『カルチャー・レヴュー』46号



■連載「伊丹堂のコトワリ」第6回■


「実存」って何なんだ〜!?


ひるます



獏迦瀬:このところ話題の中心になってるのが「実存」っつ〜ことですよね。前回の最後で、単なる様式ではないということをおっしゃってましたが…。

伊丹堂:様式には還元されないってこっちゃな。もちろん「文化」の対話(『カルチャー・レヴュー』38号 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re38.html#38-1)で言ったように、実存、つまり「どう生きるか」ということは、その時代の文化によってはじめて成り立つわけで、それはウラハラな関係にある。

獏迦瀬:その還元されない問題を伊丹堂さんは「決断」とか「創造」といってるわけですよね。逆にいえば、そういう生き方が「実存」ってコトなんでしょうか。

伊丹堂:そりゃ単なる言葉の定義の話で、同語反復みたいなもんじゃな。そう言っても何も意味はないわけで…。

獏迦瀬:はあ…。

伊丹堂:ま、それが「実存」ってものの「語りえなさ」なんじゃが…。

獏迦瀬:わかる人には分かるってやつですかね。

伊丹堂:というか、まさに「語りえていない」んじゃろ(笑)、よ〜するにまだ誰もうまく語れていないから、語ろうとすると「別のこと」を語ってしまうっつ〜か?

獏迦瀬:というと?

伊丹堂:たとえば実存、どう生きるか、を語ろうとして、単なる自分の嗜好を語ってしまう、という場合が多いわけよ。その中心にある「なんとなく実存めいたもの」を感じとる人は多いが、それをいざ語ろうとすると、いきおい自分の「体験談」でしかなくなる。いわゆる「人生哲学」ってのがこれじゃな。

獏迦瀬:ああ、なるほど…それはよく聞かされる気がします(笑)。実存主義ってのもそうなんですかね。

伊丹堂:実存主義ってのは、基本的には文学的な「気分」として人口に膾炙したわけじゃな。ただ、わしらがこ〜して「なんとなく実存めいたもの」について、なんとなく共通認識を持ちつつ会話ができるのは、その「実存主義」ってもんが、流行ってくれたおかげなわけで、それがなかったら、そもそもこういう対話はなりたたないわな。

獏迦瀬:たしかに。そういう意味では実存主義ってのもダイジではあったわけですね。哲学で実存といえばハイデガーですが。

伊丹堂:開祖じゃな(笑)。ようするに実存というのも彼の造語じゃが、彼がその実存について語ったストーリーというものが、いわゆる実存的な生き方のフォームと受け取られているわけじゃな。

獏迦瀬:というと?

伊丹堂:つまり彼が語ったストーリーというのは、人は他人のではない自分自身の「死」を自覚したときにはじめて、本来的な生き方を決意し、そう生きるようになる…というわけじゃろ。この「死の意識」から「自己の覚醒」というパターンは多くの人にとって、共通の体験として実感されるようなある原型的なナニカがあったわけじゃな。

獏迦瀬:なるほど…。

伊丹堂:なるほどっていっても、実際は別に「死の自覚」から「本来的な生き方」に至るなんてことはそんなにないじゃろ(笑)。

獏迦瀬:はあ、…。

伊丹堂:結局、文学じゃからな。「そう思わせる」というところに意味がある。「世界の中心で実存を叫ぶ」ちゅ〜もんじゃろう。彼の場合、ではその「本来的生き方」って何よ、とか、そこからナチスに行ってしまうとか、いろいろ問題があるんじゃが、よ〜するに思考としてのツメが甘かったってことにつきるわな。

獏迦瀬:わなな…って、そうなんスカ。

伊丹堂:ま、開祖じゃからして、十分に敬意は表しておくがな…、っていうか、実際その思考には多くのヒントがある。たとえば実存は「死」と関わりがあるというのも、いいポイントじゃな。

