『カルチャー・レヴュー』51号



■連載「映画館の日々」第8回■


イーストウッドはフェミニストです(か)
『ミリオンダラー・ベイビー』の場合



鈴木 薫


 たとえば先日、上野の東京都美術館で「アール・デコ展」の展示として見たマン・レイの写真《黒と白》(1925年)――目を閉じてテーブルの上に頬を乗せた白人女性の美しい顏と、手で支えられたアフリカの黒い仮面の不意の出会いは、美が中立的ではないことをあざやかに告げていた。 八十年後の私たちの目に、マン・レイの浸っていたイデオロギーは黒と白の対比のようにはっきりと見てとれる。はたして写真の傍には、モデルになった「キキの顏と歴史から切り離されたアフリカのオブジェ」は、いずれも「アール・デコの特質に通ずる整ったフォルムと滑らかな質感を持って」おり、「神秘の幻想と支配の欲望をかきたてる美的な対象として、白人男性の眼差にさしむけられる」というゆきとどいた解説が添えられていた。アフリカの仮面がそれを産み出した歴史から切り離されたように、照明を当てられ白さを強調された女の顏は身体の他の部分から切り離されて、装飾的な見せ物と化しているのだ。

 女の身体の部分化/対象化/見せ物化と、それが/にさしむけられる男の眼差しという構図は、マン・レイのもう一枚の展示作品《電力》(原題は《Electricite》))にもいちじるしい。その名のとおり電力会社に依頼された広告写真(1931年)は、顏も手足もない女のトルソに放電が重ね焼きされたもので、こちらには、「ここでは女性の身体に対する眼差が、電気の光や輝きといったものに対する魅惑と重ね合わされている」との解説があった。電気を放っているのは女の裸体かそれとも男の眼差しのほうなのか、あるいは男の眼差しこそが女の身体をそのように輝かせるのか、この文からはいささかはっきりしないけれど、要するに〈女の裸にビビビビビ!〉とでもいうべきコンセプトの具現化なわけで……これを今、東京電力が広告に使うことは――使ったら面白いけど!――考えられない。

 私がここから連想したのは、東京電力ではなく東京ガスの、昔――80年代くらい?――のTVコマーシャルで、そこでは、家庭用ガス器具の導入によって女の生活が便利になったことが、画面に登場する二人の女たちの一人によって、「お義兄[にい]さん、優しいのねえ」という台詞で表現されていた。そこは夫の温情によって最新ガス器具が備えつけられた家だったのだ。最後に、男のオフの声できわめつけのコピーが流れる。

  東京ガスはフェミニストです

「フェミニスト」という語がマジョリティにとって女に優しい男、女に甘い男を意味したのはさほど昔のことではない。(昨日生まれたガキばかりか、いい年をした者までが、記憶喪失に陥って、何やら「フェミニスト」たちが唾棄すべき(ないしは嗤うべき)危険思想をふりまいているようなアジテーションに加担する今日、こうした用例が「茶の間」に流れていた歴史を想起するのは意味のないことではあるまい。)画面にけっして現われることのない夫が、彼女たちの(家事)労働を「優しく」軽減させている。東京ガスはそう告げていた(思えば、『プロジェクトX』の、嫁ぎ先の家族全員の洗濯物を手洗いする妻のため、電気洗濯機を開発する「フェミニスト」の夫たちという発想は、ここから一ミリも出ていないのだった)。不在の「主人」の、柔らかな、だが絶対的な支配。そこには、マン・レイの上記の写真同様、目に見えないが遍在する「男の眼差し」が前提とされている。

 以上を枕に、クリント・イーストウッドの新作『ミリオンダラー・ベイビー』を、拙稿「ホモソ−シャリティの廃墟へ――クリント・イーストウッド論のために」(「カルチャー・レヴュー」39号と41号に掲載 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html)に、以下、簡単に接続させてみたい(というのも、今回の作品は正しくその延長上にあるからだ)。

 前作『ミスティック・リバー』では監督に徹しスクリーンに姿を見せることのなかったイーストウッドは、この映画で再び私たちの前に戻ってきた。しかし、拙稿でも指摘したように、イーストウッドはここまでにいくつかの問題を抱えている。

