『カルチャー・レヴュー』39号



■連載「映画館の日々」第3回■


ホモソーシャリティの廃墟へ
――クリント・イーストウッド論のために(1)

鈴木 薫


 池袋の新文芸坐で、クリント・イーストウッド特集(『ミスティック・リバー』(2003)、『ブラッド・ワーク』(2002)、『スペース カウボーイ』(2000) 、『トゥルー・クライム』(1999)、『目撃』(1997)、『真夜中のサバナ』(1996)、『マディソン郡の橋』(1995))、『許されざる者』(1992)を見、ついでに『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)をヴィデオで見た。『ハートブレイク・リッジ』は、誰が敵で何が大義かが明らかだったよき時代に、軍隊というホモソーシャルでホモフォビックな世界で、退役間近の鬼軍曹が落ちこぼれ部隊を鍛え上げ、グレナダ侵攻で勝利を収める話である。一方で彼は、女に対しては不器用で「純情」な男だが、最後には一度別れた妻をも勝ち取ることになる。

『ハートブレイク・リッジ』を見て、ただちに注意を惹かれることがいくつかある。一つは、イーストウッドが、ここではまだ年少者に対する教育を信じていることだ。最初は箸にも棒にもかからなかった兵士の中から、最後には彼の後継者になるかもしれぬ者さえ現われて、彼は復縁した妻と安んじて農場へ引退できそうだ。『スペース カウボーイ』をすでに知っている私たちにとって、これは興味深いことである。朝鮮戦争の英雄だった軍曹よりさらに時代遅れの、本物の老人になった彼は、もはや若い連中と馴染もうとさえしないだろう。もう一つは、別れた妻が最後に戻ってくることだ。凱旋してきたイーストウッドが彼女に気づき、二人が目を合わせるとき、彼女が胸元で振る小さな星条旗。そして二人が向かいあうとき、キャメラが回り込んでイーストウッドの背後にはためかせる(そして、二人がともにフレームから出てしまったあとも暫時スクリーンに残される)巨大な星条旗。とりあえずこのあたりを手がかりとして、今回見た作品について述べることにしよう。

 たとえば、最新作『ミスティック・リバー』は、ケヴィン・ベーコンの家出した妻が最後に戻ってくる話でもある。しかし、終幕の星条旗はためくパレードの場面で彼と視線を交わらせるのは、妻ではなく、ショーン・ペンだ。といっても、妻よりも幼なじみのペンとの間により強い絆が存在するというようなことではもとよりない。妻と並んでパレードを見ていた目を、ベーコンがふとそらすと、見物人の中にペンがいる。そのときベーコンは何をしたか。指で拳銃の形を作って相手を狙い、撃つ真似をしたのだ。馬鹿にしたように肩をすくめ、ペンは両手を広げる仕種で応じる。

   前夜彼は、自分の娘を殺した犯人(と信ずる相手)に、復讐の銃弾を撃ち込んでいる。イーストウッドによって映画の中でなされるのを私たちが繰り返し目撃した、凄まじい形相で相手を見下ろし、狙いを定め、引金をひく動作に続く重い銃声。ショーン・ペンによるその反復は、しかし観客にはすでに無実とわかっている相手へ向けての、そして観客へまともに向けての轟音とともに目くらむ白光となってスクリーンを覆い、この作品では一貫して白い曇天しか容易に見せない空へと移行する。白い空から路上へとゆるやかに降りてくるキャメラがが最初に見出すもの、それは、早朝の道端に座り込むショーン・ペンと、その後方で建物から突き出して静かに揺れる星条旗だ。その直後の会話で真相を知ったベーコンの、本来ならイーストウッド自身の役柄であろう刑事もまた、最後に至って「犯人」を前にイーストウッドの行為をなぞるわけだが、それは児戯に類する徹底的に無力な身ぶりによってであった。

