『カルチャー・レヴュー』52号



■連載「マルジナリア」第9回■


世界の界面

中原紀生


●『マッハとニーチェ』を読んで以来すっかり木田元さんの語り口に魅了されている。同じ話題を繰り返し反復しながら語り直す(「遣い回す」ではない)落語の名人を思わせる話術は、それに接するたび既知の事柄が「いま・ここ」でアクチュアルに立ち上がってくる。同じ話を何度でも初めてのように愉しむことができる。ハイデガー哲学の語り直し(「焼き直し」ではない)の名人芸にただゆったりと身をゆだね、逐行的に細部を味わいつくし繰り返し反復しながら読み直すことで、大袈裟にいえば「生きる歓び」のようなものを感じとることができる。
 保坂和志が『反哲学史』の文庫解説で「この本を読んだら…まずはもう一度この本を読み直してみるのが一番いいんじゃないかと思う」と書いている。哲学するとは哲学を語り直すことと同義で、それも「何度でも」語り直すことに意味があるのであって、それはAはAであるという認識や知識を情報として受けとることとはまるで違う(「A」は概念であっても個物や「私」であってもいい)。哲学するとはAが(現に「いま・ここ」で)Aであること、あるいはAがAになる生成の現場を身をもって何度でも生きることそのものなのだ。保坂さんが言いたかったのはたぶんそういうことではないかと思うが、違うかもしれない。

●木田元を讃えることがここでの本題ではないので、話題を先に進めよう。(以下に出てくるハイデガー云々はほとんど木田元さんの書物、たとえば『反哲学史』や『ハイデガー拾い読み』などからの受け売りです。)
 ハイデガーによると、西洋の形而上学的思考はプラトン/アリストテレスによる存在の二区別に端を発する。すなわち「形相(エイドス)」あるいは「それが何デアルかという存在」と「質料(ヒュレー)」あるいは「それガアル(かないか)という存在」の区別で、この二つの存在概念はそれぞれ中世スコラ哲学における「本質存在(エッセンティア)」と「事実存在(エクシステンティア)」に引き継がれ、その嫡出子たる自然科学(物質的自然観)を生み、形而上学の終極において「力への意志」と「永劫回帰」へと変奏されていった。

●それでは分岐する以前の存在概念はどのようなものだったか。ソクラテス以前の思想家たちが一様にそれをめぐる著書を残したと伝えられる「生きた自然」すなわち「フュシス」である。ハイデガーは『形而上学入門』で、フュシスについて「それは、おのずから発現するもの(たとえばバラの開花)、自己を開示しつつ展開すること、このように展開することにおいて現象へと踏み入ること、そしてこの現象の中で自己をひき止めて、そこで永くとどまること」とか「存在そのものであり、これのおかげで初めて存在者は観察可能になり、いつまでも観察可能なのである」と書いている。「フュシスは、もともと天をも地をも、石をも植物をも、動物をも人間をも、人間と神々との作品である人間の歴史をも意味し、最後に、そして第一に、運命のもとにある神々自身をも意味する」。

●ところで「エクシステンティア」の概念は「アクトゥアリタス」というラテン語と等価であって、この言葉には「働く」という意味の動詞の過去分詞形「アクトゥス」が含まれている。このことからハイデガーは、神の創造作用であれ(スコラ哲学の場合)主観の表象作用であれ(カントの場合)およそ西洋形而上学の根底にプラトン/アリストテレス以来の「制作的存在論」がひそんでいると主張するのだが、それはここでの本題ではない。
 「アクトゥアリタス」はアリステレスの「エネルゲイア」(現実態)のラテン語訳である。そうすると「エネルゲイア」と対になる「デュナミス」(可能態)のラテン語訳「ヴィルトゥス」は「エッセンティア」という概念と等価なのだろうか。そしてまたここに出てきたアクチュアル/ヴァーチュアル(現実的/潜在的)の軸は、ベルクソン/ドゥルーズによってこれとの差異が強調されたリアル/ポッシブル(実在的/可能的)の軸とどのような関係を切り結ぶことになるのだろうか。

