『カルチャー・レヴュー』35号



■連載「映画館の日々」第1回■


ますます不思議な小津安二郎

鈴木 薫


■ミッチーとさぶりん
 昨年十一月から今年一月にかけ、東京・京橋の国立近代美術館フィルムセンターでは「小津安二郎生誕100年記念 小津安二郎の藝術」と銘打って、全作品の上映が行なわれた。私がはじめて小津を見たのは、一九八一年一月の同じ場所での全作品上映時(その後発見されたフィルムもある)で、当時八重洲北口を出たところに勤めていた私は、終業時の五時半になると八階のオフィスから降りて南口まで東京駅の長さを走ってゆき、京橋方面へ曲がってさらに走り、火事を出す前の昔のホールで席を確保して目をつむり、場内が暗くなると目をあいて、見終ると勤め先へ戻って十時まで出版物の校正をするという生活を続けた。ついに上映がはじまっても目があかないようになったので終りの方はあきらめたが、その後あちこちの名画座で見そびれた作品をつかまえたから、後期の小津もほぼ見ているはずだった。

 今回は年が明けてからようやく通い出したので逆に初期作品を見そこなったが、『東京の宿』(三五)サウンド版、『小早川家の秋』(六一)と『秋刀魚の味』(六二)の二本を除く全トーキー作品、加えて、発見されたサイレント・フィルムの一つである『突貫小僧』(二九)を最終日に――後述する理由で――見ることができた。『淑女は何を忘れたか』(三七)、『戸田家の兄妹』(四一)、『宗方姉妹』(五〇)は、どうやら未見だったらしい。前二作をもし見ていれば、桑野通子を覚えていないはずはない。

 桑野通子――小津作品中、この二本にだけ登場する彼女には、まず『戸田家の兄妹』で端役とはいえ強い印象を受けたのだが、その後『淑女は何を忘れたか』で、チャーミングさに目を見張らされた。東京のおじの家にやってきた元気のいい姪で、帽子を斜めにかぶり、佐野周二と並んで遜色ない長身の、オーバーコートから出ている形のいい脚。部屋着も似合い、関西弁がキュート! 子供たちが地球儀をぐるぐる回して、目を閉じたまま指で押えた箇所の地名を当てる遊びをしているところへ来た彼女、「北極!」とやってひとり勝ち。

『淑女』のリメイクでもあろう『お茶漬の味』(五二)は、戦時中に書かれた最初の脚本では、おじが佐分利信、妻役が桑野だったという。十年後、おじを佐分利のままで撮ったのは年齢的にミスキャストと、『小津安二郎映畫讀本』(フィルムアート社)は主張する(桑野は四十二年に急逝、彼女の早すぎる死については悲しすぎるからここには書かない)が、しかし、この佐分利信、なかなか素敵である。テレビでもずいぶん見た顔だけれど、その頃にはさらに年を取っていたし、もっとアクの強い役が多かったような。小津でも、『彼岸花』(五八)のやたら怒っている父親の印象が強かった。今回、『戸田家』でのういういしい二枚目ぶりにも驚かされたが、おつけを御飯にかけてお嬢様育ちの妻にうとましがられる『お茶漬の味』の彼には誰もが同情するだろう。いや、佐分利信、断然素敵で、自分のウェブサイトで「さぶりんと銀座でデート」と空想を記す若い小津ファンがいるのにも不思議はない。

 以下では、主に『東京暮色』(五七)と『風の中の牝鷄』(四八)に関して今回気づいたことを記すが、この二本がいずれも小津の失敗作と言われているものであるのは偶然にすぎない(それともそうではないのだろうか?)。

■エレクトラ?
「もう今日は帰ってドラマ見なくていいわね」『東京暮色』が終ったあと、明るくなった客席で年配の女性が連れの女性とそう笑い交わしていた。たしかに、小津を見た後では画面を見ないでも理解できるテレビドラマなど見る気がしないだろう。私はといえば、その夜ニュースを見ようとテレビをつけたまま寝てしまい、夜中に目をさますと何やら字幕つきの映画が映っていたが、そのカメラワークが煩くてしょうがない。やたらと動き回り、対象にこれでもかと接近し、観客に見させ、驚かせようとするのが、不自然で、押しつけがましく、堪えられないのだ。

 むろん、不自然なのは小津の方である。小津作品には、観客がけっして見せてもらえないもの(例外的なシーンを除いて)がいくつかある。たとえば見合相手の写真。たとえば娘の結婚式。たとえば正面から撮った階段。こうした禁忌に加えて、固定された空間の中へ/から人が出入りする安定した構図や、切り返しショットの交わらない視線や、並んで同じ動作を繰り返す二人の人物は、そこに尋常ならざる事態が起こっていることを(しかも、描かれている出来事は、これ以上ないほど尋常なものである)見る者に気づかせずにはおかない。

 しかし小津は、人々の好奇心をあおり立てようとして、大切なものをわざと見せないでいるわけではない。私たちが(十分に)見せてもらえないもの、それはまた、『東京物語』(五三)の冒頭で、尾道から上京しようとする笠智衆が、すでに鞄に入れたのを忘れて妻の東山千栄子をなじる空気枕や、最後に妻の形見として原節子に贈られる時計でもある(註1)。むろんこれらは登場人物たちにとっては大切なものだが、しかしそこには秘密が隠されているわけでも何でもなく、荷物の中に見なれた空気枕を笠智衆が認めるとき、それが私たちにとってもまた、見たこともない驚嘆すべきものではありえないのはわかっている。ロラン・バルトがストリップティーズについて言ったような、すべての中心にあり、段階的に露出された末に開陳されるもの、東京物語という〈物語〉の謎を解く、秘められた核心としての〈性器〉でそれがありえないことはわかりきっている。

〈性器〉の対極にあるもの、それはまた原節子の顔でもある。小津映画が絶対に隠すことのできないもの、私たちの視線を引きつけてやまぬもの――だが、私たちは本当に見ているのだろうか。新聞のテレビ欄に、衛星放送で『晩春』(四九)を見た視聴者の投書が載っていた。笠智衆が結婚について娘の原節子に説く、幸せはなるものではなく、作るものだ云々という言葉に感動したのだという。言うまでもなく、何に感動するかはその人の自由である。いや、本当は、「自由に」感動することなどありうべくもないのだから、何に感動しようとそれだけで非難の対象にされるべきではないと一応は言える。あるものに「感動した」と公言すること、頼まれたわけでもないのにそれを新聞に投書することが、自分をどんな人間として他人に示すことになるかがわかっていない愚かさを嘲笑されることはあっても。だが、今は、この投稿者にそうした嘲笑を浴びせようというのではなく、ただ、次のことを指摘したいだけだ。笠の演説に本気で共感したのだとすれば、この人は原節子の顔を見ていなかったのだろう、と。

 原節子の顔。古風な、日本的な、といった形容はおよそ似合わない。その顔を、たとえば吉永小百合と取り替えることなど、考えることもできない。愛らしい、という形容さえ彼女にはふさわない。意志的な、男性的な顔立ち。小津作品に出てくるとき、多くの場合、その顔は作り笑い――あえてそう呼ぼう――を浮かべている。『晩春』で、結婚相手にと目されていた男性にすでに婚約者がいることを父に向かって明らかにするときも、『麦秋』(五一)で杉村春子に向かって、こんな売れ残りでいいのかという言葉で彼女の息子との結婚を承諾するときも、原節子はその微笑を浮かべている。