『ミスティック・リバー』の交わされる眼差しは、『スペース カウボーイ』の最後および最後から二番目のカットの、友人同士(ケヴィン・ベーコンとショーン・ペンも、現在はともあれ、少年時代は友だちであった)の視線の交わり――二つの天体間での切り返し――を、ただちに思い起こさせる。しかしそれは、単に二人の男が目を見交わすからではなく、一方の男の傍に妻がいるからだ。『スペース カウボーイ』では、イーストウッドとその妻は、寄り添って同じ月を優しい眼差しで振り仰ぎ、その先には死せる親友がいたのだが、ベーコンの妻はもはや夫と同じものを見てはいない。映画のはじめから無言電話をかけてきては、夫に一方的に話させていた、終り近くなってようやく言葉を発し、ルージュを塗った口もと以外を私たちにはじめて見せることになる妻は、別居中に産んだ娘を抱いて彼の横にひっそりと立つ。『スペース カウボーイ』では、イーストウッドとトミー・リー・ジョーンズを隔てる距離と互いの不可視性にもかかわらず、彼らを結ぶ強い絆が私たちを感動させたものである。しかしここでは、ペンとの間のかくもわずかな距離を踏破して、法の番人としての務めを果たすことすら彼にはできない。

 無実の男の処刑を、新聞記者イーストウッドが文字通り土壇場で阻止する『トゥルー・クライム』のラストでも、彼は、自らが救った元死刑囚イザイア・ワシントンと、クリスマスの夜の街角で視線を交わす。実はこの瞬間に至るまで、彼が本当に生き延びたかどうかは観客には必ずしも明らかではない。イーストウッドが冤罪の証拠を得て薬物による死刑執行を中止させるまでに、ワシントンの体内にはすでにかなりの量の薬が流れ込んでいたのであり、人々が死刑執行室へなだれ込み、腕から注射器が引き抜かれたとはいえ、仕切りのガラスに貼りついて必死に彼を呼ぶ妻の姿は、救出が成功したかどうかについて観客に疑いを抱かせる。映画がはじまってまもなく、イーストウッドが口説きそこねた同僚の若い女が、一人で運転しての帰り道、魔のカーヴで突っ込んで車を大破させるという場面があるが(彼女の仕事を引き継いで、彼は死刑囚にかかわることになる)、彼女がどうなったかはそのあとしばらく、死刑執行の場面からクリスマスの夜までの隔たり同様、私たちに知らされないまま話が進む。とはいえ、衝突のすさまじさと車の破損ぶりから彼女は死んだと解するのが映画の見方としては妥当なのであり、その反復としか思えぬ死刑執行場面の凄まじさは、イーストウッドが奔走したのだから話はハッピー・エンドで終るはずという期待が観客を楽天的にしていなければ、彼の死を容易に信じさせていたことだろう。

 クリスマスの買物を抱えたワシントンにイーストウッドが出会うとき、傍にはその妻と娘もいたのだが、彼女らはイーストウッドに気づかない。彼とワシントンは、なぜか妻と幼い娘という同じ構成の家族を持つのだが、それにしても、命の恩人に再会する場面がこんなにあっさりしていていいものだろうか。かつて助けを求める少女の祈りに応え、白馬に乗った幽霊ガンマンとして彼女とその母の前に出現したように、また、満たされない主婦の願望を一身に体現してメリル・ストリープの前に現われたように、彼は死刑囚とその妻の前に現われた。しかし、『ペイルライダー』(1985)の母娘や、『マディソン郡の橋』のストリープにとってのような偏在する神のごとき存在であった彼とは異なり、ここでの彼は、死刑当日にたまたま事件について調べはじめたに過ぎない。(「今まで一体どこにいたの?」と彼に向かって妻は叫ぶ。)それでも死刑執行までには真相をつきとめてしまうのだから、御都合主義もいいところだ。実はワシントンは、『ミスティック・リバー』のケース同様、無実の罪で処刑され、夜の路上での再会は残った者の夢にすぎないと空想してみることもできようが、むしろここで起きているのは、リアリズムの稀薄化であり、正義の執行者としてのイーストウッドの力の弱まりであると見るべきだろう。

