●私の部屋の本棚の常備本に、草稿、遺稿、覚書、断章、引用の類を集めた書物がいくつかある。ノヴァーリスの「断章と研究」や「一般草稿集」を収めた沖積舎版全集第2巻とかベンヤミンの『パサージュ論』、ニーチェが遺した膨大なアフォリズム群を実妹エリーザベトが編集した偽書『権力への意志』が、読むでも考えるでもない朦朧とした、たとえばキース・ジャレットやグレン・グールドのピアノソロなどを聞き流しながら過ごす箸休めにも似た一時の旅の道連れとして、目下のところ重用している本たちだ。 そのほかノーマン・O・ブラウンの『ラヴズ・ボディ』やウィトゲンシュタイン全集第1巻に収められた「草稿」、いま手許にはないけれどパスカルの『パンセ』やヴァレリーの『カイエ』やシオランの著書なども、かつて熟読はしないまでも玩味した書物だったし、ニーチェがいう悲劇時代の古代ギリシャの哲人たち、いわゆるフォアゾクラティカーをはじめとする、ディオゲネス・ラエルティオスの『列伝』に登録された哲人たちの思想詩群──たとえば「すでに過ぎ去った無限の時間から考えてみると、全宇宙には、何も目新しいことは起こらないのである」(岩波文庫『エピクロス』)など──は、『論理哲学論考』ともども私の個人的な聖典ともいえるものだった。 ●哲学系の書物を読むとき、それを体系的叙述として逐行的に追思考するよりは「思考細片」の編集物として、あるいは概念の「モザイク」として、細部を逐語的に賞味しては私秘的な註釈や批評・解釈をほどこしたり、記憶の片隅にわだかまる他の断章とのつながりをこじつけて楽しむのが私の癖で、だから断片・引用好きは、いってみれば私自身の身体感覚や体質に根ざした(というか、体力に合った)思考の方法なのだと思う。 ポーのひそみにならった「マルジナリア」の最後に、澁澤龍彦は「私はこういう形式、つまり断章の形式が性に合っている」と書きつけている。澁澤になぞらえるのは不遜だけれど、私もまた断片的思考(もしくは引用的思考)が体質に合っている。 ●ここで「性」もしくは「体質」は「気質」といいかえてもいい類のものだろう。ジンメルは『ショーペンハウアーとニーチェ』で次のように書いている。 《すべての偉大な哲学はしかし、心的現実においては到達しがたいこのような形式的統一の先取りなのである。というのは、芸術が「ひとつの気質をとおして見られた」世界像であるように、哲学はひとつの世界像をとおして見られた気質であり、つまり、ひとつの中心が確定され現存在に対する人類の偉大な態度のひとつが確定されるように世界の諸要素を配列し解釈することだからである。》 ●思考の方法や表現形式と身体のあり様との不離の関係。あるいは、体質に即して紡がれる思考。──ここで私が思い浮かべているのは、ベンヤミンとニーチェである。 たとえば、スコラ哲学で使われた入門教育書「トラクタート」にふれた「認識批判的序章」の冒頭などを読むと、それはほとんどベンヤミンの「まわりくねった」文章がもつ体質(要約を許さない物質性、アドルノの言葉を借りるならば「音楽」のような)それ自体を言い当てている。 《気まぐれな断片に分かたれていながら、モザイクにはいつまでも尊厳が失われることなく保たれるように、哲学的考察もまた飛躍を恐れはしない。モザイクも哲学的考察も、個別的なもの、そして互いに異なるものが寄り集まって成り来たるのである。(中略)思考細片が基本構想を尺度として直接に測られる度合いが少なければ少ないほど、思考細片の価値はそれだけ決定的なものとなり、そして、モザイクの輝きがガラス溶塊の質に左右されるのと同じように、叙述の輝きは思考細片の価値にかかっている。》 ●あるいは、ハシッシ吸引による「実験」の核心部分にふれた文章(『陶酔論』)。 《それはアウラの本質について僕が述べた部分である。(中略)第一に、真のアウラはあらゆる事物に現われる。みんなが思うように、特定の事物にだけ現われるのではない。第二に、アウラは事物がとるあらゆる運動──それがアウラなのだが──につれて根本的に変わる。第三に、真のアウラは決して、通俗的神秘主義の書物が図解したり描写したりしているような、通り一遍の心霊術的光の魔術ではない。むしろどぎついもの、その中にこそアウラがある。装飾的なもの、事物やその本質が裏地に縫い込められているようにしっかりと入りこんだ装飾模様──そこにこそアウラがある。》 ●今村仁司(『ベンヤミンの〈問い〉』)は、「過去の中に未来を見る」というベンヤミンに独特な歴史概念をその「特異体質」に結びつけている。 