 互いに好意を持っているらしい、しかし婚約者のある男と嫉妬について話しながらも、彼女は嫉妬などしていない。彼女が本当に嫉妬するのは、父の縁談を叔母から聞かされたときだけで、そのときの原節子は本当にすごい眼をする。そして自らの結婚話を受け入れてのち、父と二人きりでの京都旅行での最後の晩、「あたし、お父さんが好きです。このままお父さんのそばに置いて下さい」と迫るとき、彼女のパッションの強さに笠の返答は見合わない。原節子の表情の強度にも、父の台詞を受動的に堪える絶望と諦めにも気づかずに、彼女の代りに笠に説得されてしまう人がいることに驚かずにはいられない。

 原の告白を、笠は文字どおりに取らない。父を必要としていると言われながら、父の代理で事足りると考えるのだ。ここに〈性器〉があると思う者は、原節子は父のファロスから夫のファロスへ、さらにファロスの等価物である子供へと移行すると考えるのであろう。しかし、彼女が欲する父とは、「男」と交換できるようなものではない。この場面について、二人が父と娘ではなく、男と女になっているといったたぐいのことを言う人は、何か思い違いをしているのだ。(娘が父へ寄せる愛情を、一般的なヘテロセクシュアリティへ至る通路と見なさない方法はあるのだろうか?)

 結婚してもこれ以上の幸せがあるとは思えないという娘の訴えに、そういう幸せは性愛の相手を持つことによって得られるのだと、父は教えることができない。彼はただ、享楽の難しさ(「一年かかるかもしれない、二年かかるかもしれない」)と忍従の暮しを説くのみだ。『晩春』の母親が台所で泣いていたとは父自身によって語られている(母についての唯一の言及)が、『東京暮色』の母、山田五十鈴は、単身赴任の笠智衆を捨て、長身の「下役の人」と出奔した。

 はじめて、『晩春』の笠の台詞――「結婚してもすぐに幸せになれるとは限らない。一年かかるかもしれない、二年かかるかもしれない。いや、十年かかるかもしれない、幸せはなるものじゃなく、作るものなんだ」――を聞いたとき(オールナイトの映画館だった)、私にはそれが、夫との性交では得られないであろうオーガズムのことを言っているとしか思えなかった。

『東京暮色』が『晩春』の後日談であると誰も指摘しないのは、説得されて嫁いだ原節子が、父の代理、すなわち、父と娘ではそうなりえない性愛の相手との幸せを得たと信じたいからだろうか? しかし、幸せは得られなかった――原節子は幼い娘を連れて家出し、実家に身を寄せている――と『東京暮色』は告げるのだし、『晩春』では触れられることがなかった父の過去までがここでは語られている。『晩春』の父娘――まさしく笠智衆と原節子である二人――が、『東京暮色』にはそっくり引用、というよりむしろ移植されている。小津作品と聞いて誰もが思い浮かべるであろう晴れ上がった空を第一の属性とする風土から、雪が舞い、マフラーで頭を包み、マスクで口を覆う慣れぬ風土への移植。『晩春』の娘にとっては絶対の存在だった笠の父親も、ここでは相対化されている。彼は妻を寝取られた男なのだ。

  『東京暮色』の原は、姦通した山田五十鈴を許さない。彼女自身すでに母親でありながら、長男が何年も前に山で遭難死していたと最近知ったばかりの母に、今また、末娘、有馬稲子の死を冷酷に告げる。のみならず、妹の死は母のせいだと責め立てる。そこまで母親に厳しいのは、彼女が父を裏切った女であるからだ。

 有馬稲子のような片親の環境で娘が育つのを避けるため(だが、母の不在と父の不在は対称ではありえないから、この説明には説得力がない)、夫のもとに戻ると原節子が笠に告げるとき、彼は明らかに意外そうな顔をする。硝子戸の外に雪がちらつく家での直談で、彼は婿にすでに見切りをつけている。娘自身に対しても、かつて彼女が好意を寄せていた別の男と一緒にしてやればよかったとさえ口にしている(やっぱり「男」は取り替え可能なのだ)。取り替えのきかぬ唯一のものである父のそばに――「このままお父さんのそばに」――娘と幼い孫娘がいてもかまわないと、末娘まで失った今、彼は思うようになっていたのだ。『晩春』で父が娘に行なった紋切型の説得が、今度は娘から父に向かって反復される。もはや夫のもとでの娘の幸せを信じられない父親は、それでも「そうか」と頷く。「わかりました」と頷く『晩春』の原節子のように。彼女の表情に漲っていたパッションは、だがすでに遠い夢であり、それゆえ『東京暮色』の世界はさむざむとしている。

■もう一つの二階
 誰もが知るとおり、後期小津作品の二階は、蓮實重彦により「女の聖域」と名づけられている。それは、不在の階段によって宙に浮かんだ、嫁入り前の娘たちの特権的な空間だというわけだ。では、真向から映し出される『風の中の牝鷄』の階段については、蓮實は何と言っているか。「階段が顕在的なイメージとして鮮明な輪郭におさまる瞬間、人は画面を直視してはならないのだ。階段が不可視の存在として廊下のすみに隠されているとき、人はフィルムの全篇へと映画的感性を投げかけねばならぬが、それがいったん可視的なものとなるや、危険を察知して目を閉じること。小津的「作品」は、そうつぶやきつづけているかのようだ」(『監督 小津安二郎』青土社、一九八三、91〜92頁)。『牝鷄』の見え過ぎる階段を、あくまで「例外」とすることで嫁入り前の娘たちの主題を支えさせようとするこの記述には納得がいかない。なぜなら、「危険を察知して」のこの身ぶりは、『牝鷄』の二階が娘の聖域とは全く異なる、死者(たち?)の「アイビキの場所」(註2)であることから、目をそむけてしまうことに他ならないと思われるからだ。

 復員して来ない夫を、幼児を抱え、二階家の二階部分を借りて待つ田中絹代。子供の入院で金が必要となり、思いあまって一夜彼女は売春する。帰った夫にそのことが知れるだろうとは観客には容易に予想がつくが、それは心ない他人の口からとか、どうしても告白しなくてはならない状況に陥ってというものではない(少なくとも、観客にはそうは見えない)。第一、夫が帰ったことは語られはするものの、夫婦そろって他人の前に姿をあらわす場面は一つもないのだ。夫の帰還がなぜ遅れたか、どんな苦労の果てに日本に帰りついたかが、夫婦の間にせよ、他の人との間にせよ、一言も触れられないのも腑に落ちない。なるほど、二階へ上がってみれば夫は帰ってきてはいる。子供は元気だったかという問いに、病気をしたことを答え、入院したのかと言われてそうだと認める。間、髪を入れずに、費用はどうしたんだ、借りたのか、誰から借りたのかと責め立てられる。まるでそのことを問いつめるため、夫は帰ってきたかのようだ。佐野周二は、小津作品の中でも役によってかなり印象の違う役者だが、ここではたとえば『父ありき』(四二)のやさしい息子とは似ても似つかぬ嫌な奴で、乱れた癖っ毛を顔の横に垂らしてけわしい表情をしている。

