獏迦瀬:えっと、前回は「家族」ってことで、家族とはエロス的関わりだ、というようなことを話したわけですが、家族といっても核家族から大家族、一夫多妻制やら、母権制やらいろんな形があり、そういったことにはふれてませんでした…。
伊丹堂:そうか?、っていうかそれは家族とは関係ない話じゃろ。 獏迦瀬:え…、そうなんスカ? 伊丹堂:関係ないといったらナンだけど、ようするに、それは家族とは何か?という問いの答えではないってことな。ようするに、前回はさまざまな時代の世の中の成り立ちの違いに左右されないような「家族の本質」というものを考えてみただけのことで、逆にそういった時代時代のあり様としての家族を問題にする、ということはもちろんできるわけじゃ。ただ、それは問題としてはもはや「家族とは」ということではなくて、「世の中」とは、という問題になるわけじゃ。 獏迦瀬:ようするに制度の問題っていうか。 伊丹堂:制度ねえ…、しかし「制度」という言い方はなんか分かったようでいて、曖昧な概念じゃな。 獏迦瀬:はあ…。 伊丹堂:ようするに「制度」ということで、何を言ワンとしているのか? 封建制とか一夫多妻制ってのは、誰かが「せ〜の」で決めたわけでもなんでもなくて、世の中の成り立ちとしてそうなっているわけじゃろ? しかし制度というと「国民皆保険制度」といったような明らかに人為的につくったルールも制度なわけじゃろ? 獏迦瀬:なるほどね…では社会システムとでも言いますか。 伊丹堂:同じようなもんじゃな。ようするに世の中の成り立ちを記述して「そういう仕組みなんです」と言ってるだけで、なんの意味もないわけじゃろ。 獏迦瀬:まあ他人事っていうか、そもそも「制度」という言い方にはなにか「やらされてる」感じはあります(笑)。 伊丹堂:たとえば封建制なんかは、マルクス主義的にみると、武士が権力で農民を圧殺していたなんて見方になるんじゃが、そんなことで世の中が成り立つわけがない。それが世の中として成り立っている以上、そこには人々のなんらかの「合意」があり、人はそこで自己実現をなしていたわけで…。逆にそういうふうに人々が積極的に参加することによって、世の中というのは成り立っている、という循環的な構造になっているわけじゃ。 獏迦瀬:なかなかにフクザツですね。 伊丹堂:いや、『オムレット』ではそう説明しているんじゃが(笑)、いずれにしても「制度」とか「社会システム」という言い方では、そういった「実存」の問題がすっぽり抜け落ちてしまうんじゃよ。 獏迦瀬:実存…ですか? 伊丹堂:つまり「どう生きるか」という問題じゃな。 獏迦瀬:はあ、それこそ「世の中」とは関係ないんじゃないスカ? 世の中と無関係に生きる人もいると思いますが…。 伊丹堂:そりゃ本人にとっての「意識」の問題じゃろ。人生イロイロってことよ。しかし事実として人が生きるということは、他の人と関わり、世の中「で」生きることになる以上、世の中と無関係ではありえない。 獏迦瀬:まあそれはそうでしょうが、「どう生きるか」が「世の中の成り立ち」と関わっているという言い方だと、社会的に為になることをするのが正しい、というニュアンスが強いじゃないですか。 伊丹堂:がはは、いやここで問題にしたいのは、そんな話ではまったくない。結局、世の中というものそれ自体が、ある「生き方のフォーム」によって成り立っていて、それを通じてそれぞれの人は生きていく…そういう意味で実存と世の中の成り立ちは関わりがある、ということなんじゃが。 獏迦瀬:生き方のフォーム? 伊丹堂:ようするに「文化」じゃ。 獏迦瀬:なんだ、そうきますか(笑)。文化ということなら、この対話でも何度かキーワードとして使ってきてました。まあ、今まで中心的なテーマとしては語ってきてなかったわけで…、あらためて「文化」って何なんでしょう? 伊丹堂:文化とは、言い換えれば、人がコトをなす時に、そうすることが「まっとう」であると納得できるような、背景となるコトの蓄積、じゃな。 獏迦瀬:まっとうさ、というのは正しさ、とは違うわけですよね。 