『カルチャー・レヴュー』14号



■ご 案 内■

合評会の案内

編集部



       ■第2回「合評会」
       ■対 象:『LaVue4号』および『カルチャー・レヴュー14号』
       ■日 時:2001年01月13日(土)の午後1時より5時まで
       ■場 所:難波市民学習センター・会議室
            〒556-0017 大阪市浪速区湊町1-4-1 OCATビル4F
            TEL:06-6643-7010
       ■会 費:500円
       ■予 約:前日まで可能ですが、お早めにお申し込みください。
       ■問合先:るな工房@黒猫房出版/Chat noir Cafe′
            仮予約は、こちらまで、YIJ00302@nifty.ne.jp
       TEL/FAX:06-6326-6426





■途上国支援■

いま、なぜそしてどんな途上国支援が必要か

岩淵 剛



1.額を取ってみると、この10年間ほど日本のODA≪政府開発援助≫は、世界一を続けてきた。
 今年2000年度で見ると、約1兆5,000億円である。赤ん坊を含めて日本人一人あたり10,000円以上の税金をそのために払っていることになる。ODAの供与国は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの発展途上国である。日本の場合アジア諸国への供与の比率が高い。しかし日本の援助のあり方は、国内外からいろいろ批判されてきた。絶対額は多いが、それでも経済力の大きさからいえばGNP比率はまだ低い、無償供与比率が低い、ひも付き援助が多い、情報が公開されないなど。日本国外務省は、それらの内外の批判を意識して、ODAのあり方を急速にいわゆるグローバルスタンダードに変えてきつつある。

2.われわれも最近、公立病院の新築移転に伴って廃棄処分になった病院用ベッドなどを、南部アフリカのジンバブエ共和国に贈った。関連医療器具を含めて大型コンテナ4、5台分であるから、かなりの量である。この輸送用にODAの一部である外務省の「草の根無償供与資金」が出ることになった。リサイクルを兼ねた援助と言うことで助成の対象になった。

3.今地球上に住む約60億の人口のうち、五分の一が絶対的貧困状況≪一日1US$以下の生活≫にあるとされる。北の先進国に対する南の発展途上国の経済的・社会的格差は、IT化を伴う世界経済のグローバライゼーションのもとで、ますます大きなものとなりつつある。しかも増大する南北格差のもとで、地球環境の危機がますます深刻になりつつある。途上国の貧しい人々は、先進国の人々の便利で豊かな「文明生活」のために、ますます貧しくなりながら底の知れない危機的な地球環境悪化につきあわされている。

4.どうしたらよいのか。文明社会に生きる文明人は、生活の「利便と豊かさ」追求を少し自己抑制しないといけない。そのため「大量生産・大量消費・浪費」の生活様式を「少量生産・節約・循環」のそれに本気で変えないといけないだろう。その節約分を、〈まじめに〉途上国の人々の貧困の緩和・解決に役立ててゆかないといけない。この〈本気とまじめさ〉が大切である。我々自身の無駄の多い生活が何を作り出しているかを、われわれは本気で考えていないのだ。まじめに節約分を途上国の貧困解決に役立てようと思ったら、やれることはいっぱいあるのにやっていないのだ。

5.アメリカもイギリスも、最近、これまでの途上国援助のあり方を見直す必要を述べた報告書を出している。日本政府もその線に沿って手直ししている。いわく、世界で最も貧しい人々が多くすむサハラ以南のアフリカ諸国に、過去10年ほどそれ以外の途上国の3倍以上の援助資金を投入してきたにもかかわらず、絶対的貧困状況は改善・解決されていない。それは何故か。それは、貧しい人々が貧しさから抜け出すことに実際に役立つ効果的な援助をしてこなかったからである 貧しい人々自身が、貧しさから抜け出そうとする努力の主役である。援助者は、専門家を含めてあくまで脇役なのであって、思い違いをしてはいけない。

6.ではどうすればよいのか。現地の貧しい人々自身がそこから抜け出そうとする努力を、地球環境問題をこれ以上悪くさせない仕方で援助すること、つまり「持続可能な人間開発・社会開発」援助である。そのためには、自分の国で公害・環境破壊を起こさないだけでなく、公害輸出、環境破壊を認めずに貧困から抜け出そうと努力する途上国の人々のことを知らなければならない。貧しさゆえに困難になかなか立ち向かえない人々を、時に励まし時に手を携えることのできる援助する側の人間がいる。途上国支援のNGOが、途上国援助の主役にならないといけない。これはコペンハーゲン社会開発サミット(1995年)以来の国際的合意である。にもかかわらずわが国のODA資金のNGOへの配分比率は驚くほど少ない≪1997年度で総ODAの0.1%≫。これを抜本的に高める必要がある。そのためにも、途上国支援のNGOをもっと増やししかも大きくする必要がある。

