『カルチャー・レヴュー』22号

■出  版■


DTPの周辺から

井上有紀



 私が編集の仕事を始めたのは15年ほど前のことになるが、その頃、編集者の分類の仕方のひとつとして、活版の時代を知る世代と知らない世代という分け方があった。しかし最近は、この「活版」を「電算写植」に置き換えなくてはいけないだろう。「電算写植」にとって変わろうとしているのは、もちろん「DTP」による組版。新しいものごとが一般に浸透していく時の、お決まりのコースなのだろうが、「DTP」という言葉もまた、すべての難題を一挙に解決してくれる魔法の呪文のように唱えられた最初期から始まり、嫌悪、反発という洗礼を受けながらも、便利さや経済性をキャッチフレーズに従えて、気がつくと私たちのすぐそばまで入り込んでいる。「Desktop Publishing」というこの言葉の本来の定義からすれば誤用なのだが、現在の本づくりの現場で「DTP」というと、写植を介さずパソコン上でレイアウトの作業をすることを実質的には意味している。

 さて、言うまでもないことだが、本づくりに携わる者たちには暗黙のうちに本が本として機能するための、ベーシックな了解が共有されている。本の機能とは、例えば本の厚さやページのめくりやすさといったことから始まる無数の要素が含まれるわけだが、読者に何をどう伝えるかが主眼であろう。もちろんその定義にはあらゆる逸脱の可能性が含まれており、ここには「意匠」という問題が深くかかわってくる。

 組版に関して言えば、本のページのなかに文章をどう置くかについて、活版の時代から引き継がれた土台となるべきさまざまな技や規範があり、ブックデザイナーはそれを自らの「意匠」と掛け合わせて、ページの設計をしていく。人間が読みやすい文字の大きさや行の長さというのは、一定の幅をもって了解されており、ここを起点として、ページ全体にたいする余白の取り方、書体や級数、行間の設定などの基本要素から、句読点の入れ方や和文中の欧文の処理の仕方など、場合に応じたさまざまなレベルでの設計が組み立てられていくわけである。

 しかしDTPの普及は、そのようなスタンダードな了解を無視した本、組版が生まれやすい状況を作りだした。それが「本」という顔をして書店に並べられていることに唖然とするような本に出会うこともしばしばである。かと言って私はそれを、DTPの出現によって、プロフェッショナルが不在でも本を作ることが可能になったという事実の単なる裏返しだとは思わない。ハード的な環境や組版ソフトのシステムに、その原因を見出すことももちろん可能であり、具体的に思い当たることも多々ある。しかし私にはこの事態は、私たちが「本」や「ことば」もしくは「仕事」というものをどのように扱ってきたかという事実が、DTPによってたまたま露呈したと捉えるのが正しいのではないかという気がしてならない。

 ある人たちは「DTPの文字組はきたない。だからDTPなんてダメなんだ」と訳知り顔で言う。しかしこれは、「フォーマットにテキストを流し込めば瞬時に文字が組める」というDTPにしつこくつきまとう幻想が裏切られたということであり、悪いのは裏切った方ではなく、むしろ、そんな幻想を信じた側だろう。考えてもみてほしい。情熱や緊張感や誠意や熟練といったものなしに成立する「美」などあるだろうか。その組版が美しくないのは、それがDTPだからなのではなく、その組版にとって必要なだけの愛情が注がれていない、ただそれだけの理由によるものではないか。

 もちろんこれは、組版ソフトの改良などテクノロジー的な洗練が不必要だという話ではない。活版や写植においては、ハード的な制約が結果的にある秩序という枠組みの維持に貢献しており、DTPにはそれがないから無節操さに拍車をかけているのも事実であり、また、出版流通や、編集者・組版オペレーターの育成といった、構造的な問題も根深くある。

 組版の乱れという問題に関しては、敬意を払うべき啓蒙的な活動をしているデザイナーやオペレーターも多数いる。しかし組版の問題をひたすら「美」の問題として捉えるならば、DTPの議論は、装幀や製本といったある種工芸的な領域へと発展させられねばならないだろう。  失ってならないのは、組版の問題はまず第一に「ことば」の問題であるという視線であり、そのような視線によってのみ、DTPの問題は、例えば「出版されるに値する内容を持つ本とは何なのか」という、本質的な問題にまで深めていくことが可能だろう。

