『カルチャー・レヴュー』43号



■連載「映画館の日々」番外編■


猫撫で声のイデオローグ
三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)を読む(1)

鈴木 薫


S: 今回は映画の話は休んで番外編にさせていただきました。
I: こんにちは。第2回の「日本のレズビアン映画をヴィデオで見る」で初登場のIです。(『オニババ化する女たち』を取り出し、Sに向かい)読みましたよ。気持ち悪い本だから読め読めってSさんに言われて――まったく、なんて勧め方だ!
S: 申し訳ないので、気持ちよい本も貸します。これ、たまたま本屋に入って買ったんだけど(本を取り出す。多和田葉子『エクソフォニー――母語の外へ出る旅』岩波書店)。口直し、なんて言ったのでは本と著者に失礼ながら、『オニババ』の気持ち悪さをこれで中和しようと思って。
I: 内容的には関係あるの? これ、小説家のエッセイ集でしょう。
S: 関係づけてみましょう。多和田さんはドイツに住んで日本語でもドイツ語でも創作をしている方ですが、女性作家は男性作家と書き方が違うかという議論についての話が出てきます。著者がハンブルク大学にいた頃はそうした議論がまだ盛んだったが、そのうちそれが、ジェンダーは生物学的な意味での性ではないから、たとえ男の作家の作品でもジェンダーで言えば女性文学でありうるということになり――「そしてわたしたちは当時、自分の好きな作家はクライストでも誰でもみんなジェンダーは女ということにしてしまった」。この話で私が思い出したのは、ウーマンリブの活動家だった人に聞いた、当時「おんな」というグループがあって男もメンバーになれたけれど、そこに入った人は男でもすべて「おんな」と呼ばれたという話。
I: 面白いけど、それって、男から女になる場合にだけ可能な話では? だって逆だったら、自分だけ名誉男性扱いされて満足しているとか言われない?
S: 鋭い! 確かにそこは対称でない……。
I: なるほど、こんなことも書いてある。「もうだいぶ前から「女流作家」より「女性作家」という言い方の方が一般的になったが、もしかしたらジェンダーは「性」より「流」に近いかもしれない。「性」は持って生まれた性質や宿命を指すが、「流」は「こんなやり方でやってます」という流儀のことだ。(……)女だから持って生まれた性質や宿命があると言いたげな「性」の字には、ちょっといかがわしい真面目さがあり過ぎる」
S: 「女流」については、小説家よりも先に八十年代に詩の世界で、いちはやく「女性詩人」という言い方がはじまったと記憶します。そしてこれには、「女流」より生なましい、自らの性を直截的に表現する人、という意味が確かに含まれていたような。
I: Sさんが詩を書いていた時期ってそのあとぐらいですよね。
S: 私の場合は編集者に、作品だけ見ているうちは「男の人だと思った」と言われました。
I: で、嬉しかった?
S: 予想していた効果だから、思ったとおりだったという意味ではね。実はちょっとそのあたり、今考えていることがあって。「女性」がウリなのも、その逆を行くのも、男の目、男の評価を意識しているという点では同じでしょう?
I: それは実際に、編集者とか出版社の人たちが男だからということ?
S: それもありますね。実際、私の詩のばあい、逆に「こういうものを女性が書いたんですよ」ということで売り込めると言われました。
I: では、「同じ」ということでいいんですか、Sさん的には。
S: 実は最近、『オニババ』についてまともな批判を書いている人がいないかと検索して、ちゃんとしたものを書かれている方のブログに行き着いたんですが、そこの関連掲示板に参加するうち、ある人から、私の書くものの「仮想読者」はオヤジだと言われたんです。
I: えー、なに、それ。仮想読者のオヤジって誰よ――黒猫さん?
S: そ、それは、あんまりではー(笑)。私はずっと会っていないから、青年黒猫しか知りません。もっとも、その人の定義では、オヤジというのは価値観の共有を相手に強要する連中だそうですから、年齢が問題ではないわけですが。
I: しかし、少なくとも、えらそうにしている男ではあるわけですね。Sさん、その書き込みに、納得できないでしょう。
S: 一応、どういう論理でそういう言われ方をしているのかはわかったんですけどね。
I: どういう論理です。
S: ひとことで言えば、私が女の書き手だから。一般に女の書き手は構造的に「オヤジ」を仮想読者、共犯者にしている――ということらしいです。
I: まだわからないけど、少なくとも「女の書き手」ってまとめられることを許していいんですか、Sさん。
S: 必ずしもよくはないけれど、これはまだ進行中の話なので。とりあえず私自身のことは脇へ置いて、どうしてこの話を持ち出したかというと、『オニババ』にこれを応用して、この本の仮想読者について考えてみることができないかと思ったの。
I: 当然、女性に向けて書かれていると見えますが、実はオヤジだと?
S: そう考えてみることができるかと。それでね、自らの性についてあからさまに言語化した「女性詩人」が「オヤジ」にとってはたとえば股から血を流している女たちだったとすれば、『オニババ』の前半に登場するのは、膣の入口に綿球をはさんでキュッと絞め、血を止めている女たちかと。
I: 突然すごいイメージ が。
S: どちらも、本当は「オヤジ」には関係ない話なんですよ。著者が書いていることは、月経のない人間には実感することも反駁することもできない種類の話題、先ほどの多和田葉子が展開してみせたジェンダーの話とは違う、超えることのできない境界の向うで起こることです。それなのに、仮想というより、事実として「オヤジ」ウケしてしまうのではないか。
I: 「女性詩人」が「オヤジ」のスケベ心に訴えることになるのもかまわず、かつそれをあてにして、渾身の自己表現を試みたとして、『オニババ』の三砂さんは何をしているんでしょう。
S: もう、あからさまに、「オヤジ」との共犯関係にあるのではないか。Iちゃんに付き合ってもらって、そのあたりを考えてみたいと思ったんです。
I: ではまず、私が腹立ったところを挙げます。今や流行語になった「負け犬」について、「それはごく少数の、インテリ層の人たちの目に映っているような『エリート女性』の話で、ごくふつうの女性の話ではないと思います」と言っています。まず、これが気に入らなかった。だって、そうだとしたら私なんて、自動的に「ごくふつうの女性」、「負け犬」以下に入れられるもの。
S: 「ふつうの女がふつうに女としてのオプションを生きる、ということを誰もサポートしなくなっている」とあるけど、「ふつうの女」って誰なのか。「ふつう」って何なのか。最初の「女」とあとの「女」はどう違うのか。びっくりするほどスカスカです。でも、疫学の専門家で国立公衆衛生院勤務を経て津田塾大教授である著者自身は、明らかに「エリート女性」。だから、これだけいい加減な書き方をしても、ただの変なオバサン扱いされることはない。それどころか、疫学者がオニババ化を警告、とか書いてもらえる。