7.「少量生産・節約・循環」のライフスタイル採用と並んで、その節約分を途上国支援のNGOへの何らかの参加・協力に向けることを、市民のごく普通のライフスタイルにする必要がある。そんなライフスタイルを〈本気でまじめに〉生きる市民が、グローバルシティズン≪地球市民≫であろう。その点では北欧諸国の人々は、日本人よりかなり〈本気でまじめ〉である。たとえばデンマークは、国会で決議してGNPの1%をODAにまわしている(ちなみに日本は、GNPの0.28%、1997年)。私の本音を言えば、北欧諸国の援助水準でもまだまだ足りないのである。それだけ、英・独・仏をはじめとした、ヨーロッパ列強による植民地支配時代以降の南北格差の蓄積が大きい。西欧文明世界の豊かさや繁栄は、全地球的な広がりの中で体制化している南北格差の結果に他ならない。この南北格差体制がどうすれば多少とも改まってゆくのであろうか。

8.国連機関などで働く国際公務員にも各国の国家利益のために働く外務公務員にも出来ない真の意味で全人類の利益のために働くということが、関連するNGOにかかわる世界市民にはできることを、いくつかの分野でのNGOの活動が証明しつつある。「地雷禁止条約」の締結、「地球温暖化防止」に関する京都会議でのある種の合意形成は、近年での目覚しい例である。圧倒的な南北格差体制、その結果としての人類の五分の一の絶対的貧困を急速に改善・克服することは、全人類の利益になることである。国家利益の壁を越え、全人類の利益の実現を求めることが、途上国支援にかかわるNGOには可能である。私は、〈本気でまじめに〉途上国支援NGOにかかわる世界市民の活躍に、そんな夢を描いている。

9.あらゆる分野、あらゆる段階の国際開発教育、国際理解教育は、国家利益優先主義を超えて、人類共通の利益優先に変える必要がある。国益などどうでもいいとはいわない。一度知った文明生活の豊かさと利便を、先進国の人々に放棄することを求めることは難しい。無駄を省き節約した分を、絶対的貧困から立ち上がろうとする人々の経済社会開発支援に確実につなげることが、世界市民に求められる。そのためにはどうすればよいか。国連機関・政府機関を含めて、つなげる営みを他人任せしないことである。国連機関・政府機関を敵視せよと言うことではない。存立目的から生ずる存在意味の違いとその限界を良く知る必要があると言うことである。それらと協力しながらも、それらの限界を超えるところでの役割が、今日では大きい。では、国連機関・政府機関の限界を超える役割とは何か。一言で言えば、全人類的社会連帯の実現と言うことである。言い換えれば、南北共生の実現である。しかし共生とは、南北の格差体制に目を瞑って、ともに生きることをいうのではない。格差の結果貧困に苦しむ人々の悩み・苦しみ・悲しさへの人間的共感、そこから貧困の改善・克服に向かおうとする人々の努力に対する人間的連帯、それを共生と理解したい。

10.このような人間的共感・人間的連帯は、途上国の人々の貧困による困難を体験的に知らないことには、生じようが無い。ともかく怖がらずに現地に出かけてみて欲しい。人々の暮らしに直接・関節に触れてみて欲しい。何が足りなくて困っているのかを、体ごと感じて欲しい。年間1,500万人とも2,000万人とも言われる海外旅行に出かける人々がいる。海外旅行に出かける人々には、旅行先に途上国を選び、その中に貧しさに苦しむ人々との交流のスケジュールを加えて欲しい。そのような場は、われわれ先進国人が教育される場でもある。全地球的に見るなら、われわれ先進国人がいかに人間的共感にも人間的連帯にも欠けた事をやっているかが、〈本気でまじめに〉分かることを余儀なくされる。何もやらないことが〈本気でまじめに〉恥ずかしくなることが大事である。そしてその原点を大事にしながら、人頼みにしないで、自分で節約した金と時間と労力を用いて、地球的広がりでの人間的共感・連帯の営みに参加することである。この参加は、国内では最近とみに得にくくなっている人間的共感・連帯の心を実感できる貴重な機会でもある。

■プロフィール■
(いわぶち・つよし)1942年宮城県生まれ。名古屋大学大学院文学研究科博士課程終了。専門は哲学・倫理学、科学史。現在岡崎女子短期大学教授。デンマーク研究会代表。アフリカ支援NGOエコークラブ顧問・常任委員。ジンバブエに病院用ベッドを贈る会代表。日本科学史学会東海支部代表。