(1)ホモソ−シャリティの破綻――今度の映画の相棒はまず間違いなく女だろうとは、容易に想像のついたことだ。〈年少者に対する教育〉という点で言えば、教えを受ける者が女性であるため、ホモソーシャルなパイデラスティア的師弟関係は回避される。それにしてもボクサーを女にして彼自身はそのトレーナーとはまたベタな! しかしそう知ったあとでは、口実としての紋切型を彼がどう料理するか楽しみだった(蛇足ながら、期待は裏切られなかった)。

(2)しかしこの設定の場合当然予想される教え子との恋愛という展開は、イーストウッドの年齢の問題と衝突する。事実、ついにヒロインの恋人役をやるには年を取り過ぎてしまったイーストウッドは、ここでは父と娘という設定を利用する。言うまでもなく、自らの娘たちをも画面に出しながらこれまでも扱ってきたテーマではあるが、これについては後述したい。

(3)〈女たちに支えられ〉るイーストウッド、ひいてはイーストウッドの〈女性化〉という点については、ここでは一つの極限に達していると考えられる(ただし、主要女性登場人物がヒラリー・スワンクひとりである『ミリオンダラー』において「女たち」というのは正しくあるまい)。女(たち)に支えられていることが〈「イーストウッド」の機能不全と解体の徴候でもある〉とは前稿で指摘したことだが、『ミリオンダラー』においても、かかる機能不全(もはやここには、それを倒すことで正義を貫徹できるような単純な相手は存在しない)の進行は覆うべくもない。

 イーストウッドは最初女のボクサーは取らないといってヒラリー・スワンクを拒むが、それは、女にはボクシングが生物学的に無理とか、向かないとかいった類の理由からではない。女のボクシングが社会的には見せ物(フリーク・ショウと彼は言う)にしかなりえないことが、ボクサーになっても男なみの選手にはなりえず、所詮女というジェンダーにしかとどまりえないことがわかっているからだ。女を取るところへ行ってくれと彼はスワンクに言うが、それは、そうした見せ物的興業をよしとするトレーナーだ。

 物語はモーガン・フリーマンの回想として語られる。遍在する「男の眼差し」は、ここでは「白人男性」ならざる(男性ではあるが白人ではない)彼のものなのだ。全知の語り手として彼は語るが、しかし、正義の味方であった頃のイーストウッドのように、出来事に影響を及ぼしうるわけではない。いや、一つ、イーストウッドの使い古しのボール・バッグ――吊しておいて殴るとビュンビュン跳ね返ってくる巾着型で小型のサンドバッグ――をスワンクに与えるという、重要な行為が彼にゆだねられていた。

 ヒラリー・スワンクはジェンダーを逸脱する女である。一度は断わられながらも、イーストウッドのボール・バッグでトレーニングを続ける彼女は、女のボクサーになろうとしているのではない。彼女は、クリント・イーストウッドになろうとしているのだ(このことはなかなか気づかれまい。最後に至って、そのことが成就してさえも、ほとんど気づかれないだろう。なぜなら彼女は、『ザ・シークレット・サービス』や『ブラッドワーク』でのイーストウッドのそれぞれの分身同様、似ても似つかぬ分身であるのだから)。

 彼女がボクサーになろうとする動機としては、貧困から這い上がろうとするハングリー精神が挙げられている。十三のときからウェイトレスをやってきたのよ。あたかもこの台詞ですべてが説明されてしまうかのように。しかし彼女は、十七八の小娘というわけではない。三十を過ぎていながら、恋愛についてはひとことも語られない。彼女の過去の男は話にも出ない。主人公を男から女に変えておきながらのこの事態には、娯楽映画としてはどこか尋常でないところがある。

 父娘関係というのはわかりやすい。わかりやすいから前面に出ている(そして観客をそこで判断停止させる)。イーストウッドは娘に拒否された父である。詳しい事情は語られずじまいだが、娘への手紙が一度も開封されることなく送り返されるのをトランクにコレクションしている父親だ。一方で、スワンクの優しかった父親の思い出が語られ、駐車中の車の中からたまたま見えた、別の車の中の幼い娘と犬の姿に彼女はほほえむ。彼女が遠い日の自らと飼犬の姿を重ね合わせる女の子の、台詞がひとつきりの愛らしい姿は、それをイーストウッドの一番年下の娘であると知らなくてさえ、観客の心をなごませよう。

