『カルチャー・レヴュー』34号



■ご案内■


新連載企画のご案内
編集部



本誌の月刊化にあたって、3月号より連載がスタートします。

■奇数月には、以下のコラム名で連載を掲載します。

 ★コラム名「映画館の日々」(担当・鈴木薫)
  「カルチャー・レヴュー」31号で初登場の鈴木さんの映画を巡るエッセイの連載です。

 ★コラム名「文学のはざま」(担当・村田豪)
  「カルチャー・レヴュー」15号で、秀逸な「中上健次」論を寄稿した村田さんの連載です。

■愚数月には、以下のコラム名で連載を掲載します。

 ★コラム名「マルジナリア」(担当・中原紀生
  「マルジナリア」とは「書物の欄外の書きこみ、あるいは傍注」のことで、本来なら「哲学の余白」とでもいきたいところでしたが、木田元さんに先を 越された(?)ので、敬愛する澁澤龍彦の顰みにならってみたわけです。(中原紀生・記)。
  http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/

 ★コラム名「伊丹堂の理(コトワリ)」(担当・ひるます
  メルマガ「臨場哲学」の復活(?)です。
  http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/

■「書評の書評」投稿を募集します。
 これは、新聞や雑誌での書評の出来映えをレヴューしようというものです。それで本誌読者の方々に、今月の書評として出来不出来のコメントを募集します。
 コメントの投稿は随時受け付けますので、E-mail:YIJ00302@nifty.comまでお願いします。

上記の連載以外にも、エッセイや論考を掲載いたしますので、乞うご期待ください。また、メール投稿も大歓迎です。






■現代詩■


発光する言葉―「十二月・岸和田・太融寺」2
<藤井貞和講演<『自由詩学』の立場から>

今野和代


 十二月十四日は赤穂浪士の討ち入りの日。そして「ことばの井戸、火傷することば、過激な十二月」として、昨日に引き続き、藤井貞和さんの講演と吉増剛造さんのポエトリー・リーデイングが行われる日だな。と思うと何だか胸がざわざわしてきた。

 二日目の会場は、昨日の岸和田自泉会館から、近松の「心中天の網島」の浄瑠璃に出て来る、明治十七年自由党解党式の会場にも使われた太融寺。境内の玉砂利を踏みしめながら、本堂の賽銭箱に百円入れて「太融寺さんこんにちは、今日はお邪魔します。」と手を合わせた。「剣菱」一本、庫裏の大黒さんに、仏前に供えてもらうようお渡し、友人からもらった蘭麝香をてのひらに取って、自分のからだに振りかけた。

   大広間に上っていくと、床の間には、先日数人で下見に来た時の書の掛け軸が、如来の仏画の軸に変わっていて、流儀花の一種生けのヒバ、臙脂の菊の立花、蔓梅もどきの投げ生けと、花と軸による見事な緊迫した空間が創られていて、太融寺の心尽くしがありがたかった。

 歌人の彦坂美喜子さんの司会。雑誌「イリプス」発行人・俳人の出口善子さんの「ようこそ皆様おいでくださいました。今日は「イリプス」発行四周年として、藤井貞和さん、吉増剛造さんをお招きし、セミナー型イヴントを開催いたします。どうか、贅沢な午後のひとときをお過ごしください。」という挨拶から開始された。

   藤井貞和さんの「『自由詩学』の立場から」は最も楽しみにしていた講演だ。二〇〇二年九月思潮社から出された著書『自由詩学』は「自由詩学」「民族詩学批判」「現代詩学」と三つのパートに分けられ、声と音韻について、モダニズムについて、国家や民族について、革命について、物語について、現代詩について、「自由」という射程から、問い、揺さぶりをかけ、ことば、文学の新しい稜線をさぐりあてようと試みた、スリリングな一冊だったから。