I: 「ふつうの女」に入れられたが最後、「あなたは、まあ、何にもできないけど、という言い方は失礼かもしれないですが、この世の中でね、たいそうな仕事はしないかもしれないけれど(やっぱり失礼ですね)、やっぱり結婚して子供を産んで、次の世代を残して、自分で家庭を切り盛りしてごらんなさい、女として生きなさい」と御託を並べられちゃうわけです。
S: 今のは、以前は女に対して出されていたのに今はなくなったと著者が言うメッセージですね。「失礼かもしれないですが」と言っておいて「(やっぱり失礼ですね)」と言い添えるのは、通して読むとわかりますが、読者に対するおしつけがましさを和らげようとするこの書き手の癖です。今の文の前後に、「おせっかいなことであったかもしれませんが」とか、「まあ押しつけてたというところもありますけれども」とあるのも同様だし、他のところでは、不妊の女性にも思いやりの言葉をかけ、負け犬の救済にまでおせっかいな言及をしていますが、そのあたりが優しさと勘違いされるのかもしれません。でも、いくら「かもしれませんが」をつけたところで失礼は失礼。「負け犬」女性は「ろくでもない女性」として斜めに文化を伝えていけると著者はいけしゃあしゃあと言うのですが、いくら「ろくでもない」と自称する当事者がいたからって、そのまま流用するのは失礼です。
I: 失礼だし、おせっかいだし、押しつけだよ。今だってうちの親たちは寄るとさわると結婚結婚と言っている。「女も結婚だけじゃなくていいんだとか、仕事さえしてればいいんだ、という風潮で、単純労働に追いやったうえで、そこでもう、誰も周りは結婚のことは心配しない、というような状況」ってどこの話?
S: リアリティないし、女を「単純労働に追いや」るのは「風潮」なんかじゃないでしょう。それ以外に「オプション」のない社会構造は問題にせず、平気でそういうことを言う。どうやらこの著者にとって、女には「エリート女性」と、「単純労働」しかできない落ちこぼれ、いえ、「ふつうの女」の二種類しかいないようですね。これを読んで胸をつかれたという人の気持ちは、共感はできないとはいえ、いくらかわかるような気がします。「醒めた目で見てみると大した仕事をしているわけではない」とか、「こんな仕事のために、自分のリプロダクティブライフを無駄にしたのか、と気づいても遅い」とか言われれば、そりゃ、今の仕事は心から満足できるやりがいのあるものと言える人は少ないでしょうから。
I: そうならないように、若くてあんまりものを考えたりしないうちに――本当にこういう言葉を使ってるのよね、失礼なことに。フェミニズムになんて染まるのは言語道断てことでしょうね――やりたい盛りの男の子にやられてさっさと子供を産んじゃえと。ああ、やっぱりバカにされてる!
S: 若いうちに産んで育ててから仕事しろと。
I: 何ものかになろうと必死になっているときに? 無理無理、絶対無理。大学は出てなくても、エリートでなくても、私にだってやりたいことはある。Sさんは、「リプロダクティブライフを無駄にした」とか思う?
S: 「大した仕事」もしてないけれど、それで何かを犠牲にしたとは思いません。自分にとっての本当の仕事はこれからと考えていますし。今思えば、Iちゃんぐらいのときに早く何ものかになろうと焦らなくてもよかったと思うけど、でも、志のある人にとって、先に子供を産んで自分の将来の見通しもないまま育児をするなんて無理でしょう。
I: 「女性は仕事をゼロにしないほうがいいでしょう(……)それは、けっして、インテリ層のできる仕事、ということでなくてもよくて、どんな仕事でもよいのです」とあるけれど、こんなことじゃ子供から手が離れたとき、とても再就職できないよね。
S: この人、自分の場合、「朝から晩まで会社に出ていって、子どもを保育所に預けて、という思いは長らくしていませんでした。でも、[仕事を]ゼロにした時期はなかったわけです」と言ってるけど、これ、詭弁だよ。〈子供を保育所に預けなくても仕事をゼロにはしなかった〉じゃない、例外的に恵まれた強者で、自宅で知的な仕事を続けられたから、保育所に預けずにすんだのよ。子供を産んだときはブラジルでフィールドワークを組織していて、「調査員たちに部屋に来てもらって数時間ディスカッションをしたり、調査のための質問表を見直したりしていました。あとは在宅で仕事をして、論文を書いたりできました」だもの。
I: ムカツクなあ。それで、「その他大勢の女性たち」には「どんな仕事でもよいのです」ってか?
S: 三砂さんは今の現実に合わせようとかなり折衷案を出しています(それでときどき無理が来ています)。仕事の問題もそうだし、結婚せずに子どもを持つことも柔軟に認めている。だけど基本的なメッセージはこうです。「女性にとっては、子ども
を産んで次の世代を育てていくということは、女性性の本質なので、そのほかのことというのは本当は取るに足りないことなのです。逆に、それらのことが中心にあるので、ほかのことに意味が出てくるとさえ言えます」ならず者の最後の拠り所は愛国心だそうですが、無力な女の最後の拠り所が子供なんでしょうね。もちろん、産むなら安全に、しかも管理されず、楽しく産んだ方がいいし、出産は素晴しい体験になりうるでしょう。そしてその際、夫のないことが不利に働かない、そういう社会にしなければ。そういったことは、けっして三砂さんが言い出したわけではない。産科で管理されて産むことに対する、お産を女の手にというオルタナティヴはずっと求められてきたことだし、処女性が尊重されるようになる以前は月経の手当てに布などを中に入れていたという話も、今までに聞き書きをしてきた人がいたはずです。女が、自分たちが自由になるためのものとして示し、主張してきたそうしたことを、三砂さんはただただ自分の文脈、すなわち、後半のヘテロセクシストな子宮中心主義に奉仕するものとして使っています。
I: 表題のオニババについて説明しますと、オニババが小僧さんを襲う話(私は知りませんでした)は、「社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり『エネルギー』の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だったと私はとらえています」「この『エネルギー』は、性と生殖に関わるエネルギーでしょう。女性のからだには、次の世代を準備する仕組みがあります。ですから、それを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくるのではないでしょうか」
S: だいたい、「性と生殖」ってどうして一緒くたにできるのか。
I: 黒猫さんが見つけてくれた、東京都港区の人のAmazonカスタマー・レビューがありましたね。勇気ある先人をおとしめているっていう――。
S: そうした歴史を知らずに、すべてが著者の発見と思ってしまう人もいるでしょう。以下にレビューを引用します。ある意味、この本の批評はこのタイトルに尽きるでしょう。