 最近テレビを見ていて気づくのは、テロップに半角のカタカナが頻繁に登場することだ。ワープロによって突如登場した「半角のカタカナ」という存在は、私にはひたすら不気味なものにしか思えないが、世の中にはこれを不自然と感じない人が少なからずいるのだろう。もしかしたら半角の方が自然と感じている人もいるのかもしれない。このようにして私たちは、いとも簡単に言葉の変容に馴らされていく。今や私たちは何とも思わないが、日本語が初めて横に組まれたとき、「なんたる西洋かぶれ」と絶望的な気分になった人もきっといただろう。  文字が、言葉が、組版が、そして本が、今後どのように流れていくかは、わからない。しかし、私たちの思考が「ことば」からは決して自由になれないという現実を携えつつ、DTPの問題が「ことば」の問題であるという意識だけは持ち続けていきたいと思うのである。

■プロフィール■
(いのうえ・ゆき)東京都在住。書籍編集のほか、メールマガジン企画制作、ホームページ制作などにたずさわる。実益を兼ねた趣味としてDTP組版。 http://www.yukinoue.com/
■(編集部註)井上さんのWebにある「奥付偏愛」は、井上さんのセンスのよ さが光っていますので、お薦めです。




■定型詩■


 歌集『死 明』上梓のこと

富 哲世



 眼疾の再来による手術をこの如月21日に控え、文字に目を遣ることもままならず、原稿の行く末をSTUDIO Fitzのいのうえなおこと窓月書房の山本繁樹の両氏に半ば委ねたまま、このところ詩人藤井貞和さんが去年出した自作詩朗読CD『パンダ来るな』(実際は電子ブック付。ぼくは声だけ聴いています)に親しんでいます。それはカリスマ的でも舞台的朗読でもなく、また自作自演故の真価であるというのは、自作詩朗読につきまとう幻想にすぎないのですけれども、作品解釈の息づかいの確かさが、手に取るように伝わってきて、藤井詩の理解にとっても、また日本の現代詩の理解にとっても貴重な一枚となっていると思います。その藤井さんの現代詩の仕事のなかのひとつに、『日本の詩は何処にあるか』という作品があります。この命名の前に立つ度、ぼくはその題名の正面きった問いの立て方にいつも気後れを覚えてしまうのですが(そして藤井さんのその一連の詩を読む度に、また勇気づけられたりもするのですが)、今度の拙詩歌集とは、その問いへのぼくなりの捲土重来なのかもしれません。

 思えば昨年は、平成の西鶴を目指すという清水昶さんの句作や、出版では高橋睦郎さんの『倣古抄』(邑心文庫)、筑紫磐井さんの『定型詩学の原理』(ふらんす堂)など、定型への関心や成果も、現代詩という視座の裡でしっかりと維持されておりました。  拙詩の作業もまた、現代詩としてのアクチュアリティを失うまいとする配慮のもとでの、定型の試みです。短歌的韻律でうたってみて、より明らかになっていったことは、詩とは、うたとは、対象とその主体(うたう人、またそれを享受する人)との身近さの痛感の、絶対的な供物たらんと表出されるものだろうということです。そして「死」や、「死後」というテーマも、その思いにのり、うたわれてゆくときには、暗く重いばかりではない、たとえばそこに救いや果報は存在しなかろうと、何か明るみのようなものとして、ぼくたちのいのちの陰に寄り添い、いまひとつの光としてぼくらを明るませてもいるものであるように思われて来るのです。それは或る親しみをもって、身近にあるものの謂いです。

  今日も夕暮れ。麒麟にはきりんの理屈。
  廃屋の階段をのぼる顔輝きて

  綿含みすがしひたひの静み居れば
  二度振り返るひとのごとしも

  敷居踏んでめでたき夕となりにけり
  帰らぬ国の夜具瑞々し

*なお、藤井貞和朗読CD『パンダ来るな』の情報は、 http://www.ne.jp/asahi/suigyu/suiigyu21/ で見ることができます。 (「La Vue」9号より転載)