●木村敏は「リアリティとアクチュアリティ」で、離人症とは「行為的直観」や「環境のアフォーダンス」の障害であり、そこで失われるのは公共的・客観的・三人称的な実在に関する「リアリティ」ではなく、私的・主観的・一人称的な「アクチュアリティ」であると書いている。
《動詞の時制を借りていえば、リアリティが「過去形」あるいは「完了形」で表現されるのに対して、アクチュアリティは「現在形」──あるいはより適切には英語でいう「現在進行形」──でしか展開しない。リアリティが存在者の指標であるとするならば、アクチュアリティは生成そのものの特性であって、いかなる形でも存在の標識にはならない。ただ、人間の志向的意識は、あらゆるものを知のノエマ的対象に変え、(ニーチェの言葉を借りれば)「生成に存在の刻印を押そうとする〈力への意志〉」によって支配されている。こうしてアクチュアリティを知のノエマ的所与として捉えようとすれば、それはたちまちリアリティとしての存在者に姿を変えてしまう。》

●ベルクソン/ドゥルーズによると、リアリティ(実在性)はポッシビリティ(可能性)と対をなし、アクチュアリティ(現実性)は「アクチュアリティがアクチュアリティとして実現されていない状態」すなわちヴァーチュアリティ(潜在性)と対をなす。
 木村敏はこのことを囲碁のコンピュータ・ゲームと生身の棋士の場合との違いで説明している。前者においてある局面で打たれる石は多数の可能性のなかから確率論的な計算によって特定されるものであるのに対して、後者では打たれる石はそれぞれに潜在的な働きあるいは勢いをもっている。しかしゲームが終了すると、あるいはその途中であっても第三者が客観的に盤面を眺めたとき、碁盤の上には静止した多数の石の「リアル」な配列しか見えてこない。「そこではかつてのヴァーチュアリティが、こうも打てたであろう、という可能性に姿を変えている」。
 それはあたかも紙の上に書かれた文字の「アフォーダンス」すなわち「意味のアクチュアリティ」が消え失せたとき、そこに奇怪でグロテスクな描線の集合が「裸の実在」として出現しているのに等しい。あるいは離人症患者において「つねに自らを現実化しつつある自己の潜在性」が失われたとき、そこに対象化された「自己」の形骸が「リアル」に存在しているのに等しい。 
《潜在と現実の──ある意味で「虚実皮膜」の──境界におけるアクチュアルな活動が、身体と環境の境界でわれわれの生を維持している。このアクチュアリティこそ、ふつう「自己」の名で呼ばれているものの「実質」である。自己とは、それ自身がそれ自身との境界あるいは差異でありながら、環境あるいは世界との境界において生成し続けている「自己現実化」の動きに他ならない。》

●垂直方向にアクチュアル/ヴァーチュアルの軸を引く。それは下方(潜在性)から上方(現実性)への力の矢印となるだろう。パースにならって普遍(確定されないもの)から個別(確定されたもの)へと言ってもいいし、木村敏の表現を借りて「ディオニューソス的ゾーエー」から「アポロン的ビオス」へと言い換えてもいい。リアル/ポッシブルの軸はこの垂直軸に直角に交差する水平軸をなす。それは(離人症患者でないかぎり)アクチュアリティとリアリティが表裏一体のものとして現象する世界の界面である。
 この図式はフェリックス・ガタリが『分裂分析的地図作成法』で示した「四つのカテゴリーの交差行列」と相同である。この謎めいた地図(主体性が生産される場)がいったい何を意味しているのか私にはよく判らない。アリストテレスがプシューケーの能力のうち感覚と思考の間にあるものとした「ファンタシア」──イマジネーションやカントの「構想力」につながるもの──がこの図式のうちにどう位置づけられるのかも判らない。あるいはラカンの「前未来形」がこれとどう関係してくるのか、そもそもそこに言語がかかわってくるのかこないのか、それらもまたよく判らない。

●先に引用したハイデガーの文章を読んで、私はロレンスが『黙示録論』で古代ギリシャ人の「神」をめぐって書いた文章を想起した。
《古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて神であった。…ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ。…あるいは青色の閃光が突如として意識をとらえることがあるかも知れない、そうしたらそれが神となるのだ。…水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象するのである。だが、これは決して単なる質ではない、儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい。》
 私は「フュシス」とは「クオリア」のことではないかと考え始めている。少なくとも「本質存在」の概念に根ざす力(生命そのもの)と「事実存在」の概念に由来する物質(生命物質=身体)とが接触する界面(脳内現象)において、つまり先の二軸の交差によって切り拓かれる世界の断面において、分岐以前の「生きた自然」は「クオリア」として現われ出るのではないか。

