『カルチャー・レヴュー』49号



■連載「文学のはざま」第8回■


鎌田哲哉の闘争 ねじりこむ批評の意地と熱意と鋭さのありか

村田 豪



鎌田哲哉の闘争 ねじりこむ批評の意地と熱意と鋭さのありか
 今回は、批評家、鎌田哲哉を取り上げます。

 いまやジャンルとしてはずいぶんマイナーに属するであろう純文学系批評の中で、さらに世間的に著名とはいいがたい鎌田哲哉を論じるのは、一種の狭さ、息苦しさがあるのですが、それは許容してほしいと思います。というのも、これまでこの連載小文をささやかながら書くにあたって、少なからぬ点で鎌田の批評を参考にしてきたという借りが私にはあり、ここらでその負い目をすっきりさせたい気持ちがあるからです。

 もちろん真似をして書いたつもりはありません。それでも鎌田が刻みつけた批判=批評の水準を、意識せぬうちに踏まえてしまっていたのは事実です。福田和也やスガ秀実などを扱った回にはそれが顕著で、そのことは一度はっきり自註してもいます。ただ今回は、参照していた鎌田の批評のフレームを、このように曖昧な形で援用するのではなく、それがいかなるものなのか、直接かつ具体的に問うてみたいと思ったのです。

 まず鎌田哲哉について、それなりに紹介が必要でしょう。鎌田は「丸山真男論」(『群像』1998年6月号)で群像新人賞を受賞し、文芸ジャーナリズムでのいわゆるデビューを果たしました。この論文については、主題である丸山真男も、対比される福沢諭吉も、参照されるジョイスも私には知識がなく勉強も足りず、まだ十分に読みこなせていませんので、この稿では言及しません。あらためてじっくり読み込む機会を得たいと思います。ただ、一つ付け加えるなら、その新人賞の選考委員の一人が、のちに鎌田が執拗に批判の矛先をねじりこむことになる柄谷行人だったことです。

 続いて発表されたのが「知里真志保の闘争」(『群像』1999年4月号)です。ここで鎌田は、アイヌの言語学者、知里真志保の二重の闘争を緻密に描き出しています。「日本人」にも「アイヌ」にも単純な同調を拒んだ知里は、日本人アイヌ語学者たちの作り上げた「アイヌ語」の虚偽と欺瞞を徹底的に暴き、しかし同時に身近なアイヌたちの誤りをも厳しく批判しました。そしてその過程でアイヌたちをも自縛している「抑圧民族」対「被抑圧民族」という馴れ合いの図式そのものを、圧倒的な「怒り」と透徹した知性によって打ち砕かんとしたのです。しかし、このひどく困難な「ジグザグ」の闘いは、決して誰にとっても自明のものではありません。鎌田も「知性にとって怒りとは何か」という強い問いを、論考全体にみなぎらせることによってこそ、この知里の「わかりにくいもの」のありかを示しえているのではないかと思います。

 これをとらえて早い段階に「領域を横断する怒りの批評」(『VOICE』1999年6月号)という一文で鎌田を称賛したのは、浅田彰です。そこで浅田は「注目に値するのは、それを論じる鎌田哲哉が、自らその怒りを生きていることだろう。そこには、マイノリティへの感傷的な感情移入など、かけらもない。ただ、ひたすら燃え上がる怒りがある。それがこの論文に異様な明晰さをもたらし、横断的な力を与えているのだ」と述べ、同席したシンポジウムでは自身も容赦なく批判されたことを付け加えながら、鎌田を「怒れる批評家」と肯定的に紹介したのでした。これによって決定的に鎌田は、以降「怒りの人」とイメージづけられることになりました。

 確かに、その後の鎌田の言動が、しばしば「怒り」や「苛立ち」、「怒号」、「罵倒」に彩られていることに出くわすので、一般の読者はそれが「本当」であることを確認することになります。

 例えば、『早稲田文学』に連載された「進行中の批評」(2001年1月号から2002年5月号まで断続的に連載)です。ある時は「資本と国家への対抗運動」を称したNAMの事務局が、まだ運動は始まったばかりなのに「自立した個人」を自明視して、大風呂敷を広げてしまうことの認識の「甘さ」、浅はかさを厳しく叩き、別の回では「理論」が撞着と矛盾に転げ回るうちに「人間としての不潔さと汚さを示した」東浩紀の自意識過剰を詳細に暴き出し、また別の回では、「放蕩」の優位がしょせん「小心」を隠した「精神勝利法」でしかない福田和也のアンフェアさに執拗に噛みつくなど、各回違った対象を断定口調でやっつけまくりました。

