『カルチャー・レヴュー』20号

■書  評■


じんわりと染み上がってくる愛しさ、しんみりとした感動
『ぼくが父であるために』(松本康治著、春秋社、2001)を読んで

山口秀也



 これは、読者を最後のページまでうまく乗せて行ってくれる本だ。
 のっけからテンポよく、キレのよい文章ではじまる。子ども嫌いの著者が、しかしその妻の妊娠の事実を受け止めるためにどうしたか?  
 ところがある日、妻の妊娠が判明した。妻は「えらいことやで」と言った。
 あせった僕がその日まずしたことは、その受精卵に「まりも」という名前をつ けることだった。芽生えたばかりの生命を僕の中の逃避的邪念の誘惑から守り、現実を粛々と受け入れるためには、邪念が入りこむ前に急いでそれを人格化してしま う必要を感じたのだ。
「春風の発見」
 ここには、無定形の生活者たる著者の眼前に、突然わけの分からない未来が大きな口を開けて現れたさまと、その前でゴクリと喉を鳴らして立ち尽くし、現実を確かめるべく頬をつねる代りの、人を喰った行動がユーモラスに描かれている。
 やがて「まりも」は成長し外界へ出てきたが、男だったので「丘」(きゅう)と改名し、本書の元になった初出誌(「KID」)のタイトル「丘のさんぽ道」の「丘くん」の登場となるのだが、このエピソードは、さらに4年後に生まれる第2子が女の子だったのでめでたく「まりも」を襲名するという(まりもちゃんは、胎児のときは「まりも3(スリー)」と呼ばれていた)オチまでついている(「いもうと」)。

 著者・松本康治氏は、大阪の寝屋川市生まれ、現在30代後半の僕とほぼ同年代にあたる。医療・福祉の専門誌「いのちジャーナル」の編集長であり、その発行元「さいろ社」の代表である。
 本書は、著者と、1993年に生まれた「丘」くん(1997年には妹「まりも」ちゃんも誕生)とのふれあいを綴ったエッセイを元に編まれたものである。丘くんが1歳のころから阪神大震災までの第1章「小さな人と」、震災後から保育所終了直前までの第2章「親という人、子という人」、小学校入学準備から、著者夫婦の離婚という試練を経た丘くん7歳までの出来事を綴った第3章「子どもの試練、親の試練」の3部から成る。

 「うちの子はこんな子です」と子どものことばかり観察して書きたくないと著者は言う。こっちもそんなものは読みたくない。共働きのことや、保育所のこと、親について、ふるさとについて、人の死について、さまざまな事柄が、子どもの情景と重ねられ語られている。口はばったいいいかたをすればこうなるだろうか? 子どもの事象に対するアプローチから、常識に塗りつぶされたこの社会の、矛盾を肌で感じ取る。たとえば、著者の母親が死んだ日、冷蔵庫が壊れて、捨てようとマンションのドアの外へ出しておいたところ、外から帰ってきた丘くんが、
 大好きな冷蔵庫(アイスキャンデーやヨーグルトが入っているから)が表に出されているのを見て、ビックリして部屋へかけこみ、「なんで?」と尋ねる。「冷蔵庫、死んでしもたんよ」と言うと、丘は再び冷蔵庫の前へとって返し、手を合わせて熱心に拝んでいた。  その次の週の葬式では、参列者がまだ泣いていないうちから「もう会われへんから、泣くの?」と母親に聞いていた。丘も少しずつ「死」の意味を理解しつつあるようだ。(「葬式」
 我々大人が、葬式に出たりする場合、子どもが感じるような、「死」への不可解さや、戸惑いはないのが普通だ。そこでは、セレモニーとしての葬式があり、ルールとしてのその場での立ち居振る舞いがあるだけだ。葬儀場は悲しい振りをする大人で溢れている。

