが念頭にあった花袋にとって、自然主義文学運動の盟友島崎藤村が打ち立てた金字塔『破戒』は、すごい作品だとわかっていても、何かが突き抜けていない、と感じられて不満だった。そして自ら書いた自然主義文学者のマニフェスト「露骨なる描写」を実現する作品として『蒲団』に取り組むことになる。

 ところが通常の文学史と違って高橋は花袋に、自分の理念である「露骨なる描写」を小説作品では実現できないことに気づかせるのだ。そしてそれを真に実現させるのはこれではないか、と花袋が可能性を見いだすのは、映像作品それもアダルトビデオ制作だった。内容も中年文学者が弟子の女学生に悶々とするという、原作(?)と同じ設定。タイトルは『蒲団・女子大生の生本番』だという。

 ここでも花袋を現代のアダルトビデオに結びつける着想には、あまりこだわらないでおこう。より重要なのは、先ほどの「(1)明治の文学者が格闘した「言語革命」を通じて、現代日本語における「文学」の可能性を示すこと」のラインでとらえられる問題を、高橋が現代の設定なら、小説や言語表現の枠組みを逸脱する方向でしか示せないはずだ、と考えたことである。ここが端的に『ゴーストバスターズ』以前では見いだせないスタンスかもしれない。「文学」は別に小説とか詩やことばでなくてもいいかもしれない、と。そしてこれこそが「世界のスピード」とかかわる一つの方法とみなされていることは間違いないだろう。

 ところが当たり前のことだが、高橋が書いた『日本文学盛衰史』は小説という形式である。ローマ字日記も、コギャル語も、AV制作の現場も、監督との「描写」についての問答も、高橋が考えるように、「四迷の不可能な試み=小説の可能性」の極限を示す現実的素材ではある。しかし高橋はそれをやはり小説に定着するやりかたで「暗示」するしかできない。だから描かれるものと描く方法のずれを、高橋自身が消去できるわけではない。

 ここにきてようやく高橋のもう一つの取り組み、「(2)明治の文学者を使って現代の『風俗』を描き、またそこに潜む書くことの『政治性』を浮かび上がらせること」を見て取ることができるだろう。高橋はこれを具体的には大逆事件を背景にした石川啄木と夏目漱石の交流として描き出している。が、もちろんこれも、高橋自身が書きつける過程で、自ら背負い込む問題として二重化されている。次回後半では、高橋が啄木と漱石の姿に託したその「書くことと『政治』」の関係を見ながら、さらに最新の作品を読み解く予定である。

■プロフィール■
(むらた・つよし)1970年生まれ。サラリーマン。「腹ぺこ塾」塾生。

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■連載「映画館の日々」第11回■


成瀬巳喜男の日々の砕片(2)
―― 物語に抗して

鈴木 薫



 前回ちょっと触れた『三十三間堂通し矢物語』(1945)のクライマックス、若者が次々と放つ矢が的に当るか外れるかの繰り返しという、基本的には単調な(見物人の反応もむろん描かれるものの)場面を、成瀬は音を使って巧みに構成しています。矢が命中すると太鼓が打たれ、逸れると鉦が鳴らされる。よく響くその音は家にとどまっている田中絹代の耳にも届くので、彼女は気が気ではなく、ついに通し矢が行われている三十三間堂へ駆けつけるのです。

 これがサイレントの技法を継承したものであることに私が遅まきながら気づいたのは、『腰辧頑張れ』(1931)を見たときでした。家賃を取りにきた大家を避けて父親が押入れに隠れると、そこには一足先に幼い息子が入り込んでいます。飛行機を下から見上げた映像が一瞬インサートされ、押入れの中の子供がそれに反応する――この映画はサイレントなのですが、観客はこの瞬間、頭上を通過する飛行機の爆音を本当に聞いたように感じます。あの飛行機は誰かの視点によるものではない――押入れの中にいる子供にはむろん見えるはずがなく、ただ聞こえただけなのですが、私たちもまた映像のせいでそれをともに聴くのです(子供は飛行機見たさに押入れから出ようと暴れ、襖がはずれて、結局父親は大家に見つかってしまいます)。

 『通し矢物語』のあの場面は、だから、考えてみれば絶対的に音を必要とするものではないのでした。鉦や太鼓が叩かれる映像に、田中絹代が何らかの身振りをしている映像が接続されれば、それだけで、彼女にそれが聞こえているのだと私たちは思い込みます。本来別々の映像の砕片[かけら]が、モンタージュにより相互に関連づけられるのです。

 こうした画面つなぎに役立つ技法とはいささか異なる、画面に同調しない音、物語のなめらかな外皮に罅を入らせる異物としての音の使用が際立つ例として、『女の中にいる他人』(1966)が挙げられましょう。成瀬の終りから三番目の、すでにカラーとワイド・スクリーンの時代にあってあえて白黒スタンダードで撮られたこのフィルムは、犯人が(ほぼ)最初から明らかな倒叙ミステリで、しかも、彼が周囲の人間に犯行を告白しても相手にされないアンチ・ミステリでもあります。しかし、通常は、(成瀬作品としてもサスペンスとしても)異色のサスペンス映画ということになるのでしょう。

 この映画は、情事の最中に相手を誤って殺してしまった小林桂樹が主人公ですが、タイトルを卒然と見れば、夫の殺人と自首の決意を知り、子供たちの将来のために彼を殺す、新珠三千代が中心であるかのようです。藤井仁子は『成瀬巳喜男の世界へ』(筑摩書房)所収の論文「映画の中にいる他人」で、小林が本当に殺人を犯したのか、新珠が本当に夫の飲み物に毒を入れたのかは確定できないと述べていますが、小林が殺人の状況を物語るナラタージュ(登場人物のナレーションとともに現出する、一種の回想シーン)が事実の客観的な再現とは限らないとしても、新珠は最後にナレーションで饒舌に語るので、少なくとも彼女の夫殺しは事実として示されていると見るべきでしょう。ミステリあるいはサスペンスとして物語を消費したい観客を満足させるだけの辻褄合わせはなされていると考えられます。『女の中にいる他人』は、ある見せかけとしてのジャンルにおさまることで、逆説的にその中で最大の冒険を可能にしたフィルムと言えましょう。(註1)

