私は今、日本教職員組合(日教組)作成の『第64回教育祭(1999年10月30日)新合葬者名簿』[註1]なる小冊子を手に取り、精読しようとしているのである。一昨日、つまり「教育勅語発布記念日」[註2]である10月30日は、大阪城公園大手前広場にそびえ立つ、巨大な建造物・教育塔の前で、教育祭なるものが執り行われる日でもあったのであり、それを見学した私は、上記小冊子の注解作業に迫られたのであった。なぜなら、もしも私が死亡した場合にも、職場の校長や私の遺族(母と弟)がこれを読み、あるいは日教組からの提示・説明を受けて、教育塔への「合葬」(合祀)を申請してしまう危険性があるからなのである。だからそんな火急の場合にそなえて、私の遺志をわかりやすく理解してもらうために、この小冊子に即して書いておく必要性を痛感させられたのであった。
さて『新合葬者名簿』全19ページは、「教育塔の由来」「塔の維持管理および教育祭の運営」「教育塔のすがた」「教育塔管理委員会規定」「教育塔に合葬される方の基準」とつづき、そして新「合葬」者の氏名・死亡年月日やその「事歴」からなる一覧表が掲載されているのであったが、それらのうち、今は少なくともここに、「由来」と「すがた」を書き写していかなければならない(漢数字を算用数字に変え、【1】【2】などは注解のための記号)。 『新合葬者名簿』 〈教育塔の由来〉 1934(昭和9年)年9月21日、第1室戸台風が近畿地方を襲いました。多数の校舎が崩壊し、教職員18名(大阪府風水害誌・1936年刊)をはじめ、子どもたちが多数亡くなるなど教育界でも甚大な被害がありました。災害直後、大阪の教育界は二度とこのような災害が起こらないことを願って【2】、子ども、教職員、教育関係者を追悼し、その名を永くとどめるため、教育塔を建てることを全国の教育会に呼びかけました。全国の教育関係者はこの呼びかけにこたえ【1】、いま見られるような立派な塔ができあがりました。 塔の建築には当時の金額で32万円ほどかかりました【3】。塔の設計は公募され、設計者は島川精氏【4】、塔の正面の彫刻は長谷川義起氏の手によるものです。彫刻は災害時の情景と日常教育場面が描かれています【5】。 〈教育塔のすがた〉 教育塔は(略)面積は333平方メートル、高さは約30メートル。(略)塔の下の中央には162平方メートルの塔心室があります。塔心室の中央には「やすらかに」と書かれた石碑が建っています【6】。(以下略) 『新合葬者名簿』の注解 これは本当に、仮にも「民主団体」と自他共に認めるはずの、あの日教組の作成した文書であるのだろうか。ほとんどすべての句点ごとに、それぞれ【注解】をつけていかなければならない有様なのである。 【1】「呼びかけ」「呼びかけにこたえ」 なぜ「塔」の建設なのか、「募金」を集めるのならば、他に使い道があったはずではなかったか、という疑問は措くとしても、これではまるで「善意のキャッチボール」がなされたかのようである。「呼びかけ」と「こたえ」は、大阪市教育会の決議から帝国教育会による建設までの経緯を指すと思われるが、帝国教育会の「教育塔建設趣旨」は次のようなものだったのである(以下引用は、特に記さない限り『教育塔誌』1937年帝国教育会編から)。 今回ノ殉難者ト併セテ明治五年学制頒布以後並二将来二亘リテノ殉職者芳名 ヲ勒シ(中略)教育尽忠教育報国ノ大精神ヲ天下二顕彰セントスルニアル つまり1872年「学制」頒布以来の「殉職者」(「今回」の室戸台風の犠牲者だけでなく)の「教育尽忠教育報国の大精神」の「顕彰」ということになるが、「教育尽忠教育報国」がわかりにくいかもしれないので、第1回教育祭(1936年10月30日)における帝国教育会会長「挨拶」に解説してもらうならば、次のようになるであろう(読みやすくするために、いくつかの漢字をひらがなにし、読点をつけた)。 「教育者がその愛護する生徒を救はんがために、自らその身を喪ひ、あるいはその学業のために職に仆れたるがごとき事は、全く武士が戦場において花々しく討死したると同一でありまして、その烈々たる教育報国の精神は、まさに百世の亀鑑として、我々を感激奮起せしめずんば止まぬ所であります。(中略)すなわち教育塔の建設は、永遠不滅の教育報国の殿堂、換言すれば教育招魂社の建設であって、教育祭は、すなわち師魂を礼賛し、師道を発揚する教育的総動員であります」(『帝国教育』第698号) 教師が教育のために死ぬことは、「武士が戦場において花々しく討死」することと「同一」であり、教育塔は「教育の靖国神社」(1869年創設の東京招魂社が1879年に靖国神社へと改称)なのであった。そして実際に、「教師=武士」が少しも誇張でなかったことは、次の【2】からも知ることが出来る。 【2】「二度とこのような災害が起こらないことを願って」 すでに【1】から明らかなように、これは虚偽というほかないものであろう。教育塔は「災害が起こらないことを願」い、つまり死者の出ないことを願って建てられたものでは全くなく、その死を「礼賛」するために、つまり軍人と同じように死ぬことを要求するために建てられたのである。 では実際に、どのような人々が「合祀」されたのだろうか。『教育塔誌』の「事歴」(第2回教育祭までの教職員の合計168人)は、(1)「御真影」「教育勅語」の守護によるもの17人、(2)「土匪」「匪徒」の襲撃によるもの23人について、例えば以下のように述べている(()内は私の補足、カタカナはひらがなに変え、読点をつけた)。 (1)「御真影」守護:(尋常高等小学校の)訓導 杉坂タキ(当時23歳) 大正十二年(1923年のこと)九月一日 大震災に際し、日直として勤務中、大震に遭ひ、御真影奉安所前にて 「御真影御真影」と叫びつつ、一死以て奉護し、猛火に包まれて殉職す 「叫びつつ」なる脚色が誰の手によるものかは不明ながら、この教員が「奉安所前」で「奉護」のために死んだというこの「美談」は、「御真影」焼失弁明のための、校長による作り話であったことが明らかになっている(『「御真影」に殉じた教師たち』岩本努、大月書店)。 