 リアリティの稀薄さといえば、彼の年齢を指摘しておかねばならないだろう。女と見れば口説き、上司の妻と浮気し、離婚寸前の妻との間にまだ五つにしかならない娘がいる男を演じるには、彼は年を取り過ぎてしまった(妻を寝取られた上司と較べても、どう見てもイーストウッドの方がくたびれている)。娘を演じている愛らしい少女がイーストウッドの実の娘であり、その母親とはまた別の三十幾つだか下の女性と結婚したばかりで、しかも、娘の母親と新妻のどちらもこの映画に出ていると私たちは知ってはいるが、しかし映画は少なくとも現実よりはリアルでなければならないだろう。再会の場面の直前、彼は娘へのプレゼントを選びながら若い売り子を口説きにかかり、にべもなく断わられる(むろん、承知の上での演出に違いない)。

『トゥルー・クライム』で彼が事件を解決できた理由、それは彼がクリント・イーストウッドであったからだ。力の弱まりと言ったが、この意味では彼はABSOLUTE POWER(『目撃』の原題)の持ち主であるとも言える。イーストウッドのあとにイーストウッドなし。彼自身がスクリーンに姿を現わさないとき、イーストウッド映画に何が起こるか。たとえば『真夜中のサバナ』の場合、ここでの「彼」に相当する狂言回し、ジョン・キューザックは、およそ存在感の薄い男である。彼が訪ねた古都サバナで、富豪の実業家ケヴィン・スペイシーが、恋人であるジュード・ロウを射殺する。同性愛に対する偏見の強い南部の町で、それが正当防衛であることを証明しようとキューザックが奔走して得た証拠も、『トゥルー・クライム』でのように真実の発見につながることはない。裁判で無罪となったスペイシーが自宅に戻って心臓発作に襲われるとき、絨毯に倒れ伏した彼の眼差しの先には、殺された美青年が同じように横たわっているのが見える。交わされる二人の眼差し。ほほえみを浮かべてジュード・ロウが起き上がってくるとき、彼は一瞬、イーストウッド作品でおなじみの、幽霊となって甦ってくるあの復讐の天使のひとりとなり、そして消える。かくして、(人知れず)正義は行なわれ、罪は裁かれる。

 しかし正義とは何かということもまた、周知のとおりイーストウッド映画では、とうの昔に明快なものではなくなっている。『許されざる者』でイーストウッドは保安官のジーン・ハックマンを倒すが、ハックマンもまた絶対的な悪とは言いがたい、休日には自宅をコツコツ手作りしているような男である(拳銃を構えるイーストウッドを見上げながら、彼は建築途中で死ぬ無念さを口にする)。しかし彼は、イーストウッドの相棒モーガン・フリーマンをなぶり殺しにし、酒場の外にさらし者にししたあとなので、観客の同情は保安官には向けられない。『目撃』の、もはや行動するのをやめて見る者となった、映画の観客か透明人間のようなイーストウッドでさえ、自分の娘の命を狙う者には容赦しなかった。ハックマンに家族がいないのに対し(もし、家の完成を待つ妻子がいたとしたらどうだろう)、イーストウッドには、彼を改心させ真人間にしたと言われる亡き妻がおり、彼女に操立てして娼婦の据え膳も断わっている。彼が幼い二人の子らとカリフォルニアへ行って成功したというナレーションを、私たちはほっとする思いで聞く。たとえ丸腰の酒場の主人(フリーマンを店の外にさらさせた)を射殺しようと、私たちはイーストウッドを許してしまう。