 なんということのない日常の一瞬間を、ポンと目の前に(しかも押しつけがましくなく)さし出されたような、出来事や人や自然の事物に寄り添うように綴られる文章には何度も目頭を熱くさせられた。
 ある夜、丘がスーパーの袋にみかんをせっせと入れている。一〇個ほどつめこんだと思ったら玄関へ運んでいき、靴をはこうとしている。妻が「あれ、丘ちゃん、こんな夜にどこ行くの?」と聞くと、丘は「保育所、いく」と言う。「そのみかん、どうするの?」と聞くと、「みんな、あげる」と言ったそうだ。
 彼は、親以外の人間と過ごす時間を持っている。そして彼の中で、保育所は、おいしいみかんを分けてあげたい大事なオトモダチとシェンシェーのいる場所として、しっかり根づいている。(「保育所」
これには、じん、ときた。いったん、子どもの視点から語られると、これまで「保育に欠ける児への措置」とされてきた保育所が、まるでちがったものに感じられる。ここでも、子どもというフィルターを通して見ることの新鮮さが際立っている。

 本書をしめくくる夫婦の離婚後の家族旅行のくだりが、とくにいい。著者は、離婚という事実を、現実にそのまま抛り出して、さてどう考えたものかと、思いを巡らすが、それが、いわゆる論理的な思考というよりは、身体(からだ)ごと考えるというふうである。元妻と子どもたちと「家族」旅行に行くのだが、いく先の決定から、その過ごし方、旅程が語られていく中で、息子が、台風の近づく海辺で波と戯れる情景を、子どものかよう保育所へ思いを巡らせたり、また、息子の裸で遊びまわるさまを思い出し、感慨に耽る、というふうに自然や人や想念が、行ったり来たりする。たんたんと描かれる自然の点景とその一部に成り果てている人間。湯に浸かりながら、弛緩する身体と精神が、それ自身が思考するように語り始める。
 夏の昼下がり、湯上りにうつらうつらしながら、全肯定モードの延長で、その場にいない丘のことをぼんやり思った。(「家族旅行」

 それでも、こうして海と空のもとで裸になると、子どもはいのちを蘇らせ、いきいきと跳ねる。そんな姿を見ていると、ああ、あのちっぽけな裸の小僧は僕の大事な息子なのだなあ、とそのまんまの愛しさがじんわりと染み上がってくる。(「家族旅行」
 こうして見てくると、村上龍の「最後の家族」より、この「家族旅行」を、題名を「本当の家族」とでもしてドラマにして欲しかった気がしてくる。不倫や不登校や援交と、これでもかと今っぽいキーワードを振り回す「物語」はもう沢山だ。それよりも、こんな映画を誰か撮ってくれないかなあと思う。北野武に、最近、ワンパターンに陥りつつあるヤクザものでなく、雄大な自然と無邪気な子どもが、冷えてきた夫婦の関係を修復させて、改めて家族の大切さを知る、というようなウソくさい(実際にウソだと思うが)話ではない、味わい深い家族の映画を、離婚後の家族旅行の話を元に撮らせてくれないものだろうか。

 この全編に「しんみりとした感動」が溢れている本を、なぜか、ニール・ヤングの古い曲(「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」など)を聴きながら読むと「しんみり」「ぽかぽか」具合がよけい身に滲みた。
 家族論として読んで欲しいと言おうとしてためらった。論などといういやしい肩書きは、この本には相応しくない。育児書ばかり買い求め、問題解決のマニュアルにしか興味を示せない親(べつに親である必要はない)に、自分や家族を見つめなおす、あるいははじめて考えるきっかけとして読んで欲しい。

■プロフィール■
(やまぐち・ひでや)1963年生まれ、京都市出身。2つの出版社勤務を経て、現在フリーエディター・ライター。いまは、某印刷会社の一室で、Office XPに翻弄されながら膨大な文書と格闘する日々を送っている。本書と同じ、一男一女の父。「カルチャー・レヴュー」 および「 La Vue」 編集委員。哲学的腹ぺこ塾塾生。