また、こうした「美談」は数多く作られ、新聞報道(そしてもちろん「教育祭」)を通して喧伝されたのであり、「静座の姿をとったまま「御真影」とともに焼死した」(これは事実だという)小学校校長の場合には、郡長が弔問に駆けつけ、遺骸を前にし、「先生、よく死んでくださいました」としばらく感涙にむせんでいたというのである[註3]。 (2)「土匪」「匪徒」の襲撃:台湾総督府学務部員 井原順之介(など6名) 明治二十九年(1896年のこと)一月一日 台湾総督府学務部員として芝山巌に勤務中、土匪の蜂起するに遭ひ、 匪徒の凶刃にかかり殉職す 明治三十一年九月三十日を以て、靖国神社に合祀する つまりこの「事歴」を注釈すると、1895年の台湾領有決定後(日清戦争の結果)、「台湾総督府」は「学務部」を台北郊外の「芝山巖」に設置し、皇民化教育を開始していたが(激しい抵抗が続いていた)、「土匪」つまり現地の人々の蜂起があり、この6人は、「匪徒」つまり現地の人々によって殺された、ということになる[註4]。
【3】「塔の建築には当時の金額で32万円ほどかかりました」 これについては、次の2点を指摘するにとどめておきたい。 (1)教育塔建設のための「下賜金」が天皇から与えられ、『教育塔概要』なる小冊子(第1回教育祭用のパンフレットと思われる)の巻頭言は、『教育塔建設に畏くも 御下賜金の恩命を拝す」である。 (2)日教組は1991年の『新合葬者名簿』においては、「これは全国の教職員を初め教育関係者の募金によるものであります」と述べていたが、この「募金」は、小学校児童1人当たり1銭、中等学校生徒3銭、小学校教職員10銭などと割り当てられていて、それらの合計「予算」額が「32万2500円」であった。 【4】「塔の設計は公募され、設計者は島川精氏」 とある審査員は、島川案について「仏塔らしい雰囲気も認められないのもよく」[註5]と褒めているが、1868年の「祭政一致」の布告および「神仏判然令」や、1871年の「神社を国家の宗祀とする」布告から形成されていく「国家神道」と現在の「政教分離」の意味を考えるとき、「仏塔らしい雰囲気がない」ことが当選理由の一つであったことは、記憶にとどめておく必要があるだろう、と私は思った。
【5】「(塔正面の)彫刻は災害時の情景と日常教育場面が描かれています」 「静動二相」の中に「教育尽忠、教育報国の大精神を芸術的に顕現」することを狙ったという当選者・長谷川義起氏は、次のように述べている。「「動」は非常時に於ける教育者が教へ子を背負ひあるいはその手をひいて、恰も守護神の如く暴風雨をものともせず、児童を誘導しつつ避難する有様を表はすことに努め」、また「静」については、「初めの試案は、校長先生が教育勅語を奉読するの場面を考へたのであるが、あるいは抵触することを慮り」「訓書清読の形式となった次第である」[註6]。
【6】「塔心室の中央には「やすらかに」と書かれた石碑が建っています」 この「やすらかに」は、「箕面忠魂碑違憲訴訟を支援する会」の粘り強い申し入れを受け入れ(「訴訟」の被告・箕面市長は「日教組も教育塔前で教育祭をやってるじゃないか」を主張)、1981年にやっと「改善」したものであるが(それでも私はこの「やすらかに」という言葉に鳥肌が立つ)、それまでは、この石碑には「塔心銘」が刻まれており、表側は「教育勅語」の結語である「咸一其徳」(みなその徳を一にせん)、裏側は「教育勅語は斯道に従事する者の恭しく奉じて彜憲(いけん=人として守るべき不変の法)と為す所なり」であったのである。 さて、どうでしょう。かなり足早に書いたのですが、少なくとも1945年以前の教育に「問題」を感じている教員であるならば、この教育塔に「合葬」されたいなどとは決して思わないでしょう。けれども、私はまだ安心できないのです。なぜなら、現在の日本は「平和」であり、教育祭も「平和」を願って行っているのです、などと説得されかねないからで、ですから私は、現在の教育祭の実際の様子を書いておかなければならないのでしたが、以下、機会を改めて、ということにしておきます。 ■プロフィール■(かとう・しょうたろう) 高校教員。腹ぺこ塾生。 |
ついに成瀬巳喜男について書かねばならない時がやってきた!(前回はフィルムセンターの特集がやっとはじまったばかりだからと、お茶を濁していたのです。)『お國と五平』(1952)で、闇討ちにされた主人の奥方・お國(木暮実千代)の供をして敵[かたき]・友之丞(山村聰)を探すあてどない旅を続ける五平(大谷友ヱ門)は、ついに女主人に、このまま友之丞が見つからなければいい、そうすれば奥方さまと二人でずっと旅ができるからと告白しますが、私もまた成瀬については、断片的な覚書以上のものを書こうと試みるより、このまま成瀬のフィルムの心地よさに触れつづけていたいと思ってしまうのでした。 けれども、監督の誕生日8月20日にはじまったフィルムセンターの特集も、10月30日の日曜日でとうとう幕を閉じ(結局、『お國と五平』を26日に見たあとは28日に『晩菊』を見たのが最後になりました。土日のプログラムは全部一度は見ていたのですが、29日に『浮雲』を、新文芸座に続いてもう一度見ようと思ったけれど果たさなかった。上映作品の総数は61、新文芸座で7月にやったとき見た分を含め、50本は見たでしょうか。文芸座でやってフィルムセンターでやらなかった作品はありません。ただし、文芸座ではかなりの数をニュープリントで上映、その結果、『鰯雲』(1958)は文芸座ではニュープリント、フィルムセンターでは英語字幕入り――これはこれで面白かった――でした)、それより前に黒猫さんからは〈「カルチャー・レヴュー」の原稿は早めにね!〉