『カルチャー・レヴュー』50号



■連載「伊丹堂のコトワリ」第8回■


「死」って何なんだ〜!?


ひるます



獏迦瀬:死ってなんなんでしょう。

伊丹堂:また藪から棒じゃな。

獏迦瀬:いろいろと事件や事故があると、やはり考えてしまいますね。

伊丹堂:君がそんなことを考えても死者も浮かばれないだろうにね。

獏迦瀬:はあ…そうすけどね。死については以前、「実存とは何か」のときにちょっと話に出ました(カルチャーレビュー46号 )。ようするに人間は死ぬモンだってことでした。

伊丹堂:死ぬ、にもかかわらず生きていくと、いうこっちゃな。

獏迦瀬:まあ動物も死ぬにもかかわらず生きているわけですが、ただ動物は死ぬということを自覚してないでしょうね。もちろん防衛本能がありますから、死の恐怖ということはあるんでしょうけど、普段、自分が死にゆく存在であるなどということは考えていない、だろうと思われるわけです(笑)。

伊丹堂:人間の場合はその自覚がある……といっても、自覚しうるという可能性とか能力ってもんがあるということであって、さしあたってたいていの場合、人はそのことを忘却しているわけじゃな。それがハイデガーのいう「ひと」というあり方なわけで、そういうレベルでは人も動物も同じってことにはなるわな。

獏迦瀬:そうっすよね。さしあたってたいていは、それを自覚しない。それは日々、忙しいとかヒマとかには関係なく、そういうことを意識しない「日常的モード」っていうんですか、そんな感じで暮らしているってことなんでしょうけど。ようするに実存の話の時に伊丹堂さんが言っていた「共有された時間の中に死はない」ということと同じだと思うんですが、日常的なあり方がスッコーンと壊れて「個人的な時間」で自分と向き合うとき、人は死を自覚するものだという気がします。

伊丹堂:まあ、実存の話の時もしつこく言ったが、そういう自覚があ「れば」、実存的な生き方に至る、というわけではないってことも肝心じゃがな。ただ、その自覚ってのが、「他者」の自覚にもつながってるってことは言える。死の自覚が「共有された時間」からの離脱であれば、当然、それは「わかりあえている(と思いこんでいるにしても)関係」から、「わかりえない(相手が誰かわからない)他者との関係」に入る、ということになるわけじゃからな。

獏迦瀬:あくまで可能性の条件として、ということでしたが…。いずれにしても「日常的モード」に対して「死のモード」というか、ハイデガー風にいうと「本来的」なモードってのがあるわけですね。ハイデガーのいう「本来性」ってのは、伊丹堂さんの言う「まっとうさ」ってことなんですかね(笑)。

伊丹堂:いや、それはちょっと違うが…、いずれにしてもそういうモードはある意味「気分」なわけじゃろ。それでワシはそういうモードに入「れば」実存的な生き方だというわけでは「ない」ということを言っとるわけよ。

獏迦瀬:受動的っつ〜か、いわゆる「魔の刻」ってやつですか。魔境とか。

伊丹堂:「共有された時間」の方からみれば、たしかに「魔」ということになるわな。

獏迦瀬:魔が差す、というか。でもその「魔」も、個人的な実存の可能性をひらく場としては、大切なものである、という2面があるんでしょうね。ところで、いずれにしてもこういったコトは「死」についての自覚や気分の問題で、死そのものが何かという問題はまた別のような気がしますが。

伊丹堂:死そのもの、ねぇ。

獏迦瀬:たとえば脳死臓器移植の問題がこのところ再び議論されています。法改正の動きが再び出てきたってことですね。

伊丹堂:脳死臓器移植についてはだいぶ以前に「カルチャーレビュー」別冊2号の特集にひるますとしても書いているが、今回の議論では以前の町野案のごとき暴力的な話ではなく、死生観の多様性を前提にする、という合意があるような感じではあるの。ただ、親族への優先的な移植を規定するなど、そもそもの臓器移植の「精神」とは異なるものが入ってきている。これについては、改めて議論しなくてはならないじゃろうな。

獏迦瀬:結局、脳死は「死」なのか、というのはどうなるんでしょう……。

伊丹堂:というか、死というのは外側から見る限り、プロセスなのであって、そのプロセスの中のどこで死なのか、ということは科学的に議論しても無意味ということが、ほぼ共通の認識になってきた、ということはええことなんじゃないかの。