   その藤井さんの講演は、アイヌ話と日本語と琉球語と三種類の言語を視野に入れて考えていくという話からはじまった。アイヌ語は、主人公が自分を語る時、自分を語っていく引用のなかで接辞が動き、一人称でも二人称でも三人称でもない、言わば四人称のようなかたちに変化していく重要な言葉であること。例えば、アイヌ語のように、作中人物の私が、一人称ではない独自の人称を持っている言語が、世界の中から見つかると、今まで欧米の言語学や言語の状態を中心にして考えられてきた考え方を修正していかなければならないし、チャラにして作り直していかねばならない。そんなことが日本列島の中、東アジアの中で起きているし、それが気付かれつつある時に来ているのだという話。 大きな模造紙が広げられ、魏の時代の陳琳が書いた漢詩が紹介された。陳琳の作品のこの漢詩が五音や七音の組み合わせから成立していること。

 それから、南インドでみつかったサンガムという詩集が紀元前後、今から約二千年前の、万葉集よりも古い詩集で、やはり五七五七七の形になっていること。

   日本社会では五・六世紀には五七五七七の短歌形式が優勢になっていったこと。東アジアにどんどん言語が伝播していくという、言語周圏論についての話。

 それからまた紙が広げられた。日本地図に濃く薄く横線や縦線が引かれ、ところどころ空白になっているアクセント分布図だ。昭和十五年平山輝男という方言学者によるものという。東京アクセントとそれに類似するものが横線に。京都アクセントとそれに類似するものが縦線で施され、説明のつかないアクセントとして空白が残された地図。山間僻地のところ。福井県の真ん中あたり。宮城県と山形県の南半分。茨城県のあたり、愛媛県喜多郡あたり。宮崎の一部と五島列島にかけて。説明のつかないアクセント現象を白の空白で残されたその地図の、空白部に自由アクセントが残っているのだという話。そしてその空白部として残された無アクセント、自由アクセントこそが、日本語の古層、基層であるというのだ。世界的にも言語は同じことが起きていて、例えば中央アジアかどこかに、言語をもった民族、言語集団が、より優勢なインド・ヨーロッパ語、に追いまくられて、周縁の地に言語が移動し、追いやれて行ったというケルト語の分布地図の話。西ヨーロッパ、ブルタン地方のケルト語など、イギリス・イングランド・アイルランド西の海へたにはりつくように古い言語が残っている言語地図とかさなっていくように、三千年前くらいのスタンスで日本語の起源を考えること。周辺に行くほど古い文化が残っていく。古層の文化が分布しているという話。

 日本語の特色。日本語が持ってきた時、時間についても語られていった。源氏物語の時はどうなっているのかというと。源氏物語は今刻々と起きている事件を述べていく物語なのだという。非過去で述べられていて、基本的に現在時制で書かれている物語であるということ。

   それからモダニズムについての話。日本社会のどこか伝統的なものを否定するとモダニズムが生まれるわけではないこと。

 例えば、言文一致のようなかたちで古い時間感覚がチャラに見えたとするとそれはたかだか百数十年のことで、何千年かけて培ってきた細やかな時間認識の問題はそう簡単に捨ててはいない。文化の上でないがしろにさせられていただけであって、詩の書き手や歌人たちの世界も含めて、着実に地道に自らの作品活動を通して何か今までないがしろにしてきた感覚というものをもひとつひとつうずめていくことをしていけば、東アジア全体にまでひろがるようなおおきな問題の中に日本語も脈脈と息づいているんだということが見えてくるのではないか。

   そんな問いかけの言葉で講演が閉じられた。

 藤井さんは、まるで、わたしの縮み弛緩した脳髄と感覚に揺さぶりをかけに来た、知のまれ人みたいにいた。「何千年かけて培ってきた細やかな時間認識の問題はそう簡単に捨ててはいないんだよ。」豊かな、底知れない日本語の言葉の闇が広がっている。そして何とまあ鬱蒼とした森のようなこの闇に惹かれるのだろう。わたしもまた、今というここに迷い迷い、書くという行為を通して、藤井さんの言葉でいうと、言葉を杖にして、行くだけだ。そんなことを思った。