■エッセイ■


地雷の足とリストカットの腕

田中俊英



 僕は、青少年への援助という仕事の関係上、いわゆる「リストカット」した少女少年と時々出会うことがある。それの原因は、心理学的にはたとえば解離現象とかいろいろ説明できるのであろうが、僕にはあまり理解できないし実はそうした説明にはほとんど興味はない。
 親からはそのことについてまったく聞かされておらず、いざ自宅へ訪問して本人と会ってみると、左腕に200くらいのカッターかナイフによる傷跡をもった少年が出てきたりしたこともある。時には、リストカットの最中に直面させられ、介護したこともあった。リストカット最中に居合わせるのはまれだとして、腕を傷だらけにした少女少年と出会うことは、訪問先で会うかカウンセリング室で会うかの違いはあるにしろ、援助の仕事をしている人だったら珍しくはないだろう。
 僕はそんな彼らの腕を見ていて、「所有」という観点から、2つのことを思ったりする。
 1つは、身体をモノのように扱っている、つまり、身体をまるで大根とか鶏肉のような自分とは違う物体として彼らはみているのではないかということだ。自分が自分であるという最後の根拠であろう「身体」でさえ自分ではないという感覚を持っていて、まるで壁を殴るようなノリで、腕を切る。つまり自分が一時的に「所有」しているような感覚の腕を傷つける。
 そんな「所有」という見方とは反対に、こんな考え方もある。それは、彼らは自分の「存在」を常に否定しようとしていて、何かきっかけがあるとすぐに衝動的に自分の存在そのもの=身体を傷つけようとする、という見方だ。特に、リストカットした後その行為自体を記憶していないエピソードに接したときなど、こちらの見方を僕はとってしまう。その行為自体に及んでいるときは通常の意識がぶっ飛んでいるんだから、通常の意識がないということは「所有」感みたいなものも当然なく、その衝動本能は、もっと深いところから、つまりは「自分が自分であるという『存在』感覚」めいたものから発動されているのではないかと思うのだ。
 このようにして、かけがえのないそのときかぎりの個別的な行為を勝手に解釈することは実に勝手なことで、僕も解釈していて自分がいやになる。ただ、上の2つとも、いわゆる「他者」がないことは確かだろう。1つめの「所有」と2つめの「存在」、どちらの立場をとるにしろ、他者は介入していない。
 たとえば「所有」の場合だと、他人が代わりに「切る」こともできる。モノのような身体を、自分ではなく他者に切ってもらうような依頼。それは僕のような凡人にとってはおぞましいことだが、たとえばエロティシズムというような観点から見るとたいして目新しいことではない。そしてそれを「他者論」にまで拡大して、自己と他者の視点の変換として語ることもできるかもしれない。
   また「存在」の場合だと、他人によって根こそぎその「存在」が破壊されることがある。例としては、レイプ。これを「被害者が『所有』する身体」のみを汚されたとする見方には僕は反対だ。根こそぎその「存在」そのものが(自意識までひっくるめて)破壊されたとする説明がしっくりくる。ただ僕には、リストカットという行為が他者からの自分への存在の全否定に結びついているようには、良くも悪くも思えない。
   そう、リストカットは、「自分」という容器に閉ざされた行為のように僕には思える。「所有」にしろ「存在」にしろ、すべてを自分の中で完結させてしまう行為。それは、行為という風船の中に、膨らみきったいっぱいいっぱいの自分のみで占められた行為だ。
 このとき厳密に考えると、すでにリストカットの行為者に「他者」は侵入しているのかもしれない。たとえば「前人称的」(メルロ=ポンティ)とか「ウィ・ウィ」(デリダ)とかというように、こうした行為を相対化する意味でよく言われる他者が、「自己」の存在以前から我々にはすでにあるのではないかという見方だ。僕も、そうした根源的なレベルでは彼らの中に「他者」はいると思う。
 だから根源的レベルの他者は誰にでもいる。そのあとで、リストカット行為者は、自分でいっぱいいっぱいでありながらも具体的な○○さん(人称的)を思って彼らは腕を切っていることもあるだろう。その○○さんは彼らにとって誰なのか。この場合、○○さんという名前を持っているので、「人は自己意識や言語以前の段階から他者に囲まれている」といった前人称的レベルではない。とりあえずそこには自己意識や言語はある。つまり、まず「自分」がある。そしてそのうえでその○○さんをとらえている。その○○さんは、自己意識が確立したあとで未熟にとらえている「他者」であり、圧倒的な自己の疎外感のために「絶対的な外部」へと放り出している他者でもある。結果、言語以前の段階で我々に前人称的に侵入している他者の存在に思いが飛ばず、当事者は孤独に包まれる。我々の多くは実は、すでに他者に囲まれた存在であり、そのことを実感して安心できると彼らは「回復」へと向かうことができるのかもしれない。
 レイプと地雷の恐ろしさは、自己意識の確立以前の、「前人称的で根源的なレベルの他者」が野獣化するという点にある。言い換えると、他者が「自己」の存在以前から我々にはすでにあるという、我々が根源的に我々であるところの“安心感”が破壊させられるということだ。我々が我々であっていいという存在そのものを脅かす事態、それがレイプであり、地雷であり、爆弾だ。
 アフガニスタンへの空爆による被害として、さっそくテレビはその被害者をインタビューしていた。その人は10代の少年で、足を怪我していた。それを見て僕は、これまでメディア上で何回も見た、地雷で足を失った人々を連想した。メディアを信用できないという立場から、僕はこれ以上は語れない。ただ、突然の爆発とはいったいなんなんだろう。アフガンだろうが四国だろうがソマリアだろうが、我々は土地と太陽の間で生きている。土地と太陽の間には、生物があり、我々人類としてはそこには「他者」がいる。生まれたときから他者がそこにはおり、予告なしの破壊などそこにはない。