獏迦瀬:なるほどね、内側からみた死、つまり自分の死というのは、ハイデガーに言われるまでもなく、体験不能であり、知ることのできないもの、ということになりますね。

伊丹堂:う〜ん、死がわからないというより、我々はそもそも「生」ということがわかっていない(笑)。

獏迦瀬:生命論ですね、なんだかんだ言っても、物理・科学的に生命という現象は説明できない、よってウラハラに死ということも語り得ない、ということですか。

伊丹堂:いや、生命という現象を前提としてしまえば、その終わりということで「死」は単純に説明がつく。「生命」の発生のみをいわば「括弧に入れて」不問にし、その現象を前提とする、というのが我々のいわば「生命の現象学」じゃからな。

獏迦瀬:生命の現象学ね…。

伊丹堂:それはともかく、生命の死ということを語りうる、といっても、それはあくまで外部からの観察によるわけじゃな。それが語り得なくなるのは、ようするにそこに「個体」という問題がでてくるからじゃ。

獏迦瀬:個体…ですか。

伊丹堂:個体としての生命、というのが問題よ。細菌や微生物、植物などのような「個体化」しない生命のあり方も可能だったにもかかわらず、なぜに我々は「個体化」するような生命の形をとることになったのか。あえてSF的にいえば、おそらく個体でなく「共体」とでもいうべき生命の進化のあり方が可能だったかもしれないにもかかわらず、我々は個体という進化をしている。ま、そうなったからそうなったわけで、しょうがないのじゃが。

獏迦瀬:共体ですか。共体ということは、ようするに「死」がない……?

伊丹堂:死がないというか、定義上あたりまえじゃが、個体としての死がない。生命である以上、不死ではないわけじゃから、細胞としては死ぬわけじゃな。

獏迦瀬:細胞の死というと、以前、話題になりましたね、アポトーシス……。

伊丹堂:アポトーシスは、単なる細胞死というより、細胞の自死じゃな。細胞が老化して死ぬというのではなく、計画的に死滅することによって、生物の形態がつくられる、というような積極的な意味合いのある、多細胞生物の構造にかかわる概念じゃな。

獏迦瀬:計画的に死滅して全体に貢献する、ということはその全体としての「個体」を前提にしているわけですかね。

伊丹堂:それは微妙じゃな。前提はあくまで「多細胞生物」ってことじゃな。たとえば植物などは「個体」といいうるか、というとこがあるわな。

獏迦瀬:たしかに…。海草の群なんか見てるとまさに「共体」ですよね。

伊丹堂:以前から紹介しているが、アポトーシスを提唱している田沼靖一氏が言っている画期的に面白い話が、生物が「性」を獲得したときに、はじめて生物は「個体」になった、ということじゃ。

獏迦瀬:性と個体はウラハラ……。

伊丹堂:というか個体である、ということは個体として「死ぬ」ということじゃから、性と生はウラハラだってことになる。

獏迦瀬:ああ、そんな話がありましたね。臨場哲学通信No.78の「恋と宿命」という話題で、珠緒さんたちが話してます。

伊丹堂:恋とエロスの話ね……それはともかく、性の獲得と個体の確立によって、はじめて「個体としての生命」同士のコミュニケーションというのも始まったといえるわけじゃな。結果として地球上の生命のほとんどは、個体としては死に「種」という形で世代交代しつつ連続する、というシステムというか構造になっているわけよ。

獏迦瀬:それは変えようのない「構造」だと……。

伊丹堂:まさに構造としてはそうでしかない、わけじゃな。ただ、そういう構造の上で、我々は「個体」というあり方が可能になっている、それをどう捉えるか、じゃな。

獏迦瀬:それは、まさに実存の問題ってことですかね。

伊丹堂:ちゅ〜こっちゃが、そこには非常に哲学的というか、宗教的な問題がある。

獏迦瀬:ん、宗教テキっ?

