『カルチャー・レヴュー』48号



■連載「マルジナリア」第7回■


世界の背理

中原紀生


●あいかわらず『私・今・そして神』の周辺をたゆたっている。3月の「哲学的腹ぺこ塾」で報告することになったので、前回読み飛ばしてしまった箇所や根負けして思考を中断した論点、やり残した作業などを洗い出し、洗い出すだけでなく深く読み込み、思考を極め、作業を全うさせておきたいと思った。余力があればこの際、永井均の「私哲学」に鋭く迫ってみたいと思った。
 たとえば、前期三部作『〈私〉のメタフィジクス』『〈魂〉に対する態度』『〈私〉の存在の比類なさ』の「独我論」と、後期三部作『マンガは哲学する』『転校生とブラックジャック』『私・今・そして神』の「中心化された世界の存在論」とでは何が違うのかとか(永井均の哲学はまだ終わっていない、というか実はまだ始まっていないのだから、中期三部作というべきか)。

●でも、何度読み返してみても、あいかわらず十分に読み込んだ気がしない。当たり前すぎてつまらない話題がくどくど続くかと思うと、その同じ文章がこれまでとまったく違う(異様な)様相を帯びて迫ってくる。その逆の現象も頻繁に起こる。永井氏自身の言葉を使って表現すれば、まったく同じ文章の「哲学的緊張」が高まったり薄まったり、それが「心の琴線」に触れたり触れなかったりする。私の問題意識、というか「哲学的感度」が永井均の「問題水準」を(時々は)凌駕したり、(たいがいは)到達しなかったりするということなのかもしれない。
 「十分に読み込んだ気がしない」というのは、十分に理解できたときの爽快感(征服感)のようなものが読後わきあがってこないというのとは違う。分かるか分からないかという水準でなら、『私・今・そして神』はとてもよく分かる。分かりすぎてつまらい議論だとさえ(時々は)思う。

●ただ、よく分からないところもある。私的言語の三つの段階が論じられた第3章は、何度読んでも分からない(正確には、何が分かったのかが分からない)。私には私的言語をめぐる哲学界での議論の本筋が見えていない。だから「玄人筋」を相手にした第3章の議論が腑に落ちないのだろう。
 私的言語とは祈りである。論証抜きで、私はそう直感している。そういう観点から第3章の議論を読み直すと、もしかすると霧が晴れるのかもしれない(そういえば、『〈子ども〉のための哲学』に「哲学をすることは、ある点でやはり、祈ることに似ているだろう」と書いてあった)。

●永井氏は「まえがき」で、第2章の「最後に出てくる『どちらか一方が私なら……』という一つの表現の二つの意味が理解できたら、本書の中心主題は理解されたことになる」と書いている。
 該当箇所を抜き書きする。私が「永井R」と「永井L」の二人の私に分裂してみたら、私はなぜかLのほうであった。この事実の重みは決定的だ。ところが、ふたたび融合した後では、この事実(私はLであったという過去の事実)は跡形もなく消えてしまう。だが、分裂時に成立していた「どちらか一方が私なら他方は私ではない」という事実が消え去るのではない。この同じ一つの表現の、ライプニッツ的意味(特定の側が現に私になってしまっている)は儚く消え去り、カント的意味(どちらか一方だけが私でありうる)は時間を超えて生き残るのだ。
 私には「どちらか一方が私なら他方は私ではない」という一つの表現の二つの意味が理解できる。少なくとも、概念としてはよく分かる(ライプニッツ的偶然とカント的必然?)。しかし、正直に告白すると、理解できたからといってそこにぞくぞくするようなリアルな「問題」を感じない。