獏迦瀬:ポイントですか。

伊丹堂:しかし、せっかくいいとこを突きながら、そこで死を契機に実存を説こうとするのがダメなわけじゃが…。

獏迦瀬:ああ、…というと。

伊丹堂:ようするにワシのいつもいう「構造と実存」の問題がごっちゃになってしまう。簡単にいえば、死を自覚「すれば〜となる」という論理(構造)になるが、実存の問題としては、別にそうなるとも限らない。人それぞれなわけで。ロールズの「無知のヴェール」も同じ問題なのじゃな。

獏迦瀬:無知のヴェールを被れば、公平に考えるから正義を行うことになる、という論理ですか。これはなにゆえ無知のヴェールを被るかというモチーフが説明されないし、そういう正義を意識したからといって実行するかどうかはまた別の問題になる…、ということでしたね。

伊丹堂:ま、ロールズについては他のとこで書いたので(注1)、詳しくは言わんが、いずれにしても実存的な問題を構造(様式)の問題にしてしまおうという慣性的な指向があるワケよね。

獏迦瀬:思考というか、脳のクセみたいなもんなんすかね。

伊丹堂:さあね。それはともかく、死の問題じゃが…。

獏迦瀬:死って何なんだ〜?ですかね。

伊丹堂:これもまた人それぞれにさまざまな「答え」があって、そこにまたそれぞれの「生き方」が表現されたりするわけじゃが…。

獏迦瀬:それもまたそれぞれの「実存」そのものなわけですね…。

伊丹堂:ちゅ〜こっちゃ。そこでそれを「構造」として、つまり突き放してみると、「死とは何か」というよりも、「人は死ぬもんだ」っちゅうことになる。
獏迦瀬:なんか屁理屈みたいですがね。

伊丹堂:まあそうなんじゃが(笑)、これも人間存在、実存の神秘化、物語化に対抗するには必要なコトなのよ。

獏迦瀬:そうなんですか。。。

伊丹堂:つまり「人は死ぬもん」であると。しかし、「にも関わらず生きていくもん」だということは「構造」として言えるわけじゃろ。

獏迦瀬:ああ、…。

伊丹堂:じゃからして、原理的に人は「にも関わらず」生きていく存在だということが言える。

獏迦瀬:そうしなくていいにもかかわらず、〜する…というのが、「倫理」のあり方でしたね。(注2)

伊丹堂:倫理とは、それぞれの「実存」においてなされるもんでしかない、わけじゃが、それを構造としてみれば、倫理とは、「そうしなくていい」にも関わらず、それをする、という様式として捉えられるわけじゃ。

獏迦瀬:そうしなくてはならない、からしたのであれば別に倫理ではないですからね。

伊丹堂:だが、ある意味で、「しなくていいのにする」というのは、突拍子もない出来事ではあるわけじゃ。

獏迦瀬:(笑)ですよね。

伊丹堂:つまりそういった倫理的なあり方(実存)は、なにか特殊な神秘的な力によってなされるのではないか?という印象を与えることになるわけじゃが…、しかし、こうして人はそもそも「死ぬ、にもかかわらず生きていく」もんだということを踏まえてみれば、実存というあり方もまたそういった構造の中の一変奏としてとらえることができる。

獏迦瀬:ああ、…なんとなく分かりますが。

伊丹堂:ようするに、死を自覚すれば実存に至る、のではなくて、実存的に生きることができるのは、人は死ぬにもかかわらず生きていくような存在だからだってこっちゃね。

獏迦瀬:実存の可能性、っていうか土台として捉えるってことですかね。ただどういう「実存」に至るかは、人それぞれ、人生いろいろ、ということになるわけですね。

伊丹堂:そう、しかしただ普通に、ハイデガ−的にいえば日常的存在として生きている者を実存とは言わないわけで、やはりその土台の上で特殊な条件が必要になってくる。つまり、そうしなくていいにもかかわらず、〜するということを「自覚」して行っている、というこっちゃな。

獏迦瀬:それは死の自覚ということではないのですか?

