『カルチャー・レヴュー』42号



■連載「伊丹堂のコトワリ」第4回■


ヒステリーって何なんだ〜!?


ひるます



獏迦瀬:前回は日本の「世間」についてお聞きしましたが、結局のところ、問題は個々の人間の生き方なんだってことになりましたね、ようするに実存ってことです。
伊丹堂:ま、それはいつも言ってることなわけじゃがな(笑)。
獏迦瀬:しかし、実存というのは分かりにくい話でもありますよね。
伊丹堂:まあね〜、いわゆる実存的に生きたことのない人には、言葉でいっても永遠に説明できないもんじゃろ。
獏迦瀬:そうなんですか……、僕なんかは分かるのか自信ないスね。
伊丹堂:ようするに、自分のやってきたコトを自分の責任として引き受けて、あるいは何かを自分の責任でやってくってだけのことなんじゃが、それだけのことでも「自覚」してないとなかなか出来ない。実存というのは、自覚的に作り上げた成果としてそうあるような態度のことなんじゃな。
獏迦瀬:どうすれば実存的に生きられるんでしょう?
伊丹堂:そりゃ本人ががんばるしかないじゃろ(笑)。
獏迦瀬:そうすね……。ていうか、はっきり言って「そういうふうには生きられない人」ってのがいるわけじゃないですか。
伊丹堂:まあね。
獏迦瀬:それは「世間」とか「文化」という問題ではなくて、個人的な問題というべきなんでしょうけど、ようするに生い立ちとか性格とか、そういう問題からして「まっとうに」生きられないという問題があると思います。
伊丹堂:それはしょうがないじゃろ、そもそも本人もそういう生き方をのぞんどらんだろうし。
獏迦瀬:ま、実存が大事っていっても、全員がそう生きよ、というわけではないですからね。
伊丹堂:人生いろいろじゃろ。
獏迦瀬:そうなんですが、自分の責任をぜんぜん自覚しないで、人のせいにしたり八つ当たりしたりする人が多くて(笑)、非常にメーワクしたりしてるのです。
伊丹堂:ああ、実際問題ね(笑)。そりゃ問題じゃな。
獏迦瀬:そうなんですよ。人格障害っていうんでしょうか……。
伊丹堂:いや、人格障害ってのは、この対話シリーズでは何度も話題にしてるように、共感能力の欠如なんであって、そういう人は逆に人に当ったりしないのな。当るってことは、他人との「感情の共有」を前提にしてるわけじゃから。
獏迦瀬:なるほど、共感ですか。
伊丹堂:そう。だから人格障害者に「責任の引き受け」や、それをともなう「決断」というような「人格的」な心の動きは存在しないとしても、彼らであれば、責任をとらないことについて、ただ「当たり前」と思うだけのことじゃないかの。
獏迦瀬:ああ、無頓着というか……。
伊丹堂:じゃな。当ったり人を巻き込むのは「ヒステリー」というジャンルじゃな。
獏迦瀬:ヒスですか。ヒステリーって、病気ですよね。
伊丹堂:心の葛藤が身体症状に転化されるのが、精神医学上のヒステリーじゃな。体が動かなくなったり痛んだり、特定の動作をしたり、泣叫んだりってやつ。逆にそういう「身体症状」からその背後に「無意識」を発見したというのが、フロイトのストーリーなわけじゃが。
獏迦瀬:ようするに「葛藤」という心の動きがあるわけですね。
伊丹堂:まあ、説明概念じゃな。見たわけじゃないから、ほんとにあるのかは知らん(笑)。ちなみにヒステリーをもっともうまく説明したのが、斎藤環の「依存しつつ拒絶する身ぶり」という定義じゃ。
獏迦瀬:この対話でも何度か引用しましたが、なるほどという感じです。
伊丹堂:拒絶する身ぶり、というのはヒステリーの身体症状やヒステリー者の困った行動をうまくとらえてるが、なによりも「依存しつつ」というのがミソじゃな。