とさりげなくプレッシャーをかけるメールが届いて( これはもちろん、毎度の実績があるからです)、運命の時(大げさ?)が近いことを知らされていたのですが、これって、お國と五平の前についに友之丞が現われてしまったようなものでしょうか? いいえ、友之丞は、ずっと前から彼らの後を、元は恋仲だったお國が忘れられずに、虚無僧姿でついて来ていたのでした。友之丞の尺八は、かつてはその音色だけで、誰の演奏かを聞きわけたお國を父の屋敷から誘い出すことすらできたのですから、もとよりお國にはとうにわかっていたのです。実際、彼女はその疑いを五平にもらし、友之丞さまの尺八ならよく聞かせてもらったから知っていると言ったので、どのようにして聞かせたのかと五平は嫉妬にかられます。 尺八を聞かせてもらったくらいでそんな、とはお國も観客も思うことでしょうし(そういう形であらわれる五平の恋慕がこのときはまだ観客を微笑ませもします)、自分を「浮いた女」(という言い方をするのですね)と思ってか、と気色ばむお國に五平は詫びますが、結局のところ、「わしは死ぬのは嫌だ」を連発する卑怯未練な友之丞を斬ることは、「その女、お國どのはな、わしに一度身をまかせたことがあるのだぞ」という死に際の科白を彼から引き出すことにもなる。つまり、お國の言葉にもかかわらず(このときも「嘘じゃ」と言下に否定したお國は、「斬れ」と命じて、友之丞の口を封じるかのように五平はとどめを刺します)、彼女が「浮いた女」であることが結局は証明されてしまうのです。 ところで前回、私はかなりいい加減なことを書きました。特に後半(読み返さなくていいです)、つい筆がすべって、具体的な作品につくことのない空虚なおしゃべりをしてしまいました。恥しいことです。少々弁解するなら、これには、それまでに見ることのできた成瀬作品の多くが特定の時期に偏っていたという事情もあり、もっぱら〈女たちの条件〉をめぐる話だという観察は、それ自体としては間違っていなかったと思いますが、成瀬のようにキャリアの長い監督について、一括りにまとめてしまうような書き方は早計でした(小林桂樹の証言を引きましたが、1930年に最初の短篇を撮っている成瀬を語るには小林でさえ若すぎる――ある時代の成瀬しか見ていない――のです)。成瀬には二本の時代劇があるが基本的に同時代にキャメラを向けた監督であるという記述も、「基本的に」という限定に救われていますが、たとえ丁髷を結っていなくとも、映画制作時にすでに過ぎ去った時代であった明治を舞台に、『桃中軒雲右衛門』(1936)、『芝居道』(1944)、『あらくれ』(1957)と撮っているわけで(他にもあったかもしれません)、前回の原稿を書いたときはこれらのいずれも未見だったとはいえ、現在から見て区別をつけなかったのは誤りでした。 ただ、時代劇が二本だけというのは本当です。そして幸い、そのどちらも今回見ることができました。一つは、『三十三間堂通し矢物語』(1945)で、これは、藩を代表して通し矢チャンピオンになったものの記録を破られ自害した侍の遺児が弓の修業に励み、新記録保持者の属する藩の構成員に妨害されながらも、長谷川一夫演じる謎の男に助けられて志を果たすというもの、なるほどこれなら当局に見とがめられはしないでしょう(しかし、戦意昂揚映画になったんでしょうか。東京が焼けてしまったので成瀬は京都でこれを撮ったそうですが、そんな非常時の緊迫感は、画面からは何ひとつ窺えません。)実は長谷川一夫こそ、若者の父の記録を破った弓の名手、そして妨害しているのはその実弟なのですが、この弟の、私は兄上と違って母上を喜ばせること(弓矢の腕によって、家名入りの額を三十三間堂に掲げることです)ができないから、母の喜びである額が下ろされないよう努めるのだというイジケぶりなど、ストレートな忠孝思想にはおさまらない面白さです。 そして、『お國と五平』になれば、寡婦とはいえ主人の妻と通じてしまう話ですし(富山の薬売りが語る国元の消息――仲間の武士の女敵[めがたき]討ちが大評判になっている(言うまでもなく、密通した妻と相手の男を殺すこの行為は罪になりません)――は、すでに惹かれあっているお國と五平にとって結構不吉な話柄ではないかと思うのですが、二人は敵討ちの旅に出た自分たちが故郷の人々に忘れられているらしいことに落胆こそすれ、特に気にしているようには見えません。しかし、友之丞が死に際に言うように「わしを討つ前に夫婦[めおと]になった」ことが知れれば、二人は糾弾される可能性十分なのです)。友之丞ときたらお國に、お國と五平がそうなったことを宿屋の隣室で知ったときは「悲しかったぞ」と未練を見せ(観客を笑わせ)つつ、しかしこれでそなたたちも命が惜しくなったであろう、自分も命が惜しい、もう仇討ちの理由もなくなったからやめにしよう、と申し出るのですから、これは戦後でなくては作られることのなかった「時代劇」です。 成瀬はこれ以後、「時代劇」は二度と作りませんでしたが、同時代を扱った、つまり「現代劇」の多くが、多かれ少なかれ女の貞操の問題を含んでいます。貞操――それにしても古めかしい言葉を私は引っ張り出してきましたねえ――と言って、女の性の問題と言わないのは、それが妻か妾か、素人か玄人か、堅い女か浮いた女か――あるいはは許すか許さないか――といった二分法の図式にたやすくおさまってしまうからです。(『お國と五平』は、彼らの道行きが「寡婦と一緒に旅すること」と「結ばれること」の二者択一という問題を含んでいる点で、『乱れる』(1967)や『乱れ雲』(1967)の前身と見なされ得ましょう)。性の問題以外でも、また、戦時中の作品にとどまらず、成瀬がいかに時代のイデオロギーに迎合し、またはいかに反時代的でありえたか、という点は、興味深いところです。というのも、色とりどりの毛糸屑の箱に入れられた蓑虫のように、外的な条件をかえって〈機会〉として受け入れ、取り込み、利用して、結局は自分の作品にしてしまうという、強靱な混淆性は成瀬の特徴の一つだと思われるからです。 