伊丹堂:そんなビビルほどのことでもないが、……ようするに「私」とは何かってことじゃね。

獏迦瀬:ああ、……独我論っていうか、例のヴィトゲンシュタイン点とかの話ですか。(オムレット第3章蛇足参照)

伊丹堂:まあそんなとこじゃ。誰でも考えるのは、たとえば我々が「共体」というあり方をしていたとしたら、「私」という意識はどうなっていたか?ってことじゃね。

獏迦瀬:そりゃ、私でなくて「我々」になってたろう、と……。

伊丹堂:しかし「我々」という言い方はなんというか、個体差みたいなものを前提にしている感じがするだろう。

獏迦瀬:ですよね。

伊丹堂:と、言っても、それが「生命体」として自覚している、と前提すれば、それは世界というか、外界というか、対象としての外側の世界に対しては「自分」という自覚があるのではないか、と考えられるわな。

獏迦瀬:ああ、オムレット第3章で珠緒さんが言ってた「極性」というもんですかね、極性としてのヴィトゲンシュタイン点……。

伊丹堂:極性としての「われ」という自覚はあるが、個体として独立しているわけではないから、漠然とした「自分−たち」という意識が背景にあって、そこで共体としての全体の中で、ある部分がある行為をするときに「その行為についての自覚」みたいなものだけが生じるのではないか、ということが予測できるわけじゃ。

獏迦瀬:行為についての自覚だけ……そういえば酔っぱらってほとんど記憶がない時に、「なんかをしているという自覚」はあるけど、それをコントロールする「自分」の意識というのはない、ということはあるような気がしますね。

伊丹堂:それよ(笑)。

獏迦瀬:そうなんすかね。

伊丹堂:っていうか、これはただの空想で、どうでもいい話じゃ(笑)。

獏迦瀬:なんすか、それ。

伊丹堂:しかしこういう空想を引き合いに出してみれば、「私そのもの」がなにか特別なモノとして存在するというような独我論的な考えの奇妙さがよく分かる。

獏迦瀬:はあ…、それはつまり、個体というあり方がそもそもたまたまというか、偶然的だということでしょうか。その個体を前提として、「私そのもの」のような意識を想定することに無理があるというか。

伊丹堂:無理というより、それを言うなら、なにゆえ「極性としての意識」みたいなものが、この世界に生じたか?、つまり生命はいかにして誕生し得たのか?ということが問題だろう、というこっちゃな。

獏迦瀬:う〜ん、それはようするに生命とは? ということと同じですかね。

伊丹堂:それゆえ、ワシとしてはその「なにゆえ」は問題にしない。そのような極性としての意識が、なぜか有るのである、ということを前提とするわけじゃな、生命の現象学としては。

獏迦瀬:さいでっか。そうすると、どういうことになるんですか。

伊丹堂:個体であれ共体(というものがあるにせよ、ないにせよ)であれ、極性としての意識があるとすると、それはその生命体の上にしか生じない。オムレット的にいうと、その生命の「内側からわかる」ということであって、空中にぽっかりと自分の意識が生じる、なんてことはないわけじゃな。

獏迦瀬:そりゃ幽体離脱じゃないですか。

伊丹堂:と、いうようにその極性の意識そのものが存在しうる、とか、その意識の大本は宇宙の意識なのだ、とかその根源を問題にするお話はすべて「解釈」にすぎない、ということになるわな。

獏迦瀬:ああ、そういう話ですか。

伊丹堂:しかしそこに肝心な問題がある。我々のような「個体としての生命」の場合、その「われ」という意識は、自分自身の個体の上にしか生じない。さらにいうと、それは中空には生じない、というよりは、他の個体、人という同類の個体だけではなくて、犬猫、ミジンコといったものも含めた「他の個体」の上には決して起こらない。

獏迦瀬:それが起きたら憑依というか、転生ですが……。

伊丹堂:そういうことが起きないにもかかわらず、ワシらは「他の個体」において「そこ」に自分と同様な極性の意識が生じているだろうと思っている。

獏迦瀬:それを前提にしなきゃ、会話もできませんよね。まあ、犬猫はともかく、ミジンコにそういう極性を感じる人はまずいませんけど……。

伊丹堂:逆に哲学では「他我問題」といって、なぜに他人にも自分と同じような意識があると分かるのか? という議論がある。誰でも一度くらいは「他の人にも意識」ってあるのかと疑問に思うというか、空想してみたことくらいはあるんじゃなかろうか。というように、哲学的というより抽象化した議論においては、それもそうだと納得させるものがあるわけじゃな。

獏迦瀬:まあそうでしょうね。

伊丹堂:そういう議論や空想も、じつはウラハラにわしらがいかに普段、他人の意識が他人の「そこ」で生じている、ということを確信しているか、ということの表れではあるわけよ。これは単なる解釈ではなくて、わしらが生きていく上での基本的なリアリティといってもいい。