 また、批評文だけでなく、自らが主要メンバーとして立ち上げた雑誌『重力01』(2002年2月)の共同討議でも、「経済的自立は精神的自立の必要条件である」という鎌田自身が打ちだした原則を繰り返し「しつこく」同人にぶつけてしまうことで、微少な意見の相違さえも互いに承認しがたいぐらいに際だたせることになったり、柄谷行人へのインタビュー「文学と運動 ―二〇〇一年と一九六〇年の間で―」(『文学界』2001年1月号)では、昔柄谷が書いた柳田國男論の不徹底さを、ほじくり返しては本人から嫌がられたりと、つねに非妥協的・非順応的な態度を発揮し続けたのです。

 さらにごく最近、鎌田自らが企画・執筆・編集して出した『LEFT ALONE 構想と批判 ブックレット重力1』(2005年2月)も同じくそうでしょう。ここでは「1968年革命」の可能性を現在的にとらえなおすドキュメンタリー映画『LEFT ALONE』が、監督の井土紀州、主演者スガ秀実もろとも真っ向から批判されています。鎌田もスガと対談をする部分で映画に出演し関わっていたのですが、それで鎌田の筆鋒が鈍ることはありません。

 論旨としては、“『LEFT ALONE』が新左翼運動の生成と展開を見直し、その意義を問う映画だというなら、なぜ制作過程とほぼ同時期に組織され解体していった「資本と国家への対抗運動」NAMを扱わずに口をつぐむのか、NAMの創設者であった柄谷行人と、NAMにもコミットしていたスガが、革命運動について対談するシーンを含むこの映画が、NAMを問題にせず済ませているのは、質の悪い隠蔽、自己欺瞞ではないか”、というものです。ここでも鎌田はやはり完全にケンカ腰に見える言葉を採用しています。「文章を書くとは、いかに親しい知人でも公然と傷つける覚悟をもつことであり……」、「スガ自身の無様な姿はどうか。今や関井光男や岡崎乾二郎と並んで柄谷行人のパシリ、(略)「近大の三アホ」にすぎないのではないか」、「以上全ては井土紀州のセンチメンタリズムとスガ秀実のそれとが、深く共振し癒着している事実からきている」などと。

 ついでに言うと、このブックレット自体が、闘争の書といえるでしょう。上記の映画批判の文章「途中退場者の感想」は、実は書籍版『LEFT ALONE』(明石書店)での掲載を前提に原稿依頼されて書かれたにもかかわらず、他の対談者への批判を含むという理由で、最終的には出版社側から掲載を拒まれたものなのです。それに対して、逆に鎌田が自分の対談部分の掲載を拒否し、自ら作ったブックレットに刊行の経緯、映画批判、対談部分を詰め込んだのでした。だからブックレットは、映画への批判と同時に、その過程の全体を明らかにしようとする試みとして公にされたものなのです。

 しかし以上のような証拠の列挙によって、私は鎌田に与えられる「怒りの人」というイメージを追認・補強しようとしているのではありません。むしろ逆に、そのイメージに一定の理由がないわけではないけれど、鎌田の書いていることに即して、妥当なものといえるのかどうか、そのことを少し考えたいのです。それにそんな情動的な姿を強調することは、鎌田が突きつけているものが何であるかを、考えないようにしてしまうことになるのではないかとさえ思います。

 例えば、前回取り上げた斉藤環『文学の徴候』(文芸春秋)では、先の浅田の紹介文を受けて、まさに「怒り」が鎌田の批評の生命線であるかのように分析されています。「怒り」は情動的なものとして批評を退行させ明晰さを奪うのではないか、しかしそれが個人的なものにとどまらないならば、対象の欺瞞と幻想を切り裂く鋭さを与えうるかもしれない、などというように。しかしこの手の問題設定は、もともとは鎌田自らが書いたことを、ただなまぬるく言いかえただけにすぎません。当の「知里真志保論」冒頭章において、鎌田はその種の「怒り」の構造を明晰に書きつけています。むしろ「怒り」を批判しているのです。以下長い引用です。