 ジェシカ・ベンジャミンの『愛の拘束』によれば、フロイトによって唱えられた悪名高いペニス羨望とは、父に同一化し、父のようになりたいと願う娘に対する、父からの阻止された同一性のしるしである。彼女は〈父〉に同一化しようとし、そして〈男の子〉たりえぬ自分に絶望して〈女〉になる(男だったら後継ぎにしたのに――女に生まれた不運を父親からそう嘆かれ、才能を惜しまれた娘は大勢いるに違いない)。だが、スワンクは拒否されない。彼女は〈父〉に“my fighter”と呼ばれるようになる。(イーストウッドが、一度は手放した先のトレーナーから彼女を取り戻すとき、そうスワンクを呼ぶ。)

 イーストウッドが男のボクサーを育てたのなら、それは彼の後継ぎであることが誰の目にも明らかであったろう(そうした映画も彼は作ってきた)。『ミリオンダラー・ベイビー』では、このことは人知れず、だが、大胆に示される。後半でスワンクを見舞う運命は、栄光のあとの悲劇がこれだけ宣伝される中では、予想しないでいる方が難しい。私が目を見張ったのは、監督・イーストウッドが彼女の脚を切断したことである。床擦れで四肢の切断にまで至るなどというのはおよそありそうにないことだが、そういう荒唐無稽な設定までして、イーストウッドはかつての、ドン・シーゲルと組んだ主演作での自らの運命と、この映画でのスワンクの外形的な運命を一致させた。それによって女性からの同一化を全面的に受け入れたのだ。

 この悲劇的属性によって、この女が彼自身(を継ぐ者)であることは、今やはっきりと観客に示される。だが、横たわる彼女の衰弱ぶりはすでにその死を確信させるものだ。本来なら父が先立つはずであり、死にゆく父を娘が看取るはずであったものを――。人工呼吸器をたんに外すという事故に紛う行為ではない、はっきりととどめを刺すやり方でイーストウッドは彼女を殺す。だが、この犯罪は罰せられない。彼に対して逮捕状が出されたとも、捜査が継続されているとも、彼が逃亡犯として追われているとも、語られることはない。彼は消えた、見つからない、とフリーマンは言う。彼が裁きを受けないのは、彼が正義を執行する者だからだろうか? スワンクにとって生殺与奪の権利を持つ神に等しいからだろうか?

 確かに彼はいくつもの映画の中で、女にとって神に等しい存在であり、多くの映画の中で絶対的な正義の執行者でもあった。しかし、彼が現実的な罪をなんら追求されないのは、ここでは彼は自分自身を殺したのであり、その瞬間からすでに死んでいるからだ。スワンクの悲劇的な死に観客の目を惹きつけておき、その間に彼自身はひっそりと退場したのだ。アカデミー賞の栄誉さえ、自らを継ぐ者に譲って。

 病院の廊下をまっすぐ進み、突き当たりのドアから去ったイーストウッドの後ろ姿が、今になって、『ぺイル・ライダー』の「牧師」が寒々とした雪の山へあたかも死へ向かうように向かった馬上の後ろ姿に重なる。病院のドアから彼が出てゆくとき、誰もそれが彼を見る最後だとは思わなかったはずだ。彼の罪が追求されることがないとは思わなかったはずだ。イーストウッドはこのようにして、一見それとわからぬやり方で、すでに私たちから消え去る準備を、ひそかに――いや、大っぴらに――ととのえているのだろうか?

 彼は消えたとフリーマンは言う。しかし私たちは信じない。

「どうして、バーユー将軍が、雲だけ食つた筈はない。おれはバーユー将軍の、からだをよくみて知つてゐる。肺と胃の腑は同じでない。きつとどこかの林の中に、お骨があるにちがひない。」なるほどさうかもしれないと思つた人もたくさんあつた。(宮澤賢治『北守将軍と三人兄弟の医者』)

■プロフィール■
(すずき・かおる)この原稿が終ったら、6月13日を最後にストップしているブログを再開します。http://kaoruSZ.exblog.jp/

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■連載「文学のはざま2」第1回■


村上龍はまだわからない
最新作『半島を出よ』を傑作にする現実的条件


村田 豪




 私はこの原稿を広島風お好み焼きの店「ヤバタ」で書き始めている。

 広島には出張できているわけだが、昼は岡山・倉敷・東広島などの仕事のための訪問先を緊密なスケジュールで走り回って、広島に着いた夜にはヘトヘトに消耗しきっていた。だから、カリッと私の好みに焼き上げてくれる「ヤバタ」の広島焼きをあてにビールでも飲んで、一日の疲れをいやそうと思っていたのだ。