 もともと成瀬の映画では、生活音が実によく聞こえてきます。日本の伝統的家屋の開放性にそれが由来するという指摘はもっともで、『流れる』(1956)について、「いかにもこの町らしい、洋食屋風の喫茶店での栗島[すみ子]・山田[五十鈴]の会話の背後に、豆腐屋のラッパや〈バタバタ〉と呼ばれた当時の乗物の音」が聞こえる、「家の中が往来のつづきででもあるかのよう」な「下町風俗」と、自らも下町生まれの小林信彦は、それをリアリズムと見なす視点から証言しています(「映画『流れる』--架空世界の方位学」『昭和の東京 平成の東京』ちくま文庫)。けれども、下町ではない場所にも音は入り込んでくるのであり、それはしばしば暴力的な侵入となります。前回の終りに挙げた『晩菊』(1954)では、冒頭で表通りを走り回る宣伝カーの喧騒から離れたキャメラは、遮断された一種の安息所としての杉村春子の住いに入り込みます(彼女が使っている女中さえ、そこでは、言葉を発することがないという理由で――余計なことを外で喋られないからと杉村自身は言いますが――選ばれています)。しかし、元芸者である杉村を若い頃無理心中で殺しかけた男の訪問により、それもはげしく玄関の戸を叩くというやり方で、この静寂は破られます(皮肉なことに、杉村が待っていた男、上原謙が訪れたとき、耳の聞こえない若い娘は彼になかなか気づきません)。

 これが『妻として女として』(1961)になると、のっけから、リアリズムでは全く説明できない音が、幸福な家庭のただなかに入り込んできます。淡島千景は星由里子と大沢健三郎の一女一男を森雅之との間に持っているのですが、実は彼らは二人とも、森の愛人、高峰秀子の産んだ子です。映画がはじまって間もなく、家族四人が仲良く団欒する場面で、遠く警報機の鳴る音が聞こえてきます。この線路は、あとになって、彼らの真の関係がすっかり明かされ、幸福な家庭の幻影が崩れ去ったとき、家を出て姉弟が歩いてゆく先に現実のものとして現われるのですが、大沢少年が『女の座』で鉄道自殺をすることや、『乱れ雲』での警報機と赤いシグナルの不吉さを思いあわせて、観客は一瞬、彼がそこに飛び込むのではないかという懸念に胸をよぎられます。実際には、『女の座』が撮られたのはこの翌年ですし、『乱れ雲』(1967)はいうまでもなく成瀬の遺作ですので、当時の観客はそんなことは思ったはずもないのですが。近くに線路があることは、このときもこれ以後も、物語に何一つかかわってきません。たんに監督の何らかの記憶が、ここで警報音を響かせたということなのでしょうか――ボヴァリー夫人が情夫と走らせる馬車に養老院の傍を通過させながら、少年時代の記憶の中の、養老院の庭の情景をそこに書き加えたフローベールのように。(註2)

 『女の中にいる他人』に戻りますと、この映画は殺人を犯した直後の小林桂樹が(むろん観客はまだそのことを知りません)路上に佇んでいるのを、私たちが見出すところからはじまりますが、このときすでに画面はノイズに満たされています。むろん、都会の道路が耳ざわりな音で充満しているのはごく自然なことと言えるので、車も人もさして見当たらないものの、それを気にとめる観客はいないでしょう(ただ、路面が濡れていることと閉じた傘を持った通行人が傍を通り過ぎるのは伏線で、このあと執拗に降る雨を私たちは目にすることになります)。小林が路傍のビアホールに入ると、ノイズは遮断されます。しかし代わって、すぐにガラス張りの壁の向うに友人の三橋達也が現われ、小林を見つけて親しげな身振りをして入ってきます。代わって、と言いたくなるのは、小林の挙動のはしばしから、この男に会いたくなかったということが明らかにうかがえるのに加えて、この映画を最後まで見るならば、小林の留守中に大きな音の出る玩具を持って彼の子供たちを訪れる三橋もまた、外部から入り込んでくる一種のノイズではないかと気づかされるからです。また、小林の勤める会社は、隣のビルが工事をしており、窓を開けると騒音が入ってきます。これはもう、リアリズムでも何でもない、〈聞こえている音に気づかせる〉ための仕掛けとしか思えません。

 翌日からは雨が振り出し、外から内への絶えざる浸透を思わせる雨は、小林の自宅の窓ガラスを、また、三橋の妻の葬儀が行われる、葬祭場の待合室のガラスを濡らしつづけますが、これには梅雨の時期であるという合理的な解釈がなされるでしょう(物語の終りは花火大会に設定されています)。しかし、雨はもちろん、工事現場の騒音さえ、窓を閉めれば遮断しうるのに、小林が帰宅してみると、そこには三橋が騒々しい音を立てる玩具で、彼の子供たちを遊ばせているのです。実は小林が殺したのは三橋の妻であり、警察にも真実が突き止められない中、堪え切れずに三橋を訪れて小林は告白します。この場面では、相対する二人の背後、あけ放たれた窓の向うに見える隣家の、これも開いた窓の中に、ゴーゴーを踊っている若者たちの姿が見え、騒音が響いてきます。閉ざされた二人きりの告白の場であるべきものが、ここでもまた、ノイズに/へと、開かれ、浸透されているのです。この告白にもかかわらず、三橋は一方では小林の行為を見過ごそうとし、他方では〈内〉へ入り込んで、夫婦の留守中に急病になった息子の命を救い、おもちゃの消防自動車のノイズを響かせます。

