『カルチャー・レヴュー』24号

■文化人類学■


贈ることの宇宙(2)

小原まさる



 リオタールの見方を参考にすれば、レヴィ=ストロースの言説は、異質な思考から距離をおき、自らの言葉で語ることのできる地点まで撤退して、なお語ろうとする運動に支えられているとも言える。そして、見いだされた「具体の科学」という科学の変種は、いずれ真の科学的思考へと取り込まれる宿命をおっているかのように語られるのである。仮に「野生の思考」とういう名称が、人類学者として異文化への最大限の敬意を込めたものであったとしても、科学的思考による知の統合の素材となってしまっているように見えることには変わりがないのである。宇宙観や生命観の異なる思考を前に、自らの限界を直視するより、迂回しながら結局は自己の思考を語る言説へと回帰する状況を見て取ることができるとも言えるだろう。しかし、そのような統合への意志を別にしても、いったい何から距離を置き、何が迂回され避けられてきたのだろうか。
 結局のところ、贈与の問題は、われわれを「死」のテーマに連れ戻すのであり、それこそが避けるべき問題だったと言うことができると思う。デリダは『与えられた時』や『死の贈与』によって、ボードリヤールは『象徴交換と死』によって、贈与と死を語るのである。ボードリヤールによれば、(西欧の社会は)「死を脱社会化」してしまった。しかし、非西欧的社会は、死を社会的に取り込んでいる、あるいは生活の中に取り込んでいる。いわば思考そのものが、死を中心に構成されていると言ってもよい。そして、こうした思考においては、「存在はたまたまわれわれに帰属しているにすぎない」のである。これに対して西欧には、初めに死を引き受けることで(デリダによれば「死の贈与」によって)、人々をいわば生の世界に閉じこめる思考が存在するわけである。
 だが、死を排除しない思考とは、どういうものであろうか。それは生命の連鎖の思想である。特に、ポトラッチの舞台となるアメリカ北西部沿岸地域の先住民の世界観では、それぞれの生命は、それ自身の中に他の生命を宿していて、その生命もまた他の命へと連鎖的に変身する(生まれ変わる)定めの中にある。新たな命は、元々それぞれの生命が内包しているものである。一個の生き物は、すでに生命の複合体である(この考え方は、彼らの芸術に端的に表現されているものであると思う。彼らの描く動物の絵の体内には、幾つかの別の命を見ることができる。ワタリガラスの仮面は人の顔をその内側に持っており、仮面自身が変身を示している)。したがって、ある生き物が命を全うすることは、その生き物の内部に存在する別の命を解放することになる。そして、死を排除しないということは、命の連鎖の中に、死そのものを無効にすることでもある。
 ポトラッチに話を戻せば、このような考え方を持ち、すべての物に魂が宿るとする世界観では、事物の破壊は、命の再生の儀式となる。生き物や事物はその役割を全うして初めて新たな命を持つ者として再生する。この連鎖の中で命は停滞を嫌う。したがって、この場合、物の蓄積(たとえば魚を干して長期に食料として保存すること)は、命を病んだ状態に拘束することでもある。そして、バタイユが、こうした思考を背景とするポトラッチを「所有」と対立するものとして捉えたのも不思議なことではない。なぜなら所有とは、将来における消費を目的とした行為だからである。彼は、奴隷的な経済行為に対立するものとして、徹底した消費(非生産的で無目的な消費)をポトラッチに見ようとしたわけである。