《性格をもつ人はいつも同一に現れるというニーチェの言葉を引くのを好んだベンヤミンは、同一なものの反復を厳しく批判した人であったが、やはり彼も、傾向的に回帰してくる特異な性格の保持者であった。そのことを私は体質という言葉で言い表しているのである。体質は癖のようなもので、いわば無意識であり、意識して抑えようとしてもけっして抑えられるものではない。》 ──あるいは「認識批判的序章」の基礎的観念をなすイデアとモナドとの関連にふれた文章に出てくる「内臓的体質」や「動物感覚」といった語彙。 《彼にとって内臓的(visceral)とでも言える体質となった独自の観念は「星座」(Konstellation)である。彼の星座論あるいは星座のイメージを哲学的概念として表現する場合に、それにもっとも親和力のある観念を伝統の遺産のなかから選ぶとすれば、彼の動物感覚からすれば、イデアとモナドであるほかはなかったのだと思われる。だからイデアもモナドも、ベンヤミンの思考のなかでは星座の観念/イメージによって充電され、あるいは変形される。》 ●思想的体験としてのニーチェの病。──樫村晴香は「ドゥルーズのどこが間違っているか?」で、永劫回帰の体験は隠喩なのではなく、「実体としての細部をもつ思想的体験」としての病であったと書いている。 《もし人がニーチェの言葉に直接耳を傾けるなら(つまりハイデッガーのそれも含めて、解説書を通じて何かを「理解」しようとしないなら)、この体験が「真実」であり、そこには表現の一語一句が代置不能な価値をもつ、緊密な「物理的実在」が存在し、その実在的力によって、啓示‐伝播の最大限の魅惑‐暴力が駆動することが、了解されるだろう。》 ●強度の近眼がもたらしたニーチェの世界。──澁澤龍彦の「ニーチェ雑感」に次の文章が出てくる。 《シュテファン・ツヴァイクはゲーテとニーチェのイタリア体験を比較して、前者は地中に埋もれたもの、たとえば古代の芸術だとか、ローマの精神だとか、植物や鉱物の神秘だとかを探求するのに対して、後者は頭上にあるもの、たとえばサファイア色の空だとか、無辺際に澄み渡った地平線だとか、全身の毛穴に射しこむ日光の魔術だとかに惹かれる、と言っている。(中略)もしかしたら、ニーチェは度の強い近眼だったから、ゲーテのように植物や鉱物や造形美術に注意を惹かれるということがなく、むしろもっと大きな、光と影の対照のはっきりした、風景とか空間といったものに関心を向けざるを得なかったのではなかったろうか。(中略)「ニーチェが発見したのは、気分(ドイツ語のシュティンムンク)に基づいた不思議な深遠な詩情、神秘的で無限な孤独であった」とキリコは書いている。「それは空が澄みわたり、太陽が低く沈みかけるので、影が夏におけるよりも長くなる、秋の午後の気分に基づいている」と。》 ●再び、ニーチェの病について。──田島正樹(『ニーチェの遠近法』)によると、ニーチェのテクストに繰り返し立ち現れてくる「病と病からの快癒」という主題は、決して偶然的なエピソードの回顧にとどまるものではなく、ニーチェはそこに自分の哲学の隠喩を見ている。 《さまざまな病をかいくぐり、病から癒える経験によって、哲学者は自らの生を使って思想の実験を行うのである。つまりそれは、さまざまに異なる生のパースペクティヴに自ら身をさらすことなのだ。》 ●田島正樹は「ニーチェのテクストは、真理を直接語るのではなく、上演しようとする」と言う。そしてそれは、超越論的哲学を転覆するものとして企てられたニーチェ哲学の首尾一貫した帰結であると。──「超越論的」とは本来、認識が認識者の実存へと振り返るような構造をもつものであった。 《ところが超越論的哲学は、自らを真理一般について語られた一つの真理と装うのだが、その際それを語ることが語られることに対して、せいぜい外的・偶然的に関わるにすぎない。発話内容の真理性にとって、実際の発話はあってもなくても変わりがないものであるかのように見なされてしまうのである。したがってまた、そこで内容を理解するということも、理解される内容にとって外的・偶然的なことがらとして、超越論的反省を免れた理解の外的額縁にとどまっているのである。だから、誰によって理解されようと、理解内容は同一のままであることが、自明視されてしまっている。