『カルチャー・レヴュー』56号



■連載「メディアななめよみ」第1回■


「オシム語録」

−そして人生は続く− 山口秀也


 たとえば、神が貧乏グループと金持ちグループの二つを作ったとする。ほとんど、真ん中のグループは作らず、「どちらか」の世界だった。金持ちは夢を見ない。貧乏グループは夢を見るだろう。でも、夢を見るのは現実とは違う。それでも夢を見たいと願う。貧乏が夢を見るには、それなりの質が必要なんだ。(「週刊サッカーマガジン」984号)

■オシムの警句に祖国の戦乱の記憶を読み解く

 サッカーに興味がない人にはそれほど知られていないであろうが、Jリーグに贔屓のチームがあるというほどには入れあげてはいなくとも、マスコミに煽られてか代表戦ともなると、どこに隠し持っていたのかやおらナショナリズムを発揚する輩(つまりは普通のスポーツ好き)ていどであれば「オシム語録」なることばを知っているのではないかと思う。

「オシム語録」。2003年にJ1のジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)の監督に就任したイビチャ・オシム(Ivica Osim)のおもにインタヴューから採られた、さながら箴言集といった趣きのある発言群を指している。それはたとえばこんな風だ。

 「車が車庫から出たとき、すべてのほこりが舞い上がるかもしれない。何が起こるかわからないのがサッカーだ」
 「まず自分たちを信じ、そして相手を尊敬すること。だが相手を恐れてはいけない」
 「いいスタジアムを作るより、いいチームを作る方が少しだけ難しい」


 その巨躯をトレーニングスーツに包んだ「物静かな巨漢」から発せられることばは、64歳(1941年生まれ)という年齢も手伝って、Jリーグの他の若い監督たちとくらべてもひときわ落ち着いた様子を醸し出している。なによりひねりのある警句には、それに触れた人間をして、その裏に隠された何かを知りたいと思わせずにいられないものがあるようだ。

 しかしこれらの気の利いたことばはこのところ、影がその人から引き剥がされてどこか自分の知らないところに連れて行かれたかのような感がある。たとえばその発言「私は彼らが変わろうとする手助けをするだけ。重要なことは、選手に『もっとできる』と思わせること」は、たちどころに「リーダーの力」などというタイトルのもとに経済紙の紙面を飾ることとなり、スポーツ誌のタイトルですら「オシムのサッカー構造改革。」(「Number」582号)となる。

 こういった風潮に乗っかるような形でこの語録を享受しているかぎりは、異国の指導者がいかに弱小チームを建て直したかという物語の「さわり」を、経営者の指南書として仕立て直したものを読むのにひとしく、そこからは「セカチュウ」をダイジェスト版(そんなものがあればの話だが)で読むほどの「薄っぺらさ」しか得られないだろう。

 この場合、人びとが受け取っているのは、イビチャ・オシムその人ではなく、あくまでメディアが加工し、複製し、虚構の入れもの(テレビやインターネット)に入れられた「見かけ」の情報であり、そこでは情報はあらかじめ<異質なもの>を排除し、複雑なものは<端折られ><抽象化され>たものとして現れる。そんな加工品から、オシムその人を知ることが困難であろうことは想像に難くない。

 それはともかくとして、極東の日本での経済紙で取り上げられるような受け入れられ方とは裏腹に、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身のオシムが味わった、無残にも戦場に変わり果てた祖国での苦い人生の道のりに思いをいたすとき、この国のマネーゲームに勝利したヒルズ族(このことばも早晩死語になるであろう)たちが使うことばと同じ土俵で語られるはめになったオシムのそれとの間に横たわる大きな隔たりを意識せざるを得ない。