●ここで注記を一つ。私がいいたいのは、私が分裂するなんてそんな非現実的なことを想定した思考実験には「問題」が感じられない、ということではない。
 小泉義之氏は『ドゥルーズの哲学』で、太郎と花子をめぐる記憶交換や身体交換といった思考実験の出発点となる「SF的発想」を批判している。
《そもそも、太郎と花子を死なせないような仕方で、記憶や身体を交換することが、自然界において可能なのか。仮に不可能ならば、不可能なことの想定からは理論的に任意の結論を引き出せるから、論争に決着はつかないし、論争は無意味であるということになる。何でもアリになるから、何も分からないということになる。》
 これに対する永井氏の反論(?)が『転校生とブラック・ジャック』に出てくる。
《われわれはいま、この世界が現実にどうできているか、どうできていないか、を問題にしているんじゃなくて、どうできていざるをえないか、どうできていることはできないか、を問題にしているんだ。手術室間の瞬間移動は、この世界でたまたま成立している物理法則によって物理的に不可能だけど、それを考えることはできる。それに対して、時空連続性とも短期記憶の連鎖とも連合していない裸の《おれ》が世界の中で持続するということは、考えることそのものができない。考えようとしても何をどう考えればいいのかわからなくなるからね。そういったことは、こういう思考実験を積み重ね、組み合わせていくことによってしか、明らかにならないんだよ。》
 思考実験とは神学の異称である。少なくとも、神学に固有の方法であ。私自身そう思っているのだが、このことはまた別の機会にじっくり考えてみることにしよう(たとえば「火星に行った中国人は赤い猫の夢を見るか?」とか「グレッグ・イーガンの『貸金庫』は哲学の問題をはらんでいるか?」などの考察とあわせて)。

●「どちらか一方が私なら他方は私ではない」の二つの意味が理解できたからといって、そこにある「問題」を実感できない。それと同じことが、「哲学はまだ始まっていない」という節で永井氏が書いている問いについてもいえる。
《「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」──肝心かなめのこの問いに、多少とも肉迫できた哲学者は、史上ひとりもいない。哲学の終焉とか哲学の生き残りとかを語る人々がいるが、私は哲学はまだ始まっていないと思っている。》
 ここがキモなのだと思う。「私の分裂」はこの問いの問題性を実感させるための思考実験なのであって、こういうありふれた事実に即した問いかけに「心の琴線」を激しくふるわせる「哲学的感度」をもった人だけが『私・今・そして神』を十分に読み込むことができるのだ。

●実は、正直に告白すると、私も(時々は)ぞくっとくることがある。なにか途方もない哲学的難問につきあたったという実感(感触)を覚えることがある。そしてその事実はたちどころに儚く消え去り、記憶に残らない。「ぞくっときた」と過去形の言葉で報告できる記憶の枠組みのようなもの(カント的事実?)は残るが、肝心かなめの「ぞくっ」という実感(ライプニッツ的事実?)は完璧に消え去る。だから同じ実感を何度でも初めて味わうことになる。何度読んでも十分に読み込んだ気がしないのは、読むたびに初めてたちあがる実感の同一性を認定する立場がどこにもないからだ。

●「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」──この問いにぞくっとくるとき、私はおおよそ次のような二つの思いが重ね合わさった複合的な思いにとらわれている。
 その一。幼児が言葉を覚え一人前の口がきけるようになって、ある日ふと、なぜぼくはぼくで、ぼくはきみじゃないんだろうと疑問をいだく。それは言葉に精通するなかでしか生まれず、しかも言葉でしか表現できない問いでありながら、言葉(概念)を超えた、あるいは言葉以前の「存在」を問うている。存在の意味や本質をではなく、存在そのもの、そして存在がもたらす感触の違い(ぼくときみの根本的な違い)を問うている。そのような問い、つまり言葉なくして生じず、表現されず、しかも言葉を超え、言葉をもってしては答えられない問いがなぜ問われうるのだろうか。
 その二。私と私でない人間が一斉に消失し、地上から私と私でない人間のすべてがいなくなったとしよう。そして、魂とか神とか空とか呼び名はなんでもいいけれど(それらも所詮は概念にすぎない)、一つの大きなもののうちに融合し統合されているとしよう。そのとき、私と私でない人間との根本的な違いはどうなっているのだろう。すべてが私になるのだろうか。それともすべてが私でないものになるのだろうか。あるいは私が消失した時点で、私と私でない人間との関係も消失するのだろうか。そもそも私と私でない人間との根本的な違いは、そのような「関係」なのだろうか。
 第二の思いは、同じ実感を何度でも初めて味わうとか、同じものが何度でも初めて生まれてくるとか、一回性をもった物語が何度でも反復するといったことへの不可思議な思いと表裏一体をなしている。でも、この「私的思い」の間のつながりを語る言語が私にはみつけられない。