■プロフィール■
(たなか・としひで)1964年生まれ。大学卒業後、1992年頃より、友人と設立 した出版社(さいろ社)勤務のかたわら「相談家庭教師」という名称で不登校 の子への訪問活動を始める。96年、個人事務所「ドーナツトーク社」を設立。 訪問・相談活動の他、講座運営などを行なう。今春より、大阪大学大学院文学 研究科臨床哲学修士課程に在籍。また月刊誌『Kid―「対話する」ことで子 どもへの援助が見えてくる』、 Web版「週刊ドーナツトーク」を発行。 E-mail:zan01701@nifty.ne.jp





■天皇制■


大江町に天皇・皇后がやってきた(後編)

三宅紀子



 10月2日、朝からパトカーのサイレンの音が谷間をぬってきこえてくる。今日は、大江町に天皇がやって来る日だ。
 私は近所中のみんなが「行幸啓」の見学に出払って集落にいるのは猫と私たちだけかなあ……と思いながら畑仕事をしていた。
 山々に囲まれたこの集落にはふだんまわりの雑音が一切届かない。いつもなら竹林が風に揺れる音、棚田の溝を流れ落ちていく水の音、鳥の鳴き声、虫の羽音を遠く近くに聞きながら、うっとり考えごとをしつつ体を動かしているのだが、この日はヘリコプターが3機、爆音でかわるがわる頭上を飛び廻っていて、うっとおしい。