 娘を殺されたにもかかわらず、しかしショーン・ペンには屈折した正義すら許されない。ミスティック・リバーに遺体が沈められる一方で真犯人があきらかになった一夜が明けたとき、静かに揺れる星条旗を背にした彼は、勝ち誇るマッチョではありえない。『トゥルー・クライム』のイーストウッドは、一人の男の命を救うという偉業をなしとげたにもかかわらず、『ハートブレイク・リッジ』や『ミスティック・リバー』でのように、妻が彼のもとに戻るという事態は起こらなかった(娘にカバのおもちゃは買ってやれても)。だが、彼の稀薄な力は、あるいはそこにこそかかっていたかもしれないのだ。妻と幼い娘との幸福をワシントンに譲り、自らは家族という桎梏から自由な存在として生きる、その稀薄さと軽さこそに。

 なぜなら、自らの誤った正義に打ちひしがれるショーン・ペンは、夫の行為を正当化し説得するローラ・リニーに支えられると同時に男らしさを鼓舞されて、ますます観客の共感を呼ぶ存在であることから遠ざかり、ケヴィン・ベーコンは、新たに娘を加えて(つまり「家族」となって)戻った妻とは交わすことのない視線をショーン・ペンに注いでむなしい仕種をし、マーシャ・ゲイ・ハーデンはローラ・リニー同様夫を抱きしめ庇護しようとしたものの、信じ切れなかったために彼を失っているのだから。いずれにせよ、男たちは一人の女とのつながりによってのみ支えられる弱い存在であり、最終的には家族と自分さえ守られればいいと思っているのだと映画は語り、そして返す刀で、男同士の美しい友情というかくも長く続いた幻想を打ち砕く。クリント・イーストウッドはホモソーシャリティの墓場に到達した。この映画の後味の悪さを多くの人が口にするのは、人生の不条理とか正義が遂行されなかったことによるのではなく、実はそのせいに違いない。

  ■プロフィール■
(すずき・かおる)鈴木薫はペンネームだが、本名よりも大きく郵便受けにこの名を出して、紫陽花の枝を切っていると、同じ横町に住むオバサンと、自転車で通りかかった同じ町会らしいオジサンから、結婚したのかと(別々に)声をかけられた。(正確にはオバサンからは、「○○さんのオジサンが、結婚したんじゃないのって言ってたわよ」)。「はやりの夫婦別姓かと思った」とオバサン(むろん向うは冗談のつもりだ)。人名漢字追加案のせいだろう、新聞に、子供の名前についての記事が載った。読み間違わず、男女の別が明らかな名前がいいのだとか。そこまで読んで、隣に江崎玲於奈の談話があるのに気づき、失笑する。「玲於奈」こそ、女か男かわからない――というよりは、女と間違えられる(だから海外では、彼はレオ・エサキで通すと読んだことがある)名前ではないか。人とは違う自分の名前が昔から気に入っていたと玲於奈氏。実はオバサンに話しかけられるより先に、鈴木薫あてには読者の若い女性からのファンレターが届いていた。嬉しかった。





■連載「文学のはざま」第3回■


スガ秀実、ツッコミ不在時代の貴重な戦力

村田 豪



 今年はじめに刊行されたスガ秀実(スガは「糸」ヘンに「圭」です。念のため)の評論集『Junkの逆襲』の表紙装丁を見て、そのあられもないバカバカしさに失笑してしまった人は多いのではないでしょうか。いささか緊迫した表情で何やら叫んでいる様子の、スガ本人の顔写真が、乱れたタイトル字とともに大きく配されているからです。
http://images-jp.amazon.com/images/P/4878935898.09.LZZZZZZZ.jpg
(『Junkの逆襲』表紙拡大図−アマゾン・ジャパン販売サイト)

 60年代学生運動について、スガが、柄谷行人・西部邁・津村喬などと対話する井土紀州監督のドキュメンタリー映画『LEFT ALONE』(私は未見)でのひとコマから抜き出されたというこの写真は、おそらくスガが現在においてもコミットしている学生運動のデモの一場面なのでしょうが、憤激を抑えきれぬというように対象を見つめ、挑みかからんとする瞬間の、大口を開けた著者のその姿は、本来の文脈からずらされて、まことに滑稽、ほとんどアホさ満点といった次第です。文芸評論家としての「品格」など、まったく考慮に入れてもらわなかったもののようです。