 「ヤバタ」は広島の繁華街、紙屋町の商店街から少し南に歩いたあたりにある。観光客向けに数十店舗が入っているお好み焼きビルもそこから近いが、結局「ヤバタ」よりおいしいところが見つからなかったので、出張の折りにはたいていこの店に来るようになった。

 店内は、カウンターとテーブル二つに、申し訳程度の座敷があるだけで、せいぜい5、6坪しかないような小さな店だが、いつもやたらに繁盛しているのは、おそらく地元の人々にも愛されている証拠だろう。今日もサラリーマンやOLですでに満席状態だった。常連らしき年輩のおっちゃんが狭いカウンターを詰めてくれて、ようやく腰をおろすことができた。

 「肉玉そば入り」が焼き上がるまで、冷や奴などでちびちびビールを飲んでいると、すぐ背中のテーブル席にいるサラリーマン4人組の会話に引っかかりだした。というか、不意に後頭部と背中がざわめき、不愉快を呼び覚まされるのではないか、という嫌な予感がしたのだ。

 「あいつらが口出しすることじゃないけんね」

 断っておくが、方言であることは、もちろんここでは一切関係がない。何かこういう口ぶりに、ただ不穏な空気をかぎ取ってしまうのである。聞くまいと聞くまいと思いはするものの、こんな狭い店で、しかも自分の真後ろで話されてしまうので逃れようがない。そして不安はどうやら的中したようだ。彼らは昨日(6月20日)、小泉純一郎日本国首相が訪韓し、ノムヒョン韓国大統領と会談した内容について話題にしていたのだった。

 「お国のために死んだ人を敬うのは当たり前じゃろ」ある一人がそう口にした。会談では、ノムヒョンを代表とする韓国側が、小泉による靖国神社参拝を厳しく批判し、日本側に強く参拝中止を要求したのだったが、それにたいしこの広島のサラリーマンは反感を抱いているらしい。話を受けた者たちも、相応にうなずくような雰囲気だった。そればかりか、話題はすぐにもほしいままに流れだし、しばらく前の中国での「反日デモ」や北朝鮮の「拉致問題」にそれぞれが簡単に言及しては、「あいつらはみんな野蛮じゃけぇ」などと言い放ち、ついには「やっぱりわしら日本人でよかったのぅ」というところで、わははと大いに盛り上がるのだった。

 何ということだろう!寡黙な「ヤバタ」のおやじが額に汗して、目の前で私の広島焼きを、今まさに焼き上げんとしているときに、こんな浅ましくも恥知らずな会話を聞かされることになろうとは!焦げたソースのにおいが小さい煙とともに立ち上がり、私のお好み焼きがおやじの大きなこてで軽快に切られていく、このうるわしいはずの瞬間が、薄ら寒いことばによって突如として凍りつき、どんよりと気の重い時間にかえられてしまうとは!

 できれば、こんなアクシデントはなかったことにして、店にはいるところからやり直したかった。そんな人たちは目にもつかず、一日の仕事を振り返り、あれは成功した、あれは失敗したなどとお為ごかしの反省などしながら、焼きたての広島焼きを冷たいビールとともにひたすら堪能したかった。別の土地に来たときの少々浮かれた気分の中で、キャベツのサクサク感とそばのもちもち感と卵のふわっと感と表面の焼き上がったカリッと感を、一気にほおばり尽くすはずだったのに……。

 しかし、皿に盛られた目当てのお好み焼きが、実際に出てきたとき、私はそういう未練を断ち切るしかないと思っていた。私は私の広島焼きを見つめながら、もうそれは理想的なうまさを失ってしまっていることを認めざるを得なくなっていた。この不愉快さの原因である連中について、さらに不愉快を承知で何ごとかを考えるしかなくなっているからだ(ここで私は、この村上龍論を書くための原稿ノートを取り出したのである)。

 一ついいたいのは、韓国側の抗議にたいし小泉を筆頭とする日本国家は、曖昧な物言いで相手と自分とをともにごまかし、問題に向き合うことができないでいたことだ。もし日本国に何か利害の意識があり、問題に対処しようというつもりがあるなら、両国間の障害になっている自分の言動こそを分析しなければならなかっただろう。にもかかわらず、靖国参拝の意図を「二度と戦争を繰り返してはならないという不戦の誓い」だとするような、従来通りの欺瞞まるだしの説明しか用意せずにすませたのだ。