■町費800万円
 午前10時35分。京都と関西国際空港を結ぶ特急「はるか」が特別列車に仕立てられ、大江駅に到着。
 駅前の鬼瓦公園で町長、町会議員、在町叙勲者が並び、天皇・皇后を迎える。町内の各種団体、保育園児、小学生(!)、中学生(!)、一般町民など1200人がまわりを囲んで「日の丸」の小旗を振り、歓声を上げる。大江町行幸啓奉祝実行委員会には、部落解放同盟大江支部を含む町内の各種42団体が名を連ねる。
 天皇・皇后は専用車で大江山中腹にある鬼の交流博物館へ京都府警本部の白バイを先頭に、13台の車両と8台の白バイと共に向かう。鬼瓦公園から鬼の交流博物館までの国道、府道の沿道には10カ所以上「奉迎」場所が設置され、町の人口の7割近い3500人の町民が「日の丸」の小旗を振って立っている。天皇・皇后を乗せた専用車はそれぞれの「奉迎」場所ではスピードを落として、窓から手を振り走っていく。
 鬼の交流博物館にも保育園児、小学生、一般町民800人がいる。博物館見学後、正午すぎに天皇・皇后は次の訪問先である福知山市に車で出発。
 この間2時間弱。天皇・皇后の大江町訪問を「歓迎」するために使われた町費800万円。警察動員2000人(大江町には3つの駐在所、3人の巡査しかいない)。ヘリコプター3台。(私はこのとき集落から出なかったので実際にようすを見たわけではない。この部分は後日配布された町の公報などから抜粋してまとまめたものである。)

■二人の死者
 昼すぎ、うちの下手で数台の車の音や人の声がしていて、ああみんな帰ってきたんだ、と思っていたら、隣のおばあちゃんがやってきて、Sさん夫婦が今朝事故で亡くなったと言う。青天の霹靂。
 私はこの御夫婦にずいぶんかわいがってもらった。特に95才のおじいさんは大柄ででっぷり肥えていて、はげ上がった頭はツルツル。顔は血色が良くてツヤツヤ。100才まで生きるで、ともっぱらのうわさだったのに。いつも夫婦二人で軽自動車に乗って町の中心部に暮らす子ども夫婦の家と山奥の自宅を往復していた。それなのに、どうして!?
 おばあちゃんの話によると、昔町会議員をしていたSさんは叙勲者として天皇・皇后に間近に会えることに興奮して昨夜あまり眠れなかったらしい。朝予定よりずっと早くに正装して勲章をつけて車で家を出たらしい。通い慣れた道なのに、なぜそこで事故を起こしたのか、みなが首を傾げる地点で川につっこみ、車ごと転落し、二人共亡くなってしまった。そう言われれば朝聞こえたサイレンの音は、この事故で入ってきた救急車とパトカーだったのだ。
 翌日が通夜、翌々日が葬式となる。この大事件で話はもちきりとなり、天皇・皇后訪問の感想は集落の誰からもきくことはなかった。
 お葬式で「でも」とおばあさんの一人が言う。「考えようによっては幸せやで。天皇陛下に会えると思って気分も高まっていて、一張羅の服で着飾って、夫婦二人で一緒に逝けて……」、うんうんとまわりのおばあちゃんが頷く。 “……でも。”と私は思う。
 全部で17戸しかないのに、16戸になってしまって、いちどに二人も亡くなられてめちゃめちゃ淋しいやんか。Sさんは耳が遠いから私が視界に入って手を振るのに気がつくと、いつも笑って大きな声で「よお!おまえこ!」って肩をたたかれた。
“もう、会えない。”

■誰の指示
 このあと、他区の知り合いに出会って、天皇・皇后「行幸啓」のようすをきいた。「花は区費で用意したの?」ときくと、Aさんは「うちの区は、区長さんが個人的に頼みに廻った家で用意して、区で話し合いはしなかったよ。うちも組長なので花植えて出したよ」と言う。Bさんは「うちのところは区長さんが頼みやすい家に頼んだらしくて(みんな知らずにいたから、あとから)うちも花を出したかったと文句を言ってる人がおるよ」と言う。曲がりなりにも報告と話し合いがあった私の区とはずいぶん違うなあ。なんで各区によって説明や対応のしかたが違うんやろう。
「見に行った?」ときくとCさんは「行った! 行った! 仕事休んで行ったわ。やっぱり上品いうか、私らとは違うね。すごく偉い人とか難しいことやなくて、テレビに出てるスターに会いに行く気持ち。めっちゃ興奮したわ」と言う。「でも、中学生がキャー! 美智子さん、こっち向いて〜! とか叫んでたけど、無視してたなあ」「うんうん、保育園児に話しかけてたけど、園児の一人が(白い帽子を見て)“何でおさらをかぶってるの?”と尋ねたら、やっぱり無視してたね」とDさんが言う。けっこうみな至近距離で見ていたようだ。
 ところで国道沿いに住むBさんが言うには「うちのおじいさん、体の具合が悪いから家におったんやけど、車が通過するのを二階の窓から見たらあかん、みんなカーテン閉めとけ、ということで家の前にも警官が立っているし、見れんかったらしい」。私が驚いて「誰がそんなこと決めて言うてくるんですか?
 区長会ですか、警察ですか?」と尋ねると「いや、誰かはわからんけど、そ ういうことらしい、という話やで」という答が返ってきた。