伊丹堂:そういうと具体的なコトガラ、つまり体験談になってしまうだろう。死を自覚「すれば」実存に至るわけではないわけで…何度もいうことじゃが。ここはその特殊な条件ってもんを、吟味しておかなくてはならないとこじゃ。
獏迦瀬:自覚的に「そうしなくてもいいにもかかわらず、〜する」ことの条件…ですか。

伊丹堂:まずは、そのような自覚自体が、ひとつの創造だということが肝心じゃな。

獏迦瀬:そうしなくていい、ということ自体がヒラメキというか、アイデアなわけですもんね。

伊丹堂:そ、以前の『カルチャーレビュー』25号(http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re25.html#25-2)でも指摘したが、哲学というものはアイデアや創造というものに対する敬意が不足しとるからな(笑)。だから「〜すれば〜となる」というような構造的な論理で説明しがちなんじゃな。

獏迦瀬:クセですね(笑)。

伊丹堂:それとウラハラになるが、「〜すべき」という共同体の論理(ルール)がある意味でユルくなっているということが言えるじゃろうな。

獏迦瀬:共同体が崩壊しているわけではなくて…。

伊丹堂:そういうとまた、共同体が崩壊した「から」人は実存的になった、ということになるじゃろ。そうではない、ということを言いたいわけじゃな。

獏迦瀬:まあ完全に行動が共同体にがんじがらめに縛られていたら、創造を働かせる余地はないわけですけどね。つまり個人の自覚というものが成り立っているというか…。

伊丹堂:それが以前から問題にしている「個人としての時間」というこっちゃな。

獏迦瀬:ああ、なるほどね。以前「世間」をテーマにしたとき(『カルチャーレビュー』40号 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re40.html#40-2)、阿部謹也さんの話として、世間が「共通の時間」というあり方をしているのに対して、「個人としての時間」というのが出てきたのでした。伊丹堂:おもしろいのは、共通の時間、つまり共有された時間の中では「死」というものはない、ってこっちゃな。

獏迦瀬:死がない…。

伊丹堂:ようするに「共有された時間」というのは、はじまりも終わりもない「永遠の今」みたいなもんなんじゃな。阿部謹也は世間では「おくやみ」が重要と言っているが、それは世間という共有された関係の中で、そのやりとりのアイテムとして重要なのであって、その死んだ人自身の生死、生きざまといったものが問題なわけではないってことじゃな。

獏迦瀬:世間の中で生きている人にとっては、その共通の時間が主であって、自分の命はそこに附随しているという感覚なのかもしれないですね…まあ、そんな風に意識はしないんでしょうけど。

伊丹堂:深く意識しない、ということ自体がすでにそういうことなんじゃな。ともかく、個人としての時間を生きるということは、個体としての生命を意識することであり、結局は死の自覚でもあるわけじゃな。ようするにこれらはウラハラに実存というあり方の条件を形作っているわけよ。

獏迦瀬:死がない、というのは、輪廻転生の世界ですよね。

伊丹堂:そう、昔インドではみんなが輪廻転生を信じてて、「共有された時間」を生きてるときに、「いや、オレは死ぬよ」といったのが、ブッダじゃな(笑)。

獏迦瀬:あ、それが解脱ってことですか…、とするとお釈迦さまは「実存」主義者なんですか?

伊丹堂:っていうか、それはず〜と前に橋本治がオウム本(「宗教なんかこわくない!」)の中で指摘しとったコトよ。

獏迦瀬:あれからもう10年なんですよね…。

伊丹堂:ふふ、そういう言い方がまさに「共有された時間」なんじゃな。なんとなく日々生きてるからそんなヒト事みたいな言い方になる。

獏迦瀬:あわわ。

伊丹堂:もうひとつ大事なのは「共有された時間」の中に死がない、ということは、死者もまた「個人」ではない、ということじゃな。

獏迦瀬:死者の人格がないってこと、ですか?