★吉増剛造「『生涯は夢の中径―折口信夫と歩行』、ポエトリー・リーディング」は次回に掲載予定です。

  ■プロフィール■
(こんの・かずよ)大阪生まれ。詩人。集合体「ペラゴス」会員。文芸総合誌「イリプス」編集スタッフ。雑誌「共同探求通信」編集スタッフ。神戸三宮「カルメン」ロルカ詩祭、大阪ジャンジャン横丁「マサハウス」、ドイツハンブルク「アルトナ祭」、北京「藍・BLUE」「北京東京アート・プロジェクト」主催「日中文学交流」等で詩朗読。著書・詩集『パセリ市場』(思潮社)






■ひきこもり■


書評『ひきこもり文化論』
(斎藤環著、紀伊國屋書店刊)

上山和樹



 「ひきこもり」というテーマは、支援を試みようとする人間をひどく消耗させる。その大きな原因の一つが、支援の方法論を巡るいさかいだ。その意味で、本書の第一章「『ひきこもり』を語ることの倫理」は、精神科医という立場から為されたきわめて重要な貢献だと思う。論争の現場を知らない方には何を論じているのか理解しにくいかもしれないが、この章はさまざまな批判へのレスポンスになっている。

 実は私はこの短い書評を書くのに、ひどく苦しんでいる。ひきこもりについて考えること自体が苦しいのだが、それを人に向けて語ってしまえば、また激しい論争に巻き込まれてしまう。自分の発言の持ってしまう政治性につねに神経をピリピリさせていなければならず、それはとても人を疲れさせるものだ。 いや、このような生きた政治性が生まれてしまうということは、このジャンルがまだ生成途中だ、ということだろうか。逆に言えば、喜ぶべきことなのかもしれない。

 「政治性」と抽象的に言ってもお分かりいただけないと思うので、一つだけ具体例を。私は今、若者向けの就労支援を試みる職場に関わっているのだが、そこで「ひきこもり支援」を対外的な看板に掲げてみてはどうだろう、と提案したら、「医療的な対応も必要になるので、ちょっと難しい」という意見が出た。つまり、ひきこもりというのは単なる甘えの問題ではなく、医療に関わる問題領域なのだ、ということが一般に認知されているということだ。斎藤氏はひきこもりを巡って「治療」という言葉を使ったことで「治療主義」と批判されているのだが(氏はひきこもりそのものを治療すべきというのではなく、それに伴う苦痛を巡って話しているのであって、これについては本書で詳しく論じられている)、「ひきこもり」の啓蒙的議論を先導した斎藤氏が「精神科医」であったことが、一般の受容的認知に影響したと思われる。

 実はこの問題では私も攻撃を受けたことがある。私自身苦しんでいる当事者だというのに、支援を志したということで「元当事者として現役の当事者を差別している」というのだ。私の態度に、医療的な目線(つまり悪しき治療主義)を読み取ったのだろう。しかし考えてもみてほしい。ひきこもりは「病気だから」差別されるというよりも、「病気ではないから」差別されるのだ。「病気なら閉じこもって働けなくても仕方ないけど、病気じゃないなら、甘えでしかないだろう」というわけだ。

 つまり、「精神的な病気」と認定されることには、差別という文脈だけではなく、「保護」という大事な文脈がある。鬱病は病気と認定され、診断書があれば欠勤理由として受理されるが、「ひきこもり」は、病気ではなく、欠勤理由にはならない。  ひきこもりは病気ではない。でもだからこそ苦しいという面があるのだ。病気という認定を受ければ手続きの可能な社会保障もあるし、そもそも自分で自分を責め続けなくて良くなる。でも「ひきこもり」は状態像であって「病気」ではない。

 現実的には、ひきこもりに随伴する鬱状態、強迫神経症やパニック障害などを具体的な欠勤理由にするしかない。いや、周囲の人間や、さらには自分自身に向けて「なぜ閉じこもっているか」を説明する際にも、そうした作業をするだろう。