■小・中学生「動員」の中身
 共産党の町会議員とも話す。「小中学生はなぜ参加することになったんですか?」「いや、教職員組合は子どもを参加させることに反対で交渉したんやけど、町教委も強硬で、府教委の命令や、いうて押し切ったらしい」ときいて驚く。「府教委の命令!? そんなん、絶対!出るわけないわ」ときくと「町づくりの実績が評価されて今回の訪問を招いたんやから、“行幸啓”を見学することには教育的意味があるということらしいわ」という答え。
「!!!」
 結局、小学校では鬼の交流博物館まで遠足という形で途中少しだけ歓迎に参加することにしたところや、駅前の鬼瓦公園での歓迎に全員参加したところもあったようだ。中学校では、「行幸啓」歓迎については子どもの自由意志で参加をさせ、学校に残る生徒は尊重するということになったらしい。「日の丸」の小旗もはじめから配ってもたせるのでなく、現地にまとめて置いておいて、ほしい者だけ取っていく、というようになったという。
「親で子どもを参加させたくない、という反対の声はなかったんですか?」に始まり、「町教委に電話したらしいけど、名まえをきかれて、しかもまともに対応されず、がっくりしてる人はいるんよ」「そういう時は、うちにも声かけてもらわんと!」「うん、話題になってたけど、子ども二人とも中学校卒業してはるということで、連絡しなかったん」「う〜。それでもできることがあったかもしれないから、これからは思い出したら、一応声をかけて下さいね」というやり取りをしながら、ふ〜とため息がでる。
 組合が反対しているから、小中学生を「奉迎」に「動員」できないという話はうわさでしかなかった。一応、反対のポーズを取りつつ、「府教委の命令」を確認しない組合の姿に、強制でないのに強制のように振る舞い、「奉迎」を支える姿を見出して悲しかった。

■記念碑建立
 たくさんの「!!!」や「???」を生んだ天皇・皇后の「行幸啓」が過ぎ、しばらくぶりに静かな町にもどった。町内のあちらこちらの店先で天皇・皇后のスナップ写真が飾られていたり、町民共通の話題としてくり返し話されていたが、それでも年の瀬が近づいて忘れ去られていくように見えた。
 ところが、今年2001年1月8日の成人式。60人(新成人の87%)が参加しての式典、植樹、茶話会は例年どおりだったが、今年は何と「行幸啓記念碑」の除幕式を鬼瓦公園で実施し、町長、議会議長のほか新成人を参加させたのだ。
 碑は白っぽい御影石(たて170・横310・高さ40)の上に黒い石(たて90・横180・高さ80)が組まれたものである。
 表には「天皇皇后両陛下行幸啓記念」とあり、裏には「行幸啓」があったことの説明書きのあと、「……21世紀の幕開けにあたり、この栄を永遠に伝えるとともに更なる町づくりの進展を願いここに記念碑を建立する  2001年辛巳 成人の日 大江町長 佐藤克己」と彫られている。しかし、この碑には天皇・皇后の名前は記されておらず、しかも西暦しか用いられていないため、後世の人々が碑を見てもどの天皇が来たかわからないという一風変わったものになっている。ただ町長の名まえだけが強調されているのだ。
 それにしてもこんなものをいつのまにつくっていたんだろう。わからないことがある時はいつも共産党の町会議員に尋ねる。彼女曰く「町費を執行するのに議会に諮らなければならない金額以下で計画・実行したらしくて、私たちも全然知らなかったんよ。どのような経緯で記念碑建立に至ったのか、3月議会の補正予算の論議のときに話が出てくるはずだから追及するわ。こんなことに町費を使うのはおかしいということはキチンと言うつもり」。
「行幸啓」の日の夜、町の各戸放送で町長があいさつした「……前代未聞、空前絶後の天皇・皇后両陛下の大江町『行幸啓』…」という言葉を思い出す。この間の町長の言動には天皇・皇后と共に自分の名前を残そうとする欲望が露骨に現れていた。