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下品です

「オニババ」……
いやはや、「負け犬」に劣らず、低俗な雑誌に好まれそうなインパクトだけを狙った下品なネーミングだと思います。
身体性に閉じ込められて来た多くの女性たちが、そこから解放されようと人生をかけて闘った礎の上に、今の女性の自由と地位はあります。
「身体性を取り戻す」を「子宮至上主義」にすり替えた、科学的根拠もない曖昧模糊とした理論、そしてこのタイトル。
勇気ある女性をおとしめる言葉であるということを、あらためて著者は考えてみるべきです。


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I: あ、一つ言っておきたい。トイレで出すだけなら、経血コントロール私もできるよ。
S: 月経のある人なら、多かれ少なかれ誰でもやっていることだと私も思いました。
I: ナプキンをあてるのは「垂れ流し」だなんて、あまりにもひどい言い方。なんで女が自分でそういうこと言うんだろうって思いました。
S: やっぱり「オヤジ」の代弁者でしょうか。実はね、男で、女はだらしがない、生理の血を筋肉を絞めて止められないのかって言った人がいるの。
I: えー、誰。
S: それを憤っている女の人の書いたものを読んだことがあるんだけど、ずいぶん前のことなので、何で読んだのか見当もつかなくて。ここ読んでまずそれを思い出しました。
I: 月経とお産の話、部分的には興味を惹かれるまともなことも書かれているんだけど、この人の話すぐエスカレートするんだよね。今の六十代、七十代はもういいお産をしていなかったというんだから、うちのおばあちゃんに、あたしのお産は至高体験なんかじゃなかったと反論してもらっても、「女としての生活を楽しめなかった」世代だからと言われるだけで。
S: かと言って、三砂さんがインタヴューした頃は七十代だった、現在九十五歳以上の人なら経血をコントロールできたって言われたって、そんな人見つけてこられないし。だいたい、過去を美化しすぎでしょう。いくら昔の日本はよかった、過去の知恵は素晴しかったというためといえ。お産で死ぬ人はいくらでもいたんだし、ナプキンだって私の経験だけで言っても、昔から較べれば格段に性能がよくなっている。
I: セックスもよくなっているのかな?
S: Iちゃんのような若い子がそういうことを口に出せるだけでもましになっているんじゃない? つらいおつとめだった人だって大勢いるだろうから。
I: ともかく男とセックスしていることが大切と三砂さんは言うんですよね。そして男を襲うオニババというような形でですが、女の性欲を肯定しています(――って、書きながら笑ってしまいました)。
S: 「現在ではもっとも性に対して保守的な人々でさえ、女の性的な歓びをまず肯定しなければ、性を語るわけにはいかなくなっている」と山崎カヲルさんが「身体的快楽の系譜学」で書いている通りですね。現在というのは、米国の性革命以降はということなんですが、三砂さんはアメリカ流のクリトリス中心主義にえらく反感を持っているようです。
I: だって、クリトリスだけでイケちゃったら(もちろんイケるわけだけど)、「行き場のないエネルギー」を解放するのに、男を襲わなくても――これ、おかしいよね、女が男に襲われるのが普通というか、現実なのに――よくなっちゃうじゃない。
S: そうなのよ。そうならないように、しょうもないお話が組み立てられています。「女の健康」にとって男が必要なことを言うためなら、矛盾に陥るのもいとわずに。
I: 文章拾ってみますね。「女性として生まれてきたからには、自分の性、つまり月経や、性経験、出産といった自らの女性性に向きあうことが大切にされないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか(……)反対に、自分のからだの声を聞き、女性としてからだをいとおしんで暮らすことができれば、いろいろな変革をとげることができるのです」
S: 都教委もそうですが、保守が変革をいう時代になったんですねえ。
I: 「女性は、これはなかなか説明しづらいことですが、性生活がないと、ある程度の年齢になるとやっぱりきついと考えます」これ、どういうことでしょう。
S: 女性の性欲について著者がどう考えているのか、今一つ不明ですが、「ある程度の年齢になると」とあるのをみると、若いときにはそうではなかったのに、年齢が上がると性生活――これがあくまで膣にペニスを入れる性交ということなんですが――なしでは「きつく」、「つらく」なると言っているんですよねえ。それで更年期過ぎると男を襲わなくてはならなくなるほどに性欲が昂進する? 「説明しづらい」と言うより、まるきり荒唐無稽なのでは。
