『カルチャー・レヴュー』28号



■記憶と映画■


映画「夜と霧」の中で       


康 守雄



 ジャン・リュック・ゴダールは映画版「映画史」の中で、映画を発明したリュミエール兄弟について語る。

  先ず最初に、二人の兄弟の歴史=物語。
 彼らは「日除け」という名前でもありえたのに、「光」つまりリュミエー  ルという名前だった。
 彼らは瓜二つだったので、その時以来、映画を作るためにはいつも二つの  リールがあるのだ。

  一つは充たされ
 一つは空になると

  このアフォリズム的な言葉からゴダールは、映画の起源、100年の間の作られた作品の果たしてきた事、また果たせなかった映画の欠落部分を「映画史」で試みる。とりわけ、「収容所」の問題を映画は最大の課題にすべきだったのに、果たせず行方不明の状態であると述べる。

 今、私の机の前に一冊のシナリオがある(註1)。
 昨年、パリの映画書籍専門店で買ったアラン・レネの「夜と霧」である。アラン・レネは多作な監督であるが、この作品ほど映画的自由を感じるものは少ないと私には思える。機会があれば、フランス語のシナリオを原文で読みたいと思っていたので、この本屋の親父が「レネの古いシナリオがあるけど、気にいるかな?」といって店の奥から、古びて埃の被った1961年発行の冊子を持って来た時、オーと言う声を発してしまったほどであった。
 たった数ページのナレーション原稿テキスト、フィルムにしても32分の長さでしかない。でも、私にとって映画と現実を考える上では最良の作品なのである。

 映画版「映画史」の中で、ゴダールは述べる。
 映画は<思い出>では無く、<記憶>されるべきものである。映画にとって、収容所そのものとその中で何が進行していたかを撮った映画作品は無い。確かに1930年代頃にその予兆はあったし、それは作品化された。
 例えば、ジャン・ルノワールの「ゲームの規則」であるし、チャップリンの「独裁者」もそうである。またフリッツ・ラングの幾つかの作品も、いつの間にか市民社会を覆い尽くすファシズムとは何かについて、秀逸なアプローチを試みているとゴダールは指摘している。

 では、1955年制作であるレネの「夜と霧」はどうだったのか?
 記録芸術をドキュメンタリー形式で撮るという方法を、確かに個人も国家も集団も知ってはいた。  それでは、映画作家であるレネ達はアウシュヴィッツ収容所跡地に到着して、途方にくれただろうか? そこには夥しい死の跡があるにもかかわらず、その上を自然は何事も無かったように覆い隠していた。
 しかし、方法はあった。ナチスの残したフィルムと生き延びた人々の証言、それにレネ達のシナリオである。そして、映画への情熱があった。

 「夜と霧」のシナリオ作家たちは言う。
“この広大な土地に初めて作る収容所の建物を建設するためには、設計士達はどのような設計を施せばいいのか? それらの建物は想像力に任せられたのだ。出現したものは、アルプス風、バラック風、何故だか日本風の見張り塔、見当もつかない建物まである。”(註2)
 収容所が抜かりなく建設されている間、ここで待ち受けている運命について誰が知っていただろうか? 更に、シナリオ作家達は述べる。
“例えば、アムステルダムの学生でコミュニストのバルガー、ポーランドのクラコフの商人のシェムルスキー、毎日を充実して生きていたフランスのボルドーの女子高生のアンネット達。知る由もない。何故なら、建設された収容所は彼等の家から何百キロも千キロも離れていたのだから。到着した者の中には、ユダヤ人でもなく、政治犯でもなく、単純な書類のミスからここで最期を迎えた者もいる。何というミスだ。そして、時間通り列車は夜に到着する。駅のホームには霧がたちこめている。”  フィルムでは、何もかもがここで始まったと語る。1941年から1945年にかけて「最終計画」が実施されたのだ。

 また最後にシナリオはこう告げる。
“まるでペストから治癒したかのように、我々はこれらのことをある国の、ある時にあった事のように考えている。しかし、何時も収容所の扉は開かれていて、充分に準備されているのだと叫んでも、誰も聞き入れようとしないのだ。”(註3)