★歌集『死 明』(発行:窓月書房、和綴装・A5判・60頁・定価1800+税)のご注文は、YIJ00302@nifty.ne.jp までお願いします。また、ジュンク堂大阪本店・三宮店・三宮駅前店、ブックセラーアムズ三月書房にて販売しております。

■プロフィール■
(とみ・てつよ)神戸市生まれ。詩集『血の月』(1993年、蜘蛛出版)、詩集『天人五衰』(1999年、ルナ企画)、詩集『殺佛』(2000年、ルナ企画)。朗読・パフォーマンス・音楽企画など、現代詩を中心とした活動を展開中。




■教  育■


やがて? 恐ろしき
『小学校学習指導要領解説社会編』の学習(後編)

加藤正太郎



■「内容」の要約
 最初の1ページを読むのに、ずいぶん手間取ってしまったような気がするのである。そこで私は、「後」の方を先に読めば「前」も理解しやすいのではないかという考えの下に、学習方針を改め、とりあえず「第6学年」部分の「内容」及び「内容の取扱い」(「目標」にも目をつむって)、全37ページを通覧することにしたのであった。そして私は、「内容」については、歴史を扱う(1)のアとイが古代、ウとエが中世、オが近世、カ〜キが近代に相当し、いわゆる「公民」を扱う(2)のアを政治、イを憲法、及び(3)を国際社会における「我が国」、とおおよそに分類することができ、「内容の取扱い」はそれぞれの項目についての留意事項となっていることを知ったのであるが、それはともかく、ページをめくる私の目に焼き付いてしまったのは、頻出する「天皇」なる単語とそれを扱うらしき分量だったのであり(もともと同じ文章の繰り返しが多いようではあるが)、そして少なからずひっかかりを覚えずにはおれなかったのは、「深入りしないこと(取り上げないこと)」という「禁止」を命ずる表現だったのである。

 したがって私が、これら「第6学年」の内容を理解していくために、次のような段取りを踏むことにしたのも無理からぬことであったのである。つまり私は、単語「天皇」の登場回数、及びこの単語の記されているページ総数を調べ、次に「単語」頻出密度の高い部分に付箋をつけ、その上で「深入りしてはならない」事柄に気をつけつつ、全体の要点をつかもうとしたのである。  そして私は、単語「天皇」の使用されているのが合計36回(「朝廷」を含めると45回)、全37ページ中13ページ(「朝廷」を含めると16ページ)であり、またそれらは(1)のイ及び(2)のイに特に頻出しており、そして「取り上げない」とされたのは(1)のイにおける「摂関政治など、貴族を中心とした政治の特色」、「深入りしないようにする」のは、日華事変から、第二次世界大戦、日本国憲法の制定にいたる歴史的事象の「社会的背景」(「内容の取扱い」においてさらに念押しされている)、及び「国会などの仕組みや構成など、政治の制度や機構」であるという調査結果を得ることができたのである。

 そして私は第6学年を指導するにあたっての「要領」を、次のように要約することができたのであった。つまり「我が国」は、『古事記』や『日本書紀』の中にある「神話・伝承を調べ」、「国の形成に関する考え方などに関心を」もって見れば【註3】【註4】、ずっと「天皇を中心」とする国であったことが理解できるし(「貴族中心」は「取り上げない」のだし、また「朝廷から征夷大将軍に任じられた源頼朝」が幕府を開いたり、「武士による政治が安定」したりしたが、「戦いをせずに江戸城の明け渡しが行われ」て、「明治天皇を中心とした新政府ができた」のである)、また「現在の『天皇の地位』の指導に当たっては」、「内容の(1)の歴史学習との関連に配慮し」(「との関連に配慮」が何を意味するのか不明ではあったが、「歴史学習を通して(深入りせずに)」というぐらいの意味であるだろう)、「天皇が国民に敬愛されてきたことを理解できるようにすることも大切」で、さらには「敬愛の念を深めるようにする必要がある」ということなのである(そして第6学年の、つまり小学校最後の「目標と内容」は、「入学式や卒業式における国旗や国歌の指導」で締めくくられているのである)。