獏迦瀬:たしかに。拒絶するなら、ふつう相手とは縁が切れるはずですが、人のせいにしたり八つ当たりすることで、逆に濃密にかかわってくるという感じなんですよね。
伊丹堂:がはは。ヒステリーの人は「共感能力」過剰というか、共感ってことを人間関係の前提に考えてるんじゃろうな。勝手に共感してるというか。
獏迦瀬:わかってくれるハズという感じですよね。
伊丹堂:ある意味で、ヒステリーと世間は親和的というか、共通のものがあるのかもしれんな。ようするに「共通の時間」を生きていると勝手に夢想しておいて、そうではない者がいたり、そうではないことが分かると、それこそヒステリックに攻撃をはじめる。
獏迦瀬:なるほどね。ヒステリーというと女性という感じがしますが。
伊丹堂:それは印象判断じゃな。以前「臨場哲学通信」で批判したヒステリー政治家はほとんど男だぞ。
獏迦瀬:ああ、そうでしたね……。世間という文化的背景の影響もあるのでしょうか。とすれば、日本にヒステリー性格が多いのも納得できますね。
伊丹堂:しかしそれを言うなら、アメリカの「報復戦争」そのものがヒステリー症状じゃろ。
獏迦瀬:ああ、よく言われることですよね。この場合は「グローバリズム」という形で、世界を「共通時間」の中に取り込んでしまっがゆえの結果なんですかね。
伊丹堂:それはどうかな。国家の上層部の行動をそういう「比喩」で語るのは危険なんじゃが、ワシのいうのは、一般市民レベルで、このような無法な戦争行為を支持させてしまうのは何か、ということじゃ。これはたしかに「病い」というしかない。健全に、ふつうの民主主義的感性、そしてまともな遵法精神のある「市民」であれば、当然、疑問に思うべき行為を、「心理的レベル」で正当化させてしまう。ここには「ヒステリー症状」というしかないものがある、ってことよ。
獏迦瀬:はあ。
伊丹堂:ヒステリーのもう一つの特徴は「記憶の恣意的なコントロール」ってことよ。斎藤環もどこかで解離性人格障害(多重人格)は、形を変えたヒステリーだと言っていたが、まさに「多重人格」ってのも、記憶のコントロールにかかわる病なわけじゃろ。ヒステリーの場合も、人に当ったり責任転嫁する場合、自分の都合のよいように記憶を書き換えているものよ。
獏迦瀬:あ、そうです、そうです。
伊丹堂:困ったことに、その書き換えはまったく無自覚に行われていて、本人は完全にほんとうと信じてる。ヒステリー者はあきらかに「嘘つき」なんじゃが、本人に「ウソ」という自覚もなく、罪悪感もない。それが問題じゃ。
獏迦瀬:そこを突いても話にならなくて、逆に相手のペースにのせられるというか、さらに巻き込まれてくって感じですよね。
伊丹堂:それがヒスってもんよ(笑)。ま、それと同じことで、アメリカ人も、状況をある程度理解ししていながら、自分達の都合のよいように記憶を改ざんしいてるわけよ。あるいは大量破壊兵器がなかったなどという重要な情報をあえて見なかったことにする、とかな。
獏迦瀬:なるほどね。……それにしてもヒステリーはどうしたらいいんですか?
伊丹堂:だからほっとくしかないんじゃが……、ていうか、ヒステリー者にほんろうされるのは、自分の方にも原因がある(笑)。ようするに、キミもヒステリー者に依存してるのよ。
獏迦瀬:うっ……。
伊丹堂:ちなみにふつうの人がヒステリーになるのは、やはり幼少時の成長過程で「愛情の体験がなかった」ってことじゃろ。その辺りのことは、このシリーズの最初の家族や愛の問題で語ったわけじゃが、それをよ〜く考えてみることじゃな。
獏迦瀬:精進します。
■プロフィール■
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」