もとより映画は、純粋な自己表現という錯覚に陥るには、あまりにも多くの人間がかかわり、あまりにも多くのプロセスを踏み、撮影される現実の存在というフィクションを必要とする、外的条件に左右されることの多いジャンルです。しかも成瀬は、他人の企画で、客の入る商品としての映画をコンスタントに生産するという、システムの中で働いた監督でした。戦後の成瀬について言えば、民主主義が、男女交際が、高度経済成長が、交通戦争が、その作品には次々と取り入れられます。それらは根拠のないものの寄せ集めですが、もともと、寄せ集めに過ぎないものに見せかけのコンティニュイティを与えて、あたかも最初からそうあったかのように均質に仕上げることこそが創造の秘密(映画に限らず)であるともいえます。『晩菊』において杉村春子がせかせかと入ってくる路地についての、キャメラマン、玉井正夫の証言を思い出すのもいいかもしれません。最後の袋小路のセットに至るまでの道は、東京のあちこちで気に入った路地を撮り、あたかもそれがつながっているかのように見せるのだと、それもセットはロケのように、ロケはセットのように見せるのだという――。 成瀬の作品において時代性の刻印はしばしば明らかなのですが、しかし多くの場合、成瀬はそうしたどれからも身をかわしているという印象があります。そして別なところで彼自身の刻印を残すのですが、それは一方では、直接的な科白の押しつけがまさに対する、無言のやりとりや、まなざしや、身ぶりといった、きわめて慎ましいものであり、一方では、物語と別なところで彼の映画に特徴的な細部として、私たちがすぐにではなくても徐々に認識を深めてゆくものです――しかし、こうしたことこそ一括りに語るのを禁欲し、作品に即して見てゆくべきものでしょう。 先に、小林桂樹でさえ若すぎると書きましたが――では、誰だったらいいのでしょう? 成瀬の作品の多くは、彼の生きているあいだにもその後にも、作者自身にとってさえ、見ることも他人に見せることもできないフィルムでありつづけたというのに。『まごころ』(1939)は、封切以来、山根貞雄と蓮實重彦の尽力により1996年の東京国際映画祭で、東宝に残っていた原版からプリントを焼いて上映されるまで、実に五十七年間も公開される機会がないまま眠りつづけていたのでした。そのように途方もない時間、誰の目にも触れずに経過したものが甦ったのを見ると――私自身、今回はじめて見ましたが――それは信じられないほどにみずみずしい〈現在〉なのでした。成瀬は今年生誕百年ですが、映画はそれより十年若いだけです(人生の短さに対比される長さのものの一ジャンルであるべき映画の歴史の、なんという短さ)。しかも映画は、そのわずかのあいだに、見世物としてはじまり、大衆向け娯楽として成長し、隆盛を極め、そしておもむろに衰退して行きました。十五歳で小道具係として撮影所に入り、二十八歳で最初の短篇を手がけ、生涯に八十九本の作品を撮った成瀬巳喜男は、その人生が映画の歴史と同調しなければありえなかった種類の(したがって、今後はもう生まれるべくもない)、驚くべき豊かな作品――どうして今までこれを知らぬまま、映画を好きだと言ってきたのだろうと思われる種類の――を残したのです。 フィルムやビデオテープやDVDを所有することはできますが、過ぎ去る時間そのものに他ならない〈映画〉を所有できる者は誰もいません。かりそめの物語が解体したあと、もはや起源を持たぬ砕片(かけら)となって記憶の中に漂うものたち。以下では、そのかけらを拾いながら、映画の快楽を今少し引き延ばすために、もうしばらく成瀬の作品の中を旅してみたいと思います。 その際、道しるべには何がなりうるのでしょうか。ほとんど根拠なしに(しかし、「友之丞どのの尺八が聞える」と口走りながら、お國に背を向け枯野に踏み入ってゆく五平の姿をちらと思い浮かべて)、音、と言ってみましょう。成瀬の映画では、本当によく音が聞えるのです(サイレントであってさえ)。そのことを不意にはっきりと意識したのは、何本も成瀬作品を見たのちのことなのですが。その結果、文芸座で見たときは印象に残らなかったのに、今回『晩菊』の渋いタイトルバックが終ったとき、やかましく通りを流す宣伝カーがファースト・ショットであったことにはじめて気がつきました(当然のことながら、『乱れる』の冒頭が思い起こされました)。杉村春子が一緒に暮らしている女中が聾唖という設定のこの作品には、実のところ音があふれかえっており、いつの間にか私の耳はそれが気になってしょうがなくなっていたのです。殺した友之丞の尺八の音が耳について離れなくなった五平のように。けれども、最初に述べたように、友之丞の尺八は、本当はずっと前から聞えていたのでした――このことに注目、いえ、耳をかたむけることにしましょう。 ★参考文献は最後に載せます。 ■プロフィール■ (すずき・かおる)文中にある、成瀬についての「断片的な覚書」はブログにあります。よろしかったら併せてお読みください。http://kaoruSZ.exblog.jp/ |