 とは言え、ポトラッチの破壊的性格を、バタイユの言う「消尽」という概念で説明するだけでは不十分だと思う。「破壊」は、単なる「死」ではない。この行為は新たな「生」のためのものなのである。だから破壊と誕生の儀式は、まさにエロティックなのである。ポトラッチとは、新たな春のために、閉じこめられていた命を宇宙に解き放つ儀式なのである。破壊とは、新たな命の贈与である。正確には、命の解放である。しかし、命は元々宇宙を飛び交うものである。だから、ただ命の自由な往来を遮るものを排除することだけが、人によって可能な行為なのである。そして、この自由な往来に対する妨害は所有と蓄積によって発生するのである。
 ポトラッチの破壊的性格とその規模の拡大は、西欧人との交易によって、多くの物資がもたらされてからであるとも言われている。日常生活で使用する以上の物の蓄積は、命の循環の流れを堰き止めることであり、ポトラッチにおける破壊は、あえて、この堰を切る行為なのだと思うのである。したがって、繰り返しになるが、ポトラッチにおいては破壊自体が目的ではないのである。この場合、「贈る」という行為は、事物の役割を終わらせることで、魂を宇宙に「返す」行為なのである。モースがほとんどの地域のポトラッチに見いだしたという破壊的な性格は、こう考えれば納得できるのである。すなわち、「贈る」という行為が、「破壊」という行為を通して実現されているのである。だが、「破壊」ばかりが強調されてはならない。命の連鎖にあっては、ある存在の痛みは、他の存在においても同じように痛みとなるからである。  ともかく、これまで「贈与」を巡る記述においては、いわゆる「交換」の意味をずらし、それに新しい意味を持たせる場合においてさえも、「贈与」を交換の一種として考えようとする点に、やはり誤解の原因があったのだと思う。なぜなら交換の前提には、個人によってであろうが集団によってであろうが、事物を固定した状態に置くこと、すなわち所有されることが必要である。そしてまた贈与を受けるということは、新たな所有を意味する。しかしすでに見たように、「贈与」は、所有や蓄積の状態を避けようとする行為である。再びボードリヤールの言葉を借りれば、それは、「存在も世界もわれわれの持ち物ではない」という思考が生み出す行為なのである。そして「贈与」は、移動、往来、解放、変身を主題としているのである。
 贈与のもう一つの特徴は、生命の連鎖と同様に、それ自身が連鎖する性格をもっていることである。新たな命の再来、つまり、春を呼ぶためには、贈り物は世界の隅々にまで届けられねばならない。だから贈与は増幅され、連鎖していく性格を持っている。たとえば、アイヌの世界では、贈り物は神の国に届けられると、より多くの贈りものとなってさらに神々に行き渡り、それによって世界は新たな命で満たされるのである。つまり、贈与物は新たな場所で消費されることで、その命の力を増幅させるのである。同様な意味で、ポトラッチもまた、競争的な性格の中に、連鎖的、増幅的性格を持っていると言えるのではないだろうか。
 「贈与」とは、物を移動させ、破壊することで、命を固定的な状態から解放させることである。その結果生じる贈与による効果は、命の連鎖によって宇宙全体に及ばされるものであって、贈与をした当事者や特定の相手に直接及ぶものではない。しかしすべての命がこの連鎖の中にあるとすれば、贈与を受けるのもまた、われわれであることになる。だから「贈与」は、富めるものが貧しいものへ行う慈善的な行為ではない。それはむしろ「贈与」の本来的な意味に反するものであるとさえ言えるだろう。何故ポトラッチの主催者は、客人の前で自分の財産を焼き尽くして見せるのか、そのことを私たちが理解することは結局困難であるかも知れない。しかし、善意によるものであれ、単に他者に物を与えるということが多くの局面で事態の解決にならないことを、私たちはすでに知っているのである。(了)