つまり、超越論的哲学は、哲学を哲学者の実存に基づけようとしたにもかかわらず、その際認識者としての哲学者の能力が考慮されたばかりで、哲学的発話の現場(論争的対話状況)が視野の外に出てしまっているのである。そのため、その哲学の表現や、それを受け取る読者の側の理解様式の問題は、哲学的反省の外に置かれてしまった。このことは、哲学的真理を匿名的な真理一般・客観的真理として語ることであり、その結果、パースペクティヴの観念を流産させてしまうのである。》 ●ここに出てくる「外的額縁」は「欄外」ともいいかえられる。そしてそれは、永劫回帰の肯定的理解について論じる場面で、回帰=反復の認知に関して「そこには、いかなる欄外もありえない」とか、「もしニーチェの回帰思想が、真理についての一般論を説くものであったとしたら、この思想自身は、回帰の欄外に立つものとなってしまうだろう。そして、真理一般についての超越論的真理は、その背後に必ずや哲学者のルサンチマン的権力を胚胎してしまうのである」といったかたちで使用される。 「欄外」はまた「余白」とも「表象できないもの」とも、「至高性」や「非知」(バタイユ)とも、ウーシア(目の前に既にあるもの)に対する「フィシス」もしくは「コーラ」(ハイデガー『形而上学入門』)とも、あるいは「流動的知性=対称性無意識」(中沢新一『対称性人類学』)といった概念とも、捻れた関係を結ぶことになるだろう。──哲学的思考にとって、もしくは、ある体質をもつ身体に到来した体験を通じてかいま見られる世界において、欄外への書き込みを行う主体(第四人称で表記される?)はいない。 ■プロフィール■ (なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp ★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n ★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html |
獏迦瀬:ごぶさたしておりました…。今回のテーマは「家族」ってことですが。 伊丹堂:あいかわらず唐突な感じじゃな(笑)。 獏迦瀬:いぜんLa Vue(13号)で「美って何なんだ〜?」って対話がありまして、それに続く対話として「愛って何なんだ〜?」というのがメルマガ版・臨場哲学(79号)であったのです。その愛って何なんだの結論が、愛は幸せを求めるもの…というものでしたので、まあ話がつながってなくもナイですよね。 伊丹堂:家庭のシアワセって話じゃったな…。あそこでは「家庭がどうあるべき」という話じゃったが、「家族」というのは、どうあるべきとかこうあるべきというものではない。 獏迦瀬:家庭と家族の違いですか…、まあ英語でいえばホームとファミリーですかね。 伊丹堂:言葉はどうでもいいんじゃが、いつものことながら、実存的というか態度としての問題と、事実としてこうなっている、という問題を常に分けて考えねばならんってこっちゃな。 獏迦瀬:家族ってのはある意味で「自然」な関係だってことですか。 伊丹堂:いや、そうではない。というか、その「家族は自然な関係」という発想そのものが諸悪の根源ともいえる。つまり実はそういう発想こそが、家族は自然「だから」家族は(自然に)仲良く「しなければならない」という風に、価値観の押し付けのごとく作用する大本になっとるワケじゃな。 獏迦瀬:なるほど…。でもそうすると、事実としての家族というのはどういう…。 伊丹堂:ようするに「さしあたってたいていは」という奴だね。概念としての家族といってもいい。実はそんなものはどこにもないかもしれないのじゃが、いちおう「そういうもん」としての家族をとらえることはできる。それは「社会とは〜」とか「世間とは〜」という理解が、社会そのものや世間そのものがどこにもなくても出来るのと一緒じゃろ。 獏迦瀬:とすると「そういうもん」としての家族とは、なんなんでしょう。 伊丹堂:基本的に家族ってのは、親子関係じゃな。恋人や夫婦だけでは家族ではない。 獏迦瀬:血縁ってことですかね。 伊丹堂:それは、本質的な問題ではないのじゃが、血縁という事実が「家族」というつながりのヨリドコロではある。しかしカンジンなことは、その「家族というつながり」の実質じゃな。ようするに「親が子供を自分のからだの一部と感じる」ような、身体イメージのレベルでの繋がりなんであって、それは血縁という事実とは無関係に成り立つわけじゃ…。 