保坂和志の小説の中で一番好きなものはどれか、どんなところがいいのか、と聞かれたら、多くの人は少し迷うことになるだろうし、私も今迷いつつそれを考えようとしているのだが、たぶん保坂の小説をまだ読んだことのない人も、いくつか読めばそれなりに好印象を持つのはおそらく間違いない。ただ、どれが一番だとか、どこがいいのかとか、そういうある一部分に好きになった理由や根拠を求められると、どうもそういう言い方で答えにくい作品(群)だということも同時に気づかされるだろう。 それは、よく保坂評として挙げられる「特にこれといった出来事が何も起こらない」とか「若い男女が出てくるのに恋愛にならない」とか「作者の言いたいことがどこにあるのかわからない」とか、そういう「物語の起伏の富んでいなさ」のような作品の特徴とも関係しているのかもしれない。つまり「物語がああなってこうなるから面白い」とは言えず、なんとなく全体の雰囲気がいいとしか言いようがない気がするのだ。 しかし好きになった理由として「なんとなく全体の雰囲気がいい」などと言ってしまうのは、説明としては知恵が足りないような気がする。そんな答えを口にするとしたら私がバカと思われかねず、そういうバカが「雰囲気がいい」とか言って喜んでいるような小説が保坂の作品なのだと、早合点される恐れもあり、なかなか評価の仕方も難しい。それに全体がいいといっても、また着目しているのは、各場面の造形や登場人物同士の個別の会話でもある。それを一つずつ取り上げて、果たして何が面白いのか伝わらないかもしれないが、ここは話の取っかかりとして、いくらか例をあげておこう。読んだ人は復習のつもりで、まだ読んでいない人は予告編のつもりでたどってほしい(といっても嫌かな)。 デビュー作『プレーンソング』で、私にとって印象深いのは「アキラ」というよくしゃべる、馴れ馴れしいような人なつっこいようなお調子者の年若い兄(アン)ちゃんだ。語り手の「ぼく」の部屋に押し掛けるようにして泊まりにきては、ひとしきりはしゃいだりするものだから、「ぼく」も冷たくあしらうこともあるが、年上らしくまあなんとなくやりたいようにやらせている。そうするとしばらくしてまた泊まりにきたときには、ナンパしたらしい女の子「よう子」を連れてきて、二人で何日も泊まるのだ。何という図々しく迷惑なヤツだろう、私ならこんなのとは、絶対つきあえないと思うのだが。 しかしこの連れてこられた「よう子」というのがまた何を考えているのかわからない女の子で、「ぼく」が近所の野良猫に餌をあげているのを知ると、一応会社勤めをしている「ぼく」になりかわり餌あげをはじめたりする。そしていつか「ぼく」以上に熱心に猫に餌をあげて回るのを日課とするようになり、結局二人は居着くのが当たり前のようになっていくし、「ぼく」もそれに強いて違和を示さない。 「アキラ」は最初、「よう子」が餌あげに熱心になって自分が構われないことに不満を持つようだけど、それもなんとなくおさまって、それよりも夏なのだから海水浴に行こうとまた突然うるさく言い立てて、他のものはそう乗り気でもないのだけれど、これもなんとなく「アキラ」の強引さに悪い意味でなく押し切られて、その他「ぼく」の部屋に泊まりにくる「島田」や「ゴンタ」をまじえて、海に行くことになる。そうすると行きの車中でもテープをかけたり歌を歌ったり大騒ぎしていた「アキラ」が、浜辺で水着になって微妙に居心地の悪いような感じで座っているみんなのなかで、いつものようにはしゃぐこともなく、黙って海を見ていたりするのだ。以下引用。
このあと五人はゴムボートで沖合に出て、たわいのない会話だけが延々と続く有名なラストが現れるのだが、それを可能にしているのは(つまり地の文で「ぼく」が何かを説明しなくても済むようになるのは)、この「アキラ」の柄にもなくしんみりしたような幸福感に他のみんなも浸されたからだと読むこともできる。しかしそんなことより、このような「幸せ」の肯定を、読んでいるほうに恥ずかしさや嫌味を感じさせることなく、作者がぬけぬけと書きおおせるところは、やはり驚くべきものだ。ここだけ抜き出すと、ちょっとヒヤリとしないでもないのだが、作品においてはこれは悪くない。 『猫に時間の流れる』は少しかわいそうな話だ。「クロシロ」と呼ばれる近所を我が物顔で徘徊する野良猫が、「ぼく」と「西井」と「美里さん」の住まう大原ハイツにやってきては、「西井」の飼い猫「パキ」にケンカを仕掛けたり、マーキングのオシッコを引っかけていったりする。その悪さぶりは近所でも有名で、タイル屋のおばさんなどは、凶暴な「クロシロ」がこのあたりのボスであり、しかも「猫エイズ」を持っているなどと悪評をばらまくほどで、三人もそれはちょっと言い過ぎのような気もしないではないが、完全に否定できない気持ちを持っている点でも、「クロシロ」に警戒心を持っている。 しかし日常的に見かけたり、距離を持って観察してきたことや、人間の目の届く範囲には現れない野良猫の生態を考察しているうちに、「クロシロ」にもテリトリーを主張したり凶暴になったりする理由はあるのかもしれない、と数年を経て「ぼく」が考えるようになっていて、そうしているとある時「クロシロ」が現れないと思っていたら、黒い毛の背中が血をかぶったようにべったり濡れて弱っているのを見つけるのだ。「エイズ」が発症したのかという疑いももちつつしかしそんな症状が現れるだろうかと考えつつ、実は猫嫌いの人に煮えた油をかけられたのだ、という話を聞きつける。しかしそんな事実がどうというよりも、あんなに他を圧するような振る舞いだった「クロシロ」が、いかにも弱々しく苦しそうで見るに忍びない。「美里さん」たちと餌を与えたりして「クロシロ」はいちおう快復するのだが、以前のような誇り高さは影を潜めている。 これは全体の一種の「粗筋」なのだが、でもこういう要約は正しいのかどうか私も自信はないし、まただからどうなんだ、という反応に答えることを言うべきなのだが、実はこれ以上に何か意見があるわけでなく、そんな話だなあ、ということを書いたのだ。私は猫を飼ったりしたことはないので、猫の話だから特別に感情移入することもないけど、でも嫌いでもないので、そういうところも面白いと思っているのかもしれない。 ちなみに「保坂和志は猫のことばっかり書いている」とも言われるのだが、猫を完全に中心的な主題にして書いている作品は実は意外と少ない。猫は出てきても、まあ素材の一つとか脇役的に(そしてそれでこそ十分に)描かれていることの方が多く、また出てこない作品も割とある。猫のことを書いているな、と感じさせるのは、この『猫に時間の流れる』と『キャットナップ』と『生きる歓び』だと思う。 『季節の記憶』は、鎌倉の風景を背景に、離婚した「僕」と五歳の息子の「クイちゃん」、近所で便利屋をしてる四十がらみの松井さんと年の離れた二十代の妹美沙ちゃんとの日常の交流を描いた作品だ。この作品には、息子から発せられる「時間って、どういうの?」という素朴というかあまりに端的というか、そういう質問に、「僕」や他の大人のほうが世界の成り立ちや世界観みたいなものについての考察の刺激をうけるという構図があって、