 モンテーニュは『エセー』の中で、怒りはひとりよがりの思い上がった感情である、と言っている(第二巻第三十一章、岩波文庫)。だが、彼がここで例証する怒りはおそらく不平家の怒りでしかない。そこには、世界の不正全体への抗議へ彼らを徹底化させる導きの糸と、不幸によって彼らを毅然たる人間へ研ぎすます時間の試練とのいずれもが欠けており、情念が主体の判断を混濁させる見えすいた症例しか読者はその章に見いだせない。作者が我々を引きつけかつ突き放すのは、右のように言う当人が深い長い呼吸で自分自身の「怒り」を始める時である。それはさながら『白痴』のイポリートの告白のように、テクスト全体に大断層を走らせている。「この逆上を打ち倒すために私がとる手段、そしてもっともよいと思う手段は、高慢と人間的思い上がりをたたきつぶし、踏みにじってやることである。人間のはかなさ、むなしさ、空虚さを思い知らせてやることである。彼らの手から理性というちっぽけな武器をもぎ取ることである」(『エセー』第二巻第十二章「レーモン・スボーンの弁護」)。
 あらゆる情念が自然の相の下に認識されねばならない。理性もまたそこでは自らの起源を忘れて思い上がった情念にすぎない。だが困難は、この認識自体が自らを「響きと怒り」へ追いこむ過程のうちにある。彼にはそれを第三十一章の怒りへ解消することができない。記述の全体を通して生き抜くことはできても対象化することができない。だから彼は書く、「これは捨身の一撃で、敵に武器を捨てさせようとすれば自分も武器を捨てなければなりません。よくよくの場合でなければ、めったに使ってはならぬ秘法なのです。敵を殺そうとして自分まで死ぬのははなはだしい無謀といわねばなりません」(同前)。以下の考察は、個体にこの「一撃」を促す諸条件の検討としてある。(「知里真志保論、0『怒り』について」

 つまり「怒り」は、自らも「ひとりよがりの思い上がった情念」のままである可能性の中で、対象の「高慢と人間的思い上がりをたたきつぶ」すしかない。だからそれは「捨身の一撃」とならざるをえないのです。しかし、そこで試されることになるのは、「怒り」の感情の強さではなく、「怒り」を生きるときに「世界の不正全体への抗議へ彼らを徹底化させる導きの糸と、不幸によって彼らを毅然たる人間へ研ぎすます時間の試練と」があったのか、なかったのかのほうでしょう。これはおそらく簡単には見えてきません。鎌田が描いた知里真志保に即していうなら、「その執拗な怒りがいかなる他者のいかなる小過も永久に赦すことなく、不信と嫌悪と嘲笑の低温で論敵を粉々に打ち砕く光景を我々は繰り返し通過」しても、それはなお残る「わかりにくいもの」ということになるでしょう。

 知里真志保の思考を問うことは、知性にとって怒りとは何か、を問うことである。不幸にも、彼をめぐる言説の殆ど全てがその怒りを情念の水準でとらえてきた。知里を「怒りの人」と呼ぶこと、それは小利口な誰もがいまだに得意気にしていることだ。
「同上、1知里における『わかりにくいもの』」

 だから私たちは、当然鎌田の「怒り」から距離をもたざるえないのはもちろん、鎌田がしきりに「怒り」の次に導き入れようとするもの(「わかりにくいもの」「ジグザグ」)こそをつかむ必要があります。それは、同じく鎌田が何度も使用している語彙であらわすなら、「盲点」というものについての自覚、とも言いうるはずです。知覚の裏側に隙があるせいで、見ているつもりでも見えず、見えていないことにも気づかないようなものを突っつきだしてくることです。

 注意しなければならないのは、明らかにされたことが、いっとき私たちに把握できるように思えても、それは死角をなくして、今後はすっかり事態が明瞭にとらえ続けられることを全く意味しないことです。「盲点」はただ移動しただけで、別の何かを見落とすことを引きかえにしている可能性があり、それどころかつかまえたと思ったことも、視線を戻せば元のふやけた光景の中に紛れさせてしまうのかもしれない。鎌田の「怒り」は、そういう究極的には見つけだしもできず、消し去ることもできない「盲点」の所在を、私たちに痛感させるものとしてのみ論じる価値があるのではないでしょうか。

 この「盲点」という比喩は、思いつきではありません。知里をとらえる憤怒のわかりにくさを解読するために「知里真志保論」で鎌田が導入した武田泰淳『ひかりごけ』、その小説の鍵となる「ひかりごけの光学」とも、また完全に一致するものでしょう。「ひかりごけは見ないがゆえに見えないのではなく、逆に見るがゆえに見えないものとしてある。『私』が見ていないものとは実は『私』が見ているものである。それは見えるものと見えないものとの見えない関係の認識を到来させる」(「同上、2『ひかりごけ』について――知里と武田(1)」)

 しかしこのことは、「盲点」を承認すれば承認するほど「盲点についての自覚」が、より一層自明なものでなくなることでもあるはずです。とくに相手の盲点を突いていると思って、自分のほうがより致命的な「盲点」に陥る可能性を、鎌田はどのように回避できたというのでしょうか。実際、数々の論敵をぶちのめしているとき、彼にも誤りは生じて、いわば「お前にも見えていないものがあるではないか」というように「盲点」を突き返されることにもなります。

 例えば、上述の「途中退場者の感想」については、井土紀州から、映画『LEFT ALONE』に「NAM」への言及が一言もないという鎌田の批判が、とりあえず事実として間違っていることを指摘されています(「末吉」『LEFT ALONE 構想と批判』)。また上野昂志からは、鎌田の記述は、批判している事柄の時間の前後関係が明確でなく、事情を知らないものを誤解させる(「上野昂志の木刀両断その十二」『早稲田文学』2005年5月号)、という疑問がだされています(ただし、これらの指摘は、鎌田の全体の論旨を覆すものでないと確言できますが、それは長くなるので省きます)。