   もちろんこれは編集者や装丁家、そして著者の明確な意図によるものです。「あとがき」で著者も苦々しく認めているように、この装丁自体が、スガのいうところの「Junk的なもの」=「なんでもよく、どうでもよいもの」についての考察の反映となっており、確かによく出来ているといえば、よく出来ているでしょうか。まあ、装丁うんぬんをおいても、本書は、現在の文学やジャーナリズム、大学教育などが危殆に瀕していることへの活気ある批評として、また「寝惚けた時代への鋭いツッコミ!」(帯のコピー)として、十分読み応えのあるものになっています。

   ところで「Junk ジャンク」=「クズ」みたいなものとは、いったい何のことでしょう。それは、90年代ぐらいから『文藝』『リトルモア』などを中心に出現した若い書き手による「新しい」小説に、「Jリーグ」「J−POP」などを彷彿させる「J文学」なる名称が与えられようとしたことにたいして、スガが、その「J」の意味するところは「Japan」や「純文学」かもしれないが、しかしより端的にはむしろ「Junk」つまり「クズ」であろう、と批判したことに由来します。文壇ジャーナリズムが、キャッチーな意匠をほどこして小説を売ろうとする目論見に対抗し、とりあえずそれらの小説はまず「クズ」というべきだ、と指摘したのです。

   しかし、これはまた多くの批評家などが、そういった新奇な(?)一連の作品を「くだらない」と一括して斥けるのとは違います。なぜならスガが指摘しているのは、「J文学」であろうがなかろうが「文学」そのものがすでに「なんでもよく、どうでもよいもの」に成り下がっているということであり、いまだにその価値を前提にして「文学」をことほぎ、その「Junk化」を現在的な問題として引き受けられないでいる小説家、文芸評論家の「バカ」さをむしろ際立たせるための言葉だからです。

   その矛先は、ある場合には、夏目漱石を「国民文学の聖典」として温存しようとする小森陽一他の「カルチュラル・スタディーズ」に向けられ、ある場合には、そういう研究をダシに明治の文豪、とくに漱石を自分になぞらえた小説をものする高橋源一郎に向けられます。またある場合には、「優れた」小説には「言論の自由」が保証されるべきだとして、自らのデビュー作出版差し止め裁判を争った柳美里に向けられ、そしてまたある場合には、村上春樹を絶賛するにあたって「換喩」をキー概念に導入しながら、そのレトリックの説明が単純に大間違いでしかない加藤典洋に向けられています。

   スガは、彼/彼女らが「文学」を称揚したり、無防備に「言論の自由」を振りかざしたり、間違ったことを書いたことだけを批判しているのではありません。彼/彼女らは一様に「文学主義」への従属において、「優れたもの」を選りわける仕草を示しながら、実は彼/彼女らの作品自体が、斥けられたその他の「クズ」とそれほど区別があるわけでない、という厳然たる事実に気づかないでいる、そのことを指摘しているのです。

   実際、ここに書き出した文学的出来事にまつわる作品を、ほとんどの人は関心も持たず、読もうとも思わないでしょう。どうせ「たいしたものでない」と、予想されるからです。しかも困ったことにその予想は、おおかた当たってもいます。そういうことからしても、現在を規定している「Junk的なもの」を認めるところからしか文学も批評もはじまらないではないか、というスガの批判には、一定の説得力があるように思います。

   もちろんそれは、スガ自身にも跳ね返ってくる問題であり、それゆえ本書はその「Junk」っぽさを隠すことなく、おおっぴらげにしようとしているのでしょう。自分が「クズ」に過ぎないかもしれない可能性を否認せず、だからといって「クズ」でいいじゃないと開き直るのでもなく、けれども「クズ」によって開示しうるものを擁護すること。それこそがスガが「Junk的なもの」にこめた、ある種の肯定性といえるのではないでしょうか。