 思わず私は、こうした要約は少々乱暴にすぎるのではないかと、自らをふり返ってもみたのではあった。けれども私は、この小冊子のもつ「文学的」とも言えるその雰囲気に照らし合わせてみても、それほど大きな誤読をしているようには思えなかったのである。というのも、その「第6学年」は、「広い視野」「具体的」「分かるようにする」「児童の発達段階」といった一見平板な言葉を並べつつ、「取り上げる/深入りしない」という基準を示す意気込みを読者に感じ取らせているし、そして何よりも、計36回を数える一つの単語をくり返しながら、一度も明言されることのないある一つの言葉を、常に指し示しているように感じられたからなのである。

【註3】「内容」(1)のアの全文は、「農耕の始まり、古墳について調べ、大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際、神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと。」であり、この文言に「解説」が加えられている。また「内容の取扱い」(1)のエには、「古事記、日本書紀、風土記などの中から適切なものを取り上げること」とあり、これらの物語には「国の形成に関する考え方をくみとることのできる神話・伝承として、高天原神話、天孫降臨、出雲国譲り、神武天皇の東征の物語、九州の豪族や関東などを平定した日本武尊の物語などが記述されている」と「解説」されている。
【註4】「国の形成に関心をもつ」のではなく、「国の形成に関する「考え方」に関心をもつ」と書かれていることに、私は関心をもった。この慎重な言葉遣いは、書き手の中にある「神話はあくまで事実ではない」という意識の現れではないか、と最初私は思ったが、「内容」を解説していきながら、いつのまにか「考え方などに関心をもつようにする学習」が「遺跡や遺物などを観察する学習」や「古墳について調べる学習」と併置され、「これらの学習を通して大和朝廷における国土の統一の様子が分かるようにする」と書かれているのを見て、この「様子」というのは「事実」でなくてもいいのだろうか(「その際、関心をもつ」のと「関心をもつ学習から様子が分かる」のは同じこととは思えないし)、順序が逆じゃないのかなあ(神話の方が後からできたのだから)、それとも何らかの意図が隠されているのだろうか、とあやしんだ。そして「内容の取扱い」の解説を読み返し、「国の形成に関する考え方をくみとること」とあるのに気づき、そうか、「考え方」を「くみとらなければならないのか」と思った。そして神話を読んで「考え方」を知らなければ、教え方が難しいだろうな、とも考えさせられた。それにしても「九州の豪族や関東などを平定した日本武尊の物語」というのは、誤解しやすい表現ではないだろうか、少なくとも「平定したとされる」と書くべきじゃないだろうか、と思った。それと「内容」(1)のイの「解説」は、たった2ページ弱、1400字ぐらいの中に、「天皇を中心」が6回、「天皇中心」が1回、「天皇の力」が1回も出てくる解説ぶりで、著者はいったいどうしてしまったんだろう、と心配になった。

■学習の内容
 しかし私は、少々深読みや先走りにすぎたようである。この小冊子を読むもともとの目的、つまり「自ら学ぶ」ことにいま一度立ち返らねばならないと考えた私は(基本的な知識の欠如を痛感させられたという意味で、私はほんとうに「学習指導」されたのである)、何か適当な参考書はないかと考え、いま話題の『新しい歴史教科書』(扶桑社)や『検定不合格日本史』(家永三郎著。1957年検定不合格)などを手に取ったのであった。  そして私は以下のようなことを学習したのである。つまり、「内容」(1)のアで扱う大和朝廷は、紀元後4世紀ごろに成立したと考えられており、「(大和や河内の)豪族たちが連合して統一権力を立ち上げたと考えられる」のであるが、「大和朝廷がいつ、どこで始まったかを記す同時代の記録は、日本にも中国にもない。しかし『古事記』や『日本書紀』には、次のような伝承が残っている」のであり(以上引用は『新しい歴史教科書』)、ついでに成立後の「歴史的事象を精選」して羅列しておけば、「大化改新」645年、「壬申の乱」672年、「大宝律令」701年、『古事記』(元明天皇の「勅」により712年成立)、『日本書紀』(天武天皇の皇子らが720年に編纂)と大まかな流れをつかむことができ(大化元年、天武元年、大宝元年、和銅5年、養老4年と表記すべきかもしれないのであるが)、そして「取り上げる」べき「天孫降臨」とは、天照大神の孫であるニニギノミコト(さらにその孫の子、つまり曾孫が神武天皇とされる)が天から降りてきたという「伝承」であり(なおその際に、玉、鏡、剣の三種の神器を持ってきた)、また「神武天皇の東征の物語」とは、日向を出発っした神武天皇が瀬戸内海を東に進んで大和を平定し、橿原で初代天皇になったとされる「伝承」であるということ(なお神武天皇は『古事記』によれば137歳、『日本書紀』によれば127歳まで生きたとされているし、他にも100歳以上が続出している)、などである。