「語録」にことさら政治的な臭いを嗅ぎ取ることは極力慎みたいし、実際オシムは試合後の会見場でも、スポーツと政治を混同するような発言をすることはない。

 しかしたとえば、旧ユーゴ代表でオシムのもとでプレーしたセルビア人のスーパースターストイコビッチなどは、98年フランスワールドカップを前にした記者会見上、予選リーグで同じ組に入ったドイツ、アメリカの感想を問われたとき次のように答えたのだった。このスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を強く推し、ユーゴ紛争においてセルビアに厳しい態度をとり続けた国ぐにに対してはじめこそ「スポーツと政治は別です。ですから、特に感情的なものには支配されません。」と答えたものの、やはりがまんし切れずに「しかし、アメリカやドイツがいつまでも自分たちを世界の警察官だとおもっているのはおかしい」と怒りを露わにしている。

 オシムにしたところで、日本で受けた新聞のインタヴューで「サッカーは戦争ではない」と言ったすぐそのあとに彼の口をついたことば「政治がスポーツに悪影響を及ぼさないことを、強く願う」は、政治に翻弄された彼のサッカー人生を、はからずも逆説的に惹起させる。

 このように、気の利いた警句の底に沈む重い祖国の戦乱の記憶を読み解くことは、オシムという指導者の発言の真意を測り、そのサッカー観や人生観を知る上で重要なことであるように思われる。

 ところで彼のプロフィールや年齢からはあるていど合点がいくことであるが、よくオシムはサッカーを人生になぞらえている。たとえば「どこで何が起こるかわからないもの!人生とはいつも危険と隣合わせだ。サッカーも同じだ」と言う時でもオシムが、いままでなにごともなく暮らしていた隣人同士がある日を境に、それがちがう民族だというだけの理由で殺し合うというシチュエーションを突然迎える、あの内戦を思い出していないとはたして誰が言えるだろうか。

 そんな彼のサッカー人生を、歴史的な事実と平行させながら辿ることは、12月に上梓されるはずのジャーナリスト木村元彦が書いた『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』(集英社新書)に譲りたい。日本語で読めるオシムの本格的な評伝がこれまでなかったことと、この著者のいずれもサッカーおよびユーゴ紛争にかんする旧著3作が出色の出来であるという理由で、併せて読まれることを強く奨めたい。

 翻って本稿についてはあくまで、オシムの語ったことばという諸もろの表象をとおして、それらが交差するある一点で像を結ぶところを捉えられたらという目論見があるだけである。必要以上の深読みは避けたいが、彼の、チームや選手に向けられる様ざまなことばや身振りに彼自身の人生がつよく反映されている、と感じる部分があるからこそ、人はこの語録に魅力を感じるのではないだろうか。

■<サッカー/人生>の哲学

 しかし、知らない人のために少しだけオシムのキャリアと、彼や彼の家族がさらされた歴史の波について触れてみることにする。

 1941年サラエボ生まれ。サラエボでプロのサッカー選手になり、東京オリンピックのユーゴ代表にも選ばれたテクニシャンだった。その後フランスに渡り37歳で現役を退いて、監督としてのキャリアをスタートさせた。そこでの実績をもって一足飛びにユーゴ代表監督に就任するわけであるが、就任中には「妖精」ストイコビッチを擁して90年のイタリアワールドカップでベスト8に進出している。その余勢をかりて臨むべく予選を突破した92年のヨーロッパ選手権では、大会に乗り込んでからユーゴにたいする内戦の制裁措置により出場停止となったのである。オシム自身は同じ年のボスニア内戦で、ベオグラードにいた彼と離れていた夫人と娘がその後2年にわたってサラエボを出ることができなかった。それからギリシャのパナシナイコスを経て、1993年から指揮を執ったオーストリアのシュトルム・グラーツ(これも当初は国内でも強いチームではなかった)でUEFAチャンピオンズリーグに3度出場するなど監督としての名声を高め、2003年からジェフ市原の監督に就いている。