I: この少しあとの文章、「単純に、たとえば盛りのついた犬はちゃんと、盛りを抑えるようなことをしないといけないではないですか。そうすると、穏やかになりますよね。でも、女性にそんなことを言っても、私、性欲感じません、という人が多いわけでしょうから」性欲感じないならオニババにならないんじゃないの?
S: それは、出産適齢期の若い女を想定しているんでしょう。きっと、処女のままだと意識化もできないとか思ってるのよ。こんな記述もあるし――「性欲としてその人が感じているかどうか、意識しているかどうかは別として、やっぱり人間として、女として生まれてきたら、女としての性を生きたいというからだの意思がありますから」
I: そうか、頭はぼーとしていて、からだの方に意思があるのね! それを抑えつけているとどうなるか、ここにも書いてあります。「ものすごく嫉妬深くなったり、自分ができないことをしている人を見るととても許せなくなったり……。自分のからだを使って、性経験や出産経験を通じて穏やかになっていく女性とは正反対の方向にいてしまうわけで、そういう人たちを昔はオニババと呼んだのでしょう」要するにこれ、一昔前の、ヒステリーのオールドミスってやつでしょ。
S: 二昔も三昔も前でしょう。「昔話で、山里に行って包丁研いで、というお話って、本当にびっくりするほど多いですよね」多いかどうか知らないけど……多かったとして、だから何なの?
I: 「女性が定期的な性生活を持たないとき、どのように自分の身体性と折り合いをつけていくか、ということの具体的な処方箋は、じつはあまりたくさんありません」オナニーすればすむことじゃない?
S: 「大人になって性関係を持たない女性が、どういうかたちで自分のからだを確認していくか、というのはとても大きな問題だと思いますが、あまり論じられていません」ともあるから、きっとオナニーもしないのよ。処方箋が一つ書いてあるけど、ふるってる。「ふつうの女性」――「聖職者や芸術家など特別な使命を持って独身を選び取る女性以外の女性」だって――がそういう環境にあると、健康に問題が起こりやすいんだそうで、それに対して『愛のヨガ』という本では、「お風呂でお湯を還流させながら長く入る、という、具体的な方法を提示しています」
I: 女性アーティストは、修道女だったのか。
S: オナニーの件は、事実を全く無視するわけにいかず、またしても折衷案です。つまり、「クリトリスはマスターベーション用のボタン、ぐらいの存在ではないのでしょうか」と否定的に出してくる。神社は女性性の象徴で、「鳥居をくぐって入ってくる御神輿が精子です。クリトリスなどは、鳥居についたマークみたいなものです。そんなところで、鳥居の入口で遊んで楽しいと思っているなんて、なんてもったいない、と昔の日本人なら思うのではないでしょうか」
I: なんで昔の日本人がどう思うかがこの人にわかるの?
S: だから、昔の日本人は神社=女性器と見なしていたからそう思うって。論理になってないんですよ。「性交によるオーガズムというのは、子宮が収縮するので、子宮にとってはいい運動になっているのでしょう」
I: あくまで「性交による」なのね。
S: 「でも、そういうことをあまり普段できないのであれば、少しぐらいは子宮を収縮させておくほうが健康に暮らせるので、そのための装置としてクリトリスがあるのではないかと思ったりします」
I: 勝手に「思ったり」してくれ。
S: 「少しぐらいは」とか「健康」のためとか、なかなか細心の注意を払った文章ですよ。「だから、相手の男性がいるときにやることではなくて――」
I: (笑)と入れましょう。
S: 「御神輿が入ってくるときに刺激されるというのは、ただ副次的なものなのだと思います(……)絶対にクリトリスは触らせない、という文化もあるのです」これ、性交中に、男にって意味でしょうか。「未熟な女の子の時期に、クリトリスを用いたセックスばかりしていると、膣の感覚が開発されなくなるので、触るな、ということだそうです。こんなものだと思っていたら、先に行けない、という示唆なのです」
I: 男とやっているときにってことですよね。「副次的に」刺激されるのがマクシマムなんだ。
S: 「女性としては、つねに子宮を使っている、ということも大事なことです。(……)あまり難しいことを考えず、現実に「セックスする」ということ自体が重要なのではないでしょうか。(……)そういったことがないとずうっと緊張したままになっていますから、子宮系のトラブルは出てくるだろうし、それこそ語源通りヒステリック(ヒステリー=古代ギリシア語で「子宮」)にもなります。「はじめに」でも述べた、オニババ状態です」まったく、ここまでベタな記述を、2004年に書かれた本の中で目にするとは思いもよりませんでした。(つづく)