 そしてさらにまた私は、「それぞれの祝日に関心をもち、その祝日が設けられている意義について考えることができるよう配慮する必要がある」(「内容の取扱い」(2)のア)ので、もう少し学習を続けたのであるが、神武天皇即位日を「紀元前660年2月11日」に定め(神話を解釈し)、「紀元節」(祝日)としたのが明治政府であること(1874年)、またそれが現在の「建国記念の日」(1966年成立)の「由来」であること、そして大日本帝国憲法の発布が1889年2月11日であり、日露戦争の宣戦布告も1904年2月10日に行われ、翌日に新聞報道されたこと、また1940年には「紀元二千六百年祭」が大々的に行われ、『古事記』『日本書紀』の研究者、津田左右吉の著作は発禁処分、起訴され後に有罪判決を受けたこと、そして文部省が現行の「学習指導要領」を「公表」したのが(「天皇についての理解と敬愛」を復活)、大日本帝国憲法発布からちょうど100年後の1989年2月11日の前日だったこと(翌日に新聞報道されるように?)などを知ったのである。

 そして次に私は、「自ら学ぶ」だけではなく「自ら考え」なければならないと考え、「聖武天皇の「発案」のもとに」造られた東大寺の大仏(747年〜749年)を例に「取り上げる」ことで、「大仏の大きさから天皇の力を考えたり」、「造営を「命じた」詔から聖武天皇の願いを考えたりする学習」が考えられるので(「内容」(1)のイ)、『古事記』や『日本書紀』をつくらせる「天皇の力」や「願い」(意図)を考える学習も考えられるなあ、とちょっとだけ考え、そしてふと、愛することを教えるなんてことができるのだろうか、と自信を失いかけたのであるが、「敬愛しろ」というのは無理でも、「みんな敬愛してきたんだよ(君は知らなかったかもしれないけれど)」【註5】という教授方法は、生徒に「自ら考えさせる」ことができるので、効果があるかもしれないなあ、と思い直したのである。そしてそれにしてもなるほど文部省は、「我が国の歴史や伝統を大切に」(第6学年の「目標」)することを身を以て示しているのだなあと感心したので【註6】、私もそれに見習うつもりで、『古事記』や『日本書紀』【註7】はもちろんのこと、先の戦争まで使われてきた歴史教科書【註8】や儀式【註9】の「意義」へと関心を広げていく必要を痛感したのであった。