■連載「マルジナリア」第4回■


存在の一義性

中原紀生


●未完のベルクソン論『感想』が第五次小林秀雄全集・別巻として刊行されて二年余り。長年求めていた幻の論考を書物のかたちで手にできさっそく読み始めたものの、当初の緊張は持続せず、やがて活字を追うだけの怠惰な読書態度とともに精神はすっかり弛緩していった。
 結局その時は、もっとも読みたかった四十九節以降──『物質と記憶』が到達した物質理論、すなわち「内省によって経験されている精神の持続と類似した一種の持続が、物質にも在るというベルクソンの考え」を「今日の物理学が到達した場所」(量子論)に関係させながら、アインシュタイン対ベルクソンという「存在しなかった二人の論争を、一個の思想劇として存在させてみせること」(前田英樹)を企て、ついに力尽きた五十六節まで──にはるか及ばないところで未完のまま中断した。
 この夏、再読へのはずみをつけるため山崎行太郎『小林秀雄とベルクソン』、前田英樹『小林秀雄』の二冊にあらためて目を通した。

●『小林秀雄とベルクソン』は、小林秀雄の過激な原理的思考と理論物理学とのきわめて密接な関係──「小林秀雄の批評は、アインシュタインの「相対性理論」の出現と、ハイゼンベルグらの「量子物理学」の出現とに代表される、かつてない大きな二十世紀の「科学革命」という歴史的状況の中から生まれてきたものであった」──を文壇デビュー以前から丹念にたどってみせる。
 そのうえで、小林秀雄という批評家の「火薬庫」ともいうべき『感想』について、「それまで、秘密のベールにつつまれていた小林秀雄的思考の急所を、ベルクソン論という形で公開した」「原理論の書」、「ベルクソン論というよりベルクソンを素材にして、小林秀雄が、様々な思考実験を行った評論」、「小林秀雄自身による小林秀雄論」、「遺書」と規定している。
 小林秀雄と理論物理学というテーマ設定そのものはいま読んでも画期的だと思うが、『感想』刊行後となってはもはやそれだけでは物足りない。

●たとえば、山崎氏は小林秀雄が理論物理学に異常なまでの関心をもった理由をめぐって、小林が物理学革命の中に自身の体験してきた文学革命と同じものを見出したからであり、またアインシュタインの例に見られるような矛盾を恐れない過激な思考力の展開のためであったと書いている。
 ここで言われる文学革命の実質は「物」的世界像から「場」的世界像への転換であって、それは小林自身のドストエフスキイ論のうちに表明されていた。──ドストエフスキイは「人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして扱い、主客物心の対立の消えた生活の「場」の中心に、新しい人間像を建てた」。「ここに現れた近代小説に於ける世界像の変革は、恰も近代物理学に於ける実体的な「物」を基礎とした従来の世界像が、電磁波的な「場」の発見によって覆ったにも比すべき変革であった」。

●あるいはそれは「様々なる意匠」に出てくる「人間喜劇」から「天才喜劇」への転換、つまり小説家小林秀雄の挫折から批評家小林秀雄の誕生にいたる「知的クーデター」のうちに表明されていた。
 そこには──ニールス・ボーアが「量子論にあっては、私達は俳優でもあるし、観客でもある」と表現した「観測問題」とともに──「実在」の客観的記述をめぐる理論物理学のパラダイム転換とパラレルなものが潜んでいる。
《小林秀雄が「観測者」としての「作家」を問題にしたということは、…きわめて画期的なことだと言わなければならない。つまり、作家は「人間」という対象を観測する古典物理学的な観測者である。これに対して、「観測者」としての「作家」を観測する批評家の誕生は、世界観、ないしは存在観の変換を背景にしている。》