 そして「夜と霧」から数年後、私もまた、それを見る事になる。
 1960年の冬、叔父が韓国から密航してきて不法滞在で捕まり、九州の「大村収容所」に入れられた。それから韓国への強制送還処分になるというので、私は叔母と共に面会に行ったのだ。しかし必要な書類が不備だと言われて面会はできなかったが、帰り際振り返るとそれがあった。くすんだ建物と鉄条網のそれが見えたのだ。
 さらに1961年、中学に入ったばかりの春、教室の中でクラスの一人の少年が言葉もなく、ただ下を向いて泣いている姿を見る。お互いに言葉も交わしたことのないその少年は、13歳の金君だった。彼は、家族と共に北朝鮮に行くと担任の教師は告げた。彼のその後の消息はわからず、今の私の乏しい想像力では絶望的に成らざるを得ない。けれども私は、その時の暗い気持ちで胸が一杯になっていたことを、<記憶>している。

 ゴダールのように言ってみよう!
“どの場所も、どの時代も収容所だらけだ。そして、そこを映画に撮ろう!”
(註1〜3) Nuit et Brouillard par Jean Cayrol,1955(引用は、すべて康による日本語訳)

■プロフィール■
(カン・スウウン)1948年生まれ。10代は運動、映画、本に夢中。その後、20代、30代は出版社勤務、40代は商社勤務、ある日いきなり退職宣言。現在は家業の不動産管理業、その合間を利用してフランス語とヌーヴェル・ヴァーグの映画作家を再勉強中です。年に一度は必ず、韓国の済州道とフランスに行きます。理由は、父親の墓とトリュフォーの墓があるからと妻を納得させています。

■編集部による作品案内(下記の2作品は紀伊國屋書店から発売中)
★「ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章」
 JEAN-LUC GODARD HISTOIRE(S) DU CINEMA DVD BOX(5枚組) 最新マスタ リング版 ステレオ5.1ch ―映像の美しさ、圧倒的なサウンド、膨大な文字 情報、DVDの概念を革命した、世界最高のDVD 遂にリリース!― ●特典●完 全インタラクティヴDVD(登場作品の情報検索=順引き・逆引き=機能) 映画史に登場する夥しい数の映画、音楽、美術、写真、文学、ナレーション の全てがわかる。
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 Disc2…第2章=1B〔ただ一つの歴史〕
 Disc3…第3章=2A〔映画だけが〕/ 第4章=2B〔命がけの美〕
 Disc4…第5章=3A〔絶対の貨幣〕/ 第6章=3B〔新たな波〕
 Disc5…第7章=4A〔宇宙のコントロール〕/第8章=4B〔徴(しるし)は至る 所に〕総合監修:浅田 彰 1998年/仏/268min./仏語DD S5.1chサラウン ド/日字幕/C partB&W/片面2層 (c)GAUMONT1998 KKDS-4/\32,000/452 3215000192/4-87766-174-3/家庭内視聴用 発:IMAGICA 提:フランス映画 社 バウ・シリーズ作品)映画史日本DVD制作集団2001 映画史翻訳集団2000  http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d12/2_12000l.htm

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 ジャン・ルノワール監督作品Jean Renoir
 最新デジタル・リマスター 永久保存版  トリュフォーが「映画狂(シネフィル)のバイブル」と讃えた、すべての映画 ファンに贈る至上の名作/映画史に君臨する巨星、ジャン・ルノワールのオ ールタイムベスト!
 ラ・シュネイ侯爵の妻とその愛人、その友人たち。侯爵がソローニュの別邸 で催す狩猟に全員が集い、密猟監視人と小間使い、密猟人も加わり、映画史 上有名な狩猟の野から仮装パーティの一夜、思わぬ悲劇につき進む・・・。 当商品のマスターは、デジタル修復システム「REVIVAL」でリストアし、ク リアな映像を極限まで追求した最新デジタル・リマスター版です。
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★アラン・レネの「夜と霧」はレンタルビデオで鑑賞できます。