 クライマックスは、有名な階段の場面である。正面から撮られた階段には紙風船や茶筒などが、それまでにもふわふわと、あるいは音立てて落ちるのが目撃されたが、ここに至って、佐野周二に突き飛ばされて田中絹代がどすどすと転がり落ちるのを(実際には「浅草の曲芸の女の人」にやってもらったそうだが、いかにも痛そうな落ち方である)、私たちは目のあたりにすることになる。佐野は妻を追って階段を駆け降りるものの、なぜか段の途中で止まり、大丈夫かと声をかけるばかりだ。見下ろされた田中絹代は起き上がってこない。佐野も本気で心配しているようではあるが、下まで降りて抱き起こすどころか、手を貸してやるそぶりも見せない。昔の男はそんなものだったのだろうなどと思ってしまってはいけない。家主の妻が外から帰ってきて田中を発見する。カメラが階段を映すと、もうそこには誰もいない。

 家主の妻が入ってきたとき、田中はもう立ち上がっており、壁にすがっている。この直前、佐野に見下ろされたまま、気を失っていたらしい田中がゆっくりと起き上がってくる場面があって、そのさまは、死者の甦りを私たちが目にしていると考えれば一番納得がいくものだ。家主一家が一画多い川の字になり静かな寝息を立てる階下と、件の夜の詳細を聞き出そうと責め立てたあげく、曖昧宿では不首尾に終わったらしい性交に及んで田中の喘ぐ声が聞こえる階上は、所詮別世界なのだ。佐野周二が手を差し伸べないのは、二階以外の場所では、彼らは触れ合えぬからではなかろうか。妻を突き落としたことを家主の妻に悟られまいと、夫は急いで階上へ戻った? そんな気づかいは生者のすることだ。たぶん夫の姿は、妻以外の者には見えないのだろう。

 幼い息子を唯一の例外として誰も割り込む余地のない「アイビキノ場所」からいったん離れるなら、彼らは他の人々の目に確固として存在しているようではある。佐野周二は復職し、友人の笠智衆に悩みを打ち明け、田中が客をとった宿へ赴いてそれが「一度きり」であったことを確かめる。客として上がった部屋にやって来た女に同情し、仕事を探してやりさえする。昼間、川べりの土手で弁当をつかう女が佐野と並んで話すところは( 夫が帰ってきたと知らされる直前、田中絹代は子供を連れて友人と、やはりそんなふうに土手でピクニックをする)、この映画では例外的に風通しのいい場面だ。

 田中が痛む身体で必死で二階に戻って夫に謝り(夫が謝るのではない、彼にそのようなことをさせてしまった自分の行為を、田中が謝るのだ)、もうこうなったら……というような意味のことを言うとき――実際にはそれには、ぶつなり蹴るなり好きにして下さい、あなたを苦しめたくない、とすでにそれだけ痛めつけられていながら信じられないようなマゾヒスティックな台詞が続くのだが――すでに話は知っているのにもかかわらず、私は彼女が、今にも、「本当は私はもう死んでいるのです」という告白をはじめるのではないかと思ってしまった。

 忘れるんだ、やり直そう、本当の夫婦になろう、と佐野はしきりに繰り返す。だが、これは、小津の映画全体をおおっている、ほとんど意味をなさない紋切型の台詞のヴァリエーションに過ぎない。歩いてみろ、と佐野は足を引きずっている田中に命じ、まともに歩けないのを歩かせる。彼女が崩れ落ちようとするのを支える形で二人が抱き合うとき、彼女は立っていられず、ずり落ちて、佐野の下半身にすがりつく。階段の場面と同じく、最後まで男―上、女―下の構図なのだが、これとて佐野周二が完全に死霊の女にとらわれてしまったとしか見えないのだ。彼女は「浅茅が宿」の女のように、戦乱の中ですでに命を落しているのではあるまいか。それとも、夫に対する罪悪感にうちひしがれた田中絹代の妄想の世界に私たちはいるのであり、彼女の夫はいまだ復員していないのだろうか?

■etc.
 一月二十五日午後、『秋刀魚の味』と『東京物語』を見に出かけようとして郵便受けから朝刊を取り出し、突貫小僧こと青木富夫の死を知る。フィルムセンターに着いてみると、『秋刀魚の味』の当日券はすでに完売(日曜日で最終日、前売りを買っておくべきだったのだ)。『東京物語』の当日券を求める列に入るかどうか(販売と入場開始は何時間も先)迷っていると、並んでくれないと人数が数えられない、入場できるかどうか責任が持てない、と警備員に声をかけられる。むっとして、並ぶかどうかは自分の責任で決める、入れなくてもあなたのせいにはしないと言ってやる。結局並ぶことにして、持参の本を読んで時間をつぶす。モギリのおねえさんと警備員、人数を数えつづけた結果、『秋刀魚の味』終了以前に、列の人数は残り枚数に達したと判明。前の回を見終えて列につこうと走ってきた人たち、あるいは落胆し、あるいは怒る。上映前のアナウンス、青木富夫の逝去と、終了後 『突貫小僧』の追悼上映が行なわれることを告げる。これは、九一年に発見された十数分の断片で、八十歳での彼の死と引き替えに(というのはむろんこちらの感傷で、本当に残酷なのは、映画が俳優の生死なんぞには完全に無関心で「在り」つづけるということだ)、私たちは六歳の彼を見ることができた。この心遣いと、隣の席の人とおしゃべりしたことで気がまぎれ、お節介な警備員への怒りを投書するのを思いとどまる。

 思えば『東京物語』には、ずいぶん糖衣がかぶせられていたのだった。それを剥ぎ取ったときあらわれてくるのは、たとえば『東京暮色』の最後のショット、妻と息子と娘を失い、もう一人の娘はその男と一緒ではついに幸せを得られないであろう夫のもとへ帰ったあと、いつものように勤め先へ向かう、フィルムのように自らの生を磨り減らしてゆく笠智衆の後ろ姿だ。小津の世界は、古き良き時代の象徴として退嬰的に懐かしまれたり、人々がそこへ回帰したいと思うようなものでは断じてない。『父ありき』の終り近く、動かぬカメラが冷酷に見据えつづける笠智衆の、身体に変調を来しながらそれでも仕事に行くため立ち上がろうとしてあがく、生なましくも不気味な姿を見よ。あるいは顔いっぱいに広がった笑みにパッションを封じ込め、般若の異相と化す寸前で小津映画のヒロインに踏みとどまっている原節子(それを隠すために、彼女は両手で顔をおおって泣くしかない)を。小津映画に出てくるのは抑圧された人々である。決められた空間の中で型にはまった動きをし、紋切型の台詞を口にする不自由な人たちだ。

 そうしたすべてにかかわらず、小津の四本立てオールナイトを見るとは次のような体験であることを言っておかなければならない。相変らずのショット、相変らずの構図、相変らずの台詞の心地よさ。新しいもの、見たこともないもの、驚くべきものではなく、見馴れたものの反復のみを私たちは求め、小津はそれに応える。『お早う』の子供たちによって非難された、オハヨウ、コンニチハ、ナルホドといった単語と同レヴェルの台詞は、あまりの稀薄さに、もはや紋切型の意味すら聞き取らせることはない。小料理屋(「若松」か?)に入った男たちの前に 高橋とよがまたしても現われる(別の作品なのに!)とき、人はもう笑うしかない。