 もちろん「盲点」を逃れえることを、自分だけが無謬であることを、鎌田が勘違いしているわけではないことは、そのつどそのつど本人がしつこく書いていることです。また「誤謬や矛盾をそのものとして率直に承認する姿勢を獲得すること」(「進行中の批評<2>『東浩紀的なもの』の問題」)の必要性も自他ともに対して銘記させようとしてきました。しかしこういったことは、自覚だけではどうにもならないこともまた、鎌田は、批評対象が無残な過ちへいたる原因を分析する過程で、くり返し描き出してもきたのでした。では実際私たちは、どうあればいいというのでしょうか。

 正直、ここにきても私はこの永久に逃れようのない「落ちくぼみ」について、鎌田の追求を生半可にたどるだけで、それ以上のことができません。いまだに自分でその認識を獲得し、徹底化させることが、どのようなかたちでありうるのか、よくわからないままなのです。鎌田の批評を、ある程度身振りとして獲得することはできます。分析対象の「盲点」を見つけだすことは、さほど難しいことではないからです。しかし「盲点」が自分のものであることの可能性において思考する方法とは、どんなものなのでしょうか。

 かすかな直感についてだけ、書いてみます。それは例えば鎌田が、柄谷行人に対して向けてきた批評のあり方です。先にも書いたように、鎌田はNAMに関する柄谷の責任を何度も取り上げています。これについては私も、地域通貨団体Qへの「旧態依然たる左翼的破壊工作」を扇動しNAMを解体に導いた柄谷の覆いようのない「卑劣」さ、それに盲従する取り巻きの「愚劣」さは、まず多くの点で否定できないことだと思います。それは鎌田によって「京都オフライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」(http://www.q-project.org/)で逃れがたい事実として克明に記録され、『重力02』(2003年3月)の共同討議や合評資料、『LEFT ALONE 構想と批判』「編者序文」その他で、ボロクソにこき下ろされてきた通りです。

 「それを読めば、柄谷氏が『神聖喜劇』の吉原さながら、実際の出来事の一番の急所の部分にだけ捏造を施し、事実と虚偽のアマルガムに一定の説得力を付与する悪質な手法を用いているのがわかる」「そこに柄谷さんの致命的な盲点があって、西部忠への怨恨に満ちた文章を読んだり、NAMでの悲惨な自滅行為を仄聞する限り、言語的な水準の問題を簡単に放棄したとしか思えない」「柄谷は自分のどす黒い手の汚れを回避することは絶対にできない」「終わっているのは近代文学ではなく、自分自身にすぎないのを柄谷は強く銘記すべきだ」

 ただし、鎌田が、これほどこっぴどく言葉を極めて柄谷を「殺し」にかかるには、それ以前の柄谷に対する透徹した「批評」、そしてそれを条件付けていた(今もいるだろう)「服従」や「強制」についての「記憶」「焼き付け」「刻み込み」があってのことなのです。

 例えば「統整的理念の不可能性と不可避性 柄谷行人の『我慢』への疑問」(『批評空間』第2期21号1999年4月)で鎌田は、柄谷が「今ここ」にいる他者を越えて「統整的理念」(=コミュニズム)を語りだしたとき、すでにその「盲点」を厳密に指摘していました。これはカント的な問題として単に「理性の構成的使用」へ転落する恐れだけを指摘したのではありません。それはむしろ柄谷がすでに考察した問題です。そうではなく、柄谷が「統整的理念」を語らなければならなくなった「強制(無理、我慢)」そのものが何であるかを、疑問とともに見いだしていたのです。

 柄谷はここで、「戦前の思考」を覆す「戦争神経症」=「戦後文学」として現れる「超自我」の統整的作用を肯定的に問いかける。だが(略)我々の「文化」は果たして「罪悪感に支配された神経症的な状態」にあるだろうか。我々は我々の内部に、癒えるべきか否かを問うに値する「悪夢」を一度として反復強迫したことがあったのか。(「統整的理念の不可能性と不可避性」

 外傷的なものによる「反復強迫」が「超自我」の姿で人を統整的作用に向かわせる、というフロイトを援用した柄谷の理論に、鎌田は「今ここ」の「不安」から強いられている「我慢」を一定程度認めています。しかし同時にその「反復強迫」は本当に私たちが「心に刻みつけてきた」ものかどうかも疑問視しているのです。ところで、肝心なのは、鎌田がそうした決定的な疑問を提出しながらも、このあと柄谷の理念には「服従を誓う」ことです。