……というわけで、「ひきこもりを語る」というだけで、すでにこれだけの葛藤が控えている。

 私は本書は、「精神科医という立場から書かれた」最良のひきこもり論の一つだと思う。というのは、そこにはやはり限界も感じるからだ。  たとえば引きこもりを巡る比較文化論的な視点(第4章)は私も興味があって考えたことがあるが――斎藤氏は儒教に目をつけているが私は「日本語」そのものに注目した――、社会文化の環境や雰囲気を変えるには、たとえば「法律」をいじらないとどうしようもない面もある。

 さらに重要だと思ったのは、やはり「経済」の問題が見えてこないということ。  本書には(そして多くの引きこもり論には)「去勢否認」の問題が扱われているのだが、「去勢は自分自身ではできない」として、私たちが最も決定的に去勢されるのは経済的困窮においてではないだろうか。経済的に困っておらず、さらに心理的な苦痛さえもないのなら、去勢される必要はないし、いつまで閉じこもっていてもいいだろう。

 斎藤氏は人間関係の価値を重視し、仕事についてはあまり語らない。実はこれは多くの親や当事者たちが「就職」のことであまりに頭を一杯にしているので、それへのアンチテーゼとして出されているという面があるし、私自身、拙著において「まず人間関係」という話をした。しかしどうしても触れねばならないのは、多くの当事者たちは親しい仲間ができた時点(斎藤氏は精神科医としてのご自分のミッションをそこまでに限定している)から先に進めずに挫折し、そこで苦しんでいるのだ。つまり最大のハードルは、人間関係ではなくて就労にある。

 本書ではラカンの「3人の囚人」の話から、「仲間関係によるせき立て」が論じられ、これは外せない重要な論点なのだが、私が「せき立て」と聞いて最も切実に思い出すのはやはり「お金がない」だ。心理的な苦痛の大きな部分を経済的な問題が占めていることは間違いないし、逆に言えば経済的な問題さえ解決すれば大抵の問題は解決したことになるとも言える。(心の苦しみは「働けない」苦痛として最も先鋭化するし、家族が最も困るのも経済的な問題だろう。ひきこもりは、貧困家庭においては「弱者が弱者に負担をかける」構図なのだ。)

 ひきこもり否定派のする精神論や説教としての「働け」から、一旦は斎藤氏のような「ひきこもり全面肯定論」に移行することが必要だ。だがそこからあらためて、「働かなければ生きていけない」という事実に直面してしまうことになる。つまり、説教派の「働け」とはぜんぜん別の形で「働くこと」をメインテーマにした問題設定と議論が必要になるのだ。  私自身も含め、当事者の多くは「働くぐらいなら死んだ方がマシ」と心のどこかで思っている。現実問題としては、自分や家族が飢えてしまう状況が刻一刻と迫っている。そこでどのような行動に出るのか。いや、行動に出たとして問題は解決できるのか。そのとき、医者にできる相談は限られている。社会の雇用状況はどうか、労働環境に問題はないだろうか――など、新たな切り口の議論が必要になってくる。

 斎藤氏はひきこもりを専門とする精神科医として以外にも、オタク論などで知られ、そのためにいろんなジャンルの方が逆に「ひきこもり」に関心を向ける、という役割も担ってきた。ひきこもり論の豊饒化を願う氏が「文化論」を試みたのは大きなプレゼントと言うべきだ。そこに欠けていると思われる議論については、読者の一人一人が創っていくしかないだろう。

★補 注★
「去勢」概念については実は不正確な議論を出しているし、経済的貧困がイコール去勢をもたらす、とも実は思っていません。しかし、困窮の事実を核に今後は考えていかざるを得ない、と思っているので、このような原稿になりました。「お金がない」という状況で、生き延びる努力をあえてするのか、それともそうではないのか。努力をするとして、その環境や条件は。――そんなことを、今後は考えてみたいと思っています。

■プロフィール■
(うえやま・かずき)1968年生まれ、兵庫県出身。中学で不登校、高校中退。大学に進学するも不登校・休学。父親の病死でなんとか卒業はするが就職せず、アルバイトに挫折するうち引きこもりに。2000年3月、31歳で初めて自活。ひきこもりの親の会での発言をきっかけに、それまでひたすら隠し続けていた自分の体験を生かした活動を考えるようになる。不登校のための家庭教師・訪問活動・地域通貨の試みなどをしながら、ひきこもりの問題に取り組んできた。これまでの無理のあった活動形態を見直し、「親世代」にではなく、「当事者たち」本人に呼びかけることのできる取り組みを模索している。著書『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)ネット上で日記をつけています。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/