   だからスガは、たとえばネット社会の閉鎖性やいかがわしさの象徴としてしばしば批判されるインターネット掲示板「2ちゃんねる」さえも、そう単純に否定することはありません。匿名性をいいことに、差別発言や個人攻撃などろくでもない書き込みが蔓延する点は、さすがにほめたりしませんけれど、しかし新聞・テレビなどの既存の巨大メディアそのものが、新しいメディアに相即して「Junk化」している現状をみるとき、「2ちゃんねる」だけが「くだらない」とは、やはり言い切れないでしょう。ただし、このような「2ちゃんねる」擁護にたつスガさえも、その掲示板ではボロクソにけなされたりしているようです。これこそが「Junk」の侮れないところといえるでしょうか。

   さて、この文学やジャーナリズムの現在の地平をあらわす「Junk的なもの」は、面白いことに、同書の中で展開される、高等教育の再編成、いわゆる「大学改革」問題の議論においても、同型の論理でもって繰り返されています。このことも少し見てみましょう。

   まずスガは、偏差値教育の弊害を「是正」すべく導入された「ゆとり教育」によって、最も顕著に、かついびつな形で影響を受けたのが、実は、教育問題でほとんど世間から注目されることのない専門学校だったことを指摘しています。スガ自身がジャーナリスト養成の専門学校で長年教えていたのです。そして専門学校生には、たとえば外国語専門学校に属しながらも、英語の三単現の「S」さえ知らないというようなレベルの学生が多数存在することを指摘し、それをいわば「Junk的なもの」として(著者はそう書いていないが)措定しています。

   一方、大学は安泰なのか、といえば全くそうではありません。というのも、18歳以下人口の減少による経営危機を、受験の難易度を下げ、従来なら専門学校に行ったかもしれない学生を無条件に受け入れていくことで乗り越えることになるからです。ことによっては、数学が出来ない工学部生、英語の読めない国際学部生もおかしくないであろう。なぜなら学生のニーズに迎合して、学生を甘やかしてでも学生数を確保しなければならないからだ、とスガはいいます。ところが、文部科学省・学校関係者・ジャーナリズムは、総じてこの経済的問題を、「学力低下」「偏差値教育」「学歴」などという観点からしか考察できないでいるのです。

   ただ、ここで重要なのは、「Junk的なもの」として見いだされた専門学校生も、結局は、多少の偏差値の差があったに過ぎず、本質的にはその他の大学生と変わるところがない、ということでしょう。スガはこれを、大学を「レジャーランド」に変えてきた「学生消費者主義」の帰結とみなしています。つまりは、ここでも「クズ」は広く事態を浸食し、避けては通れない問題としてあるのです。国家が国民にたいし「規律=訓練」ほどこし、「職業のエートス」をたたき込むはずの大学というシステムは、いまや「Junk化」によってほぼリミットを迎え、結果フリーター予備軍の育成を続ける以外にないのです。うーん、確かに私もスガの説明どおりの「クズ」学生だったし、今もフリーター崩れだもんなあ。

   まあ、私のことはさておき、しかし、なぜこの大学教育の問題が、文学の問題から出てきた「Junk的なもの」と同型のロジックで扱われることになるのか、その理由がすぐには分かりにくいかもしれません。実は、これについてもスガは明確に分析し論じています。それは『Junkの逆襲』の各論考と同時期に書かれた浩瀚な「ニューレフト」の研究書『革命的な、あまりに革命的な――「1968年の革命」史論』においてであり、上記二つの事柄は、スガいうところの「1968年革命」が「勝利」した証拠、その「革命」が現在にも持続されていることの証拠以外のものでない、ということなのです。文学の「Junk」化も、大学の解体も、どちらも「世界システム」の変革の一環として生じた、文化的ヘゲモニー闘争がもたらしたものにほかならないからです。