 この怒号と覚醒とが分裂的に共存する限り、柄谷行人は永久に正しい。そして正しいものは正しいと私はいうしかない。――私はここで、柄谷にでも誰にでもなく、この理念それ自体に対しての絶対的な服従を誓う。これ以上悪くなれないはずの地点からさらに悪くなってゆく状況へ可能な迎撃の全てを自分が加えずにはいないこと、その迎撃の具体的な実行が「いかにして自らをコミュニストに作るか」という問いへの私自身の間接的な解答であることを私は誓う。(同上

 これは鎌田にとって当時一貫した姿勢でもありました。上述のNAM事務局の「自立した個人」の上滑りを批判した時にも、「NAMの原理」についてだけは「原理の絶え間ない修正の過程としての運動」を肯定するものとして、柄谷を超えて自分の「原理」とすることを明確にしていました。また別の共同討議(『批評空間』第2期25号2000年4月)でも「柄谷さんが言ったことは何も考えずに思考を始めるしかない。思い切りその自由=強制を享受すべきだし、他の水準で考えられるふりをしたくない」と語っていたのです。

 この「服従」は、「服従」としては驚くべきものです。しかしこれだけが「盲点」から自由でないことを自分にも他人にも知らしめ続けながら思考する唯一の方法、少なくとも私が鎌田に見いだした、唯一の方法であるかもしれません。

 そして、この「服従」「強制」の受け入れは、鎌田がその後書きついだ「有島武郎のグリンプス」(『批評空間』第3期1号2001年、同3号2002年、『重力02』2003年)でも中心的なテーマになっています。そこで描かれる有島の内村鑑三に対する「服従」と闘争は、実際の鎌田の柄谷に対する「服従」と闘争とほとんど相似形をなしているのです。もちろん鎌田自身が意識して、柄谷やNAMなどに対する現在的「批判=批評」を念頭にしながら書いていたはずです。そして、ただ現実の引き写しを行うにとどまらず、そこには鎌田なりの「原理の絶え間ない修正の過程」が刻まれてもいるでしょう。

 例えば、内村がある時まで単独者でいながら、取り巻く崇拝者や弟子たちを分離できずにいることを批判し照らし出す、有島の「一個動カス可ラザル沈静」。これは鎌田を「怒り」のイメージの単調さから解放し、新たな「ジグザグ」へと歩ませるにたる強い形象をなしています。また『或る女』の主人公葉子が「自然」に依拠して階級や制度を覆そうと闘ったがゆえに、のちに「自然」に手痛いお返しをくらい翻弄されてゆく過程。その反復と強制によってなめさせられる「苦い後味」も、有島だけでなくすでに鎌田自身のものかもしれません。

 今回は、鎌田批評の素描を試みました。要点をかいつまんだがゆえに、大ざっぱで荒い理解のまま放り出されているところも多いと思います。また最初に触れた「丸山真男論」や「『ドストエフスキー・ノート』の諸問題」などの主要論文も読まずに済ませたので、おおよそこれが鎌田の全体像などとは言えないものです。それでも鎌田の批評に宿る「意地と熱意と鋭さ」のありかを自分なりに把握できたと思います。しかし、鎌田はその仕事をまだ始めたばかりでしょう。『重力03』も刊行の準備がなされているようです。今後の活躍が期待されるところです。

■プロフィール■
(むらた・つよし)1970年生まれ。「腹ぺこ塾」塾生。

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■連載「映画館の日々」第7回■


薔薇の名前、作者の名前――黒澤明論のはるか手前で

鈴木 薫


 長年、生きた屍のような人生を送ってきた小役人が、癌で余命いくばくもないと悟ったとき、はじめて生きることの意味にめざめ、住民を悩ませていた下水溜りを埋め立てて小公園を作ることに奔走、ついに完成した公園でブランコに乗ったまま「ゴンドラの歌」を口ずさみながら死ぬ――誰がそんな映画を見たいと思うだろう?
 幸い、黒澤明監督の『生きる』(1952年)はそういう映画ではなかった。

「小田切君」――そう名前(役名)が呼ばれるのを聞いたとき、直観的にそれが誰であるのかがわかった。最後にその顏を見てから長い時が経っていたが、そして、それほど若いときの顏ははじめて見るものだったが、それでも、それはまぎれもなく「チャコちゃん」(四方晴美)の母親――TVドラマ内での母親役であると同時に実の母――小田切みきであった(*)。

 ピエール・ド・ロンサールと言えば今や薔薇の名前であるらしい(Googleで検索するとそればかりヒットする)が、もともとは十六世紀フランスの「薔薇の詩人」である。「エレーヌのためのソネ」は、老いたエレーヌがすでに鬼籍に入った詩人を回想して、ロンサールが昔、私を讃美してくれたっけと呟く未来の情景を喚起し、そのときになってからでは遅い、今日の薔薇を摘み給えと誘う(口説く)ものだ。「命短し、恋せよ少女[おとめ]」という「ゴンドラの唄」の歌詞は、あるいはロンサールが下敷ではないかと思いつくが、より広範なトポス(文学的クリシェ)に基づくという方がよりありそうなことだ。