 今回、フィルムセンターにはじめて行くという人に、『長屋紳士録』(四七)をすすめて大いに楽しんでもらえた。父親とはぐれた男の子をひょんなことから世話する羽目になってぼやく飯田蝶子に、本当はもうあの子のことを好きになっているのだと、友達の吉川満子が指摘する。犬であれば互いに尻尾を振り合っているところだが、人間だから見えないのだと、子供の小さい尻尾、飯田の大きな尻尾と手をふってみせる。飯田の顔を「土佐だからね」と言い、「ブル入ってるけど」と付け加えて、「ぶつよ」と言われる。動物園で遊んだ帰るさ、上野山下の写真館でポーズをとって澄ました顔を今度は猿になぞらえて、「よく似てたよ」「何が」「さっき檻ん中にいたじゃないか」。( このコンビ、『淑女は何を忘れたか』でも掛け合いをやっていた。狐の襟巻きを巻いて有閑マダムに化けた――と言いたくなるが、役の上では本物の重役夫人の――いくらか若い飯田、目尻に皺を作らない笑い方を考えたと、口先だけで「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、ホッ」と笑ってみせる。「なんか動物園行きたくなっちゃった」と吉川。思わずにっと笑ってしまった飯田、あわてて目尻に指をあて皺を伸ばす。)にらみつけられれば土佐犬よりおっかない飯田蝶子の無類のコメディエンヌぶり。手動鉛筆削り器かコーヒーミルのようにハンドルをぐるぐる回して配給の小麦を粉に挽きはじめた手の動きが次第に速まり、機械仕掛けみたいにものすごい勢いで挽きまくる……。

『長屋紳士録』はまた、何度見ても感嘆措くあたわざる、写真撮影の場面によって記憶されるべき作品でもある(註3)。『麦秋』をはじめて見たとき、記念写真を撮る一家にスクリーンからまともに見返され、ぎょっとして座席の上ですわり直したものだが、ここでもまた、写真師の視点とばかり思っていた転倒した像に、一瞬の黒画面を介して、誰のものでもない視線におさめられた像が接続されるとき、私たちは不意に別世界に連れ出されたような気分を味わう。そして『麦秋』で二階の廊下の端から階段を降りる原節子の後ろ姿が視界から消えてのち、なおも前進するキャメラ……これらについてはいずれ稿を改めて論じたい。

註1:「論座」(朝日新聞社)2004年2月号で吉田喜重が挙げているものを引き写してみた。ただし、人間がそれらを見落していた間にも物の方ではつねに人間を見ていたとか、物の視線は死者の視線でもあるとか、聖と俗の対立とかいった吉田の発言からは、恣意的で奇矯な感じしか受けない。
註2:「私ト私ノ妻トノアイビキノ場所」(入澤康夫)
註3:四方田犬彦の「死者たちの召喚」(『映像の召喚』青土社、一九八三所収)に詳細な分析がある。

■プロフィール■
(すずき・かおる)東京生まれ。現在の勤め先は築地本願寺(『長屋紳士録』で釣りをする子供たちの背景にそびえ立っていたアレです)近く。月一回、「きままな読書会」を主催。三月は初の試みとして「私の見つけた○○表象」と題し、映画、CM等のビデオを持ち寄って、隠された(あるいはあからさまな)映像表現を「読む」ことにしました(○○は伏せ字ではなく、好きに入れてみて下さい。「ホモソーシャリティ」「同性愛」等)。3月20日(土)18:00〜21:00、文京区男女平等センター(本郷)にて。詳細はdokushokai@hotmail.comへお問合せを。





■講演から■


知の伝統 知の力
――大分県中津市での話から

岩田憲明



■地域に残る知の伝統
 最近、地域通貨の活動などで大分県内のいろいろな場所へ出向くことが多くなりました。実際に地域に出向くと、そこには多くの伝統的なものがありますし、またそれを生かした町づくりもよく目にします。南蛮文化と寺町の融合したような臼杵の町並み、私が長年研究している国東半島は安岐町の三浦梅園、竹田の岡城とそこで夏開かれている大阪大学名誉教授茅野良男先生による『哲学講座』など、現地に出向くと結構面白いものに出会えるものです。ここ中津市も古くから知的伝統には恵まれていて、蘭学の前野良沢や一万円札で有名な福沢諭吉などが出ています。中津駅などに行くと、福沢諭吉が異常に目立っているのですが、このような人物を輩出したのも、もともと中津に知的伝統が根付いていたからだと思います。蘭学者ももともとは漢籍に通じている人たちですし、江戸時代の教養は単に文字に書かれたものだけではなく書や絵画にも及んでいますから、中津の自性寺に池大雅の絵が多く残されていることは、当時におけるこの町の教養の広さを示しているものではないかと思います。

 一般に文化の中心地は東京などの都市部にあると見られています。歴史的な遺産の多くは地方にあるのですが、ファッションや音楽の発信地はどうしても都市部ということになります。また、知的な面でも、多くの大学や出版社は都市部に集中していますから、都市部が教養文化の中心地になっているといえるでしょう。けれども、これらの多くは新しさを常に求めて動いている傾向があり、なかなか伝統として個々人の意識に根づかないのではないかと思うことが良くあります。都市部には知の流入・集積が見られるのですが、それを持続させるのは個人であり、その個人の住む(東京も含めた) それぞれの地方ではないかと感じます。たまたま先日、コミックマーケットというものに生まれてはじめて出向くために東京まで行ったのですが、その巨大な会場の中に都市部の文化の集積の度合いを感じるとともに、全国から集まっている人々に個人の中に持続して生きている日本のコミック文化の広がりを見ることが出来ました。

 文化にしても知的教養にしても、最新の流行を求めるには都会は便利なところだと思います。単にこれらのトレンドの発信地であるだけではなく、海外からも多くの情報がそこには流れ込んでいます。しかし、知的文化の主体が私たち一人ひとりであることを考えると、必ずしも都会に住むことが有利であるとは限りません。むしろその流れの激しさに目を奪われて、自分を見失うこともあるのではないでしょうか。また、本来それらの文化を成り立たせている基盤となっている古いものが見えなくなる危険もあると思います。哲学の場合、カントにしても三浦梅園にしても地方に住んでいながら地道に自らの知的体系を構築して行った人たちです。彼らの住んでいたところには適度に外部からの情報が入っていましたし、たまには外の世界に旅行に出たこともありましたが、自らのペースを守りながら学問を続けることによって、後世に影響を残したといえるでしょう。そのことを考えると、流行的な知の集積の面では都市部が有利という感じですが、真に持続して知を育てて行くには自らの住む地方に根づくことが大事なのではないかと思っています。

 知というものは一定の連続性の上に成り立っています。それは先人の知的遺産を前提として成立するものであり、単に最新の流行をマスターすることだけで身につくものではありません。しかし、近頃ではそのことが理解されていないのではないかと思うことがしばしばあります。