 私は日本国政府の誰が究極的にアホなのかを、残念ながら示しえない。こうした重要な政治的決定を、現在の権力中枢の要人たちがどのような力関係とどのようなプロセスによって下しているのか詳しくわからないからである。とりあえずここでは小泉であるとしておこう。では小泉のどこがアホなのか。

 韓国側は、靖国神社は「日本の戦争遂行の精神的象徴」であると指摘して、それを国家の長が参拝するなどあってはならない、と怒っているのである。事実、靖国神社に「祀られ」ているのは、他国を侵略し、その土地や財産を収奪し、その人民を殺戮する過程で死んだ軍人軍属であり、靖国はその行為を讃える施設だったのである。だから、たとえ日本人民をだますために「不戦の誓い」というレトリックを思いつき、国内でそう言いつのることができたとしても、韓国にそれが通用しないのは、はじめからわかっていたことではないか。ところが、小泉以下日本国為政者は、そんな見かけとは正反対のウソを平然と相手にぶつけたのだ。それがより問題を悪化させこそすれ事態を打開することなどありえない、ということが、どうもわかっていなかったかのようなのだ。

 不真面目あるいはシニカルな人たちは、二つの点で私のとらえ方に反論するかもしれない。まず、「韓国がどう受け止めようが、これは日本の国内問題だ」というものである。こういう内政干渉論的主張は、最近の右派メディアでは顕著なものであろう。だから後ろのサラリーマンも「あいつらが口出しすることじゃないけんね」と放言できたようだ。しかしこの手の言い方が、社会では口にすると恥ずかしい赤ちゃん言葉みたいなものだと、人は早々に気づくべきである。

 かりに韓国が「口出ししている」として、しかし相手はその理由を明示し、正当なかたちで抗議しているのである。普通の大人なら、問題となっていることを理解・分析したうえで、どうするか判断するのが当たり前で、その上で反論したり、譲歩したりするしかない。それなのに何かを考えた様子もなく、「口出ちはやめてほちいでちゅ」と意味不明にわめいているようでは、相手もただあぜんとするしかないだろう。しかも小泉は、関係改善のための交渉と称して自分のほうが出向いてきたのだから、こんな態度では何をしに来たのかわからず、相手から「気が狂っている」と受け取られても仕方がない。

 もう少しこの事態について知識がある人は、会談では「新しい追悼施設建設を検討する」ことにしたのだから、政治的な交渉としてはまともだったのではないか、という反論を思いつくかも知れない。しかしこの点においても、小泉たちのデタラメさは覆いがたく、交渉を台無しにしたようだ。つまり靖国神社と新しい追悼施設はあらゆる意味で両立しえないことは、世界中の誰もが知っていて、小泉自身にだって明らかなことであり、だからノムヒョンが会見の場であるにもかかわらず異例なかたちで「約束」という言葉を迫ったのは、要するに、「靖国」か「新しい追悼施設」か二者択一しかないとお説教されたのである。

 小泉たちはおそらくこれにはビックリしただろう。というのは、靖国参拝をやめないためにこそ、ごまかしとして追悼施設建設を言ってみただけなのに、その見え透いた魂胆を堂々と世界のメディアの前でさらされ、釘を刺されたからだ。そして、小泉本人はというと、日本では「何が悪いの」と悪辣な開き直りの上で、やりたい放題・言いたい放題を続けていながら、韓国での共同会見では、信念であるはずの「靖国」の「ヤ」の字も口にできなかったのである。国家首脳としても、考えうる限りの無能ぶりであろう。

 さて、少し断っておきたいのは、私がこんなふうに小泉他日本国為政者の、アホさ加減・目を覆いたくなる稚拙さ・驚くべき無能ぶりをやり玉にあげるからといって、ただ単に彼らをボロクソにやっつけて、溜飲を下げようとしているのではない、ということである。さっき不愉快に襲われた私の気分が、これで晴れるわけではない。小泉たちのウソ・欺瞞・勘違いを指摘しても、それが改善される見込みは今のところかなり少ない点では、引き続き暗い気持ちにならざるをえないからだ。実際、これを書きながら食べている広島焼きも、本来の素晴らしいうまさを取り戻してはいない。

 また「靖国問題」についても、私は参拝どころかその存在を肯定するあらゆる意見に反対だが、その理由と根拠を示すには、複雑で仔細な議論と検討を必要とするだろうから、勉強も足りないことだし、ここではこれ以上書けない。