伊丹堂:ここでは単に「間違ってない」ってくらいの意味じゃな。 獏迦瀬:妥当…というか。 伊丹堂:うむ。人が考えたり行動したりするということは、つまり「他人にも理解可能な形でコトを創造している」ことなわけじゃが、その際、人はさしあたってたいていは、いちいち他人にこのコトはまっとうか?などと確かめはしない。暗黙のうちにそれが妥当することを知っている。それはそういうコトの蓄積があるからじゃろ。 獏迦瀬:事例ってことですかね? 伊丹堂:裁判所の判例みたいなものではないのじゃが(笑)、ようするにまっとうさを類推しうる「背景」としてそれがある…、というか心理的な事実としては、我々にまずそういう「まっとうさの確信」が到来し、その根拠は何かと考えてみれば、そういう背景の存在に思いいたる、ということじゃろうがな。 獏迦瀬:なるほどね、「来歴」っていうか…。 伊丹堂:背景、とわざわざ言うのは、その妥当の根拠になる事例が単独にあるのではなくて、さまざまなコトの連鎖として「システム」化された広がりを持っているからじゃ。そのシステム化された背景が文化だ、ということになるわな。 獏迦瀬:ソシュールの言語の共時的システムみたいなもんですかね。 伊丹堂:ていうか、言語も「文化」なわけよ。ただ「システム化された」と言葉でいうと簡単じゃが、というか簡単にそれができるかのごとくに思ってしまうが、一朝一夕にできたものではないわけで…。 獏迦瀬:いわゆる「せ〜の」で始めたわけではないと(笑)。 伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。ようするに成熟というか「練成」された結果としてそれがあるというところが肝心じゃ。 獏迦瀬:ある意味で普遍的というか? 伊丹堂:いや、普遍性というのは、個人がそれこそ実存において、コトの創造を普遍的(誰にとっても妥当するごときもの)にしようとする「努力」に関わる概念であって、文化的な背景の問題とはちと異なる。文化そのものが普遍的であったら、個人の実存などいらんってくらいのもので…。ようするにその成員にとってはハビトゥス(習慣)となっているものが、文化なのじゃ。 獏迦瀬:文化は実存のヨリドコロってことですかね。 伊丹堂:どう生きるかという方向を示すにすぎない、あるいは「実存の可能性の土台」だということもどこかで言ったかな。いずれにしても、そういう意味で「生き方のフォーム」と言えるわけじゃ。じゃから人は原理的に自分の行為の責任を「文化」のせいにすることはできない。そこからして言える肝心なことは、この世に「正しい」文化というのはありえない、ということじゃな。 獏迦瀬:それは分かります。ようするに相対性理論みたいなもんですよね。文化というのはその文化成員に対する「基準」になるけど、その基準で、他の文化(相対論でいえば他の慣性系)を計ることはできない、と。 伊丹堂:ところがそれをやろうとしているのがグローバリズムなんじゃな。 獏迦瀬:なるほど。文化はその成員の「生きるヨリドコロ」なんだから、それを強引に変えろといわれても困りますよね。 伊丹堂:アメリカによるグローバリズム戦争はそれをやってるわけで、まったく犯罪的というしかないね。 獏迦瀬:文化は外から変えることはできない、というか、してはならないんでしょう。 伊丹堂:まあ歴史というのは、それが強引になされてきた歴史でもあるわけじゃが…、しかし、すべての文化が鎖国して自分の文化を守らねばならない、ということも逆にないわけで、文化は当然、変わっていく。しかしそれは、その変化自体が「練成」というカタチで、人々に自然に納得されていくものでなくてはならんじゃろう。このへんはカルチャーレビュー25号の「竹田現象学批判」で詳しく語ったことじゃがな。 獏迦瀬:文化の対立ということで考えてみると、リベラリズムってものがあります。 伊丹堂:ロールズの正義じゃな。La Vueの「正義論」で語ったが。 獏迦瀬:他者の立場を配慮しつつ、可能な限りの公平さを実現しようという立場ですよね。