 『女の中にいる他人』の終り近く、小林の自宅の階上の窓の外には、夥しい花火が打ち上げられています。言うまでもなく、これは〈内〉への激しい音と光の侵入でもあるわけです。一方、会場でそれを見上げる、小林の子供たちおよびその祖母の顔と花火の映像は切り返され、花火を見て彼らが顔を輝かせていることが示されます。闇を彩る白くまばゆい光。同時に室内では、小林と新珠の最後の対決が行われています。ここに至るまでに、実は光と闇との対比は至るところで示されていました。ビアホールで出会った夕、三橋の妻に異変があったことが知らされたあと、帰宅した小林がそうした話を妻にしながら家族に背を向けるとき、その顏は半ば闇に浸されます。スイッチで部屋の一部を明るくしたものの、また消してしまう小林。そこへ近づいてきた新珠の、白いたまご形の顔もまた、一瞬闇に沈みます。彼女が夫の共犯者なること、今はまだ打ち明けられていない罪を、あくまでひた隠しに葬り去ろうとするであろうことは、このときすでに予告されていたのかもしれません。

 妻に対する小林の一度目の告白(浮気の告白)は、停電と、新珠がともした一本の蝋燭という、まさに光と闇のコントラストそのものの中で行なわれ、二度目のそれ(殺人の告白)は、神経衰弱になって湯治に行った小林と、後から訪ねた新珠が、散歩の途中入ってゆくトンネルの中で行われます。彼方に出口が見えるトンネルの闇(暗黒の背景!)を背負う小林から、キャメラは切り返して、トンネル外の明るさを背景にした、白い和服とパラソルの新珠の顔をスクリーンいっぱいに捉えます(彼女の白い顔がこれまでにない比率でスクリーンを占め、それは圧倒された観客の心に、いずれも微量ながら恐怖と笑いを呼び起こしもするでしょう)。子供たちのためにあくまで事件を隠し通すことが、彼女の一貫した願いです。しかし小林は翌朝自首するとすでに心を決めています。そして暗黒の空に花火が上がり、絶え間ない侵入者としての爆発音が響き、見上げる子供たちの顏が明るく照らし出されるとき、新珠も心を決めるのです。

(註1)この映画の脚本と完成したフィルムの違いについては、藤井仁子の興味深い指摘があります。殺人の行なわれた部屋の持主である草笛光子が被害者の葬儀の席で、ベッド・サイドの花瓶にこんなものが入っていたと三橋達也にペンダントを渡す場面があり、また、小林が新珠に殺人を告白するとき、情事の前に愛人の首から外した装飾品を花瓶に入れるさまが〈ナラタージュ〉として観客の前に展開されるのですが、藤井によれば、脚本ではこのあと新珠は三橋に電話して、確かにペンダントが花瓶から見つかったとの答えを得、夫の告白が真実だという逃れられぬ事実に直面することになっていたそうです。
 しかし成瀬はこの部分を省略してしまったので、唯一の物的証拠は宙に浮き、わざわざそれを花瓶に入れることも意味を持たなくなり、草笛が三橋にそれを渡す場面ともども、物語との緊密な連携を失ったことになります。
(註2)『乱れ雲』の警報機に関しては以下で触れています。
http://kaorusz.exblog.jp/pg/blog_view.asp?srl=3589621&nid=kaorusz

★参考文献は最後に載せます。
 
■プロフィール■
(すずき・かおる)またしても大晦日に原稿を書いています(今年はコミケも見送ったのに〜)。ジェンダーフリー・バッシング言説の愚かしさと、近代建築の破壊と、再開発という名の止まない町殺しに、怒り、呆れる一年でしたが、これは新年へ持ち越さざるを得ません。
最新の信じがたい提灯持ち記事です(http://www.sakigake.jp/servlet/SKNEWS.Column.hokuto?newsid=20051228ax)。
鈴木のブログ「ロワジール館別館」は、http://kaoruSZ.exblog.jp/ です。
なお、近代建築の破壊と保存については、最近書いたエントリーが http://kaorusz.exblog.jp/i10 にあります。

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■別冊4号:特別映画時評■


映画『三丁目の夕日』異論
――涙とともに流してしまいたくはないこともある

橋本康介



  
青丹よし 寧楽の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
                    (『万葉集』卷第三、小野老朝臣)
       730年、小野老 太宰府の高官に着任(737年、太宰府で死亡)


奈良の都の隆盛を、今が盛りと そのまま単純に称え上げた歌だろうか?
奈良と倭の旧都ここ大宰府をともに知る作者が、この地の荒廃の その訳 を知らぬはずもない。
奈良よ 勝ち誇る奈良よ、そうやって浮かれていなさい、咲き誇る花は 盛りであらばこそ やがてまもなく散って行くのだ……そう言っているのではないか? 作者の歴史認識と奈良の隆盛とが対を成している。諦念である 以上に異論でありそうだ。
倭国、倭都、天智天皇、白村江、大海皇子、大友皇子、壬申の乱を巡るぼくの仮説もあるのだが、ここは古代史を論ずる場ではない。それはしかるべき機会に譲りたい。

0.涙……たが映画への違和が……

 世は『涙ブーム』だそうだ。先日NHKの番組がそう語っていた。「いま会いに行きます」しかり、「その日のまえに」しかり……と。
 『三丁目の夕日』もそのブームのうちなのか? 何人かの友人に薦められ観に行ったのだが、やはり号泣してしまった。
 何なのだろう、今回は違和が身体にこびりついている。
 漫画作者の西岸良平に文句はないし、映画の作り手への敵意もない。
 あのようなカタチで時代を切り取る「視線」「思想性」は、それはそれでひとつの立場・方法論だとは思う。