【参考文献】(前編の参考文献も参照してください。)
ジャン・ボードリヤール 『不可能な交換』 塚原史訳, 紀伊国屋書店, 2002.1
嶋田義仁 『異次元交換の政治人類学-人類学的思考とは何か』 勁草書房 , 1993.10 ジャン・フランソワ・リオタール 『こどもたちに語るポストモダン』管 啓次郎訳, ちくま文芸文庫,1998.8
Derrida, Jacques, The gift of death, Trans. David Wills, University of Chicago Press , 1996.

■プロフィール■
(こはら・まさる)某短大で、コンピュータ・ネットワークのシステム管理を仕事にする傍ら、コンピュータのための(同時に人のための?)音楽の記述方法を思案中。また、NGO活動を経て、ジンバブエの教育関係者との支援のための共同研究に参加して(使われて)いる。




■宗教/哲学■


信仰・啓示・躓きについての小文(2)
──現実性と個別性から離れないよう念頭に置きつつ

中島洋治



 キリスト教は正統的に言えば伝統的に啓示の宗教であったし、現在もそうであると思う。(カール・バルトは、人間の側からの神へ至ろうとする企てを「宗教」と呼び、それを批判した。「宗教」と神からの「啓示」とを彼は区別し、後者をもってキリスト教の絶対的な基礎とした。)現実的で個人的な私の信仰、特にそのキリスト教的信仰を考えるとき、またもやここに、先に述べたような問題が横たわっている。つまり、啓示は神から降りてくるものでしかあり得ない。しかし、理性はそれを保証してくれないのである。
 そして同時に、これはあくまで概ねとしてとしか言えないが、宗教的なるもの一般にしても、ここに大きな問題があるのではないかと思うのである。つまり聖なるものの呼び声に対する信仰が、宗教によって人間に求められているという問題である。キリスト教的に言えば「啓示」として顕れることへの信仰が個人に求められている。否、恐らくより厳密にキリスト教的に言うならば、啓示は神からの恩恵であるため、聖霊の働きが「私」を助けて下さる他ないと表現すべきかもしれない。しかしカントが言ったように、それは理性の働きではないのであり、また近代的理性的個人の自由な選択・決断と言うわけにはいかないのである。もちろん選択や決断を行うのは個人、私である。しかし啓示は私の決断ではない。そして、それを「保証」するものを「個人が求める」姿勢は、非キリスト教的となるのである。一般的に言っても宗教はそうした性格をどこかに持っているのではないかと思う。キリスト教に即して言えば、キリストであるイエス、その啓示を「信仰」しなければキリスト教徒でなくなってしまう。

 ローマ・カトリック教会に対しては、それ自身の「伝統」がその保証であったという側面を強調することが可能かもしれない。カトリシズムの権威的で支配的な側面を強調するならば(例えば「教皇無謬説」を想起してみても)、プロテスタンティズムが抗議するように、キリストであるイエスを信仰することに反する契機を持つと言うことが可能であろう。しかし同時に、組織団体が歴史と共に権威化していくという性格を逃れられないならば、いかに宗教改革が的を射た抗議を行ったとしても、プロテスタンティズム自身がその道を歩まない保証はないかもしれないのである。
 カントは、教会に対して「可視的教会(見える教会)」と「不可視的教会(見えざる教会)」という区別を立てた。前者は、神的な道徳的な立法のもとにある理念的な教会である。「真の」可視的教会は、神の「道徳的」な国を人間のできる限りにおいて地上に表さなければならない。言い換えれば、不可視的教会の地上的実現を目指すのである。ルターもまた、可視的・不可視的な教会の区別をしたが、カントと違ってそれは同一の教会の両側面とでも言えるようなものであった。そしてもちろん、カントのような「道徳的」教会を不可視的教会としているわけではない。ティリッヒによれば、ルターにとっての可視的教会は不可視的教会の「宗教的あるいは霊的側面であって、それ(不可視的教会)は可視的教会に内在」しているものであると言う(註3)。(無論、カントでは理性宗教が優位であり、ルターでは啓示が優位──というより絶対的な真理とでも言うべきものである。)
 ルターに従うならば、カトリシズムと違って、キリスト者は叙階されることはなく皆が他の人への祭司になり得る。(ただし、カルヴァンはこれとは違ったことを説いた。)これは私にとって実にキリスト教的であるように思える考え方である。しかしプロテスタンティズムにおいても、現実の教会では、組織化はどうしても避けられないものであろう。いくら可視的教会と不可視的教会が不可分と言っても、信者は皆祭司たり得ると言っても、私の個人的な経験から言えば、可視的教会は理念的たろうとするにしては余りに現世的に過ぎるし、現に教会にはヒエラルキアが存在していると感じる。

 しかし、ルター自身は非常に罪に関して強い──実存的とも言えるような感覚を抱いていたようである。そして罪とは不信仰、神からの離反であり、それ以外の罪は二義的なものとなる。そして、あらゆる人は罪を持つという洞察も持っていたと思われる。ティリッヒによれば、ルターにとっての「信仰のみsola fide」とは、「信仰において受け入れられる恩寵によってのみ」(註4)ということを意味し、つまり恩寵を受容することイコール信仰にほかならない。ここに私はキルケゴールの姿を重ねて見ることができる。実際キルケゴール自身、ルターは正しかったのだという意味の言葉を述べており、自身の思想がルターに依拠していることを隠していない。
 キルケゴールにとって、罪とは「神の前で、あるいは神の観念をいだきながら、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(註5)そして、罪の反対は信仰なのである。私が想像できるルター像の一つは、ルターが実存的であったのではないかということである。ルターもまた、自己の罪人であること、絶望とでも呼ぶべき内的な苦悩を意識していたのではないかという印象を持っている。彼は例外なくわれわれは罪人であると言い、そして「悪しき欲望と罪から逃れようと願うならばキリストを信ぜよ」という神の契約と約束が聞こえてくると言う(註6)。キルケゴールの絶望──彼の言う絶望は独特のものであるが──は、「神の前で」罪となるのである。キルケゴールにとっても、罪とは神からの離反を意味する。