獏迦瀬:その身体イメージのつながりが「家族」ってことスカ? 伊丹堂:さしあたってな(笑)。ようするに小浜逸郎のいう「エロス的関わり」じゃな。 獏迦瀬:「エロス的」というのは、「恋と宿命」(臨場哲学78号 )でも話題にしましたが、身体的というより細胞レベルで一体化したいというような欲望でしたね。つまり「恋=エロス」って話でしたが。 伊丹堂:恋が日常化というか、常態化したのが家族か(笑)。だからここでは欲望というよりそれが「事実」になっておる。そうありたいと願うのではなくて、すでにそうなっとるから、逆に子供を傷つけられたり、奪われたときに、それを喪失感として感じるわけじゃな。 獏迦瀬:子供にとっては、どうなんスカね、あんまり自分の親を「自分の身体の一部」と感じることはナイような気がしますけど…。 伊丹堂:まさにそうじゃ。しかしここでは親の子供に対する関係しか問題にならんのよ。なぜならば、子供は主体ではないから。 獏迦瀬:はあ? 伊丹堂:「家族」という関係においては、子供は「欲望の対象」であって、主体ではないってことよ。当たり前じゃが、子供は自分で主体的に親を選んできたわけじゃなくて、その関係の中に「産まれる(受動態)」のであって、そもそもの初めから「身体的一体化の対象」という存在なわけじゃ。 獏迦瀬:う〜ん…そうすると、家族的つながりというのは、親だけの観念というかイメージってことになるんですか? 伊丹堂:そりゃ君、悪しき「主体主義」じゃな(笑)。子供はそういう欲望というか関係の「主体」ではないのじゃが、しかし、現実としてそういう「関わり」の中にいる、つまり「一体化の対象にされている」関係の中にいる限りにおいては、そういう身体イメージを受け入れているのじゃ。エロス的関係というのは、そういうふうに互換的というか、共犯的というような関係の中で、一定のリアルをつくり出しているわけじゃ。そういう意味ではやはり恋愛に似ているとも言える(笑)。 獏迦瀬:はあ…なんか今回はいやらしいですね(笑)。 伊丹堂:しゃ〜ないな、エロい話じゃから。しかし、こういう一体化の関係というものは、生まれてからしばらくの子供には絶対的に必要と言われている。ようするにそれが、子供の精神の安定的な基盤や共感能力の基盤になる、というわけじゃな。 獏迦瀬:でも最初に問題にしたように、すべての「家族」がそんなふうに一体化しているわけではないわけですよね。。 伊丹堂:定義の問題じゃからな。しかし「家族」をそういう風に定義してみれば、後はようするに、そのような一体化の関係がないものは「家族ではない」と言えばすむ(笑)。「夫婦+子供」とか。 獏迦瀬:「家族だから〜すべき」ではなく、「家族ではない」と言うわけですね…。 伊丹堂:というより、すでに「そういうもん」として一体化しているような状態を「家族」というだけで、そうなってはいないもんは「家族ではない」というだけのことじゃな。そうならんもんはそうならんのじゃから、しょうがない。 獏迦瀬:はあ…なるほどね。 伊丹堂:そう定義しておくと便利なのは、いわゆる「愛情のない家庭」というのが、実はその実態としては「愛情」ではなくて、この一体化感がない家族関係なのだろう、と類推できるじゃろ。 獏迦瀬:なるほどね…。いわゆる「子供を愛せない母親」とか、話題になりますよね。それって「愛せない」んではなく、たんに「一体化」できないんだと。 伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。 獏迦瀬:でもそれも言葉の問題なんではないスカ? 伊丹堂:そうでもない。カンジンなことは、「愛って何なんだ〜?」でハッキリさせといたように、愛というのは、実存的というか、ある種の倫理的な態度のことだったわけじゃろ。しかし家族とは、エロス的な一体化の関係だとすれば、そこには「そう(一体化)したいからそうする」ということがあるだけであって、「そう(子供を愛す)しなくてもいいにもかかわらず、そうする」という倫理的意味での「愛」は存在しないわけじゃ。これは理屈じゃが…。 獏迦瀬:ようするに「家庭にはそもそも愛がない」ってコトですか。 伊丹堂:そ。「子供を愛せない母親」というのは、これはただもうしょうがないんじゃが、ある意味ではただの正直者なのかもしれん。ま、それは冗談として、そういう前提でみれば「子供を愛している」と錯覚して、実は子供を自分の思いのままにしたがってるだけっつう親がいかに多いかもナットクできるじゃろ。 