事実として、子供の経験や知識獲得の過程にこれほど寄り添うひとがいるなら、それはそれで素晴らしいと思う。「時間は時間だ」とか「そんなくだらないこと言うんじゃない」とかいうように自由な想像や思考を排除して、決めつけたようなかたちでしか子供に言葉を与えないことが多いかもしれない現実を思えば、こういう態度はなんというか誠実だともいえるだろう。ただしかし、小説のなかで「そういうのが演じられるのを読まされる」というような感じがしたときには、なんとなくあまり面白くないと感じていたことになる。 しかし、小説家というのはスゴイなと思う。子供を純粋な存在に見立てて、社会性にまみれさせずに、そこから生まれる創造力の可能性みたいな考えを設定しておきながら、そのあとそんな考えの父親を裏切るように「クイちゃん」のほうが「字を読みたい」と言い出させるのだ。それに対して、このいきさつが起こってえらく狼狽した「僕」は、その極端な考え方がより鮮明になり、「字が読めるのなんて、ちっともエラくないんだから」とか「ほら、文字ばっかり使ってない方が、世界は豊かなんだよ」とまで言わせている。こんな変人の父親はそういないだろう。結論は、「クイちゃん」のほうが字を読むことへの関心がふとおさまり、「僕」はひとまず安心することになる。しかし「いつ息子に文字の世界に入らせるべきなのか」という悩ましい問題についての決断が先送りにされただけ、ともいえるだろう。 作品全体には、「僕」と「クイちゃん」と「美沙ちゃん」の散歩によって見いだされる鎌倉の風景をつづる描写があふれていて、それが人物たちの「哲学的考察の問答」の抽象性に色彩というか、具体的感触というか、そういうものをそそぎ込む要素になっていて、これは作者自身が意識的に導入した要素だと、どこかで書いていたはずで、描写の意義というか、その描き方の重要性については、あとで触れる『小説の自由』や『書きあぐねている人のための小説入門』でも本格的に論じている。 いや、しかし本当のところ、私は描写を読むのは苦手なのだ。この作品はたまたま鎌倉の風景で、一度旅行で歩いたところのあるところも出てくるぐらいだったので、作品が描き出す山道や木々の緑の色合いや海岸など、ある程度自分が見た印象と重ねてとらえることがとができた。その分いつもより風景描写に苦労することなく、いわば「快適に」読むことになったのだが、もし私が鎌倉に行ったことがなかったら、この作品はどんなふうに見えたのか、作者の描いたことがこれほど明確な印象として受容できたのか、定かではない。ここは気になるところであるが、でもそんなに違わなかっただろう、と良いほうを取っておきたい。 長くなったきたので、去年に出た『カンバセイションピース』については一つだけいうと、ここで変な人物として印象的なのは、「森中」という図体がでかくていつも汗をかいてるような、しかししゃべるのを全くやめず、人の言うことの表面的なところに妙にこだわったり、どういう関心からなのか「なんですかそれ?」「マジっすか?」「あるわけないじゃないですか、そんなこと」とか過剰に相手に質問をしたりする男(若者?)だ。横にいてうるさいというのもあるし、「私」や「浩介」ら年長のものの話の意図をうわすべりにすくっていくのが、面白い。近くにいたらホントにうっとうしいだろうなとは思いながら、でもこの人物も意外と愛嬌がある感じがする。 あとで読んで知ったのだが、保坂和志と阿部和重の対談(『群像』2003年12月号)でこの「森中」という人物のモデルについての言及がある。阿部が噂を耳にしたのでモデルについて確認すると、作者本人がそれは「中原昌也」だと明言しているのだ。ちなみに「小説家・中原昌也」については以前「文学のはざま」の第5回で書いたが、やはり阿部が言うように「どの場面でも中原昌也にしか見えなくなっちゃって」しまうところはある。ただし阿部が中原と実際に親しいというのにたいして、もちろん私は中原昌也という人間を直接知っているわけではない。 さて「保坂の中で一番いい小説はどれか、面白いのはどんなとこか」とかいいながら、保坂の主要な作品のいくつかについて多少言及したのは、そのことを本当に答えるのが目的ではなく、今年6月に出た保坂の小説論『小説の自由』を読んだからだ。これは保坂が作家の立場から考えに考え抜いた、純度の極めて高い小説論で、また保坂の独特な思考法の丁寧な再現も読みどころの一つといえるかもしれない。それで今回このコラムでは、『小説の自由』をメインに論じようと考えたのだが、これについて実はうまく説明できる自信がないのだった。だから小説のほうの感想を書いてしまった。 (★Blog版からの続きは、ここからです) 『小説の自由』については、中身がわからなかったのではない。確かに保坂の思考法は、回りくどいというか、話がどんどんずれていってもいくので、とらえにくい、ということはあるのだが、わからないというのではない。というよりはむしろ啓発的な考察が、絵画の重ね塗りのように何度も丹念に重ねられて、考えられていることの厚みのようなものを感じることができる。そして、十分保坂の言わんとすることは、私にはよくわかるといっておこう。 しかしこれを伝達するのが、どうも難しいような気がしてならないのだ。なぜなら保坂は、小説の一番重要な原理を「散文性」におき、それは言葉の説明的な原理とは違うものだと規定している。また、その「散文性」をこの論考においてまさに実践しようとしているからだ。