■プロフィール■
(すずき・かおる)ブログ開設しました。http://kaoruSZ.exblog.jp/





■連載「文学のはざま」第5回■


白目むく中原昌也の大躍進

村田 豪



 今年に入って中原昌也の本が4冊もたてつづけに刊行されました。小説あり、映画についての対談集あり、ミュージシャンとしての自身のノイズ系CD付きブックありと、それぞれに面白いものです。その中でも『ボクのブンブン分泌業』(太田出版)というエッセイ・音楽評・映画評・対談などなどをかき集めた「雑文」集は、スゴイといいようがないぐらいサイコーです。それに中原という作家の「秘密」を探るうえでも、これはとりわけ興味深いものでしょう。

 中原昌也といえば、3年前に長編(?)小説『あらゆる場所に花束が……』で三島賞を受賞しました。その時、この奇妙な作品について、はたして正当な文学的意義を見いだせるものかどうか、あるいは下品でデタラメな「小説もどき」にすぎないのではないか、と文壇では多少の物議をかもしたことが思い出されます。といっても、まあ、みなさんはあまり関心もなくそんなこと知らないかもしれませんけれど。とにかく、新しく出た『ボクのブンブン分泌業』は、その問題にもう一度、前とは違った形で照明をあてうる格好の材料を提供しているように思えます。今回は、中原の「秘密」と「魅力」に迫るべく、あらためてその作品評をたどり直しながら、最新作を論じてみたいと思います。

 中原の小説の第一の特徴は、まずは大ざっぱに以下のような点があげられるでしょう。

 @エピソードが次々に現れるたびに話題の中心がどんどんずれてゆき、話の途中ともいえる場面で不意に作品自体が終わってしまう、その脈絡の欠落と途絶感
 Aバカバカしくて使いようのない紋切り型のフレーズやありきたりの言葉づかいが、場違いなまま過剰に打ちだされる時の異化作用
 B人物たちの奇矯で、理解を絶する言動と性向
 C妄想的でありながらも、出来事が放つ暴力的で強烈な露呈の感触
 D語り手が作品に対してとっているはずの距離感・位置関係の不分明さ

 これらの要素が絡み合うことで、作品には独特の不条理とユーモア、不吉で不快な印象と不思議な爽快感が醸しだされることになります。確かにこんな作品は他にはないと、感服させられるのです。

 しかし一方で、筋や物語に一貫性がなく無頓着であるがゆえに、「何が言いたいのか理解できない」「意味不明」「デタラメ」との否定的評価があることも認めなくてはなりません。おそらくほとんど誰もが、その小説の内容を具体的に思い浮かべたり記憶したり、人に伝達したりすることにひどく困難を感じるはずです。それぐらいいわば「メチャクチャ」なのです。当時、三島賞の選者の一人であった宮本輝も「フラグメントの重ね合わせで無用に長い作品に仕立てあげたこと自体、私は幼稚だと感じた」と、いわばその「無内容」を指摘し、あくまで受賞には反対だったのでした。