●木村敏は「自分であるとはどのようなことか」(『関係としての自己』)で、クオリアは「個人と世界の界面現象」として「そのつど新たに成立するアクチュアリティ」であると書いている。この自己のクオリアは単層構造のものではない。「私と世界の界面現象」である自己のクオリアは「そのつどの対人的な場」の関数だからである。議論はこうして集団的な「場のクオリア」に及び、「有機体と環境世界の界面現象としての主体」(ヴァイツゼカー)という概念を経て人間以外の生物にまで及ぶ。(はては「生命それ自身」(ゾーエー)と「個別的生命」(ビオス)の区別を経て「父母未生已然の自己」にまで及んでいく。)
《渡り鳥にとっては群れがまとまって越冬地に向けて移動する飛翔それ自身が、合奏の演奏者にとっては全員で演奏している音楽それ自身が、何にもましてアクチュアルな「事実」ないし「そうであること」である。/世界が「そうであること」のすべてであるのなら、自分が(上に述べた自己の重層構造をひっくるめて)自分自身であるということも、自己にとっての世界だということになり、世界との界面現象としての自己(あるいは主体)は、自己自身との界面現象として捉えられることになる。》

●木村敏はある対談で、クオリアは「質感」というより「感触」と訳す方がいいと語っている。またクオンタ(量子)がクオンタムの複数形であるように、クオリアも複数形で、量子に対する「質子」なのではないかと語っている。
 斎藤慶典は「「アクチュアリティ」の/と場所」(『講座生命5』)で木村のこの提案を「魅力的」としながらも、「現象がそれに対して現象するところのもの」(私=行為主体)の問題と「現象するものを現象させる作用」(ノエシス)の問題とはまったく別の問いであり、後者においては現象することの内部に位置する「感じ」を云々する余地はないと書いている。
《…世界のすべてを現象へともたらすこのはたらきが受容されることがもしあるとすれば、それは、それ自体としてはまったく何の実質ももたない(この意味で「空」であると言ってもよい)このはたらきが、世界の「無」(何も現象しないこと)との鋭い対比の中で浮かび上がったその瞬間を措いてほかにはありえないように思われる。そのときすべてが現象するのである(「無」との対比で言えば、そのときすべてが「存在」するのである)。すなわちそれは、現象すること(存在すること)の受容であり、現象すること(存在すること)を被ること(passion あるいは leiden、だがそれは「感情」ではないのだ)であり、かくして現象すること(存在すること)の贈与なのである。》
 斎藤慶典の議論はここから確率論的な表現をもつ量子力学の「実在」へと進んでいく。さらに『レヴィナス 無起源からの思考』では、世界の開闢(「一度も現在であったことのない過去」、「いま・ここ」の根底においていつもすでに生じているような「太古の」時)において響いた「光あれ」に言及している。いずれも途方もなく魅力的な議論なのだが、そのこともまたここでの本題ではない

●世界には第二の界面がある。現象することと何も現象しないこと、すなわち「空」(ヴァーチュアリティ)と「無」との界面。それはもはや「ある」とは言えない。それは「界面」ではなく「世界の底」、あるいは生命と物質と言語が統一される場と言うべきかもしれない。
■プロフィール■
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。 共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html

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■連載「伊丹堂のコトワリ」第9回■


「宗教」って何なんだ〜!?