■「恩賜の煙草」
 2月中旬。集落で毎年恒例の男ばかり集まる飲み会が前年の区長さん宅で行われる。昼前から夜中まで飲み食い話し一日を過ごす。今年はしし肉、鹿肉、きじ肉が用意された鍋で酔いもまわったころ、前区長さんが披露したのは「恩賜の煙草」であった。秋の「行幸啓」で区長として「歓迎」準備に奔走したため、宮内庁から町を通してもらったらしい。そのことがうれしくてたまらなかったようだ。まわりのおじいさんたちも「おお!」と感激している。巻き紙に菊紋が印刷してあるその煙草を一本おすそわけしてもらったDさんが感無量で歌い出したのは軍歌「空の勇士」。

  空の勇士     大槻一郎 作詞  蔵野今春 作曲
  恩賜の煙草いただいて
  あすは死ぬぞと決めた夜は
  曠野の風も腥く
  ぐっと睨んだ敵空に
  星が瞬く 二つ三つ(以下省略)

 戦死した兄たちのことを話しながら、前区長さんは泣き出してしまう。
 集落内のおじいさんはほぼ全員兵隊として従軍するか、軍関係の施設で仕事に従事するかという形で、戦争を体験している。しかし、戦争体験は決して悲惨な恨むべきこととしてだけではなく、青春時代と重なり、山奥の集落の小さな人間関係や身分意識から解放され、自分を発揮できたという喜びに満ちた記憶となっている人が多いのだ。天皇への思い入れの現れるときは、戦争の記憶……過ぎ去った若い日を懐かしむところから生まれるのだと強く感じさせられた。

■続・「奉迎」のつくられ方
 今回の大江町の天皇・皇后訪問をめぐる騒動のレポートもそろそろ終わりに近づいてきた。
「奉迎」のつくられ方には2つの側面がある。
 ひとつは町長、町主導ということ。町長が音頭をとって、花いっぱい運動をすすめ、舗装工事、草刈りなど沿道を整備し、「日の丸」の小旗7000本を用意し、小・中学生を「動員」し、「奉迎」のお膳立てがすすめられた。くり返しになるが、たった2時間の天皇・皇后の滞在のために使った町費は800万円にもなる。町長が天皇を敬うかのような言葉を使い、振る舞いを見せることによって民主的な手続きを無視した町政をすすめることが可能となる。結局、天皇を利用して彼が権勢欲を満足させたとしか見えない。
 もうひとつは、つくられた「奉迎」に町民が乗っていくということ。スターに憧れる気分と、クールに批判・観察したりおもしろ半分にうわさする気分を共存させながら、「奉迎」に興奮していく。そして誰がいつどのように決めたのか知らずわからずのまま、自己規制を受け入れる。
 警察に歓迎者の名簿を提出したり、持ちものの検査をされるなど警備の対象にされ、プライバシーを侵害されても平気である。沿道の民家の町民が美化に協力するのはあたりまえと見做す。身内で自由に天皇家や皇族のうわさ話をすることと、お互いに生活の隅々まで知り相互監視することが表裏一体となっているのだ。本気で「奉祝」と思っていなくても「奉迎」を喜々として振る舞い、権力にすり寄っていくことで権利を手放したりしていることに気づかない。