■地域貨幣■


地域貨幣と鹿児島レポート

岩田憲明


 先日、1月8−9日にかけて鹿児島に出かけてきました。鹿児島には以前、公務員時代の職員旅行で行ったことがあるのですが、一人での旅は初めてでしたので、今回はそのレポートをしたいと思います。前半は、地域通貨「花子」の実践もされている「萌」さんのレポート、後半は鹿児島一般の印象です。

 この「萌」 というのは児玉病院という病院とその患者さんたちが運営している有限会社です。児玉病院は精神科の病院で、もともとこの会社は精神疾患を持つ患者さんの治療と社会復帰を考えて始められたようですが、会社として地元の社会に役立つことを第一の目標として運営されており、現在ではある程度の黒字も出しているようです。「萌」 の具体的な仕事は手作りの趣味の店や喫茶店の運営、清掃作業や資源ごみの分別収集、そして便利屋や町づくりへの参加など多岐に及んでいます。いずれも地域に根ざし地域のためになることを目的としていますが、このように地域と一体化することによって、原材料の買い付けや他の産地との競争などの外部の経済状況に影響されず、また特に銀行の融資に頼らない独立した経営が成り立っているように思います。

 地域通貨の「花子」 もこのようなコミュニティーネットワークを基盤としたものであり、地域間の相互扶助の一環として捉えられているようです。聞くところによると、町の人たちと知恵を出し合って、バザーを行なったり、要らなくなった物を特定の場所において必要な人に引き取ってもらうサービスをしているようですが、案外うまく行っているようです。たまたま、今から試みるという「無料でさしあげます/ゆずってください」というカードを見せてもらいましたが、このようなカードをあらかじめ書いて掲示しておけばバザーもより効率的に出来るでしょう。

 精神疾患というと普通には「本来あってはならない」ものと捉えられているのではないでしょうか。「本来あってはならない」から「病気」とか「疾患」と呼ばれるのであり、できればそれらは無い方が良いと考えるのが一般的ではないかと思います。しかし、私は最近必ずしもそうではないのではないかと考えています。というのも、一見これらの「異常」と見られるものの背後には、私たちの日常そのものを問い返す意味があるからです。

 ――弟子たちがイエスに訪ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネの福音書 9章2−3節)

 何かの異常は単に異常とされるべきものの部分的な異常を指し示しているものとは限りません。むしろ、それを異常としているものの異常を指し示している場合が多いのです。何故いま日本で多くの人たちが自殺をしたり、そこまで行かなくても「ひきこもり」や鬱病に陥っているかを考えれば、部分的に異常と思われるものが、全体の異常を指し示しているともいえるでしょう。「萌」についての今までの経過を記した資料を読むと、いかにこの取り組みを続けるに際して、寛容さと柔軟さ、そして忍耐強さが必要であったかを痛感します。翻ってみるならば、これらこそ今の社会に欠けているものではないでしょうか。

 さて、後半は鹿児島旅行で感じたいろいろな印象です。

 鹿児島に着いて最初に私が降りたのは西鹿児島の駅前だったのですが、朝の駅前通りに出て、不思議な感覚に襲われました。初めての場所ということもあるのでしょうが、どうしても町そのものが異様に古く感じられるのです。それは建物が古いからではありません。歩いている人の姿をチェックすると、どうも服装が暗いのです。この時期ですから暗めの服装を着た人は多いのですが、どうも違う。それで、よく観察したら次のことが分りました。まず、西鹿児島駅周辺に3つの小学校があるのですが、この小学校の生徒が制服なのです。交通安全のために黄色い帽子をかぶっていますが、皆モノトーンの服装です。次に、女学生の服装に目をやったのですが、アクセントとなる色があまり見られません。たいていは、マフラーやコートにアクセントがあるのですが、それが見当たらないのです。スカートは長め、マフラーは目立たない程度に短めです。一般の人たちのコートの色もかなり暗い色が多く、白や青などの明るい色はなかなか見当たりません。結果として、町全体がアクセントを欠いた、昭和の前半の雰囲気を漂わせていました。