●『〈私〉のメタフィジクス』を最初に読んだちょうどその頃、私は八木誠一氏の神学啓蒙書にはまっていた。
 八木神学のキーワードに「統合体」がある。「互いに異なり、それゆえ相互否定的な一面を有する複数の個が、同時に相互否定媒介的にのみ成り立ち、しかも全体としてひとつのまとまりであるようなもの」。この定義はあまり心の琴線に触れないけれど、八木氏は統合体の例として精神や音楽などをあげて、その統合をもたらす原理なり力が神であると書いていた(と思う)。
 私は、聞きかじりの脳科学の知識(人間の脳は、反射脳=爬虫類の脳、情動脳=前期哺乳類の脳、理性脳=霊長類の脳の三位一体でできている)と組み合わせて、脳もまた統合体であると考えた。そして、その統合をもたらす力、というか現に統合している人間の脳の中ではたらいている力が神であり、同時に神の観念を人間の意識にもたらすのだと考えた。
 つまり、神は私のうちに臨在している。さらに、私でないという根本的な存在論的断絶に隔てられた他者のうちにも神は偏在している。私たちは一つ一つ、そして一つなのだ。同じ私が(つまり神が)何度でも初めて存在し、かつ唯一の私が(つまり神が)同時に複数存在する。ここにこそ永井均の「私哲学」のよってたつ「現実的」な基盤がある。永井均の哲学は、だから永井神学なのだ(思考実験による実験神学!)。
 神学(テオロギア)とは弁明(アポロギア)である。弁明されるべきは神の存在であり、たとえば神にして人であることの背理である。永井神学はやがて、その自らがよってたつ基盤(背理)の構造解明へと向かうだろう。そして、そうした構造解明の持続こそが、実は弁明されるべき背理を構成することになるだろう。私はそう考えた。

●実際、『私・今・そして神』には受肉の秘義だとか神にとっての他我問題といった、弁明されるべき背理をめぐる話題が頻出する。それどころか神の位階などという、いったいだれがそんなことを語りうるのか(高階のナレーター問題!)と問い返さずにはいられない話題さえ論じられている。
 だから本書はやはり、永井神学の『方法序説』であり『省察』なのだ。「私は、本書において、この同じ世界に私と内属している読者の方々に語りかけているのではない」と永井氏は書いている。そうだとすると、この書物は「祈りの書」(聖書)であるというべきかもしれない。
 そういえば『転校生とブラック・ジャック』では、先生NとAからLまで十二人の学生による最後の晩餐での会話が記録されていた。四人の学生の「福音書」も挿入されていた。そして、〈私〉がいなくなった後の世界を描いた終章「解釈学・系譜学・考古学」は、『私・今・そして神』の到来を予言していた(解釈学的世界=低次の神の世界=想像界、系譜学的世界=高階の神の世界=象徴界、考古学的世界=開闢の神の世界=現実界?)。

●哲学はまだ始まっていない。永井氏のこの言葉は、私には哲学問題の連続発生説の表明に聞こえる。私がいて、私でない人間がいて、そして世界がある。そのこと自体のうちに永井哲学の、いや永井神学のよってたつ基盤があり背理があるのだから、哲学はつねにすでに始まっている。そして、同じ問いを何度でも初めて問うことのうちに、問われている当のものが存在する。

■プロフィール■
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。 共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html

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■連載「伊丹堂のコトワリ」第7回■


「世の中」って何なんだ〜!?