 ろくにフランス語が読めない(今もだが)大学一年の頃出席していた、詩人のK氏による「フランス詩入門」の講義でこの詩に出会ったとき、その現代版たるレーモン・クノーの“Si tu t'imagine”(「そのつもりでも」)をK氏は板書し、私たちは(少なくとも私は)わけもわからぬままに写した――si tu t'imagines si tu t'imagines fillette fillette si tu t'imagines......xa va xa va xa va durertoujours.......allons cueille cueille les roses les roses roses de la vie.

『生きる』は、帰る場所を失った老人が誰にも看取られることなく公園で息絶える話だ。病気が判明した日、暗い室内に彼がひそんでいるとは思いもよらず、父の貯金と退職金をあてにした会話をしながら息子夫婦が帰ってくる(蹲った彼に気づいた息子の妻が低く叫ぶが、私と同じ列にいた男性客も、亡霊のような彼の姿に思わず声を上げていた)。彼の人生の目的だった息子は、今や新婚の妻しか眼中になく、いつの間にかそこはもう彼のテリトリーではなくなりかけていたのだ。家と役所のあいだをひたすら往復していた彼は、そこからはずれて外へ出てゆく。ミラーボールが廻り、亡者のような男女の群れが蠢く――いや、ダンスする――(あのエキストラの数、というか量はすごい)世界を経て、彼が最後に行きつくのは周知のとおりの場所だが、そこで彼の口から出るのが若い娘に歌いかけるべきラヴ・ソングだというのはいかにも皮肉である。

 職場で弁当をつかいながら食べ物を口に入れたまましゃべる、あかぬけない、しかし生命力あふれる小田切みき、彼女こそ、本来「恋せよ少女」と歌いかけられるべき相手であろう。「命短し」とか、「明日の月日はないものを」とは、いうまでもなく花の盛りの短さを指す(実際に若さのただなかにある者には、それが過ぎ去ってしまうことなど思いもよらない)修辞であり、生物学的な死の近さを意味するものではない。ロンサールのエレーヌは、朱い唇が褪せたのちも長寿を保っていたではないか。それがここでは、未来なき老人に歌わせることによって、文字どおり剥き出しの死を指し示すことになる。メフィストフェレス的な伊藤雄之助に案内されたからといって、ファウストのように若さが取り戻せるわけではない。降り出した雪の中で、その歌詞はただ彼自身の耳にのみ吸われてゆく。

 役所をやめた小田切みきが町工場でおもちゃの兎を作る仕事にやりがいを感じていることが語られ、残された時間に何をすべきかを志村が悟るシークエンスで、階段の吹抜けを隔てて向かい合う部屋では、盛装した楽しげな若者のグループがバースデー・ケーキを用意している。そして、志村が階段を下り、入れかわりに誕生日を迎えた娘が階段を上がる瞬間、ハッピー・バースデーの歌が流れ、それは同時に、志村の残された生への第二の誕生をも祝福するものである――と、一般には解釈されているらしい(**)。しかしこの対比は何よりもまず、二人のあいだの差異を残酷に強調せずにはおかない。友人たちに迎えられ誕生日の娘が歩み入る空間と、「老いらくの恋? それならお断りよ」と小田切みきから宣言されたばかりの志村喬が降[くだ]りゆくところ――その対比は天国と地獄そのもので、そのどんづまりには夜の公園があり、そこではただ寒さと闇と孤独が待つばかりだ。

 それにしても公園とは何だろう。それはその名のとおり個人の家とは対極にある空間だ。「命の薔薇」を摘むべき場所はプライヴェート・ガーデンだろう。まして公園はそこで死ぬべき場所ではありえない。それなのに、志村はそこで死んでしまった。そのスキャンダル(美談? まさか!)とどう折り合いをつけるかが、通夜の場面での回想劇にほかならない。自分の功績を認めてもらえなかったことへの抗議の死という、合理的な意味づけは直ちに却下される。ブランコの上で絶命したなどというのは、思えばかなり気味の悪い話であり、たとえば幽霊譚が子供のあいだで流布したとしても不思議はない性質の事柄だ。そういえば、プロジェクトを推し進める志村が他の部署の人間を動かすのは説得とか交渉によってではなく、相手にとことんつきまとうことによってだった。まるで生きているうちからこの世に思いを残している幽霊のように。