 この間の詳しい足跡についても、前述の労作が語ってくれていると思うが、この簡単なキャリアを見ても面白いと思うのは、シュトルム・グラーツという弱小チームを8年も率い、優勝させるところまで引き上げたということだ。しかしそのあとにビッグクラブへ移ることはなかった。そして20年ほど時を経た今もオシムはやはりリーグの中堅チームジェフに籍を置き、好成績をあげているにもかかわらずそこに腰を落ち着けている。現代であれば、スペインやイタリア、イングランドといった隆盛を誇るヨーロッパの一流チームの監督は、つねにステップアップを望むものである。FCポルト(ポルトガル)での成功を引っさげて金満チーム、チェルシーの監督の座に上りつめたモウリーニョなどは、自らの上昇志向、野心を誰に憚ることなく表明しあまつさえ「売り」にまでしているが、オシムにはそんなところは露ほども見られない。それがワールドカップのベスト8進出国の監督、しかもその陣容を見てだれもが羨望の眼差しを向ける一級品のチームを率いた監督であれば、なおさらその後あえて傍系を渡り歩くオシムの行動はある意味、一般の理解の範疇を超えているのかもしれない。

 しかしそこにある行動理念にこそオシムの<サッカー/人生>哲学があり、また人びとを惹きつけてやまない点なのである。「私は失うものがない。私は自分がやれることをやりに日本に来ているのです。お金にも興味はありませんし、うまくいかなかったら帰るだけ。この2年間そう思って戦ってき」たのであり、「壊すのは簡単です。(中略)作り上げる、つまり攻めることは難しい。でもね、作り上げることのほうがいい人生」なのである。また2年目の指揮を引き受けたことに対し「普通の監督なら、1年目のような結果が出せれば、あそこで辞める。1年目よりいい結果を求められるからだ。でも、私は残った。これが挑戦だからだ。」と語っている。「挑戦」もまたオシムの重要なキーワードである。またこれらほど至極明快でありながら実践のむずかしいことはない。

 オシムはしかしこの哲学を貫き通し、「うぬぼれたプレーをしている。やり直そうと思った時には遅い」「何かをやろうとしなければ、何も変わらない。」と選手とおそらく自分自身を鼓舞し続け、とうとうジェフにおいても先日(2005年11月5日)カップ戦(ヤマザキナビスコカップ)を制し初タイトルを手にした。オシムは冒頭のことばにあるとおり、貧乏が夢見るために必要な質を手に入れるための辛抱と努力それに考えることを自らとチームに課して、それに成功したのである。

 そしてこれらの行動指針に、戦争体験をふくむ彼の人生観が深く影響していることを否定することはむずかしいだろう。

「夢ばかり見て後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に良くしていくことを考えるべきだ」

■サッカー−メディア−戦争

 メディアが発する情報で、サッカー選手は駄目になり、人は戦争を始める。

 オシムが来日して、ジェフの成績が上がるとメディアもすぐに「オシムマジック」ということばを使ってオシムとその選手を持ち上げた。しかし「若い選手が少しよいプレーをしたらメディアは書き立てる。でも少し調子が落ちてきたら一切書かない。すると選手は一気に駄目になっていく。彼の人生にはトラウマが残るが、メディアは責任を取らない」ことを彼は経験的に知っている。それに便乗する世間は世間で格好の話題に飛びつくのに躊躇しない。

 またこれとは別に、旧ユーゴ紛争時のメディアのあり方は、それによって深く傷つけられた、旧ユーゴの人間のだれもが疑問をもっているはずである。下記は、当時の為政者側の偽装によるミスリードとしてのメディアのあり方を糾弾した文学者ペーター・ハントケの発言である。

  君たちメディアは、まず爆撃の共犯者となり、しかる後に君たちによって(あらゆる意味で「君たちによって」なのだ)爆撃された人たちのストーリーを高く売りつけることによって、どんな共感の内実も遠のけた、あるいは、むしろこう言ったほうがいい、共感を変質させ、腐らせてしまったのだ。そのやりかたは、先ず破壊し、然る後に平和の裁判官を演じるという国家の手口と似ている。(『空爆下のユーゴスラビアで』ペーター・ハントケ著、元吉瑞枝訳)