■ジェンダー■

オ ネ エ な 生 活

大北全俊



 「オネエって何?」。そう疑問に思う人もいると思います。とりあえずは、「男」の人なのに、「女っぽい」話し方、仕草をする人ということにしておきましょう。

 先日、宝塚で「メンズ・センター・ジャパン」という大阪のメンズリブ団体が主催する「男のフェスティバル」という催しがありました。「メンズ・リブとは?」という疑問もあるかと思いますが、これも「男の人」が「男らしさ」から降りるために自分を見つめ直す運動、ということにしておきたいと思います。もう一言いえば、「男」であるがゆえに「男らしくする」ことで自分も、人(とりわけ女の人)も、苦しめてしまっているのではないか、という反省から「男らしさから距離をとって楽になろうよ」と呼びかける運動とも言っておきましょう。わたしは、メンズ・リブに関わっているわけではないのですが、何かのつながりで、その催しで一つの分科会(要するにお話をする場)を主催することになりました。正確には、この分科会をきっかけに知り合った二人のナイスな「オネエ」と組んで「オネエ」3人組で主催しました。そこで、メンズ・リブの運動に関係するのかどうかあまり考えることなく、「オネエ」について話をしてみたいと思って、『オネエな生活』と名付けて、参加者の人に自分が「オネエ」なら自分の生活を、「オネエ」でないなら、自分の生活で出会った「オネエ」の人のことについて話をしてもらいました。そこで、自ら「プロのオネエ」と自負する参加者が、こう言いました。「オネエっていうのはパロディよ」。

 解説しましょう。さっき、「オネエとは」ということでとりあえず「男の人なのに女っぽい話し方仕草をする人」と言いましたね。この「男の人なのに」の「なのに」が重要なのです。これはメンズ・リブの「男であるがゆえに」と通じるかもしれません。「男の人」なのだから「男らしい」のが当たり前でしょう。それが、「あたしね」と話し出したり、「おほほほ」と高笑いを始めたら、まずだいたいの人はギョッとするのでは?。このズレというか違和感を活かして、芸としてテレビで笑いをとることもあれば、「オカマ」と言われていじめられたりもするのですが、ともかくあまり日常的とは言えないかも。「男の人」は男らしく、「女の人」は女らしく。納まるところに納まるのが日常かもしれません。でも、「オネエの人」とりわけ「プロのオネエ」は、この「オネエ」であることが生活だし日常です。それでは、さっきのオネエ様の発言、「オネエっていうのはパロディよ」というのはどういうことか。

 まず、まあその人も「男」なわけですが、「俺ってさあ」と話し出すより「あたしってばさあ」と話し出す方が「自然」だししっくりくるし、楽なわけです。でも、そのまま外にでるとたいがいギョッとされるという周囲の何気ない反応に出くわす。さあ、ここでひるんではいけません。そこであえて「何よ。文句あるの。」と、オネエを貫くのです。まあ、「オネエ」になってしまうと、なぜそんなにギョッとするのか不思議になってくるのですが、この不思議感と「パロディ」ということが通じるのです。「男」だから「男らしい」のが自然なのに「女らしい」しゃべり方をしてもそれはそれで自然だから、「なぜそんなにギョッとする?」と不思議感が涌くのですが、でも、「男」なのに「女らしい」しゃべり方、仕草をするからそれは「パロディ」です。もう少し正確にいうと、「女らしい」しゃべり方といっても、そんなの生まれる前からインプットされているわけではないので、オネエとはいえ自分の身の回りにいる「女の人」のしゃべり方や仕草とかを「演じている」のです。「男の人」が「女らしさ」を「演じる」ということで「パロディ」なわけですが、でも、場合によっては、「男らしく」しなければまずいときもあったりします。今日は就職活動で、面接試験があるからともかくあたりさわらず「男らしく」振る舞っておくか、みたいな。その時は「男らしさ」を「演じ」ている。「男の人」なのに、「女らしい」しゃべり方、仕草がそれはそれで自然な感じがして「演じる」のですが、場合によっては「男らしさ」を「演じる」というのが「オネエ」です(男を演じるのを忘れてしまった人もいますが)。こうなってくると、ひょっとすると「男の人」が「男らしく」するのも実は「男らしさ」を「演じ」ているんじゃないかしら、という気がしてきませんか。「男の人」「女の人」なんて言い方をしましたけれど、そもそもそういう人種っているのかしら。ただ「男らしい」「女らしい」という「演じる」流儀があるだけなんじゃないかしら。「女の人」が「男の人」を思い通りにするために「女を使う」という言い方があるでしょう。あれも「女の人」があえて「女」を演じているということじゃないの?ともかく、「パロディ」を生きちゃうと、「男は男、女は女」というのがかえって不思議だわ。