 とりあえずここで言いたいのは、アホはやめよう、ということだ。もちろんアホのふりもやっぱりいけない。それでもやはりアホであるしかないなら、せめて自分たちがいかにアホであるかに気づいていく努力が必要だと、それだけが言いたいのである。そうでないうちは、村上龍の最新作『半島を出よ』は、日本の社会にたいし積極的な価値を持ち続け、いわば傑作と見なすほかないだろう(どうやらようやく本題にたどり着いたが、「ヤバタ」で書くのは時間切れだ)。

 さて、あらためて村上龍の小説について説明しよう。どうして日本国家や日本国民がアホなままである限りは、『半島を出よ』は傑作だ、といえるのか。作品評価としては、こういうのはかなりアクロバティックな言い方だと思うが、「ヤバタ」でサラリーマンの発言を耳にして、日韓首脳会談での小泉たちの破廉恥きわまる振る舞いを考察しているうちに、そのことがひらめいたのだ。

 まず小説を読んでいない人のために、『半島を出よ』の物語を大ざっぱにまとめてみよう。舞台は、円の大暴落で経済が破綻し、大不況によって失業者・ホームレスが街にあふれ、アメリカから離反されることで国際的にも孤立し始めたとされる2011年の日本である。この日本の苦境につけこんで、北朝鮮が特殊部隊を使って巧妙な軍事侵攻を企てる、というのが話の発端だ。

 北朝鮮の「反乱軍」と称する武装した精鋭のコマンドたちが海を渡って潜入し、9人でまず福岡ドームを占拠。混乱に乗じて間髪を入れず500名ほどの特殊部隊が来襲して、一気に福岡中心部を占領してしまうのだ。そしてついには日本から福岡独立を宣言させるのだが、その間日本政府は、福岡市民多数がいわば人質にされていることもあって、自衛隊に軍事攻撃をさせるわけにもいかず、また政治交渉もできないという、ジレンマに陥る。むしろ首都東京にテロがおよぶことを警戒して、事態の打開という難問から逃れるかのように、自ら福岡・九州へのルートを封鎖してしまうのだ。

 このように物語が展開するのなかで、日本国家・政府の要人たちは、作者によってことごとく批判的に描かれることになる。目の前の危機にただ場当たり的な対応をするばかりで、優先事項を見極められず、その判断の甘さ、決断力のなさが繰り返し露呈してしまうからだ。

 例えば、ある閣僚が、対テロ作戦用に訓練された特殊部隊SATの派遣を、ほとんど思いつきで指令するのだが、結果として状況を無視したかたちで投入され、北朝鮮兵士と銃撃戦となり、福岡市民何十人を巻き添えにしてしまう事件が起こる。そんな致命的な作戦失敗を犯しながら、政府要人は誰一人責任を取ろうしない。それが一般市民の不信をつのらせ、事態はより深刻化するのだった。

 そもそも、数年来の経済破綻と国際的地位の大失墜も、このような政府首脳の判断力のなさ、リスク管理の意識の低さ、政治的手腕のなさが招いたものと説明されている。そのような国家運営者をいただいた国が、目的のためなら人命がいくら失われようが、手段方法をえらばない北朝鮮特殊部隊反乱軍「高麗遠征軍」に勝てるはずがないではないか、作品は、陰に陽にそういうメッセージを読者に迫ることになっている。

 さてここでもう一度お断りしておくが、私は決してこのような作品内の政府批判や日本人批判にリアリティを感じて、溜飲をおろしているわけではない。むしろ多数の評者が指摘するように、村上の作品に盛り込まれた政治・経済ネタは、ジャーナリズム的な紋切り型に近く、必ずしも説得力を醸しだすような深みがあるとは言えないところがある。

 斎藤美奈子はつとに、村上のそのいわば小説の名を借りた「ニュース解説」を、批評家などが真に受けてありがたがる、その単純さを指摘している(『文壇アイドル論』)。また福田和也はからは、旧作から繰り返されている「経済的に破綻した日本を舞台に日本人のダメさを描くという構図」には、「ストレートに日本人にたいする軽蔑が露呈」していて、そこに認められる「自分は賢い」という優越感は、実は「救い難い劣等感の裏返し」ではないか、との批判もあるようだ(『週刊新潮』6月9日号)。

 しかし先ほども見たように、現実の政治言説がとち狂ったのかと思うほどのバカさ加減である状況で、「作品が描く現実はずいぶん紋切り型だ」とは、何を根拠に言いうるのだろうか。「作品は紋切り型だ」と批判するとき、現実はもっと複雑・巧緻・精妙だということを前提にしているわけだが、しかしそんなものがこの現実のどこにあるというのだろうか。