【註5】明治政府は維新後に「御諭書」や「人民告諭」というものを出し、「この日本というお国は、天照皇大神宮さまからお継ぎ遊ばれたところの天子様と云がござって、これが昔からちっとも変わったことのないこの日本という国のご主人様なのじゃ」とか「一尺の土地も一人の民もみな天子様のものにて、日本国の父母にましませば……」と書いて、一般の人々に教えている。もちろん、感性に訴える視聴覚教材も大切で、6回にわたって大々的に行われた全国への天皇「巡幸」(1872年〜1885年)は、現在も「国民体育大会」や「植樹祭」、各地への「行幸啓」を通して、教授方法に示唆を与え続けている。
【註6】「朕が思うに、我が御先祖の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみ、よく孝を尽くし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげてきた。……」(「教育勅語」の1940年文部省による訳)を読んだ私は、先に行った「第6学年」の要約に自信を持った。また、上記「御諭書」には、「ところが七八百年も昔から乱世がつづき、いろいろ世の中には北条じやの足利じやのいふ人が出てきて、終には天子様の御支配遊ばされたところをみな奪ひ取り己が物にしたけれども」とも書かれているらしい。
【註7】『日本書紀』によれば、第25代武烈天皇という人は「人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた」り、「人を樹に登らせて、弓で射落として笑った」りする暴君で、またいまここに書くのはちょっとなあと逡巡させる趣味の持ち主でもあったが、「もとより男子も女子もなく、跡嗣ぎが絶えてしまうところであった」ので、大臣たちが「御子孫を調べ」、第15代応神天皇(「皇室系図」によると武烈から五世代さかのぼることになるが、この人も110才まで生きたとされているので、うまくイメージできない)の5世の孫を「越前」まで「お迎えに行っ」て(以上引用は、講談社学術文庫から)、後継ぎ(継体天皇)にしたのだという。つまり継体は、武烈の祖父の祖父の父(この間に女帝はいないようなので)の孫の孫の子ということになるであろう。 【註8】戦前の小学四年生が歴史を勉強した『尋常小学校国史』(「昭和十三年十月廿六日文部省検定済」から引用)は、「第一天照大神」から始まり、「第二神武天皇」「第三日本武尊」と続くのであるが、「第一」に書かれている「この国は、わが子孫の王たるべき地なり。汝皇孫ゆきて治めよ。皇位の盛んなること、天地と共にきはまりなかるべし」(『日本書紀』を引用)は、大日本帝国憲法第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」を「理解」させるのに最適だし、また「第二」に書かれている「紀元節」の由来は、儀式を行う「意義」を教えるのに最適だと思い、私はやっと「国の形成に関する考え方」を「くみとる」ことができたと思った。
【註9】1890年に「教育勅語」が発布され、またそれと前後して「御真影」(天皇・皇后の写真)が「下賜」され始めたことは、(「天孫降臨」よりは)記憶に新しいが、それ以来、儀式においては「勅語」を正確に、かつ独特の抑揚をつけて「奉読」すること(読み方の指導書があった)が校長の最重要任務となった。また「御真影」と「教育勅語謄本」の「奉護」が教師たちの務めとなり、実際に災害時における「殉職者」があったり、自殺者が出たり、「奉護」に関する多くの「美談」がつくられて報道された。そして1891年には「小学校祝日大祭日儀式規定」が定められ、例えばある小学校の卒業式(1892年)は次のように行われている。「午前九時入場。御真影開扉。唱歌(君が代)。勅語奉読。唱歌(君が代)。閉扉。修業証書授与。唱歌(君が代)。卒業証書授与。賞品授与。職員演説。生徒演説(3名)。唱歌(仰げば尊し)卒業生。唱歌(蛍の光)」。