獏迦瀬:リアルの到来ってやつですね。

伊丹堂:以前、LA Vueに掲載された中塚則男氏の「魂脳論序説」(5号)への論評で語ったことがあるが(臨場哲学通信55号)、このように自分にとっては「ここ」で内側からわかる自覚が生じている、つまり「ここ」で世界が開かれていると同様に、他人にとっては「そこ」で世界が開かれているだろうという確信が、ようするに「魂」だ、ということじゃな。

獏迦瀬:ああ、魂を実体としてではなく、関係性として捉えるということでしたね。

伊丹堂:その人の魂が実在するかどうか、という問題ではなく、我々が動かしがたい感情として、「そこ」に他人の魂のリアルを感じてしまう、それが大事だったこと。これが大事だというのは、脳死の議論でもそうだが、たとえば痴呆や脳の病でまったくその人の「自我」が失われているように感じた場合でも、その人が粗末に扱われたり、みすみす殺されたりすることが許し難いと感じる。

獏迦瀬:そりゃそうです。

伊丹堂:それはなぜか、と問われれば、そこにその人の魂を感じるから、ということになるだろう。そこにイノチがある、ということでもいいんじゃが、まあ、人それぞれの言い方はあるとしても、そういうことになる。

獏迦瀬:脳死議論でひるますが言ってたのが脳死の人の「そこ」でなんらかの世界が開けている可能性を否定できない、といってたのが、それですね。意識がないのに世界が開けているというのは奇妙ですが、たとえ「無」のような時間だろうと、それは世界があるのであってないのではないといえる、というわけです。

伊丹堂:そう。ただそれを「実体」としてのそこでの「世界の開け」があるかどうかという話にしてしまうと、魂の実在という宗教的な議論になってしまう。そうではなくて、わしらが他人の「そこ」に「世界の開け」を確信してしまう、ということ、ようするに「関わりとしての魂」というとらえ捉え方が肝心なわけよ。

獏迦瀬:なるほどね、ただ確信というと、なにやらひとりよがりな思いこみみたいですけど。

伊丹堂:勝手な共感による思いこみってのは「ヒステリー」についての話で語った(42号)。たしかにそれは微妙なのじゃが、勝手な共感というのは基本的に「共有された時間」ってのを前提にしている。お互いが分かり合っている、という幻想のようなもんじゃな。しかし魂の確信というのは、それとはまったく別のレベルの心の動きであって、他者の側から、それがこちらの理解とは無関係に開かれているということなんじゃな。

獏迦瀬:ええ……、それは分かりますが、さしあたってたいていの日本人の場合、その共有された時間を生きているようですから、やはり他者の魂に対する態度もヒステリックなのかな、と。

伊丹堂:日本人に魂はない(笑)。ま、そういう意味では、「魂」という見方は、実はその他者の側からの観点を要請するわけで、共有された時間から離れて、まっとうに考えてみるには大事な見方だ、といえるじゃろうな。

獏迦瀬:なるほど精進ですね。

伊丹堂:いずれにしても、身近であれ見知らぬ人であれ、我々が他人の死というものを悼まざるをえないのは、この「魂という確信」があるからだ、といえる。人が死ぬということは世界がひとつ失われるということに等しい。

獏迦瀬:ああ。

伊丹堂:ワシもいずれは死ぬ。ところで自分の死というのを考えると、それがいたましいとは思えんが(笑)

獏迦瀬:そりゃ伊丹堂さんがニヒリスティックだからじゃないですか。

伊丹堂:そういうわけではないが、他人のではなくて、自分の魂が失われるのが損失だなどと、世界に向かって叫ぶのはおこがましいというもんじゃろ。

獏迦瀬:そりゃ恥ずかしいでしょ。

伊丹堂:ようするに自分の場合は、リアルの重心が「魂」というところではなく「いかに生きるか」というところにある。まあ存在するのが単なる前提じゃからして、当たり前のことじゃが。

獏迦瀬:実存ってことですね。やはり自分の死を考えることが実存的に生きることとかかわるってことなんですかね?

伊丹堂:いや、そうではなくて、ここから言えるのは、いつも言ってる、人は成長の過程で「無償で愛される経験が必要」だということにつながる。

獏迦瀬:と、いうと?