 冒頭に引用したキルケゴールの言葉に戻ろう。「私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー」とは彼にとって、キリストであるイエスであり、啓示から始まるキリスト教である。現代の実存主義の創始者と言われるキルケゴールもまた、内なる罪を悲痛なまでに意識し、それにもかかわらず、否、それを抑えきれないまでに強く認識、意識して信仰と救いを欲したのではなかったか。そして、有限者の中に存する無限者を実存的につかみ、そこに信仰、「私にとっての真理」を見ることに賭けたのではなかったか。バルトもまた、「われわれは罪人ならぬ人間などというものは知りえない」と書いた(註7)。そこに実存的な響きを感じることができるのではないかと私は思う。(バルトがキルケゴールの影響によって、『ローマ書講解』を書き換えたというエピソードは周知の通りである。)
 キリスト教、および西洋思想の中で、一つの流れを見ることができるとティリッヒは言う。それは有限者である人間(私)の内なる無限者(無限性)を見つめるものである。彼が挙げる神学者や哲学者は、プラトン、アウグスティヌス、ドゥンス・スコトゥス、ヤコブ・ベーメらであり、もちろん、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フォイエルバッハ等の名前も挙げられている。マルティン・ブーバーも加えてよいかもしれない。そこには、現実(いま、ここ)という状況に置かれた「私」の決断や意志を思考する哲学者の姿が示されている。
 もしある者(私かもしれないのである)が信仰を告白するというのであれば、その信仰者は哲学者以上に、これを背負う覚悟はどこかで必要であろう。私は罪をそこまで深く刻印する必要があるとは必ずしも思わないが(それは「普通の」人にとっては重すぎるものである)、忘れることもできないと私には思えるのである。

 話が戻ってしまうが、先に私は何度か、カントの主張や啓示神学について述べた際に、「聖なるものの呼び声を保証するもの」を求める問題について書いた。これは私にとって、信仰に付随してくる一般的な疑問符である。論理的には「信」の反対は「疑」かもしれず、これは矛盾なのかもしれないのだが、宗教的な次元で言えば「信仰」と「懐疑」が対立するとは私は思わない。これは別の観点から言えば、信仰への懐疑でもある。つまり、信仰者にとって信仰を疑うことを意味する。しかし寧ろ、これは信仰にとって必然的、あるいは欠くべからざることではないだろうか。というのも、ファンダメンタリズム──というのは極端かもしれないけれども、「信仰誇り」と呼ばれるような状態へ信仰者を連れていくことを避ける道だと思うからであり、そしてまた、「祈り」が実存的かつ啓示的な信仰として行われるとき、私は敬虔さや崇高さをそこに見るからである。自分を見つめれば見つめるほど罪は意識的となり、信仰への懐疑が「限界状況」のような場合に自分はどうするかを考えざるを得ないのは実存的である。このときキルケゴールが、アシジのフランシスコが、そしてイエスが祈るときの姿の印象が私には重なってくるのである。それが私の「主観的」印象や象徴であったとしても。

 最後に一言付け加えておこうと思う。冒頭に引用したキルケゴールの言葉から「神が欲したもうことを知る」という部分を除けば、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見すること」がその人間の背負うものとなり、これは宗教だけに適用される言葉ではなくなる。この言葉だけ取り出せば、それは余りにも重い表明である。私は信仰が全ての人に最初から関係しているなどとは考えてない。ただ、ほとんどの人が実存的と呼ばれるべき状況に立たされる可能性は否定できないのではないかとは思っている。このことを思うと、ともにキルケゴールの言葉が私の頭の中に浮かんでくるのである。これはまた、まだ哲学が決意や意志と関係していること、生きている人間にとって哲学的なるものが何らかの課題を持っていることの表明にも聞こえるのである。なぜなら、いかに実存主義というスタイルが廃れていっても、哲学としての実存主義は人間の在り方を一つの方向として適切に洞察していると思うからである。