   ただし、いわゆる「全共闘運動」とも呼ばれる60年代半ばから70年代はじめにかけての学生運動について、それを「革命」と呼び、「挫折」や「敗北」でなく今なお持続する「勝利」として語るスガを、おそらく多くの人は奇異に思うでしょう。奇異どころか、反感さえ感じるかもしれません。確かにいろいろな点で『革命的な』には異論・批判を差しはさむことがでるでしょうし、スガの主張が、完全に正しいとは私も思いません。それでも、スターリン批判を受けたあとの「ニューレフト」の闘争が、世界規模の政治−経済的要因に強く規定された文化的ヘゲモニー闘争だったことは間違いないだろうし、それゆえ「革命」は引き続きフェミニズムや反差別運動、エコロジー問題として展開、浸透していったというスガのパースペクティブには、やはり現在において一定のリアリティが宿っていることは疑えません。スガはそのことを「勝利」と呼んでいるのです。

   それでもなお、スガの議論にどこか鵜呑みにしにくいところがあるとすれば、それはスガが自らのロジックを、一貫してラカン的なフェティシズム論に依拠して展開するためではないでしょうか。

   どういうことかというと、たとえば、68年の「ニューレフト」を特徴づける思想的な意義を、著者は「疎外論批判」に見ています。それは、従来のマルクス主義がヒューマニズム(=疎外論)を脱しきれないことへの批判でした(廣松渉やアルチュセール)。また具体的には、ノンセクト的な「群れ」として党の指導性を否定し、未来の革命ではなく今ここの革命を肯定すること。メインカルチャーではなく、現代詩やアングラ演劇などのカウンターカルチャーの可能性にこそかけること、などが、その「疎外論批判」の実践的側面でしょう。

   ところがこの「疎外論批判」は、成されたとたん追い払ったはずの「疎外論」が、反動として回帰するような危うい「疎外論批判」でもあるのです。「前衛党」の神話を解体したはいいが、それは同時にセクト間ヘゲモニー争いや内ゲバの激化をもたらしもしたのでした。「詩は表現でない」(入沢康夫)という「詩的言語革命」も、「模型千円札」(赤瀬川原平)の「反芸術」も、「表象=代行」のモデルから逃れえたのはつかの間であり、消費資本主義の進む中で、大文字の「芸術」か、あるいは単なる「クズ」に後退せざるをえなかったのです。

   この問題を、スガはラカン的なフェティシズム論によって補強しようとしています。つまり、なぜ消し去ったはずの「疎外論」はこのように回帰するのかといえば、それが、去勢したはずの(自己に斜線を引いたはずの)主体に取りついて離れない「オブジェa」だからだ、というのです。そしてその回帰によって「革命」は、ある点ではより一層の「反革命」的様相を帯びざるを得ない。「大学解体」は「大学改革」と名のものに実現し、学生は「管理=監視」の対象以上のものではなくなったのです。よってスガは同書のなかで、東大全共闘と討論し、「全体主義」に対抗するべく空虚としての天皇(フェティッシュ)を担ぎ上げた三島由紀夫の「反動的革命」を、相対的に優位に置くことにもなるわけです。

   しかしここまでくると、さすがにこの眉唾っぽさに耐えられない、と人がいうのは、私も仕方ないと思います。「68年革命」が、「反革命」「受動的革命」としてしか「勝利」していないなら、それはわざわざ「勝利」と呼ぶほどのものではないのではないか、そういいたくなるのも無理はありませんから。

   ところで、先に「寝惚けた時代への鋭いツッコミ!」という『Junkの逆襲』の帯コピーに触れましたが、ここにきて、そのコピーの持つ、おそらく意図されていなかった含意がにわかに問題になっていることに気づかされます。漫才やお笑いの一方の役割を示す「ツッコミ」という規定は、はたしてスガに本当に適切なのかどうか、疑問に思えてくるからです。最終的には「反革命」にゆきつくものを「革命」だと言いつのるのは、ある意味で「ボケ」ていることになりはしないでしょうか。実際、スガの言動には、それこそこちらが「ツッコミ」を入れたくなるような矛盾やブレみたいなものが散見されるように思います。