 一降りの雨が左官屋を殺すように、ひとつ使い方をまちがえば、サッカー選手どころか、人までが死ぬのというのがメディアに対する旧ユーゴに暮らした人びとの実感ではないだろうか。ここからはあくまでも想像であるが、オシムにおいても、メディアは単なるゴシップを書きたてるものではないということを経験的に学んでおり、それに対する警戒心も、(本国で)戦争のない国の国民とはまた違ったものがあるという風に解釈できる。実際にハントケの発言や次のストイコビッチの体験は、それを納得させる説得力を備えているのもまた確かである。

 セルビア人であるストイコビッチは、1992年こんな経験をしている。当時在籍していたイタリアのベローナというチームの練習で、「お前たちはまったくモンスターか」とイタリア人のコーチから罵倒されたのだ。

 この年は、前年にドイツが単独で承認した後追いのような形でECがスロベニアとクロアチアの独立を承認した年である。イタリア人コーチの不可解な言動の正体は、その時テレビから流れていたCNNニュースで判明した。カメラが捉えたクロアチア難民の少女の訴える被害状況にたいする説明が、全く逆の意味に翻訳された英語のテロップが流れていて、そこではすべての原因がセルビアにあるということになっていた。この出来事に遭遇したときのストイコビッチの戸惑いと絶望の大きさは想像に難くない。

 しかし、いかに彼や彼の家族や同胞が辿ってきた道が険しいものであろうとも、オシムは、ただ悲嘆したり、あるいは達観したりすることはない。ただきょうもサッカーをするのである。

 本稿ではことさらオシムの発言に戦争の影響を云々してきたが、だからといって彼はサッカーを通じて政治的なメッセージを送るようなことはしない。彼にとってサッカーはそれ以外のもの、たとえば政治や宗教あるいはそのほかのものに取って代わることができないものとして存在している。その意味でイビチャ・オシムにとって、ただひとつサッカーだけが人生と同じ重さと尊さをもって存在しているということことだけを、この語録は語っている。

 「私にとって、サッカーは人生そのものだ。人生からは逃げられない」(イビチャ・オシム)

※「 」で括られている短文については、そのほとんどを「オシム監督語録」(ジェフユナイテッド市原・千葉公式ホームページ)に拠っている。

【参考資料】
「オシム監督語録」(ジェフユナイテッド市原・千葉公式ホームページ
『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』1998年、木村元彦著、東京新聞出版局)
『ユーゴスラビアサッカー戦記 悪者見参』(2000年、木村元彦著、集英社)
『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(2005年、木村元彦著、集英社新書)
『空爆下のユーゴスラビアで』(2001年、ペーター・ハントケ著、元吉瑞枝訳、同学社)
「メディアに隠された場所で――ユーゴへの旅――」元吉瑞枝(「La Vue」9号、2002年3月1日発行、ウェブ版

■プロフィール■
(やまぐち・ひでや)1963年生まれ。京都市出身。腹ぺこ塾塾生。

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■連載「マルジナリア」第11回■


遍在する私(一)

中原紀生


●いつどこで読んだのか思い出せないけれど「目はあっても見える」という言い方がある。「親はあっても子は育つ」と同類のレトリックとしてこれを読めば、肉眼はかえって物の本然の姿を眩ませてしまう、心眼をもってしてはじめて物の本質を見通すことができると解釈することができようが、それではいっこう面白くない。文字通り、物が見えるとは目と脳の生理的機能による現象なのではなく、すなわち感覚器官や神経系の有無にかかわらず物は見えているのであって、目や脳のはたらきはこの本来的視覚ともいうべきものを前提にしつつ、これを制御・限定しながら所期の機能を果たしていると解するべきであろう。