これは「無知のヴェール」を被るというか、「無縁」の立場をとれば「誰でもそう考えるだろう」という論理をとるわけですが、それはそうとして、現実問題として、なぜにそういう立場がとりうるのか?ということが問題になりました。 伊丹堂:それは、それこそ「そういう風に考えるように習慣化されている」から、というのがロールズの答え。そういう態度をとるように「練成」されたのがリベラリズムという「文化」だということじゃな。 獏迦瀬:それ自体、ひとつの文化だと自覚しているところがグローバリズムとリベラリズムの違い、ですかね。 伊丹堂:もちろんそれはそうじゃが、そもそもリベラリズムというのは「相手が」そういう立場をとることは期待してないわけよ。相手がどういう文化的立場であろうと、そのことは「不問」として、しかし同じ「世の中」で生きていくにはどうするか?という考え方をとるわけで、ズケズケと相手の立場を解体していこうとするグローバリズムの押し付けとはまったく違う。そこで必要となる対話とか議論を結果的に「民主主義的」というのであって、グローバリズムが相手を「民主化」するなどというのは愚の骨頂じゃな。 獏迦瀬:なるほどね。いま「同じ世の中」とおっしゃいましたが、それもリベラリズムのひとつの前提でしょうね。つまりアメリカ社会のように異なる文化がひとつの世の中に共存せざるを得なくなった、というある種、受動的な状況の中で生まれてきた発想というか。つまりグローバリズムのように、ある意味で積極的に他の文化を「自分の世の中」に組み込んでいこうという発想とはそもそも異なる…。 伊丹堂:まさにね。ただ、何度も言っとるが、リベラリズムといったって、それはひとつの文化としてのフォームなんじゃから、その文化を持っているからといって、常に「正しい」結果を出せるわけでもなんでもない。 獏迦瀬:ようするに実存、というか、個人のコトの創造にかかっていると。 伊丹堂:当然そこには「ひとりよがり問題」というのが生じてしまうわけでな。そこでさっき言った普遍性ということが問題になるわけよ。ま、それにしても異なる立場の者は排除する、という日本の「世間」っちゅう文化もあるわけで、えらい違いとは言えるがな(笑)。 獏迦瀬:そういう文化ってのは、ナカナカ変わらないんでしょうね〜。 伊丹堂:さっきも言ったようにそれを強引に変えることはできないわけじゃが、しかし文化を良いものに変えていくのもまた「個人の努力」によるしかない、とも言える。 獏迦瀬:はあ…。 伊丹堂:つまり個人の努力としてのコトの創造が、人々に納得されて、それがひとつのフォームとして定着していくならば、それが新しい文化を創るってことにはなるわけじゃ。文化創造としての格闘っつ〜かね。 獏迦瀬:まあ理屈ではそうでしょうがね。 伊丹堂:まあ実際、福祉とか慈善事業といったものの「精神的文化」は、そういった個人の努力によって創られてきたと言えるな。ひるますが事務所(ユニカイエ)でよく紹介してる映画「石井のお父さんありがとう」は、石井十次の生涯を描いたものじゃが、石井という人は、福祉とか慈善といった文化的土壌がまったくなかったところで、個人的にそれをはじめ、それを定着させていったんじゃな。これは文化を「変えた」というか「創り出した」一つの好例じゃろうな。 獏迦瀬:なんか最初は周囲から異常な人と見られたという話ですよね。 伊丹堂:フォームとして成り立ってしまえば当たり前のようなことでも、その創造過程というのは、それこそ試行錯誤でしかない。そんな例は科学の発見がなかなか認められなかったり、宗教家の受難(パッション)なんて感じでいくらでもあることじゃがな。 獏迦瀬:まさに格闘ですよね。 伊丹堂:そっからして言えることがまたあって、そういう格闘というか、労苦というものは文化の伝承についても言えるってことじゃ。 獏迦瀬:それは教育の問題ってことですかね。 伊丹堂:まあね。文化の創造にしても伝承にしても、個人が情熱的にあるコトをなし、それを人が感動的に納得する、というカタチでの「共有」があってはじめて可能になる。 