ひるます



獏迦瀬:いよいよひるます氏の事務所では『オムレット2』に向けた動きが本格化してきましたね〜。

伊丹堂:ふ〜ん、ほんとなのかね。ま、どうせワシは主役ではないからの(笑)。

獏迦瀬:とりあえず事務所の「ユニカイエ通信17号」で『オムレット』の誤植暴露大会がありました(http://www.unicahier.com/17/)。なんか伊丹堂さんのノドチンコは逆さに向いてるらしいですね(笑)。
伊丹堂:あれね、よく気づくよ。

獏迦瀬:まあ、いずれにしても『2』をやるなら、もっと売れるものにしないとしょうがないですね。流行の「頭がよくなる…」とかを冠につけたらどうでしょう。
伊丹堂:「頭がよくなる哲学マンガ」…ねぇ。まあ、マンガはともかくとして、この対談シリーズ読んでりゃ、そうとう頭はよくなっとるはずなんじゃがね(笑)。

獏迦瀬:はあ…そうすか。でも今はやりの「頭がいい人悪い人」ってのは、人に「頭がいい」とか「悪い」と思われるという問題であって、実際に頭がいいかどうかは関係ない話みたいですね。

伊丹堂:当たり前じゃ、マニュアル読んで頭がよくなるわけがない。

獏迦瀬:はい…、でもこの対談は?

伊丹堂:頭をよくするための対談ではないが、結果としては頭がよくなってしまう(笑)。

獏迦瀬:そうなんですか…。

伊丹堂:っていうか、かのベストセラーを読むと、ようするに「頭が悪い」というのは、人やモノゴトへの対応がヒステリックということじゃろう。対応にゆとりがないというか、そもそもコトに対応せずワンパターンの反応をするから馬鹿に見える。ヒスっていうよりは、神経症的、というべきかもしれんが。
獏迦瀬:なるほどね。われわれもカルチャーレビュー42号でヒスをとりあげました。

伊丹堂:まっとうにモノゴトに対応してりゃ、馬鹿には見えないもんよ。

獏迦瀬:そうゆう役に立つ対談ってことですね(笑)。というわけで、前回、実存という話をしまして、いかに生きるべきかという「道」が示される必要がある、とそんな話になりました。その「道」というのが結局、まっとうさということになりますかね。
伊丹堂:というか、まっとうかどうかは結果論じゃからな。ただまっとうであろうとする努力があるのみよ。

獏迦瀬:どうすればまっとうになれるんでしょう。

伊丹堂:言葉でいえば簡単なことじゃが、まっとうさというのは、日々、まっとうに生きる人に出会ったり、自分の行動を吟味したりしつつ、じっくりと蓄積されていくような、なにかとしか言えんからな。ようするに道を究めればいいわけよ。

獏迦瀬:道ね…。

伊丹堂:『オムレット』的にいえば「関心事」を極める。人は具体的なモノゴトを通じてしか成長できんようにできてる。なんらかのモノゴトをヨリドコロとしつつ、創造し、人とコミュニケーションをするということでしか「まともさ」は身につかんと言ってもいいわな。
獏迦瀬:たしかに。ひとりで哲学的な思考にふけっていても、進歩はない気がしますね。

伊丹堂:だいたい哲学「しか」やってない人の話が面白くもなんともないのは、そのせいじゃ(笑)。

獏迦瀬:ああ(笑)、そういう人の話で突然、シュミの話とか出てくると最悪ですよね。

伊丹堂:本人は気の利いたたとえ話のつもりなんじゃろうがな。

獏迦瀬:いずれにても、そういうシュミでなく…関心事ということですか。

伊丹堂:まあ、ことさらに関心事ではなくて日常的なコトガラでも、何十年にもわたってそれを極めたという人がまっとうな人になる、ということは結果論としてはある。しかし一般には関心事を通じて自らを鍛えた方が、成長は早いわな。