ひるます



獏迦瀬:前回は「死」について語りました。「死」を考えるというと、すぐ連想するのは「宗教」ってことで、今回は「宗教」をテーマにお送りいたします。
伊丹堂:お送りかい。ま、死者をお送りするのが宗教だといえば言えるがね。
獏迦瀬:あの世に送る…と、つまり葬式をやるのが宗教ですか。
伊丹堂:いや、定義として葬式をやるのが宗教ではなくて、結果として、宗教は葬式をやる。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:つまり、なぜに宗教が葬式をやるのかってのが、カンジンなこっちゃな。
獏迦瀬:なぜに…ですか、まあ宗教といってもイロイロでしょうからね…。
伊丹堂:そ、仏教とキリスト教の場合だけ考えてみたって、その意味合いは異なるわな。
獏迦瀬:ですよね。成仏させるというのと、神の国に復活させるというのではかなり違いますよね…ただ人の死後の問題を扱ってるということでは共通しますけどね…。
伊丹堂:ま、ここで宗教学をやろうというわけでもないし、誰もそんなもの期待しとらんじゃろうから、具体的な宗教についてはいちいち言わんがな。いずれにしても、いうことは宗教とは「人の死後の問題」に関わっている、ということがまず言えるわな。
獏迦瀬:人間の死後について考える…あなたの知らない世界ってことですかね(笑)。
伊丹堂:うむ、しかしようするに死後について考えるってのは、どういうことか、といえば一言で言って「超越」ってこっちゃろ。
獏迦瀬:超越…超常現象ってことですか??
伊丹堂:アホか。超越ってのは、ここで何度も話題にしていることじゃ。つまり人はさしあたってたいていは目先のことを配慮して生きているが、それとは別に全体的な観点からモノゴトをとらえようとする、これが超越ってこっちゃ。
獏迦瀬:ああ、それは「政治」の話の時によく言ってましたね。目先の配慮の連鎖で出来ているのが世の中で、それに対して超越的な観点から介入するのが政治というものの構造だと。
伊丹堂:そういう構造をつくっているのは、ようするに人は目先のコトだけでは生きていられず、ついついそうしなくていいにもかかわらず「全体」を思考してしまう存在だから、というしかないわけじゃ。
獏迦瀬:人の人生の「全体」を考えれば、当然、死や死後のこと、というのを含めて考えることになる…ということですか。
伊丹堂:個々の人生というのもそうじゃが、むしろ人間というものが「どこから来てどこへ行くのか」を問題にするのが宗教というもんである。
獏迦瀬:壮大なんですね…僕なんか、こ〜いう哲学的な対話に参加しながら、ほとんどそんなコト考えたことはないですけどね…。
伊丹堂:いかんな、ってのは冗談で、それが普通じゃろう。よ〜するに、人が超越的な観点から思考してしまう、という構造にある、ということと、ある個人がそういう「テツガク的なこと」に熱中して考えてしまうということとはまったく別次元のことじゃからな。個人のそういう思考(趣向)は、ようするに関心事の問題であり、実存の問題なんじゃからな。
獏迦瀬:実存でなく、構造の問題?
伊丹堂:ある意味で「宗教をやってる人」にとっては、宗教ほど実存的なものはないわけじゃが、それはおいといて、ここでは「構造としての宗教」を見ておきたいってことヨ。つまり宗教というモノにある種の普遍性があるのは、人が熱烈にそのようなコトを考えるというわけではなくて、人間が普通に生きていく上で、どうしてもそういう観点をチラッとでも必要としてしまう、というところにある。
獏迦瀬:ようするに自分で探求しないけど、気になるというか?
伊丹堂:気になる(笑)また一言でいえば、人間ってのは、納得したがる動物でもある。
獏迦瀬:ナットクしないと落ち着かない…ってのはありますよね。
伊丹堂:じゃから、自分らの世界全体がどうなっていて、世の中の全体がどう動いているのかってことに対する知識、つまり「世界ってこんなもん」という暗黙の了解っつ〜かな、そういうもんは絶対に必要なわけよ。別に宗教を持っていない我々にとってもそういうもんがあるわけじゃろ。宗教ではないが、なんとなく物理科学的に説明された世界観っつ〜もんが。そういう科学の登場以前には宗教的な世界観が支配していたわけよ。
獏迦瀬:そこでは宗教が必要とされたと…。