獏迦瀬:子供を愛してるわけではなく、ただ一体化を欲してるのだと。 伊丹堂:愛とは、愛する相手の立場にたってその幸せを志向することなんじゃが、さしあたってたいていの親がやってるのは、自分の幸福の追求なんじゃな。しかも困ったことに、それは一体化の感情に基づいてるので、愛情や思いやりと矛盾しないものとして感じられてしまうわけじゃな。 獏迦瀬:それは…困った親ですね…。 伊丹堂:というか、親とは、家族とはそういうもんだ、という割きりがカンジンよ。なんでも親のせいにしてはいかん(笑)。 獏迦瀬:つまり価値判断をはなれて、まず家族をそういうものとしてみる、ってことですか。 伊丹堂:そういうこと。子供はそういう家族関係を背景にしながら、いずれは自分も大人になって、家族を作っていく。さっきは子供は主体ではない、と言ったが、それは家族関係からみれば、という話であって、子供の側から見れば、家族というのは自分が生きていく背景というか土台でしかない。もちろんそういう一体化の感覚は生きていく上で必要なものなわけじゃが。 獏迦瀬:成長ってことですね。 伊丹堂:子供が、徐々に親との関係を対象化しつつ、切断し、主体化していくというのが成長の過程で、『オムレット』第5章でも描いているわな。 獏迦瀬:…でしたね。そうすると、そういう成長というプロセスそのものもまた、家族の機能というかシステムということになるんでしょうか? 伊丹堂:いや、それは別じゃろ、さしあたってたいていは(笑)。まあ精神分析やら心理学ではなんでも発達とか成長の過程として描きたがる。そこでは家族が中心になってるように描かれるわけじゃが、実際に子供が成長していくのは、子供自身の生きる力というか、想像力や、家族より広い、外側の世界の「文化」といったファクターが大きい。 獏迦瀬:たしかに、家族関係がエロス的な一体化なら、そこから「自然に」成長がおこるはずはありませんね。 伊丹堂:つまり定義上、家族は成長や自立とは関係がない。オムレット風にいえば、成長ということは、家族「外」の領域におけるコトの成否、つまりリアルの獲得の問題なのであって、親子関係とは関係ないということになる。実際問題としてみれば、エロス的な一体化の関係が子供にとって「リアル」になっている状況で、それを打ち砕く程のリアルに出会えるかどうか? という宿命の問題になるわな。 獏迦瀬:そういえばこの前、ヒッチコックの「汚名」って映画をDVDで見たのですが、これ父親がスパイだったということで、投げやりになってる娘イングリッド・バーグマンのお話なんです。日本だと「世間」から身を隠して生きるという話になるかと思うんですが、この場合は自分に対する破壊的な衝動になっている。でもふつうに考えると、父親がスパイだからといって自分がそうなるというのもヘンですよね。なんか父−娘のエロス的な一体化を感じます。伊丹堂:そりゃまさにそのものじゃろ。日本でいえば小津の映画じゃな。 獏迦瀬:そうなんですか? で、「汚名」の場合、その父−娘の一体化を破壊するのは、FBIだかCIAだかのエージェントのケーリー・グラントとの恋愛関係ということになるんですが、これがひとすじナワではいかない。ふつうに恋愛という感覚があれば、そうはしないだろう、という方向にどんどん進んでいくんですよね。つまり恋愛関係を破壊するような方向ってことですが、それも父親との一体化という前提でみると、妙にリアルな映画でしたね。 伊丹堂:ワシも昔見たが、そんな面白い映画じゃったかな(笑)? ま、家族関係がそういうふうに成長っつ〜か、広い意味での生きるってことを阻害する要因になるってことは往々にしてあるってことかいな。それこそ物語の数だけある…というか。 獏迦瀬:家族の病理って奴ですかね〜。 伊丹堂:そういうと家族、つまり一体化の感覚そのものが「悪」のような響きがあるの。断っておかなくてはならんのは、家族そのものは、あくまで「そういうもんとしてある」のであって、それ自体が問題というわけではない。ただそれが障碍となる様々な状況が生じてしまうということじゃろう。 獏迦瀬:とすると、そうならないようにする、というのが「あるべき家族」の形なのかもしれませんね。 伊丹堂:ま、あるべき…というより、単に「まっとうにあれ」という程度のことなんじゃがな(笑)。 獏迦瀬:まっとうな家族ですか、それはどういうもんなんでしょうか。 