 また福田がいうような「ストレートに日本人にたいする軽蔑」がかりに村上龍にあるとして、しかしそんな指摘に意味があるだろうか。この作品を好んで読む読者に「救いがたい劣等感の裏返し」があるとして、しかしそのことに関係なく、ただ小泉および日本人民のアホは、現実的にアホのままではないか。

 要するに村上龍は、作家としての能力の最大限を投入して日本のダメさを描いた。そしてそれがよく描けているのか、下手くそなのかにはまったく関係なく、現実の日本はおぞましいほどアホである。そうすると『半島を出よ』にたいして、作品の出来映えにもとづいてそのリアリティを評価・批判しようとする作品論は、どこか空回りしてしまうことに気づかずにはいられないだろう。作品内の現実をほめようと批判しようと、それが上手く描けようが下手であろうが、変わらず現実は悲惨なのだから。

 ある意味では、現実にたいして作品が屹立する仕方が独特であるからこそ、評者・読者は、延々と終わることなく村上龍の作品に言及し、論じ続けられるのかもしれない。村上は、自分が描く現実と作品の反映関係にはたいして興味がないかのように、その作品外にこそ現実があることを指し示そうとするが、当の作品には、他の誰の作品よりもとびっきり「生々しく」日本の現実が描かれているように見えるのだ。以上が、村上龍作『半島を出よ』を傑作に位置づけている現実的条件である。

 一応これが結論だ。でも、これでは作品の中身を評価していることになっていないと、単純に不満を言われるかもしれない。私も、現実にたいして結果空回りになろうが、作品に独自に備わるリアリティを問う真摯な批評があっていいと思うし、それを軽視するつもりではない。ただ今回は、そんな村上作品を受容するときに生じる、ある「両極端」を回避したかったのだ。

 このことを説明するのに少々思い出話をしよう。実は、もともと私は村上龍にたいして強い偏見を抱いていた。デビュー作の『限りなく透明に近いブルー』と『コインロッカー・ベイビーズ』を読んだのは高校生の頃、80年代半ばだが、前者は「感性的」な表現にたいする作者の短絡性が目につき、後者は工夫のないお決まりの言葉で文をつないで、話を進めただけのような小説だと思ったら、解説で三浦雅士が「まるで映画の名場面」などと評価しているのにずっこけたことを憶えている。要するに私は村上龍を「下手くそ」だと感じていたのだ。

 もう一つの別の偏見もあった。ちょうど同じ高校生の頃、ある種の秘め事としてドキドキしながら本屋でエッチな雑誌を買ったら、そこで村上龍がエッセイを連載していたのだ。『ザ・ベストMAGAZINE』というヌードグラビアがふんだんに盛り込りこまれた男性誌だったので、一流の作家がこんなところで商売しているのかと驚いた(ちなみに今も連載しているんではないだろうか)。のちに『すべての男は消耗品である』というタイトルでまとめられる最初期のものが載っていたのだが、「女は戦利品だ」とか「ブスでもやらせてくれるならいい」とか、とてもひどいことが書かれていると感じたのだった。こんな性差別主義者だったとは知らなかった、と一気に幻滅したように思う(そしてなんだかエッチな気分まで萎えてしまった)。

 評価をやや訂正するきっかけになったのは、さらに10年ぐらいして『トパーズ』や『エクスタシー』そしてなんといっても『KYOKO』を読んでからだ。いつの間にか以前よりも上手くなったのでは、とそう素直に思えるのだった。『KYOKO』では不覚にも主人公に感情移入してしまい泣いてしまうほどであった(残念ながら高岡早紀主演の映画は見ていない)。『五分後の世界』も充実した読了感をえることができた。

 しかし、この私の両極端な反応は、実は私が変化しただけなのか、村上龍が変わったのかわかりにくいところがある。とりあえず、以前のように毛嫌いすることはなくなったのだが、しかし必ずしもつねに村上作品を素晴らしいと思うわけではない。これを多くの人は、作品の善し悪しや好みの問題として片づけているように思う。そういうしかないのかもしれないが、私には若干考察を必要とするように思えるのだ。