伊丹堂:というか、古代国家というのは、ほとんど「宗教国家」じゃろ。ようするに宗教と政治が一体となって、人々がある種のナットクの中で安定的にくらす「世の中」というのがでてきていったというわけじゃな。
獏迦瀬:なるほど、まつりごと、と言いますからね。
伊丹堂:そう、まつり、つまり宗教的儀式と、政治、つまり世の中に対する超越的介入が、おなじ「まつり」という言葉で表現されるってのは、象徴的だわな。ま、いかに古代国家が宗教的な「意味」でもって社会・国家を創り出していったかということを研究したのがウェーバーの「宗教社会学」で、これは必読書じゃな。
獏迦瀬:いまの政治では「政教分離」ということが言われますけどね。
伊丹堂:しかしそれはまた誤解されているわな。政教分離というのは、またまた一言で言えば、宗教的な指導者が直接、政治的指導者とはならないってことじゃろ。しかし、依然として世界のほとんどの国家は明確にであれ、暗黙のうちにであれ「宗教国家」ではあるわけよ。
獏迦瀬:キリスト教国家、イスラム国家ってことですか。テロの原因でもありますよね。
伊丹堂:日本だって、天皇教国家なわけよ。
獏迦瀬:うわわ。
伊丹堂:事実じゃからしょうがないわな(笑)。日本なんてはるか以前に政教分離がおこなわれ、摂関政治、幕藩政治、ときて明治政府、戦後民主政府、と続くわけじゃが、いずれにしても「国家であること」の基盤はあいかわらず「天皇の国」であるというところにあるわけじゃろ。
獏迦瀬:西欧のキリスト教国家というのはどうなんです。
伊丹堂:国家の存在理由というとこじゃろ。国家は、けっきょくのところ、国民がキリスト教徒としてまっとうに生涯を生きて、いずれ神の国に転生する、ってことを保障するというか、保護するために存在するっていうのが、暗黙の了解じゃ。このことを考えずに、単なる「民主国家」などと考えると、現代の世界情勢というのは、まったく理解できなくなるわけよ。
獏迦瀬:ナルホド…。
伊丹堂:ようするに人はナットクしたがっている、と言ったが、そういう意味では、宗教−国家−個人という三位一体っつ〜かな、それは個人の深いところで、ナットクが形成されていて、それがほとんど人格の基盤をなしている、といってもいい。靖国に行きたがる首相や、なにがなんでもイスラム国家をこの世から消滅させたい集団がいて、その人たちにどんなに「理屈」を言ってもその考えを変えることなどできないのは、そのためよ。
獏迦瀬:話せば分かる、わけではない、と…これは「バカの壁」のキャッチでしたね(古)。
伊丹堂:みんながカント哲学を学べば理解し合える、なんて寝ぼけたことを言ってもしょうがないわけ。
獏迦瀬:どうすればいいんですか、けっきょく、「正しい」宗教、というか、絶対の宗教というのはないわけですからね…。
伊丹堂:それは前に竹田問題(カルチャーレビュー25号)で話したが…、ここで言っとくべきなのは、「宗教だから」いろんな考えや実存のあり方があって、正しいものがないというのではなくて、一般に、人の考えや行動は「コトの創造」だから、絶対のものはありえない、ということじゃな。ましてや宗教や実存がかかわる「超越」の問題については、まさにカントではないが、どうとでも言える以上、共通の理解にいたるはずがない。だからカントを学べ、というのではなく、そういうもんだということを「割り切って」他人とつきあっていくしかないってことじゃ。
獏迦瀬:了解です。ところで、そういう暗黙のというか、背景の生き方としての宗教ということとは別に、「宗教やってる人」の問題というのがありますよね。
伊丹堂:オウム問題っつ〜か?
獏迦瀬:まあ基本的には新興宗教ですよね。勧誘してきたりする人たち。
伊丹堂:ふうん、まあ人に迷惑をかけなきゃ何やってもかまわんというのがワシの立場じゃがな。
獏迦瀬:非常に多いように思いますけどね。
伊丹堂:そりゃ考えてみれば分かるが、国家があからさまに「宗教」的生き方を語らなくなった以上、どっかでそれを補填しようという動きが出てくる。
獏迦瀬:オウムは「ナントカ省」なんか作って「国家」の戯画だとよく言われてました。
伊丹堂:というか、このところ話題にしている「実存」の問題よな。人が生きる上で、熱烈にではなくても「超越」という観点を必要としている以上、身近にそういうことを語る者がいれば、それに飛びつくということは当然ありうるからの。