●いま苦し紛れに本来的視覚と呼んだもののことをベルクソンは純粋知覚と名づけている。前回引用した「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経系の協力なしに知覚される可能性」のうちに含意されている「万物の可能的知覚」がそれで、そのような純粋知覚は宇宙空間のうちに遍く存在している。
《私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真にとった景観のように思うところからきている。すなわちそれは、知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像されるのだろう、というわけだ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物のまさしく内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることを、どうしてみとめないわけにいくであろうか。どのような形而上学、いや、物理学も、この結論をさけることはできない。》(田島節夫訳『物質と記憶』)

●純粋記憶もまた、神経系の有無にかかわらず宇宙の時間のうちに遍く存在している。純粋思考というものが権利上存在しうるとして、それもまた宇宙のうちに遍く存在している(たとえば「エラン・ヴィタル」もしくはパース=ホフマイヤーの「記号過程」として)。純粋意識というものが権利上存在しうるとして、それもまた森羅万象のうちに遍在する。そして「私」もまた遍在する。私があっても思考することができる。あるいは、考えているのは私ではない(ラカンいわく「われなきところでわれ思う、ゆえに、われ思わぬところにわれあり」)。

●最近、日本語による哲学的思考の可能性ということに思いをめぐらせている。日本語で西欧特産の哲学をするのはナンセンスではないか、あるいは逆に日本の伝統や文化に根ざした哲学的思考でもって西欧哲学の行き詰まりを打破することができるのではないか、つまり西欧原産の哲学を日本の風土や土壌のうちに根づかせハイブリッド化することが可能ではないか、いやそもそも日本原産もしくは特産の哲学がありうるのではないかなど、問いはさまざまに分岐していくが、そういった問題をかかえて日々悩んでいるわけではない。
 目下のところ関心を寄せているのは、坂部恵が「日本哲学の可能性」(『モデルニテ・バロック』)で論じていること、すなわち「日本文化の場と日本語というフィルター」を最低の条件とする哲学の可能性を考える際、ヨーロッパにおける精神史的転換期と日本におけるそれとの対比とともに、日本文化圏の歴史的伝統のうちに眠っている「精神史的リソース」を抜きにすることはできないという指摘だ。とりわけ14世紀から15世紀にかけての「歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」と言われる、その歌論・連歌論・能楽論の類から発芽しうる「フィロソフィア・ヤポニカ」の可能性に惹かれている。

●ここで、坂部恵「日本語の思考の未来のために」(『仮面の解釈学』)からサワリの箇所を抜き書きしておく。
《ところで、この旧国語学[国学]の伝統が、連歌の〈切れ字〉における「てにをは」の用法への反省あたりを起点として、ほとんどもっぱら日本の詩的言語のあり方への反省的自覚(時枝[誠記]のいい方によれば「古歌の解釈と和歌の作法のため」)を核にして形成されてきたものであることの意味を、わたしたちはあらためて考えてみなくてはなるまい。なぜなら、詩的言語(あるいは言語のうちにある詩的側面)こそ、たんなる伝達の道具としてではなく、有限な人間がその中に住まうものとしての言語のもっとも純化されたものにほかならず、詩的言語による示差作用こそ(〈主体〉の形成に先立って)、人間も自然をも含めたわたしたちの具体的な生存の場に原初の分節(デリダのいう‘trace’)を入れ、それを〈住まい〉として構成するものにほかならず、したがって、〈日本語とは何か〉〈日本語による思考とは何か〉という問いにたいする答えは、一般的な形で答えることには限界があり、究極的には、くり返し日本語の詩的伝統の現実の中にたちかえり、その創造的ないとなみにみずから立ち会い、いわば幽明境を接する仮面の無限の重なり合いとしての、世界とことばとのくり返してのあらたな発見の“おどろき”をともにすることをほかにしては、ありえないと考えられるからである。》