●小林秀雄と理論物理学をつなぐいまひとつの側面(矛盾を恐れない過激な思考力の展開)をめぐって、山崎氏は──小林自身の言葉で「ある人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。その人の宿命にかかっている」と表現された──「宿命の理論」をもちだす。
 山崎氏によれば、宿命の理論は「概念と実在の一致」が真理であると考えるような認識論が崩壊したあとで、それにとってかわるべきもう一つ別の認識論へとラディカルに思考軸の座標変換をはたす、極限から極限への命懸けの飛躍を伴うものであった。
《小林秀雄は新しい理論によって、新しい解釈を提出したのではない。小林が提出した問題は、理論が現実と一致することは決してありえないという、理論的思考そのものの不可能性という問題であった。(略)小林はあくまでも理論の人として、その理論の可能な限りの極限をめざした人である。そしてその理論の極限において、あらゆる理論がそのパラドックスに直面して崩壊していく様を見た人なのだ。すくなくとも小林秀雄は、アインシュタインの相対性理論からヘイゼンベルグ、ボーアらの量子物理学にいたるまでの理論物理学の歩みをたどれるだけの理論的能力の所有者だったことを忘れてはならない。小林のベルクソン論は、まさしく量子物理学の説明が終わったところで中断している。小林秀雄ももうそれ以上先へ進むことができなかったからだ。》

●それ以上先へ進むことができなかったのは、むしろ『小林秀雄とベルクソン』の方である。そもそも山崎氏の議論は、理論物理学の話題を抜きにしても語りうるものだ。そこには『感想』における小林秀雄の思考が強いられた錯綜や紆余曲折に拮抗するもの、あるいは「実在の複雑紛糾」(『物質と記憶』第七版の序)に由来するもの、端的に言えば「観念論や実在論が存在と現象に分けてしまう以前の物質」(同)に対するさしせまった「問い」──「彼の全身を血球とともに循る」(「様々なる意匠」)ほどの──を見出すことはできない。

●ここで、先にふれた『感想』五十四節の冒頭を正確に引用しておこう。《内省によって経験されている精神の持続と類似した一種の持続が、物質にも在るというベルクソンの考えは、発表当時は、理解し難い異様なものと思われたが、今日の物理学が到達した場所から、これを顧みるなら、大変興味ある考えになる。物理学が、[プランクの]常数hの有限値の為に、物的世界を、マクロコスムとミクロコスムの二つの世界に区分して理解しなければならなくなった事は、「実用の[プラティック]」世界の奥に「運動性[モビリテ]」の世界が在るというベルクソンの哲学的反省に一致している。そうは言えないとしても、両者は決して無関係ではあるまい。》

●いまひとつ、五十五節の末尾から。《物資の持続は、これをどこまでも分析して行けば、限りなく早い諸瞬間の継起になり、それらは、遂に、互に等価なものに、同質の振動になって了うであろう。これが、絶えず新たに繰返される現在なのである。そして、持続に於て継起する諸瞬間の完全な等価とは、まさしく、絶対的必然性を意味する。ただ、注意すべきは、そういう、各瞬間が、それに先立つ瞬間から数学的に導かれる厳密な必然性が、物質の持続の真相であるとは、ベルグソンは断言していない事である。(略)予言は的中したと言っても過言ではない。少くともこうは言えるだろう。ベルグソンの物質理論は、彼のメタフィジックのほんの一部を成すものだが、彼が、自分の仕事を、ポジティヴィスム・メタフィジックと呼んだ真意は、今日のフィジックが明らかにした筈だ、と。》

●私は何も現代の「フィジック」や宇宙論や分子生物学や脳科学が明らかにした事柄に即して、小林秀雄が『感想』で取り組んだ「問い」を引き継ぎ、小林が言うところの「物質精神連続体」としての実在の二重性をめぐる「メタフィジック」の構築をめざすべきだったと言いたいのではない。
 山崎氏はたしかに小林秀雄の批評が孕んでいたある「秘密」の所在を明らかにした。それは正当に評価されるべきだし、『小林秀雄とベルクソン』は決して暇つぶしに終わらぬ面白い読み物だったけれども、その論考自体は小林流の批評ではなかった。少なくとも小林秀雄が『物質と記憶』に迫っていった渾身の緊張をもって『感想』に挑んだわけではなかった。