獏迦瀬:そりゃそうでしょうね。とくに哲学とか思想ということにまったく接してなかった人が、ちょっと「超越的」なことを語る「ナントカセミナー」で「気づき」を得た、なんてのが多いですよね。「哲学者」の伊丹堂さんとしてはどうなんすか、そういうの。
伊丹堂:なんか誘導くさいの(笑)。もちろん、ワシは宗教的な考え方を批判する者なんじゃが、しかし、そういう生き方を一概に否定できないのは、とくに地方都市などに暮らしていて、さしたる楽しみもなく、社交もせまく、しかし過酷な経済状況を生きなければならない人などに「いきがい」を与えているというところがあるからじゃ。
獏迦瀬:そういう人に宗教をやめろと言っても意味ないですよね。
伊丹堂:というか、逆に「単純に宗教を否定する」人たちに危惧を感じるわけよ。つまり、自分自身で「超越」という問題を考えたことがあるのか、と。
獏迦瀬:何も考えていないだけじゃないか、と(笑)。
伊丹堂:実際そうじゃろう。そういうことをふまえて言えば、ワシはもちろんアラユル宗教を否定する者ではある。
獏迦瀬:そのココロは。
伊丹堂:ようするに思考停止じゃろ。せっかく「超越」のことを「気づいた」んなら、そこである一つの「神話」にナットクするのではなくて、もっととことん考えよってこと。
獏迦瀬:宗教の場合は、けっきょく「修行」というところに行きますよね。
伊丹堂:トコトン修行。体でわかるまで、というかね。
獏迦瀬:オウムの分析でよく「ワーク」ということが言われますが、ようするに教団の全体の中で、それぞれが分担の仕事をして、それぞれが「生きる意味」を実感できる仕組みになっていたという。あれは教団の構造としてうまく出来ていたと言われてましたが、まさに「宗教国家」のミニチュアであるわけですよね。
伊丹堂:ま、ただそれは宗教国家の「世俗面」なんじゃが、修行ということは、またそれとは異なるそれこそ「超越的」な体験なわけじゃろう。
獏迦瀬:神秘体験ってことですか。
伊丹堂:と、いうことじゃが、だからといって超常現象というわけではない。一般的にいえば、前回話題にした「実存モード」のことじゃな。
獏迦瀬:ああ、魔の刻というか、魔境ですね。
伊丹堂:ようするに宗教的な創造者というのは、そういう「魔境」に自分をおいて、その中で直観的に自分の宗教的世界を創造する。本人にしてみれば、神のお告げだったりするんじゃろうが、いずれにしても、そういう非日常的な「変成意識」状態というか、そういうモードの中ではじめて「超越」の問題が体でワカルと、いうところがある。
獏迦瀬:なるほど。
伊丹堂:宗教の信者の修行というのは、たいてい、教祖と同様な意識状態に自らをおいて、そこで体験的に「会得する」というところにあるわけじゃな。
獏迦瀬:う〜ん、宗教に限らず、実存体験というものはそういう意味合いがあるというのが、前回の話でしたね。
伊丹堂:しかしそれは受動的な気分である、ということも言った。しかも宗教的な修行であれば、結論は最初から決まってるわけで、ようするに予定調和じゃよな。
獏迦瀬:そう言っちゃうと身も蓋もない気もしますが…たしかにそれはそうでしょうね。
伊丹堂:ようするにそれが思考停止ってことよ。そういうものにしか出会えなかったということが不幸なんじゃが、それはしょうがないわな。
獏迦瀬:あらゆる宗教は思考停止であると。
伊丹堂:そうは言わん。たとえば釈迦の教えというのは、ようするに「魔境体験」の中でさまざまなナットクが起きたが、そういうことの一切を幻想と見切ったということじゃろう。以前、釈迦が実存主義者だったという話を紹介したが、それ以前に彼の教えというのは、まっとうな「哲学」なわけ。
獏迦瀬:哲学せよ、ということですかね。
伊丹堂:とは言わん。哲学だけで人は生きていくわけにはいかんからな(笑)。「オムレット」で言ってるように、人にはそれぞれの関心事というものが必要で、インターネットを使ったりしてどんどん世の中が面白くなるのは結構なことよ。それとちょっとばかり良質の哲学があればよい。
獏迦瀬:はあ…なんかそれってまた自分の宣伝なんじゃないでしょうね(笑)。
伊丹堂:というか、いまの問題は、「哲学の宗教化」ということがアチコチで起きてるのよ。なんとなくエッセイめかして、ある種の結論を「神話化」するとか、むしろ積極的に「神秘」を語るとかな。ま、誰とは言わんが、イロイロよ。
獏迦瀬:精進しましょう。。。