■日本語に生きる知の遺産
 上にも紹介した茅野先生による『哲学講座』では、昨年からいかに日本人が海外の文献とその翻訳を通して自らの知的伝統、特に日本の近代哲学を築いていったかをテーマにお話がなされています。私も拙いながら翻訳をしたことがあるので、先人たちがいかに西洋の文化を言葉を通じて日本に取り入れるために苦労したかが良く分かります。「哲学」 と今日では呼ばれている [philosophia] にしても、その訳語が定着するにはいろいろな試行錯誤があったことがこの講座を通じて語られています。「哲学」 という訳語を考えたのは西周ですが、この語は当初は原語の<知を愛する>という意味を生かすために『希哲学』と訳されていました。まったく異なる知的世界を自らの世界に取り入れるためには、自らの知的能力を最大限に問い返す必要があります。その時に日本人にとって助けとなったのは漢籍の知識ですが、おそらくこの知的伝統がなければ私たちは日本語で西洋の文化を取り入れることは出来なかったでしょう。ここ中津は前野良沢の出身地でもありますが、彼が「ターヘルアナトミア」を訳した際にも、同じ苦労があったと聞いています。このような知的格闘が結果として日本の近代を導いたのであり、また同じ漢字文化圏の人々に多くの西洋語の訳語を日本の先人たちが提供したことを思うと、知の伝統の底力を感じずにはおれません。

 私はいま立命館アジア太平洋大学(APU)で大学院生として学問をしているのですが、ここにいるといかに日本語が近代語としてよく出来ているかを感じることがあります。最近では英語が世界標準であるとして、日本人にももっと英語教育をという意見をよく耳にするのですが、英語が出来るからといって必ずしも学問に有利だとは限りません。英語の必要性が高まっている以上、それが出来るに越したことはないのですが、発展途上国を見渡すと英語でしか勉強できない国々が多くあります。それは単に自国語での出版が経済的に出来ないというのではなく、そもそも専門用語などの近代語を自国の言葉で表現できない場合が多いのです。恐らく、漢字圏以外で医学の専門書を西洋語ではなく自国語の教科書で出版している国はこのような地域ではそうないのではないかと思います。フィリピンなどでは小学生のときから英語で授業をしていると聞いたことがありますが、逆に自国語では高度な専門用語を表現できないことが多々あるそうです。また、インドなどのように、使われている言語が多岐にわたっている場合には、学問をする言語を英語などの外国語にする場合も良くあります。このような地域では、自らのネイティヴの言語と学術的な近代語の間にギャップがありますし、時には英語などの外国語ができる人たちとそうでない一般の人たちとの間に意識のズレが生じることもあるのではないかと思います。

 これらの地域では欧米や日本の植民地支配のために十分に近代という時代を消化する機会がなかったのも確かです。この点で日本は非常に恵まれていたわけですが、多くの途上国では、戦争と革命の時代の混乱に引き続き、グローバル化に伴う急激な経済成長の中で自らの地域の持つ伝統に対する無関心が蔓延しているように思います。この伝統に対する無関心は日本人自身が体験しているところでもありますが、いずれにしても自らが身に着けたネイティヴの言葉とインテリとしての言葉との間に溝があることは、経済発展の進むこれらの国々でますます自らの伝統に対する無関心とその反動としての宗教的原理主義を増大させるのではないかと危惧しています。

 この問題の重要さを私が最初に感じたのは大学時代にカントを読んでいたときでした。私は大学時代、ドイツ理想主義哲学を勉強するためにドイツを語をやったのですが、ドイツの哲学用語の多くが日常語であることに驚きました。たとえば、[Vorstellung] という単語は哲学用語としては『表象』と訳されていますが、これは本来<前に立てる>という意味合いを持った言葉で、一般には『イメージ』とか『紹介』、『上演』などの意味で使われています。『概念』と訳されている [Begriff] もそうで、<つかむ>という語感を持つ [greifen] に<固定させる>という語感を持つ [be] をつけて出来ています。つまり、ドイツ語のやまと言葉で哲学が語られていたわけですが、このネイティヴな感覚がドイツ語で哲学書を読むことで、伝わってきたわけです。西ヨーロッパにおいてドイツ以外ではこのような自国語への特別な翻訳はなかったように思います。英語の哲学用語はラテン語からの借用語でしたし、フランス語やスペイン語などはもともとラテン語から派生した言語なので、特にラテン語を用いても問題がなかったようです。ドイツ哲学が近代哲学の礎となれたのも、ドイツ人が自らの言葉で哲学をすることをいとわなかったからだと私は思っています。余談になりますが、鈴木孝夫さんの『日本語は国際語になりうるか』(講談社学術文庫)によると、英語では医学などの学術用語もラテン語がそのまま英語となっているものが多いので、ネイティヴでもその専門外の人はあまり理解できないそうです。この点、スペイン語を使うラテン系の人たちの方が英語をネイティヴとして使う人よりも、自らの日常語と専門用語との間のギャップに悩まなくて済んでいるかも知れません。

 日本語の場合、西洋語の翻訳は本来外国語である漢字を通してなされてきたわけですが、日本人は音読みと訓読みとを併用することによって、日本のやまと言葉と漢語との間にうまく連続性を持たせてくれたのではないかと私は考えています。これも上述の鈴木さんの本に書かれていたことなのですが、日本人は訓読みによって漢語の意味を理解し、漢字の熟語によってそれを使いこなしているところがあります。鈴木さんの例によると、日本人は『屈折』という語を「かがむ・おれる」と読むことによって、自らの日常語の語感で理解することが出来ますが、英語の場合は必ずしもそうではありません。英語の場合、専門用語に至っては、医学用語のようにただ日常語とは離れて覚えるしかない場合も多いようですが、日本語の場合はそうではない、少なくとも何らかの意味の取っ掛かりがあるというわけです。このことの意味は私も日本語教師をやった経験があるのでよく分かります。外国語の教育では直接法といって、子供たちに外国語を教えるには具体的に物で示したり、形で示すことによって理解させることがあります。そのことによって言葉をより直接的に理解してもらおうというわけです。これは抽象的な言葉を理解するための大切な前段階といえるでしょう。このように具体的な感覚とともに身につけられた言葉が抽象的な専門用語の背景にあるかないかは、より深く学問を進めるにあたって大きな違いを生むことになります。

■失われていく知の現場
 このように考えてみると、私たちの知的生活があらゆる面で先人たちの恩恵の上に成り立っていることを感じざるを得ません。以前と比べれば、外国語が出来る人も格段に増えていますが、私は最近の状況を見ているとむしろ日本人の言語能力は低下しているようにさえ思います。そこには流行を追う「今」だけを追い求める知のあり方にも問題があると思っています。

 私はアニメファンなのですが、日本のアニメの現状を考えてもこのことは言えるのではないかと思います。80年代にアニメブームが到来して以降、今日では宮崎アニメをはじめとして日本のアニメは海外に広く知られるようになりました。けれども、あの80年代に比べて細かな作品の部分的クオリティは上がったものの、物語としての作品のレベルは当時に比べて落ちているのではないかという印象を持っています。特撮ものを含めれば、80年代以前に出来た最初のゴジラやウルトラマンに匹敵する作品が生まれる可能性は最近ほとんどないようにさえ思われます。これらの作品にはまだ日本の戦後の重みを感じ取ることが出来ました。ゴジラはもともと反戦映画でしたし、初期ウルトラマンの脚本を書いていた金城哲夫さんは沖縄出身者として常に日本人に対する他者としての意識を持っていた人でした。この流れは、ファースト・ガンダムにも生きていたのであり、そのことがガンダムを今日までゴジラやウルトラマンとともに生かしている理由のひとつだと私は思っています。正直、最近のアニメを見ていると、その作り手が昔のアニメを見ていても、それ以前の文化的なものに対する関心の広がりがないのではないかと思うことがしばしばあります。私の好きな押井守監督の場合、古い映画を何度も見たり、聖書などの古典に詳しかったりして、その知的関心の広がりは並大抵のものではありません。しかし、最近のアニメ製作者にはそれを感じることが出来ないのです。