●前田英樹の『小林秀雄』はスリリングな論考だった。とりわけ、絵画記号をめぐる『近代絵画』や音声言語をめぐる『本居宣長』との(三部作としての)関連性において、『感想』が成し遂げた達成を様々な水準における二重性──生活上の行動がもつ「能動性」と実在との接触に関わる「受動性」、知覚(科学)と直観(哲学)による経験の「二重化」、物質と精神という「実在が私たちの経験に与える二重の相」もしくは「経験の事実としての二元論」、あるいは知覚(物質)と記憶(時間)の各々がもつ「現実的[actuel]」と「潜在的[virtuel]」という二つの次元、知覚における無意識と記憶における無意識の「二重の潜在性」等々──に即して腑分けしきった叙述は、質量ともに本書の白眉をなすものだ。

●前田氏は、「モビリテ」の世界は「プラティック」な行動の世界の奥に、すなわち「物質の潜在的次元」にあると言う。そして量子論が顕わにした極微的物質の世界は、その存在の仕方においてベルクソンの「潜在性」と通じ合ってくるのだが、「潜在的なものを、現実的なものを語る用語によって説明すれば、理性にとって堪えがたい矛盾、あるいは逆説を引き起こすしかない」と書いている。
《『感想』が執拗に繰り返すように、私たちの生は、記憶と知覚とに、二重化され、記憶と知覚とはまたそれぞれに二重化され、知覚に与えられる物質もまた二重の構造をもって現われる。この二重性は、あらゆる水準において〈現実的なもの〉と〈潜在的なもの〉との関係を取るが、「常識」は自然の設計がもたらすこの二重性を、行動の中で一挙に統一して生きている。小林のベルクソン論が一貫して説くことは、この統一[ユニテ]から身を起こし、こうしたユニテが自然のなかで不断に果たしている二つの方向への分極を同時に果てまで辿ってみよ、ということである。(略)だが、行動が果たすユニテの二つの方向への分極を、同時に果てまで辿っていくことは、どのようにして可能なのだろうか。量子論のパラドックスは、潜在的なものの構造を現実的なものの用語法によって思考し、その結果を数式の統計的可能性によって表現する、というところから来ていた。それならば、重要なものは言葉、すなわち、実在が持つ二重の方向を同時に辿りうるような言葉だろう。小林が、この問題を徹底して取り上げるのは、言うまでもなく、宣長論においてである。》

●ところで、私が『小林秀雄』を読みながらつねに想起していたのは、かの「精妙博士」ドゥンス・スコトゥスの名であり、ジル・ドゥルーズ(『差異と反復』)がスピノザの実体やニーチェの永遠回帰の系譜に位置づけた「存在の一義性」の概念だった。
 山内志郎(『天使の記号論』)によると、存在の一義性とは存在が神と被造物、無限と有限とに中立的である(両者の間の共約不可能性の条件となる)ということだが、それだけではない。そこにはあたかも受精以前の卵はオス、メスの「いずれでもないが、いずれともなりうる」という、「事物に内在する積極的なものが現実化をなす」内在的超越の思想が込められている。そしてそのような意味での存在の一義性において要となるのが潜在性(virtualitas)である。
《〈存在〉の一義性の構造の骨組みだけ取り出せば、〈存在〉概念が矛盾対立を引き起こしうる統一性を持った概念であることは、〈存在〉の一義性の〈十分条件〉であり、〈存在〉の中立性は、その必要条件であり、〈存在〉の潜在性における第一次性(primitas virtualitatis)ということが、その必要十分条件である、ということだ。》
 ──小林秀雄の批評と理論物理学と西欧中世哲学。実在の二重性、実在との接触をめぐる三組みの思考の跡を丹念に読み解き重ね合わせてみること。企てる前に力尽きたこの試みに向けて、無学を乗り切ることはもちろん大体の見当をつけることさえ(『感想』を読み終えていない私には)できない。

■プロフィール■
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。 共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
★E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html