   たとえば、「小ブル急進主義者」として「絶対的な無責任」を肯定し、善人ぶった左翼連中の「良心のやましさ」を叩いていたのに、あるところでは自身の中学卒業時に集団就職するものがいまだ学年の半数に及んでいたことにショックを受けたと語ったり、「差別表現」問題に発する筒井康隆の「言葉狩り」というジャーナリズム批判をさらに反批判しながら、ところがある別の場面では、高橋源一郎との論争で相手を「アルツハイマー」と罵ったり、キムチョンミの『水平運動史研究』を高く買いながら、彼女から「元号」を使う是非を追及されると、日本文学史を捉えるには避けられないところがあると、微妙に抵抗したり、著書であれだけ「革命」の「勝利」を高らかに宣言しながら、雑誌『重力』02号の討論では、あっさり「僕もそんなに(勝利だ)とは思っていないから」と認めたり、と自ら「疎外論」と「疎外論批判」の間を行ったり来たりするようなこの忙しさは、何というか、そう、ふたたびお笑いタームに喩えていうならいわば「ひとりボケ・ツッコミ」とでも評したほうが、ぴったりしているのではないかと思えてくるのです。

   だいたいスガは、元来どう見ても「ボケキャラ」ではないかのか、という気もします。あのヒゲ面の風貌といい、何か落ち着きを欠くしゃべりかたといい。また小説家角田光代の証言では、酒の席ではだれかれかまわず「Do you like sex ?」などと口にしてからむそうですし、もっと極めつけは、文壇バーでしたたかに酔ったスガが「文学は中上健次で終わった」などとわめいていると、デビューしてしばらくの柳美里がいるのをみつけ、その作品をけなしたり、彼女の容貌をけなしたり、ついには「ヌード写真集でも出したら」などと言いがかりをつけたところで、柳に顔面を張り倒されたそうです。真偽はわかりませんが、福田和也も別のところでこの事件には言及しているので、とりあえずある程度は事実なのでしょう。しかし、それにしても最低のセクハラオヤジぶりですよね。

   いや、しかし、それはそうだとしてもです。スガはもともとの「ボケキャラ」を、抑制せざるをえない理由があるのです。それは、現在の文壇ジャーナリズムの中でまともな「ツッコミ」の役割をになえる書き手が、あまりにすくないからなのです。「ボケ」なきゃ面白がってもらえないと、誰もがこぞって「ボケ」へと転向(「クズ」に自足?「疎外論」に回帰?)しているのは、異様なぐらいでしょう。だから「ひとりボケ・ツッコミ」であろうと「ツッコミ」を効かせている点では、スガは相対的に「ツッコミ」として浮上してしまうのです。帯のコピーは、それはそれで正しいといえるわけです。

   「ボケ」(疎外論=回帰する反革命)へと転じたくなる誘惑にかられながら、あるいはその回帰におびえながら、自身の資質を乗り越えて「ツッコミ」(疎外論批判)にとどまろうとするところに、現在のスガの批評家としての面目があります。「ツッコミ」役が極めて希少な現在の文壇ジャーナリズムにおいて、スガは、やはり貴重な戦力であることには間違いないところなのです。

  ■プロフィール■
(むらた・つよし)1970年生まれ。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。



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 ★シンポジウム★
 こんな逮捕はぜったいおかしい!
 〜有事法制化で上昇する排除と弾圧を考える〜


 ■被弾圧当事者よりアピール
  釜ヶ先パトロールの会/立川テント村(予定)
 ■パネリスト:遠藤比呂通×斎藤貴男×酒井隆史
 ■日 時:04年07月17日(土)18:00〜21:00終了予定
 ■場 所:大淀コミュニティーセンター(TEL:06-6372-0213)
 ■入場料:一般1000円/学生600円


■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★入梅してからと言うものの、台風を除けば、ほとんど空梅雨の風情。炎天 下、律儀に外回りしている黒猫房主を見かけたら、声をかけてやってくださ い。(黒猫房主)





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