 下水溜りを公園にした第一の功労者でありながら、滅私奉公すべき公僕たる彼の名あるいは彼の死は、記念されることがない。たとえばその名が公園につけられるなどということはありえない。そればかりか、彼が作ったと住民は言っているがそれは間違いだ、一課長の力で公園を作れるものではないという発言まで飛び出す始末だ。明らかに一人で作れるものではない、映画のことを考えてみるのもいいだろう。しかし、主人公の死のあとまで続く物語であることと、どちらも子供たちの遊び場を作る話だという点から、ここで私が比較してみたいのは宮澤賢治の『虔十公園林』だ。

 個人的には生まれてはじめて読んだ賢治作品である、比較的地味でごく短いこのテクストでは、主人公に暴力をふるう嫌な奴がチフスで死んだと知って一瞬ほっとすると、次の行では主人公もまたチフスで死んだことが告げられ、それでもやまずに「お話はどんどん進みます」と非人称の語りがパフォーマティヴに宣言する。この驚くべき加速には、はじめて読んだときから今日に至るまで嘆息するしかない。お話が終ったあとまで幸せに暮らすのでもなければ、主人公の死で終るのでもないのだ。「少し足りない」虔十が笑われながら植えた杉苗が、人々に慰めと喜びをあたえ(杉花粉症などない時代だ)、時が流れたのちにその場所は公園となる。死後の語りは、そうやって作者の死のはるか後における作品の運命を指し示す。

「虔十公園林」(はじめて読んだときはもちろん、今に至るまで見慣れなかった主人公の名前の字が敬虔の虔だと、今回はじめて気がついた)は賢治の短篇の題だが、同時に、虔十の残した林につけられることになった名前でもある。『生きる』は、子供たちの遊び場になる公園を作ろうとして公園を作る話だが、「虔十公園林」はそうではない。虔十の名は、彼自身の意図を越えてその〈作品〉に与えられる。「青い橄欖岩」に虔十公園林と彫られた碑が林の入口に建てられたと賢治は記す。「王侯の大理石や黄金の記念碑より」も自分の詩の方が長く生きると書いたシェイクスピアのように、「青い橄欖岩」よりも自分の童話は長く残ると賢治-虔十も言いえたであろう。

 小公園が志村の作品ではないことが強調されるとき、それに反対して彼の死を心から悲しむのは、弔問に訪れた貧しい主婦たち、下水溜りだったところの周辺に住み、今では子供を公園で遊ばせる母親たちだ。この挿話自体は疑いもなく感動的なものである。だが、彼女たちが帰ったあとも、彼のエレーヌたる小田切とよ(そういう役名なのだ)は現われない。彼女は(本気で)志村が気味悪くなっていたのだ。あの(感動的な)「ハッピー・バースデー」に至る店内での彼女の嫌悪の表情を思い出せばそれはわかる。靴下を買ってくれたり、甘いものや食事をおごってくれるくらいなら笑っていられても、あまりにも度重なるともう目的がわからない。誕生日を祝ってもらう娘のように優雅な身分ではなく、町工場で身を粉にして働き、ストッキングの踵には大穴があいていようとも、彼女には志村につきあう理由はない。余りある時をゆくてに持つ――少なくとも「そのつもりで」いる――彼女だが、大きな目でうらめしげに見つめる老人を相手にしているひまだけはない。

 ところで虔十は、賢治のむやみに有名な詩の「サウイフモノ」に近い存在――ある意味ではほとんどそのものである。「イツモシヅカニワラツテヰル」などというのは、『虔十』にそのとおりの描写があり、そのため子供たちにも馬鹿にされているのだが、そのような存在こそが、逆説的に〈作者〉たりうるのだろうか? そのとおりと言いたい人はいくらでもいそうで、黒澤自身、説教臭くなる危険をつねに抱えている(それどころか、彼の作品はそのためしばしば破綻している)。昔、区の連合学芸会で一校だけ、劇をやらずに大勢で舞台に並び、あの詩を声張り上げて暗唱したところがあって、みな閉口(および冷笑)したものだった。黒澤作品を見るときは、たとえば『七人の侍』ならば、幕切れの、勝ったのはわれわれではなく百姓だという、〈作者の意図〉にそった小賢しい科白などは聞き流し、『生きる』に〈ヒューマンな感動〉を覚えたというような言説には冷笑を向けるのが、正しい観客作法なのかもしれない。

(*)本名を役名に流用されたのかと思ったら、これを機に芸名をそう変えたのだという。四方晴美の父親(役の上での父であると同時に実父であり、小田切みきの夫)は安井昌二と、今でもすらすら名前が出る。当時私が持った疑問は、この家族はなんで苗字がひとりひとり違うのかということだった。「ケンちゃん」が四方晴美の弟として登場する以前の話……Mais ou sont les neiges d'antan?