●話を本題に戻す。本題とは、意識的・個体的な知覚や記憶や思考に先立って無意識的・集合的な知覚や記憶や思考がすでにそこに立ち上がっているのではないか、そしてそれらは「幽明境を接する仮面の無限の重なり合い」として幾層にもわたって上書きもしくは重ね描きされているのではないかということだ。これと同じ事態が、たとえば哲学的思考をめぐる外来語=漢字(概念語)と和語=かな(感性語)との関係のうちにも成り立っているのではないか。概念に先立つ生の哲学的思考の可能性。あるいは、概念はあっても哲学的思考はできる。

●フロイトは無意識を象形文字として捉えた。ラカンはこれを踏まえて、無意識=象形文字を常に露出させている日本語のような文字の使い方をする者には精神分析は不要だと語っている。《どこの国にしても、それが方言ででもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも──もっと強調すべき点ですが──、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉[パロール]への距離を触知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。》(宮本忠雄他訳『エクリ』序文)
 大澤真幸は『思想のケミストリー』で、ラカンのこの「皮肉混じりの指摘」は日本語の使用、いや言語使用一般に常に伴う疎外(〈私〉が〈この私〉であることの基底をなす中核部分が〈私〉にとって最も外的な何か=残余として立ち現れること)の感覚に巧みに照準していると書いている。
《かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読み)を注釈していると見なしたくなる。(略)だが、ラカンは、まったく逆に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べてきたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。》

●私はなにも「かな=純粋知覚、漢字=純粋記憶」とか「抽象思考は常に外部から到来して野生の思考を注釈する」といった議論を展開したいわけではない。また、以下に引用する「物の学習」を「かな=純粋知覚=野生の思考(実証思考)」の系列に位置づけて、日本語を母語とする哲学的思考の可能性、とりわけ詩的言語を中核とするそれについて主題的に考えたいと思っているわけでもない。そもそも考えているのはいったい誰なのか。迂遠な言い方だが、ここ(『マルジナリア』)での私の関心はつねにこの一点の周辺にとどまっている。
 注記を一つ。川崎謙は『神と自然の科学史』で、神のロゴスを思考枠組みとする西欧自然科学と「実相[イデア界]は諸法[現象界・物質界]なり」(道元)を思考枠組みとする「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っているわけではない)とを歴史的眺望のうちに置いて比較している。ロゴスなり諸法実相が、それ自体は無意味な世界である「素材の世界」に秩序を与え、それぞれを「ネイチャー」もしくは「自然」として認識させる。少なくとも、このような意味での自然科学的思考は「哲学的」である。

●前田英樹『倫理という力』に「物の学習」と「記号の学習」という対になる言葉が出てくる。動物の本能は群れの能力であり、人間の知性は個体の能力である。発達した知性は道具を使い、道具を使う知性は二つの方向に分化する。宮大工の棟梁が養う知性は、物の性質に入り込みさまざまな性質の差異を見分ける「物の学習」にかかわり、図面を引き機械を設計する知性は、ルネサンスから産業革命にかけて爆発的に進展した「記号の学習」を極める方向に進んでいった。そもそも人間の知性は記号と共に出現した。しかしこれらの諸記号は個体の知性を超えて社会を組織してしまう。ここには群れを組織する本能とは別のもうひとつの原理、生命とは無関係な何か自動的で抽象的な原理がある。
《どんなやり方であれ、〈物の学習〉を深めた人間なら誰でも知っている。〈心の学習〉は、〈物の学習〉によってだけ可能になることを。あるいは、その一部分でしかないことを。このことは、唯物論というような大仰な考えとは関係がない。木を削ることは、木の繊維が持つ性質の差異に深く降りていくことである。その時、削る道具はそれ自体が無数の性質を持った一種の繊維でなくてはいけない。木には木の無数の心が、鉄には鉄の無数の心が、変化しながら存在している。そうとしか言いようのない学習を宮大工はいつでもしている。学習する自分の心は、ひたすら木や鉄の心を追い、それと連続する何かになる。千年の堂塔が建つのは、そういう大工たちの心のあれこれが、誤りなく組み合わされた時である。》