 「そんなことはありえない。男は男、女は女、それが自然。」と叫んでも仕のないことで、事実「オネエ」は存在するし、「パロディ」を生きているんだから仕方がない。「何が自然か」言い争っても本当に仕方がないのでは?それとも、許せないから「オネエ」を抹殺しますか?どうぞ、お気に召すまま。殺した端から涌いてくるから。

 解説で終わってしまったわ。ただ、この文章を終わる前に、いくつか注意しておきたいなあと思うことがあります。一つは、「オネエ」と似たような存在が「女の人」の場合もあるのか。「ない」とは決して言えませんが、簡単に「男らしく振る舞う女の人」と「オネエ」の定義を逆にするのは、何だか罠のような気がするのです。とりわけ「男」が「女らしさ」を演じるときに「オネエ」という言葉があるということ、その反対がなかなか名付けにくいし、しかも知名度がないということ、これは結構深い意味があるかもしれません。「男」と「女」は言葉の上では一見対等な対をなしているように見えますが、実はそうではないのかもしれません。あくまで、「男」が「女らしさ」を「演じる」ことが際だつのなら、なぜ「男から女へ」の一方通行なのか、「オネエ」にとっても他人事ではない問いです。

 それと、もう一つ。例の分科会を『オネエな生活』と名付けたその「生活」ついてです。「オネエ」と一緒にわいわい楽しむのは結構だとしても、あくまで「オネエ」にとっては「オネエ」は生活です。「オネエ」とは、オネエのための、その人のための、自分のための「生活」であって、「芸」だけではない。だから、朝顔の観察日記のように分析の対象にするのは、ちょっと的はずれかも。むしろ、オネエはこう投げかけます。  「パロディを生きている私たちをみて、そこのあなた。あなたはどうなの。オネエになるのならないの。」

■プロフィール■
(おおきた・たけとし)現在、大阪大学大学院文学研究科臨床哲学在籍。一応、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンについての研究を「本職」としていたはずが、現在ただの「隠れ蓑」になりつつある。「現場から問いを立ち上げる」という「臨床哲学」のプロジェクトを大まじめに遂行することに。「現場」としては、セクシュアリティ・ジェンダー、動物、野宿労働者(とりわけ釜ヶ崎でのボランティア活動)など。もし関心があれば、ご連絡ください。また、同研究室の栗田隆子と『月刊Oui-da』というミニコミを発行。これも関心があればご連絡ください。E-mail:VL01404@nifty.ne.jp



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■違憲問題■

奉祝活動のご報告

最高裁判所五十周年奉祝委員会
高橋 靖




 弊会は平成九年の最高裁判所様設立五十周年の奉祝のため設立されました。  その奉祝事業といたしましてはまづ、まことに僣越ながら、最高裁判所様の五十年間のご足跡を記しました冊子「最高裁判所五十周年奉祝のしほり―国民とともに五十年―」を弊会の優秀な執筆者(スタッフ)が編集し、最高裁判所様本庁はもとより、司法研修所をはじめ、全国各地の裁判所様、また、弁護士会、そして一般国民の皆様に頒布させていただきました。

 この「奉祝のしほり」はありのままの最高裁判所様のお姿が描かれてをりますので最高裁判所様の意に沿わぬ裁判官に対するいじめ等どうしても「罪」の部分が目立ち気味なのですが、そこはそれぞれの事件ごとにきちんと「しかしながらこのたびは五十年に一度の慶事でござゐますので国民の皆様におかれましてはそのやうな雑音に耳をかさないやうお願ひゐたします」等の注釈を怠らず細心の配慮をいたしてをります。そして特に平成六年におこりました神坂直樹さん任官拒否事件に関しましては詳しく取り上げ、この事件の前向きの解決を切に望み半世紀後の百周年を迎えるおりには国民がこぞってお祝いできますやふ期待を述べ結びとしてをります。

 弊会は奉祝活動に際しましては、寺西裁判官分限処分の決定にみられますやふ「公正らしさ」といった外見に重きを置かれる最高裁判所様のことでござゐますので、服装はもちろん上下そろいの背広にネクタイ着用、名刺のご用意、そして礼儀正しい言葉使い等、くれぐれも最高裁判所様に対して粗相のなきやう細心の注意を払ってをります。おかげさまで、地方の裁判所へ「奉祝のしほり」をお持ちしましても弊会に対する信用は絶大でござゐまして(中には聞きなれない弊会の名前に怪訝さふなお顔をされる方もいらっしゃいますが)、名刺の会の名前に「最高裁判所…」とあるだけで「ご苦労様でございます」と労いのお言葉までかけていただくことさえあり、最高裁判所様のご威光、ご威徳を再認識いたしました次第でござゐます。