獏迦瀬:関心事はいかにして見つければいいのか…という話は『オムレット』の蛇足対談でもしましたね(笑)。

伊丹堂:その話はこの連載でいえば、第二回で語った「文化」の問題ということになるわけじゃろ。

獏迦瀬:ああ、文化ね…ようするに「生き方のフォーム」ということでした。

伊丹堂:関心事やら生き方のフォーム「文化」としてこの社会というか「世の中」に伝承され、蓄積されとるわけじゃな。

獏迦瀬:「文化」の話のときにも、文化は実存の可能性の土台というか、ヨリドコロである、という話が出てましたね。そこで問題なのは、日々の習慣化された行動も文化というか生き方のフォームに基づいているし、人がある種、倫理的な志をもってそれこそ「実存」する場合も、そこに文化的なフォームが必要ということになると、その違いは何なのか?ってことなんですが。

伊丹堂:いや、そりゃ単純に文化の質の違いじゃろ。というか、人はさまざまなフォームを同時に使い分けて生きているということじゃろうな。

獏迦瀬:それはそうなんでしょうけど、ただ日常的な生活のフォームというと、非常に受動的な感じがするじゃないですか。志をもった実存もまた受動的にフォームをなぞっているだけとすれば、人はただ流されて生きているという感じがします…、というか、むしろ人は受動性において生きているという捉え方もあると思いますが…。

伊丹堂:なるほど、というかそれは当の本人の意識にとって、どう受け止められるかという解釈の問題のような気もするがの〜。

獏迦瀬:解釈ね…。

伊丹堂:というか、「La Vue」の「倫理って何なんだ〜」や「正義って何なんだ〜」の時からすでに、倫理的行為において、「〜するのが正しい」というコトのリアルが到来し、それを人が行うというのであれば、それは受動的な行為なのではないか?という議論はあったわけよ。

獏迦瀬:習慣=ハビトゥスによるのであれば受動的であろうと…。

伊丹堂:このへんはワシは参加しとらんが、「臨場哲学」の「ハビトゥスの哲学」(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/RIN/head72.html)でちょっとふれておったな。

獏迦瀬:山内志郎さんの「中動相的事態」という話ですね。喜んだり悲しんだりという人間の感情は、受動的に悲しまされたり、能動的に悲しんだりしているわけではなくて、自ずからわき起こってくる(受動的)ものでありながら、自らの表現として能動的な側面もあるという、どちらでもあるものとして「中動的」ということを言っていましたね。

伊丹堂:うまい言い方じゃが、一般人には使いにくいわな(笑)。ワシ的にいえば、リアルの到来…ということじゃが、ここでなぜそれを「リアルに受動的に動かされる」と表現しないかというと、それには深いわけがある。

獏迦瀬:というと。

伊丹堂:『オムレット』をはじめから読めばわかるが、基本的にこの本は脳神経系で、どのように世界が認識されているか、という話からはじまっている。
獏迦瀬:認知科学というジャンルにおかれたりしてますからね(笑)。

伊丹堂:そこで受動というと、「外界からの刺激」によって、受動的に脳内の信号が伝達され、それに対して人間の行動が引き起こされる…という機械的な説明になってしまう。そんなわけで、受動という言葉は使えないわけよ。

獏迦瀬:なんだそんなことですか(笑)、『オムレット』では先制的作用というようなことを言ってましたね。生き方のフォームの場合もそういう先制的なものである、と。

伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。ようするにコトの創造というかね、あるヒラメキが到来したとしても、それを実行しないということが人間にはありうるし、具体的にそれを実行するとなると、たんに「受動」ということではすまされないデテールというものがあるわけよ。

獏迦瀬:たしかに受動的なヒラメキだけではこういう対話文は書けませんよね…。

伊丹堂:それはどうか知らんが(笑)、いずれにしても、生き方のフォームということには、そういう受動的かつ能動的で、かつ「そうしなくていいのでしない」とか、「そうしなくていいのにする」というさまざまなファクターがからみつつ、人の営みが営まれていくわけじゃね。