伊丹堂:そう、死んだ人はああ思っただろう、こう思ったろう、こんなことは嘆かわしく思っているだろう…などといったことが、まことしやかに語られるのが、この「共有された時間」なわけじゃ。

獏迦瀬:生者のご都合主義…ですか。

伊丹堂:死者への配慮ということを語る思想がたいていそういう傾向に落ちいってるわけよ。

獏迦瀬:そういえばよく伊丹堂さんが「死者をして死者を語らしめよ」なんて言ってましたね…。

伊丹堂:死者をほんとうに他者として捉えるということがわかっとらんのじゃな。

獏迦瀬:前回「他者」についての対話でおっしゃった「他者性」の問題ですね。

伊丹堂:と、いうことがダイジなのは、個人としての時間、個体としての生を生きるということは、個人が好き勝手に自分だけの世界に閉じこもるということではないから、じゃな。

獏迦瀬:それがまっとうさということですよね。

伊丹堂:じゃから、実存主義者のお釈迦様も「ではどう生きるか」という意味での教団を作ったりする。

獏迦瀬:阿部謹也さんも、西洋において世間が解体して「個人としての時間」が作られるにあたっては、キリスト教が「神と個人の契約関係」をつくるということが大きな意味を持ったとしていますよね。

伊丹堂:そう、実存ということの最後のファクターには、そういうブッダの教えなりキリストとの契約なりと、共通するような、なんらかの「他者」が介在しているってこっちゃな。

獏迦瀬:少なくとも、ひとりよがりに終わらない志向性というものが、実存というあり方には必須ですよね、結果論としての成否は別として。

伊丹堂:しかしそういった志向性、つまり「志」ってのも個人とか死を自覚すれば自動的に身につくってもんでは全然ない。

獏迦瀬:ですね…。やはり人にはなんらかの「宗教」みたいなもんが必要なんでしょうか。

伊丹堂:いや。必要なのは「道」を示すってことだけじゃないかの。

注1)臨場哲学Vol.32など参照
   http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/WEBZIN/hirumas32.html#1025
注2)倫理って何なんだ〜?「La Vue」7号(2001年)

■プロフィール■
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」






■連載「マルジナリア」第6回■


神の位階

中原紀生


●永井均氏の『私・今・そして神』を繰り返し読んでいる。章節の流れに沿って最初から順を追って読むこと三度目。第一刷の発行日が昨年の10月20日だから、ほぼ月に一度の割合で読んでいる計算になる。それ以外にも折にふれ部分的な拾い読みをしたり、通読する際にも前の頁に戻って復誦し、先の頁に飛んで確認しながら再帰的・反復的に読んでいるので、重要な箇所だと一頁あたり五回以上は目を通している計算になる。
 それほど読んでも十分に読み込んだ気がしない。熟読してもなぜか玩味できない。陶酔(ロジカル・ハイ)もない。本書の平易で丁寧で率直な語り口は、これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださなければならないほどに分かりやすい。それなのに、肝心なところでいまひとつ分かった気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分からなくなる。

