『カルチャー・レヴュー』30号



■日本語■


外国人からみた日本語

Thomas Judd Magnuson



 私が初めて日本語に出会ったのは1990年、祖国カナダのとあるスキー・リゾートに高校生として遊びに行った時だった。世界のリゾートということもあって、あらゆる国から観光客が余暇を求めて集まっていた。
 私は昼ごはんを買い求めにある店の前にたどり着くと、明らかに日本人のツアーと思われる団体が休憩していた(他の国からの団体と異なり、全員が全く同様な服装で揃っていたのがその特徴)。
 カナダの観光スポットでは、このような光景はたいして珍しくはなかったかも知れない。だが驚くべきだったのは、そのツアーのヨーロッパ系カナダ人ガイドさんがすらすらと日本語で説明していたことであった。当時の私は、無数の人種の人々が普通に英語を話していた事実にも関わらず、白人がアジアの言葉を使えるとは思っていなかったのだ。そのような時代遅れの思い込みを持っていた私にとって、そのガイドさんを目撃したことは感動的な目覚めだった。  その後高校を卒業し、いつの日か私もそのガイドさんと同じように田舎の高校生に衝撃を与えようと、地元の大学の日本語学部に入学して日本語との付き合いを始めたのだ。
 その時から10年余り、今にしてもやはり日本語を習うのは簡単なことではない。英語を勉強する日本人の悩みと同様に、文字・文法・表現の違いがたくさんあっていずれも自由に使えるようになるまでは、数年の地道な勉強と根気が必要不可欠である。
 大学の日本語学部に入学した初日に、その最大の難関に面した。それは日本語の教科書が出版社情報とは違い値段が高いことや、大好きなアルファベットの文字が一つも書かれていなかったことだ。ABCも無く、初めて見る日本語の文字だけだったのだ。いまから振り返ると、その教科書の内容は小学生1年生でも解かる程度のものだったけれども、〇年生にしてみると見た目の違い(文字の違い)が言葉の壁の鉄骨だったのだ。
 しかし地道な勉強をへて少しずつ壁が低くなり鉄骨も緩んできて、それらの難関をクリアしても、それ以上の挑戦が待っていることを社会人となってから知った。それは言葉の裏の考え方、言語的な心理・言葉の「性格」である。
 日本語の会話の中では、特徴的な敬語、言い回しや動詞の使い方によって主語といったものが省略されても対話者が状況を把握できるようになっているが、それを可能にしているのは話し手と聞き手がそれぞれの役割分担を担っているからだと言えよう。一方英語の場合でも言い回しや敬語は存在するが、発言者が負担する役割がより大きく、物事の数量・属性・時間的分布を細かく伝えなければ対話者が事情を必ずしも把握できるとは言えない。
 これもまた、古代から続けている文化・歴史・人の間の交渉によって少しずつ定められてきた「話し役」と「聞き役」の分担であろう。この「負担の違い」は概念としてはなかなか掴みづらいものであるが、事例を通して説明してみたい。例えば一組のカップルの前に一匹の猫が現れ、その一人が思わずに言ってしまうことを日本語と英語でみてみよう。

  日本語の場合: 「可愛い!」
  英語の場合:  "That's a cute cat!" (「それは可愛い猫だ!」)