伊丹堂:ようするにワシらは平気で、他人の命が失われるのは世界が失われることに等しい、なんてことを口にするが、まったく愛されたことがない者は、自分自身で、自分の魂に対して「それが失われることは世界が失われることに等しい」と思いつづけねばいられない。

獏迦瀬:なるほど、それはキツいですね。

伊丹堂:基本的にそれは他人の魂への配慮の形なんであって、そのループから抜けられないというのは、非常に不幸なことであるわけよ。

獏迦瀬:はあ、むずかしいことですね。

伊丹堂:だからどうしよう、ということではないんじゃが、ようするにヒステリックにならず、過度にネガティブにならず、死のコトをまっとうに考えていかねばならん、っつ〜こっちゃ!

獏迦瀬:精進します……。

■プロフィール■
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」

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■連載「マルジナリア」第8回■


デタッチメントの哲学

中原紀生


●古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』が文庫化された。この本はかつて選書メチエ版で読み、とても興奮したことがある。永井均さんが解説を書いているので、同日付けで出た『他界からのまなざし』とあわせて速攻で買った。古東さんの本では『ハイデガー=存在神秘の哲学』も素晴らしかった。そのあまりの濃度に圧倒され序章だけ読んで中断している『〈在る〉ことの不思議』ともども、しばらく古東さんの骨太の叙述に浸ってみることにした。(「骨太の叙述」とは永井さんの言葉。「私の哲学上の仕事は、いわば古東哲学の内部にあって、その細部を穿り返しては埋めなおすような作業にすぎない」と永井さんは書いている。)

●古東さんは『現代思想としてのギリシア哲学』の第五章で、プラトンがいうプシューケー(たましい)とは「器官なき身体としての〈ミ〉」のことだと書いている。ここでいわれる〈ミ〉とは「物体としての身体(肉体)」に対する「機能しつつある生ける身体(身)」のことで、肉体が外部から観察することによって一個の物体のように表象できる身体の認識相であるのに対して、〈ミ〉は「そもそも、観察し物象化するその眼自身がソコを生き、ソコで可能になっている前提」である。
 そのような、〈今ここ〉に刻一刻と立ち起こるリアルな「生ける身体」の生起現場に立ち会うことはとんでもなくむつかしい。《ぼくたちの思考や感情は、すぐに外界へ旅立ってしまうからだ。〈今ここ〉ではない〈いつかどこか〉の対象像やカレンダーばかりに、意識は吸い寄せられてしまう構造になっているからだ。だから、文字どおりあまりに「身近」すぎる〈今ここ〉の生きた身体(ミ)は、クリプトグラム(墓碑銘・暗号記号)と化し、意識作用の欄外にすぐにその正体を消してしまう。生ける身体(ミ)とは、「空白の身体」。ぼくたちは、じつはふだんは「身元不明者」というわけだ。》

●ここに出てくる「意識作用の欄外」や「空白の身体」という言葉を目にして、私は、この「マルジナリア」の連載を通じて(ほんとうに)取り組みたかったことがなんだっかにようやく思いあたった。それは一言でいってしまえば「考えているのは私ではない」という思いの実質を記録することだ。
 古東さんは、世阿彌の「離見の見」や大杉栄の「自我の棄却」をフッサールの間主体性(モナド共同体)論や現象学的還元に結びつけるという離れ業をやってのけた『他界からのまなざし』の第四章で、人間の作為や知的構想をはるかに越えた場所、つまり「措定的な知性や意志にとって絶対的な外部にとどまる非知の位相」を「空白」と呼んでいる。そして、人為的な共同体や日常のコミュニケーションを可能にする超越論的制約として、そのような場所ですでにつねに成立している存在論的コミューン、つまり「人や物が存在するという事実とともに最初から開かれている「〈形而上学的〉原事実」としての共同体」のことを「空白の共同体」と呼ぶ。
 大雑把な言い方だが、私は古東さんのいう「空白の共同体」を意識作用の欄外に居住まいする「哲学者たちの共同体」のことだとみなしている。そこには物質としての私や人称・固有名をもった私はいない。だから考えているのは私ではないし、書いているのも私ではない。(私は「自動機械」のようなものとして、そこに在る。)私が引用するのは他者の言葉ではない。それはすでに私が考えたことであり、私が書くはずだった文章だ。(しかし、そこには何も実質的なことは書かれていない。)そこに記されているのはただ墓碑銘であり、暗号記号でしかない。(「クリプトグラム」とは哲学書の別称である。)