伊丹堂:ふむ、そりゃ家族ってことに自覚的であれ、ということになるんじゃろうが、そういう実存的というか思想的なことを言ってもしょうがないんで、具体的にいえば、家族は二の次だってことを肝に命じろってことじゃな。 獏迦瀬:二の次ですか…、ようするに「そういうもん」でしかないから?、とすると、一番はなんでしょうか、仕事ですか? 伊丹堂:仕事の人がいてもいいんじゃが、家族ってことを考えれば、家族を成り立たせているのは、まずは夫婦だってことが大事なんじゃな。 獏迦瀬:ああ、夫婦ね。 伊丹堂:最初にいったように、夫婦と家族は違う。それでいて家族というのは、夫婦からつくられるわけだから、コトの順序から言ってもまさに二の次なわけよ。というとダジャレみたいじゃが、夫婦関係がうまくいってれば、たいていの家族問題というのはおきないのだな。結局、夫婦関係がうまくいってない、ようするに愛しあっていないからこそ、父親か母親のどちらかが、過度に家族関係(エロス的一体化)にのめり込んだり、あるいは逆にまったく「一体化のない家族」になったり、というところから、子供の「まっとうな」成長が阻害されるという状況が生じるわけじゃろ。 獏迦瀬:う〜ん、それはあまりに単純ですが、…たしかにそれは真実のような気がしますね。 伊丹堂:別に複雑に考えればいいってもんでもないじゃろ。だいたい家族なんてもんが、極端に単純な世界なわけで、そこで起きる問題なんてのもそんなもんなのよ。夫婦がちゃんと愛しあっていれば、子供とのエロス的関係がバランスのとれたものになる。つまり子供に対してエロス的一体化をしつつ、「子供もまたいずれ誰かと夫婦になっていく存在」すなわち「成長していく存在」ということを常に自覚していられる、ってことでもあるじゃろ。たしかそんな歌を歌ってるグループがおったろう…。 獏迦瀬:歌、ですか? 伊丹堂:知らんのか。スマップのライオンハート。 獏迦瀬:…そんな歌よく知ってますね…。それはともかく、それがまっとうさということだとすれば、愛のない夫婦は家族をつくるな、ということになりますよね。 伊丹堂:当たり前じゃ。ま、子供を幸せにする自信があるなら、というか、責任をとれるなら、それをやってもかまわんがな。そうでなきゃそれは「まっとう」ではないだけのことよ。 獏迦瀬:そう言われると反論しようもありませんが…、でも例えば事故や病気で片親になってしまうとか、愛がないのに家族ができて、結局は別れてしまったとか、今となっては「まっとうな」状況なんて望めないというバアイもあるかと思いますけど、そういう人にはどうしたらいいんでしょう?、まっとうに生きよといってもしょうがないと思うのですが。 伊丹堂:アホか。そういう人たちはようするに「不幸」という状況にいるのであって、そういう人にはそういう人のまっとうさがある。だいたい不幸だからといって特別枠に入れたり、不幸そのものを救済してやろうというのが傲慢なんじゃ。人生において不幸を生きるってことも大事なんだということが、あまりにないがしろにされてないか? 獏迦瀬:不幸を生きよ、と…。 伊丹堂:不幸を生きるということに対してワシらはもっと正々堂々としなくてはならんし、そう生きている人に対しては、静かに敬意を払っていればそれでいいってことなのじゃ。 ■プロフィール■ (ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEB デザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書として『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。ひるますホームページ「臨場哲学」 ●●●●INFORMATION●●●------------------------------------------------- 「<私=意識>とは何か〜哲学を柱に認知科学から脳科学まで」をテーマに、 約60点を選書したブックフェアを下記の書店にて開催中です。 ■選書リストと展示写真は、こちらをご覧ください。 ■開催期間:2004年3月中旬より4月中旬まで。 ■場所:ジュンク堂書店大阪本店3階東窓側フェア台(喫茶部隣) 大阪市北区堂島1-6-20 堂島アバンザ TEL.06-4799-1090 FAX.06-4799-1091) [営業時間] 午前10時〜午後9時 ■企画選書:るな工房・窓月書房 ■選書協力:中原紀生+ひるます |