獏迦瀬:そういう営みが実際に行われ、文化がフォームとして蓄積されていく「場」が、伊丹堂さんのいう「世の中」ってことですよね。この概念もちょっと説明してください。

伊丹堂:「世の中」という言い方自体は、たんなる名付けにすぎんから、なんと言ってもいいわけじゃが、ようするに単に「社会システム」という言い方だと、それこそ受動に人が社会の仕組みを成り立たせるように動かされているというニュアンスが強くて、そういった人の営みという側面が捉えられないので、あえて使っておるわけじゃが。

獏迦瀬:「世の中」の伊丹堂的定義は「人々がその都度その都度の目先のコトガラへ配慮してする行為の連鎖が全体としては調和して成り立っている(社会)システム」ってことでしたね(「正義って何なんだ〜」La Vue8号掲載、等)。

伊丹堂:目先のコトガラを配慮していつつ、全体として破綻に至らないのは、結局は、その配慮が、実は全体の中で錬成されたフォームをヨリドコロとして行為していたからだ、という循環論法になっているわけじゃがね。

獏迦瀬:世の中というのは、ようするにそういう循環論的なものだということですかね…、ようするに以前も話に出ましたが「せ〜の」で始めたものでない以上、世の中の「はじまり」というのは気がついたら循環していた、ということでしかないんでしょうからね。

伊丹堂:せ〜ので始まる社会学は全部ウソというか、物語ってことじゃな。

獏迦瀬:ところで社会と「世の中」は違うわけですよね。

伊丹堂:これは「世間学」の教えるところじゃが、ようするに「社会」というのは、特殊なヨーロッパ的概念。

獏迦瀬:日本には「世間」はあっても「社会」はない、と。社会は個人と個人の契約によってつくられている…ということですよね。
伊丹堂:必ずしも個人ではなくて、階級とか団体とかいろいろな主体があるが、いずれにしてもその関係が「契約」というもんであるってことな。契約っちゅうのは、ある種の敵対的というか分断的な関係にある者どうしが第三者(たとえば神)を仲立ちにして、とりあえず手をとりあうっちゅうことじゃな。

獏迦瀬:ようするに「共通の時間」を生きていない者同士の結びつきってことでしたね。

伊丹堂:しかし日本の「世間」の場合は、逆にそういう「共通の時間」を介して人々がつながっているという状況なわけで、ようするに「社会」ではない。
獏迦瀬:ホリエモン対フジサンケイグループは象徴的な事件ですよね。

伊丹堂:まさにね。法というか経済的な所有関係を根拠に会社を経営しようとしたホリエモンと、会社をつとめあげてきた「ウチの会社」という共同体意識で会社を経営しようとする現経営陣とのしのぎあいは、「社会」対「世間」じゃな。ま、それが「ニュース」になること自体、日本にいかに「社会」という関係がないかの表れでもあるわな。

獏迦瀬:現時点(3/23)では、高裁で「新株予約権発行差止め」が認められ、いちおう日本にも「社会」はあるということで踏みとどまったわけですが。

伊丹堂:いずれにしても、そういう「社会」を持たない社会というと変じゃが、そういうモンは日本だけじゃなくて、世界にはいろいろとあるわけで、それを語るには「世の中」という言葉が必要となる。

獏迦瀬:ようするに「社会」も「世間」もひとくくりにする集合概念ってことですかね。

伊丹堂:というよりも、社会や世間というのは、それこそ「文化」的な概念であって、その基体となる人々の行為の連鎖そのものを「世の中」ということにすれば、わかりやすい。