 英語が得意ではなくても、長さだけをみると英語の方が明らかに目立つ。日本語の1つの単語に対して、英語の話し手は同じことを伝えるのに5つの単語を使わなければならない。that(それ)、's [isの略] (〜は・だ)、a(一つ・不特定)、cute(可愛い)、cat(猫)。何故なのだろう、日本語の方が効率的な言語なのだろうか。
 一見そう見えるかも知れないが、実は伝わっているメッセージが両方の発言で同じとするならば、ここで聞き手が負担する役割が異なっているだけなのである。つまり日本語の聞き手は「それ」、「一つの不特定の猫」、と「〜だ」と言う情報を理解して暗に埋めているわけである。
 一方英語の聞き手にはこれらの情報を把握する必要が無く、話し手の発言にそれらが提供されている。言い方を換えると、日本語の聞き手よりも英語の聞き手の負担が軽い。同様に日本語の話し手は少ない単語数で意を伝えることが出来るけれども、英語の方はより細かくいろいろな情報を発言で伝えなければならない。
 猫が目の前に現れた上記のカップルの場合には英語であろうと日本語であろうとコミュニケ−ションの内容には変わりが無いけれども、この言語的な心理・性格による役割の違いを英語または日本語の学生の立場から見ると、相当大変なことになる。抽象的な話または事情や背景を特定しづらい会話であれば、両者が自分の役割を果さなければ誤解を招きかねないからである。英語を習い始めている日本人が、a・theの冠詞や動詞の活用に悩んだりするのはこれが原因の一つであろう。
 私のように英語を母国語として日本語を習っている外国人の場合は、とにかく良く聴くことに頭が回される。日英翻訳を職業とする今でも、私は時々「この文の主語って一体何だろう??」と自問することがある。
 おそらく日英の両方をより正確に理解するには、それぞれの言葉使いの心理・性格に慣れることが大事な通過点かも知れない。
 ところが言葉使いの性格に「慣れる」と言うのが、意外と努力を必要としないのが人間の凄いところの一つだと思う。つまりその言葉が使われている地域に暮らせば暮らすほど、身に染み込んで知らないうちに「日本語を使う時の自分」と「英語を使う時の自分」のような二重人格が出来上がってしまっているからだ。
 これは人それぞれに違う形で現れるが、私の場合では特別に酷いバージョンになっている可能性を否定できない。
 例えば日本語を使っている時には、頭をどこかにぶつけた際に完全に「やべっ!」と日本語が出てくるけれど、その寸前まで英語での会話をしていたらば英語特有の4文字単語を吐く。  この原稿を打っている只今は、「次は何を書こうかな?」と頭の中が和モード。その一方、英語圏の知り合いと一杯を飲む時に私はカナダ人に切り替え、日本語では遠慮して言うとは思えない表現や課題を言葉にする。
 私の知り合いには、別のパターンがあった。両方の言語を使う場合での人格は変らないものの、課題によって言葉を使い分けた方が楽だというパターンだ。その人は車やパソコンなどの仕様を話す時には必ず日本語を使いたがり、人情的な話になるといつも英語。  その他に子供が2ヶ国語の家庭で育てられている場合、その子供は会話する相手が父親・母親によって言葉を使い分けたりする。また場所(家庭内・学校内など)によって使い分けているようだ。いずれにしても言葉自体が持つ心理法則や性格が人の性格に与える影響が非常に大きいと言えよう。
 そういうわけで、バイリンガルが二重人格のようなことになってもおかしくはないと思う。しかし私は、日本語で電話の会話をしている時に、自分が思わずお辞儀している癖をどうにかしたいのも正直な気持ちなのである(笑)。

■プロフィール■
(トーマス・ジャッド・マグナセン)1974年、カナダの南西海岸の街バンクーバーの近くに生まれ、常になんらかの形で文学とかかわってきた29歳。中学・高校生の頃のフランス語の勉強をきっかけに「言葉」の面白さに出会い、大学にあがると日本語の勉強をはじめる。本場の言葉を勉強すべく一旦休学して、 1995年に初来日をはたす。1年間のワーキンホリデーを終えて帰国すると地元のブリティッシュ・コロンビア大日本語・アジア地域学部に再び入学。1998年に大学卒業してから、日本各地に英語講師と翻訳家の活動をしながらアイヌ民族史や日本語方言について独自研究をし続けています。日本語資格試験(ジェトロビジネス日本語テスト:1級取得、日本国際教育協会日本語能力試験:1級取得)

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英字工房とは、カナダ出身の翻訳家Thomas Judd Magnuson (トーマス・ジャッド・マグナセン)が2002年に設立した小さな言語サービスです。和英翻訳を始めとして、英文校正と英文作成の事業でお客様のニーズに合わせて品質の極めて高い自然の英語の文章を提供するということが私たちの原点であり、誇りと楽しみでもあります。お手紙、電子メールなどの短い原稿から論文やビジネス・コミュニケーションの文章まで英語のことならどうぞお気軽に相談くださいますよう、宜しくお願い申し上げます。当サイトで各サービスについての詳しい情報をまとめておりますが、どうぞごゆっくりご覧下さいませ。尚、もし何か不明なところやご質問がございましたらメールでのご連絡を心待ちにしております。http://www.eijikoubou.com/index.htm





■翻訳学■


翻訳学の可能性

岩坂 彰


■翻訳と人工知能

 翻訳ソフトをお使いになったことがあるだろうか? 簡単なものなら、一般的な検索サイトで試してみることができる。もちろん(!)使い物にならない。 私は米国発ウェブニュースの即日翻訳という仕事に携わっている。チームの中には翻訳ソフトを利用している翻訳者もいるが、訳文をチェックし、記事に仕上げるという私の業務経験から感覚的に申し上げると、翻訳ソフトからの訳文は、いくら推敲してもぎりぎり許容範囲、六〇点の訳文にしかならない。それ以上に仕上げたいのなら、一から訳し直すことになる。そんなわけで、私は日々詛いの言葉を吐きながら自尊心と時間の妥協に苦しむのである。