これはおもに後半、アウグスティヌスを解読しながら思考を延々と押しすすめているところにあらわれているが、ここを読むのについては非常に面白いと思う。それと以前に『「私」という演算』という作品があり、「散文」の運動が貫かれている限りは、表面上エッセイや論考のような姿をしていても「小説」と呼んでもいいのでは、と作者本人が後書きなどで語っていたのだが、これなども本作と共通した意識だと言えると思う。小説論でありながら単に説明に終始するのではなく、「小説の生成」に必要な「何か」を「何か」として分からせるような、そういう作品になっているのだ。 だから、私が通り一遍の説明してしまうのでは、保坂が描き出した小説をめぐる問題を単純化してしまうという危惧がある。それともう一つ、問題に感じるのは、保坂がどちらかというと場所によっては「誤解」を受けるような書き方や表現をあえて選んでいるのではないだろうか、という疑問があることである。私の理解はそういう書き手が設けた「誤解」の道を、きれいに避けてしまっているのではないだろうか、ではまず「誤解」しているところからはじめるべきなのか、とか、そんなことを考えていると、そもそもどんなことが書かれているのか、説明できなくなってくるのである。 たとえば、保坂は、まず小説を規定している原理的な問題を考えるのに、「現実」と「フィクション」というとらえ方の限界を指摘している。「現実」が「フィクション」に描かれているという通常の考え方だけが問題なのではなく、「フィクション」が描く「リアリティ」は「現実」そのものではない、という観点まで含めて、奇妙な混乱を招くことを指摘し、その二分法では示せない「第三の領域」にこそ意識を向けるべきだという。 具体的には、小説に現れる「私」(三人称や非人称を含めての)が作者の観念の反映であることを極力弱めるべきだという主張があり、その悪い例として、装飾的比喩がごてごてしている三島由紀夫の「人間化」された情景描写が例示されている。むしろ人間の自然な知覚にならうようなかたちで描写などは書かれるべきであり、白樺派の里見クや文章の神様志賀直哉をそのような好例としてあげている。小津安二郎の映画も引き合いに出されている。そして極めつけは、小説にも音楽のように「現前性」(!)が重要となってくる、というのだ。 ここですでにいろいろな偏見や誤解が生じてしまう。「保坂は自然らしさがあればいいというのか?」「リアリズムについての考えが古すぎやしないか?」「『現前性』って、ちょっとそれってありえないじゃない?」とか。しかし、そうではないことも、だんだんと分かってくる。保坂が「現前性」ということばで言いたいのは、「写真や映画のように映像的あるべき」とか「まさにあるように書け」とかではない。文字から頭に抽象として入力された言語が、読み手の中で視覚や聴覚の仮想的な運動を引き起こさせることが、小説には最低限必要なのであり、読者におこるその運動を「現前性」と呼んでいるのだ。 保坂はその具体的な例として「視線の運動」をあげている。せっかく先に引用したのだから、このことの説明のために保坂自身の作品を利用することにしよう。たとえば『プレーンソング』でいつも騒々しい「アキラ」が黙って海を眺めているとき、何もしていないわけでないことにみなさんは気づいただろうか。その箇所を再引用すると、「アキラの目の焦点は、波に乗ってくるサーファーを追ったり、それより沖を横に動いていくウインド・サーフィンを追ったり、沖からこちらに飛んでくる海鳥を追ったりしていて、その合間にたまにぼくたちの方を見たかと思うと、また波打ち際を眺めることに戻っていく。」のだ。 これは海を眺めている「アキラ」の様子を「ぼく」が後ろから見ているところで、「アキラ」は遠く海の上を行き来する存在とその動きに「視線=意識」が奪われて、自然にそれ追っている。そしてふとこんな自分が見られていることに気づいて振り向き、でもそれを確認するとまた海のほうに目をやる、そういう動きを「アキラ」の目になりつつも、「ぼく」の位置からその後ろ姿を描いている。さりげなくそして静かな印象だけれど、二つの別の視点を通して非常に複雑な情景の動きが描かれているのがよく伝わる箇所だろう。 そして大事なのは、これが感覚や知覚にたいして丁寧な描き方でありながら、やはり、実際の知覚そのものではないことだ。ここには知覚を言葉であらわしたがゆえのズレがある。「アキラの目の焦点」を実際には「ぼく」が「ぼく」の位置から厳密にトレースできるはずはないし、「アキラ」にとって「波に乗ってくるサーファー」は、その瞬間引きのカメラでなく、ずっとズームして近づいたかたちでとらえられているかもしれないし、なんとなくそうイメージされもする。だから、描かれることとその再現にズレが生じていることが、結果として全体に奥行きのある情景を実現しているのだ。これを読むときに起こる印象のリアリティを保坂は「現前性」と呼んでいる。 こんな例からも分かるように、「現前性」の話をしているとき、保坂は二つの表象を区別していることになる。まず当たり前だが、ここでは作者のリアリティ(R)がそのまま読者のリアリティ(R’)へと伝わる(R→R’)などというような単純なことを言っているのではない。では、フィクションとしての作品(F)を通じて、作者から読者にリアリティが受け渡される(R→F→R’)というのかというと、これも「第三の領域」を想定できない従来の考え方に陥ってしまう。 保坂が考えているのは、読み手は(reader=(r))は読み手で、自ら二つの表象を担っているということだ(F→(r)→R)。つまり作品から与えられる言語の内容を抽象として受容する(F→(r))ということ、それを自分の身体性(知覚・記憶)に向けて表象する((r)→R)ということに分かれているのだ。そのズレながら同時にある二つの過程があってこそ、作品はリアリティとして感じ取られることになる。