 どうも、この傾向は西鹿児島駅周辺で特徴的なようで、後から行った鹿児島駅周辺ではそうでもない感じでした。また、夕方、鹿児島の繁華街である天文館の周辺を歩きましたが、一般の人のコートの色がかなり明るめではないかという印象を受けました。西鹿児島のまわりをかなり歩いたのですが、なぜか受験生を対象とした学習塾の看板が多く見かけられます。現在では鹿児島の中心は鹿児島駅周辺ではなく、この西鹿児島駅なのですが、どうもここは昭和の雰囲気そのままの進学校が多く位置しているところのようです。それに対して、鹿児島駅周辺は広々として対岸に桜島も望むことができます。他にも、鹿児島の本屋を見てまわったのですが、確か「鹿児島叢書」という名前の本のシリーズがあって、郷土関係の本のスペースがかなりありました。いずれにしても、鹿児島には伝統的に独立の気概があるのではないかと感じました。

 ただ、このような鹿児島県にも来年には新幹線が通るそうです。そのような状況で今までのような独自性をいかに保つべきかを考えておく必要があるでしょう。あまり良い例ではないのですが、その意味で興味深い話がありましたので、ご紹介しておきます。

 鹿児島には鹿児島国際大学というのがあるのですが、この大学で今トラブルが起こっています。ここでは3人の教授が人事の不正を名目に3月末になって急遽クビになったのですが、当然この措置に対して裁判が起されています。このようなことは普通その大学にとって相当のマイナスイメージになるでしょうが、今までは地理的距離もあってこのような無理も出来たのでしょう。しかし、新幹線が開通すれば、福岡との距離が極端に縮まるわけで、今まで地元の大学に行っていた学生が福岡に流れることも考えられない話ではありません。参考までに、この問題に関するサイトがありますので、ご紹介しておきます。http://coolweb.kakiko.com/sakanoue/index.html

 全体として私の鹿児島の印象は、強い独自性を持ち、良きにつけ悪しきにつけ古いものが残っているという感じです。萎縮している今の日本のことを考えると、鹿児島にはそのために不可欠な個性とパワーを持っているのは確かです。

■プロフィール■
(いわた・のりあき)哲学者。元大分県庁の公務員で現在はフリーの立場で研究を進めている。研究分野は文明論からアニメまで幅広いが、その中心には独自の記号論がある。現在、【哲学茶房のサクサクHP】にてその著述を公開している。http://www.oct-net.ne.jp/~iwatanrk/





■住居問題■


わが家に化学物質過敏症がやってきた(2)
―シックハウスから脱出する方法―

山口秀也



 化学物質過敏症と診断された妻。診断の結果、わが家は危険な化学物質だらけ。どこにもいけない、なにも食べられない。夫婦は途方に暮れるが、医師より具体的な処方を教わり、からだと家の改善にとりくんだ。 化学物質過敏症と診断された妻。診断の結果、わが家は危険な化学物質だらけ。どこにもいけない、なにも食べられない。夫婦は途方に暮れるが、医師より具体的な処方を教わり、からだと家の改善にとりくんだ。

■わが家の原因物質
 H病院のF医師は、リフォームの箇所や、家の間取り、使用した建材などことこまかに聞き取りを続けていった。結果、つぎのようなものが原因であろうことが明らかになった。
 まず、ビニルクロスにふくまれる有機塩素系の可塑剤が問題であること。フタル酸エステル類などが、可塑剤や接着剤・印刷インク・殺虫剤などの用途に用いられ、皮膚や目、粘膜を刺激し、胃腸障害を起こし、中枢神経系の機能低下をもたらすとある(『2000-2001化学物質の危険・有害便覧』厚生労働省安全衛生部編、2002年、中央労働災害防止協会)。ビニルクロスを前にした妻の症状とも合致しているし、印刷物(とくに色刷り)でじんましんができる理由も半解した。ほかの化学物質についても、基本的にいま挙げた症状のどれかを有するものと考えてよい。
 つぎにF医師が指摘したのは、畳だった。わが家には、1階と2階にそれぞれ一間ずつ畳が敷かれていた。稲わらを使用している畳は、JIS規格によりダニなどの対策として防虫処理を施すことを義務づけられている。この防虫剤に使われている有機リン酸系の殺虫剤が問題だったのだ。そして畳のさらに下、床下にもこの有機リン酸系のシロアリ駆除剤が撒かれている可能性があるという。妻の場合、この畳がいちばんのネックであろうことがあとでわかった。和室の隣にある居間で寝ていたときも、和室のほうを枕にするかどうかだけで、頭痛などの程度が変わってくるほどだった。その強い毒性については、サリンをはじめとする現代の神経ガスの多くが有機リン酸系の化合物であることから理解できると思う。
 つぎに、いまやいちばんポピュラーな化学物質といえるホルムアルデヒドの影響が指摘された。ホルムアルデヒドは、リフォームのさい押入れなどに使用した合板や、ビニルクロスや接着剤、新しい家具やシステムキッチンに大量に使用されている。防カビや防腐を目的に使用されているが、いわゆる新建材を使用したあらゆる家財道具、家電製品に到るまでほとんどに使用されている。気密性の高くなった住居内は、ホルムアルデヒドが充満しているのだった。