[付]
 私はこの小文の中で「理性」とか「決断・決意」、「意志」等という言葉を、無批判的に使いましたが、こうした言葉・概念は、今後哲学はもっと明確にしていくべきものだと思っています。それは、言語の分析や超越論的な方法によるだけでなく、科学的な意味も含めての実証的positive な方法でもなされてしかるべきだと思います。

(註3)文献4、389ページより。
(註4)文献4、361ページより。
(註5)文献9、387ページより。
(註6)文献2、514ページより。
(註7)文献8、198ページより。

【参考文献】
(1)石田慶和、薗田坦[編]『宗教学を学ぶ人のために』(世界思想社、1989)
(2)桝田啓三郎[編]『世界の名著40 キルケゴール』(中央公論社、1966)
(3)『カント全集・第9巻 宗教論』(飯島宗享、宇都宮芳明訳、理想社、1977)
(4)ティリッヒ『キリスト教思想史1』(大木英夫、清水正訳、白水社、1997)
(5)ティリッヒ『キリスト教思想史2』(大木英夫、清水正訳、白水社、1997)
(6)『ティリッヒ著作集 第5巻 プロテスタント時代の終焉』(古屋安雄訳、白水社、1978)
(7)山田晶[編]『中公バックス 世界の名著20 トマス・アクィナス』(中央公論社、1980)
(8)『カール・バルト著作集14 ローマ書』(吉村善夫訳、新教出版社、1967)
(9)『世界の大思想3 アウグスチヌス・ルター』(村治能就[他]訳、河出書房新社、1966)

■プロフィール■
(なかじま・ようじ)1970年生まれ。男性。大学では哲学専攻(哲学科の直接の志望動機は実存主義だが、卒論テーマは科学哲学^_^)。編集者を経て現在は図書館に勤務。パートナーとともに「茶飲みジジババ」になることを目指している。




■スポーツ■


コメントで読むワールドカップ
――ヒディングは「勝て」と言った――

山口秀也



■韓日ワールドカップはほんとうは行われなかった
 今回のワールドカップを熱心には見なかった。ことさら斜に構える気もないし、チケットが手に入らなくて拗ねているのでもない(少しは、アル)。もちろんたくさんTV観戦したし、非常に興奮もしたが、期間中も終わってからもいちどもスポーツ紙、専門誌、総括号のようなムックも購入していない。ビデオもPCとTVで一回ずつ録ったが、けっきょく見ずに、サンディと加山雄三とKONISHIKIが競演していた「ミュージックフェア」やなにかを重ね録りしてしまった。

 なぜだろう? 判らないけれど、マスコミや周りの人間、日本人全員に蔓延した「感動をありがとう」式の盛り上がりが、ヘタに日本で開催されていることで加熱しすぎてキモチワルイというのはたしかにあった。テレビをどのチャンネルに合わせても、出演者が日本のユニフォームをそれらしく着こなしている中、ワイドショーのキャスターに収まっているのが奇異な感じがする前田吟が、ふつうのカッターシャツだかポロシャツだかの上からユニフォームを着ていたのを見て正常な感覚を取り戻したという妙な感覚を味わった。ワールドカップも終わってしばらくすると、テレビのワイドショーは、サッカーなどなかったかのように安室奈美恵の離婚を伝えている。街の声は「エーッ! 信じらんない。なんでェ、ふたりで協力して子育てもしてたし、尊敬してたのにぃ」だった。あれ、このトーン、ワールドカップ中の街の声といっしょ。ほんとうにワールドカップが日本で行われたのだろうか。マスコミが総力を結集し、ワールドカップを捏造したのだ。そしてワールドカップのあとはまた、「イズミモトヤ」や「タナカヤスオ」や「クボヅカヨウスケカノウキョウコ」を登場させているだけではないのか。「日本歴史的勝ち点1」「奇跡のベスト16」の新聞見出し、テレビから垂れ流される街の声、電車や店先で交わされる会話まで、2次的な情報が溢れれば溢れるほど、ワールドカップが日本で行われているという事実自体は剥ぎ取られているようだった。じっさいの試合の映像を見てもその感覚は残った。

 そんななか、専門誌もスポーツ新聞も購読しなかったが、わが家のA新聞にだけは目をとおしていた。ここでも、試合の情報や監督や選手の試合後のコメントによって、じっさいには行われなかったワールドカップが精確に再現されているような錯覚のなか、それでも毎日それらを読んですごした。