獏迦瀬:伝えるのもまた格闘…。 伊丹堂:日本の「世間」といったような、相対的に「ぬるい」文化に浸っていると分からなくなるのが、このことじゃ。キミも文化はなかなか変わらないと言ったが、それを逆にいえば、別になにもしなくても「自然に文化は伝わる」って感じがあるわけじゃろ。しかし、そんなのは極めてマレな現象なんじゃよ。 獏迦瀬:なるほどね…、日本の場合、自然に分からない方が悪いって感じですからね。 伊丹堂:教育がないがしろにされるっていうか、そもそも教育という発想がない。それでいて「最近の子どもはダメになった」とか「親がダメになった」とか評論するのは好きなんじゃが、そもそも誰も教育されていない以上、ダメになるもなにもないんじゃよな。 獏迦瀬:文化果つるところ…って感じですね。ということは、日本の場合、文化を創るってくらいの気持ちで生きてかないといかんってことでしょうか。 伊丹堂:たまには威勢のイイこと言うの(笑)。これは日本だけのことではないが、文化はそこにいる成員にとってはなかなか自覚されない。文化が一種のハビトゥスである以上、しょうがないことじゃが、一般的に「そうではない発想」というのがなかなかしにくくなる負の側面というものがあるわけじゃ。そういう意味ではつねに文化創造を心掛けるという「生き方のフォーム」は大切じゃろうな。 獏迦瀬:ですね…、まあデキルかどうかは別として。 伊丹堂:結局、文化は個人の努力によって創られ伝承されるが、逆に個人は、そういった文化をヨリドコロにしてはじめて生きる意味を実感できる、そういうウラハラの関係にある。それが分かった上で、あとはそれぞれがどう生きるか?ってことがあるだけじゃな。 獏迦瀬:精進します…。 ■プロフィール■ (ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」 |
●私が初めて買った哲学書は『世界の名著 スピノザ・ライプニッツ』だった。高校2年の時、ある雑誌である探検家の愛読書が『エティカ』と紹介してあるのを見て、探検家に特段の関心があったわけではないが、妙にその選書が気になって買い求めた。学校に持っていき、級友から「お前は変態か!」といった類の反応を引き出して満足したことを懐かしく思い出す。その友人もいまは某大学で都市社会工学を教えている。すっかり疎遠になってしまったけれど、あの頃、最初の数行だけ読んだ『死に至る病』を肴にエントロピー増大の法則をめぐる大激論を交わして互いの早熟ぶりを、というより負けん気を競いあったこともいまとなっては懐かしい。
初めて買った、であって初めて読んだではない。初めて最後まで通して読み切った最初の哲学書は『世界の名著 ニーチェ』に収められた「ツァラトゥストラ」で、それは大学1年の時だった。読み終えたのは下宿の二階の部屋の窓際で、その時たしか春の雨がまるで重力にさからうように弱々しい白い光のなかでたゆたっていたのを覚えている。 一冊の哲学書を読むことで世界が変わってしまうわけなどないが、私の身体の感覚はその一瞬だけたしかに変わったような気がした。夜を徹して一気に読み耽ったあとの身体の重い疲れと精神の軽い興奮ゆえの錯覚だったかもしれない。そういえば読み終えた時に雨が降っていたという記憶も、視力が弱って春先の鈍い光を捕らえ損なったがゆえの幻覚ではないかと言われれば、そんな気もしてくる。第一、哲学書を読んだといったところで、それは「ツァラトゥストラ」がそのジャンルに分類されているからなのであって、一編の文学作品に没頭した経験との区別さえ当時の私にはできなかったはずだ。 いずれにせよ読書体験が意味記憶としてではなく、そのようなエピソード記憶として後々まで残るという経験は、たぶん若い肉体ゆえのことだったのだと思う。なにしろ最近では短期記憶としての定着ですらおぼつかないのだから。 ●メルロ=ポンティは、1960年5月の研究ノート「世界の肉──身体の肉──〈存在〉」(『見えるものと見えないもの』)に「私の身体は世界と同じ肉でできている」と書きつけている。