 弊会ではこの「奉祝のしほり」刊行以外でも奉祝活動に努めてをります。  例えば、昨年には「日独裁判官物語」といふ活動写真(*注)が制作されましたが、私どもはそこに描かれましたわが国の最高裁判所様の孤高のお姿に感銘を受け、活動写真ご出演のお祝いに、その映像電磁巻物(ビデオテープ)を特別注文の金文字入りの化粧箱に入れ、「献納 最高裁判所五十周年奉祝委員会」ののしをお付けし、献納に参りましたが、「約束がない」ということで受け取っていただけず、さらばと、大阪に帰ってから郵便でお送りいたしましたが、すぐさま「お気持ちだけ頂戴いたします」という旨の公文書を添え郵便小包で送り返してこられました。受け取っていただけなくてまことに残念でしたが気持ちだけはご理解いただけたやうでほっと安堵いたしました。このとき初めていただきました最高裁判所様の印鑑付の公文書は弊会と最高裁判所様の絆の印として大切に保管してをります。

 また、今年の七月、梅雨明けの暑中お見舞いのご挨拶に参りまし折には、遅ればせながら先の衆議院選挙での最高裁判所裁判官の国民審査での皆様の無事全員ご信任のお祝いを申し上げました。ただその中で以外にも山口長官が罷免を求める票数で全裁判官中で第二位だったことにお気を悪くされているのではと心配でしたので、「山口長官におかれましては選抜(エリート)中の選抜(エリート)であられ、今まで法服を着てをられた時間よりも司法行政といったあまりにも高度なお仕事に携われていた時間の方が長かったため、判決の書き方に疎くなられたのもやむをえないことでございます。私どもはさふいった事情もよく配慮してをりますので、山口長官におかれましてはその国民審査の結果にお気を悪くされることなく、これからもこれまでどおり『正義の殿堂』最高裁判所長官として国民の権利を守っていただくやふよろしくお伝えください」とまことに僣越ながら激励させていただきました。

 このやふな弊会の奉祝活動に対して中には「それは『奉祝』といいながら、『いやがらせ』ではないのか」などとひどいことをおっしゃる方もいらっしゃゐますが、畏れ多くも最高裁判所様に対して『いやがらせ』なぞめっそうもござゐません。私どもの眼中にはただただ『奉祝』あるのみでござゐます。皆様方におかれましても、弊会の奉祝活動にご理解賜りますやふ宜しくお願ひ申し上げます。

(*注)映画「日独裁判官物語」
日本の裁判所がドイツの裁判所に比べいかに国民に背を向けた権威主義的で行政と癒着しているかを問題にした映画。

■プロフィール■
(たかはし・やすし)神坂さんの任官拒否を考える市民の会会員。神坂直樹さんの任官拒否事件については下記のホームページを参照してください。最高裁判所五十周年奉祝委員会の活動も連載しています。 http://www.hi-net.zaq.ne.jp/ninkankyohi/nin.html


■ヒントブックスWeb情報
最新の更新情報は→http://homepage1.nifty.com/hint-yf/message.htm

■編集後記■
★たとえば就職試験において、信仰する宗教や支持政党、購読新聞や愛読書を質問されたとしたら、どんな思いを持つだろうか。これらの質問は、思想信条による差別を温存・助長するものと指摘され、さまざまな取り組みがなされてきた。採用者側が非を認めない場合には、訴訟に発展することも当然にありうるだろう。ところが「憲法の番人」たる最高裁判所では、裁判官への任官志望者に「身上調書」を提出させて「尊敬している人物」を調査し、面接時には「なぜ尊敬しているのか」と質問しているのだという。ユーモアなきブラックジョーク。そんな世界に私たちは生きているのかもしれない。(加藤)
★『オネエな生活』は、しなやかな入門編という感じだわ。もう少しモジモジとネチッコク踏み込んでほしいと思うのは、アタシだけかしら。「ん〜、だから男の子はねぇ〜駄目ね」と橋本治さんなら言うかしら? きっと言語や語法は、振る舞いや頭(思考)を支配してると思うね。じゃぁ「革命」は、言葉遣いから? 「関係の変革」ってむずかしいなぁって思うこの頃よ。(山本)





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