■遺されたもの
 うちの前の山に月が上る。月は重なりあう山と山のあいだの小さな斜面に生きる人間のひとつひとつの物語をずーっと見てきたんだなあ、と思う。こんな静かな夜が私は好きだ。いつもなら月から届く白い光が私の砂つぶみたいな固い気持ちを溶かしてくれる。だが頭の上にあるのは空だけのはずなのに、この落ち着かなさは何だろう。
 亡くなったSさん夫妻のことを思い出しながら、「行幸啓」は集落の人たちにとって、晴れがましい祭りだったのだろうか、と考える。生産と生活と人間関係が密接につながっていたかつての山村の暮らしの名残を生きて、先の見えない不安や空虚な気持ちを誰もが少なからず抱えている。
 天皇という絶対の前にはまわりのすべてが相対化できて誰もが横ならびに見える安心感や一体感がもて、つかの間の気晴らしと興奮を味わえたのかもしれない。“…だけど。”
 ここでは死者が風景に溶け込んでいる。私はおばあちゃんが「こないだな…」と40年前!の村人のことをきのうのことのように話すのをきくのが好きだ。山をながめては植林を共にした人たちのことを、棚田の石垣を見ては石垣積みの名人だった人のことを話すのをきくのが好きだ。Sさん夫婦の気配も集落のあちらこちらに在る。“でも。”
 ほのかな関係でしかなかった人たちだったが、どうしてもその死に割り切れなさを感じてしまう。言ってもしかたがないことはわかっていても、天皇が来なければ亡くなることはなかった、と思う。そのうえ、私よりもっと彼らと愛憎を含めた深いつながりをもつ集落の人々のやりきれなさが、「良い日に亡くなった」とおとしどころを見つけてしまうことにも違和感がある。
 そこからかつての戦争で亡くなった人々を思う気持ちにも考えがすすむ。「奉迎」で「日の丸」の小旗を振った人々の多くは戦争体験者であり、遺族であるだろうから。遺された人々にとって親しい者を直接、天皇のために失った感情の行き場はどこにあったろう。整理しきれるはずのない思いをどう手なずけたろう。親しい者との関係が戦争によって断ち切られたあと、生者の中に生きる死者としての彼らとの関係を、あらたにつくり上げてしまうことは、生きて死んだその人たちを忘れてしまうことにならないだろうか。「奉迎」の日をめぐる出来事に一瞬だが天皇をめぐる日本人の感情の陰影を垣間見せられた気がする。その輪郭を表現する言葉を私はまだ持たない。今はただ突然断ち切られたものと立ち現れたものを凝視していよう。
 やって来たのは天皇と皇后だけではなかった。(了)

  ■プロフィール■
(みやけのりこ)1962年生まれ。町から山村に移り住んで12年。田畑をつくりながらアルバイト生活。天皇制、死刑制度のない日本を見てみたい、と思っている。



■編集後記■
★過日、松本康治さんから新著を頂戴した。読み始めると、文体のノリと感性の瑞々しさに惹きつけられて、一挙に読了してしまった。そしてこの爽快な読後感を書き留めて、すぐにも伝えたい気分に駆られた。それで直後に、読後感を著者にメール送信した。その本が、本誌で山口さんに書評して貰った『ぼくが父であるために』(春秋社)である。
★松本さんの資質だろうが、観念からではなく微細な体験を丁寧に掘り下げながら思想を編み上げる態度には好感をもつ。それと感心するのは、細部への目配りと記憶力のよさ。前著の『四つの死亡時刻―阪大病院「脳死」移植殺人事件の真相』(さいろ社)のドキュメントも読み応えがあったが、新著のエッセイでも再現力が如何なく発揮されていて、臨場感に溢れた構成になっている。
★松本さんと同世代で子育中の山口さんに、共感をもって読んで貰えると思って書評をお願いした。そして期待通りの、松本さんの感性に交響した原稿が入稿したという次第。(黒猫房主)




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