 独身にして作家志望、駄菓子屋にして雑文書き東大卒の竜之介さんの立ち位置にも、身寄りなき少年淳之介との奇妙な共同生活にも、街の人々の温かく優しい人情にも、「昭和33年」らしさや「前向き」な時代の気分を感じないわけではない。また、ぼく自身(当時十一歳)の「時代記憶」や、親・兄・先輩・恩師によって刷り込まれている「時代譚」と大きく違うわけでもない。今はもう失せてしまった「良きもの」に満ちていた時代でもあったことを、いささかも否定するつもりはない。

 ただ、ぼくを含めた観る側の「涙!涙!」にはちょっと違和があり、それは日に日に成長してわだかまってしこっている。
 号泣場面・号泣事案を喪失して久しいぼくを含む市井の人々が、カタルシスを求めて映画館へと脚を運んでいるとしたら、考え込むところだ。ぼくもまた、御多分に漏れず号泣してしまっただけに、そこはハッキリさせておきたい。 ぼくを含む観客の過剰な涙も映画が示す「時代」への目線も、どうにも気なってしかたがない。
 もちろん、政治やイデオロギーではなく時代を語りたいのだ。

1.何が外されているか

 1958年(昭和33年)。東の都は、帝都の香り匂うがごとく今盛りなり、と華やいでもいた。

 若い勤労者は、社会への目を閉じる限り、上司に『おーい中村君』(58年、若原一郎)と呼び止められても『有楽町で逢いましょう』(58年、フランク・永井)と逢引を謳歌できたし『銀座九丁目は水の上』(58年、神戸一郎)と浮かれることもできた。湘南族の国民的スターは『俺は待ってるぜ』(57年、石原裕次郎)とイキがっていても、東京でひとり働く娘は、母を招いた久し振りの再会に『東京だよおっ母さん』(57年、島倉千代子)と無理して散財し、翌日はまた独り『からたち日記』(58年、同)を書いて自らを慰めるのだった。

 街工場の若者は、旗揚げした組合が暴力経営者に足蹴にされ、不参加者からは『だから言ったじゃないの』(58年、松山恵子)と嘲笑われても、クルリと輪を描いて支持してくれる『夕焼けとんび』(58年、三橋美智也)たちを信じることもできた。村では 駅まで三里の『柿の木坂の家』(57年、青木光一)の青年は『愛ちゃんはお嫁に』(56年、鈴木三重子)と太郎を恨んで泣いていたし、友も『東京の人』(56年、三浦光一)を『哀愁列車』(56年、三橋美智也)で見送ったのだ。

 復興の嵐にねじれる世情。「解禁」の好期到来とばかりに「皇国」正当化が声高に叫ばれ、『明治天皇と日露大戦争』(57年、新東宝)が空前絶後の大ヒットを記録したが、『私は貝になりたい』(58年、TV)は戦争における大衆と国家の関係を問い、テレビは『事件記者』(58年、スタート)などが、覚悟して掘り下げてしか聞こえない事件の裏面に埋もれてくぐもる「人間」の声を描いてもいた。

 東京タワーに大量の鉄骨が使われる一方、大阪城のすぐ横では巨大な焼跡=大阪造兵厰の残骸が剥き出しの鉄骨を、野に晒して喘いでいた。その周辺には通称アパッチ部落があって 、その地ベタでは住人が明日の糧となるその屑鉄を求め、連日『夜を賭けて』(02年、金守珍・監督)駆けていたのだ。

 皇太子妃が決定(58年)しても、なべ底不況(57年)以降の惨状は都市・地方を襲い、「民主」を砕き「人権」を貶め、争議も激発。全国の米軍基地整備はますます進み(立川基地強制測量、57年)、教育現場の自主性解体(勤評)など、「戦後」社会は復興の完成に向かって驀進していた。以来今日この国が進む道筋は、ぼくらの知る通りだ。

 パンフに「昭和33年はこんな年」という欄があって、その年の出来事が羅列してあるのだが、意識してか無意識か下記の重要事項は斥けられている。
 一例として示すのだが、いま手許にある毎日新聞社発行の部厚い『昭和史全記録』には、『三丁目』の年58年のいくつかの出来事が、「時代」から外せないものとしてキッチリそして大きく記載されている。いくつか挙げる。

 【勤評闘争(前年から全国で国民を巻き込んで闘われた。多数の逮捕者や、自殺者も出た。翌年へと続く)、売防法スタート、道徳教育スタート、公安条例に違憲判決、沖縄人に日本人教育(返還前米軍政下沖縄に教育基本法)、王子製紙争議無期限スト、大阪地裁監獄法に違憲判決、警職法反対闘争、校長手当てを組合管理。(何とスゴイ判決や国民的な抗いがあったのだ)1958年。】

 もちろん、原作も映画も「たまたま」東京タワーが見えるある街の たまたま」実直で優しい人々の人情と交流を描いたものだ。
その限りでは、ぼくの論難は「ケチつけ」のそしりを免れまい。
 が、例えば「この十年の茨木 安威川上流の人々」を描く映画なら、安威川ダムもダムを巡る人々の関わりも当然のごとく消せないし、「生野区 猪飼野の群像・人情」を書く脚本なら、在日朝鮮人が登場しないはずもない。意識して外す以外、有り得ない。

 60年代を扱うアメリカの青春映画なら、公民権運動・ヴェトナム戦争・ケネディ暗殺(63年)・キング牧師暗殺(68年)……それらを直接語らずとも、画面に時代の影がその香りが、裏に底に重低音の響きとなって伝わって来ないはずはなく、それが現代中国なら、大躍進時代や文化大革命・下放青年のその光と影が見え隠れして当然なのだ。