だから、三島の悪い手本では、「F→(r)」の過程が観念や比喩の強い磁場にあることになり、それでは次の「(r)→R」の過程で、読み手は「自由」に自分の身体や存在を活用するように開かれていかず、むしろ言語の拘束を受けたイメージを送り出すだけで、その送り出すものもほとんどリアリティとは呼べず、「F→(r)→F’」(F≒F’)として閉じられてしまう、と言いたいのだ。 この指摘は、すでに書き手の場に重要な問題を持ち込んでいる。書き手(writer=(w))にも二つの表象とその運動がある。それは、現実なりリアリティを感受し(R→(w))、それを言語化する((w)→F)という過程として、つまり「R→(w)→F」としてあらわされるだろう。しかしこれはそう自明ではない。なぜなら「R→(w)」と「(w)→F」の表象の原理は、先と同様に根本的に異質だからだ(保坂は前者を「身体の原理」、後者を「言語の原理」としている)。それなのに、書くという行為においてはどうしても言語の理屈やメカニズムが強まるため、結局「言語のイメージを言語に置き換えるだけ」(F→(w)→F’)のようなことが起こりがちである、と言うのである。以下引用。
つまり、もともとの理想化された「リアリティの伝達」(R→R’)どころか、われわれがおこなっているのは、ひょっとすると「F→(w)→F’→(r)→F”」つまり「F→F’→F”」という「フィクションの伝達」にすぎないのではないか。こんなふうに非常にまずいことになりかねないのだ。これは純粋に言語の運動でもあり、人間が免れることはないのかもしれないが(シニフィアンの連鎖とか。ちょっとラカンぽい?)、しかし、だからこそ知覚や身体の運動=「現前性」のほうを保坂は重視するわけで、それによってかろうじて小説は、「身体と言語とのきしみ」を持ち込むことができ、リアリティのとっかかりを作ることができるのだ。そして小説がなぜ書かれなぜ読まれるのか、を考える上でも、この「きしみ」が大切なものとなる。 でも、このような説明は、はたして保坂の言わんとすることにどこまで沿うことになるのか、依然として私には分からない。それに、こうして記号なんか使って理解を助ける(?)ように書くのは、それこそ保坂の考えに大いに反することになるのではないか、そういう危惧もこの『小説の自由』を説明するのが難しいと感じた理由の一つだったのだ。だが、「現前性」という言葉に「ええ!?」となる自分の、ある種の偏ったとらえ方を解こうとして、こういう方法で考えるしかなかったのだから、これはこれでいいと自分としては考えたい。 だから、保坂の考えていることが「R→F」とあらわされ、私にとって「F→R’」と理解されるとき、私は「R≒R’」であることを信じるが(私は「現前」を信じる!)、しかしこれを今書いているこのような文章でそれを説明する(R’→F’)とき、その説明の内容を理解する(F’→R”)人が、「保坂の言っているのとは違うのでは」つまり「R≠R”」ではないか、というかもしれない。それでも私は「R≒R’」であることを信じ、かつ「R’≒R”」であることを保証する。しかし一番目の「R」と三番目の「R”」の直接の関係を問うことは、私からはできない。これは、まずは読み手で、次に書き手となった私の位置の限界であり、保坂の「身体と言語という異なるもの媒介」という問題を引き受けるとき、これは十分な態度だとも思う。「R≠R”」を主張する人には、またその人なりの「R”→F”」(表現)があらわれているはずである。 しかしこのことは一般的な原理にすぎないので、これで話が終わるのならたいしたことはない。保坂が考えさせることで一番重要なのは、繰り返すが、このリアリティについての問いが「文学は何のために書かれ何のために読まれるのか」というような大きな問題にまで、にわかにかかわりを持ち始めることだと思う。 ただしこれについては、私にはもう説明できない。紙幅の問題ではなく、たぶん私の能力として単にできない。やや尻つぼみで申し訳ないが、でも興味のある人は、『書きあぐねている人のための小説入門』が非常に分かりやすく、「何のために小説はあるのか」というについて考察をうながすような具体例がでているので、そちらを読むのをお薦めする。とてもよく考えられて書かれていると思う。 でも、やはり正直言うと、保坂は小説のほうがすごい。これは「本来小説家なのだから小説のほうがいいに決まっている」とかいう、同語反復で、ありきたりなオチとして言うのではない。今回の『小説の自由』のような論考的な作品も、興味かき立てることがたくさんつまっているのだが、やはり何か弱い。それはひょっとして、保坂自身のいくつもの小説の存在こそが、その論旨を支えているということなのかもしれない。あるいは『小説の自由』で考え抜こうとしたことを、保坂は最終的には小説を書くための糧にしてしまうはず、だからかもしれない。どうしても小説のほうが優位なものとして立ち上がってしまう。だから本当は、描写の意義や人物のモデルを設定することについて、保坂の論点を批評するようなことを書きたかったが、残念ながら今回はこれまで。 でも最後に一つ、どうしても言いたいことがある。それは、実際の保坂という人は、かなり意地悪な人なのではないのか、ということだ。意地悪というより、客観的には「頑固」「強情」「自分の考え以外はとりつく島を与えない」ぐらいが穏当かもしれないが、近くにいたら絶対その言葉に意地悪さを感じてしまいそうだ。「あなたの解釈は、非常に単純な見落としがあって」とか「結局そういう表層的なボキャブラリーで理解して、思考の自動化を起こしてしまっていて」とか、「悪気なく」指摘されそうで、そういう強迫観念を感じさせられて今回はかなり苦しんだ。もちろんこんな想定は考えすぎなのだが。 ■プロフィール■ (むらた・つよし)1970年生まれ。「腹ぺこ塾」塾生。 |