──「ツァラトゥストラ」を読了した時のあの身体の浮遊感、まるで宙を舞う水滴とともに舞踏しているような、世界のうちに浸出し渾然と溶け込んでいくような消失感と一体感とのキアスム(絡み合い)、見ることと見られること、思惟することと思惟されること、感覚することと感覚されることの一致、共感覚的な響き合い(五大ならぬ五感に響きあり)の体験を表現するのに、「肉[chair]」という語彙はいかにもふさわしい。 《肉は物質ではないし、精神でもなく、実体でもない。それを名づけるためには、水・空気・土・火について語るために使用されていた意味での、言いかえれば空間・時間的個体と観念との中間にある一般的な物、つまりは存在が一かけらでもある所にはどこにでも存在の或るスタイルを導入する一種の受肉した原理という意味での「エレメント」という古い用語が必要になろう。肉は、その意味では、〈存在〉の「エレメント」なのだ。》(「絡み合い──交叉配列」,『見えるものと見えないもの』) ●私は、メルロ=ポンティがいう「肉」はプラトンが『ティマイオス』で「存在」(イデア・形相)と「生成」(質料)の中間においた謎めいた「コーラ」(場所)に、すなわちハイデガーが『形而上学入門』で「そこでそれが生成するそこ、媒介、生成するものがそこへと自己を形成し入れるもの、生成するものが、生成してしまうと次にはそこから抜け出るもの」と説明し、中沢新一が『精霊の王』で「胞衣」にたとえたものと響き合うのではないか(「感覚の論理」を通じて?)と考えているのだが、これはまだ仕上げられていない生煮えの粗描でしかない。 ──あるいはヒュポスタシス(どろどろしたもの)。あるいは「音響的鏡すなわち聴覚−音声的皮膚」(ディディエ・アンジュー『皮膚−自我』)もしくは音響の化石。(これは蛇足だが、身体のこと、肉のことを考える時、いつも決まって思い出す言葉がある。藤原新也の『メメント・モリ』だったか『全東洋街道』だったかに出てきたイスタンブールの娼婦の言葉、「人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ」。) ●さて、『エティカ』はその後どうなったか。──スピノザについて書かれた文章はずいぶんたくさん読んできたように思うが、肝心のスピノザの著作では『知性改善論』を一瞥しただけで、いま(退屈の虫を噛み殺しながら)『神学・政治論』を読んでいるところ。つまり『エティカ』は──池田晶子(「スピノザ、ライプニッツ」,『考える人』所収)が「遠目から眺めれば、壮大に緻密に繰り広げられるペルシャ絨毯のような」と形容した、観念論と唯物論のキアスムともいうべき書物、「二つの首をもつ謎の政治哲学」(中山元)の書は──まだ読んでいない。池田晶子がいうように、『エティカ』を読むのは、めんどうくさい。だからこれまで、これまた池田晶子いわく「野蛮な読み方」、すなわち「とばし読み」をするしかなかったのだ。 ●ところで『知性改善論』を読みながら、私は(御しがたい退屈とともに)形容しがたい薄気味悪さを感じていた。スピノザは私に「オマエハ一個ノ機械ナノダ」と告げている。ここには「この私」が帰属する場所がない。──このあたりの感触を池田晶子は次のように表現している。 《…デカルトの合理主義に触発されて、[東方的な]汎神論的直観を叙述しようと思い立った近代人スピノザの神は、徹底的に論理の神、目的でもなければ価値でもない、もとより人格ではないから自身を意志して在ったわけでもない。端的に、「その本性が存在するとしか考えられない」から存在する神である。実に淡泊な神である。 cogito を完遂すると ego は消失する、そのときそれは神の cogito に成り変わっている、したがって宇宙とは神の自己思惟の所産である、この過程をつづめて言えば、「我即自然」、ただし、これは私の直観である。そして、その「我」は、あの「我」でも、どの「我」でもいいのではなくて、スピノザが絶対に認めなかったまぎれもない他でもないこの「我」でなければならないのだが、この話は、また別の機会にします。》 ●スピノザの退屈さは尋常ではない。たとえば『神学・政治論』に出てくる次の指摘など、近代人の末裔たる私にとって陳腐な物言いでしかない。 《…聖書は、自然的光明に依って認識される諸原理からは導き出され得ない事柄を極めて屡々取り扱っている。というのは聖書の主要部分を構成するものは物語と啓示とであるが、物語は専ら奇蹟を、換言すれば…自然の異常な出来事に関する話を内容としており、それはそれを語る人々の見解と判断に順応させられたものであるし、一方啓示も亦預言者たちの見解に順応させられたものであることは我々が…示した通りであって、それは実際には人間の把握力を超越するものなのである。だからこれらすべての事柄に関する認識、換言すれば聖書の内容を為す殆どすべての事柄に関する認識は、聖書自身からのみ得られなくてはならぬ。恰も自然に関する認識が自然そのものから得られねばならぬと同様に。》 ●ところが田島正樹(『スピノザという暗号』)によると、そこにこそスピノザ哲学の根底をなす最も重要な要素がある。 《『聖書』を『聖書』自身から理解するという徹底した「内在主義」は、同時に、『聖書』の言葉を『聖書』全体から理解するという「全体論的解釈」へと導くだろう。『聖書』解釈を通じてスピノザが若くして確立したこの二つの態度こそ、…生涯を通じて彼の哲学の根底を形成した、最も重要な要素をなしているのである。(略) 彼が使用する哲学用語は、よく見るといずれも伝統的用法から大きくずれており、しばしばその用語法を生み出した問題圏域からさえ無関係なことが多い。そのため、その用語の歴史を手がかりにしようとするスピノザ解釈の試みは、しばしば途中で路を見失うことになってしまうのである。それらは、むしろスピノザ哲学全体の文脈から、全体論的に解釈されなければならないだろう。それは、スピノザの方法を、スピノザ自身に適用することなのである。》 ──これに続けて田島正樹が引用しているスピノザの文章、「預言なるものが個々の預言者の表象力や気質に応じて相違したばかりでなく預言者が抱いていた思想に応じても相違したこと、従ってまた預言は決して預言者をより賢くしたわけではないこと」云々は、そこに出てくる「気質」という語彙によって、また「キリストは精神対精神で神と交わった」のであって、「キリストの外には誰もが表象力の助けに依ってのみ、即ち言葉や彫像の助けに依ってのみ神の啓示を受けとった」のだという文章ともども、私の退屈をしばし癒してくれる。 ●スピノザの方法を、スピノザ自身に適用すること。──池田晶子の「スピノザ、ライプニッツ」に付されたエピグラム、「夢見る世界に/夢見られつつ/夢見る宇宙の/夢を見ている」と、メルロ=ポンティの「世界の肉──身体の肉──〈存在〉」の次の文章とを比較せよ。──あるいは世阿弥の「離見の見」。 《世界の肉、それは見られる〈存在〉(l'E^tre-vu)に属している。言いかえれば、それはすぐれた意味での percipi[知覚されるもの]であり、percipere[知覚するということ]が理解されうるのもこの世界の肉によってなのである。私の身体と呼ばれるこの知覚されるものは他の残りの知覚されるものにおのれを向け、おのれ自身を自己によって知覚されるものとして、したがって或る知覚するものとして扱うのであるが、こういったことがすべて可能であり、それになにか意味があるのは、結局のところ〈存在〉があるから、それも闇のなかで自己同一的であるような即自的〈存在〉がではなく、おのれの否定、おのれの percipi[知覚されること]をも含んでいるような〈存在〉があるからにほかならない。》 ●メルロ=ポンティは、1960年5月のもう一つの研究ノートに「肉とは鏡の現象であり、鏡は私と身体との関係の拡張なのである」と書いている。──スピノザが磨いたレンズもまた「肉」にかかわっているのだろうか。(スピノザの屈折率。魂のレオロジー。) ついでに書いておくと、1960年5月のこれとは別の研究ノートに「文学とはつまり感覚的なものの哲学である」というのがある。