 事実いまも記憶に残る60年代アメリカ映画の秀作はことごとくそうだし、中国では張芸謀(チャン・イーモウ)の作品などもそうである。「初恋のきた道」の恋物語から、右派というレッテル貼りに翻弄される青年(主人公の夫)という骨を除いては、観客泣かせのストーリーはストーカー少女の物語となってしまう。そうなら、抜群の映像美も主人公の心理を切り取る工夫されたカメラ・アイも、ちょっと嫌味な乙女心が際立つあざとい手口だとも言えそうだ。現代中国の悲哀は伝わって来ない。

 『三丁目』には何が見え隠れしているのか? 『三丁目』にそれが見えないのはあえて外しているからだ、と言いたくもなる。東京タワーっ? タワーは見え隠れではなく、明るくそして誇らしく天に向かってそびえているぞ。

2. 映画作家が外せなかったこと

 話は飛ぶが、浦山桐郎(映画監督)の映画には必ず在日朝鮮人が登場する。 例えば『キュ−ポラのある街』(62年)では、帰国運動で帰って行く友との国鉄川口駅での別れのシーンは有名だ。『青春の門・筑豊篇』(75年)では朝鮮人活動家:河原崎長一郎の存在や朝鮮人児童へのイジメに加わっていた我が子を見つけ、吉永小百合が身を震わせ手を上げて叱るシーンは印象深い。
 在日朝鮮人を外しては、浦山は戦後を語れなかったのだ。『三丁目』は、では何を外せなかったのだろうと思うばかりだ。

   浦山桐郎『青春の門・筑豊篇』(75年)

 ぼくはいまここで、在日朝鮮人を出せと言っているのではない。マイノリティーのエピソードが欲しいとダダをこねているのでもない。労働争議を登場させろと怒鳴っているのでもない。そうではなく、語るべき「物語」には外せないものがあり、逆に映画もそのパンフもが、58年(昭和33年)の出来事群から、多くのことを外してしまうことに違和を感じているのだ。

 眼を塞いで語られる過去なら、まるで昔ぼくの前で「戦争自慢」をしていた「大人」と変わるところはない。虚構された美しい物語、自説に不具合な部分を外して伝えられる「大人」の「ノスタルジア」なんぞは、ハッキリ言えば「大ウソ」なのだ。

 『三丁目』が外せなかったのは東京タワーだろうか? そして自説は「輝ける50年代」「美しく活力ある『戦後』」なのだろうか? だとすれば、建設中の東京タワーによって暗示される「時代」がどのような相貌をしていると、作者は言いたいのだろうか?

 ここでは「東京タワー」までの日本を賞賛することの他に、一体どれほどの「時代証明」が為されていると言うのだろう。
 ほぼ同時代を描いた 監督:小栗康平『泥の河』(81年)は戦争から十年とのことだから55・56年だと思うが、戦争の影や復興に忘れ去られた人々への切情が、つまりは「時代」の実相が描かれていた。

 船上売春する母(加賀まりこ)の場所換えに伴って去ってゆく舟の友を、主人公が「きっちゃ〜ん」と呼びながら追い続けるラストシーンは、ポンポンポンの船の響きとともにいつまでも胸に残り、泣いて終わらせてはくれない。ぼくと同世代のきっちゃんはヤクザになっただろうか? やはり特権的な存在だったと認めざるを得ない「過激派学生」になんぞには、きっとなってはいるまい。

     小栗康平『泥の河』(81年)
 きっちゃんの姉・銀子は六子と同世代で、ぼくは彼女のその後が今も気になってしかたがないのだが、頭のよい子だった銀子はその小さな希いのたとえひとつでも実現しただろうか?
 銀子の「戦後」不信の目、その願うような見通し刺すような目に、「戦後」後の日本はもちろんぼくらは何を答えることが出来よう。
 
3.六子、ジュンとミツ

 『三丁目』の登場人物に移ろう。ぼくが気になるのは、集団就職の六子だ。

 その後の高度経済成長を支えたに違いない 集団就職の金の卵たちの「人生の この一曲」は『あぁ上野駅』(64年、井沢八郎)だとのアンケート結果があるが、『三丁目』はせっかく上野駅・集団就職列車を登場させながら、扱われる六子は集団から抜きん出て「まれに見る幸運」の女の子だ。労働は不慣れで過酷でも町内のいい人たちに囲まれ、未来を信じることが出来る。駅で別れた少女たちの中から、作者は彼女を選び取るのだ。

 六子とほぼ同世代の少女を描いた浦山『キューポラのある街』(62年)では、ジュン=吉永小百合はそうした現実と闘ってでも、知的にも経済的にも自立しようと考える少女だった(とはいえ、彼女の「理想主義」は もちろんある種の幼さだと言えなくはない)。

 しかし、作者(原作:早船ちよ、脚本:今村昌平・浦山)には現実を予め考慮の外に置く美談仕立ての欺瞞も、その理想の幼さを揶揄するいやらしさもありはしなかった。
 見方によっては『キューポラ』の姉妹編とも言えるだろう浦山『私が棄てた女』(69年)では、主人公=集団就職のミツ(小林トシエ)はある意味でジュンのその後を提示して哀しい。

 60年安保の政治の季節が終わり、吉岡=河原崎長一郎はインテリ学生の贅沢な、そして誠実(?)な湿った時間を挫折病にしがみついて生きている。そんな東京のあこがれの学生さんと出会い信じ、愛し中絶の果てに棄てられる女。それが ドジでのろまで田舎者の主人公 、集団就職で東京へ出て来て働くミツだ。

 浦山は明らかに、この対照的な二人の女性主人公(六子の前後の世代)ジュンとミツを浦山がこだわり・抱きしめるべきひとつのことして、その表裏として描き かつ「二人はどこか同じで自分とも同じなのだ」と女・時代・己れ、
その全体に挑んだ。