●この本の論述の趣向、というか概念の道具立てはとても分かりやすい。それは(意図されたものかどうかは別として)形式美にかなっている。まず、本書は初心者向けの第1章と玄人筋を想定した第3章、それらにはさまれて中心をなす第2章の三つの章からなる。そして、そのそれぞれの章うちに相互に関連する三組みの道具立てが設えられている。
 第1章に出てくるそれは「神の三つの位階」である。土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神。世界に人間には識別できないが理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神。世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階の神、すなわち開闢の神。
 第2章には、神の位階に対応するかたちで三つの原理が出てくる。弱いライプニッツ原理とカント原理と強いライプニッツ原理(=デカルト原理)。(それらは『転校生とブラック・ジャック』に出てくる三つの原理、すなわち人格同一性の原理、統覚原理、独在性原理に対応している。)
 ここでライプニッツ原理とは「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」という原理であり、カント原理とは「起こることの内容的なつながりによって何が現実であるかが決まる」というもの。そして弱いライプニッツ原理は、カント原理の内部でカント的に可能なものの中からの選択(そのうち一つの現実化)としてはたらくもので、強いライプニッツ原理は、カント的な可能性の空間をはじめてつくりだすものをいう。
 最後に、第3章に出てくる私的言語の三段階。それが神の三つの位階や私と今と現実に関する三つの原理に対応しているだろうことは見やすい。でも、ここではそのことには触れない。というか、対応関係が私にはまだよく見えていない。また、八木雄二氏の後掲書に出てくる三つのこと、普遍的原理(質料形相論)と個別化原理とペルソナ性が大きく関連しているだろうことも見やすいが、そのことにもここでは触れない。

●永井氏がこれらの道具立てを駆使して取り組んでいるのは、「独在性の〈私〉」(現に今在る端的な〈私〉)をめぐるメタフィジックスそのものではない(それもあることはある)。自己利益の主体(人)である『私』をめぐる倫理学でも、生物(ヒト)としての“私”をめぐる人間学でもない。私たちの世界の共同プレーヤーたる「単独性の《私》」(概念的に把握された〈私〉)をめぐる論理学(「独在性の〈私〉」の語り方、そしてその語りのなかに見え隠れする「独在性の〈他者〉」とでも呼ぶべき存在者の語り方の問題)である。そういうことだったらよく分かる。でもそれが分かったからといって何がわかったことになるのかが分からない。
 あるいは『私・今・そして神』は、「存在」(現実存在=実存)と「概念」(本質)との断絶をめぐって、そしてそこに言語がどう関与するかをめぐって、言語によってなされた思考の記録である。たとえばそんなふうに要約してもいい。でもそれだとちっとも面白くない。

●存在と概念の断絶──「存在」を生み出す「神」と「概念」を生み出す「言語」(「脳」といってもいい)との断絶、永井氏の語彙でいえば「開闢」と「持続」との断絶、あるいは「独在性の〈私〉」と「単独性の《私》」との断絶──は、「その概念自体がそれの現実存在によってしか理解できないものの存在」、すなわち神や私の存在をめぐる証明のうちに表現されている。
 神の存在をめぐる存在論的証明と呼ばれるものがある。「神はXである」。神は定義上完全だから、このXにはすべての肯定的な規定、たとえば「存在する(〜がある)」という規定も代入できる。したがって「神は(現実に)存在する」。また、私の存在をめぐる存在論的証明ともいうべき論証がある。「我思うゆえに我あり」。これらの証明のなかで論証された神や私は、はたして現実に存在する「あの神」や「この私」を指せているか。本書の中心をなす箇所(第2章11節)に出てくるこの問いのうちに、かの「断絶」は示されている。
 でもそれは「事実存在」と「本質存在」の分岐──「がある」と「である」の分岐、「これ性」と「何性」の分岐、財布の中の十億円と夢の中の十億円の分岐、「蛙飛びこむ水の音」と「古池」との分岐(?)──が形而上学の起源をなしたというハイデガーの所説そのものだ。そんなことを「お勉強」するためだったら永井均の著書を読む意味がない。(木田元氏のハイデガー本、最近のものだと『ハイデガー拾い読み』などを読む方がずっと面白い。)