■プロフィール■
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」

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■黒猫房主の周辺「責任論」の位相■
★暑中お見舞い申し上げます。
★新刊の仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)を読みました。評判らしくすぐに重版している。その第一章で日本とドイツの「戦争責任」を比較しながら、日本の戦後の戦争責任論が混乱しているのは、ヤスパースが分析した四分類(刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪)のような筋道をつけた責任論(『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー)が出なかったからだと書いているが、果たしてそうだろうか。
★柄谷行人もこの責任の分類を不可欠だと認める。そうでないと、あらゆることが「責任」と同一視されてしまい、けっきょく責任が問われなくなるからだが、責任とはその本質においてすべて「形而上的」だとも言います。それは因果関係を問おうとする態度からは責任は生じてこないからで、責任を引き受ける態度は、他の原因によらない自由意志(自律性・自発性)に基づく「倫理的態度」であるからだとされます。
★しかし形而上的ということに特別高邁な意味はないとも柄谷は言い、ヤスパースがドイツ人に向かって、あえて形而上的罪を自ら感じ引き受けるべきだと説いたことは、実はドイツ人を高邁な民族として救済しようとした欺瞞であると批判しています(『倫理21』太田出版)。
★このヤスパースの主張は、戦争責任を「血=生理的遺産」という共同性に求めた家永三郎(『戦争責任』岩波現代文庫)とも心情的には通底しているように思われます。その家永を批判した高橋哲哉が、今度は加藤典洋を批判する論争の過程で、「汚辱の記憶を保持し恥じ入り続ける」という言い方をしたのは、高橋が批判しているはずのナショナルな「共同的な語り口」に陥っていると、加藤によって反批判されます(高橋哲哉『戦後責任論』講談社学術文庫、加藤典洋『敗戦後論』講談社)。この「共同的な語り口」の点で保守派・革新派の構造的同一性の指摘は、例外的に革新系の池田浩士によっても賛同されます(「終わらぬ夜としての戦後――加藤典洋『敗戦後論』の問題、『レヴィジオン[再審]第1輯』、社会評論社)。
★ここには、直接には加害責任(罪)のない戦後世代が、なぜ「戦争責任/戦後責任」を負うことになるのかという課題の困難さが表出しています。宮台真司はブログで、西ドイツの大統領だったヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの「1945年5月8日〜あれから四十年」と題した記念講演(「戦争を知らぬ世代」も戦争責任を負うべし)に言及しながら、行為(別様の選択可能性)が「罪=過去言及」を生み、関係(選択不能な所与の事実性)が「責任=未来言及」を生む、という論点を展開しています。 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=277
★「選択不能な所与の事実性」とは、アーレントの言う「自発的行動によっても解消しえない」という「集合的責任論」に近いようですが、この選択不能な関係とは「先験的選択」(大澤真幸)であり、宮台によれば「親-子」「国-国民」の関係だとされます。確かに、先験的に親を選んだりどこの国に生まれるかを選ぶことはできませんが、事後的にその関係を解消することは原理的には可能です。仲正昌樹は先の新書で、戦後世代に戦争責任があるのは親の遺産を相続する際に、負の遺産も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈だと書いていますが、不適切な比喩だと思います。親の相続放棄は簡単にできることです。
★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。先の高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方の真意も、またその課題の表明でしょう。
★斎藤純一は次のように言います。「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去ることはできない。 ★しかし集合的責任と言えども限定的責任であることから、斎藤純一は国民国家の配慮から排除された人たちへの、さらなる責任として「普遍的責任」(アーレント)を問うています(「政治責任の二つの位相」、『戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)。(黒猫房主)



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