 そんな訳で、1ヶ月のあいだA紙より拾ったコメント群で、日本で行われた(という)ワールドカップを振り返ってみる。

■ことばたち(Some Words)
◎夢みたいだ、でもミラクルではない。(初戦で前回の王者フランスに勝利したセネガル、メツ監督)
◎シンジかな。(デンマークのチームメートのパスとフェイエノールトの同僚小野のパスどっちがいい? の質問に答えたデンマーク、トマソン)
 わがことのようにうれしい。条件反射のように鼻がツーンとした。

 次のふたつは、外国人独特の言い回し、いちど言ってみたいなというコメント。負けても一応かたちがつくし、あとのほうはやっぱりカッコイイ。

◎われわれは良い試合をした。しかし、デンマークは点の取り方を知っていた。(ウルグアイ、プア監督)
◎F組はどこも強い。われわれがW杯で戦い続けるには、これから2つの決勝が待っている。(イングランド、エリクソン監督)
◎なぜ笑えないんだろう。自分でも不思議だが、5,6度の決定機をゴールできないようでは。(アメリカ戦に引き分けて1勝1敗だというのに、韓国、ヒディング監督)

 この人は、今大会、何を言っても許される稀有な存在だった。ポルトガル戦のハーフタイムでは、「勝て」といったそう。

 こちらは、笑えるセリフ。

◎反省すべきことは、もっと早く日本に来ていればということだ。(カメルーン、シェーファー監督)
◎日本に行かずに後悔している。(マラドーナ)

◎W杯でブラジルと戦うことができたが、ユニフォームは交換してもらえなかった。(北京の新聞記事)
◎ブラジルに金を賭けているが、イングランドが勝つと思っている。(イングランド、マンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督)
◎僕たちは魔術でなく体を使ってプレーしている。(南アフリカ、マッカーシー)

 NHKの「これが世界のサッカーだ」で、カメルーンのコーチが、アフリカ選手権の準決勝か決勝戦の試合前に、タッチライン沿いにミカンの皮を捨てて警察に逮捕されていた場面があった。少し前どころか、いまだにアフリカにはブラックマジックで試合の結果を左右させることができると信じられているようだ。

 日本選手とトルシエのコメントは、あまりパッとしないが、ひとつふたつ。下のトルシエのコメントなんかは、イケてるような気もするが、やはりヒディングにくらべて、目標の低さを露呈してしまっているような……。

◎リーグ戦を突破したら残りはすべてボーナスだ。(チュニジア戦を前にしてのトルシエ)
◎シュート以前に、ゴール前のあの位置に入れたことがあまりなかったから、あれは決めないと。(チュニジア戦のゴールについて、中田英寿)

 中山を筆頭とする優等生的コメントとくらべ、さすがヒデしぶいという感じ。

 一次リーグの最終戦から決勝トーナメントにかけては、やはりコメントも含蓄のあるものがふえてくる。

◎木が根っこからねじれているようだった。(ポルトガル、パウロベント)

 一次リーグ、韓国との最終戦を落としたときのものだが、ポルトガル「黄金の世代」が、アメリカ、韓国という、同じヨーロッパからすれば、ここに負けたら笑われるというところに負けた、その苦悩、混乱を示しておもしろい。

◎サッカーでは毎週何かを証明しなければならない。人々は忘れるのがとても早い。われわれにはまだ証明すべきことがある。(セネガル、ディアオ)

 今大会の一番の台風の目らしく、野心に満ちたコメントである。

■プレーしながら心の中で泣いていた
 ワールドカップの期間中、A新聞で韓国の新村(シンチョン)リポートと題して、沢木耕太郎が、短い文を何回かに分けて載せていた。その中で紹介された安貞桓(アン・ジョンファン)が、イタリア戦で、開始早々のPKを外したことに触れたコメントが凄い。

◎プレーをしながら心の中でずっと泣いていました。

 沢木耕太郎は言う。韓国は、致命的な失敗をした選手が「心の中で泣きながら」プレーをする国である、と。この「国」が一体感をもつ感覚は、しかし、日本の盛り上がりとはずいぶんと趣きを異にしている。だから、この文章のはじめに触れた日本人の軽佻浮薄さとくらべてどちらが良いというのではない。違うといっているだけだ。新聞の見出しひとつとっても、「この勝利は4,700万国民の勝利だ」という文字が躍るお国柄である。