 このことは最近のアカデミズムにも言えることで、多くの大学の学生たちは忙しく勉強はしているものの、本当に自分で考える機会が少なくなっているのではないかと思っています。私が大学生だった頃(80年代の前半)は結構いろいろなことができて、私はカントの「純粋理性批判」のドイツ語の原書を筆写し、翻訳と逐次付き合わせながら読んでいました。けれども、このようなことは今日の大学では文学部を除いてまずないのではないかと思います。昔は経済学部でもマルクスやケインズの原書を読んでいたようですが、今は教科書を理解するのに手一杯なようです。この手の学科では次々に新しい学説が出ますから、それについて行くのも大変なようで、とにかく外から与えられた情報を取り入れることに多くの時間と労力が割かれているのでしょう。しかし、これではアカデミズム本来の役割である本当に新しい考えを導き出すということは出来ません。学生たちはテキストを読むことに、また最新の学説をそのまま取り入れることに忙しく、結果としてその業績は外から入ってきた学説のパッチワークかそれを単純に日本の事例に当てはめるという程度しかできなくなっているのではないかと思われるほどです。

 問題なのは勉強することによって学問の結果を取り入れることは出来ても、それを生み出すプロセスが身についていないということです。先日、中津出身で図解に関して多くの本を出しておられる久恒啓一先生が故郷でお話しをされましたが、先生の最近出された『勉強してはいけない!』という本はこの意味でとても印象的でした。良くぞ言ってくれたという感じです。勉強して何とか問題が解決できると思っている人たちは<答えは誰かがすでにどこかに用意している>と思っている人たちです。久恒先生は現場主義の立場からこのような態度を戒めていますが、残念ながら勉強すれば何とかなると思っている人たち、自分の足元に関係なく問題の答えがすでに用意されていると思っている人たちが多いのは確かです。最近『バカの壁』を書かれた養老孟さんは、以前オウム事件が起こったときに、自らの教え子がオウムに入信したことがショックだったと言っています。しかし、今の大学での知のあり方を考えればさほど不思議なことではありません。理系の場合、大学では特に勉強が大変なのですが、彼らは教えられる理論の辻褄さえ合っていれば、それが現実に合っているかどうかなどはさほど気にしません。頭の中で何らかの理由を作って、二つの異なった知の体系を使い分けることが出来るのです。しかし、そこには彼ら自身が生きる【現場】がないのであり、だからこそ適当な知の使い分けが出来るわけです。

■ファーストフード化する世界の中で
 私はこのような知のあり方を「知のファーストフード化」と読んでいます。知識として短い時間で多くの情報を仕入れることは出来ても、それを自らの人生に生かすことが出来ないのです。このようなファーストフード化した『知』しか持たない人たちが何らかの問題にぶつかった時はまるのが、オウムのような新興宗教です。そこには分かりやすく秩序だった教説と、体験談のような形で示された効能書きが並べられています。あたかもそれは人生の問題を解決する万能薬のように自らを宣伝しています。しかし、本来の宗教はそのような便利な「薬」を用意しているものではなく、むしろ人間には限界があるものであり、それ故にいかに悩むかを教えてくれるものなのです。単なる問題の解決を望むのであれば、病気のときに薬局や病院に行くのと変わりありません。しかし、本来宗教がかかわるのはそれとは別次元の問題なのであり、宗教とはもともと苦しみそのものを排除するのではなく、それをいかに自ら受け止めるかを教えているものだからです。けれども、「知」のみならず「ファーストフード化」した世界に生きている人たちにはその違いを理解する感覚が失われています。日頃伝統的な宗教に触れる機会も乏しいですし、日常彼らに求められているのは時間内で一定の決められた仕事をすること、それもどこかに正解として用意された基準に従って仕事をすることです。そこには自らが主体として悩み、道を切り開く余地などないのですが、残念ながらこの傾向は最近のインターネットの発達によって助長されているように思います。というのも、そこには各自の求めに応じて大量の知識が即座に検索され、提供されるからです。

 かつての日本人は西洋から多くの知識を得るにあたって、決してそこに日本の現状に自動的に当てはめられる答えがあるとは考えていませんでした。日本が西洋に比べて遅れていたことは自覚されていたわけですが、日本が西洋と異なることも十分に理解していたわけです。ですから、逆に明治の先人たちは何を西洋から学び取ればよいのかを知っていたのであり、福沢諭吉をはじめ欧米に渡航した人たちは単なる科学技術にではなく、むしろヨーロッパの社会制度に強い関心を寄せていました。また、その後、文明開化が進んでいく過程においても、多くの知識人は西洋と日本との間で文化的に悩み続けたのであり、その成果が近代文学や京都学派などの日本の哲学という形に結実したということが出来るでしょう。しかしながら、このような先人たちの近代化に伴う営みは戦後、殊にバブル以降、急速に忘れ去られている気がしてなりません。これらに対して、今日どれだけの人が自らの【現場】を踏まえた上でそれに検討を加え、その上に立って自分の考えのを打ち立てているか疑問です。日本近代の知識人たちの知的所産に問題が多いのは確かであり、実際にそのことが太平洋戦争につながっていったわけですが、過去と未来の間に生きる人間として、先人たちにそれなりに敬意を払いつつ、その問題点を考えていくことが必要ではないでしょうか。

 昨年 (2003年) の3月に「仮面ライダー」の死神博士役で有名な天本英世さんがお亡くなりになりました。それから一週間くらいしてたまたま臼杵に行く機会があったのですが、小手川酒造の小手川道郎さんが倒れられたと聞いてショックを受けました(小手川さんは7月にお亡くなりになりました)。天本さんと小手川さんは旧制七校時代の同級生で、私も臼杵を中心にして活動していた「BUNGO−大分日本エスパニヤ協会」でお二人にお会いしたことがあります。天本さんはスペインの詩人ロルカの朗読者、スペイン狂としても有名な方でしたが、臼杵はかつて南蛮船が出入りしていたこともあり、小手川さんは臼杵を中心にエスパニヤ協会を設立されたわけです。お二人とも戦前、特に旧制高校の時代を知る方たちでしたが、明治期以来の日本の知の伝統を受け継いできた方々がいなくなっていることに私は危機感を覚えています。アニメのことしか知らないアニメ製作者、教科書の専門知識しか知らない学者たち、「知」のみならず、あらゆるものが「ファーストフード化」する中で「知」の伝統は辛うじて臼杵や竹田などのような地方に生きているように思われます。

 中津も福沢諭吉や蘭学をはじめ知の伝統を育んできた土地柄といえるでしょう。どうしても都会を中心に発信される流行に目を奪われることが多いのではないかと思いますが、むしろ自らの足元にある知の伝統を掘り起こし、その力を地域に生かすことが必要ではないかと私は常々思っています。

■プロフィール■
(いわた・のりあき)哲学者。元大分県庁の公務員で現在はフリーの立場で研究を進めている。研究分野は文明論からアニメまで幅広いが、その中心には独自の記号論がある。現在、【哲学茶房のサクサクHP】にてその著述を公開している。