 六子に、そうした視点へと辿れる可能性をこそ見たいのだ。それをさせないのが、多くを外して成っている『三丁目』ではないか? 巨大な「東京タワー」の威容がそれを阻んでいる。
 六子像の続編を構想できる、何か時代の香り、その片鱗を感じたかった。

4・東京タワー青信号

 呑み屋のヒロミ(小雪)は、親の負債の取立てに追い回され、身を売って(と店の常連が言っていた)返済に充て店も閉める。映像で見る限り、行った先はおそらくストリップ小屋かそれまがいだろう。

 この女性からも、時代の最深層部にのたうつ女の陰りは排除されるが、どこかアッケラカランと今風なのだ。そのことは「いや〜あれはキャラなのだ」ではなく、映画全体を被う「誤認」とも言える時代把握と無縁ではあるまい。
 泣け、叫べ、暗くあれ、と言いたいのではない。「時代」を透視させて欲しいのだ。

 茶川竜之介は東大出の叡智を総動員して、這ってでもヒロミを探すぞとはならず、救済方法(相続権放棄、破産など)を考えることもしない。
 ヒロミも身売り(と言えるかどうかは別にして)の回避を考え逡巡しはしない。そうした親の債務・身売りという、ただならぬ言葉に見合うきしむ重量も、金を工面した苦労譚=指輪逸話で仕立てた恋愛劇にふさわしい、ささくれた必死さも、つまりは納得できる「必然」が、彼ら二人の事態への対処からは見当たらない。あざとい道具仕立てで観客を泣かすのは罪深く軽薄だ。

 映画にからんで、毎日新聞社『昭和史全記録』に即して言うなら、監督:川島雄三『洲崎パラダイス 赤信号』(56年)は売春防止法成立前の時代を描いて秀逸だ。喜劇仕立てであっても、そこに展開される「時代」にへばり付いて生きる主人公男女のすかたんドタバタ道中には、その「必然」があったと思う。

 パラダイス(売春街)への入り口に架かる橋が比喩的に登場する。その橋のたもとにうらぶれて立つ呑み屋で、あっちへ行くかこっちに残るか……ギリギリ踏みとどまっている女、蔦枝(新珠三千代、意外にも見たことないほどのハマリ役だった)と、何をしても続かないダメ男、義治(三橋達也)との明日の見えない「今日」につまずいて漂う男女。「戦後」を生きあぐねるその姿を通して、戦後空間の時代不安を活写していた。……女は橋を渡らなかったのだ。

 社会が落ち着き始め、復興の明るい未来への展望も拓けている。公務員・サラリーマン・他、その流れに与する人々から隔たったひと組の男女……。喜劇タッチの中に、その空虚と不安を見事に映像化していた。

 出自や境遇、恋愛や別れ、その設定に作者の思想、作者の必然が示されていればこそ、それが腑に届くのだ。そこにはきっと必ず作者の時代認識が示されているはずだからだ。設定が、便宜的で泣かす為の単なる小道具であっては白けてしまう。
 ヒロミを探そうともしない茶川君だから、アイディア(幼い淳之介の)剽窃に本源的な痛みも悔いも持たないのだろう……と皮肉のひとつも言いたくなる。
 こう書いてきてハッキリして来た。映画『三丁目』が外せなかったのは、やはり東京タワーに違いない、と。

(★Blog版からの続きは、ここからです)

5.本当は何が見え隠れしているのか

 では東京タワーを建設した時代とは、実のところどのような時代なのか。ぼくたちは東京タワーの威容に圧倒されることなく、タワー前後の時間を俯瞰して見届ける誠実によって時代を認識したいものだ。時代とは、ある時代だけを切り取って提示できるものではない。どの「時代」も、それは「点」ではなく、その前の時代から次の時代へ通過する「線」上に在るのだから……。

 焼跡・闇市の「戦後」は、冷戦構造・朝鮮戦争で政経の変貌・復興を遂げつつあった。「戦後」のアダ花的財産が次々と清算されて行く。自衛隊発足しかり、教育委員公選制・戦後民主的諸制度しかり。日本は、戦後再び朝鮮をダシに生き延びたと言える。50年からの朝鮮戦争による特需があり、53年休戦協定を経て、そこから五年後が『三丁目』の時代だ。朝鮮戦争後とはどのような時間か?

『三丁目』に力道山の雄姿が登場する。人々が街頭テレビや 町内に一台の家庭テレビに群がって応援した力道山。テレビ画面は声援に押されスクリーンいっぱいに拡大される。観客をリングサイドの臨場感へと誘うこのシーンは上出来だ。
 確かにテレビの遠く小さな画像から誰もが現場を思い描けた。そのたくましい想像力の源泉は何だったのか。
 憎きシャープ兄弟をやっつけ「戦後」の日本人に「自信を取り戻させた」と評される力道山。日本及び日本人は、戦後アイデンティティー確立に力道山の力を拝借したのだった。その男が朝鮮半島北部からやって来た男であることを知ろうともせず熱狂していた姿に、「戦後」の構造が象徴されているとは言えないか?