■逃げ場のない新しい家

 F医師はたたみかけるように危険な化学物質を挙げつらった。

「システムキッチンは新しいのん?」「はい」「そら、アカンな」
「化繊の服は着れるか」「痒くて着れません」「そらそやろ」
「蚊取り線香たいてた?」「はい」「あかん、自殺行為や」

 正確には憶えていないが、こんなやりとりが何度もくりかえされた。
 もともと化繊の服は「チクチクする」といって着たがらなかったのだが、製造加工の段階で化学物質が使われているなら、妻がそれを着用できないのも当然だった。蚊取り線香はピレスロイド系の農薬アレスリンを主成分として作られている。通常の線香や煙の臭いも彼女には耐えられないものになっていた。
 この医師の逐一の受け答えが化学物質への嫌悪感を帯びていたので少し奇異に思っていたが、F医師自身(と家族)が過敏症の患者であることがわかった。そのために診察室の窓を開け放していたのだ。F医師にとって、病院という環境もまた苛酷なもののようだ。

■何も食べられない!

 F医師は、妻の食べ物の嗜好についても細かく質問した。どんな化学物質を口から体内に取り込んでいるかを聞き出し、しかるべき処方を与えるためだ。
 結果、農薬のかかった食材を治療の過程で口にしないように、ということだった。医師は、農薬だけでなくあらゆる食品添加物、酸化防止剤や防カビ剤・発色剤などを避ける必要を説いた。 つづけてF医師は、妻に「好きな食べ物」を尋ねた。妻はパスタ、パン、ケーキ、コーヒーなどの名前を口にした。すると医師は言下に、「イーストフード・コネクション」という聞きなれないことばを口にした。化学物質の曝露や食物やカビの吸入などによって免疫力が低下し、カンジダ(イースト)が増殖するためにさまざまな害を引き起こす、というのである。この診断には驚かされた。
 しかも、砂糖や大豆や卵も避けるべきだとも言う。じんましんや発疹、便秘や下痢の諸症状、とくに口内炎には、住環境にくわえてこれらが原因として認められるというのである。
 好きなものを尋ねたのは、落ち込んでいる患者と世間話でコミュニケーションをとろうとしたからではなかった。好きなもの、つまりつねに口にしているものがすなわちアレルゲン(アレルギーの諸症状を引き起こす原因物質のこと)になりやすいのであると。なるほど、一般的にアレルギーを引き起こす食物としてすぐに思い浮かぶものは、牛乳にしろ、卵にしろ、そして小麦にしろ、毎日口にしているものばかりだ。
 F医師も、ヒトは乳糖分解酵素の低さに比して牛乳を飲みすぎであるという。成人であれば1週間に1回、50ミリリットルで十分だといい、学校給食に警鐘を鳴らした。調べてみると、哺乳類の赤ん坊は母乳にふくまれる乳糖をエネルギー源とするため乳糖分解酵素をもっているが、乳離れすると活性が急激に落ち、その動物の成体が食べるべきものを消化できるようになるらしい(『暴走するアレルギー アナフィラキシーに負けない本』角田和彦著、1999年、彩流社)。
 学校給食についてさらにいえば、数は少ないが、最近は小麦のパンをやめて米のパンを出している自治体があると聞いた。学校給食で出されるパンがどれだけ安全な小麦をつかっているかわからないが、毎日食べること自体にも落とし穴があるのだ。また、砂糖の摂取によりカンジダなどのカビがふえ、腸の粘膜が壊されることでアレルギーを誘発するために、採りすぎを控える必要があるのである。  こういったわけで、それからの妻ひいてはわが家の食卓は、かなりの制限を強いられることになった。小麦がだめなので、てんぷらやフライ(油脂分も制限を受ける)、お好み焼き、うどん、そば、中華そばなど小麦粉製品はもちろんだめである。しょうゆ(大豆)と砂糖をつかわずになんの料理ができるというのか。
 これほど体と精神が疲弊しているにもかかわらず家にも居られない、かといって外にも出られない。全快する保証もない。子どもを産むにもリスクが生ずる。そのうえほとんど普通のものが食べられないとくれば、ヒトのたいていの希望は失われる。そうでなくても、このなんの病気かわからない病気によって、人間関係の齟齬まで出ている。  将来に何の希望も見出せなくなった妻は、体力が限界に近づいていることも手伝って、診察を受けているあいだじゅう泣いていた。