 ソフトが進歩すれば解決することかもしれない。しかしその場合、おそらくその翻訳ソフトは人工知能のレベルに達していなければならない。現在のソフトもいわゆる「AI」機能を備えているが、われわれが満足させる翻訳ソフトは、いわば一個の「人格」をもった人工知能である。それはもはや「機械翻訳」とは言えない。同じ原文を与えても、人工知能ソフトは1本ずつ、その「性格」や「経験」に応じて多様な訳文を出してくる。なかにはフィードバックを受け入れない頑固な性格のソフトや、数字の単位を間違えるうっかり者のソフトも出てくるかもしれない。そんなわけはないか。

 ともかく、翻訳、あるいはその一部である自然言語処理が機械的に行なえないことはもはや明らかである。人工知能の完成を待たなければならないという意味で、自然言語処理は「AI完全」であると言われるが、逆に、自然言語処理が可能になった段階で、人工知能はいちおうの完成と言えるのかもしれない。

 こうした人工知能による自然言語処理の研究は、翻訳ソフトに応用されると同時に、われわれがいかにして翻訳という作業を行なっているかという理論的基礎付けに光を投げかけるものとなっている。具体的には、生成文法以降の統語論や、意味論の分野で模索されているさまざまな構成モデル、あるいはコンピューター自体の並列分散処理モデルなどがある。  しかしこれらは、私が考える「翻訳学」のほんの一部にすぎない。

■翻訳教授法

 前述の仕事のチームを見ても、あるいは私が教えている翻訳学校の生徒を見ても、うまくできない人をできるように育てるのはたいへん難しい(逆に、できる人は最初からできる)。

 私自身が翻訳学校の生徒だったころ、先生は翻訳の理論的なことなど何も教えてはくれなかった。大学の英文講読の授業のように、延々とテキストの内容を議論しているだけだった。自分が教える立場になったとき、私は授業を「構造化」した。カリキュラムを組み、必要なスキルを実践させた。けれども、今の私の生徒が、かつての私の同級生たちよりも上達が早いとは、残念ながら言えそうにない。結局のところ、私がやっているのは翻訳技法論のレベルであって、「理論よりも実践」という昔ながらの教授法には太刀打ちできないのだ。 しかし私は、「ともかくたくさん読んでたくさん書くことです」などというアドバイスの時代に戻りたくはない。「人はいかに言葉を捉え、いかにその内容を言葉で表現するか」という翻訳の本質を理論的に考察する翻訳学というものが構築されれば、必ずや翻訳教授法の向上につながるはずである。のみならず、言語が文化の中核に存在する以上、こうした研究は異文化理解の本質に迫るものであると、私は信じている。

■認知科学としての翻訳学

 私が望む翻訳学は、右のような実践的な要請を踏まえたものであり、以下のような多様な領域をカバーすることになる。

  ◆基礎論(言語学)
   ・認知言語学
   ・コンピューター言語学
   ・(解釈学)
  ◆各論(外国語学(実際問題として、英語)と日本語学の双方に関して)
   ・文法論
   ・社会言語学
   ・表記論と音韻論
   ・作文論
   ・翻訳技法論
   ・発達言語学と教授法

 まず、なぜ「認知」言語学なのかというと、先ほど述べた「人はいかに言葉を捉えているか」という基本的問いが、「いかに言葉を認識しているか」という意味にほかならないからである。

 具体的に説明しよう。  翻訳では、言葉が示す概念の外延のずれが常に問題になる。要するに、対応する単語が指し示す対象範囲は必ずしも一致しないということである。初学者はよくbees and waspsを「ミツバチとスズメバチ」などと訳す。bees and wspsにほぼ対応する外延をもつ日本語の概念は「蜂」であり、訳としては「蜂」で十分である。逆に、「一匹の蜂が飛んできた」を英訳するときは、事実あるいは筆者の意図を踏まえ、a beeとするかa waspとするかを判断しなければならない。技法的には、このようなカテゴリーの対応づけがいちおう有効にはたらく。