●古東さんは、プラトンの哲学書などこの地上に存在しない、プラトン哲学を理解したければ対話篇の行間に記された痕跡を糸口にして追体験するしかないと書いている。また、ハイデガーが死の数日前に残した「道。著作ではない」という「全集編集上の留意」という覚書をめぐって、「これら膨大な全集草稿は、ある場所へ読者をはこぶ道であって、その場所について直接記述するような著作(思想の所産)ではない」と書いている(『ハイデガー=存在神秘の哲学』)。
 そのような「形式的指標」の言説作法──古東氏いわく「形式的指標とは、実質ある叙述をさけることで、かえって「現実的なものとの前記号的[前言語的]な接触」を読者自身がひきおこすことができるよう、しくまれた語り方」──で書かれた複数の哲学書を同時進行的に読みかじり、前言語的(原比喩的?)な脳の働きでもって非同一のうちに同一を、非連続のうちに連続を見いだしたとき、意識作用の欄外、空白(沈黙)の領域で私は興奮する。(存在の感触とか実在感覚とか、そんな漠とした表現でしかいいあらわせないものが起動する。)そしてそのことを意識作用をもって記録する。(しかし、そこには実質的なものは何もない。)

●上野修さんの『スピノザの世界』を読んだ。スピノザの異例・異様な思考世界をとても手際よく簡潔かつ無味乾燥に(これは悪口ではない)解説している。「『エチカ』のこのあたり[第5部の最後、定理21から42]を読むといつも異様な緊張を感じるのだが、きっとそれは、証明している自分自身が証明されているという特異な必然性経験をしてしまうからだろう」とか「このあたり[同定理32の系]に来ると『エチカ』はいったい何ものが語っているのかわからなくなってくる」とか、スピノザ小旅行のガイドブックとしては最高のフレーズだと思う。
 本書のキモは次の文章のうちに凝縮している。《スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まなければならない。》──考えているのは自然(事物)であって、私(精神)ではない。

●『本』5月号に上野さんが「スピノザから見える不思議な光景」という短い文章を書いている。いわく、スピノザは「地球に落ちてきた男」を思わせる。スピノザは神を非擬人化すると同時に人間を非擬人化している。スピノザの哲学は(「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ。すなわち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無限な思考宇宙の一部分である。われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然に思考がないとするのは不自然である。われわれの中で事物自身が事物自身について肯定したり否定したりするようになったとき、われわれの精神は「自動機械」となって、自分のいる場所(自然)がずっと「神」であったとわかる。カメラが引いていくと、帰還した地球の故郷が実は惑星ソラリスの変様部分であるのが判明するあのタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」のラストシーンを思い出す。

●この文章を読んでいると、『現代思想としてのギリシア哲学』の序章「月から落ちてきた眼」を思い出す。古東さんはそこで「エイリアン」すなわち「クセノス」(異邦人・異星人・客人)としての哲学者像を描いていた。この哲学者の「外からの視線」が「他界からのまなざし」であり、そのようなまなざしをもって、つまりたましいの向け変え(ペリアゴーケー:実存変容)をもってこの世界のありさまを感じ考え生き直すことが古東さんのいう「臨生」である。
 ちなみに、装置、機械、技法といった語彙が頻出する『他界からのまなざし』は、スピノザの「自動機械」を思わせる。上野さんによると『エチカ』は「説明の体系」であり「一個の証明機械」である。この「『エチカ』で稼働する証明機械、これは『知性改善論』の言っていたあの「霊的自動機械」を思わせる」。

●「地球に落ちてきた男」とか「月から落ちてきた眼」とかいわれると、大森哲学のことを想起する。正確には「大森哲学の感触」を想起する。(そもそも「大森哲学」なるものはない。そこにあるのは、ただ神秘体験なき神秘主義の感触で、それは永井均さんの書き物に通じている。)
 最近「ことだま論」(『物と心』)と『知の構築とその呪縛』を読んだ。大森荘蔵の文章に接するたび、その理路に圧倒され、かつその叙述に「無理」を感じる。言葉や概念が少しずつ「人間的な」意味を剥奪され、言葉以前、概念以前、古代のギリシャ人が「ピュシス」と呼んだ「とほうもない分からなさ」(古東哲明)の方へとなだれこんでいく。『知の構築とその呪縛』では「古代中世の略画的世界観がもっていた、活物自然と人間との一体感」とか、「自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである」と書かれているが、そこには「一体感」を感じる私はいない。もちろん私などいなくなってもいいのだが、人は論理でもってそのような境地には導かれない。