■具体的な対処法を教わる

 F医師は、こういった患者を数限りなく診てきたらしく、また病気の当事者だけあってヘタななぐさめのことばをかけることもなく、彼女の病状に対する的確な処方を示し始めた。これ以降、数回の通院での的確な処方により、私たち夫婦は彼に全幅の信頼を寄せることになる。
 まず、住環境については、なるべくなら被曝した家を離れることを勧められた。つぎに、家の換気をすぐに行うこと、住宅内の原因物質で取り除けるものは取り除いていくこと、早急に取り除けない場合でもそれを減ずる手だてをすること、などだった。減ずる手だてとしては室内のホルムアルデヒドを吸着する活性炭などを薦められた。
 衣服は、まず綿100%の服を着ること。洗濯には合成洗剤を使わず(柔軟材はもってのほか)、必ず石鹸洗剤を使用し、新しい服は酢などを入れて最低3回は洗うことを申し渡された。  食については、摂取を控えるべき小麦・大豆・砂糖について、代用品をそろえるよう指示された。麺類は、うどんや中華そばやパスタはやめて、米でできているビーフンや緑豆が原料の春雨にする。どうしてもうどんなどがほしければ、低アレルギーの小麦を使ったものや国内産のものを選ぶ。お好み焼きなども、低アレルギーの小麦やデュラムセモリナ粉を使う。大豆醤油のかわりに、魚醤、きびや粟でできた醤油に替える。砂糖はなるべく使わず、オリゴ糖などを使う。油も、えごま油やグレープシードオイル、からしな油のほか数種類の油を使い分けること、などなどである。  調味料以外の食材については、当然、完全無農薬のものが望ましいと言われた。最低でも、生協で野菜や肉・魚その他の食材をそろえるべきとのことだった。
 薬は、妻の症状それぞれに対して処方されたので、その数は 10種類近くになった。化学物質過敏症そのものに対する特効薬などない。消化管粘膜を保護し、組織の修復をする「プロマック顆粒」や、湿疹・口角炎・抹消循環器障害の薬「ニコチン酸アミド」、アレルギー性鼻炎用の「ジルテック錠 」、湿疹皮膚炎や口内のあれの「ワッサーV顆粒」やビタミンCの薬などである。
これらは妻の症状の変化によって逐次、修正が加えられていった。