獏迦瀬:「社会」は文化、つまり人が人とどうつきあうか?のフォームのひとつというわけですね…。

伊丹堂:それと「社会」というと「個人と社会」というように、個人とのかかわりは恣意的というか偶然的なものに感じるじゃろ。

獏迦瀬:社会とは関係なく個人が存在しうるという感覚ですか。

伊丹堂:実際、社会というのは、そこから抜けることができるわけよ。契約なんじゃから、それを破棄すればいいわけじゃからな(笑)。

獏迦瀬:まあそうでしょうけど…。

伊丹堂:じゃが、人はコトをなす者として、なんらかの他人との「かかわり」の中でしか生きていくことはできない。人が存在するってことはウラハラに「人とのかかわり」つまり「世の中」に生きる、ということでもある。そういう意味で「世の中」は、人が生きる宿命的な基盤なんじゃな。

獏迦瀬:切り離すことのできない関係…。人間は人の「間」と書く、ということの意義というのが昔からいわれますが、まさに「世の中」というのがそれなのかもしれませんねー。

伊丹堂:ふふ、しかし逆に「世の中」の方からすれば、人が生きることによってはじめて「世の中」はその体をなしている。人は日々、世の中を創り出している、ということにもなるわけじゃ。

獏迦瀬:なるほど…。

伊丹堂:キミも日々、世の中をつくりだしているという自覚をもって生きてゆきたまえよ。

獏迦瀬:精進します…。ところで「世の中」という概念で重要なのは、それと「政治」ということがセットになってるってことでしたね。以前「正義とは」の話でも話題に出ましたが、そのような「世の中」に対して、超越的に介入する構造を「政治」という…。世の中は「目先の配慮」で動いているから、それだけではうまくいかないので、そういうものが必要だということでした。

伊丹堂:まあそれはひとつのストーリーとしてってことじゃな。ようするに世の中のはじまりが循環論的なものであるのと同じように、いつ政治が始まったのかはわからないくらいのもので、ようするにそれほど世の中と政治というのは密着した構造としてあるわけじゃな。

獏迦瀬:どんな時代の社会、じゃなかった世の中にも当てはまる構造…と。

伊丹堂:と、定義しておくと、非常にモノゴトが明解になるってことじゃな。肝心なことは社会的に、というよりも、公共的にまっとうなことをなそうとするならば、必ず政治的な権力というものの行使が必要になる、ということじゃな。これについてはその正義論や「民主主義入門」の付録コラム(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/COMIC2/minshu.html)でも語ったように、政治=国家と固定的にとらえるのではなく、一般的に超越的観点から世の中に介入する行為そのものを政治および政治権力と捉えるべきということなのじゃな。

獏迦瀬:でしたね。ところで、ここで問題なのは「世の中」という場合、どの範囲をひとつの世の中として捉えるか、ということです。

伊丹堂:世の中そのものの中に世の中の境界は存在しない。境界はそれこそ、超越的な介入としての「政治」によって、明確にされるしかないとも言えるな。

獏迦瀬:現実的には国境ということになりますよね、政治が国家の壁をつくり、戦争が引き起こされるというのは必然なんでしょうかね。

伊丹堂:それは、それこそ「政治の質」の問題じゃないのかの。ようするにどういう風に他者を配慮する文化なのか、ということじゃな。

獏迦瀬:他の「世の中」をどう配慮するか、ということですよね。これはグローバリズムの問題とからんできますが。

伊丹堂:グローバリズムというにのは結局は「他」の世の中の存在を許さない、ということじゃな。

獏迦瀬:境界をなくしたい…?

伊丹堂:というより、やってることは「他」を滅ぼしたいってことじゃろ。どう考えてもイラクの人を自国民と同じ豊かな生活水準にしたい、つまり同一の世の中としたい、とは考えとらんじゃろ。

獏迦瀬:滅ぼしたい…ですか。そういえば先日、朝日新聞書評で大澤真幸さんの『現実の向こう』という講演集が取り上げられてました(評者・松原隆一郎)。なんでもヨーロッパは普遍的正義を信じていて、「話せばわかる」モダン状況にあり、アメリカは「話してもわかりあえない」ポストモダン状況にあるというんですね。ようするに「話してもわからない」から攻撃するって感覚だというんですね。