 興味深いのは、中原を評価・擁護する評者たちにも、事態はそう変わらないことです。つまり、宮本輝が「無内容」と規定したまさに同じその小説同じその文章を、それとは逆にポジティブなものとして指し示さなければならないのですから。しかしながら、これが何であるかを端的にいうことは、擁護派の批評家たちといえどもやはり難しいようなのです。それで、中原作品を「直接」説明するのではなく、何ごとか別のものに喩えるように強いられることになります。しかも大抵は一つの喩えではしっくりこないとでもいうように、手を変え品を変えいろいろな比喩を繰り出そうとしたり、何かに似ているといい募ったりするのです。そういう作品への接近の難しさ自体が、中原小説の特徴をまた示しているのかもしれません。

 面白いので「小説家・中原昌也」が認知され始めた頃のそんな例をいくつかあげてみましょう。

 「この小説の斬新さを発見できない人間は批評家の看板をおろすべきだろう」と挑発的なタンカを切って激賞したのは陣野俊史です(『文学界』2001年5月号「新人小説月報」)。そのナンセンスさにおいて彷彿させるということでしょうか、『あらゆる場所に』を評して、「手短に言えばこの小説は深沢七郎である」とズバリ言いきっています。けれど残念ながら具体的にどこがそうなのかはよく分かりません。というのも陣野の説明では、中原の小説は「レミニッセンス=無意識の借用」という高度なレベルにおいて深沢文学と遠く呼応しているらしいからです。ありていに言えば「そんな感じがするぞ!」というぐらいのことなのでしょう。それでも作品の雰囲気を伝えようとして喩えられた「ドアが次々に開き、そのドアがバタバタとしめし合わせたように閉じる読後感」という表現は、先ほど@で取り上げた脈絡のバラバラさ加減や途絶感をよく表していると思います。

 同じく「新人小説月評」(『文学界』2001年5月号)で高澤秀次は、すでにあり得ないはずの「前衛」という問題性に触れ、中原をデビュー当時の高橋源一郎と引き比べています。高橋自体が「前衛」など不可能だというところから始めたのだから、今さらそんなものに幻想を抱くことはありえない、という論旨です。ところが中原の「前衛」ぶりを否定するのかと思いきや、「冷凍保存された言葉が、解凍しきらぬままに発火したように、そこかしこに不吉な冷気と焦げ臭さ、血腥さまでもが漂っている」「言葉を冷たく発火させる物騒な起動実験なのである」という比喩をつむぎだしては、その「過激な新しさ」に相応の評価を与えているようです。

 また丹生谷貴志は、中原作品の「文体の端正さと驚くべき簡潔さ」に感激したことをいち早く表明しました(『新潮』2000年4月号)。その不思議な文体の「秘密」を説明するのに、「地表に芽吹いた瞬間に成長を放擲してしまう不思議な植物群の簡潔さに似ていると言うべきかもしれない」という、おそらく実際に小説を読んだ他の誰もが、絶対に思いつかないような美しいメタファーを用意したのです。そして「痙攣的切断と固着した幼生の世界」という独自の観点で梶井基次郎の仕事と重ね合わせています。ただ、これが妥当なものなのかどうか、「檸檬」しか読んだことのない私には判断がつきかねますが。

 評価についての是非はどうであれ、以上のような批評家の身振りには、どこか変なところがあるのは分かっていただけるでしょうか。なぜこんなにも比喩を多用するのか、なぜ誰かほかのものに似ていると言わなければならないのか。それは作品から強烈な印象を受けるのに、いざその「魅力」に迫ろうとすると、どうも具体的にはとらえどころのない作品であることに気づかざるをえないからに違いありません。分析してみたら、受け取ったはずの印象が間違っていることになりかねない。だから作品の分析よりは、印象の補強のためのメタファーが誘発されるのでしょう。他の作家を持ち出すのも、イメージを塗り固めておくのに都合がいいからにほかなりません。

 しかし、それだけでは何か物足りない感じがします。どちらかというと評者のもともと持ち合わせていたある種の文学イメージをなぞっているだけで、真に迫る作家評・作品論になっていないのではないか、という疑問がわいてきます。そういう私の不満に応じてくれるような中原評がないものでしょうか。いえ、一つだけあったのです。自身が比較の対象にされもした高橋源一郎の論じる「暗号としての中原昌也の小説」です(『小説Tripper』2001年秋号)。

 高橋も例によって「中原の小説に(…)似た印象を受けるのはアメリカの作家、ドナルド・バーセルミの小説だ」と似たものの推察から始めているのですが、他の評者と違うのは、比喩で印象を包んでしまわずに、意味不明でも、というか、意味不明であるがゆえに、もとの中原作品の断片をいちいち引用して分析しているのです。引用は作品のあちらこちらから計20箇所にも及んでいます。そして脈絡を追うのでなく、その文が形作る不思議な印象はどこからやってくるのか、と具体的に文の構造をいじくりながら、中原の「秘密」を解読しようとしたのです。