■他人との齟齬

 診察のあと、院外薬局で薬と活性炭入りのマスクなどを購入して家路についた。放心状態の妻には、将来に対する絶望感と、行き場のない怒りが同時に去来しているようだった。 運転しながら私は妻に、発症から今日までの自分の無理解を詫びた。化学物質過敏症に対する無知のせいでしかたのないこととはいえ、思い返してみると、体の不調を妻の怠け病のせいのように思ったことがなかったとはいえないことを恥じたのだ。妻は、それに応える気力もないようだった。
 それから 10月の末にかけては、まさに病気との闘いだった。病気を体の中から治すことはもちろんだが、この病気のことを知らない他人とのいくつもの軋轢をこえていかねばならなかった。 化学物質が脳に作用して情緒面に影響をおよぼす症状、うつ状態やある種の攻撃性によって、まわりに迷惑をかけることもあった。これには倦まずに説明をして理解を得る必要があった。
 家族・親族間の問題もまた横たわっている。この病気にかんするあらゆる本に出てくる事例や周囲のケースを耳にすると、かならず家族や親族との軋轢が見られる。しかしここでは、家族・親族間では接する時間が長いことや、あけすけにものを言う関係が仇になるということや、逆にどうしても過干渉になる傾向を指摘するにとどめておく。
 身内であれ他人であれ言えることは、その接し方が、「気のせいじゃないの」という人と、こちらの期待以上に気をつかってくれる人、このふたつに大きく分かれることである。前者は概して人と違う行動をとることが許せない場合が多く、根気よく説明するとよけいに神経質のレッテルを貼られ、論拠を明らかにせず「困ったもんだ」という態度を示される。

■子どもへの影響

 ここで子どものことについても少し触れておく。同じ屋根の下に暮らす私と二人の子どもたちはどうなのか。はっきりいって、影響が出ないわけがない。
 息子は、越してきてから食事の量が落ち、よく「苦い」と言っては口に入れたものを吐き出していた。また、歩いていてもすぐに「疲れた、だっこ」としゃがみこむようになった。陽の光をひどくまぶしがる。そして、夜中に急に起きだして、どこも打った形跡がないのに足のすねの部分だろうか、かなりあやふやな足の部位を指差し「足が痛い」と泣くのをなんども目にした。
これらの代表的な症状は、子ども本人が過敏症を発症している場合はもちろん、過敏症を患っている人の子どもに顕著に表れていることがわかった。とくに最後の症状の妙な符号は私たち夫婦を驚かせ、また不安がらせた。
子どもが学校に上がったとき、シックスクール(校舎に使うワックスや除菌剤、防虫処理や蚊取り線香、教科書に使われているインクなど)で本格的に発症しないか、いまはそれが心配である。(この項つづく)

(「いのちジャーナルessence」2003年1-2月号 No.18より改稿転載)

■プロフィール■
(やまぐち・ひでや)フリーライター。編集プロダクション「スロー・ラーナー」代表。「カルチャー・レヴュー」「La Vue」編集委員。slowlearner02@ybb.ne.jp
 

■編集後記■
★過日、アラン・レネの「夜と霧」を観た。たんたんとした映像ながら、記録=記憶の凄みを感じる。ヒムラーは、「最終計画」を生産的に処理しろと命じた。これは工場的発想である。それで、死体の再利用をいろいろと考案するのだが、ナチはこれを丹念に記録映画として残している。
★収容所の所長は凡庸で勤勉な事務屋であり、忠実に命令に従った。彼は、モノとして人体処理をしたのであり殺意は欠落していたと思う。「イラク戦争/第二次アメリカ戦争」で、捕虜になった米兵が「イラク人を殺すつもりはなく命令でやってきた。攻撃があったので、反撃しただけだ」と答えていた(TVニュース)。ここでも、殺意は欠落している。しかし、米兵は攻撃によって死んだ遺体を間近に見たときに、どう感じるだろうか? 人間の死体として見えるのか、単なる物体として見えるのか?
★一般に大量殺人や無差別攻撃では、人間を殺しているという意識が希薄であるか欠落しているのではないだろうか? それが、人間ではなくモノとしての感受を生み出しているのであろう。このことから、彼らは殺人に対する罪の意識を感じる契機を奪われている。戦争は、その意味でも人を堕落させる。
★「どの場所も、どの時代も収容所だらけだ」とゴダールは喚起しているが、私たちが油断をするとそのことに気づかないでいるか、あるいは気づかない振りをして見過ごしてしまう。(黒猫房主)





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