●あるいは「開闢の〈私〉」と開闢された世界のうちに持続的に位置づけられる「かけがえのない《私》」との関係をめぐる「神学」の書。
 八木雄二氏は『「ただ一人」生きる思想』で、大要次のように述べている。哲学は普遍的なものを追求する。科学もまた種を普遍的に説明する。いずれも質料形相論という普遍的原理による説明でしかない。これに対して神学は個や個物を対象とする。「なぜなら、個々のものは…神が創造する対象だからである」。ドゥンス・スコトゥスが導入した「個別化原理」こそ、霊魂の個人性を含めた「かけがえのない個」を説明する神学の原理であった。しかしこの原理をもってしても人間がもつ「ペルソナ性」を説明することはできない。スコトゥスによれば、神の本性をもつ子のペルソナ(キリスト)の十字架上の死にならい、孤絶(ぎりぎりのところまで一人であること)のうちに思惟の自由を貫徹することを通して人間の個はペルソナとなる、云々。
 普遍的原理=質料形相論によって説明できる『私』や“私”ではなく、個別化原理がもたらす「このもの」としての《私》やペルソナ性をもった〈私〉の存在と概念をめぐる「永井神学」?

●内田樹氏は『他者と死者』で、レヴィナスやラカンが量産した「邪悪なまでに難解なテクスト」が狙っているのは、わざと分かりにくく書くことでもって「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という「子どもの問い」へと読者を誘導することであると書いている。(ちなみに、ここに出てくる「子ども」はラカンのいう「想像界」にとどまるもの、つまり「間主観的な自我=他我図式」に踏みとどまり「鏡像的な感情移入」によって「大人」が示す「謎」を追尋するもののことであって、永井均的な意味での「子ども」、つまりひねもす「問い」をたれながし、「問い」そのものを生きる「子ども」のことではない。)
 『私・今・そして神』の分からなさは、レヴィナス=ラカン的な意味での難解(方法としての難解?)とはまるで違う種類のものだ。永井氏自身の言葉を使うならば、「理解できるが識別できない」ことが理解できてしまうことの分からなさとでもいおうか。
 たとえば始めて句会に顔をだし、座をしきる宗匠から「なに、『残り火や赤さわびしき夜ふけかな』か。〈や〉と〈かな〉の重複はとんでもねえ。〈や〉は〈の〉とするんだな」(露伴)などと一喝され恐れ入ったあとで、さて何に恐れ入ったのだったか判然としない、そんな感じ。(ちょっと違うか。むしろシャルル・ペローの童話「三つの願い」の大きなソーセージや、映画「シックス・センス」でブルース・ウィルス演じる小児精神科医マルコムが「死者が見える」少年コールに披露した手品に出てきたコインのような、「通り越して短絡させることができる」存在がもたらす空虚な感覚?)

●で、いま『私・今・そして神』の三回目の通読に入っている。それは、本書と三部作をなす『マンガは哲学する』や『転校生とブラック・ジャック』までひっぱりだしての大がかりな(?)作業になりかけているのだが、ここで書いておきたいのはそのことの顛末ではない。たとえば同じ本を三度読むことの意味、あるいは三部作を書くことの意味といった事柄である。

●内田樹氏は(ライフワーク「レヴィナス三部作」の第二作となる)前掲書で、「何かが二度繰り返されたときにはじめて「謎」は生成する」と書いている。
 「何を意味するのか分からないが、何かを意味していることだけは分かる」がゆえに、シニフィアンの終わりなき入れ替えを励起する「何か」──あるいは、レヴィナスによって「現象」(慎みのない誇らしげな顕現)と対立するものとされた「謎」(おのれを顕示することなしに顕示する仕方)──は、「一度として現在であったことのない過去」の「痕跡」という仕方で、あるいは「私にとって一度として現実になったことのない過去」の経験(=「外傷」)という仕方で、あるいは「ことばに命を与え、命を与えることで消え去るもの」すなわち「前言撤回」という仕方で現出する。
 何か同じことが二度繰り返されることによって、そこに「隠されていた意味性」がたちあらわれる。「ゲームが二回続き、二度続けて勝つか負けるかすると、そのとき、人はそれと知らないうちに「象徴界」に足を踏み入れている」。ラカンはそう書いている。