■やがて? 恐ろしき
 一区切り学習を終えた私はいま、「授業のねらい」のことなどすっかり忘れ去り、何故だか虚空を見つめているような心持ちでいるのである。うまく言い表すことはできないけれども、いまここはどこ? とよく言われるような感じに近いのかもしれないのである。思えばよくわからないことが、この間たくさんあったような気がするのである。もう十年以上前のことになるだろうか。もともと船を見分ける「標識」だった布を、「見えない」時間や「目立たない」ところに揚げるという妥協案が探られたり、校長と早起き競争をしたり(見えない時間に揚げられないか見張るため)、校舎改築現場の「安全旗」がいつの間にか「日の丸」に変えられていたり、そのうちに前日の夜から屋上にテントを張って泊まり込む校長が出てきたり、「皇太子殿下御成婚記念植樹」に反対すると、「僕は緑は大切やと思うねん」と言う校長がいたり、「憲法」9条を小さく書いたポロシャツを着ていたことを「違法」と判決する裁判所があったり、西暦記載の「年休届」を受け取らない校長と「欠勤扱いで賃金カットする」と脅迫する教育委員会があったり、抗議の演奏を「異常な伴奏」と書いた教育委員会があったり(これはもう20以上年前)、「歌えません」と抗議した小学卒業生に、「なんば言いよとか」「帰れ」「とぼくるな」とヤジを飛ばす来賓たちや、在校生が拍手で見送るその手を押さえつけて、「この子には手をたたかんでいい」と言い放ったPTA会長がいたり、『天皇陛下御平癒「祈願」』を「決議」する県議会があったり、毎朝夕に「皇居遙拝」したタクシー会社があったり、「弔旗を下ろしたければ、わしを殺せ」と叫ぶ教頭がいたり、管理職だけが起立して歌う「滑稽な」情景を一度見てみたいと言っていた人が、いまでは「証書授与」の介添えをしているらしかったり、校長の自殺を「板挟み」と報道する新聞ばかりだったり、そればかりか死の原因を「組合」や「外部団体」にすり替える国会審議があったり、「国歌を歌うときに座るような生徒は市の職員として採用しない」と創立式典の中で挨拶した市長がいたり、立たなかった生徒を「事情聴取」する学校があったり、「教師と生徒につきましては、学習指導要領により指導することとなっており、歌わない自由はないものと考えます」と言い切る教育長がいたり、起立させたり、歌わせようとしておきながら、「内心の自由は、内部にとどまる場合には、絶対的に保障されなければならないが、外部的行為としてある場合には、一定の合理的制約を受けることになる」と「踏み絵などの絵図を活用して調べる学習」(「内容」(1)のオ)をしていない文部大臣がいたりしたのである。

 そしていま一度、「小学校学習指導要領解説社会編」を手に取った私は、そこにあるひとつの「欠如」を眺めやっていたのであった。「内容の取扱い」(1)のオには、「例えば、次に掲げる人物を取り上げ、人物の働きや代表的な文化遺産を通して学習できるようにすること」とあり、卑弥呼、聖徳太子、小野妹子から野口英世(1876年生まれ)まで、計42名の人物が(おそらくは時代順に)並べられており、そしてザビエル、ペリー以外のすべての人物に「ふりがな」が打ってあるのであった(「児童にとって我が国の歴史を初めて学習すること」を配慮したのであろうか。しかしこの「解説」を読むのは教師なのである)。ただし、ただ一人の人物を除いて。そしてその人物とは、明治天皇に他ならなかったのである。(「Kid」67号より転載)

■プロフィール■
(かとう・しょうたろう)1960年頃生れ。高校教員。とある舞踊家を熱く支 持。仲間たちで編集した「教育の『靖国』……教育史の空白・教育塔」(樹花 舎)が発売中。新しい人と出会うたびにいつも勉強し直したいとは思ってい る。本誌編集委員。

■編集後記■
★DTPを「組版」の技術的な問題から救い出して出版本来の課題へと誘う視線は、「ことば」に対する井上有紀さんの真摯な態度がよく現れていて、好感を持ちました。津野海太郎は、小野二郎から編集の手ほどきを受け、小野二郎はW・モリスから組版の美しさを学んだようだが、そのモリスの美的空間を数学的に再現したのが、オープンソースのDTPソフト「TEX」であることなど連想した。
★「教育」という行為が「正しい行為」と信じられている限り、左右を問わず権力が「教育」に介入しかつ我が物にしようとするだろう。そして「国民」という内部意識を構成したのは、その「教育」と「由来」と称する「歴史」にほかならない。だが実存において記憶される<歴史>とその継承は、官許の「歴史」とは「起源」を異にする。そこで、教師は「由来」と「起源」の差異を提示し、どのように振る舞うべきだろうか。加藤正太郎さんの論考は、それを示唆している。
★政治家と野心家は同根だと信じているが、野心が強いほどそれだけ腐敗に至る悪を呼び込むリスクも高い。誰しも悪と無縁であり得るわけではないのだが、政治家になるということはその悪に対する自覚と覚悟が定かでなければならない。また悪に躓いた場合には、自らその経緯を全面公開して法的社会的に審判を受ける態度が必要条件である。これは政治倫理というよりも、政治家の品位と度量の問題でもあるように思う。(黒猫房主)





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