 しかし筆者の意図といっても、日本人の場合beeかwaspかなんてことは考えていないかもしれない。単にan annoying insectと言いたかったのかもしれない。原理的に、概念の外延をもって彼我を対応させようとすることには無理があるのだ。

 認知言語学では、たとえばこのようなカテゴリー的な発想を廃し、「典型的なbeeのプロトタイプ」というようなものを考える。そして、典型的な属性群からどのくらい離れるとbeeとは言えなくなるかといった研究を行なう。翻訳者には、こうした知識が必要なのである。

 翻訳という営みがこのような「認識」にかかわるかぎり、それを検証可能な方法で(いわゆる「科学的」ということだが)理論化しようとするなら、認知科学の方向に向かわざるをえないと私は思う。

 冒頭に触れた人工知能のコンピューター言語学は、この方向性を脇から固めるものとなる。  三番目に括弧付きで挙げた解釈学についてだが、これと翻訳学の関わりについて具体的に論じるには、私の能力も紙数も足りない。古典文献や聖書の解釈の技術として成立し、二〇世紀哲学の一潮流へと発展した解釈学は、翻訳学に哲学的基礎を与えてくれるとも考えられるが、それは将来の課題とし、さしあたりは認知科学的アプローチをとりたい。

■翻訳のための日本語文法

 各論としていくつかの分野を挙げたが、これらはそれぞれ、私の翻訳の実践や教育のなかで現実に気になっている諸問題に対応する領域である。

 文法について言うと、現在学校で教えられている日本語文法は外国語文法の影響が強すぎ、日本語本来の姿を捉えているとは言い難い。三上章が『象は鼻が長い』を世に問うて「主語―述語」文法に疑問を呈した(主語は「象は」か「鼻が」か?)のは四〇年以上前のことだというのに、いまだに学校ではSubject-Objectのアナロジーでお茶を濁し、その結果、I love youを 「あなたを好きです」と訳すことに抵抗のない人が増えている。(標準的な「(私は)あなたが好きです)」が「象は鼻が長い」と同じ文型だというあたりは興味深い。)

 外国語文法に比べて日本語文法に説得力がないため、国語の授業が英文法の刷り込みに負けてしまうという面もあるのだろう。翻訳学習者からは「原文が過去形なのに現在形に訳していいんですか」などという質問をもらう。不完全と思える学校文法ですら、日本語の動詞に現在形などという活用を教えていない。「する」は終止形であって、印欧言語の不定形に対応すると言うべきなのだ。ところが学習者の頭の中では、「する」が現在形、「した」が過去形ということになっている。かように日本語文法教育はお寒い状況にある。

 新日本語文法の構築についてはすでにさまざまな提案がなされている。言語の適切な分析方法はひとつではないだろうが、目的を限定すれば、最適の考え方が見えてくるはずである。私が求める翻訳向けの日本語文法の構築にあたっては、かつて試みられたように、外国語と日本語を共通の構造で捉えるというのではなく、日本語は日本語で認知的に構造を分析して文法化し、外国語の文法との対応を考えるというのが適切な方向であるように思う。

■社会言語学・音韻論・作文論

 次の社会言語学というのは、読者の問題である。

 私がひそかに好んで見るテレビ番組に、芸能人知名度クイズというのがある。ある芸能人の名前を世間の何パーセントの人が知っているかを当てるクイズだが、実は翻訳家にはこのような感性が求められる。ある表現がその読者層のどのくらいの人に受け容れられるか、どう受け取られるかを感覚的につかんでいなければならないのである。

 翻訳はつねに読者との関係のうえになりたつ。たとえ同じ原文でも、提供する読者対象層が違えば訳文も変わってくる。その意味で、こうした実証的研究は欠かせない。

 表記論・音韻論というのは、単純に言うとジェームス・ボンドかジェイムズ・ボンドかということである。単に習慣の問題と思われるかもしれないが、簡単には片づけられない面がある。たとえば「政府(せいふ)」の共通語の発音は、普通は「せーふ」(あらたまった場合は「せいふ」)ということになっている。これは「ジェイムズ」と書いて「じぇーむず」と読むことに相当する。しかし実際は「ジェイムズ」表記の意図は、英語風に「じぇいむず」と読ませたいというところにある。これと同様の方向性が、「政府」にも見られないだろうか。つまり英語のsafeのように、日常的に「せいふ」と言う人が増えていないだろうか。しかも[ei]という一つの母音を挟んで。ひょっとすると最後の「ふ」の母音が欠落しているかもしれない。(Jamesの「ス」と「ズ」も、母音なしの[z]の発音ができるか否かに関係していると思われる。)日本語使用者全体で継続的に調査すれば、大きな変化が観測されるはずである。