 中原の文章を「直接」扱うことで、高橋が最終的に導き出したのは、“中原の小説は解読すべき原文が存在しないような暗号文だ”という見方です。何だ、それでは「デタラメ」というのとそう変わりないではないか、と言いたくなるところですが、やはり違うのです。なぜならそんな暗号文は、人を「覚醒」させるからです。「デタラメ」とれなればそれですべて終わってしまいますが、暗号文であるからには、何かがそこにあるかもしれないと、われわれを探究に駆り立てることになるからです。読者として中原の作品に接するとは、その「覚醒」において「暗号文をただの暗号文として」読むことであり、「その不思議な日本語を、直接味わうしかない」のです。そんな高橋の結論に、私はかなりの納得がいったのでした。

 しかし、ようやく本題に戻りますが『ボクのブンブン分泌業』を読むにいたって、中原昌也というヤツはホントに「食えない」ヤツだということが、よく分かるのでした。これまでの中原評は、デビューの頃から三島賞受賞前後に集中していたせいもあるのですが、問題の捉え方が、ある側面のみに偏っていたのではないか、という気がするのです。 ある面というのは小説の「芸術性」としての面ということです。ところで、由緒正しい近代小説には、確か「実存」や「人生」としての側面もあったよなあ、とそう思い出すのです。

 つまり『分泌業』に含まれるいくつもの小文を読んでいって、驚きあきれるのは、作家中原昌也のその「実存」ぶりなのです。何のことかというと、文芸誌の注文原稿のエッセイであろうが、音楽誌の60年代ロック紹介の企画だろうが、サブカル誌での映画コラムであろうが、「原稿を書くのが苦痛だ」ということばかりを書いているのです。はじめはおそらく編集者からの要望を満たそうと、本人も努力している形跡はあるのですが、単発ならば原稿の半ばあたりから、連載ならば3回目ぐらいから、「書くことがない。なんでこんな嫌な原稿を引き受けてしまったのか。もともと書きたいことがあったわけでもなく、特に書くのが得意でもない自分が、なぜこんな文筆業みたいな苦痛でしかない仕事を強いられなくてはならないのか」などとぼやき始めるのです。

 何だ、そんなことは作家によくある苦労話か自己韜晦の一種ではないか、と思われるかもしれません。けれど中原は、間違いなくいくつかの点で「本気」なのです。

 まずよく想像してほしいのは、サブカル誌や音楽誌で、連載のテーマと全く関係のない「書くことの苦痛」を綴り続けるその光景です。「金をくれるから我慢してこうして書いているが、よく考えたら家賃も払えないようなちっぽけな原稿料のために、なぜこんなに苦しまなくてはならないのか。そんなことなら連載など早々にうち切って、いっそコンビニバイトでもしたほうがマシなのではないのか。いわば編集者Aに自分は騙されたようなものだ。とにかく原稿を書かずに生活がしたい……」よくこんなものを載せたな、と感心してしまいますが、そんな内容の文章が行ったり来たり数回も続けば、編集者側も根負けするのでしょうか、晴れて(?)連載は打ち切りになるようなのです。それにしても事後的に作家の本としてまとめられているからまだこうして読めるのでしょうが、連載時に読者はそれを一体何だと思っていたのでしょうか?

 ところが恐ろしいもので、中原の生活の都合と雑誌ジャーナリズムの需要がからまりあって、中原にまた別の原稿を書かせているのです。しかし書くことが急に楽しいものになるはずもなく、苦痛は続くのですが、そうならばとしまいには本人自身が「原稿がイヤでたまらない中原昌也」を売りにし始めるのです。

 例えば「中原昌也のための音楽ライター養成講座」と銘打って、“三島賞を取った作家なのに、今だ原稿をどう書けばいいか分からない中原昌也さんのため、音楽評論家各氏に著述業のなんたるかを教えてもらう”というような連載を始めたりしています。そこでも雑誌側の主旨よりも中原は悪辣で、「どうすれば手抜きして原稿を仕上げられるのか」をしきりに聞いているのです。また別の連載ではとうとうタイトルに「連載打ち切り秒読み状態」とかかげ、これは連載の1行目から「新しい連載がはじまった。最初に言っておくが、何も書くことは決まっていない。僕には特に何もみなさんに伝えたいことなどないのだ」と始まるシロモノなのです。

 これら「書くのがイヤだ病」を発症した時の中原の言っていることは、基本的にいつも同じことの繰り返しで、まとめて読んでいると心の底からあきあきしてくるようなものですが、雑誌掲載の初出時を確認しているといろいろ面白いことにも気づきます。一つに、作家としてよりは「暴力温泉芸者」の名でミュージシャンとして知られていた時代からすでにこの「病気」は始まっていたことです。つまり最近になって身にまとったジャーナリズム上の「芸」とだとも言い切れないのです。しかし作家として認知され、三島賞を受賞した以降にその症状が頻発し、深刻化しているということも見逃せません。そしてこの病は、とうとう小説のうえでも伝染し、発症するのでした。