   ここで年表とは雑なことだが、先を急ぐので書いてみる。

(毎日新聞社『昭和史全記録』より)
54年:第五福竜丸ビキニ環礁で被爆、ヴェトナムでディエンビエンフー陥落(フランス軍)、日鋼室蘭193日スト。
55年:外国人に指紋押捺実施、砂川闘争。
56年:教育委員公選制廃止、売春防止法成立、経済白書「もはや戦後ではない」、ハンガリー動乱。
57年:建国記念日可決、光文社「三光」(中国に於ける日本軍残虐行為写真集)販売中止。
58年:本文の(1)に記載 『三丁目の夕日』『夜を賭けて』の現在、東京タワー完成。
59年:伊達判決(東京地裁)砂川闘争「米軍の駐留は憲法9条違反」、参議院に創価学会登場、帰国船第一船。
60年:三池無期限スト、韓国四月革命、60年安保闘争、池田内閣「寛容と忍耐」「所得倍増」「高度経済成長」、浅沼委員長刺殺、朝日訴訟(東京地裁)勝利
(各種名判決がその後 高裁・最高裁で逆転されて行ったことは言うまでもない。)

 そうなのだ。東京タワーとは、安保後退陣することになる岸の後を受ける池田内閣の所得倍増・高度経済成長時代が始まる前段の、復興期日本のその集大成なのだ。その輝くシンボルなのだ。ギクシャクしてモウレツな経済優先時代がやって来る前の、良き時代・懐かしく麗しい時代の「美点」を謳い上げているのだから、ケチをつけるなと言うむきもあろう。

 しかし、東京という特筆されて豊かな街の、タワー建設を見上げ「明日=明るい日」に希望を託す人々のその「美点」は、いわば戦時に於ける「城内平和」のように、限定的で拡がりもなく、近視眼的で、危ういものだ。大切なことを避けている、と言えば言い過ぎだろうか?

 こうやって日本は日本人は、東京タワーによって象徴される「復興の完成」を見事に果たしたのだ。それはこのように、人々の勤勉と誠実と人情、地域社会の助け合いといたわりと努力によって成されたのだ。 見よ! あの東京タワーを……。と言われているようで、「嘘をつくな!」と叫びたくもなる。

 作者の「復興努力」賛美と「復興期の人情」礼賛には、社会的矛盾・理不尽・横暴はもちろん、それに抗う人物は唯のひとりとして登場しはしない。それは偶然か? 次代に残るべき記憶とは[城内・外]をともに外すことのない記憶だと、ぼくは思う。

 後世この『三丁目』が残るのなら、若者たちは1950年代末を大きく見誤ることになりはしないか? 『三丁目』流時代証言の在り様は、「城内」を賛美して、[城内・外]全体の「記憶」の塗り替えに手を貸す作業となりはしないか? そしてその作業は、『泥の河』(81年)や『にあんちゃん』(59年)が、腑の底から吐くようにして示そうとした「戦後記憶」を「無化」し、東映が数年に一度送り出す戦争期回顧映画のその礼賛の片棒を担ぐことになりはしないか? 『三丁目』に見え隠れするものとは実はそうした構造なのだ、とそう思うのはぼくだけだろうか。

 まもなく東映「男たちの大和」が出る。俳優中村獅童は試写会場で「愛する者の為に逝った若者たちの国を憂える心を思うと……」と語り、言葉を詰まらせ泣き崩れた。ぼくは、東映映画を薄っぺらな反戦思想で断罪してこと足れりとする論に同調するものではない。青年の切情を思えばこそ 国家・人権・戦争の関係を思想化したいと願うだけだ。

 長淵剛、むかし「♪憤りの酒をたら」していた、あの長淵剛が、今や「大和」主題歌披露の場で愛国を語り、愛する者への情を語っている。そう言えば彼は「死にたいくらい」中枢(東京)に「あこがれた」んだっけ。
 が、この愛する者への思いが普遍性を獲得できるとしたら、同じく愛する者がありながら命を落としたおびただしい「他者」が、[城内・外]に存在したという覚知がスタートだ。

6.振り落とせない「戦後記憶」

 冒険活劇やパニック映画に「ジェットコースター・ムービー」と呼ばれるものが氾濫している。コースターに乗っているように、ハラハラどきどき、画面に集中できて「いい映画だった」と思えたりするのだが、家に帰ってみると登場人物の個性や喜怒哀楽はもちろんストーリーさえ思い出せない映画のことだ。ジェットコースターに振り落とされそうだった擬似感動は、日を追って薄れて行く。

 『三丁目』がそうだと言いはしないが、その涙版ではないかとぼくは疑っている。涙のアップダウンに翻弄させてくれるし、大いに泣かせてくれるのだが、上がり下りの車酔いの時間を過ぎると どうにもこうにも心の芯に残らない。

 ぼくの記憶に残る映画。それらは『三丁目』とは逆に、日を追って鮮やかな記憶を刻んでくれるのだ。刻まれ抱え持つ記憶から、ぼくたちは時代の痛みへと外せないものへと、棄てられないものへと導かれる時間を持てるかもしれない。その可能性こそが、映画が観客に提供できる、映像表現の可能性であり醍醐味ではあるまいか。作者はその為にこそ映画を撮り続けているはずだ、そう思いたい。

 ここで、『三丁目』とほぼ同時代を描いた日本映画の秀作としてぼくの記憶に剥がれることなく残る、いくつかの作品を下記に挙げておく。そこで享受し共有し得た「戦後記憶」を、『三丁目』への涙とともに流してしまいたくはない……そう ぼくは思うのだ。

 浦山桐郎:『キューポラのある街』『非行少女』『私が棄てた女』
 小栗康平:『泥の河』
 今村昌平:『豚と軍艦』『にあんちゃん』
 今井 正:『ここに泉あり』『キクとイサム』
 川島雄三:『州崎パラダイス 赤信号』
 大島 渚:『青春残酷物語』
 金 守珍:『夜を賭けて』

7.ノスタルジア? 日本的?