■転  載■


「自衛隊イラク派遣差し止め訴訟」原告募集



 さる1月19日、自衛隊のイラク派兵を差し止める訴訟について緊急市民集会が開かれ、以下の理由により「自衛隊イラク派兵差し止め訴訟」を起こすことが決まりました。  つきましては、趣旨に賛同し、原告になってくださる方を募集いたします。憲法違反の自衛隊のイラク派兵を裁判の場で明らかにしていきたいと思います。ぜひ、多くの皆さんが原告になってくださるようお願いいたします。

【裁判を起こす理由】
1.自衛隊イラク派兵は「憲法第九条」違反!
派兵される自衛隊は無反動砲、個人携帯対戦車弾などを伴う重装備。しかも携帯武器数量の上限は定められていない。派兵先のイラクは戦闘状態が続いている戦闘地域。しかも米英の国際法違反の軍事侵略、軍事占領が続いている地域。派兵される自衛隊の任務は医療、給水などの人道復興支援活動とともに、米英軍の物資輸送などの「安全確保支援」活動も行う。 これは、いかなる状況下であっても武力の行使と交戦権を禁じた「憲法第九条」に違反。自衛隊存在自体の違憲性を留保したとしても、<1>戦闘地域への派兵であること、<2>自衛のための攻撃および自衛・予防のための先制攻撃という名目による武力の行使に必要な武器を携帯しての派兵であること、<3>米英軍の物資輸送という兵站支援は、国際法上、武力の行使の一環であり不可分であること、<4>派遣される自衛隊は国連指揮下でなく米英軍主導の暫定占領当局(CPA)であることなど、どう見ても第九条違反はあきらか。

2.自衛隊イラク派兵は憲法前文にある「平和的生存権」の侵害!
憲法前文には、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。自衛隊イラク派兵は、私たちの「平和のうちに生きる権利」、「戦争や武力行使をしない日本に生きる権利」、すなわち「平和的生存権」が著しく侵害される。

3.自衛隊イラク派兵は「イラク特措法」違反!
イラク特措法自体の違憲性を留保したとしても、今回の戦闘地域(戦地)への自衛隊イラク派兵はイラク特措法に違反。同法第二条3項で、人道復興支援・安全確保支援活動は「わが国領域および現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」地域において実施すると書かれているのに。

4.自衛隊イラク派兵は「米英の侵略行為」への加担!
米英によるイラク攻撃は国際法違反であり、「侵略行為」である。その指揮下に自衛隊を派兵することは侵略行為の「加担者」となる。その日本に住む私たちは侵略行為の加担者にさせられ、著しい精神的苦痛を受けている。

【請求の趣旨】
1.国は、自衛隊をイラクに派兵することは違憲であることを確認すること。(違憲確認)
2.国は、自衛隊をイラクに派兵してはならない。(派兵差し止め請求)
3.国は、原告それぞれに対し、各金1万円を支払うこと。(慰謝料請求)

【原告の資格】
 国籍・年齢・地域を問いません。日本に居住している人で、訴訟の趣旨、請求内容に賛同する人は誰でも原告になれます。

【原告費用】
 原告一人あたり年間一口3000円(何口でも可)

【原告手続き方法】
1.下記の用紙に必要事項を記入して、ファックスまたは郵便で事務局宛に送付してください。同時に原告費用を下記の郵便振込口座に振込みください。その際、「払込取扱票」の通信蘭に「イラク派兵訴訟」と明記してください。ご家族の場合は一枚の取扱票に連名でまとめて振込んで頂ければ結構です。領収書は振込票をもって替えさせて頂きます。

2.次に、今回の訴訟の代理人となる弁護士への「委任状」が必要となります。電子メールご利用の方は近日内に開設する「イラク派兵差止訴訟」ホームページから委任状をダウンロードして署名・捺印の上、オリジナルを下記の訴訟事務局まで郵送してください。ファックス、或いはハガキ・手紙で原告の申し込みをされた方には、委任状を事務局から郵送します。