 今年出た4冊のうちの一つである短編小説集『待望の短編集は忘却の彼方に』(何か冗語的ですが、本の題なのであしからず)所収の7編のうち、半分以上の4編がその症状の影響下で書かれたものであることが、はっきり分かります。とくにタイトルも露骨な「お金をあげるからもう書かないで、と言われればよろこんで」は、「作家・中原昌也」が企業から流出した個人情報を売りつける怪しい売人として登場し、全く商売として成り立たずすでに廃業したという作家業への悪態、そこを牛耳っている石原慎太郎への中傷をさんざんにまき散らすという内容です。

 また「凶暴な放浪者」の前半は、中原らしき人物がエッセイと同じような「書くことがなく、苦痛で仕方がない。金のために無理矢理くだらないことを書いている自分が、読者などよりいっそうつらい」という恨み言を延々と語り続け、黙って聞かされることについに我慢が出来なくなった編集者が「ボーナスをあげるから、もう読ませないでくれ!」と、「凶暴な放浪者」というタイトルの原稿を燃やしてしまうという、ほとんどこれ以上説明を要さない話です。

 先に、中原文学の核心は「原文のない暗号文」だという高橋源一郎の批評を紹介しましたが、この解釈は、もうすでにお分かりのように、完全に中原の行状においてくつがえされています。たしかにそこに「読むべき価値のあるもの」としての「原文」はないのかもしれない。しかし「これは暗号ではないか」という高橋が導いた「覚醒」は、中原のばかばかしいまでにあらわな「実存」の前で、うつろなお為ごかしと今やなり果ててしまっています。

 もちろん『待望の短編集』でも、そんな私小説作家もビックリの「心情告白」ばかりではなく、それまでの了解不能で不可思議な作品世界は健在ですが、どちらかというと、その作家の「実存」がせり出し、自身の作品世界を新たな混乱へと引き込んでいるように思えます。つまり解読不能とされたことにたいし、今度は同じ作品内に小説を読み解くための恐ろしく単純なコードを導入してしまったのです。つまり「書くことなど何もない。金のために書いているだけ。原稿が埋まるなら内容などなんでもいい」というあけすけな作者の声ですが、これがとりあえずはそれまでの中原解釈への批評として作品に動きをあたえているし、今のところ「理解不可能のコード」と「理解もクソもないコード」は、危うい均衡を保っているように思えます。

 もちろん、これからもそううまくいく保証はありませんが、デビュー当時に「成長以前の一瞬に氷結してしまったような」過激な「簡潔さ」ゆえに、丹生谷貴志から「未来はない」と予見されたことを思うと、今のところ予見を裏切って「反作家」然として堂々とやっているなあ、と私には素晴らしく思われるのです。

 最後に、先月『新潮』10月号誌上での筒井康隆と町田康と中原の対談「破壊と創造のサンバ」を紹介して終わりましょう。それぞれ独自に既存の小説スタイルを破壊したとされる3人として人選されたようで、筒井・町田はそれぞれに自らの実験的試みを自負して語っているのですが、中原一人、またいつもの調子で間抜けたことをうそぶいています。

 中原 自由奔放にやるっていうのは大変だなぁ。やっぱり決められた安全地帯でやっているのが一番いいってことなんですかね。

 とか言って、筒井に怒鳴られているし、盗作や剽窃の問題を話しているときのコメントも最高にふるっています。

 中原 そういえば引っ越しで忙しかったんで、「新潮」で書いた小説のフレーズを「文学界」に使い回したら、編集者に唖然とされましたけど。どうせ同じようなことしか書けないんだから、いいじゃないですか。ねえ。(……)同じ文章だって違う気持ちで見れば違うものに読めるわけだし。マンネリだと思うのは、読者のほうが悪い。冷水で顔洗ってから読めと言いたい。なははは。

 ここまでふざけられるのも、一種の才能だと認めてもいいでしょう。おそらく「書くのがイヤだ」というのは、嘘偽りのない事実なのでしょうが、そのあまりの反復ゆえ独特のユーモアに転化してしまうのも、このキャラのあってのものであるかもしれません。「そんなこと言いながら、また書いているよ、この人!」とわれわれは笑わうしかなくなるのですから。

 ちなみに、本稿タイトル「白目むく中原昌也」というのは、雑誌などの写真で中原がよく白目をむいて写っていることからきています。その白目に意味は、……たぶんない。

■プロフィール■
(むらた・つよし)1970年生まれ。腹ぺこ塾塾生。





■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★『オニババ化する女たち』という本は、なんとも下品で不快になる代物のよ うだ。Amazonのその後のレビューでも批判派が増えてきている。たとえば著者 と同業の女子大の先生によれば「この種の科学的な装いをこらしたトンデモ本 (と、敢えて言わせていただきます)が、出回ることによって、「女はセック スや本能に翻弄されて生きるもの」という男たちの都合の良い決めつけがまた 行われるのかと思うと腹立たしいだけでなく、不快です」と。
★黒猫は村田氏のエッセイで、中原という作家をはじめて知りましたが、読め ば途中で放り出すか、あるいはふかく感動するかもしれないなあ〜。と思い、 村田氏にその本を借りました。(黒猫房主)





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