 これに似た国があるとすれば南米の国々であろうか。その中でも今回はアルゼンチンのコメントがいちばん目につく。

◎心に穴があいたような空洞感と悲しみ。こんなきもちが最近あっただろうか。(アルゼンチン解説者)
◎ゴールがどんどん小さくなる気がした。(アルゼンチン、ベロン)
◎ボールがゴールに入りたがらないんだ。(アルゼンチン、シメオネ)

 いずれも一次リーグ敗退の結果に対するコメントである。78年の政情不安を、開催国優勝によって、国民に勇気を与えたアルゼンチンが、今回のワールドカップでも、自国の代表チームの優勝というプレゼントで経済不況を乗り越えようという事情はあったにせよ、いや、だからこそ、民衆の、サッカーに、アルゼンチン代表にかける思いの強さが、コメントにどうしようもない絶望感を沁み込ませる。

 そのアルゼンチンを因縁のPKで沈めたベッカムフィーバーについて、香山リカが、「Number」の別冊で触れている。W杯は、男も女にも「我を忘れさせてくれた祭り」だったが、一歩外からそれを俯瞰する男とちがい、女のばあいは、自らがW杯がもたらす熱狂の中に巻き込まれたい、と願うのだと言う。それが、W杯の中心にいる選手の恋人になったら、と想像してみることに女は当事者感覚を発揮する。それがベッカムフィーバーであったと。

 その当事者感覚を、南米のサポーターたちは、日々の生活をとおして、みずからの応援するチームを心底から熱狂的に応援することで発露させるのではないだろうか。

■ボールは丸い
 上で引いたコメントのようなものはともかく、今回のワールドカップでは、その解説記事や専門家とよばれる人たちの書いたものがあまりおもしろく感じられなかった。そんななか6月22日付けのA紙で、細川周平のようなことばがいちばんしっくりと腹のなかに落ちる感じがした。

 よくは覚えていないが、実力ではどうしようもならない運命の力を信じることにサッカー愛は集約されるということ。そのどうしようもなさを、古くから「ボールは丸い」ということばで言いあらわしているのである。誤審もまた、このような観点から見られるべきであろう。

 そのサッカー愛について今大会でも、次のような敗者の象徴的な弁があった。

◎何でも思ったとおりにならないのがサッカーだ。(チラベルト)

■ジーコは、代表チームを「王様のレストラン」にできるのか

 あっという間に終わってしまったワールドカップ。その後のいちばんの話題は、なんといってもジーコ。この人のプロジェクトX的熱さ、経験に裏打ちされた言辞には「まかせて安心」のオーラが立ち昇っている。

 引用のコラージュに終始した小文を最後も引用で終わることにする。テレビで「王様のレストラン」の再放送をやっている。松本幸四郎演ずるベテランギャルソンが、かつて奉公した落ちぶれフランス料理店をみごと建て直す、三谷幸喜脚本のコメディである。松本幸四郎と、シェフとしての可能性がありながらそのことに自覚のないシェフの山口智子のやりとり。シェフは自信がないのだ。

 しずか(山口智子)「自分のことは自分が一番解ってる」

 仙 石(松本幸四郎)「そう、自分のことしか解っていない。そして、私は100人のシェフを識っている」

 たとえば、しずかのセリフを中村俊輔に、仙石のそれをジーコとしたうえで、シェフを「ミッドフィールダー」に置き換えてみると……。なんとなく、ジーコが言いそうなセリフ。はたして、ジーコは日本代表を「王様のレストラン」に変えることができるのか。

■プロフィール■
(やまぐち・ひでや)1963年生まれ。スロー・ラーナー代表。「カルチャー・レヴュー」 および「 La Vue」 編集委員。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。




■編集後記■
★う〜む。酷暑である。猫は犬と違って涼しい顔をして日陰で昼寝をしているのだが、黒猫房主はそんな境遇にはない。この炎天下を歩き回って頗る消耗の体なのである。毎夏この夏を超えられないと愚痴りながら、なんとか超えているので、もう暫くは大丈夫か。来年は、齢50歳の大台である。
★小原さんの入稿が今夕(08/01)到着、これで発行日を厳守できた。本紙が発行日を守れているのは、寄稿者の協力の賜です。(黒猫房主)





TOPへ / 前へ