 例えば、多くの人は『KYOKO』で村上龍が上手くなったなど絶対に認めないだろう。『ブルー』が下手だったというのも、容認できないかもしれない。『昭和歌謡大全』は好きだが、『ラブ&ポップ』は最低、という人もいるだろうが、しかしそれは作品の優劣によるのだろうか。また『イン・ザ・ミソスープ』や『共生虫』も書かれた当時の事件や社会問題とつなげて読まれたわけだが、話題になって売れたとして、はたして小説作品としての出来はどういえるのか。また『希望の国のエクソダス』が味わい深いなどというと、ただの政治経済の「お勉強小説」だという批判があるかもしれない。

 何が言いたいのかというと、村上龍の作品は受容のされ方が、社会問題や特異な事件を通じた時代的状況論的に読まれるか、ある種のセンス・文体の強度・美意識・文学趣味性で読まれるかが、完全に両極端に分かれてしまうように、まずは見える。しかしながら、よく調べてみると、その区分がどこにあるのかは、必ずしも明瞭でないということなのだ。

 例えば『トパーズ』も『KYOKO』も『ラブ&ポップ』も女性を主人公にしている。おそらく普通は『トパーズ』が一番文学的・美的と見なされるだろう。しかし作者にとっては『トパーズ』も、社会的マイナーであったSM風俗嬢に焦点化することで、当時の現代的問題性として捉えようとしていたことは明らかだ。『ラブ&ポップ』は、最初から「援助交際」という社会現象の文脈で読まれただろうが、しかし女子高生の言葉づかい、ブランドの羅列など、文体論的な先取性・優位性をかなり多くの評者が論じていたのではなかったか。そして『KYOKO』のエイズ問題にたいするアプローチはPC的で文学としては真っ当すぎる、などといわれたが、私は最高だと思った。

 今回の『半島を出よ』も同じだろう。国内の不景気・アメリカを中心とした経済問題・東アジアの政治関係・北朝鮮の体制と軍事問題など、現在人の耳目を集めるネタにはことかかない。作者の勉強ぶりに脱帽して、ここに現在のリアリティを読み込む肯定的な評価は数多い。しかし一方で同時に多くの評者が、これがいかに文学的であるかをしきりに説明しようとしている。いちいち明示しないが、例えば松浦寿輝は、『半島を出よ』が過去の村上作品の中で最も「文体的に濃密」であると称賛している(『文学界』7月号)。

 一方、「国家」や「日本」を大文字で語るあまり、それが紋切り型で何の新しい視点も与えない、単なるルポルタージュかニュース解説か、という批判はすでに紹介した。文学的な評価にしても、北朝鮮兵士や少年たちの人物像がグループごとにみんな一様で、人物がリアルに描きわけられていないとか、エンターテイメントとして読むにはいいが、それ以上ではないとか、否定的な意見も目立つようだ。

 しかしこの「両極端」な読まれ方と、それぞれに否定・肯定の受容を同時に引き起こすところこそが、村上作品の秘密だろう。それは、私の考えでは、現実に強く依拠しながら描いたのに、作品はついには現実からずれる(作品ではなく現実が問題になる)という、さきに説明した村上作品独特の構造にかかわるものだろう、と思う。もっと単純にいうなら、村上龍は、乗り越えるべき現実があるから作品を書いているのであって、そんな現実がなくなるなら「文学」などどうでもいいということだろう。いや、しかしこの指摘は、まだせいぜい直感にとどまる。

 私は村上龍のいい読者ではない。昔から好きであったわけではなかったし、読んでいない作品も、まだかなりある。その独特な問題に直接アプローチするには、もう少し時間がかかるだろう。

■プロフィール■
(むらた・つよし)1970年生まれ。「腹ぺこ塾」塾生。

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■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★発行日(毎月1日)の21時、ギリギリで鈴木さんの原稿が入稿、早速原稿をチェック。これで何とか発行日の1日中に本誌が送信できるのでホットする。これまで本誌が一度も発行日を遅延することなく発行できているのは、このような寄稿者の協力があってのことなのです。多忙な寄稿者の皆さんに、改めてお礼申し上げます。
★黒猫は『ミリオンダラー・ベイビー』はまだ観ていないのですが、宮台真司氏のブログで、イーストウッド監督『許されざる男』(92)を題材にしたネオコンと暴力を巡る論考(
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=275)を面白く読み、その縁で先日そのビデオを借りて観たところでした。
★村田氏はノリのいい文体で新連載を開始しました。村上龍への着眼点が面白いと思います。
★時間もないので、この辺りで。続きはWebに書くかもしれませんが……。



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