■連載「文学のはざま」第1回■


困惑する福田和也

村田 豪



 福田和也という批評家の名前を初めて知ったのは、7,8年前に梅田の紀伊國屋書店で『日本の家郷』や『日本人であるということ』などが平積みにされているのを目にした時でした。文学や批評のコーナーで、こうもあからさまに保守的イデオロギーを彷彿とさせるようなタイトルが幅をきかせていることに、一種異様な感じがしたものでした。「どうしてこんなところに、文春みたいな安っぽいデマゴギーの本が積まれているのだろうか?」

 今から振り返って考えてみると、福田自身のジャーナリズムでの認知は、デビューから数年経ちすでに広がっていた時期であり、多少事情をわきまえているものなら、特に驚くような光景ではなかったのかもしれません。また私自身が、文学や批評に対して抱いていた進歩派的イメージこそが、あまりにナイーブに過ぎたのだと、今となっては言えるのでしょう。しかしこの最初の印象のために、時おり文芸誌などでお目にかかる福田に対しては、読まずに無視するか、せいぜい一定の距離感をもって目を通すぐらいしかできないでいたのでした。

 このように福田和也を忌々しく扱う態度には、確かにアンフェアなところがあることを認めなければなりません。なんといっても、きっちり彼の文章や作品を読もうともしていないのですから。「自ら『右翼』を任じて臆することのない批評家などろくなものでもあるまいし、どうせ右傾化する世の趨勢に浅ましくおもねる権力欲の人なのであろう」と、そう決めつける私に独断がないとはいえないのは明らかでした。そして、多少まとめて福田の本を読んでみるとき、それまでの印象は、その印象をまさに「ナイーブ」に堅持しようとしていた私の偏見として、解体されざるを得ないのでした。

 例えば、『「内なる近代」の超克』では、戦後吉田茂がレールを敷いた日米同盟のスパンが、実に明治以来の日英同盟的世界観に基づくものであることを照らし出しながら、その耐久年数の限界を指摘し、同時に日本の作家や芸術家が西洋にいだいてきたアンビバレントな態度が、まさにその政治上の問題と完全に平行していることを浮き彫りにしています。また『愛と幻想の日本主義』においては、日本ではなぜ文芸評論家が思想の担い手になるのかという問題や、自分が「日本」や「伝統」という言葉を通じて唱えているのは、言ってみればカント的な「趣味の共通感覚」の再建なのだという議論など、興味深い問題を明晰に扱っています。どれもが新しい知見を与えつつ、面白い読み物になっていると思います。そして『甘美な人生』『日本人の目玉』などは、そういう問題意識を持った福田和也という文芸批評家の、実践的成果と見なせるでしょう。

 ただしここで問題にしたいのは、福田を避けていた当初の「ナイーブ」さを、私が自分自身の意志で克服したわけではない、というところです。反感を抑えて、虚心になって、福田の文章を読んでみた結果、評価できると翻ったのではないのです。要するに、ジャンルを問わず展開される福田の旺盛な評論活動がもたらす浸透力こそが、私のような、『批評空間』の定期購読者で、たまに文芸誌を読んだり、サブカル誌を冷やかし見たりはするが、論壇誌など絶対に手に取ったりしない者にも、その政治的な態度と文学的な態度をつらぬく一貫性と妥当性に気づかせただけなのです。こういう前提で著作を読んでみるわけですから、つまり、私自らが福田を発見したのではない。すでに福田和也は、大きな支配的言説として作用していて、私が知らぬうちに影響を受けていた。そういう事実として受け止める必要があると思われるのです。  端的に福田の優位を示すと思われるのは、ナショナリズムについての議論とその推移でしょう。保守の擁護者として文壇・論壇に登場して以来、福田は一貫して、左派や市民主義に巣くう無自覚なナショナリズムが、欺瞞的な自己正義しかもたらさないことを批判してきました。しかしその一方で、小林よしのりや「新しい教科書を作る会」に見られるナショナリズムが、戦争の実体を正視できず、責任を欠いたものであり、弱者のルサンチマンにすぎないと指弾することも忘れませんでした。左右の対立は、所詮見かけ上のものにすぎず、「弱者のナショナリズム」「似非ナショナリスト」としてどちらも厳しく斥けなければならない。こうした態度は、既成左翼のスローガン的自動性に飽きたらず、かといって右派の知性を欠いた無様なナルシズムの垂れ流しには、どうもガマンができないという読者にたいして、一定の理解を獲得していたことは間違いありません。

 例えば、最近話題を提供した、戦後民主主義擁護の書である小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』が設定する問題機制とも、福田の「左右に根深い無自覚なナショナリズム」への批判は、かなりの部分共通するものでしょう。自己の政治的立場を明確に整理した『余は如何にしてナショナリストとなりし乎』を見ても、福田のナショナリズムについての議論には、相応の論理性と説得性が備わっていることが分かります。

 しかし、さらに重要なのは、ナショナリズムを客観的な手つきで旧来のイメージから取り出し、しかもこれが日本人の主体にまつわる問題なのだとする、現在では一般化した感のある言説の身振りを用意したのが、当の福田和也だったということです。もちろん福田一人がそうした状況を作り上げたとはいいませんが、論壇誌で彼が当初「日本」ということを正面切って言い出したとき、誰も似たようなことは言っていなかったようです。その意図がほとんど理解されなかった、ということを福田は何度か語っています。また右翼的ポーズの「偽悪」性は自覚的に選択されたものであり、自分の言論活動の一つの目標が、状況を「シェイク」することにあるとも、ことあるごとに公言している。このような福田の態度が「新しさ」と見なされ、広く受容された結果として、左右を問わず正面からナショナリズムについて論じ合うような、現今の風潮が出てきたとみることはできるでしょう。

 しかし、今や福田自身が、自分が切り開き、荷担してきた言説状況の中で、ある種の困惑を隠せなくなっているように、私には思われます。というのは「シェイク」の結果現れれたのは、福田が期待したような「責任倫理」や美意識としてのナショナリズムの形成というよりは、テレビインタビューで「日本も国際貢献をしなきゃいけない」と主婦であれサラリーマンであれ誰もがすらすら答え出すような状況、単に保守論壇的な言説が、その中身を問われないまま自堕落なまでに一般化した状況に過ぎなかったからです。

 だから大塚英志との対談(『最後の対話』)では、右傾化する左派陣営への批判はもちろん、親米的保守たちの無能と混乱を嘆く福田に対して、「そういう状況で、あなたの保守的なポーズは以前ほど現実に対して軋轢をもたらさなくなっているのではないか」というような大塚の指摘を、福田もある程度認めざるをえません。さらに「あなたのナショナリズムの根拠は、『天皇』でも『国家』でもないのだとしたら、何があるというのか?」と詰め寄られて、やはりせいぜい「日本語」と答えるのが精一杯なのです。

 また香山リカとの対談(『「愛国」問答』)では、若者たちの「ぷちナショ」を精神分析したところで、現実のナショナリズムの趨勢には全く無力だったと感じているらしい香山が、その現実分析と対処法を「ナショナリスト」を自認する福田に全面依存して教えてもらおうとしている。これが奇妙だと客観化できない香山を、しかし福田自身が突き放せず、対立点が少しも明確にされていないのです。左派としての立場をどう構築し直せばいいのか迷っている香山に、福田はどこか責任と同情を感じているような風情なのです。