(**)このあと、休んでいた市役所に志村が戻り、人が変わったように仕事に取り組みはじめるとき、「ハッピー・バースデー」のメロディーが再び流れるのだから、作者の意図するところともこれが一致するのは明らかだ。このフィルムはこういうところが本当にくどい。伊藤雄之介と志村喬が出会ってすぐ、酒場に黒犬が入ってくる。『ファウスト』を知っている人ならハハアと思うし、知らなければ何も思わないだろうが(そんな簡単に犬が入ってくるだろうかと思う人もいるかもしれないが、この十年ぐらいあとの東京でも、街中を犬がふつうに歩いていたもので、「犬殺し」という言葉も生きていた)、事情を知った伊藤は、自分がメフィスフェレスになって案内役を務めよう、ちょうど黒犬もいるし、と言う。黒澤がリアリズムの映画作家だなどと誰が言ったのだろう。

■プロフィール■
(すずき・かおる)。新文芸坐で全作品マイナス一本の黒澤明特集をやると知ったときにはこれでネタは決まりと思ったが、残念ながら今月は諸々の事情でほとんど映画館に行けなかった。取り上げたのは一本きりですがおつきあい下さい。
 年一回発行の「女性学」と「女性学年報」の最新号を読もうと久しぶりに東京ウィメンズプラザに行くと、どちらも2003年分までしか書架にない。ウィメンズプラザは、母体の東京女性財団を石原慎太郎につぶされ、都の直営となって予算も極端に減らされているのだが、その後知ったところでは、昨年6月の都議会で、特定の偏った思想(彼らのいう「ジェンダーフリー」思想)を宣伝する場となっており、都の男女平等施策推進の拠点にふさわしくない、「天皇制を根本的に否定した女性運動家の写真」の展示もしていた、改革が必要だと思うがどうかと質問が出たのを受けて、都生活文化局の部課長による「東京ウィメンズプラザ図書等選定委員会」が作られて、図書購入は複数の管理職が決めるようになったという 。以前は女性運動のパイオニア等の特集展示がよくなされていたが、そういう企画もできなくなった。なぜなら、展示には「思想性が表れるから」。こうしたことが報道されず、研究者から抗議の声が上がってもいないらしいこと自体が不気味だ。http://kaoruSZ.exblog.jp/

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●●●●INFORMATION●●●-

★木内昭彦「家具のかたち」★

■日時:4月29日(金)〜5月8日(日)/10:30〜18:30
■場所:ギャラリー3
     東京都新宿区西新宿3-7-1 新宿パークタワー1F(TEL.03-5322-6490)

★中明千賀子 コラージュ展★

■日時:5月1日(日)〜5月31日(火)
■場所:ジュンク堂書店西宮店 カウンター横ギャラリー
    (阪急西宮北口駅・アクタ西宮4F)

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■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★柄谷行人による「NAM崩壊騒動」は、「2チャンネル」でその崩壊に至る内容のMLがリアルタイムで流されその真偽が話題になったが、今回「京都オフライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」(
http://www.q-project.org/)を読むと、柄谷の横暴振りがよく伝わってくる。結局、NAMは「自立した個人の協働態」ではなく、柄谷個人の意向が支配していた/柄谷個人にメンバー依存していたことが、よくわかる。柄谷が紡ぎ出した透徹した思想と柄谷個人の振る舞いの乖離に愕然とする人は多いだろう。このような話はよくある話だと言えばそうなのだが、その人格とは別に思想の価値は検討に値するだろう。つまり柄谷個人をカリスマ化しないことであり、その意味で柄谷はもはや「古典」と化したとも言い得る。だが人格が追いつかないような思想が、果たして私たちにとって有効なのかという問いも、また切実であり検証に値する。
★鈴木さんの原稿を校正しながら、「チャコちゃん」の箇所でニヤリ。やや唐突感はあるものの、同世代にはサービスフレーズだろう。「チャコちゃん」とは、鈴木さんや黒猫が小学生の頃の人気TVドラマので主人公のことで、その名前を冠した「チャコちゃん」シリーズ(1962年〜68年)がTBS系で全国放送されていた。しかし今や昔、「往時茫々ただ夢の如し」(鈴木さんの脚注*のフランス語の意味)な話であろう。Webで検索すると、当時のシリーズを紹介したページにヒットするので、興味ある方はどうぞ(http://www.geocities.jp/kindanhm/ken.html)。
★鈴木さんのプロフィールでも紹介されているが、フェミニズムへのバッククラッシュが各地で起きている。関西でも豊中市の女性センター非常勤館長を雇い止めされた三井マリ子さんのバックラッシュ裁判が闘われている。(http://mbs.jp/voice/special/200504/0414_1.shtml)その裁判支援をするWebは、こちら(http://fightback.exblog.jp/i3)。このような反動攻勢は、憲法「改正」言説とも連動している。(黒猫房主)



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