 『三丁目』は東京タワーまでのカッコ付き「良き時代」へのノスタルジアなのだ 日本的な心情なのだ、目くじら立てるんじゃないよという言い分もあろう。
 ノスタルジア:ノスタルジアという言葉が一般に知られる通りの意味である
なら、次の点を前提条件にその言い分を認めてもいい。

 現在が、ぼくが言う時代の要素を外してしか、あの時代を振り返えることも再現することもできないほど衰弱した危うい時代なのだという、そのことを示したという点において……。また今やぼくら観客が、そうした回路の心地よさの中でしか泣けないほどの「戦後記憶」の「無化」の時代のただ中を生きているのかもしれない、ということを明確にしたという点において……。
 だが本来ノスタルジアとは、美化して懐かしむことでも、作為を持ち何かを排除して成立することでもない。先年、ある処にぼくはこう書いた。

 【ノスタルジア。その言葉の意味を知っておこうと辞書を引いた。ノスタル ジア=ギリシャ語の「ノストス」と「アルゴス」の結合語。「ノストス」は 「還る」、「アルゴス」は「傷み」。なるほど……「傷みに還る」だ。】( 橋本、「La Vue」13号掲載、03年8月1日発行)

 日本的な心情:こちらに関しては学生時代に読んだ一文を拝借して転記し、ぼくの返答としておこう。

 吉本隆明はその優れた論考「日本のナショナリズム」(『吉本隆明 全著作集13』所収、勁草書房)の中に、多くの唱歌(「冬の夜」:♪ともしびちかく衣縫う母は 春の遊びの楽しさ語る、「青葉の笛」:♪一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の公達あわれ、「故郷」:♪兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川、など)とともに、ある歌を登場させる。

 明治43年1月 神奈川県の七里ケ浜で逗子開成中学のボートが沈み、乗っていた生徒12名全員が死亡した。 当時鎌倉女学校の教師だった三角錫子氏が発表した有名な哀悼歌「七里ヶ浜の哀歌」だ。

    真白き富士の根 緑の江ノ島
      仰ぎ見るも 今は涙
     帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
      捧げまつる 胸と心

『なぜ帰らぬ十二人の中学生のボート死に「胸と心」を「捧げまつる」のか? ある種の愚物たちは』『日本の大衆にのみ固有なものであるとかんがえている。かれらは、ロシアやアメリカには大衆のセンチメンタリズムが存在しないものと錯覚しているらしい。』『大衆のセンチメンタリズムは、そのナショナルな核にしたがって質がちがっているというにすぎないのを知らないのである。』
『ボートが沈んだとき中学生たちは、いかにもがき苦しみ、われ先にと生きのびようと努めたか、という大衆の「ナショナリズム」の裏面に付着したリアリズムを忘却するように書かれている。』
『わたしたちが大衆の「ナショナリズム」としてかんがえているものは、この表面と裏面の総体(生活思想)を意味するもので』あって、『その表現にすくいあげられている一面性を意味しているのではない。』
(『』内は「日本のナショナリズム」からの引用)
 
8.『三丁目』の逆説

 『三丁目』の人物たちの生活思想の表現は、確かに 「すくいあげられている」「一面性」であり、しかもそれは あらかじめ作者によって、時代と交差する回路を遮断されてしまったものだ。そこに「昭和33年」とその後の漂流する精神の航路も人々の姿も、つまりは時代が見えて来ないのは当然だ。

 淳之介との会話が成立せず苦闘する竜之介、淳之介を棄てるか共に潰れるかそれとも己れが逃亡するかともがく竜之介、アウトローに走る淳之介、あるいは学生運動に関わる淳之介。

 定時制高校を巡って悩む六子はジュンかあるいはミツなのか、うたごえ運動かみゆき族か。出会うだろう級友たちとの勉学やサークルの輝く日々、そこで知る友の苦境や理不尽な社会の現実へ向かう行動……いや、自身に押し寄せる、それらを阻害する、そうはさせない力……。

 堤真一の破綻と放蕩、思わぬ素顔=強欲・ドケチ・嫉妬心丸出しの経営者女房=を発揮する薬師丸ひろ子、這い上がり売春組織幹部の姉御になっているヒロミ……。

/
     『三丁目の夕日』ラスト・シーン
 所得倍増期から一億総中流時代の姿に至る道筋を、映画は一切想像さえさせない(原作にはあるのだろうか)。荒川土手に立つ鈴木モーター一家(堤真一・薬師丸ら)を写し、その明るい未来を夕日の中に提示し、完成した東京タワーの威容で映画は終わる。

 団塊の世代(ぼくや淳之介の世代)の涙! 涙! の包囲の中、自身もまみれた涙のジェット・コースターを降り劇場を出た。
ぼくたちは何に涙し何を流してしまったのか? チキショウ!
 東京タワーには答えさせまい。

 『三丁目の夕日』とほぼ同時代を描いたいくつかの映画を想い、それらを観て流した涙、埋もれ沈みちぢかんで積もっている痛みへと 無性に還りたくなった。

 もう手にすることが出来ないかもしれない落し物を探して、独り歩くような気分が押し寄せて来る。ならば、そう感じさせてくれた『三丁目の夕日』に感謝してもいい。おかげで、ぼくの中に刻まれた「戦後記憶」とよじれた個人の記憶が鮮明になって行く……。

■プロフィール■
(はしもと・こうすけ)1947年兵庫県生まれ。壮年フリーター? 著書に『祭りの笛』(文芸社)、現在、吹田事件を背景にした『祭りの海峡』を執筆中。

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★新年明けましておめでとうございます。読者各位、本年もよろしくお願い申 し上げます。
★毎年、黒猫房主の初仕事はこのメルマガの発行なのでした。仕事にはlabor とworkの意味がありますが、黒猫房主にとっても寄稿者においてもその両義性 を生きていると思います。この両義性を限界まで愉しむこと。仕事は苦痛ばか りではない。敵対もあれば出会いもある。凡庸だが「人生は山あり谷あり」で あるから希望を失うことなく、疲れたときは休めばいい。生き急ぐことなく、 とにかくゆっくりと歩けば拾いものもあるさ、とビールを呑みながら。((黒猫房主)



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