(注1) 名古屋地裁への提訴は2月23日の予定ですので、原告手続は遅くても2月17日(火)までにお願いします。これ以降も第二次、第三次と原告を募り、最終的には1000名以上を目標にしていますので、是非多くの方々にお知らせ・ご案内ください。お願いします。 (注2) ホームページは2月第1週に開設します。開設次第にアドレスをお知らせしますので、メールアドレスを持っている方は下記申込用紙にご記入ください。

【振込先】
 郵便局 (加入者名)INBR
(口座番号)00870−7−97224

【連絡先】  「自衛隊イラク派兵差止訴訟」事務局
 〒466-0804 名古屋市昭和区宮東町260 名古屋学生青年センター内
 TEL:052-781-0165 FAX:052-781-4334)
 http://www.haheisashidome.jp/index.htm

 以上

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「自衛隊イラク派兵差止訴訟」原告申込用紙

 名前:
 年齢:      才
 住所:〒
 電話番号:
 FAX番号:
 E-mailアドレス:
 連絡方法(○で囲む)・郵送・FAX・メール

●●●●INFORMATION●●●-------------------------------------------------

●ジュンク堂書店大阪本店に、ペヨトル工房の出版物を常設●

るな工房の仲介で、ジュンク堂書店大阪本店の芸術書コーナー(2F)に、
ペヨトル工房の常設棚が設置されました。すでに解散したペヨトルの刊行書が
入手出来ますので、お立ち寄りください。

大阪市北区堂島1-6-20 堂島アバンザ1.2.3.F
TEL 06-4799-1090  FAX06-4799-1091
[営業時間] 午前10時〜午後9時





■黒猫房主の周辺(編集後記)■
★今野さんの詳細な報告を読みながら、日本語の<律>についての菅谷規矩雄の論考『詩的リズム――音数律に関するノート』(大和書房)を想起していた。藤井貞和はこの論考をどのように評価しているのだろうか。藤井の『自由詩学』は未読なのだが、ずいぶんと盛りだくさんで刺激的な内容のようだ。早速読んでみたくなった。
★1970年頃から「登校拒否」が社会問題化、そして「不登校」と言い換えられ、その不登校生が世代的に持ち上がってくると、今度は「ひきこもり」として焦点化・社会問題化する。この間、当事者とその周辺は、その評価(「治療主義/非治療主義」「親に原因がある」など)を巡って、理念や政治的言動に振り回されてきたように私などにも思える。じっさい書評子の上山さん自身その渦中の人なので、この書評は切実なトーンで書かれている。経済的な「自立」も含めて、他者がどこまで関われるのか? 私は「家族を開く」という視点も踏まえて、援助者の「倫理」が問われていると、以前からこの関わり方への疑問をもっていた。斎藤氏の精神科医としてのスタンスは、その関わり方において自覚的に「自己限定」していることを、今回本書を読むことで確認できた。また斎藤氏は、問題なのは「ひきこもり」の契機でも「ひきこもること」それ自体でもなく、「状態としてのひきこもり=立ち往生」が遷延化して悪循環に陥ることから様々な病状が惹起されることであり、問題を家族で抱え込んでしまうことだと指摘している。一時的な「出口のあるひきこもり」や比喩的に言われるひきこもりとの違いもそこにある。
★映画「自転車でいこう」のダイジェストをTVで観ただけなのだが、それでも主人公・李復明の存在としての絶対的な肯定感(being is good)が、彼が漕ぐ自転車の滑走とともに気持ちよく感じられた。近日中に観にゆこう。
★1月31日の未明に、衆議院本会議で自衛隊の「イラク派兵」が与党単独で可決された。これまでも憲法は蹂躙されてきたが、戦後憲法史上、最悪の事態である。今こそ「否」を表明し、A・ネグリが言うところの私たちの「構成的権力 constitution」で対峙すべき時である。(黒猫房主)





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