伊丹堂:そんなのモダンとかポストとか高級な話ではぜんぜんなくて、単なる幼稚さじゃないのかね〜。

獏迦瀬:たしかに…。

伊丹堂:政治の質の問題は結局は国民というか、世の中を生きる人々の意識の問題じゃからな。教育の問題でしかないんじゃが、いまやそれを言うのもむなしいわな。

獏迦瀬:まずは自分の世の中をまっとうに考えなきゃないすよね。

伊丹堂:世の中に生きるのが宿命である以上、それが必然的に伴う「政治」という構造に関心を持って参加するのは、まっとうに生きる人にとっては当然のことなんじゃな。

獏迦瀬:精進しますって、今日は2度目ですね(笑)。

■プロフィール■
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」

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●●●●INFORMATION●●●-------------------------------------------------

 ★ブックフェアのご案内★
水越伸さんが選ぶ「メディア・ビオトープの本棚」


 ■選書リストと展示写真は、
こちらをご覧ください。
 ■ジュンク堂書店大阪本店3階東レジ側フェア棚(TEL.06-4799-1090)
 (開催期間:2005年3月中旬より4月中旬まで)
 ■ブックファースト大阪店2階人文書平台(TEL.06-4796-7188)
 (2005年4月より月末まで)





■黒猫房主の周辺「私的言語への感想」(編集後記)■
★先月の「哲学的腹ぺこ塾」では、永井均の最新作『私・今・そして神』(講談社)の読解を中原紀生さんのレポートで行った。思い起こせば、この塾の第1回目は永井均の『<子どもの>ための哲学』(講談社)からスタートしたのだった。最近知ったのだが、
「勝手に永井均評論ページ」」では、中原さん(オリオン)の論考「「私」がいっぱい」と「哲学的腹ぺこ塾」の1回目2回目がリンクされていた。この場を借りてお礼申し上げます。
★その中原さんの長大なレポートや本誌の論考(そのレポートからの抜粋)を読みながら、黒猫は小学校で初めて五線譜楽譜の記法を習い、教師が弾いた(指示した)ピアノの音階をその五線譜に記譜するというテストがあったことを想い出していた。黒猫は教師が弾いたその都度の音階をその都度正確に聞き分けることができたのだが、果たして黒猫のノートに記譜された採点はすべてバツとされた。なぜなのか?
★例えば、黒猫は「ド」の音を聞き分けその音の五線譜に記述すべき位置も識別できたのが、「記譜の仕方=順序」については「私的な規則」に従っていたのである。このことを世間では普通は「誤解」というわけだが、これはクリプキの指摘した「プラス」と「クワス」の事例に相同するだろう。
★このことを永井は、規則に「私的に」従うことと「私的な」規則に従うことの違いとして説明している。「規則への違う従い方は、提示されたとたんに、違う規則への従い方に変わる。そして違う規則は、われわれにとってどこまでも理解可能なのである」(『ウィトゲンシュタイン入門』p180、ちくま新書)として、「私的規則」のその一例として私的言語はどこまでも可能であると書いている。そのことが『私・今・そして神』における「およそ言語というものが可能であるためには、端的でない私的言語や今的言語は可能でなければならない、とは考えられないだろうか?」(p161)に繋がっているだろう。
★ここでのポイントは、永井哲学/永井神学における「端的さ=概念によってはとらえられない現実存在=独在的」な在り方である。つまり、「私的に遣う言語=端的な私的言語」と「私的な遣い方の言語=端的でない私的言語」の違いである。この違いが、『私・今・そして神』の3章(私的言語の必然性と不可能性)のテーマであろう。そして「端的な私的言語」は同格の他者という対称性を超えている故に、(中原さんが書いているように)ある意味では「神への祈り」と言えるのであろうが、別の意味では私(たち)には概念化できない故に、私的言語としてはどこまでも不可能(語り得ない)なのである。 (黒猫房主)



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