 また一方で、反時代的に「左傾化」著しかった『批評空間』、その最終号(第3期4号)での柄谷行人とスガ秀実との討議「アナーキズムと右翼」では「僕は今日の座談会ははまりすぎているので、どう自分の言説を『異化』すればいいのか、非常に困惑しています」と、漏らしています。「右翼」や「ファシズム」という自身が挑発的に設定してきた問題群によって、自分のほうがすでに取り囲まれていることを率直に認めているのです。  こういう福田の「困惑」が、最も興味深く現れていたのが、『新潮』誌上(2003年11月号・12月号・2004年1月号)における島田雅彦との応酬でしょう。

 ごく一部で話題にされただけで終わった、島田の皇室恋愛小説三部作『無限カノン』は、作者自らその第二巻の発表を自粛していたのですが、去年ようやく日の目を見たのでした。この延期は、皇太子浩宮とそのお妃雅子をモデルとした人物が登場する小説が、「ご懐妊」騒動の中で不測の事態を招来しかねない、と危惧されたためのものでした。ところが最終的に公表された小説の内容が、作者の身振りとは裏腹に「不敬小説」(渡部直己)としての気概に欠け、恋愛小説としての華麗さも見あたらないことに、多くの不評を買ったのです。

 福田の批判も、第二巻『美しい魂』の「恋愛」が、「禁忌」を「侵犯」せずに永遠化されて落ち着いていく様に、疑念を呈するのでした。それに対して島田はこう応答しています。「禁忌を禁忌としてあつかわないことにしたのだ。なぜか? まだ三島や中上のように死にたくないから」「二人(=小説の人物、カヲルと不二子)は恋を仮死させたが、いつかその恋が蘇る日が来るかもしれない。その方がよほど危険ではないか」何ともピントがずれているように思われますが、これでも島田なりに率直なのかもしれません。確かに「禁忌を犯した至上の恋」というモチーフそのものが、島田の言うようにすでに陳腐であり、自作の意図は三島由紀夫『春の雪』のリメイクにはない、という弁明にもある程度理解はできるでしょう。

 しかし、福田はこの転倒を端的に再反論しています。「皇室を媒介とせずには書くことが出来ないのならば、なぜそのような小説を書く必要があるのか。むしろそれは恋愛小説というよりは皇室小説であり、皇室小説として引き受けるべきものを担うべきだったのではないか」つまり、島田はまず「皇室小説=不敬小説」を目指したはずなのに、そのための材料であった「恋愛」のほうに小説の目的をすり替えてしまっている。しかも皇室を素材に「恋愛」を物語ることは、近代日本が政治的に要請した皇室の機能そのものであり、いわば「皇室アルバム」の域を超えないような、あまりに穏健で保守的なものに過ぎない。と、そう指摘したのでした。

 ただ、この指摘は、島田に対して非常に痛烈な批判であるのに、どことなくいたわりを感じさせるのは、彼らが結局は文壇上の盟友だからかもしれません。だからまた福田は多大な「困惑」を明らかにしつつ上記の批判を展開しているのです。要するに、島田はデビューして二十年も経つのにいまだに「優しいサヨク」のままであり、ろくに「不敬小説」も書けないどころか、皇室に頼ってしかロマンスを書けないでいる。その限界と反動を「わきまえのあるウヨク」がたしなめねばならない。福田の「困惑」にはそういった趣があるように思われるのです。

 ところが、このような福田の誠意さえ感じさせる「困惑」の質が、石原慎太郎とつるむ光景の中では一向に窺えないことには、やはり強い違和感を抱かざるを得ません。「困惑」が連れ戻すある種の思慮を、石原をめぐる言説において、福田は完全に放棄しているかのように思われるのです。例えば『石原慎太郎「総理」を検証する』での、現在の日本政治への「提案」や未来の石原政権への「建議」なるものの、現実的な反省を欠いた薄っぺらさは、ほとんど同じ書き手のものとは思えません。同書で居並ぶ渡部昇一や高市早苗、立川談志などの執筆陣・対談者の、恥を弁えぬ低能ぶりに足並みを揃えているのでしょうか。しかし足並みだけならまだしも、石原へのおべっかとバカ騒ぎに、福田自身、弛んだ顎がだらしなく上向くような醜態をさらしていないとも言えないでしょう。

 いえ、私は最後に一転して福田批判を始めようとしているのではないのです。だいたい福田の石原支持の態度は、当初から一貫したものだと知られています。今さらことごとしく言い立てることではないかもしれません。ただ「日本」や「ナショナリズム」あるいは「伝統」というものについての福田のパフォーマンスには、その背後に知的な意欲と注意深い考察が働いていると感じられるのに、石原との癒着にはそんなものは見あたりもしないため、私が一番はじめに福田に対して感じた「ナイーブ」な反感が、ここに来てあらためてわき上がってくるのです。この感覚は、すでに相当切り崩されてきたものですが、こと石原への福田の態度に関しては、完全に無感覚になることはどうやらなく、そして今後もおそらく絶対に拭えないだろう、とふと気づかされるのです。

 翻って、福田の擁護する「日本」や「文芸」というものへの批判も、この「ナイーブ」から始まるようにも思います。なぜなら福田の「ナショナリズム」や「伝統」に対して、「ナイーブ」さが実質を持たないとは言えないからです。福田は、この手の「ナイーブ」こそが「国を危うく」するのだと危惧するのでしょうけれど、しかし一体何が悪いのか。かつてスガ秀実は、歴史論争での左翼には「亡国ナショナリズム」が足りないと言い放ちましたが、ここはもっと縮めて単に「亡国」を意識するのみでしょう。「ナイーブ」が「亡国」をもたらそうと、それでも結構ではないか、と。それに対して福田がせいぜい「フィクション」としての「伝統」に依拠し続けるしかないのなら、それは例えば三島由紀夫の反復を超えるものではありえません。そして、その三島であってさえ、いわば戦後的「ナイーブ」に敗れたのではなかったのでしょうか。

 最後に、本稿を書くにあたっての一番の目安になったのが、鎌田哲哉の福田への批判「進行中の批評5『批評と放蕩』」(『早稲田文学』2002年1月号)であったことを、申し添えておきたいと思います。

■プロフィール■
(むらた・つよし)1970年生まれ。腹ぺこ塾塾生。高校時代は三島由紀夫に傾倒。三島と福田の関係については、またいずれ考察してみたい。

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★ブックフェアのご案内★
「<私=意識>とは何か〜哲学を柱に認知科学から脳科学まで」をテーマに、 約60点を選書したブックフェアを下記の書店にて開催します。


 ■選書リストと展示写真は、こちらをご覧ください。
 ■開催期間:2004年3月中旬より4月中旬まで。
 ■場所:ジュンク堂書店大阪本店3階東窓側フェア台(喫茶部隣)
       大阪市北区堂島1-6-20 堂島アバンザ
       TEL.06-4799-1090  FAX.06-4799-1091)
       [営業時間] 午前10時〜午後9時
 ■企画選書:るな工房・窓月書房 ■選書協力:中原紀生+ひるます





■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★今号より予告通り新連載をスタートしました。また岩田さんより寄稿を頂戴しました。今号は長文を一挙3本掲載しましたので、送信バイト数過重につき編集後記はこれにてゴメン。この続きはWebでお読みください(ここまでが、メルマガ版)
★この続きは、数日後にアップします。(黒猫房主)





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