●●●●INFORMATION●●●-------------------------------------------------

 ★現代医療を考える会・医療被害者救済の会共催★
  「あなたの脳が危ない――脳の予防手術から脳死・臓器移植まで」


 先頃、 山口研一郎さんが『脳受難の時代』、小松美彦さんが『脳死・臓器  移 植の本当の話』を出版されました。このお二人の出版を記念し、シンポ  ジウム を開催します。
 予防医学について、インフォームド・コンセントや自己決定権の観点から皆  様と共に考えることができればと思います。
 ■日時:20004年10月2日(土)午後1時30分〜5時
 ■場所:高槻市市民会館(高槻現代劇場)305号室
     大阪府高槻市野見町2-33(TEL:072-671-1061)
     JR高槻駅より徒歩15分、阪急高槻駅より徒歩10分
(http://www.city.takatsuki.osaka.jp/maplink.html より「高槻現代劇場」 で地図が検索できます)

 ■内容
 講演 「脳の予防手術と脳死・臓器移植」
 山口 研一郎 (脳外科医、現代医療を考える会代表)
 小松 美彦 (東京海洋大学海洋科学部教授)
 体験発表 「未破裂脳動脈瘤の予防手術による被害者の家族として 」
 シンポジウム 「予防医学について考える〜インフォームド・コンセントや自己決定の観点から〜 」
 近藤 誠(『患者よ癌と闘うな』著者、慶應義塾大学医学部放射線科講師)
 亀口 公一 (日本臨床心理学会)
 土屋 貴志 (大阪市立大学文学研究科)
 野間 幸子 (医療被害者救済の会代表)
 ■参加協力費(資料代として):800円

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このたび、9月に引き続きMeYouHouseにおきましてライブを行うことになりました。前回同様、身近な所より生の音そして踊りを感じて頂けるものと思っております。お越し頂ける時は予約をお願い致します。

 ★卓道普化尺八行脚 MeYouHouse其の弐★

   秋の夜長にしみいるか、竹の韻
   メグル舞に ヒビキが集う

 ■演者:福本卓道(尺八) 金亀伊織&イルボン(舞踏) ken&金里馬(ディジュリドゥー)
 ■日時:10月10日(日)17:00 開場17:30開演
 ■お代:1500円(予約) 2000円(当日)(1ドリンク付) 1000円(極貧の方要事前承認)
 ■会場:大阪市・中津駅 古本喫茶 伽羅3F「MeYouHouse」
 ■連絡先:卓道音楽工房 E-mail:takudoo@d1.dion.ne.jp




■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★私は、ほんとど小林秀雄を通過して来なかった者なのですが、中原氏の論考 を読むと小林のベルグソン論には興味が惹かれますね。ところで「virtuel」 が、元々の意味は「力をもった」潜在性であるということをこの論考で知りま したが、アリストテレスの「dynamis 可能態」との関連はどうなのだろうと 思って中原氏に質問しましたところ、デュナミスがラテン語でヴィルトゥスと 訳され、英語のヴァーチャリティにつながったそうです。
★そして下記の一文を教えていただいたので、この場でもご紹介します。 「ドゥンス・スコトゥスがvirtual にもともとの意味を与えた。ラテン語の virtualiter が彼のリアリティ論の中心をなしているのである。精妙博士と呼 ばれる彼は、物の概念は経験的な属性を(あたかも物自体が経験的な観察から 離れて知覚し得るかのように)形式的に含んでいるのでなく、仮想的 (virtual) に含んでいるのだ、という意見の持ち主であった。物の性質を知 るにはわれわれの経験を掘り下げなくてはならないだろうが、現実の物質は常 に、単一の統一体の中にも多様な性質を仮想的(virtual) に含んでいる、さも ないとそれらは、その物質の質として突出しないだろう、とするのである。つ まりドゥンス・スコトゥスは、virtual という言葉を(われわれの概念的期待 によって定義された)形式的に統一された現実と、われわれの雑多な経験との 間を、橋渡しするものとして使っているのだ」(ハイム『仮想現実のメタフィ ジックス』(田畑暁生訳)岩波書店.205p)
★上記の「仮想」は、クオリアをキーワードに、意識の問題に切り込み続ける 脳科学者・茂木健一郎が提示した新しい概念「仮想」とも、おそらくは通底し ているのでしょう。その概念を展開した最新刊『脳と仮想』(新潮社)の中で も、小林のベルグソン論への言及があるようです。これから読んでみたい一冊 です。(黒猫房主





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