●また、内田氏はモーリス・ブランショの「複数のパロール」の概念──「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだ。それは同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」──をめぐって次のように書いている。
《「私」ともう一人「〈私〉と名乗る他者」の二つの声が輻輳するとき、そこに、「私」のことばによっては決して担いきることのできない「何か」がある種の「倍音」のようにして聴き取られる。それをかつて詩人たちは「ミューズ」と呼び、ソクラテスは「ダイモニオン」と呼び、村上春樹は「うなぎ」と呼んだ。もちろんそれを「神の声」と呼ぶことだってできる。》
(ここに出てくる「うなぎ」は、村上春樹がある対談で語った言葉だ。《僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけないと言うんですよ。…僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人だけじゃ、小説というものは成立しないんですよ。そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。》)
 内田氏はさらに、「主」とモーセの対面関係をプロトタイプとして構成されるユダヤ教的師弟関係をめぐって次のように書いている。《重要なのは「誰」と「誰」が対面しているかではなく、対面的事況そのものが成立することである。(中略)対面的事況とは「私」と「あなた」の「二者」の間に成立するものではない。対話とは本質的に「三者協議」なのであり、外部から到来する「第三者」を歓待する場のことなのである。》

●一度目の読みでは、読者は想像界にとどまる。二度目の読みで、象徴界に足を踏み入れる。三度読むことで、現実界が到来する。三部作を書く場合も同様。内田氏の著書を読みながら、私はそんなことを考えている。そして、このラカンの三組みと「永井神学」における神の三つの位階が妖しげな関係をはらんでいるのではないかとも。
 さらに、チャールズ・サンダーズ・パースの三組みの記号(イコン・インデックス・シンボル)や三つの形而上学カテゴリー(質・関係・媒介)までもが艶めかしく思えてくる。「存在」と「概念」の対語は、永井均的語彙では「開闢」と「持続」になる。これをさらに「偶然」と「連続」に置きかえるならば、それはパースの哲学のキーワードそのものだからである。

■プロフィール■
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。 共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
★E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html





■バーマニアの今月の一軒■


Gymnopedie

久世明宏


 神戸三宮の生田神社の東門街に良質のBARが次々にオープンしてゆくのが目につくようになりました。
 神戸の街は震災から10年が過ぎ、震災があったことすら忘れそうな復興ぶりで街そのものが変わったという感じを受けます。
 東門街というと、かつてはスナック、クラブの店が多く、BARは裏通りにちらほらあったというイメージが強いのですが、現在はメイン通りに目立つようになりました。
 今回ご紹介する「Gymnopedie」の店名は、エリック・サティの代表曲に因んだそうで、場所は東門街メイン通りのほぼ中間あたりです。昨年11月に店長の倉本尚枝さんが立ち上げられましたが、この方は永らく大阪梅田の太融寺裏手にあった、名店(Sist)で経験を積まれたので、お酒の知識は豊富です。また、どことなくミステリアスな雰囲気をもった、聡明なイメージを抱かせる人です。
 昨年の暮れに右手を包丁で切ってしまい、医師からはもう元のようには動かないかもしれないと診断されたのですが、リハビリを続けながらカウンターに立ち続ける頑張り屋さんです。
 カウンター七席だけの小さなお店ですが、静かで、客のマナーもよいように思いました。ぜひ一度お出掛けください。


★「Gymnopedie」★
神戸市中央区中山手通1-16-4 東門コーナービル2F
TEL:078-321-6897
開店:18:00/閉店:26:00





■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★正月も終わって、今年もあと11か月となった。早いものだ(笑)。それはさておき、先だって生食用の牡蠣にあたったらしく下痢と高熱に襲われた。高熱で脳味噌が溶けるのではないかと心配になったほどだが、お陰でまたいちだんと物忘れがすすんだに違いない。その二週間後には、今度は風邪を引いてしまった。なにかとせわしい正月を過ごしたという次第。(黒猫房主)





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