●たとえば『時間と自我』に、過去とは夢物語であり「限りなく無意味に近い制作物ではあるまいか、こうした恐怖を感じさせる奈落に面しては立ちすくむ以外にはない」と書いてある。『時間と存在』では、「これまで度々経験したことだが、自分で出した奇怪な考え[ここでは「自然科学的世界の空性」という結論]に馴れるのにかなりの年月が必要だろう」と書いてある。
 ちなみに池田晶子さんの「埴谷雄高と大森荘蔵」(『魂を考える』)には次のように書いてあった。《物質は「実在」しない、過去もまた「実在」しない、それらは全て、言語によって制作された「存在の意味」なのだ、と落としどころに見事に落とす大森の論理の運びは痛快である。分析哲学者ならずとも、快哉を叫んだ人は多いと思う。けれども、快哉を叫んでいるこの自分は、すると、いったい「どこ」に立っているのか。足下に開いたでっかい暗い黒い穴ぼこ、これはいったいなんなんだ、いったいどうしろと言うのだ。(略)研究会後の飲み会の席で、こっそり尋ねたことがある。先生、率直なところ、どのようにお感じなのですか、と。彼は、一瞬の沈黙のあと、いつものきっぱりとした口調で、こう言った。「ゾッとします」》

●今回の話題はほぼ尽きた。以下は、補遺。──エチエンヌ・ジルソンの『神と哲学』を読んだ。たかだか四頁ほどのスピノザをめぐる叙述が際立っていた。「スピノザの宗教は、哲学だけによって人間の救済に到るにはどうすればよいかという問に対する、形而上学的に百パーセント純粋な解答である」。「スピノザの形而上学的実験は、少なくとも次のような断案の決定的証明となったことは確かである。すなわちそれは、およそいかなる宗教的な神であれ、その真の名が「在る者」でない神は単なる神話にすぎないということである」。
 ちなみに「キリスト教の神を見失った世界が、この神を見いだす以前の世界[タレスやプラトンの世界]に似てくるのは、やむをえないことである」というジルソンの指摘は、というより『神と哲学』の第一章そのものが『現代思想としてのギリシア哲学』と響きあっている。

●補遺、その二。ダマシオが『スピノザを求めて──喜び、悲しみ、感じる脳』という本を書いているらしい。『現代思想』2月号に掲載された桜井直文さんの「身体がなければ精神もない」によると、「かれ[ダマシオ]の求めているスピノザはそこにはおそらくいない」。
 その三。ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』を読んでいる。意識は生物学的進化によって生まれたのではない。それは言語に基づいている。意識は幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二分心」(bicameral mind)の精神構造の衰弱とともに、ほぼ三千年前に誕生した。この仮説は、古代ギリシャ哲学が「神の死」の後の精神状況(死んだ神にかわる新しい至高性の希求)から生まれたとする古東さんの議論とつながる。『知の構築とその呪縛』に出てくる「略画的世界観」から「密画的世界観」への転換の議論とも響きあっている。
 その四。茂木健一郎さんが『中央公論』6月号に「なぜナショナリズムは相互理解されないか」という文章を寄せている。茂木さんはそこで「科学のすばらしさは、対象に対して認知的距離(ディタッチメント)をもって接することができる点にこそある」と書いている。 ■プロフィール■
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。 共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html

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■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★本誌は今号で50号を迎えました。別冊3号分を加えると、通巻53号の刊行となりますが、ここまで継続できたのは、ひとえに寄稿者の方々の尽力によるものです。改めてこの場を借りてお礼申し上げます。
★50号は年数にすると7年間あまりですが、この年数は私のPC歴とほぼ一致しています。当時は「メールマガジン」草創期で、その新しい媒体に魅せられて創刊したという次第です。
★創刊の辞では、「<メール文化>は、電話と手紙を統合して進化した文化といってよいだろう。両方の長所を併せ持ち、その手軽さは抜群である。しかしこの手軽さと<メール通信>の内容の密度が如何に拮抗し得るかは、これからの<課題>としたい!」と書いていますが、読書のみなさまの評価は如何でしょうか。
★昨今は、メルマガに代わってブログが花盛りです。本誌も47号よりウェブ版と並行してブログ版を立ち上げていますが、いまひとつ読者の反応が見えない。ぜひコメントをお願いします。(黒猫房主)



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