──ここで言われる「感覚的なもの」とは感覚質、すなわちクオリアのことだろう。 ●それにしても、メルロ=ポンティの文章は美しい。その美しさは尋常ではない。池田晶子の言葉を借りるならば、形而上学的感受性と論理的思考力との幸福な一致がそこにはある。いかなる脈絡も抜きにして、ただただ純粋に引用したくなる文章がいたるところに象嵌されている。以下は、そうした「純粋引用」の一つ。 《ヴァレリーが言っていた牛乳のひそかな黒さにはその白さを通してしか近づきえないように、光の理念や音楽的理念は、光や音を下から裏づけているのであり、それらの裏面ないし深みなのである。それらの理念の肉的な組成[きめ]は、すべての肉に欠けている組成[きめ]をわれわれに見せている。それは、不思議にもわれわれの眼下に、線引きする者もなしに引かれる航路であり、或る種のくぼみ、或る種の内部、或る種の不在、何ものでもないようなものではないところの否定性なのだ。》 ●話は変わるが、ジュンク堂書店大阪本店で「<私=意識>とは何か〜哲学を柱に認知科学から脳科学まで」というブックフェアが企画された際、ひるますさんとともに私も選書に協力した。その時リストに挙げたいくつかの哲学系の書物の一つに『スピノザという暗号』がある。私が念頭においていたのはクオリアをめぐる田島正樹の論考だったのだが、この「精神と物体の関係が最大限に厄介な形で具現されているこの血の詰まった皮袋」(池田晶子)、すなわち心身問題にかかわる話は、また別の機会にします。 ★編集部・註:下記のWebにてブックフェアの様子と選書リストがご覧いただけます。http://homepage3.nifty.com/luna-sy/bookfair.html#0403 ■プロフィール■ (なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp ★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n ★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html |
関西では80年以上の歴史を持つスタンディングバー「サンボア」の特集が某雑誌で組まれていましたが、今回私がお勧めするお店はその「サンボア」で10年のキャリアを積んだ方がオーナー・バーテンダーとして経営されている、「ROCKFISH 北浜店」です。
同店には東京の銀座店もありますが、今回ご紹介する北浜店はそのオーナーが後輩(その方は「サンボア」では修業されておりませんが)に任せているお店です。 「サンボア」の流れが随所に見られ、カウンターの後ろにさりげなく飾られているコースターが「サンボア」出身のプライドを感じさせます。 お勧めのカクテルは「サンボア」と同じく、サントリーの角瓶を使用したハイボール、シンプルですが奥深いカクテルです。酒類はオールセッティングに揃えており、フード類もあって、私のお勧めのフードはカツサンド(1000円)です。 場所は、北浜駅(京阪電鉄・地下鉄)から徒歩約2分、旧大阪証券取引所の裏のビルの2階にあります。北浜のビジネス街ですが15時からOPENしており、OPEN〜19時まではフード類の大半が半額になるハッピーアワー、CLOSEは27時です。 店長の原さんは人柄もよく話もおもしろい方で、私とはプライベートでもよく酒を飲み、酔うにつれ日常の営業トークがなくなり本音で話をしてくださいます。 仕事に疲れた時、ブラリと立ち寄ってみてはいかがですか。 「ROCKFISH 北浜店」 大阪市中央区北浜1-9-8 TEL:06-6231-6969 店休日:日曜・祝日 営業時間(15:00〜27:00) |
■黒猫房主の周辺(編集後記)■ ★今号から(定期連載になるか未定ですが)、書店人にしてバーマニアの久世 さんによるバー紹介のコーナーを増設しました。乞うご期待ください。(黒猫 房主) |