●この「物」と「記号」を養老孟司(『人間科学』)がいう「情報」の仲間だと考えてみる。ここで情報とはスルメやDNAのように停止し止まったもの、動かないもの、変化しないもののことだ。養老人間科学においてこれと対になるのが「システム」で、それは生きたイカや細胞のようにひたすら動いて変化していく。
 「木には木の無数の心が、鉄には鉄の無数の心が、変化しながら存在している」と言われる、その物との接触のうちに培われそれらと連続していく知性、いわば実証的で具体的な神話的思考にかかわる智慧のようなものを、記号をめぐる抽象的で論理的な科学的思考とひとまとめにしてしまうのは気がひけるが、そして「神話的」と使った手前思わず「科学的」とレッテルを貼ったことにも慎重な註釈が必要だとは思うが、それらの疵は素通りして先へ進むことにする。

●補遺。ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』に関連する議論が出てくる。ニワトリが先か、タマゴが先か。「DNAは生体のデジタル化された自己記述である」のか、むしろ「生体の方がDNAのアナログ化された自己記述と見なされるべき」なのか。現在の知識ではこの二つの可能性のいずれも排除することができない。
《私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、「自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。なぜなら、もしDNAがそれ自身のコピーに過ぎなかったなら、DNAの「メッセージ」は何の意味も持たず空虚なものであろう。逆に、もしDNAにその増殖が保証されていなければ、生体のメッセージについて語るべきものは何もない。(略)生命はこのデジタルとアナログの二つの形に託されたメッセージの間の記号論的相互作用に依っている。言い換えるならそれは記号双対性とも言うべきものである。生物の中ではこの二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己」である。人間における自己が肉体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原形質とDNAの両方から成る。》(松野孝一郎他訳)
 デジタル記号=情報、アナログ記号=システムと見てもいいと思うが、ここでは「デジタル(記号)+アナログ(物)=情報」と考えておく。

■プロフィール■-----------------------------------------
(なかはら・のりお)論考として『ポリロゴス1 特集:ミシェル・フーコー』『ポリロゴス2 特集:メディア――越境する身体』(中山元編集、冬弓舎)掲載。共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
ブログ「不連続な読書日記」
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n

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■黒猫房主の周辺「師走にて候」■
★今号より、山口秀也さんの新連載「メディアななめよみみ」がスタートしま した。中原紀生さんが、ついにブログを開始され連日更新中です。
★う〜む。油断していたわけではないが、あっいう間に師走。走れ走れ「師」 の付く職業の人。
★「師走」の語源は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によ れば、<一般には、12月は年末で皆忙しく、普段は走らない師匠さえも趨走 (すうそう)することから「師趨(しすう)」と呼び、これが「師走(しは す)」になったとされている。師は法師(お坊さん)であるとし、法師が各家 で経を読むために馳せ走る「師馳月(しはせつき)」であるとする説も一般的 である。また、「年果つる月(としはつるつき)」「為果つ月(しはつつ き)」が「しはす」となったもので、「師走」は宛字とする説もある。「三冬 月(みふゆつき)」などの別名もある。>だそうで、看護師・美容師・鍼灸師 等は「師」がつくが消防士は「士」なので、この「師」と「士」の遣い分けに ご注意。しかし年末は消防士も急がしそうだなあ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%88
ブログ「シャノワール・カフェ別館あるいは黒猫房主の寄り道」では、この数日、漫画評論家の夏目房之介さんからもコメントを頂戴して「キャラと萌えの考察」というテーマで盛り上がっていますので、ご高覧いただくと幸いです。(黒猫房主)



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