 このような発音の変化(浸食)は、外来語の侵入以上に大きな問題だと思う。結果として、表記と発音の対応が変更されていくことだろう。「ヴ」や「ファ」は市民権を得たし、アルファベットがそのまま漢字やかなの中に混じることも多くなった。現在ウェブニュースでよく見られるように、固有名詞は原綴りで表記するという方法が一般化していくことも考えられる。(私が担当しているサイトはこの流れに必死で抵抗しているが。)

 作文論というのは、たとえば記事を書くときに、事実から書き始めるか、結論から書き始めるか、あるいは伝聞をどの程度厳密に引用するかといった問題である。これらは筆者と読者の間の暗黙の決まりごととして、読みの解釈に影響している。現在は作文作法としてまとめられている程度だが、比較作文論として体系化する必要がある。ここには、英文記事冒頭の「つかみ」を、情報として訳すべきか、日本記事の「つかみ」に訳す(置き換える)べきかといった翻訳技法論も関係してくる。

■翻訳学の可能性

 インターネットで検索するかぎり、本格的な「翻訳学」の講座を置く大学は日本にはまだない。私と同じように、個人的なレベルで翻訳学を語る物書き(あるいは物好き)は何人かいるようであるが。

 実際問題として、機械翻訳のための言語学研究や、認知的言語学研究、新たな日本語文法の研究などは、それぞれに行なわれている。その最先端の成果は、現場の翻訳家にはなかなか届いてこない。現実問題として、翻訳のような割の悪い仕事をしていると、お金に直結しない作業をする時間などなかなかとれない(原稿遅れてごめんなさい→編集スタッフさま)ということもあるし、わずかな時間を使ってぼつぼつと認知言語学のテキストを読んでみても、翻訳の視点から直接的に興味の惹かれる部分があまり多くないということもある。  結局のところ、私のような物好きな翻訳家が、専門研究者たちに手を引かれながら、少しずつ、各分野の研究成果を現場の翻訳者や学習者向けに再構成していくところから始めるしかないのかもしれない。

 もちろんこれだけでは「学」と称せるものにはならないだろうが、このような努力がいずれ共通の枠組みを生み、大学に講座ができ、最終的には、誰もが頭をひねらずに読める翻訳が当たり前になる日が来ることを願っている。  一人でできることではない。各分野についての知見をお持ちのみなさまのお導きをいただきたい。(初出『La Vue』 No.11、2002/09/01号)

■プロフィール■
(いわさか・あきら)1958年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。翻訳家。 訳書:『西洋思想』『うつと不安の認知療法練習帳』(ともに創元社)、『ウィトゲンシュタイン』(講談社選書メチエ)『イエスは仏教徒だった?』(同朋舎)ほか。ワイアード・ニュース(http://www.hotwired.co.jp/news/index.html) 翻訳担当。E-mail: iwasaka@gol.com





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「La Vue」14号ご案内

編集部



<映画多彩>(03/08/01発行)
 ◎交換する声――青原さとし『土徳――焼跡地に生かされて』/今野和代(詩人)
 ◎『銀幕の湖国』番外編/吉田 馨(愛知大学・宝塚造形芸術大学非常勤講師)
 ◎映画『「夜と霧』の中で/康 守雄
 ◎映画から届いた「肉声」/橋本康介
 ◎「映画多彩」アンケート回答
■投げ銭価格100円より・B4判・10頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・文化センターに配布
■14号広告協賛■ナカニシヤ出版東方出版新泉社・紀伊國屋書店出版部
■協賛■哲学的腹ぺこ塾
■後援■ヒントブックス

■編集後記■
★言葉は文化だとはよく言われるが、「その言葉が使われている地域に暮らせば暮らすほど、身に染み込んで知らないうちに「日本語を使う時の自分」と「英語を使う時の自分」のような二重人格が出来上がってしまっている」という、トーマスさんの指摘は面白い。
★その一方で、外国語文法の影響で、「あなたを好きです」と訳すことに抵抗のない人が増えている(標準的には「(私は)あなたが好きです)」らしく、また英語の影響で音韻に変化があるという岩坂さんの指摘には考えさせられる。
★世界共通語を目指したエスペラント語は普及しなかったが、映画「スワロウテイル」(岩井俊二・監督)の舞台になっている未来都市yen townでの無国籍語は、アナーキーで痛快だった。(黒猫房主)





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